札幌高等裁判所 昭和60年(う)57号 判決
1 本件(昭和58年7月19日)当時,被告人は,札幌刑務所において服役し,洗濯工場で刑務所職員の着衣を洗濯する洋洗係,他方,被害者も,同刑務所において服役し,洗濯工場で収容者の着衣を洗濯する和洗係として労務に従事していたこと,
2 被告人は,前同日午後3時30分ころ,同工場内の乾燥機の前に置いていた洗濯物を収納するコンテナと称するプラスチツク製衣類入れ(以下「コンテナ」という。)を台車に乗せ,それを押して工場出入口付近まで持って行ったこと,ところが,そのコンテナは仕上った作業衣を入れるべく被害者が乾いた雑布で中をふいて用意して置いていたものであったため,同人は立腹し,「なんで俺の用意したものを持って行くんだ。」と語気鋭く問い質したところ,その事情を知らなかった被告人が「はあ」とあいまいな返事をしてそのまま自己の受持ちの作業台に行ってしまったため,いったん被害者も自己の持ち場に戻ったこと,
3 しかし,被害者は,上記の被告人の返事の仕方や態度に納得がいかず,腹立たしさがおさまらなかつたため,被告人が洗濯工場の西側窓際にある作業台に着席して記帳しているところに近づき,被告人に対し「なんで俺が用意したものを持って行ったんだ。」などと難詰したところ,被告人が「事務所には必ず2つのコンテナをやらねばならない。これは洋洗で使っているものだ。お前らに貸すものではない。」と言い返して口論となったこと,被害者は,近くに受刑者仲間や担当刑務官がいたこともあって,人目の届かない乾燥室で決着をつけようと考え,被告人に対し「乾燥室に行って話をつけよう。」と申し向けながら,行くのを促すように手拳で被告人の右肋骨付近を小突いたところ,被告人は,いきなり右手拳で被害者の顔面を強打するとともに,同人の手首を押えつけたが,すぐにこれを振りほどかれ,同人から顔面を殴打されて仰向けに倒れ,続いて,同人は倒れた被告人を殴ろうとしてその上に覆いかぶさるようになったが,付近に居た刑務所職員や受刑者らに制止されておさまったこと,
4 被告人は,被害者の暴行によって全治約1週間の顔面打撲,右肋骨打撲の傷害を負ったが,事件直後診察した医師の当審証言によると,顔面打撲の点については歯の一部欠損が認められたけれども,右肋骨打撲の点については,問診の際,被告人が該部分付近の痛みを訴えたので診察したが,外見上発赤,青あざ,腫れなどの所見がない程度のものであり,かつ,被告人が医師に説明したところによると,その成因は相手から蹴られたのではないかと思うというので,診療録に「右肋骨けられる(?)」と記載したというのであり,これに対し,被害者は,被告人の暴行によって全治約1週間の上下口唇打撲挫創,左上門歯欠損という傷害を負っており,診察した同医師によると,同挫創はいわゆる肉が見える状態にあり,また,歯の欠損は根元から全部脱落した状態にあって,いずれも単なる平手打ち程度の殴打では生じえないものとみられること,
などの事実が明らかである。
原判決は,前記事実関係について「被告人は被害者から『乾燥室へ行って話をつけよう。』と申し向けられた後,突然右肋骨付近を1回強く殴打された」との事実を認定摘示し,被告人も捜査段階及び原,当審各公判を通じ終始これに添う供述をしている。しかし,関係各証拠によると,被害者は,被告人との口論を約7,8メートル離れた担当台にいる刑務官に気付かれたら困ると思い,また,容易にその場で決着のつきそうでもない口論を約10名の受刑者が周囲で作業している,いわば衆人環視の本件現場で続けることは適当でないと考え,決着をつけるために他人の目の届かない乾燥室へ被告人を連行しようとしたものであるから,とくに担当刑務官に気付かれないように配慮しつつ,同人の意図に従わせるための威嚇を加える程度の暴行に及ぶことはあっても,その程度を越える暴行を加える必要は毫もなく,また,そのようなことを行えば当然周囲の者に気付かれ制止されて結局自分の意図の実現が阻止されることは明らかである。以上の点に前記事実を合わせ考えると,右暴行の程度は前記認定のように小突いた程度のものとみるのがもっとも合理的であり,原判決が前叙のように「強く殴打した」と認定したのは相当でない。
そこで,以上の諸事実を前策にして正当防衛の成否について検討すると,(1)本件は,前示のとおり被害者がコンテナを用意していたのを被告人が勝手にこれを持ち出したことに端を発するが,コンテナの使用については数が不足していたため,かねて刑務所側から洋洗係と和洗係とが双方融通し合って使用するよう指示されていたところ,被告人は,洗濯工場のコンテナはもともとすべて洋洗係のために備えつけられていて,余裕があれば和洗係に使用させてやっていたにすぎないと自分なりに考えていたことから,被害者の抗議にあいまいな返事をして,紛争の種をまいているものであって,いったん別れたあと,怒りを抑えかねた同人がふたたび被告人のところへ行って文句をつけ,乾燥室に連れて行こうとして先に前示の暴行を加えたなどの経緯があるにしても,一方的に被害者にのみ非があるとするのは相当でなく,同人をしてそのような気持ちにさせた被告人自身の言動にも原因の一端があることが否定し得ない。加えて,被害者が被告人に対し「乾燥室に行って話をつけよう。」などと述べたのは,担当刑務官が付近に居たことから,口論を現認されたりしたら困ると思ったからであり,このような被害者の言動に照らすと,その場における被害者の被告人に対する暴行行為は,乾燥室に行くように促すための1回限りのものであってさらにその場で継続して暴行を加えようとする意図で行われたものでないことは明らかであり,また,そのことが被告人にとっても容易に推測しえたものであることは,被害者の被告人に対する暴行が「乾燥室に行って話をつけよう。」という言葉と同時に加えられたものであることやその暴行の態様,程度等に徴し優にこれをうかがうことができる。なるほど,被害者は,被告人の殴打にあった後さらに被告人に殴りかかりおおいかぶさるなどの暴行を加えているが,被害者としては,被告人を乾燥室へ連行した上,同所で決着をつけようと考えていたところ,予期に反してその場で被告人に顔面を強打され,歯を欠損すると同時に口腔から出血したことに激高して右のような行為に及んだものであって,被告人の殴打行為がなかったとすれば,被害者もその場で被告人に対し前記のような暴行を継続して加えることがなかったものと認められる。そして,被害者の暴行が刑務所内の洗濯工場の中で,それも作業時間中に,しかも周囲に担当刑務官や受刑者がいるいわば衆人環視の中で行われたものであることを考慮すると,被告人の殴打時に,正当防衛の対象となる急迫な侵害行為があったとすることはできない。(2)のみならず,被告人は,刑務所内であり,しかも作業中というとくに規律と秩序の保持が要求される場において,即時受刑者仲者に助けを求めることや,担当刑務官に訴えることができ,容易に制圧可能な状況下において,しかも,被害者の暴行が前叙のように軽度のものであり,かつ1回限りに止まり,継続して攻撃を加えられるおそれもないことを容易に察知できたのに,直ちに前示のような殴打行為に及んだものであって,前記認定事実及び医師作成の診断書,司法巡査作成の「当所における喧嘩事犯負傷者の負傷状況報告」と題する書面に添付の各写真等によって認められる創傷の部位や程度に照らすと,殴打は相当強度の一撃であったことも明らかであり,これが果して防衛の意思をもってなされた行為といえるかについても多大の疑問があって,防衛意思の存在は認めえないといわざるをえない。
そうだとすると,原判決が,被告人の所為につき,被害者の急迫不正の侵害行為に対し,防衛の意思をもってなされたやむことを得ざるに出でたる行為であって正当防衛であると認定したのは相当でなく,したがって,原判決は事実を誤認し,ひいては刑法36条1項の適用を誤ったものというほかはなく,これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから,原判決は破棄を免れない。