札幌高等裁判所 昭和41年(ツ)12号 判決 1967年5月09日
上告人
厚海熊太郎
右訴訟代理人
高橋岩男
被上告人
土田酒造合資会社
右代表者
土田栄太郎
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人高橋岩男の上告理由第一点について。
所論の点に関し原判決の確定した事実によると、被上告人は滝上町に広大な土地を所有し、上告人を含む百数十名の者にこれを賃貸しており、終戦後何回かに亘つて賃借人全員につき賃料の一斉値上改訂を行い、昭和三三年六月にもこれを行つたが、次で昭和三六年二月初頃にも一斉値上を考え全賃借人に対しその申入をした。これに対し異議なく値上を承諾した賃借人も相当あつたが、上告人を含む相当多数の賃借人は値上を不当とし承諾できない旨の返答をしたので、被上告人会社の代表者土田栄太郎は値上を承諾しなかつた賃借人らに個別に面接折衝し、「君の賃料だけを値上するのではない賃借人全員に値上して貰うのである若しほかの人の賃料が値上にならなかつたら、君のもそうするから」といつて値上の承諾を求めたところ、同人の右言明を信じて値上を承諾したものが相当現れ、上告人も右と同趣旨のことや「すでに大部分の人が値上を承諾している」といわれたので遂に値上を承諾し、前記代表者の持参した借地証書に署名捺印し本件賃料値上の合意が成立した。というのであるから、右事実に基いて、本件賃料値上の合意は、上告人の主張のように貸借人全員が一人残らず値上を承諾することを効力発生の条件として成立したものではなく、かえつて、本件値上の成立した前後ないし周囲の事情からすれば、右合意はその効力が即時に生ずることを当然の前提として若し貸借人の中にどうしても賃料値上の実現できない者が一人でもいることが後日判明したときは、上告人の賃料も値上しなかつたことにするという条件でなされたものと認めるのが相当であるとした原審の判断は、是認し得られないものではない。しかして、解除条件付法律行為において当事者が条件成就の効果をその成就以前に遡らしめる意思を表示したときは、その意思に従うべきものであつて右原判決の趣旨をこれと同一に解することができるし、前記条件が成就すれば本件賃料値上の合意は遡つて効力を失うことになるのであるから、右条件の成就を一定の期限にかからしめなくとも必しも上告人に対し不公平となるものではない。そうすると、本件賃料の値上の合意は即時に効力を生じ上告人は右合意に基く賃料を支払うべき義務を負うことは当然であり、前記解除条件が成就したことについては上告人のなにも主張立証しないところであるから、上告人の右合意に基く賃料の延滞を理由としてなした被上告人の契約解除の意思表示により、本件賃貸借は適法に解除されたと判断した原判決は正当といわなければならない。所論は、本件値上の合意が停止条件附でなされたとの独自の見解に立つて原判決を論難するに帰し、原判決には所論のような法律の解釈適用を誤つた違法はないから論旨は理由がない。
同第二点について。
原審が「被上告会社代表者土田栄太郎が上告人に対し賃料値上の交渉を行つた際既に大部分の賃借人が値上を承諾していると述べたこと」及び「右合意のなされた当時百十数名の賃借人のうち六割ないし七割位の員数の者が既に値上を承諾していた」との事実を認定していることは所論のとおりである。しかし、所論のように、大部分の者が承諾していたというがためには、九割以上の者が承諾していた場合でなければならないとする経験則が存在するものとは未だ認められないから、被上告人会社代表者が「既に大部分の賃借人が云々」と言つたとしても、それが多少の誇張であつたにせよ、必ずしも虚偽の事実を申向けたいということはできないとした原審の判断は正当といわなければならない。そればかりでなく、証拠上、被上告人会社の代表者に上告人を欺罔して錯誤に陥らしめ賃料値上の承諾をさせようとの故意があつたものとは認められないとの原審の認定も、これを是認することができる。所論の論述するところは独自の見解に過ぎず、上記原判決の認定及び判断には所論のような法律の解釈適用を誤つた違法はないから論旨前段は理由がない。
次に原判決が「かりに上告人の主張が認められるとしても(上告人が本訴で取消の意思表示をしたのは昭和四〇年一〇月四日午前一〇時の口頭弁論期日においてであつて、このことは記録上明かである)そのことにより前段説示の如き経過で本訴提起前既になされていた本件賃貸借契約解除の効力は毫も左右されるものではない」との判示をなしていることは所論のとおりである。右原判決の前示は簡単に過ぎその意を捉え難いところであるが、原判決及びその引用する第一審判決の事実摘示によれば、上告人は、本件賃料値上の合意は被上告人会社の代表者の詐欺に因る意思表示に基いてなされたもので、上告人は本訴において取消の意思表示をしたから、被上告人のなした右合意に基く賃料の催告及び契約解除はその効力がないとの主張をなしたものであることが明らかである。そうだとすれば、右上告人の詐欺に因る意思表示の取消の主張が認められるならば本件賃料の値上の合意は初めから無効となるのであるから、右合意による賃料額についてなされた被上告人の催告並びに契約解除もまた無効となる筋合である。それなのに、右上告人の主張が認められるとしても、既に本訴提起前になされた本件賃貸借契約解除の効力は毫も左右されないとした上記原判決の判示部分は、詐欺に因る取消の効果に関する法律の解釈を誤つたものといわなければならない。しかしながら、前段判示のように、原判決は、被上告人会社の代表者が上告人を詐罔して本件賃料値上を承諾させた事実は認められないとして、この点に関する上告人の主張を適法に排斥しているのであるから、上記原判決の判示部分は全く無用の説示を加えたに止まるものと解するのほかはない。従つて右違法は何ら原判決に影響を及ぼすものではなく原判決を破毀する事由にはならないから、結局論旨後段も理由がないことに帰する。
同第三点について
土地の賃貸借契約が適法に解除されたにかかわらず、いぜん右土地の占有を継続している賃借人が、その後相当期間に亘り賃料債務の弁済として従前の賃料額を供託局に供託し、賃貸人が右供託金を受領の都度賃借人に対し賃料相当額の損害金として受領する旨を通告した場合には、これによつて損害金につき弁済の効果が生ずるかどうかは別として右供託金の受領によつてさきになした契約解除の意思表示を撤回し賃貸借契約を存続せしめる意思を表示したものと認めることはできない。
原判決が、上告人は本件土地の賃料をいずれも従前の賃料額である月額一、七六五円の割合で、昭和三六年一一月二四日に同年二月分から同年一〇月までの分を、さらにその後も今日に至るまで前後何回かに亘り同年一一月分から昭和四〇年九月分までの分をそれぞれ旭川地方法務局紋別出張所に弁済供託し、被上告人が右供託金を受領しているとの事実を認定していることは所論のとおりである。しかし、原判決は、本件賃貸借契約における賃料額が昭和三六年二月一日以降月額四、九八〇円に適法に改訂され、右賃貸借契約が上告人の賃料延滞を理由に同年一〇月三〇日に解除されたこと及び被上告人は前記昭和三六年一一月分以降の供託金については、その受領の都度直ちに上告人に対し右供託金を上告人の本件土地不法占有による賃料相当の損害金の一部として受領した旨の通知をしたとの事実をも適法に確定しているのであるから、被上告人が前記弁済供託金を受領した事実をもつて本件賃貸借契約の存続を認めたものとみることはできないとした原審の判断は正当といわなければならない。原判決には所論のような違法はなく論旨は理由がない。
よつて本件上告は理由がないから、民事訴訟法第四〇一条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。(加納駿平 杉山孝 島田礼介)