札幌高等裁判所 平成20年(行コ)11号 判決 2009年1月30日
控訴人
国
同代表者法務大臣
森英介
処分行政庁
小樽労働基準監督署長A
訴訟代理人弁護士
吉川武
指定代理人
B他7名
被控訴人
X
訴訟代理人弁護士
竹中雅史
同
竹田美由紀
同
竹之内洋人
主文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は第1,2審とも被控訴人の負担とする。
第2事案の概要
1 本件は,喘息発作により遷延性意識障害に陥り,その後の急性呼吸不全に基づき夫が死亡したのは,夫が勤務していた会社の業務に起因すると主張する被控訴人が,その死亡の業務起因性を否定して労働者災害補償保険法に基づく給付を支給しない旨決定した労働基準監督署長の処分が違法であるとして,不支給処分の取消を求めた事案である。
原審は,被控訴人の夫の死亡には業務起因性が認められるとして,上記不支給処分をいずれも取り消したため,控訴人が,控訴の趣旨記載の裁判を求めて控訴した。
2 前提事実,争点及び原審における争点に関する当事者の主張は,次のとおり補正するほか,原判決書「事実及び理由」欄の「第2 事案の概要」の「1前提事実」及び「2 争点」並びに「第3 当事者の主張」に記載のとおりであるから,これを引用する。
(1) 原判決書2頁12行目の「1 前提事実」の次に,行を改めて,「以下の事実は当事者間に争いがないか,又は後掲証拠若しくは弁論の全趣旨により明らかに認められる。」を加える。
(2) 原判決書4頁7行目の「a病院救命救急センター」の次に,「(以下「a病院」という。)」を加える。
(3) 原判決書4頁14行目の「60ないし62」を「60の1,2,61の1,2,62の1,2」と改める。
(4) 原判決14頁5行目の「失当である。」の次に,行を改めて以下のとおり加える。
「ウ 労働者のコンプライアンス不足について
控訴人は,Cの基礎疾患に対する治療態度には,長期管理薬による予防的治療を怠ったという点で問題があり,この点から業務起因性が否定される旨主張するが,労働者の治療を受ける態度における過失を業務起因性判断に当たり考慮するのは,労災保険法の趣旨を明らかに逸脱している。また,Cは気管支喘息の治療において,受診した医師から長期治療薬服用に関する指示を受けたことはなく,Cが治療を受けたのは一般内科医のみであり,当時は,喘息について控訴人が主張するような適切な治療法は一般内科医まで十分に浸透していなかったのであるから,控訴人の主張はその点でも前提を欠く。」
3 当審における控訴人の新たな主張及び被控訴人の反論
(控訴人)
本件喘息発作当時,Cは,次のとおり,種々の喘息の増悪因子にさらされていた。
(1) Cは,本件喘息発作当時喫煙を継続しており,喫煙は増悪因子の高い順位に挙げられている。
(2) Cは,本件喘息発作当時呼吸器感染症(気道感染)に罹患していた可能性が高く,気道感染は喫煙よりもさらに高順位の増悪因子である。
(3) Cにはハウスダスト系アレルギーがあった可能性があり,アレルゲンは増悪因子の最上位に掲げられている。
これに対し,業務によるストレスや過労については,喘息の増悪因子であることを確実に根拠付ける客観的な医学的証拠はない。
以上に加えて,Cが気管支喘息につき長期管理薬治療を受けていなかったことも併せ考慮するならば,仮に業務と本件喘息発作・死亡との間に条件関係が認められるとしても,業務がその相対的有力原因となったとはいえず,相当因果関係は認められない。
(被控訴人)
被控訴人は,原審において,控訴人がアレルゲンの特定をしないことを批判し,また,気道感染の不存在を強く主張していたが,控訴人は,アレルゲンの特定を行わず,また,気道感染の存在については何らの主張・立証も行わなかった。にもかかわらず,原審で敗訴するや,控訴人は,にわかに,ハウスダスト系アレルギー,喫煙及び気道感染を本件喘息発作の増悪因子として主張し始めた。かかる控訴人の主張は,明らかな一審軽視であり,時機に後れた主張であって,採用されるべきではない。
なお,控訴人が主張する気道感染の存在,ハウスダスト系アレルギーの存在,喫煙については,一般的抽象的レベルでその存在の可能性について述べるだけで,それが本件喘息発作の誘因となったことに関する具体的な事実主張はなく,説得力がない。
第3当裁判所の判断
1 業務起因性の判断基準(争点(1))について
労災保険法が労働者の業務上の負傷,傷病等(以下「傷病等」という。)に対して補償するとした趣旨は,労働災害発生の危険性を有する業務に従事する労働者が,その業務に通常伴う危険の発現により傷病等を負った場合に,これによって労働者が受けた損害を填補するとともに,労働者又はその遺族等の生活を保障しようとするものである。したがって,保険給付の要件として,使用者の過失は要しないとしても,業務と傷病等との間に合理的関連性があるだけでは足りず,当該業務と傷病等との間に当該業務に通常伴う危険性が発現したという相当因果関係が認められることが必要である(最高裁判所昭和51年11月12日第2小法廷判決・裁判集民事119号189頁参照)。
これを基礎疾患を有する労働者についてみると,社会通念上,当該業務が当該労働者に過重な負荷を課するものであり,これが当該基礎疾患をその自然な経過を超えて増悪させたと認められる場合には,当該業務に内在し,又は随伴する危険が現実化したものとして,業務と傷病等との間に相当因果関係を肯定することができ,業務起因性を認めることができると解すべきである(最高裁判所平成12年7月17日第1小法廷判決・平成7年(行ツ)第156号,同平成18年3月3日第2小法廷判決・平成14年(行ヒ)第96号各参照)。なお,この場合に業務による負荷が過重なものであるか否かは,当該労働者と同程度の年齢,経験等を有する健康な状態にある者のほか,基礎疾患を有するものの,日常業務を支障なく遂行できる労働者にとって過重な労務であるか否かという観点から判断すべきである。
2 Cの本件喘息発作,障害及び死亡の業務起因性(争点(2))につき当裁判所が認定した事実
当裁判所が認定した事実は,次のとおり補正するほか,原判決書「事実及び理由」欄の「第5 争点(2)に対する判断」の「1」(原判決書25頁16行目から37頁12行目まで)に記載のとおりであるから,これを引用する。
(1) 原判決書26頁4行目の「乙B1,」の次に「3頁,」を加える。
(2) 原判決書26頁19行目の「対処する」の次に「(乙B1,96頁)」を加える。
(3) 原判決書27頁6行目の「喘息死の関係には」の次に「重い人の方が軽い人よりも一般的には死亡しやすいという意味で」を加える。
(4) 原判決書27頁23行目の「乙B1,」の次に「31頁,」を加える。
(5) 原判決書28頁7行目から18行目までを次のとおり改める。
「(イ) 喘息予防・管理ガイドライン2006(乙B13)の記載
a 本ガイドラインは,これまで厚生労働省の研究班のガイドライン作成委員会により作成されていたガイドラインを基礎として,社団法人日本アレルギー学会で常設委員会として発足したアレルギー疾患ガイドライン委員会の喘息ガイドライン専門部会が作成したものであり,7名の専門部会委員のほか52名の専門医から成る作成委員らが,約1年間に12回の専門部会を経て完成に至ったものであり,(ア)のガイドライン(以下「ガイドライン2003」といい,本ガイドラインを「ガイドライン2006」という。)を全員で見直し,再構成,新規原稿による差し替えや新項目の追加などこれまでの改訂を超える形で作成され,現時点でのわが国における喘息治療の一規範を示すものと位置づけられる(「序」部分)。
b ガイドライン2006においては,ガイドライン2003に記載のある増悪因子を基本的には踏襲しながら,新たな増悪因子として,喫煙が加えられている(35頁)。また,「激しい感情表現とストレス」は,両ガイドラインにおいて増悪因子とされているが,ガイドライン2006においては,「激しい感情表現」と「ストレス」とは別の増悪因子として明示され,「また,ストレスも(激しい感情表現とは別に)喘息の増悪因子として重要であることが知られている。ストレスが喘息の有病率を増加させる要因になっていることが報告されている。その機序には,炎症性サイトカインの産生修飾が関与している可能性が示唆されている。」との記載がある(35ないし36頁)。なお,ガイドライン2003にも既に,「心理的ストレスの持続による生体の防御機能の低下は運動による喘息発作を一層増悪させ,逆に心理的に安定した状態の持続による生体の防御機能の回復は運動による喘息発作を起こし難くし」と,ストレスが生体の防御機能を低下させて喘息を増悪させる機序に関する記載がある(乙B1,32頁)。また,過労については,ガイドライン2003では,「その他の喘息増悪因子」の一つして,「過労による喘息症状の悪化を示唆する報告がある。」と記載されるにとどまっていたが(乙B1,32頁),ガイドライン2006では,「p)過労」として,独立の増悪因子として取り上げられ,「心理的因子の検討で,疲労感,多忙感が喘息症状悪化と関連しうるとの報告がある。」(36頁)と記載されている。
c ガイドライン2006では,ストレスと喘息に関する疫学研究について,これを肯定的に評価する外国における最近の複数の調査結果が紹介され,「ストレスが喘息の病態に関与していることが疫学研究からも明らかになってきている。」とされ,生活上のライフイベントの変化や仕事の負担を含む日常生活のストレスが疾患の発症や再燃に先行してみられるとされている(177頁)。ガイドライン2006には,このような喘息における心理的因子の重要性を踏まえて,心身医学的治療の重要性が指摘され,その前提として患者の心理的社会的背景の情報を把握できる背景因子調査表が開発された旨の記載があり,同調査票には,「喘息が発症する前(直前から1年前までの間)に過労状態,職場や家庭でストレスや悩みごと,生活する上での経済的あるいは精神的に困難なことがありましたか。」,「今から振り返ってみて,ストレスや過労が多くなると喘息の状態が悪化し,それらが減り精神的あるいは身体的に楽になると喘息も改善する傾向にありましたか。」といった質問項目が設けられている(178,179頁)。
d 成人喘息死について,ガイドライン2006においては,ガイドライン2003同様,死亡に至る発作の誘因としては気道感染が最も多く,次いで過労,ストレスでこれらが三大誘因である旨の記載がある(184頁)。また,死亡前1年間の喘息の重症度に関しては,重症が最も多く39.2パーセントであるが,中等症が33.0パーセント,軽症が7.4パーセントである。軽症では喘息死することは重症例に比べ稀であるが,軽症であっても最初の重症発作で死亡することもあることを医師,患者,家族とも認識し,喘息死の理解を深めるべきであるとの記載がある。なお,死亡と関連する患者側の事項として,喘息に対する認識不足,不定期受診,医師の指示を守らないなどの指摘もなされている(181,185頁)。
(6) 原判決書30頁1行目の「70」を「70の1,2」と改める。
(7) 原判決書33頁17行目の「同月」を「同年6月」と改める。
(8) 原判決書34頁19行目の「教習者」を「教習車」と改める。
(9) 原判決書35頁3行目の「37頁,」の次に「38頁,」を加える。
(10) 原判決書36頁24行目の「2頁,」の次に「4頁」を加える。
(11) 原判決書37頁7行目の「甲9の1,3頁」及び「乙A30」を削除する。
3 業務起因性(争点(2))の判断
(1) 前記認定したところによれば,Cは,遅くとも平成10年7月21日にb夜間救急センターで診療を受けた時点では気管支喘息を発症しており,これが本件喘息発作に至るまで完治することなく基礎疾患として継続していたと認められる。Cは昭和62年7月1日から本件喘息発作に至るまで本件会社に継続勤務していたが,Cが平成13年6月27日に指定前教習に従事するようになるまでの本件会社における業務には過重性は認められないから,基礎疾患たる気管支喘息の発生については業務起因性は認められず,この点について当事者間に争いはない。
前記認定したところによれば,Cは,平成13年10月19日に気管支喘息の重積発作によりいったん心肺停止状態となり,遷延性意識障害の状態のまま平成14年9月17日に急性呼吸不全により死亡したことが認められる。そこで,平成13年6月27日以降にCが本件会社において従事した業務がCに過重な負荷を課すものであったか否か,そして,過重なものであったとして,その過重業務によりCの基礎疾患たる気管支喘息がその自然な経過を超えて増悪したか否かについて,以下検討する。
(2) ストレス及び過労と喘息症状の増悪・喘息死との関係
前記認定した事実に照らせば,ストレス及び過労が,喘息症状ないし発作に対する増悪因子となること,さらには,喘息死の誘因となることは,それがいかにして喘息症状を増悪させ,又は死に至るまでにその症状を悪化させるかについての厳密な機序やその客観的・定量的な相関関係が医学的に明らかになっているとまではいえないものの,臨床的には裏付けられた見解であって,医学上も十分に合理的な関連性が肯定されていると評価することができる。
控訴人は,過労やストレスが喘息の増悪因子となることや,これらが喘息死に至る重積発作の誘因として上位に序列されることについては,客観的な医学的証拠は存在しない旨主張し,これを裏付ける複数の医師の意見書(乙B10,12,19)を証拠として提出する。しかし,これらの意見は,いずれも,ストレスや過労が喘息の重積発作の誘因となり得ることは認めた上で,その因果関係が科学的に十分に証明されていないというに過ぎず,逆にこれらが喘息の増悪因子や重積発作の誘因となることを否定する科学的根拠を提示しているわけではない。乙B第10号証及び同第12号証の作成者であるD医師自身,過労やストレスが喘息症状を増悪させる要因となることは肯定した上で,長期管理薬による予防的治療がきちんとなされていれば喘息死は防ぐことができることから,過労やストレスを喘息死の原因とすることに抵抗を感じる旨述べており(<人証省略>),その意見の主眼は,むしろ,治療により喘息死防止が可能であるのだから,かかる治療もしないで医学的根拠が必ずしも明確でない過労やストレスに喘息死の原因を求めるのは相当でないというところにあると解される。過労及びストレスを気道感染とともに喘息死の三大誘因とした前記ガイドライン2003及びガイドライン2006の記載について,D医師及び乙B第19号証の作成者であるE医師(以下「E医師」という。)は,患者等へのアンケート調査による回答を集計したに過ぎないから,科学的根拠に欠ける旨述べている(<証拠省略>)。しかし,訴訟上の因果関係については,一点の疑義も許されない自然科学的証明が要求されるわけではなく,ストレスや過労が喘息の増悪・喘息死をもたらす機序が医学的に証明されていなくても,その関係が経験則に照らして高度の蓋然性をもって是認される限り,因果関係を肯定し得る。そして,上記ガイドラインの記載は,患者等へのアンケート調査の結果を単に紹介したに過ぎないものではなく,多くの専門医が協同作成した喘息に関する指導的な文献の中で,臨床上の知見に基づき過労やストレスが喘息死の誘因とされている。また,前記認定のとおり,上記ガイドラインには,外国におけるストレスと喘息症状の関係を裏付ける複数の疫学的調査結果も紹介されており,過労やストレスが生体の防御機能を低下させて喘息症状を増悪させるとの発生機序に関する見解も記載されている。以上によれば,過労やストレスと喘息症状の増悪や喘息死との間には因果関係を肯定することができるというべきであり,そもそもこれを否定する控訴人の主張は採用できない。しかしながら,他方,過労やストレスが喘息死の原因となる機序については,気道感染の場合ほど明確でないことも事実であるから,たとえ過重な業務上負荷の存在が認められたとしても,気道炎症その他業務以外の確たる増悪要因があった場合には,相当因果関係は否定されるというべきである。
ところで,前記認定したところによれば,喘息死に至る前の気管支喘息の重症度については,軽症であっても最初の重症発作で喘息死に至ることがないわけではないが,それは稀であるというべきであるから,その重症度と喘息死との間には一定の相関関係があることは否定できない。
以上によれば,Cの基礎的疾患である気管支喘息をその自然的経過を超えて増悪させるに足るストレスや過労を伴う過重な業務の存在が立証されるならば,Cの気管支喘息がその自然的経過によりわずかな誘因でも重積発作をもたらすほど重症化していたこと又は他に確たる増悪要因があったことについての格段の反証がないかぎり,Cの死亡は,当該業務に内在し,又は随伴する危険が現実化したものとして,業務との間に相当因果関係を肯定することができると解すべきである。
(3) 指定前教習の業務過重性
ア 本件喘息発作発症前6か月間の始業時刻及び終業時刻は,C作成の教習(業務)日報(<証拠省略>)及び小樽労働基準監督署担当官作成の労働時間集計表(<証拠省略>)によれば,原判決書添付別紙1「再審査請求認定に係る労働時間算出表」記載の「始業」及び「終業」欄記載のとおりであると認められる。これによると,Cの同期間における業務上の拘束時間は,同表記載の「拘束時間」と,昼食時間1時間を除く実働時間は同表記載の「実働時間」と,これからCの所定労働時間を控除した時間外労働時間は同表記載の「時間外労働時間」となる。ただし,Cは,平成13年8月8日は午前9時50分で退社しており,昼食休憩時間を控除するのは相当でないから1時間を加算するのが相当である。また,前記認定のとおり,指定前教習開始後,午後1時50分又は午後2時50分で退社した場合には昼食休憩がなかったことを考慮して,平成13年8月21日,31日,同年9月1,6,13,18ないし22,26,27及び29日について各1時間加算するのが相当である。さらに,Cは,平成13年10月15日から同月18日までの間,札幌市中央区所在の会場で行われた第二種応急救護処置指導員講習受講のために通っているが,その間の時間外労働時間の算定に当たっては,講習開始時刻前及び講習終了時刻後の本件会社と札幌の会場との間の移動に要する時間を加算して計算するのが相当である。オタモイ所在の本件会社と札幌市中央区所在の上記会場との間の車での移動に約70分を要することは,当裁判所に顕著であるから,上記4日間の時間外労働時間は各日2時間20分(140分)加算するのが相当である。
以上によれば,本件喘息発作発症前6か月間の時間外労働時間は次のとおりとなる。
平成13年4月23日~5月22日 22時間
5月23日~6月21日 45時間50分
6月22日~7月21日 49時間20分
7月22日~8月20日 67時間
8月21日~9月19日 72時間
9月20日~10月19日 92時間20分
イ 控訴人は,指定前教習の際に教習と教習の間に生じる手待時間については,昼食休憩時間同様,Cの業務の過重性を検討する上で時間外労働時間に含めるのは相当でない旨主張し,手待時間を除くと,Cの本件喘息発作発症前3か月間の月間時間外労働時間は,原判決書添付別紙5「労働時間集計表」記載のとおり,最大でも25時間50分に過ぎない旨主張する。
確かに,原判決書添付別紙4「指定前教習状況表」によれば,午前中の教習と午後の教習との間に四,五時間程度の空き時間が生じている日が多く,この手待時間の存在が,指定前教習における時間外労働時間の増大をもたらしていることは明らかである。そして,控訴人は,この手待時間は前もって確定しており,その過ごし方について指導員に対して一切指示することなく,指導員は自宅に帰ることも含めて自由に過ごすことができたのだから,労働時間に含めるのは相当でない旨主張する。
前記認定したところによれば,本件会社が上記手待時間の過ごし方について,帰宅を含めて指導員の自由に委ねていたことは認められる。しかしながら,試験場コース及び総合コースがある手稲山口と小樽市所在のCの自宅との往復には相当の時間を要することから,手待時間の間に自宅に戻ることは現実的ではなかったし,手稲山口には指導員らが落ち着いて休憩できる設備もなく,Cを含む指導員らが眠るとすると,結局教習車両運転席後部の仮眠用ベッドで眠るしかない状態であった。指導員の中には,手待時間に寝ていることが多い者もいたが,Cはスポーツ新聞を読むなどして時間をつぶしていることが多く,同僚からも余り眠っているところは目撃されていなかった(<証拠省略>)。
以上によれば,上記手待時間については,本来の業務に従事する必要がないという点で,本来の業務に継続的に従事していた場合と全く同等に評価することはできない。しかし,すべて休憩時間としてこれを労働時間と評価しないのが不当であることは明らかである。すなわち,原判決書添付別紙1「再審査請求認定に係る労働時間算出表」によれば,指定前教習で手稲山口に出張し,始業から終業までの拘束時間が15時間を超える勤務に従事したのが,発症4か月前からの1か月間(平成13年6月22日から7月21日まで)に3回,3か月前からの1か月間(7月22日から8月20日まで)に5回,2か月前からの1か月間(8月21日から9月19日まで)に6回,1か月前からの1か月間に10回(9月20日から10月19日まで。発症日を含む)と漸増してきており,これらはすべて始業時刻が午前4時40分,終業時刻が午後8時か9時ころであり,帰宅後の食事や入浴時間を考えると,睡眠時間はせいぜい四時間程度に過ぎなかった(被控訴人本人)。長時間の拘束時間と一定の手待時間が必然的に伴う長距離トラックの運転手などとは異なり,Cは,指定前教習に従事するまでは,自宅近くのオタモイ所在の本件会社で,学校コースでの教習を中心とする午前9時30分から始まる通常の日勤勤務に就いており,かかるCに対し,いきなり手待時間に自宅での睡眠不足を解消するために慣れない仮眠をとることを求めるのは酷である。結局,手待時間を含むとはいえ早朝から夜遅くまでの上記長時間の拘束時間は,特に発症2か月前ころからは,Cに,休日によっても解消されない慢性的な睡眠不足を生じさせていたと考えるのが相当であり,これによって,気管支喘息の基礎疾患を有しながらそれまで日常業務をこなしてきたCの身体は,その基礎的疾患をその自然的経過を超えて増悪させるに足る過重な負荷を受けたと評価するのが相当である。
前記認定したところによれば,Cは,平成13年7月中旬ころからは同僚に対し,同年8月のお盆過ぎころには被控訴人に対し,それぞれ疲労感を訴えている。そして,同年9月ころには,被控訴人に対し,自らの過労死の可能性にも言い及ぶとともに,休日でもそれまでと異なり子供の相手もせずに遅くまで寝ていることが多くなっている。さらに,同年10月になってからは,食事もせずに寝てしまうことが多くなり,同月13日には喘鳴を同僚に覚知されている。このCの体調の悪化は,上述した長時間の拘束時間の漸増と軌を一にしており,このことによっても,指定前教習がCの気管支喘息を増悪させるに足る過重な負荷であったことが裏付けられるというべきである。
ウ なお,被控訴人は,指定前教習が本件会社にとって命運を決する重要な業務であり,Cは継続的に過度の精神的緊張を強いられた旨主張する。
Cが,指定前教習において重要な立場にあったことは前記認定のとおりであり,C自身6か月以内の10人連続合格という目標に強いプレッシャーを感じていた事実も認められる(被控訴人本人)。
しかしながら,本件会社の幹部も,指定前教習を始めた平成13年6月から6か月後の同年12月までの最短期間に,是が非でも上記目標を達成しなければならないとまでは考えていなかった旨述べており(<証拠省略>),Cら指導員が幹部からその旨指示を受けたことを認めるに足る証拠もない。そして,実際に本件会社が上記目標を達成したのは平成14年9月であった(<証拠省略>)。
以上によれば,指定前教習の業務内容自体が,客観的に見て指導員に過度の負荷を与えるまでの業務と認めることはできず,上記被控訴人の主張は採用できない。
エ また,被控訴人は,平成13年10月15日から本件喘息発作発症の前日である同月18日まで4日間にわたって行われた第二種応急救護処置指導員講習の受講が,それ自体において,又は指定前教習における目標達成の妨げとなるという意味において,Cのストレスを増大させるものであった旨主張する。
Cが,被控訴人や同僚に対して上記講習に関する負担感を吐露したり,Cの同僚の一人が結構きつい講習であったと述べたことは,前記認定のとおりである。
しかしながら,そのカリキュラム(<証拠省略>)を見ると,初日から3日までは午前9時から午後4時40分まで,最終日は午後1時30分過ぎまでの時間割で講習会は行われ,初日及び2日目は医師等の講義が行われただけであり,3日目及び最終日に日赤指導員の指導のもと実技講習が行われただけである。そして,実技の内容が特に受講者に強い身体的・精神的負荷を与える内容のものであったことを認めるに足る証拠もない。
以上によれば,上記講習の内容自体,客観的に見てその参加者に過度の負荷を与える業務とは認められず,上記被控訴人の主張にも理由がない。
(4) Cの気管支喘息の病状(重症度)について
ア Cは遅くとも平成10年7月21日以降,本件喘息発作時まで,基礎疾患たる気管支喘息に罹患していたことが認められるところ,その診療経過は前記認定のとおりである。
喘息発作に対しては,発作の重症度に応じて,原判決書添付別紙7「喘息症状(急性増悪)の管理(治療)」(<証拠省略>)記載のとおり治療することで対処することとされているので,Cの各喘息発作の強度は,各診療時にいかなる治療が施されたかにより一応推認することができる。これによれば,本件喘息発作が意識障害を伴う重篤症状であったことは明らかであるが,それ以前の各発作の程度は,平成10年7月21日の発作が中等度,同月26日の発作が軽度,同年10月18日の発作が中等度,同年11月16日の発作が高度ないし中等度,平成11年8月21日の発作が中等度ないし軽度,平成12年7月3日の発作が中等度ないし軽度,同年10月15日の発作が高度ないし中等度,平成13年9月16日の発作が中等度と評価できる。
そして,喘息症状の重症度は,発作の強度や症状の頻度等に基づき判断されるところ,その判断基準として一般的に用いられている原判決書添付別紙3「発作強度と重症度分類」表5(<証拠省略>)の基準に基づき判断すると,平成13年9月16日の発作時よりも前のCの症状の重症度は,各発作について大部分が1度の治療で帰宅しており,その各発作の間には概ね相当期間の間隔があり,その頻度も年に数回程度であったことからして,同表記載のステップ1「軽症間欠型」と評価するのが相当である(<人証省略>)。
イ 控訴人は,Cが本件喘息発作の約1年前である平成12年10月15日には高度ないし中等度の喘息発作を発症し,ステロイド薬の点滴治療を受けていることから,少なくともそれ以降のCの喘息は,同表記載のステップ3の中等症持続型以上であった旨主張し,これに沿うCの症状がけっして軽症ではなく長期管理が必要な状態にあったと解されるとする複数の医師の意見書も提出している(乙B10,12,19,20)。
しかしながら,Cが受診をしなかった未治療の喘息発作をたびたび起こしていたことを認めるに足る証拠はない。前記認定のとおり,平成12年10月15日にCが受診したI診療所の医師が,受診の2か月後の同年12月15日に「中断フォロー」の電話をかけているが,その電話の趣旨は必ずしも明らかではなく,電話に出たCの父親が「今のところ大丈夫」と答えた後は,診療録上何らかの働きかけがなされた形跡は認められないことからしても(<証拠省略>),この電話をもって担当医師がCの症状が長期管理を要するほどに重篤なものであると考えていたとまでは認められない。Cの妻である被控訴人も,Cは喉が痛いと言って通院したことはあったが,日常的にゼイゼイしたり咳き込むことはなかった旨供述している(被控訴人本人)。そして,乙B第10号証及び同第12号証の作成者であるD医師自身,原審において,平成13年9月16日以降は中等症持続型だが,それよりも前の時点では症状の頻度から見て中等症持続型であるとまでは断定できないと証言している(<人証省略>)。
以上によれば,平成13年9月16日の発作以前の段階において,Cの基礎疾患である気管支喘息の症状は,なお軽症の段階にとどまっていたというべきであり,自然的経過によりわずかな誘因でも重積発作をもたらすほど重症化していたとは認められない。
ウ これに対して,平成13年9月16日にCが発作を起こしてc内科医院を受診した後は,①その発作が中等度であったこと,②その後継続診療は行われていないが,当日の診療医は救急担当医であったこと,③結果的にその約1か月後に重積発作である本件喘息発作を起こしていること,④Cの同僚が,同年10月13日には,Cの喘鳴を聴いており,同月19日の本件喘息発作発症日の日中には,その喘鳴がさらにひどくなりCが肩で息をしているのを目撃していること,⑤F医師も,同年9月16日の診療以降のCの症状は,その程度を中等度以上と評価するか否かはともかく,不良・不安定な状態が続き,適切な治療管理は必要な状態ではなかったかと考えていること(<人証省略>),⑥D医師も,原審において,同日以降のCの症状については中等度以上と評価できると断定していること(<人証省略>)から総合的に判断して,Cの症状は,長期管理が必要な前記ステップ3の中等症持続型に該当すると評価すべきである。
エ ただし,平成13年9月16日の発作後も,本件喘息発作発症の日まで,Cは従前どおり指定前教習に従事しており,前記認定のとおり,その後1か月間でCが従事する業務がさらに過重となっていることからすれば,上記時点では,Cの症状は,未だ自然的経過によりわずかな誘因でも重積発作をもたらすほどに重症化していたとは認められず,その後の過重労働が加わったことにより,その症状は自然的経過を超えて増悪し本件喘息発作が発症したと考えるのが相当である。
(5) その他の要因について
ア 控訴人は,原審において,本件喘息発作を引き起こした原因は,アレルゲン又は気象変化であった可能性が高い旨主張し,当審に至ってから,増悪因子として喫煙及び気道感染(呼吸器感染)を新たに主張するとともに,原審で主張したアレルゲンについてはハウスダスト系のアレルギーがあったとその主張を補充している。
イ 被控訴人は,当審になってからの控訴人の上記新たな主張は,時機に後れたものであって許されない旨主張するが(民事訴訟法157条),控訴人は,原審においてそもそもCの業務が過重な負荷であったとは認められない旨主張しており,上記業務の過重性が肯定されたことを前提とする他の原因の主張が不十分なものとなったとしても,やむを得ない面が認められる。そして,原判決が,業務の過重性を認め,かつ,その過重な業務とCの死亡との相当因果関係を認めたため,控訴人が,業務以外の他原因の存在につき改めて検討した上新主張に及んだことにも,やむを得ない面が認められる。以上によれば,控訴人が当審に至ってから前記新主張を行ったことに故意又は重過失は認められ,時機に後れた攻撃防御方法として却下するのは相当でない。
ウ 前記認定のとおり,ガイドライン2003によれば,アレルゲン,気道感染及び気象変化は喘息症状の増悪に関わる危険因子とされており,また,気道感染は,ストレス,過労とともに死亡に至る喘息発作の三大誘因とされている。また,ガイドライン2006(<証拠省略>)においても,アレルゲン,気道感染及び気象が引き続き喘息増悪因子とされるとともに,喫煙も,肺機能の低下を進行させることにより喘息を重症化させる増悪因子となるとして,新たに独立の増悪因子とされ,死亡に至る発作の誘因としては,気道感染が最も多く,次いで,過労,ストレスでこれらが三大誘因であるとの見解が維持されている。以上によれば,控訴人が主張するアレルゲン,気道感染,気象及び喫煙が,一般的可能性として喘息の増悪要因となり得ること,Cが本件喘息発作前に気道感染に罹患していたとすれば,それが喘息死につながる重篤な本件喘息発作を引き起こした可能性が高いことは認めることができる。
エ しかし,上記増悪因子の存在により,前記過重業務の業務起因性を否定するには,それらの因子の存在が確たるものとして認定されなければならないところ,まず,喫煙については,Cには喫煙の習慣があり喫煙歴は15年にも及ぶこと,吸う本数は1日1箱程度であったことは認められる(<証拠省略>,被控訴人本人)が,その喫煙の頻度が最近増加したことを認めるに足る証拠はなく,かえって平成13年10月に入ってからは,家でほとんど吸わなくなったと被控訴人は供述している。以上によれば,指定前教習開始以前からのCの喫煙が,その一般的危険性を超えて,この時期にCに致死的な本件喘息発作を発症させたことが具体的に立証されているとはいえない。E医師は,本事例において喫煙が発作出現に影響を与えたことは十分考えられるが,その寄与度は明確には決定できないと述べ(<証拠省略>),乙B第20号証の作成者であるG医師(以下「G医師」という。)も,普段の喫煙では喘息症状が誘発されたりすることはなかったと推測するが,他の原因で喘息発作が起こった場合には,喫煙によりその発作が増悪することがあると述べるにとどまる(<証拠省略>)。以上によれば,Cの喫煙により,本件喘息発作の業務起因性を否定するのは相当でないというべきである。
オ 前記認定したところによれば,喘息発作が季節の変わり目の秋や春に多いこと,気温の急激な変化は喘息増悪因子として重要であることが認められる。前記認定のCの診療経過によれば,喘息発作は,本件喘息発作を含めて夏から秋にかけての7月から11月に起こっており,季節的要因が発作に何らかの影響を与えたであろうことは完全には否定できないが,本件喘息発作の業務起因性を否定するまでの確たる増悪因子ということはできない。なお,当時急激な気温の変化があったことを認めるに足る証拠もない。
カ アレルゲンについては,ガイドライン2003及び同2006によれば,アレルゲン感作が成立していれば,それへの曝露によって喘息発作が誘発され得るとされている(<証拠省略>)。しかしながら,そもそも,Cが特定の物質に対してアレルギーを有していたとする証拠はない。かえって,Cは,I病院で受診した際の問診票に,薬物アレルギーや他のアレルギーはない旨記載している(<証拠省略>)。なお,E医師は,Cに何らかの原因でアレルゲンが存在した可能性は否定できないとしながら,アレルギーがあったことについての検査結果は見当たらず,確定的なことはいえないというにとどまっている(<証拠省略>)。控訴人は,約70パーセントの喘息患者にハウスダストの主成分であるチリダニに対するアレルギーが見られること,Cが医療機関を受診したのは夜間,休日,休日明けがほとんであることから,Cにはハウスダスト系アレルギーがあった可能性があったといえる旨主張するが,控訴人自身,Cのアレルギー反応についての医学的所見は確認できない旨自認しており(控訴理由書27頁),控訴人の上記主張は,確たる根拠に基づかない憶測の域を出ないものというほかない。
キ 気道感染について
(ア) 本件喘息発作後のCの病状について,前記前提事実に加え,後掲証拠によれば,以下の事実が認められる。
a Cは,平成13年10月19日午後9時ころに帰宅したころから呼吸困難を訴え,同日午後11時過ぎには,被控訴人に対して,息が苦しいので救急車を呼ぶことを依頼するまでに呼吸困難は悪化し,救急車が到着する前に心肺停止状態となった(前提事実,<証拠省略>,被控訴人本人)。
b 救急隊員は,同日午後11時21分にCを救急車に乗せてその自宅を出発し,同日午後11時31分にB循環器病院に到着した(前提事実,<証拠省略>)。
c B循環器病院では,気管支喘息,重積発作の診断のもと,気管挿管や喘息治療に用いる薬剤投与等の応急措置が行われ,心拍及び自発呼吸再開が確認されたが意識は戻らなかったため,救急車でa病院に搬送された。なお,a病院到着直後の平成13年10月19日午後11時50分,Cの血液が採取されたが,同血液中の白血球数は39,200/mm3であり,基準値である4,000~8,000/mm3を大きく上回っていた(<証拠省略>)。
d a病院にCが搬入されたのは,平成13年10月20日午前1時30分であった。同病院では,気管支喘息重積発作,蘇生後脳症,痙攣発作,肺炎の診断のもと,入院治療が行われたが,意識障害が回復せず今後長期治療を要すると考えられたため,同月30日にd脳神経外科病院に転院となった(前提事実,<証拠省略>)。
e a病院では,平成13年10月20日午前1時37分にCの採血が行われ,同血液中の白血球は40,800/mm3と前日午後11時50分の時の数値をさらに上回っていた。その後同数値は,同日午前4時01分で28,900/mm3,同月21日午前0時50分で39,700/mm3,同月22日午前10時24分で26,000/mm3と推移し,基準値を大きく上回る状態が続いた(<証拠省略>)。
f CのCRP値は,同月20日午前1時37分に採取された血液では0.98mg/dl,同月22日午前10時24分に採取された血液では4.78mg/dlである。CRPとは,体内に炎症が起きたり,組織の一部が壊れたりした場合に血液中に顕れるタンパク質であり,炎症の有無を診断する際に行われる検査であって,その値が0.6mg/dl以下で正常であると考えられている(<証拠省略>)。
g 同月21日に行われたCの喀痰検査の結果,好虫球の値が「3+」と測定された。好虫球の最も大きな役割は,細菌などの体内有害物の除去であり,感染などへの体内防御機能を司る点にあると考えられている(<証拠省略>)。
h Cが同月20日にa病院に搬入された直後のCの体温は38.1度であり(<証拠省略>),また,同日午前2時35分にはCに痰が発生していた(<証拠省略>)。
i Cがa病院からd脳神経外科病院に転院する際に,a病院の医師が作成した平成13年10月30日付の「診療情報提供書」には,「38℃台の発熱が入院時より時々発生し,中枢性の発熱も考えられますが,CRP,WBC(白血球)高値であり,濃性痰も著明なことから感染を疑い」抗生物質を投与したとの記載がある(<証拠省略>)。
(イ) 控訴人は,本件喘息発作後の上記検査結果等からして,本件喘息発作時に既にCには気道感染があったことが推認され,この気道感染が本件喘息発作の誘因となった可能性が極めて高く,気道感染は業務とは無関係であるから,本件喘息発作には業務起因性がない旨主張する。
しかしながら,白血球の増加及びCRP値の増加は,体内における何らかの炎症の発生を強く疑わせる指標ではあるが,気道感染の存在を直接的に推認させるものではないし(<証拠省略>),好虫球の増加,発熱も同様である。a病院では肺炎の診断を行っているが,その肺炎が本件喘息発作の原因としての気道感染を含むものであったのか,本件喘息発作の結果として肺炎が発症したものか不明であるといわざるをえない。なお,発熱については,主治医が「この熱は中枢性のもので,体温調節が効かない状態では」と説明していた事実が認められ(<証拠省略>),また,平成13年10月20日にa病院が作成した「問題リスト」には,「意識障害遷延による二次的合併症の恐れ」がCの治療上の問題として挙げられ,合併症として「肺炎,感染,関節拘縮」が挙げられており(<証拠省略>),a病院の担当医師も,前記Cの病態が本件喘息発作発症前の気道感染の結果として発生したものなのか,Cの肺炎が本件喘息発作の原因なのか結果なのかについて明確な判断は下していないと認めるのが相当である。また,Cが本件喘息発作になる前の当日の症状としては,呼吸困難等の喘息発作の症状は認められるが,発熱や咳,濃性痰喀出等,気道感染を疑わせる臨床的な症状を認めるに足る証拠は一切ない。
控訴人は,本件喘息発作前に気道感染があった可能性に言及する複数の医師の意見書を提出する(乙B19,20,21)が,これらの意見は,前記認定の本件喘息発作発症後のCの血液検査結果等から気道感染が本件喘息発作の誘因となった可能性が高いと推定するものであり,本件喘息発作に前駆する気道感染が本件喘息発作を発症させたことを高度の蓋然性をもって推定させる医学的知見を述べるものとはいえない。G医師は,平成10年11月16日,平成12年7月3日及び平成13年5月28日(咽頭痛での受診)にCがe内科医院で受診した際,血液検査の結果,白血球が高い値を示したことから,その時の喘息発作は気道感染であったと推測され,そのことから,Cについては,気道感染が重篤な喘息発作を誘発しその際白血球が高くなりやすいことが示唆される旨述べるが(<証拠省略>),そもそも白血球の増加等血液検査の結果のみから気道感染の存在を推測することには無理があるし,仮に上記受診時の発作が気道感染を誘因とするものであったとしても,そのことから本件喘息発作も気道感染を誘因とするものであると結論付けるには飛躍があるというべきである。
以上によれば,本件喘息前にCが気道感染を発症していたことが証明されているとはいえず,気道感染がその後の本件喘息発作の原因となったとの控訴人の主張は,その前提を欠き採用できない。
ク 以上によれば,業務以外の増悪要因として控訴人が主張する事由は,そのいずれの存在についても確たる立証はないというべきである。
(6) 長期管理薬治療の不実施及び吸入β2刺激薬の頻回使用について
ア 控訴人は,Cの喘息症状は本件喘息発作前に既に重症化していたのであるから,Cは,これに見合った長期管理薬治療を受けるべきであったのにこれを受けず,気管支拡張薬であるβ2刺激薬によって喘息症状をしのいでおり,Cの喘息発作の最大の原因はその点にある旨主張し,業務と本件喘息発作・死亡との間には,条件関係,相当因果関係がない旨主張する。
イ 喘息が,現在では,薬物によるコントロールにより,難治性の喘息を除けば,死亡等の重大な結果の発生を避けることのできる病気であることは,前記認定のとおりであり,控訴人が当審において新たに提出した意見書において,E医師及びG医師も同様の見解を述べている(<証拠省略>)。また,ガイドライン2006には,吸入性β2刺激薬の頻回使用が喘息を増悪させ喘息死リスクを増加させるとの記載もある(<証拠省略>)。そして,前記認定のCの診療経過によれば,Cは,本件喘息発作に至るまで,発作の都度医療機関を受診し,薬物投与等により発作が収まると治療を止めることを繰り返していたと認められる。また,Cは,喘息発作の際に備えて気管支拡張薬であるβ2刺激薬を所持しこれを吸入使用していた事実も認められる(被控訴人本人,<証拠省略>)。
ウ しかし,前記認定のとおり,Cの喘息症状は,平成13年9月16日までは中等症持続型に至らない軽症間欠型であったと認められ,ガイドライン2006によれば,その場合には一般に長期間管理薬を必要とせず,喘息症状がある際にβ2刺激薬を吸入すれば足りるとされている(<証拠省略>)。また,前記認定のとおり,平成13年9月16日からは,Cの症状は,中等症持続型に悪化しており,長期管理薬治療が必要な状態になっていたが,それでも,上記時点では,未だ自然的経過によりわずかな誘因でも重積発作をもたらすほどに重症化していたとは認められない。以上に加えて,D医師も,仮に長期管理薬治療を行っても約10パーセントの患者は治療に難渋する旨述べていること(<人証省略>)からすれば,平成13年9月16日の時点ですら,その後の過重業務がなければ長期管理薬治療をしなくても本件喘息発作・死亡には至らなかった可能性が認められ,また,長期管理薬治療を受けさえすれば本件喘息発作・死亡を防げたと断定することもできず,本件喘息発作は,Cの基礎疾患たる気管支喘息に,指定前教習開始後本件喘息発作当日までの過重な業務が加わって発症したというべきであって,長期管理薬治療不実施の故に,業務と本件喘息発作・死亡との間の条件関係が否定されることとはならないというべきである。また,Cがβ2刺激薬を使用していた頻度は明らかではなく,その使用によって本件喘息発作が起こったと認めることもできない。
エ なお,控訴人は,業務と本件喘息発作・死亡との間に条件関係が肯定されたとしても,長期管理薬治療を行っていれば高い確率で本件喘息発作・死亡を防ぐことができたといえるから,その意味でCには重大な治療懈怠があり,その治療懈怠により業務と本件喘息発作との間の相当因果関係が否定される旨主張しているとも解される。
しかし,そもそも,Cが,受診した医師から長期管理薬治療の必要性を説明され,その必要性を理解していたことを認めるに足る証拠はなく,呼吸器専門医の常識として長期管理薬の有用性が認識されていたからといって,Cに治療懈怠があったといえるかどうか疑問がある。また,仮にCに治療懈怠が認められたとしても,労災保険法12条の2の2第2項は,労働者が重大な過失により療養に関する指示に従わないことにより傷病等の原因となった事故を生じさせ,又は傷病等の程度を増進させ若しくはその回復を妨げたときは,保険給付の全部又は一部を行わないことができる旨規定しており,労災保険法は,労働者の治療懈怠が仮に重大な過失に当たるとしても,これにより業務起因性を否定するのではなく,給付制限の事由として考慮すべきとしていると解される。したがって,治療懈怠を他の増悪要因と同等に取り扱って,結果発生への寄与度を考慮することは許されないというべきである。
(7) まとめ
以上によれば,Cの基礎疾患たる気管支喘息は,Cが平成13年6月27日以降に従事した指定前教習の過重な負荷により,その自然的経過を超えて増悪して重積発作たる本件喘息発作に進行し,その結果としてCは死亡するに至ったということができ,その死亡には業務起因性が認められる。
4 結論
以上によれば,被控訴人の本件各申請に対していずれも不支給決定を行った小樽労働基準監督署長の本件各処分は違法であり,これをいずれも取り消した原判決は相当である。よって,本件控訴には理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 末永進 裁判官 住友隆行 裁判官北澤晶は,退官のため署名押印できない。裁判長裁判官 末永進)