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札幌高等裁判所 平成23年(ネ)330号 判決 2012年10月19日

控訴人兼附帯被控訴人

株式会社Y(以下「控訴人」という。)

代表者代表取締役

訴訟代理人弁護士

湯尻淳也

松村寧雄

山﨑悠士

被控訴人兼附帯控訴人

X(以下「被控訴人」という。)

訴訟代理人弁護士

淺野高宏

上田絵理

倉本和宜

白諾貝

主文

1  本件控訴及び本件附帯控訴をいずれも棄却する。

2  控訴費用は控訴人の,附帯控訴費用は被控訴人の各負担とする。

事実及び理由

第1当事者の求めた裁判

1  控訴の趣旨

(1)  原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。

(2)  被控訴人の請求をいずれも棄却する。

2  附帯控訴の趣旨

(1)  原判決を次のとおり変更する。

(2)  控訴人は,被控訴人に対し,1009万9896円及びこれに対する平成21年4月11日から支払済みまで年14.6パーセントの割合による金員を支払え。

(3)  控訴人は,被控訴人に対し,434万0297円を支払え。

第2事案の概要

1  本件は,控訴人との間で労働契約を締結し,控訴人の経営するホテルで料理人又はパティシエとして就労していた被控訴人が.控訴人に対し,未払賃金の一部及びこれに対する退職の翌日である平成21年4月11日から支払済みまで賃金の支払の確保等に関する法律6条1項所定の年14.6パーセントの割合による遅延利息の支払を求めるとともに,労働基準法114条所定の付加金の支払を求めた事案である。

2  原審は,被控訴人の請求を一部認容し,その余を棄却したところ,控訴人が敗訴部分を不服として控訴し,被控訴人も敗訴部分を不服として附帯控訴した。

第3当事者の主張

以下,用語(略語)については,下記のとおり,左側の用語をその右側に記載の意味で用いることとする。

労基法 労働基準法

深夜勤務 午後10時から午前5時までの労働

深夜残業 1日8時間を超える部分の労働で,かつ,深夜勤務となるもの

通常残業 1日8時間を超える部分の労働のうち深夜残業を除くもの

時間外労働 深夜残業と通常残業を合わせたもの

時間外賃金 時間外労働に対する賃金(深夜勤務に対する割増賃金を含む。)

基礎賃金 労基法37条1項,3項の割増賃金計算の際の基礎となる賃金

除外賃金 労基法37条4項により基礎賃金に含めないとされる賃金

基礎単価 労基法施行規則19条1項所定の賃金の時間単価

1  請求原因

(1)  労働契約の締結

控訴人は,北海道の洞爺湖近くで「aホテル」(以下「本件ホテル」という。)を経営する会社である。

被控訴人は,平成19年2月10日,控訴人との間で,被控訴人が調理業務を行い,これに対し,控訴人が基本賃金年額624万2300円(基本賃金月額52万0191円)を賃金締切日毎月10日,賃金支払日毎月25日の約定で支払う旨の労働契約(以下「本件労働契約」という。)を締結し,同月11日から平成21年4月10日までの間(平成19年2月11日から3か月間は試用期間として),本件ホテルにおいて,料理人又はパティシエとして就労した。

(2)  被控訴人の時間外労働

被控訴人は,原判決書別表1の「時間外労働時間」欄記載のとおり時間外労働をした(訴状に代わる準備書面に添付の勤務状況報告書。控訴人は,その信用性を論難するが,使用者として労働時間の適正管理義務があるにもかかわらず,タイムレコーダーによる労働時間の記録を提出しない以上,勤務状況報告書の信用性を否定することはできないというべきである。)。

(3)  未払賃金の額

ア 基礎賃金

時間外賃金の計算の基礎となる賃金月額は,52万0191円である。

イ 基礎単価

各月(前月11日~当月10日)の所定労働時間は,原判決書別表1の「所定労働時間」欄記載のとおりであるから,時間外賃金を計算する際の1時間当たりの賃金単価は,同表の「基礎単価」欄記載のとおりとなる。

ウ 支払うべき賃金

上記基礎単価と前記(3)の時間外労働の時間数を用いて計算される時間外賃金の額は,原判決書別表1の「時間外賃金」欄記載のとおりとなり,被控訴人に対しては,これに基本賃金月額52万0191円を加えた同表の「支払うべき賃金」欄記載の賃金(合計1959万2395円。合計欄記載の1907万2204円は誤記である。)が支払われるべきであった。

エ 既払額

実際には原判決書別表1の「既払額」欄記載の賃金(合計872万4506円)が支払われるにとどまったことから,同表の「未払額」欄記載の賃金が未払となっており,その未払賃金の総額は1086万7889円である(なお,被控訴人は,平成22年11月18日の原審弁論準備期日において,未払賃金の総額が1061万0348円である旨陳述しているが,これは上記「既払額」欄記載の賃金の計算期間を誤認したものであり(賃金台帳(証拠<省略>)参照),その後,上記のとおり主張内容が訂正されたものと解される。)。

(4)  労基法114条に基づく付加金請求

控訴人は,2年以内の割増賃金として合計434万0297円を支払わないので,被控訴人は,労基法114条に基づき,同額の付加金の支払を求める。

(5)  よって,被控訴人は,控訴人に対し,上記未払賃金の一部1009万9896円及びこれに対する退職の翌日である平成21年4月11日から支払済みまで賃金の支払の確保等に関する法律6条1項所定の年14.6パーセントの割合による遅延利息の支払を求めるとともに,労基法114条所定の付加金として434万0297円の支払を求める。

2  請求原因に対する認否反論

(1)  請求原因(1)の事実は認める。

(2)  同(2)の事実は否認する。被控訴人主張の時間外労働の事実を認めるに足りる証拠はない。

(3)  同(3)の事実のうち,アないしウは否認ないし争う。エのうち,平成19年6月から平成20年12月までの既払額は認め,その余は否認ないし争う。

基礎賃金は,後記合意(抗弁(1))により減額された後の基本給22万4800円である。また,平成19年5月11日から平成21年4月10日までの間に賃金として被控訴人に支払われた金額は,賞与を除くと,合計945万8703円である(賃金台帳(証拠<省略>))。

(4)  同(4)の付加金請求は争う。

3  抗弁

(1)  合意による賃金減額

被控訴人と控訴人は,平成19年4月,賃金に関する当初の合意を変更して,同年5月11日以降の賃金について,基本給を月額22万4800円とすること,それ以外に職務手当として月額15万4400円を支給すること,賞与年額を基本給の2か月分44万9600円とすること(年間総支払額500万円)を合意した。

その経緯は次のとおりであり,賃金の減額について合意が成立し,これが被控訴人の自由意思に基づくものであることが認められる。すなわち,控訴人の料飲部(本件ホテルのレストランで働く料理人等が所属する部署)は中途採用者が多く,各自の賃金が従前の職場の賃金を参考に決められていたことから,従業員相互間で賃金に不公平な格差が生じていた。そこで,控訴人としては,職場全体で公平妥当な賃金体系を形成する必要から,被控訴人の賃金を年額500万円とすることにし,当時の料飲部ゼネラルマネージャーであったB(以下「B」という。)が,同年4月,被控訴人に対し,給与条件提示書(証拠<省略>)を提示して賃金減額の必要性を説明し,被控訴人も,その説明を了解し,賃金減額に同意した(以下,この時点で成立した賃金減額の合意を「本件変更合意」ということがある。)。被控訴人が賃金減額に同意していたことは,同年6月25日支払分から減額後の賃金が支払われ,被控訴人が,平成20年4月に減額後の賃金を記載した労働条件承諾書(甲11)に特段の抵抗なく署名押印していることからも明らかである。

(2)  職務手当(定額制時間外賃金)の除外

控訴人の賃金規程(証拠<省略>)では,職務手当は,定額制の時間外賃金とされているから(4条,26条),基礎賃金には含まれない。被控訴人に支払われた職務手当は,下記計算のとおり,基本給22万4800円を基礎賃金として計算される95時間分の通常残業の時間外賃金に相当し,これは定額制の時間外賃金であるから,被控訴人は,1か月の通常残業が95時間に満たない場合でも職務手当全額の支払を受けることができる一方で,1か月の通常残業が95時間を超えない限り,職務手当以外の時間外賃金の支払を求めることができないのである(実際は,被控訴人に対しては,時間外労働が95時間を超えたときも時間外賃金が支払われていないが,これは,被控訴人が時間外勤務指示書(証拠<省略>)を提出して残業時間を申告するという所定の手続をとらなかったからである。)。なお,この賃金規程に基づく合意は,あくまで時間外賃金を定額で支払う旨を合意するものにすぎず,時間外労働義務それ自体に関する合意ではないから,時間外労働をするか否かとは別の問題である。

基礎単価×1.25 22万4800円÷173.33時間×1.25≒1622円

職務手当の計算 1622円×95時間≒15万4400円

(3)  消滅時効

ア 被控訴人が労働審判の申立てをしたのは平成21年12月16日であり,その時点で既に弁済期から2年が経過した賃金債権(平成19年11月25日支払分及びそれ以前の賃金債権)については2年の短期消滅時効により消滅している。

イ 控訴人は,被控訴人に対し,平成22年7月6日の原審口頭弁論期日において,上記消滅時効を援用するとの意思表示をした。

4  抗弁に対する認否反論

(1)  抗弁(1)(合意による賃金減額)について

否認する。平成19年4月に給与条件提示書(証拠<省略>)が被控訴人に提示されたことを認めるに足りる証拠はなく,仮にこれが提示されたとしても,15万4400円の職務手当が95時間分の時間外賃金であることは直ちに読み取れないから,賃金の減額が明確に説明されたとはいえず,適切な説明に基づく賃金減額の合意は存在しない。このことは,平成20年4月の労働条件確認書(甲11)でも同様であり,控訴人からは,被控訴人に生じる不利益や,賃金を減額しなければならない合理的な理由に関する説明は特段なされておらず,同書面は当時の賃金の名目上の内訳を確認するものにすぎない。この点,黙示の同意を問題にするとしても,賃金減額の合意があったといえるためには,労働者において,そのような不利益な変更を受け入れざるを得ない客観的かつ合理的な理由があり,労働者が真に自由な意思で賃金の減額に同意したと認められる必要があるところ,本件ではそのような事情は存在しない。

(2)  抗弁(2)(職務手当(定額制時間外賃金)の除外)について

否認する。仮に控訴人の賃金規程が職務手当を月95時間分の時間外賃金と位置付けているとすれば,その賃金規程の定めやこのことを前提とした合意は,健康を害するほどの長時間労働を強いるものといわざるを得ず(実際に,被控訴人の1か月の時間外労働はしばしば95時間を超えた。),労基法36条を無意味なものとし,かつ,労働者の心身の健康を害するおそれが強いものであって,公序良俗に反するから,控訴人の賃金規程が控訴人の主張するような趣旨,内容であるとは認められない。

(3)  抗弁(3)(消滅時効)について

被控訴人が平成21年12月16日に労働審判の申立てをしたことは認めるが,時効消滅の主張は争う。

5  再抗弁

(1)  本件変更合意の錯誤無効

被控訴人の妻C(以下「C」という。)も,被控訴人と同時期に控訴人に雇用され,本件ホテルで就労していたところ,Bは,平成19年4月の説明の際,被控訴人の賃金を引き下げる代わりにCの賃金を引き上げるので,被控訴人の賃金減額によって悪いようにはならないと述べており,これを聞いた被控訴人は,自己の賃金減額に対する代償措置としてCの処遇が改善されるものと考えていたが,実際にはそうではなかった。したがって,仮に被控訴人が賃金減額に同意していた事実が認められるとしても,その同意は民法95条により無効であり,本件変更合意の成立は否定される。

(2)  平成20年4月時点の賃金減額合意の公序良俗違反

仮に平成20年4月に被控訴人が労働条件確認書(甲11)に署名押印したことをもって賃金減額に関する合意が成立したと評価するとしても,この合意は,月95時間の時間外労働を想定した職務手当を設け,非常に長時間の労働を強いるもので(実際に,被控訴人の時間外労働はしばしば月95時間を超えた。),労基法36条を無意味なものとし,かつ,労働者の心身の健康を害するおそれが強いものであって,公序良俗に反し,無効である。そして,職務手当に関する合意内容が95時間の時間外労働を想定しているという意味で公序良俗に反することからすれば,この合意は,95時間の計算根拠にもなる低廉な額に変更された基本給に関する部分も含めて,一体のものとして公序良俗に反し,無効であると解すべきである。

(3)  時効中断,権利濫用

ア 被控訴人は,平成21年6月25日までに控訴人に到達した書面(証拠<省略>)により,時間外賃金を支払うよう催告し,催告から6か月以内である平成21年12月16日に労働審判の申立てをした。

イ 被控訴人は,契約の内容に関して十分な説明を受けていないから,上記書面(証拠<省略>)は,その文言にかかわらず,およそ未払いの賃金があれば支払を求めるという趣旨に理解すべきであって,上記催告によって,時間外賃金債権のみならず,その基礎となる賃金債権を含め,平成19年6月25日及びそれ以後に弁済期が到来する賃金債権全部の消滅時効が中断した。

ウ 仮に上記イのように解することが困難であるとしても,契約内容の理解を促進することを怠った控訴人が消滅時効を援用することは信義則に反し,権利濫用として許されない。

6  再抗弁に対する認否反論

(1)  再抗弁(1)(本件変更合意の錯誤無効)について

否認ないし争う。Bが被控訴人主張のような説明をした事実はないし,被控訴人主張の動機は表示されておらず,動機に錯誤があっても,賃金減額の同意が無効となることはない。

(2)  再抗弁(2)(平成20年4月時点の賃金減額合意の公序良俗違反)について

争う。

(3)  再抗弁(3)(時効中断,権利濫用)について

催告及び労働審判申立ての事実は認めるが,その主張は争う。本件では,時間外賃金以外の賃金債権については催告がされておらず,時効は中断されていない。

第4当裁判所の判断

1  当裁判所も,被控訴人の本件請求は原判決主文掲記の限度で認容すべきものであると判断する。その理由は,次のとおりである。

2  事実経過

請求原因(1)の事実及び再抗弁(3)アの事実は当事者間に争いがなく,これら争いのない事実のほか,証拠(証拠・人証<省略>,原審における被控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(1)  被控訴人が本件ホテルで就労するに至った経緯

被控訴人は,昭和36年○月○日生まれの男性で,若いころから料理人として稼働し,フランス料理に通じており,平成7年9月に札幌市内で「○○」というフランス料理店を開店したが,平成18年4月にこれを閉店した。

その後,被控訴人は,静岡県熱海市内のホテルで料理人として働いていたところ,控訴人の料理顧問Dの誘いを受け,採用面接を受けて,本件ホテルでフランス料理の料理人として働くことにした。妻のCも本件ホテルに就職したことから,被控訴人は,平成19年2月(当時被控訴人は45歳),夫婦そろって洞爺湖近くの控訴人の従業員寮に転居し,本件ホテルでの就労を開始した。

(2)  控訴人の賃金規程の定め

平成19年2月当時の控訴人の賃金規程(平成18年8月11日実施(証拠<省略>))には,次のとおり定められている。

(4条)基礎賃金となるのは,「基本給」,「調整給」,「役職手当」,「専門職手当」,「初任給特別調整手当」,「資格手当」及び「特別手当」であり,除外賃金となるのは,「時間外勤務手当」,「休日勤務手当」,「深夜勤務手当」,「職務手当」,「特別専門職手当」及び「通勤手当」である。

(9条)「時間外勤務手当」及び「休日勤務手当」の算出で生じた円未満の端数は切り上げる。

(10条)「時間外勤務手当」等の計算は,月平均所定内労働時間を「(365日-年間休日数105日)×(1日の所定労働時間8.0時間)÷12ケ月」として計算される173.33時間とし,割増率を法定のものとして行う。

(26条)

1項「所定労働時間を超えて勤務する時間及び深夜労働に対し,毎月一定額をみなし時間外手当として職務手当を支給することがある」

2項「職務手当の支給額については,職種・職責等に応じて各人毎に決定する」

3項「職務手当は,管理・監督の職にある者について深夜労働部分のみを支給する」

(3)  賃金に関する当初の合意

被控訴人に提示された賃金は,上記賃金規程とは異なり,基本賃金を年額624万2300円,月額52万0191円(年度月初に8円調整)とし,それ以外には手当も賞与も支給しないというものであったが,被控訴人は,この労働条件を承諾して本件労働契約を締結した。

なお,平成19年2月当時,本件ホテルの料理人の賃金については,賃金規程と異なる合意がされていることが多かったが,これは,本件ホテルが比較的歴史の浅いホテルであるため,他のホテルやレストランで稼働している料理人に声をかけ引き抜いて雇用することになり,そのような中途採用を行う場合,従前の職場での賃金を参考として,それに近い賃金を総額で提示して雇用することが多かったからである。被控訴人についても,従前の職場での賃金に近い額として上記賃金が提示されたという経緯がある。

(4)  被控訴人の労働時間

被控訴人は,当初,本件ホテルの「△△」というレストランに配属されたが,平成19年5月以降は,宴会場の担当に配置換えとなり,さらにその後,菓子作りを主な担当とするパティシエとして就労していた。

この間,被控訴人は,毎月10日締めで(賃金計算期間ごとに),出勤及び休日の日数,総労働時間,時間外労働時間,時間外労働のうち深夜勤務時間を記録した「勤務状況報告書」を作成し,これを料飲部の責任者に提出し,責任者による点検を受けていた。この勤務状況報告書等(訴状に代わる準備書面)に記載された通常残業及び深夜残業の時間は,原判決書別表3の各該当欄に記載のとおりであった。

(5)  料飲部における賃金の実情等

本件ホテルにおける料理人の賃金は,上記(3)のとおり,賃金規程によらずに,従前の職場の賃金を参考にして個別的な合意で定められていたため,結果的に,本件ホテル内での職種・職責とは無関係に,従前の職場が賃金水準の高い地域(例えば東京近辺)であった者の賃金がそうでない者の賃金よりも高いというばらつきが生じており,このことが不公平感をもたらしていた。例えば,被控訴人より少し後に採用されたEという被控訴人より若い料理人は,「△△」の厨房責任者となったが,被控訴人よりも賃金年額が200万円程度低かった。

控訴人の料飲部では,平成19年に入ると,上記のような賃金のばらつきを早急に解消し,合理的な賃金体系に改める必要があると判断するに至り,職種・職責に比して賃金が低い者の賃上げを行うとともに,賃金が割高な者と個別的に話をして賃金を引き下げることにした。賃金が割高な者と考えられた複数の者の中に被控訴人も含まれていた。

(6)  被控訴人に対する賃金減額の説明等

料飲部のゼネラルマネージャーであったBは,平成19年4月,本件ホテルの会議室に被控訴人を呼び,賃金に不公平なばらつきがあることや当初合意された被控訴人の賃金が北海道の賃金水準に照らして割高であることを説明し,被控訴人の賃金年額を500万円にしたい旨の提案をした。その席には,控訴人の人事管理に携わる者一名も同席し,被控訴人に対し,賃金を37万9200円とする代わりに賞与を支給するとの話がされたが,37万9200円の内訳である基本給と職務手当の金額や,それらの賃金がどういう性質のものとして支払われるのかといった点に関して具体的な説明はされなかった(給与条件提示書(証拠<省略>)が被控訴人に提示され,又は交付されて,同書面の記載に沿って具体的な説明がなされたことを認めるに足りる証拠はない。)。

これに対し,被控訴人は,基本給と職務手当の具体的な金額等について尋ねたりはせず,入社早々,当初合意した賃金を年額で124万円余り減額することに納得していなかったので,Bの提案に同意はしなかったが,そうかといって,夫婦揃って静岡県から転居して来て新しい職場で働き始めた時期に,賃金のことで事を荒立てる気にもなれなかったことから,Bの提案を拒絶するとの態度も明確にはせず,「ああ分かりました」などと応答してその場を辞した。

一方,Bは,同じころ,被控訴人と同様の料理人であるF(以下「F」という。)にも賃金の減額を提案した。Fは,平成19年当時38歳くらいで,被控訴人より若かったものの,従前の職場の賃金が高く,被控訴人より高給であったことから,Bは,Fに対しては年額150万円の賃金減額を提案したが,Fは,Bの提案を拒否し,本件ホテルを退職した。

(7)  実際に支払われた賃金

被控訴人に対しては,平成19年6月25日以降,基本給を22万4800円とし,職務手当を15万4400円とする賃金が支払われるようになった。

退職までの就労に対し,被控訴人に支払われた賃金は,原判決書別表2記載のとおりであり(証拠<省略>),同年5月11日から平成20年5月10日までの1年間で支払われた賃金は,合計501万円余りとなる(平成20年3月期賞与を除く)。なお,平成21年4月25日に支払われた73万4197円は,在職中の有給休暇の未消化分を買い取るという趣旨で支払われた賃金である。

(8)  労働条件確認書(甲11)の作成

被控訴人は,賃金減額が不当である旨の抗議などはせず,特に文句も言わずに,控訴人から支払われる賃金を受領していたところ,平成20年4月になって,控訴人から,労働条件確認書(甲11)に署名押印するよう求められた。この書面には,被控訴人に支給する賃金として,「基本給22万4800円」,「職務手当(割増賃金)15万4400円」のほか,年2回の賞与が記載されているが,職務手当が何時間の時間外労働の対価であるかは記載されていない。

被控訴人は,同月29日,この書面に署名押印し,控訴人に提出した。

(9)  再度の賃金減額の提示と被控訴人の退職

被控訴人は,平成21年2月19日,控訴人から,基本給を更に減額して18万6000円にするとともに,職務手当を7万4700円に減額する旨の説明を受けた。これを承諾すると,賃金年額は350万円程度となり,当初合意した年額624万2300円から45パーセント近く賃金が切り下げられたことになり,しかも,被控訴人は,人事管理に携わる者が目の前で「こいつには職務手当分の残業をさせろ」などと言ったのを聞いており,長時間残業をさせておきながら残業代を支払わず,一方的に賃金を切り下げようとする控訴人の労務管理のあり方に強い反発を覚えたことから,同年4月10日をもって退職した。

(10)  賃金支払の催告

被控訴人は,退職後,控訴人を退職した他の従業員に時間外賃金が支払われていることを耳にしたことから,室蘭労働基準監督署や法テラスに相談をした上で,平成21年6月19日付け通知書(証拠<省略>)により,控訴人に対し,時間外賃金の支払を求め,同通知書は,同月25日までに控訴人に到達した。この通知書には「私が貴社により雇用されていた期間中の時間外労働,深夜労働及び休日労働の割増賃金につき,貴社備え付けの賃金台帳,勤務表などに基づき適法に計算された相当額の金員を請求いたします。」と記載されている。

その後,被控訴人は,同年12月16日に労働審判の申立てをし,同申立書は,同月25日までに控訴人に到達した。被控訴人は,この申立てにおいて,賃金減額の合意がないのに控訴人は賃金基本月額(52万0191円)を減額したと主張し,時間外賃金以外に賃金基本月額の未払分の支払も求めるに至った。

3  賃金減額に関する合意について

(1)  前記認定の事実経過によれば,被控訴人は,平成20年4月29日,控訴人と本件労働契約締結当初に合意した賃金(基本賃金月額52万0191円)について,労働条件確認書(甲11)に記載されているとおり,基本給月額を22万4800円に,職務手当月額を15万4400円にするとともに,賞与年額を基本給の2か月分とすることに同意したものと認められ,これにより,被控訴人と控訴人との間では,上記賃金を受給する合意が成立したものと解される。

(2)  これに対し,控訴人は,上記内容の合意(本件変更合意)が平成19年4月の時点で既に成立していた旨主張する。

しかしながら,前記認定のとおり,平成19年4月にBが被控訴人に賃金年額を500万円にしたい旨の説明ないし提案をしたが,その提示額のうち,基本給と職務手当それぞれの金額等に関する具体的な説明はなされておらず,他方で,被控訴人はこれに対して,基本給と職務手当の具体的な金額等について尋ねたりすることもなく,「ああ分かりました」などと応答したにとどまるところ,その言葉尻を捉えて被控訴人が賃金減額に同意したと解することは,事柄の性質上必ずしも当を得たものとはいえない。何故なら,賃金減額の説明ないし提案を受けた労働者が,これを無下に拒否して経営者の不評を買ったりしないよう,その場では当たり障りのない応答をすることは往々にしてあり得る一方で,賃金の減額は労働者の生活を大きく左右する重大事であるから,軽々に承諾できるはずはなく,そうであるからこそ,多くの場合に,労務管理者は,書面を取り交わして,その時点における賃金減額の同意を明確にしておくのであって(本件でも,控訴人は後に労働条件確認書(甲11)を作成している。),賃金減額に関する口頭でのやり取りから労働者の同意の有無を認定するについては,事柄の性質上,そのやり取りの意味等を慎重に吟味検討する必要があるというべきである。これを本件についてみると,被控訴人の上記応答は,平成19年2月に入社してわずか2か月後に,年額124万円余りの賃金減額という重大な提案を受けた際のものであり,被控訴人の立場からすれば,入社早々で,しかもまだ試用期間中の身でもあり,この提案を拒否する態度を明確にして会社の不評を買いたくないという心理が働く一方で,入社早々にこれほどの賃金減額を直ちに受け入れる心境になれるはずのないことは見易い道理であって,Bの提示額の曖昧さと相まって,上記のとおり抽象的な言い回しであることも併せ考えれば,この応答は,「会社からの説明は分かった」という程度の趣旨に理解するのが相当である。したがって,この応答をもって,年額124万円余りの賃金減額に被控訴人が同意したと認めることはできない。

(3)  なお,その後,控訴人が,平成19年6月25日支払分から平成20年4月25日支払分までの11か月間,減額後の賃金を支払うにとどめ,被控訴人がこれに対し明示的な抗議をしなかったという事実はあるが,この事実から,被控訴人が平成19年4月の時点で賃金減額に同意していた事実を推認することもできない。

何故なら,まず,平成21年4月25日支払分の賃金額からは,控訴人について,労働者の同意の有無にかかわらず,自ら提案した減額後の賃金以上は支払わないとの労務管理の方針がうかがわれるところであって,事前に賃金減額に対する同意があったから減額後の賃金を支払っていたものと推認することはできない。

また,賃金減額に不服がある労働者が減額前の賃金を取得するには,職場での軋轢も覚悟した上で,労働組合があれば労働組合に相談し,それがなければ労働基準監督官や弁護士に相談し,最終的には裁判手続をとることが必要になってくるが,そこまでするくらいなら賃金減額に文句を言わないで済ませるという対応も往々にしてあり得ることであり,そうであるとすれば,抗議もしないで減額後の賃金を11か月間受け取っていたのは事前に賃金減額に同意していたからであると推認することも困難である。

したがって,控訴人の上記主張は採用することができない。

なお,控訴人は,平成20年4月29日に被控訴人が控訴人から提示された労働条件確認書(甲11)に署名押印したことをもって,平成19年4月時点における賃金減額を事後的に追認したものであるとも主張するが,上記認定説示したところに照らし,たやすく採用することができない。

(4)  以上のとおりであって,平成19年4月の時点で賃金減額の同意があり,その時点で本件変更合意が成立していたとは認められないが,平成20年4月の時点で賃金減額の同意があり,その旨の合意が成立したというべきである。

これに対し,被控訴人は,上記賃金減額の合意が成立したことを否認し,その理由として,控訴人からは賃金の減額に関する客観的かつ合理的な理由の説明は特段なく,被控訴人が真に自由な意思で賃金の減額に同意したとは認められないから,労働条件確認書(甲11)は当時の賃金の名目的内訳を確認するものにすぎない旨主張し,被控訴人本人も,職務手当等について詳しい説明を聞いたことはなく,上記書面も特に詳細に見た記憶はない旨供述する(原審における被控訴人本人)。

しかしながら,前記のとおり,被控訴人は,平成19年4月に,Bから賃金年額を500万円にしたい旨の説明ないし提案を受け,その際,賃金のばらつきや北海道の賃金水準について説明されたのに対し,「ああ分かりました」と応答しており,これは「会社からの説明は分かった」という趣旨に理解されること,そして,実際に,同年6月25日支払分から平成20年4月25日支払分までの11か月間にわたって,減額後の賃金が支払われるにとどまり,上記説明ないし提案に沿った待遇を受けたのに対し,明示的な抗議をしていないこと,同年4月29日に被控訴人が署名押印した労働条件確認書(甲11)は特に複雑なものではなく,むしろ簡略なものであり,賃金に関しては,基本給22万4800円及び職務手当(割増賃金)15万4400円を支払う旨が明確に記載されていることからすれば,被控訴人は,上記書面に署名押印した平成20年4月の時点で,賃金を同書面記載の金額に減額することについて自由な意思で同意したものと認めるのが相当である(このうち,「職務手当」の法的意味については,後記5において別途検討する。)。

したがって,被控訴人の上記主張は理由がない。

(5)  以上の次第であるから,控訴人は,被控訴人に対し,平成20年4月29日以降に賃金計算期間が始まる賃金(平成20年5月11日以後の賃金)については,労働条件確認書(甲11)記載の賃金(基本給22万4800円,職務手当15万4400円及び賞与)を支払えば足りるが,それ以前の賃金(平成19年5月11日から平成20年5月10日までを賃金計算期間とする賃金)については基本賃金月額52万0191円の支払義務を負うというべきである。

4  被控訴人の残業時間について

(1)  被控訴人の労働時間については,前記認定の事実経過(第4の2(4))が認められるところ,勤務状況報告書等(訴状に代わる準備書面)の通常残業及び深夜残業の時間に関して,事実と異なる記載がされていると疑うべき具体的な事情があるとはいえないから,被控訴人はその記載のとおりの時間外労働をしたと認めるのが相当である。

(2)  これに対し,勤務状況報告書が存在しない平成19年5月11日から同年6月10日までの間と,同年7月11日から同年8月10日までの間については,被控訴人が平成20年の同時期と同一時間の時間外労働をしたものと推認するのが相当である。

(3)  したがって,平成19年5月11日から平成21年4月10日までの間の被控訴人の通常残業及び深夜残業の時間は,原判決書別表3の各該当欄記載のとおりとなる。

5  職務手当受給合意の解釈について

(1)  前記第4の3に認定の事実に照らせば,被控訴人と控訴人は,労働条件確認書(甲11)により,定額払いの時間外賃金として月額15万4400円の職務手当の受給を合意したことになる(以下,被控訴人に支払われる職務手当を「本件職務手当」という。)。

(2)  企業が,賃金計算を簡略化するため,毎月,一定時間までの時間外労働の対価として(時間外労働がその一定時間に満たない場合でも)定額の時間外賃金を支払う旨を労働者と合意し,又は就業規則でその旨を定めることは,それ自体が違法であるとはいえない。

(3)  この点に関して,控訴人は,賃金規程10条の計算方法から,本件職務手当が95時間分の時間外賃金であると主張する。

しかしながら,賃金規程26条1項では,職務手当が深夜勤務(割増率25パーセント)の対価をも含むとされているのに対し,控訴人主張の計算(抗弁(2)に掲記の計算)は,深夜勤務を考慮していない点で上記賃金規程と整合していない。そもそも,賃金規程では職務手当に深夜勤務の対価を含むとしているにもかかわらず,控訴人は,本件職務手当とは別に,深夜勤務手当を被控訴人に支払っており,本件職務手当が賃金規程にいう「職務手当」と同一のものなのかも疑問である。

しかも,控訴人は,本件職務手当が95時間の時間外労働に対する対価であるとしていながら,95時間を超える残業が生じても,これに対して全く時間外賃金を支払っていない。すなわち,本件職務手当が支払われるようになって以降,95時間を超える通常残業が生じた月は7か月(平成19年7月,9月,10月,11月,平成20年1月,2月,5月各支払分)あったにもかかわらず,時間外賃金は一度も支払われず(深夜勤務に対する25パーセントの割増賃金だけが一部支払われたにすぎない。),被控訴人も,本件職務手当以外に時間外賃金が支払われるとは考えていなかったというのである(原審における被控訴人本人)。

上記のような事情からすれば,本件職務手当が95時間分の時間外賃金として合意され,あるいはその旨の就業規則の定めがされたとは認め難く,むしろ,被控訴人と控訴人との間の定額時間外賃金に関する合意(本件職務手当の受給に関する合意)は,時間外労働が何時間発生したとしても定額時間外賃金以外には時間外賃金を支払わないという趣旨で定額時間外賃金を受給する旨の合意(以下,この合意を「無制限な定額時間外賃金に関する合意」という。)であったものと解される。

これに対し,控訴人は,時間外賃金が支払われなかったのは被控訴人が所定の手続をとらなかったからであると主張し,これは,控訴人としては,所定の手続さえとられれば時間外賃金を支払ったという趣旨の主張に解されるが,前記のとおり,本件職務手当が支払われるようになってから7か月もそのような機会があったにもかかわらず,被控訴人に対し,一度として請求の意思を確認したりしていないこと(弁論の全趣旨)に照らし,たやすく採用することができない。

(4)  このような無制限な定額時間外賃金に関する合意は,強行法規たる労基法37条以下の規定の適用を潜脱する違法なものであるから,これを全部無効であるとした上で,定額時間外賃金(本件職務手当)の全額を基礎賃金に算入して時間外賃金を計算することも考えられる。

しかしながら,ある合意が強行法規に反しているとしても,当該合意を強行法規に抵触しない意味内容に解することが可能であり,かつ,そのように解することが当事者の合理的意思に合致する場合には,そのように限定解釈するのが相当であって,強行法規に反する合意を直ちに全面的に無効なものと解するのは相当でない。

したがって,本件職務手当の受給に関する合意は,一定時間の残業に対する時間外賃金を定額時間外賃金の形で支払う旨の合意であると解釈するのが相当である。

そこで,以下,この見地から,本件職務手当が何時間分の時間外賃金として合意されたと認めるべきかを検討する。

(5)  定額の時間外賃金が合意されると,その支払がされる分の時間外労働を使用者から要求された場合,労働者は,これを拒否すると賃金の支払が約束されている労働を拒否することになるから,法的な義務として時間外労働をせざるを得ないと考えられる。すなわち,定額時間外賃金の合意は,時間外労働をすべき私法上の義務(使用者からみれば権利)を定める合意を含むものということができる(実際に,控訴人の労務管理に携わる人物が,本件職務手当の支給が時間外労働の義務を発生させると認識していたことは,前記認定の事実経過(第4の2(9))からもうかがうことができる。)。

ところで,具体的な時間外労働義務は,労基法36条所定の協定(三六協定)によって当然に発生するのではなく(三六協定は時間外労働をさせることに関する刑事責任が免責されるという法的効果をもたらすにすぎない。),就業規則の定めや合意によって,労基法36条の基準の範囲内で,かつ,合意内容が合理的なものと認められる場合に限り,法的義務として発生するものと解されるところ(その範囲を超える時間外労働は,法的には,義務の履行としてではなく,任意の履行として行われるにすぎないということになる。),労基法36条は,①時間外労働の例外性・臨時性,②仕事と生活の調和,③業務の柔軟な運営の要請を考慮して,一定の範囲で時間外労働を適法なものとし,時間外労働の内容を合理的なものにしようとする規定であるから,その趣旨は就業規則や労働契約の解釈指針とすべきである。

そうすると,本件職務手当の受給合意について,これを,労基法36条の上限として周知されている月45時間(昭和57年労働省告示第69号・平成4年労働省告示第72号により示されたもの)を超えて具体的な時間外労働義務を発生させるものと解釈するのは相当でない。

この点,本件職務手当が95時間分の時間外賃金であると解釈すると,本件職務手当の受給を合意した被控訴人は95時間の時間外労働義務を負うことになるものと解されるが,このような長時間の時間外労働を義務付けることは,使用者の業務運営に配慮しながらも労働者の生活と仕事を調和させようとする労基法36条の規定を無意味なものとするばかりでなく,安全配慮義務に違反し,公序良俗に反するおそれさえあるというべきである(月45時間以上の時間外労働の長期継続が健康を害するおそれがあることを指摘する厚生労働省労働基準局長の都道府県労働局長宛の平成13年12月12日付け通達-基発第1063号参照)。

したがって,本件職務手当が95時間分の時間外賃金として合意されていると解釈することはできない。

(6)  以上のとおりであるから,本件職務手当は,45時間分の通常残業の対価として合意され,そのようなものとして支払われたものと認めるのが相当であり,月45時間を超えてされた通常残業及び深夜残業に対しては,別途,就業規則や法令の定めに従って計算した時間外賃金が支払われなければならない。以上の認定判断に反する当事者の主張は採用の限りではない。

6  消滅時効について

(1)  前記認定の事実経過(第4の2(10))によれば,時間外賃金債権については,本件請求債権全部の時効が中断されたのに対し,それ以外の賃金債権については,平成19年11月25日に弁済期が到来した分及びそれ以前に弁済期が到来した分が2年の短期消滅時効(労基法115条)によって消滅したものと解される。

(2)  これに対し,被控訴人は,契約の内容に関して十分な説明を受けていないということを根拠に,平成21年6月19日付け通知書(証拠<省略>)はおよそ未払いの賃金があれば支払を求めるという趣旨に理解すべきであり,平成19年11月25日以前に弁済期が到来した賃金債権についても時効が中断された旨,また仮に上記のように解することが困難であるとしても,契約内容の理解を促進することを怠った控訴人が消滅時効を援用することは信義則に反し,権利濫用として許されない旨主張するが,上記通知書の文言からして,これを未払いの賃金全ての支払を求める趣旨に解するのは困難であり,また,前記認定の事実経過に照らし,控訴人が消滅時効を援用することが信義則に反し,権利濫用に当たるとまで認めることは困難であって,いずれの主張も容易に採用することができない。

したがって,被控訴人の上記主張は理由がない。

7  本件請求に関する帰結

(1)  未払賃金について

ア 基礎単価

被控訴人の年間休日が105日と定められ,被控訴人の月間所定労働日が月によって異なること(甲11,ほか証拠<省略>,弁論の全趣旨)からすると,被控訴人の賃金請求に関する基礎単価は,基礎賃金を年平均の月間所定労働時間数で除した基礎単価を用いるべきところ,前記認定(第4の2(2))のとおり,控訴人の賃金規程は,閏年か否かを問わず,基礎単価を計算する場合の年平均の月間所定労働時間を173.33時間と定めており,この定めは労基法に抵触しないので,被控訴人の時間外賃金もこの数値を使用して計算すべきものと解される。

したがって,被控訴人の賃金請求に関する基礎単価は,原判決書別表3に記載のとおりとなる。

イ 時間外賃金

通常残業については,上記基礎単価の1.25倍の額に時間数(実際の時間数から職務手当で対価が支払われた45時間分を控除した後の時間数)を乗じ,深夜残業については,上記基礎単価の1.5倍の額に時間数を乗じて,被控訴人の時間外賃金を計算すると,原判決書別表3に記載のとおりとなる。

ウ 時効消滅

時間外賃金債権については,本件請求債権全部の消滅時効が中断したが,それ以外の賃金債権については,平成19年11月25日に弁済期が到来した分及びそれ以前に弁済期が到来した分が2年の短期消滅時効(労基法115条)によって消滅したことは前記説示のとおりである。

エ 既払額

既払額は,原判決書別表3の「既払額」欄に記載のとおりである。

なお,同表の「既払額」欄に「¥0」と記載されている月の支払は,その全額が時効消滅した賃金基本月額に対する弁済と認められることから,時間外賃金の既払額には含めない。

また,平成19年12月25日支払の変動支払金と通勤手当は,本件労働契約締結時には合意されていない名目での賃金の支払であるが,賃金基本月額以外の賃金の支払であることには変わりがないので,時間外賃金の既払額に含めた。平成21年1月25日,同年2月25日及び同年3月25日に支払われた変動支払金も,労働条件確認書(証拠<省略>)で合意されていない賃金の支払であることから,時間外賃金の既払額に含めた。

このほかに,同年4月25日支払われた73万4197円は,有給休暇の買取という趣旨で支払われた賃金であるところ,有給休暇に対して支払われるべき賃金は,平均賃金又は所定労働時間労働した場合に支払われる賃金であることからすれば(労基法39条6項),これを時間外賃金の支払として考慮するのは相当でないので,時間外賃金の既払額には含めない。

オ 以上によると,退職後である平成21年4月25日時点における被控訴人の未払賃金は,原判決書別表3の「未払額(累計)」欄に記載のとおり合計634万1208円となる。

(2)  附帯請求について

賃金の支払の確保等に関する法律6条1項所定の年14.6パーセントの遅延利息は,平成21年4月11日(退職の翌日)から同年4月25日(退職後に到来する賃金支払日)までは621万1035円を元本として発生し(同年4月25日時点の確定額は3万7266円となる。),同年4月26日以降は634万1208円を元本として発生する。

そうすると,前記未払賃金634万1208円に対する年14.6パーセントの割合による遅延利息は平成21年4月26日から支払済みまで発生するのに対し,上記同月25日時点の遅延利息3万7266円については,既に確定額として発生しているので,同額の支払を命ずることとする。

(3)  付加金請求(労基法114条)について

被控訴人が付加金の支払を命ずるよう裁判所に求めたのは,平成22年5月21日付け訴状に代わる準備書面によってであるから,平成20年6月25日支払分以降の時間外賃金の未払額が付加金の対象となる。

そうすると,本件で付加金の対象となる時間外賃金の未払額は61万5244円(原判決書別表3における平成20年5月11日から平成21年4月10日までの間の時間外賃金合計65万3529円から既払額合計3万8285円を控除した額)であるところ,控訴人に対しては,これと同額の付加金の支払を命ずるのが相当である。

8  よって,本件控訴及び本件附帯控訴はいずれも理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 山﨑勉 裁判官 馬場純夫 裁判官 湯川克彦)

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