札幌高等裁判所 平成18年(う)351号 判決 2007年9月13日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は,検察官石井隆作成の控訴趣意書に,これに対する答弁は,弁護人(主任)山本啓二作成の答弁書に,それぞれ記載されているとおりであるから,これらを引用する。
論旨は,要するに,原判決は,平成17年11月4日付け起訴状記載の公訴事実(以下,「本件犯罪」という)について,犯罪の証明がないとして,無罪を言い渡したが,これは証拠の取捨選択及びその評価を誤ったもので,被告人は本件犯罪を行っているから,原判決には,判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある,というのである。
そこで検討するに,原審において取り調べられた関係証拠によれば,被告人が本件犯罪を行った証明がないとした原判決の判断は正当であり,当審における事実取調べの結果を併せて検討しても原判決に事実の誤認があるとは認められない。以下,所論に鑑み付言する。(なお,以下の月日は,いずれも平成17年であり,本件4か所の傷を「本件創傷」ということがある。)
1 本件犯罪,関係者等の概要について
本件犯罪は,被告人が被害者とされるAに対し,タバコの火を押しつけ腕や足の4か所に熱傷及び続発性膿痂疹という傷害を負わせた,というものであるところ,被告人を含む本件関係者,Aに存在した本件創傷が発覚した状況,その後の経緯は,原判決がその理由の第2の1で認定説示するとおりである。
2 本件創傷の原因について
9月28日,Aは,医師であるB及びCの診察を受けているところ,Bは,「本件創傷は,左前腕部,右前腕部,右下腿内側に2箇所であり,それらはほぼ円形状のかさぶた状となっており,C先生の診断でタバコによる熱傷と分かった,いずれの傷も熱傷2度の深いものである,傷の状態からは,診断時には受傷後1週間以上は経過していると思われ,1か月から2か月程度経過している可能性がある,本件創傷がいずれも形状が円形をしており,タバコ以外であれば,円筒形をした金属様のものしか考えられず,常識的に言ってそういうもので高熱を帯びたものというのは現時点では考えられず,また,Aもタバコというような言葉で説明をしていたので,過去の症例からそのように判断した,熱傷後に治療をしたような痕跡はなく,そのため,熱傷箇所の治癒が遅れたものと思われる」などと供述し,Cは,「タバコによる熱傷及び続発性膿痂疹」「患児の説明及び創部の状況から,両前腕及び右下腿内側(2か所)合計4か所の創部はタバコによる熱傷の後,続発性の膿痂疹を発症したものと考える。なお右肘,右膝の創部は転倒による外傷と思われます。」旨記載した同日付診断書を作成し,さらに,原審及び当審公判廷における各証言並びに平成18年11月30日付検察官調書において,本件創傷は,まず元々膿痂疹ができる基になった傷がそれぞれあって,それらが4つの膿痂疹になったということができる,なぜなら,膿痂疹には,いわゆるとびひする場合もあるが,そのような場合には,膿痂疹が複数の箇所に点在するのではなく,特定の場所付近に不整形の膿痂疹がいくつか集中的に生じるのが通常だが,本件創傷の膿痂疹4つについては,それぞれが別々の場所に,しかも一つ一つが円形でクリアな形のものが点在するものだったからである,4か所の膿痂疹の形が円形であったということと,4か所の傷のいくつかについては,その円の外側にドーナツ状に傷が残り,その中心部が治癒の傾向にあったことから,膿痂疹の基になった傷については,円形で皮膚に損傷を負わせるような性質のものにより負わされたといえる,虫刺されのような小さな点のような傷の膿痂疹が広がっていく場合には円形になりにくいが,基からある程度の大きさの円形の傷があって膿痂疹が広がる場合には円形をとどめた形になりやすいためである,本件4か所の膿痂疹はいずれも円形をとどめた形であると診察時に認知している,今回の傷については,傷と傷のない皮膚との境界が明確であることから,このような円形の損傷を挫創で負わせるには,円形のもので皮膚に損傷を負わせるか,円形の物体でないならそれを回すという特殊な傷の付け方をする必要がある,A本人が気付かないうちに傷ができた可能性は乏しい,本件創傷の部位は,転倒したことによるものとするには非常に不自然であり,虐待で出てくる頻度の高い部位である,単に,膿痂疹が円形だということだけでなく,その内側がどのようになっているかということも考え併せて,本件4か所の膿痂疹の基の傷が円形のものであった可能性が高いと判断した,Aの本件創傷の熱傷の程度は,多くはⅡDである,本件創傷は,真皮の深いところまで傷んでいるような深い傷であり,掻きむしって本件創傷ほど深くなる可能性はあまりない,痛くて,多分掻けないと思われる,本件創傷の状態からだけでは,傷から続発した膿痂疹としか診断できず,熱傷であると診断したのは,膿痂疹の大きさや形状,Aがタバコの火によるものと述べたことを加味したからである,Aは,右肘と右膝はこけてけがした,本件創傷に関しては「ここ,と,ここと,ここと,ここを,タバコでじゅっとされた」と指を差しながら説明した,これまで,虐待を受けた児童を診察した経験や医師としての経験からいって,タバコでじゅっとされたというAの話は本当のことだと判断した,実際にタバコを持って傷口と比べたところ,タバコの直径よりも大きいので,Aの発言と本件創傷が矛盾するかどうかを医師同士で話したが,中心部がタバコによって火傷をして,周囲に膿痂疹が広がっていって,周囲の傷は続発性膿痂疹の状態になったと考えて全く矛盾しないという判断をした,蚊にかまれた場合には,傷そのものはものすごく小さい傷になり,その後うんできたりしても,本件創傷のような大きさの丸みがあった大きさになるということは考えにくく,可能性としては非常に少ない,本件創傷は,最低でも2週間らいは経過している,Aの傷は,非常に管理がうまいことできていない,若しくはちゃんと治療されてない傷である,と述べている。
B及びC両医師は,外科ないし形成外科の臨床医として,実際に,本件創傷を診察し,Aの言動を見て,診断を下しており,その供述内容は,本件創傷を撮影した各写真と整合しており,特に,不自然な点は認められない。これらの供述等によれば,後述のAの供述を除いたとしても,本件創傷は,元々円形の傷があり,それを基に膿痂疹になったものと認められる。そして,一般的な生活場面を考えても,このような円形の傷の原因として考えられるものはタバコによる熱傷以外に想起し難いこと,複数箇所に傷があることに照らすと,本件創傷がタバコによる熱傷により生じた可能性が非常に高いということができる。
ところで,原判決は,C医師の原審証言について,C医師は形成外科の専門医であり,供述は十分信用できるところ,同人は,本件創傷の膿痂疹の状態からは,タバコの火によるものと考えて矛盾しないが,その状態のみでは火傷によるものか虫刺されによるものかの区別は付かず,その形状や大きさ等から虫刺されよりもタバコの火による確率の方が高いと述べるにとどまっている,と説示する。しかしながら,C医師は原審公判廷において,「本件創傷の状態からだけでは,傷から続発した膿痂疹としか診断できず,熱傷であると診断したのは,膿痂疹の大きさや形状,Aがタバコの火によるものと述べたことを加味してのものである。」などと証言する一方,「本件創傷の部位は,転倒したことによるものとするには非常に不自然であり,虐待で出てくる頻度の高い部位である。蚊にかまれた場合には,傷そのものはものすごく小さい傷になり,その後うんできたりしても,十何ミリという大きさの膿痂疹になることは少ないと思う。」「本件創傷のうち中心部が治癒しているのが,虫刺されの後の膿痂疹と見るのに不自然さを感じる。虫刺されの後の膿痂疹とみることは,医学的には可能性としてはゼロではないが,通常考えにくい。」「ドーナツ状になっている傷に関しては,蚊にかまれたようなものを掻きむしって,あそこまで正円状に,きれいなドーナツ状に広がるというのは,アトピーがあるかないかなどとは関係なく,病態の進み方自体が考えにくい。」などと証言しているのであって,Cの原審証言は,本件創傷(特に,ドーナツ状になっている傷)は,医学的可能性としては虫刺されの後の膿痂疹であることは否定できないものであるが,実際には不自然であり,通常は考え難い,として,実質的に,本件創傷が虫刺されの後の膿痂疹であることを否定している趣旨を述べていると評価するのが相当である。そして,C医師は,上記検察官調書及び当審証言において,原判決を読んだところ,原判決はC医師の原審証言の趣旨を誤解している,本件創傷が虫刺されの後の膿痂疹である可能性については,ほとんど考えにくいと否定したつもりであった,などとを述べて,その趣旨を明確にしている。C証言に対する原判決の評価は正当でない。
また,弁護人は,当審弁論要旨において,C医師の当審証言について,①円形の傷の大きさを重視しているが,弁護人から示された写真のとびひ(膿痂疹。以下,単に「とびひ」という)の大きさが1.5センチメートルから2センチメートル程度のものであると証言しているから,本件創傷の大きさが1センチメートルから1.5センチメートル程度のものだったというC医師の原審証言を前提にすると,本件創傷は虫刺されによってもできる大きさの円形膿痂疹となる,②とびひと本件創傷とは深さが違うと証言したが,その後,本件創傷の一つも浅いことを認めた,③本件創傷の内側の状態で,本件創傷を含むAの傷を分類しているが,その分類によっても本件創傷が火傷から生じたとする診断にはならないはずであるなどとして,C医師の証言は信用できないという。しかしながら,①の点は,C医師は,インターネットに掲載されている写真で,そこに写っているとびひの大きさを計測することのできない状態で弁護人から質問を受け,あくまでも,写真に写っている幼児・児童の腕の大きさ等から推察してとびひの大きさを述べたものであり,そもそも,その大きさの正確性には多大な疑問があるというべきである。確かに,C医師は,原審公判廷における証言で,本件創傷の大きさは1センチメートルから1.5センチメートル位であると述べているが,当審証人尋問において,本件創傷の写真を見て,本件創傷の大きさは2センチメートルから4センチメートルであると述べていることからすると,とびひの大きさは,本件創傷よりも一回り以上小さいものであるとC医師は判断していることが明らかであり,当審証人尋問前にカルテで本件創傷を確認していないことも併せ考えると,とびひの大きさが1センチメートルないし1.5センチメートルとするC証言を重要視することは妥当でない。また,②は,とびひの写真を見せられて,本件創傷との違いを述べた際に深さが違うと言ったに過ぎず,本件創傷が全て深い傷であることから本件創傷の原因等を判断したものではないから,治癒段階にある本件創傷の一つが傷の浅いものであることをもって,本件創傷の原因についての証言の信用性を損なうことはない。③については,C医師は,本件創傷の内側の状態からは,基となった傷は円形のある程度広がったものであると証言しているが,本件創傷の内側の状態から本件創傷が火傷によって生じたと認めるとは証言していないのであって,弁護人の主張は証言を曲解したものである。その他,当審弁論要旨においてるる主張する点を考慮検討しても,C証言は十分に信用できる。
3 本件創傷を被告人が負わせたかについて
(1) 被告人が本件創傷を負わせたことを示す主要な証拠は,Aの供述のみであるところ,その供述経過及び内容は,概ね,原判決が「理由」第2の3(1)(2)で説示するとおりである。すなわち,Aは,当初,傷の原因をはっきり言わなかったり,転んでできた傷であるなどと言い,9月27日にAの叔母であるDに尋ねられた際にも「転んだ」とか,「タバコが落ちてきた」と答えて,誰に傷つけられたかについては答えず,Dが「Eちゃん(被告人を意味する)にやられたのかい」と聞いたところ,「俺,Eちゃんって言った?」と答えるだけだった,9月28日に,児童相談所職員がAを保護して児童相談所へ移動する際,Aは,「タバコが落ちてきた。お母さんがした。」などと説明し,同日,病院で診察を受けた際にC医師らから尋ねられたときには,「(本件創傷4か所を差して)ここと,ここと,ここと,ここを,たばこでじゅっとされた」と説明し,「母親」にされた旨返答した,10月7日の警察官による事情聴取の際にも,どうやってけがしたのか問われて,Aは,「お母さんの手を触って。タバコを持っていたので怪我した。」「お母さんが間違ってタバコを落とした。」などと答えたが,警察官が納得せず,さらに,問い詰めたところ,「(やったのは)Eちゃん。お母さんは風呂に入っていた。お母さんに言った。お母さんに薬を付けてもらった。」などと返答し,その後は,Eちゃん,すなわち,被告人からタバコの火を押しつけられた,風呂から出た母親Fに申告し,Fから傷の手当をしてもらった,と捜査段階では一貫して供述していた,そして,平成18年5月8日に行われた原審証人尋問の際には,被告人からタバコの火を押しつけられたことは明言しながらも,Fに申告したかどうか,Fから傷の手当をしてもらったかどうか,についての答えがあやふやなものとなっている。Aの年齢やその供述内容が虐待された際の状況であることに照らすと,タバコを押しつけられた旨の供述内容は相当具体的なものと評価でき,Aが創作して虚偽を述べるような内容とも考え難いものであり,被告人からタバコの火を押しつけられたという証言は一応信用できるようにも見える。
しかしながら,Fは,Aから被害申告を受けたことはなく,火傷の治療をしたこともない,本件創傷は9月25日まで気付かなかった,とAの供述と相反する供述を捜査段階から原審証人尋問まで一貫して続けている。そして,Aは本件当時6歳で,証人尋問当時でも7歳であって,その供述の信用性については慎重に検討すべきであることに加え,当初,複数の機会にわたり,Fから本件創傷を負わされた旨を述べているところ,そのように述べた理由についてAは何ら説明していないから,Fにより本件創傷を負わされた可能性を含めて,Aの供述の信用性については一層慎重な検討をする必要がある。
(2) 本件創傷は,火傷の程度でいうとⅡDであって,真皮の深いところまで傷んでおり,A自身が痛くて掻けないほどの深さであることからすると,Aの供述のとおり,被告人から同時に4か所にタバコの火を押しつけられたとすると,Aは相当大きな痛みを感じたと認められ,しかも,その痛みが一過性のものでなくある程度継続するものであることも加味すると,このような大きな痛みを感じながら,母親であるFに何も告げないことは,被告人とFが当時交際中であることやAが我慢強い子供であること,さらには,被告人から口止めされていた可能性などを考慮しても,考え難く不自然というべきである。加えて,タバコの火を押しつけられた後には,Aが供述するとおり,痛みのためにAは泣いていたと考えられ,風呂から出たFが,そのようなAの様子を見て,あるいは,その後一緒に暮らしている中で,受傷から一,二週間以上経過した9月25日まで本件創傷に気付かないこともやはり不自然である。したがって,本件創傷が,被告人からタバコの火を押しつけられたことにより生じたものであるとすると,Aが供述するとおり,Aは,受傷直後にFに火傷の申告をし,Fは,この申告を受けてその治療を行うなど,その後の創傷の経過について関心を持ち続けていたと考えるのが自然である。しかしながら,Aを診察したB医師は,熱傷後に治療をしたような痕跡はなく,そのため,熱傷箇所の治癒が遅れたものと思われると述べ,C医師も当審公判廷において,Aの傷は,非常に管理がうまいことできていない,若しくはちゃんと治療されていない傷であると証言しているのであって,この2名の医師の供述によると,本件創傷はまともな治療をしていなかったと強く推定され,Fの供述するとおり,Fは,本件創傷の治療をしていないという可能性は小さくないと言わざるを得ない。所論は,Fの供述は信用できないと主張しながら,FがDに本件創傷を相談したことから,Fは犯人ではないといえるが,薬を塗ったことはないなどとはいえない,というが,上記のとおり,医師2名の供述によると,本件創傷の治療がなされていなかった可能性は否定できず,所論は採り得ない。
このように,本件創傷が被告人にタバコの火を押しつけられたことによって生じたものであると認定するには,その前後の状況に関するAとFの供述に氷解し難い疑問点が残るといわざるを得ない。
(3) また,本件当時,Aは,実母であるFとともに生活し,Fに面倒を見てもらっていたから,Fを一番身近で大切な人,自分を保護してくれる人と感じていたと推察されるが,そのようなAが,真実は,被告人から本件創傷を負わせられたにもかかわらず,児童相談所の職員や診察していた医師という第三者に対して,Fから負わせられたとの虚偽を述べることは,不自然である。所論は,虐待を受けた児童は人間に対する不信感を抱いていて,なかなか本当のことを言おうとしないが,Aが当初虚偽の供述をして,その後児童相談所の生活に落ち着いてから真実を一貫して話すようになったのは,この虐待を受けた児童の一般的な供述傾向と合致するから,被告人からタバコの火を押しつけられたとするAの供述は信用できる,という。なるほど,本件創傷が,転んでできたとかタバコが落ちてできたなどと述べていた点については,何らかの理由,例えば,虐待者を恐れて,あるいはある者をかばって,虐待を受けていないと虚偽を述べたものということで合理的に説明できる。しかし,虐待を受けたことを認めた上で,保護者である母親のFから虐待されたと虚偽の供述をすることは,虐待を受けた児童の心理ないし供述傾向から合理的に説明できるものではなく,やはり,不自然さは強く残るというべきである。
(4) このように,本件創傷がタバコによる熱傷により生じた可能性が非常に高いことを前提にしても,被告人が本件創傷を負わせたとするAの供述には拭い難い重大な疑問点があることからすると,被告人の供述の信用性を検討するまでもなく,被告人がAにタバコの火を押しつけたと認めるにはなお合理的な疑いが残るというべきである。(なお,原判決が説示するように,被告人の否認供述には,取り立てて不自然といえるような部分はない。所論は,被告人が9月25日にAの裸を見たにもかかわらず,本件傷害に気付かなかったというのは,極めて不自然であり,現実にはあり得ない虚偽である,というが,Aの身体には本件創傷以外にも日常的にかなりの傷あとがついていたことなどに照らして,被告人が本件創傷に気付かないことも必ずしも不自然とまではいえない。所論は採り得ない。)
その他,所論がるる主張する点を考慮検討しても,被告人がAにタバコの火を押しつけたことを認定することはできないとして,被告人を無罪とした原判決に事実の誤認はない。論旨は,理由がない。
よって,刑訴法396条により本件控訴を棄却することとし,当審における訴訟費用を被告人に負担させないことにつき181条3項本文を適用して,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 矢村宏 裁判官 市川太志 裁判官 二宮信吾)