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札幌高等裁判所 昭和53年(ネ)401号 判決 1981年7月16日

控訴人(債権者) 河野本道

被控訴人(債務者) 学校法人旭川大学

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

一  控訴人は、「原判決を取消す。控訴人が被控訴人の教員たる地位を有することを仮りに定める。被控訴人は控訴人に対し、昭和五三年四月以降本案判決確定に至るまで、毎月二一日限り金一一万円を仮りに支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」旨の判決を求め、被控訴人は、主文と同旨の判決を求めた。

二  当事者双方の事実上の主張及び証拠関係は、次に付加するほか原判決事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。

理由

一  当裁判所も、当審における新たな証拠調の結果を斟酌しても、控訴人の本件仮処分申請は失当として却下すべきものと判断するものであつて、その理由は次に付加するほか原判決理由と同一であるから、ここにこれを引用する。

1  原判決二一枚目表八行目の後に行をかえて、次を加える。

「(5) 昭和五二年四月、学生の「教養ゼミナールII」の選択希望が取られた際、控訴人のゼミナールを第一希望とした学生が定員二〇名に対し七〇数名に達し、専任講師を含めた講師のゼミナール希望中群を抜いて多く、第三希望まで含めると、約三分の二の学生が控訴人のゼミナールを希望していた。」

2  原判決二一枚目裏五、六行目の「(後記信用しない部分を除く。)」の後に次を加える。

「、成立に争いのない疎甲第三、第四、第七、第九号証、第一一ないし第一四号証、第一六ないし第一八号証、第三七号証、疎乙第六号証の一、二、第二六号証の一ないし三、第五一号証、第五六、第五八号証、原本の存在及び成立に争いのない疎乙第五四号証、原審証人山本克郎の証言により真正に成立したものと一応認められる疎乙第五号証の一、二、当審証人宇佐見良雄の証言により真正に成立したものと一応認められる疎乙第五七号証、当審証人山本克郎、同安田展敏(但し、いずれも後記認定に反する部分を除く)、同宇佐見良雄の各証言、当審における控訴人本人尋問の結果(第一、二回)(但し、いずれも後記認定に反する部分を除く。)」

3  原判決二二枚目表六行目の「なお、」から同一一行目の「とつた」までを削除し、次を加える。

「被控訴人は、昭和四九年四月から、旭川大学経済学部に貿易学科を新設したが、その際従来の専任教員のほか新たに委嘱専任教員制度を設けた。すなわち、被控訴人は、昭和四三年の旭川大学開学当初から多額の累積赤字を抱えて財政状態が極めて悪く、加えて理事長、学長の相次ぐ辞任等によつて経営管理体制が一時混乱した状態にあつたことから、特に昭和四六年頃以降において重大な経営危機に陥つた。被控訴人は、この難局を打開すべくかねてより対策を検討していたが、ようやく昭和四七年に旭川大学再建実施計画を最終的に決定し、それ以後徐々に経営管理体制を確立し、大学における教学内容の整備充実を図つて行つた。そして、大学再建のために最も緊急かつ重要な財政事情を改善する方策として学生数を増加することとし、昭和四九年度から貿易学科を新設することとした。しかし、右学科の新設に伴ない、大学設置基準を充足するために必要な教員を専任教員のみで構成することは、右のような財政事情及び人的資源から実現が困難であつたことから委嘱専任制度を設け、学問的に優れた他大学教員を主として名義借り的に委嘱専任教員として招聘し、もし可能なら集中講義方式によつて講義を担当してもらい、日本最北端にある大学の特殊性について理解を得る一助とすることとした」

4  原判決二二枚目裏五行目の後に行をかえて、次を加える。

「控訴人は、昭和三九年三月北海道大学文学部哲学科卒業後、東京大学教養学部研究生を経て、昭和四〇年四月同大学大学院社会学科研究科文化人類学課程修士課程に入学し、昭和四五年三月同博士課程を終了したものであり、以後現在に至るまでの間駒沢大学北海道教養部、北海道教育大学岩見沢分校、北海道大学教養部その他の大学等において、人類学、生物学、考古学等の非常勤講師を勤め、旭川郷土博物館の嘱託にもなつている。控訴人は、ゼネラルアンソロボロジーを専門領域としており、編著書として「北方の民具(1)(2)」、「北海道前近代の文化史(1)(2)」等があり、人類学、民族学、考古学等に関する多くの論文を発表している。控訴人は、昭和四九年度から旭川大学に一般教育科目として文化人類学が開講されたことに伴ない、同大学専任教員の推薦を受けて同年四月一日任用期間一年間の非常勤講師として採用され、翌昭和五〇年四月一日さらに一年間更新された。」

5  原判決二三枚目表四行目の「なお、」から同一〇行目の「である」までを削除し、次を加える。

「その結果、旭川大学経済学部教員は、その責務、勤務条件の内容に応じて専任教員、嘱託専任教員、委嘱専任教員の三つに区分されることとなつた。専任教員は、任用期間について期間の定めがなく、教授会を構成し、人事検討委員会、教務委員会等の各種委員会に所属し、被控訴人の大学運営に参画し、原則として、一週六講義以上の授業を担当するほか、他大学に出講する場合には大学当局の承認を要することとされている。これに対し、嘱託専任教員は、嘱託期間は原則として二年間で必要に応じて更新することとされ、教授会、委員会の構成員とはならず、授業担当のみが責任であり、他大学への出講について大学当局の承認を得ることを要しないものとされている」

6  原判決二三枚目裏四行目の「において、」から同二四枚目表六行目の「得た」までを削除し、次を加える。

「経済学部における日本経済史は、専門教育科目の一つとして最も重要かつ基礎的な授業科目であり(なお、経済学関係学部設置基準要項によれば、大学設置基準一九条及び二三条により専門教育科目を置く場合の授業科目の例示として、日本経済史が主要科目中の必置科目として掲げられている。)、学部開設後間もなく開講され昭和四八年度まで高橋芳郎専任教授が集中講義方式によつて講義を行なつていたが、昭和四九年度から同教授が委嘱専任教授になり事実上講義が出来なくなつたため、急遽地元の他の学校で専任教員を勤めていた原田一典に非常勤講師を依頼し、同年度と翌昭和五〇年度の二年間講義を担当してもらつた。

ところが、昭和五一年二月頃、原田一典講師が多忙を理由として同年度以降の講義担当を辞退したため、被控訴人は、北海道大学その他を通じて後任者の人選を急いだが、時間的に切迫していたことから適任者が得られなかつた。そこで、経済学部長山本克郎は、同年三月中旬頃、同月末日をもつて非常勤講師として一年間の期間が終了することになつていた控訴人に対し、右経緯を説明して従来担当していた人類学、教養ゼミナールに加え、新たに日本経済史の担当を要請し、その際任用期間については、日本経済史が控訴人の専門領域外であり相当の準備期間を要することを配慮して二年間とし、地位は非常勤講師よりも待遇の良い嘱託専任講師としたい旨伝えた。これに対し、控訴人は、日本経済史、とりわけ近代、現代経済史に関しては全くの専門領域外に属し、それまで講義経験もなかつたものの、昭和五一年度専任教員の公募で不採用になつたこともあり最終的に右申入れを承諾した。同月二六日に開かれた旭川大学教授会において、人事検討委員会の議を経た右同趣旨の提案がなされ、審議の結果当面の暫定的措置として止むを得ないものとして承認された。

控訴人は、昭和五一年度及び昭和五二年度の二年間嘱託専任教員として勤務し、大体において毎週火曜日の午後と翌水曜日の午前講義を担当し、年間出勤日数は各五〇日であつた。被控訴人大学において、右各年度における専任教員の出勤日数は、東京都内に居住し毎月集中講義を行なつていた会計学専任教授松本儀四郎及び病気療養中の専任教員を除いて、毎週四日以上、年間一九〇日ないし二一〇日位であつた」

7  原判決二四枚目裏六行目の後に行をかえて、次を加える。

「これに対し、控訴人は、日本経済史を前半と後半に二分し、前半を控訴人が、後半を新任教員が担当すること、あるいは北海道経済史を開講して担当させて欲しい旨要望したが、経済学部長山本克郎は、諸般の事情からいずれも実現不可能である旨答えた。その後、昭和五三年三月初旬までの間、控訴人から被控訴人に対して、二年間の任用期間の更新について特段の申入れはなかつた。昭和五三年度から日本経済史を担当した山村睦夫専任講師は、特に明治維新以降における近代、現代史を中心に講義する方針を採つた。」

8  原判決二四枚目裏七行目の「昭和五二年度」から同二五枚目表六行目の「決定した」までを削除し、次を加える。

「旭川大学教授会は、昭和五二年度の学則改正により、従来の方式を改め、履修すべき授業科目区分として一般教育科目、外国語科目、保健体育科目、専門教育科目の四つを掲げ、右各科目別に別表として基本的科目と思料される分野について具体的な授業科目名及び単位数を表示することとし、授業科目区分中必ずしも経済学部としての基本的、恒常的科目とは考えられないものについては、『特論』として、例えば一般教育科目区分は、人文科学特論、社会科学特論、自然科学特論として科目名を表示するにとどめ、特論中にいかなる授業科目を設けるかは、大学における教学の目的を最も効果的に達成するためそれぞれの時代的要請及び学問的発展、推移等を総合的に考慮して弾力的に対応することにした。この結果、従来学則上人類学は履修すべき一般教育科目中に科目名として表示されていたものが、以後自然科学特論中の講座として開講し、学則上に科目名が表示されないことになつた。なお、日本経済史は、専門教育科目区分中の授業科目として明示された。

旭川大学教授会は、昭和五三年三月二日、昭和五三年度における開講科目について審議したが、新年度における学生数の増加に伴ない専門ゼミナールが一九から三〇に増加すること、必須科目である体育実技の編成上教室の使用について制約が生じること、三、四年生の合併授業を出来る限り少なくするため講義数を増やす必要があることの諸事情を考慮して、一般教育科目中若干の科目について削減せざるを得ないとの判断に達し、人類学も削減の対象とすることを決定した。右教授会の席上、すでに昭和五三年度以降の日本経済史の専任講師が決まり、また人類学も右の経緯から開講しないことになつたことに関連し、控訴人の昭和五三年度以降における地位について人事検討委員会から控訴人との雇用契約は更新しないとの提案がなされ、種々論議が交された。数名の教授会講成員からは、更新拒絶に対して疑義や反対意見が述べられたが、結局多数決により控訴人との契約は更新しないこととするが、この点につき被控訴人において控訴人と十分話合いをしたうえで納得を得るよう努力することとの意見を付して、右提案を承認した。

旭川大学学長広沢吉平は、同月二日付書面で控訴人に対し、同月末日をもつて控訴人の任用期間が満了するところ、教授会において契約を更新しないことを決定した旨を通知した。これに対し、控訴人は、同学長に対し、同月八日付書面で右通知の不当性を訴えて徹回を求めた。そこで、経済学部長山本克郎は、控訴人と連絡を取つて円満に事態を解決しようとしたが、控訴人に拒絶されて話合いの機会を得られなかつた。その間控訴人は、教授会、理事会等に対して書面で重ねて右の不当性を訴え、通知の徹回、謝罪並びに地位についての善処を要求したが、被控訴人側から格別の応答がないまま時日が経過し、結局本訴の提起に至つたものである」

9  原判決二五枚目裏七行目の「証人山内亮史」から同八行目の「尋問の結果中」までを削除し、次を加える。

「原審証人山内亮史、当審証人安田展敏の各証言、原審・当審(第一、二回)における控訴人本人尋問の結果及び疎甲第四五号証の一ないし四、第四八号証、第五八号証の一、二、第六〇ないし第六二号証、第六五ないし第六七号証の各記載のうち」

10  原判決二六枚目裏一行目の「更に、」から同二、三行目の「解せられるところ」までを削除し、次を加える。

「大学が各年度に開講すべき授業科目をいかに選択し編成するかは、大学設置基準の枠内において、各大学における教学の基本方針に従い、財政事情、学生数及び教員の人数、物的施設の規模等諸般の事情を考慮して、大学がその数量により独自の判断の下に決定すべき大学の根幹に関わる事項であつて、最終的には教授会の議を経て決定されるところのものであり」

11  原判決二七枚目裏六行目の「からといつて」の後に行をかえて次を加える。

「(被控訴人の就業規則七七条、第七八条の規定が嘱託の教員である控訴人に適用のないことは同規則第三条の規定によつて明らかである。)」

二  以上のとおりであり、控訴人の本件仮処分申請を却下した原判決は相当であつて本件控訴は理由がないから、民事訴訟法三八四条一項によりこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき同法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 安達昌彦 渋川満 大藤敏)

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