札幌高等裁判所 平成20年(う)107号 判決 2008年7月24日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は,弁護人今瞭美作成の控訴趣意書,控訴趣意補充書に,これに対する答弁は,検察官伊藤俊行作成の答弁書に,それぞれ記載されているとおりであるから,これらを引用する。
1 弁護人の控訴趣意について
論旨は,要するに,被告人は,本件事故発生について被告人に過失はないから無罪であるのに,被告人に過失があると認めて有罪とした原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある,というのである。
そこで,原審記録を調査して検討するに,原判決が「事実認定の補足説明」1ないし4で説示するところはおおむね正当であるが,「5 被告人の過失について」における原判決の説示は是認しがたく,「罪となるべき事実」記載の被告人の過失が認定できないことに帰するから,原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるというほかなく,破棄を免れない。以下補足する。
原判決は,被告人には,A車を認めた後,国道に進出する直前で停止して再度その動静を確認するなど,国道上の車両の安全を十分に確認する義務があり,これが履行されれば本件事故は回避しえたものというべきであると説示して,被告人に過失が認められるとし,その根拠として次の諸点を挙げている。すなわち,
① 本件事故が国道上を走行していた車両と路外から国道上に横断進出しようとした車両の衝突事故であり,基本的に国道上を走行していた車両が優先する関係にあり,路外から国道上に進出する車両は,国道上を走行する車両を大きく妨げない方法で進出すべきものと考えられる
② 被告人車が全車長16.2メートルの長大車両であるため,国道の横断右折を開始した後完了するまでに相当の時間を要し,一度右折のために国道上に進出すれば,相当時間国道上を走行する車両の進路をふさぐことになるが,被告人は予めそのことによるリスクを計算できる状況にあったといえる
③ 本件当時は,国道上の交通量も閑散としており,法定の最高速度(時速60キロメートル)を相当程度超過する走行車両のあることも予見できたといえる
④ 本件事故現場付近は,釧路湿原で,街路灯の設置もなく,本件事故時は,日の出前で,周囲は暗い状況にあったのであるから,被告人車のトレーラ部には片側に5つのサイドマーカーランプ等がついていたとはいえ,国道上の車両の運転者において通常より自車のトレーラ部の発見が遅れることも予見できたものといわなければならない
⑤ Aは,法定の最高速度(時速60キロメートル)を超過する時速約80キロメートル程度の速度で走行していたことは認められるものの,それ以上に通常の予測を大きく逸脱した運転をしていたとは認められず,Aの運転が被告人の過失に影響を及ぼすことはない
しかしながら,上記②,③は首肯でき,①も一般論としては首肯できるものの,④,⑤についてはそのとおりとはいいがたい。後記のとおり,本件においては,Aの運転は落ち度の大きい運転方法であったといえ,そうした問題のある運転につき被告人に予見義務を負わせるのはいささか酷と考えられる。
そこで,Aの運転について検討するに,街路灯がなく,法定の最高速度時速60キロメートルの直線道路において,時速約80キロメートルで進行すること自体は直ちに危険性の大きい運転とまではいえない。ただし,時速約80キロメートルでの運転につき落ち度が大きくないといえるためには,制動等により安全に停止できる範囲内が十分見通せて,しかもその範囲内に障害物が何もないことが明らかに分かるなどといった条件が整っている必要がある。ところが,A車は,これに加えて前照灯をすれ違い用の状態で進行しているのであり,時速80キロメートルの停止距離が約57メートル(空走時間1秒の場合)であること,すれ違い用前照灯の照射範囲が約40メートルであることなどを考慮すると,これは進路前方に障害物が現れた場合に衝突を避けられない危険が相当に大きい運転態様であるといって差し支えない。
本件の場合,検証調書(原審職権1)によれば,Aにとっては,被告人車が右折進出を開始した地点から約360メートル手前の地点で,進路前方の真っ暗闇の中に何らかの明かりが視認可能な状況にあり(d図,写真番号11),被告人車が衝突地点に至るまでの間も同様に左方から右方へ移動する明かりが視認可能な状況にあると考えられる(c,b,a図,写真番号8,5,2)。そうすると,Aは,その明かりの正体が何であるかを確認するために,少なくとも制限速度である時速60キロメートル以下に速度を落とすか,前照灯を走行用に切り替えるか,その両方を行うかによって,進路前方の安全を確認するべきであり,これを被告人の立場からみると,Aがそうした対応を取ることを期待するなどして右折進行を開始した被告人の行動は,もはや国道上を走行する車両の通行を大きく妨げるものとはいえないことになる。そればかりか,これと同様の位置関係のもとであれば,被告人がそこまで深くは考えず,A車が接近するまでには右折を完了できるとのみ考えたとしても,こうした被告人の行為を一概に非難できないというべきである。言い換えれば,Aからみて進路前方約360メートルの地点に何らかの明かりが見えてしかるべき状況にあったにもかかわらず,それに気付かず,時速約80キロメートルのまま,かつ,すれ違い用前照灯のままで進行してくるなどという危険な運転をしてくることまでを,被告人が予測しなければならないというのは酷であって,被告人の予見義務がそこまでは要求されないというべきである。
以上によれば,被告人が,右方約360メートル以上離れた地点から近づいてくるA車に気付きながら,これと衝突することはないものと考えて,自車の右折進行を開始することが業務上過失傷害罪における過失があるとの評価を受ける行為とはいいがたく,被告人に過失があると認めて有罪とした原判決には,判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある。
論旨は理由がある。
2 破棄自判
よって,刑訴法397条1項,382条により原判決を破棄し,同法400条ただし書により当裁判所において更に判決することとする。
本件公訴事実(訂正後)は,「被告人は,平成19年1月23日午前5時ころ,業務として大型貨物自動車を運転し,北海道釧路市a線b番地先道路を同所路外の敷地から進出してc方面に向かい横断右折するに当たり,進出手前で一時停止し,自車を発進させた時点で右方道路から進行してくるA(当時76歳)運転の普通貨物自動車(軽四)を右前方約369.9メートルの地点に認めたのであるから,同車の動静を注視し,その安全を確認しながら右折横断すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,同車が接近するまでに自車は右折を完了できるものと軽信し,前記A運転車両の動静を注視せず,その安全確認不十分のまま漫然時速約5キロメートルで横断右折進行した過失により,自車右後側部を前記A運転車両右前部に衝突させ,よって,同人に加療約278日間を要する右大腿骨々幹部開放骨折等の傷害を負わせたものである」というものである。
そして,上記のとおり,本件において,被告人が右前方約360メートル地点に近づいてくるA車に気付きつつ自車の右折進行を開始するに当たり,被告人には,A車が時速約80キロメートルのまま,かつ,すれ違い用前照灯のままで進行してくることまでを予見する義務はないというべきであるから,被告人には,本件事故につき過失があるとは認められず,被告人に業務上過失傷害罪は成立しない。したがって,本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから,刑訴法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(裁判長裁判官 矢村宏 裁判官 井口実 裁判官 水野将徳)