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札幌高等裁判所 昭和38年(う)252号 判決 1963年12月17日

主文

本件各控訴棄却する。

理由

検察官の控訴の趣意は、札幌地方検察官木村喜和作成名義の控訴趣意書に記載されているとおりであり、これに対する答弁及び弁護人の控訴趣意は、弁護人山根喬提出の答弁書及び控訴趣意書に各記載されているとおりであるから、いずれもここに引用する。

検察官の控訴趣意第一点について。

所論は要するに、被告人は確定的殺意をもつて尊属たる被害者ハルの頸部に前掛の紐を二重に巻きつけ、これを絞殺したものとする本件公訴事実につき、原判決が(1)被告人は前掛の紐を被害者の頸部及び下顎部にかけて巻きつけたとのみ判示し、これを二重に巻きつけた事実を認定せず、又(2)単に未必的殺意に基づく尊属殺の事実を認定したのは重大な事実誤認をおかしたものである旨主張するものである。

(1)そこで案ずるに、医師斎藤銀次郎作成の鑑定書及び同人の原審証言によれば、被害者ハルの死体頸部には、項部(後頭部下)及び右側頸部後半部をほぼ水平に走り、ついで左右下顎部を内僅かに上方に向つて走り、下口唇部上端部に至る頸部及び頤部を一周する絞痕一本((い)絞痕)と、右の絞痕の右側頸部後半部に位する部分から右側頸部前半部及び前頸部をほぼ水平に走り、左側頸部前半部において消失する絞痕一本((ろ)絞痕)とが存したことが認められる。そして、同証人は、この案件では被害者の下顎部にかかつた索条が前頸部にずり落ちて(ろ)絞痕となつた可能性も考えられる一方、索条がかかつていても絞痕は一部にしか見られないこともあるので、右の絞痕自体からは、被害者に対し索条が二重にまきつけられていたか、それとも一重であつたかは断定しがたいと証言している。しかしながら、司法警察員工藤勇茂作成の実況見分調書によれば、被害者ハルの頸部には前掛の紐が同調書添付図面(記録五三丁)のような形状で二周して巻きつけられていたことの明らかな記載がある。右実況見分調書が事件後最も早い時期に見分したところに基づいて作成されたものであることは記録上明らかであり、その現場保存が不確実であつたとか、その記載が不正確にされたとの事跡は何らうかがわれないし、しかも右図によれば絞痕のとぎれた部分は前掛の布の部分に当つており、そのため絞痕を残さなかつたのではないかと考える余地がある。したがつて、被告人は被害者ハルの頸部に前掛の紐を二重に巻きつけたとの事実を肯認することができると思料され、したがつて原判決が起訴状に明示された右事実を認めなかつたのは、犯行の方法の認定において誤認したものといわざるをえない。ただし、この誤認は未だ独立の破棄事由とはなしがたい。けだし、紐を二重に巻きつけたことがそれ自体として顕著な量刑上の差異をもたらす性質のものとも思われず、結局所論も前提としているように本件における被告人の殺意の有無又は程度上の問題(次段に考慮する。)として理解すべきものと考えられるからである。

(2)つぎに、被告人が被害者ハルを絞殺するに至つた状況は、原判決認定のとおり「平素から心の奥深く隠忍を重ねていたハルに対する怒気が一時に爆発し、激情のおもむくまま興奮のあまり、咄嗟にハルの枕元にあつた婦人用紺色前掛を手に取り、その紐を横になつて寝ているハルの背後から、同女の頸部および下顎部にかけて巻きつけ、これを締めつけ、よつて同女をその場で窒息死させた」ものと認められる(ただし、右紐を二重に巻きつけたと認めるべきこと前叙のとおり。)。したがつて、本件はいわゆる激情的犯行に属するというべきであるところ、一般にこの種犯行にあつては犯行時における行為者の意思(傷害の意図であつたか、殺意を有したか又はその程度)の認定に困難を伴い、結局当該行為の外形から推認して決するほかはない場合が多い。「カーツとなつて前掛を姑の首に巻きつけたが、あとは夢中で判らない」(自首調書)という程度にしか被告人の供述を得られていない本件もその例に洩れず、事実被告人の側からはその殺意の存在が争われているのである。ただ、本件にあつては、前掛の紐を前掲記のような形状で被害者の頸部に巻きつけてこれを絞めつけたものである以上、この所為は当然絞殺を予期せしめる行為であり、しかも窒息死の場合の仮死状態に至るまでは、被害者が老齢であつたことを考慮にいれても、少なくとも三、四分を下らず、その間において被害者としては痙攣その他苦悶の一般的症状を呈しなかつたことはないと思われる。したがつて、それにもかかわらず敢えて被害者を絞めつづけた(被告人の供述によれば、被害者がグツタリして動かなくなつてから紐より手を離している。)被告人の心理的態度は、これをもつて殺意があつたものと推認するのにかたくない。しかも、その殺意は、犯行の態様に照らせば、他のたとえば暴行等の意図に随伴しただけの不確実なものであつたと考える余地を殆んど与えないものであるといえなくはないので、強いて分別すれば、未必的故意をこえてむしろ確定的故意に至つていたものとみるべきかと思料される。ところで、いうまでもなく、いわゆる確定的故意と未必的故意とはいずれも同一段階の故意責任を基礎づけるものではあるが、前者は結果の発生を確定的に認識する場合であるのに対し、後者は結果の発生を単に可能なものとして認識するにとどまる場合であつて、これは故意の最下限を画するものであるから、両者はその責任の程度において全く同じであるとはいいがたく、したがつて量刑の実際においておのずから若干の差等が認められるのを通例としよう。しかしながら、本件の如き激情的犯行にあつて犯人に未必的故意ありとするか(この例が多い。)、確定的故意ありとするかについては、その認定面においてかなり微妙なものの存することを考えなければならない。にもかかわらず、同一段階の責任形式を構成する両者について、その概念上の差異を重視してつねに訴訟上の争点となしうべきものとすることは必ずしも適策とは思われない。すなわち、確定的故意を未必的故意と認定した場合、厳密な意味において誤認に当るとしても、本件の如き事案にあつては判決に影響を及ぼすことの明らかな誤認には属しないというべきである。この意味において検察官の事実誤認の論旨は容れることができない。

弁護人の控訴趣意について。

その第一点(事実誤認)については、検察官の控訴趣意第一点に対する判断としてすでに示したとおり被告人に殺意を認めることができるので所論を容れるに由なく、又その第二点ないし第四点については、原判決が「弁護人の主張に対する判断」の一ないし三項において説示したところはこれを最認できるので所論は採用しがたい。

検察官の控訴趣意第二点について。

所論は、原判決が被告人に対し尊属殺の法定刑(無期懲役刑選択)を自首減軽したうえ、さらに酌量減軽をなし、ほとんど最下限に近い懲役四年に処する旨の言渡をしたのは、本件の犯情に照らし著しく軽きに失し不当であると主張するものである。しかし、原判決が「刑の量定の事情」として示した見解は大綱において首肯するに足るものである。もとより、本件は絞殺という無惨な方法で夫の母親(姑)の生命を一瞬にして奪つた重大な犯行である。被告人の激昂をかうような被害者の誘発的言動があつたとはいえ、そのことから直ちに全くの抑制を失い、生命の尊貴さを否定する本件行動を敢えてした被告人の性情は、何としてもきびしい非難を免れないといわなければならない。しかしさればといつて、ここに至つた直接の事情に関し被告人に特に酌量すべき点が認められないという所論はいささか酷に失する。又、「誠に申し訳けないと思つています。写真とお位牌をいただいてお参りしています。」(当審公判廷)、「不具な弟にも父にも今まで以上のことをしたいと思います。」(原審公判廷)と申し述べている被告人を改悛の情がないとみるのも非情にすぎよう。かかる被告人に対し原判決の科した四年の刑期は、その反省を求めるについて決して短いものとはいいがたい。なお付言するに、被告人はみずからの無思慮のゆえに一家の平隠を破壊したのであるが、それゆえその再建はまた被告人に負わされた義務であるべく、事実被告人の手なくしてはその再建はほとんど不可能とさえ思われる。さればこそ、被害者を失つて最も悲痛な立場にある舅金作、夫一郎らもまた被告人が国家的制裁を受け終つて帰宅する日を鶴首して待つというのである(右同人の原審証言、室本幸子の当審証言)。二人の幼児の母親への思慕についてはあらためて言及するまでもあるまい。このようにして、不幸にも被害者と犯人とを同時に出した室本一家の事件後における家庭内の事情をも含め、その他諸般の事情を総合すると、検察官の所論にもかかわらず原判決の量刑が被告人の刑責にふさわしくないものとしてこれをあらためることには多くの躊躇をおぼえざるをえない。論旨は採用できない。

よつて、本件各控訴はいずれも理由がないから、刑事訴訟法第三九六条によりこれを棄却すべきものとし、主文のとおり判決する。

検察官稲垣久一郎出席

(裁判長裁判官矢部孝 裁判官萩原太郎 中利太郎)

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