東京地方裁判所 平成元年(ワ)404号 判決 1991年11月26日
原告
株式会社緑風出版
右代表者代表取締役
高須次郎
右訴訟代理人弁護士
角尾隆信
同
山口広
同
海渡雄一
同
福島瑞穂
被告
株式会社中日新聞社
右代表者代表取締役
加藤巳一郎
右訴訟代理人弁護士
淺岡省吾
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、一二〇万円及び平成元年一月二七日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
原告は、被告が原告との間の広告掲載契約に反し、出版物の広告掲載を拒否したとして、被告に対し、損害賠償を請求するものであり、広告掲載契約の有無(当事者及び契約成立時期)が争点の事案である。
一争いのない事実
1 原告は、書籍等の出版及び販売を業とする株式会社であり、被告は、「東京新聞」「中日新聞」などを発行する株式会社である。
2 被告東京本社の広告局出版広告部員西田正直(以下「西田」という。)及び川本康治(以下「川本」という。)は、平成元年一月一〇日原告を訪問し、被告が同月一八日に発行する東京新聞「昭和史特集保存版」に、原告の発行する田中伸尚著「ドキュメント昭和天皇」の広告を掲載するよう出稿を依頼した。
3 西田は、同月一二日午前一〇時ころ原告に電話をして、再度広告の出稿を依頼した。
4 原告は、同日午後六時四二分、次のような広告原稿を手書きで作成して、被告東京本社広告局出版広告部あてにファックスで送信した。
「緑風出版の本/ドキュメント昭和天皇/第一巻―第五巻/田中伸尚著/全六巻予定既刊五巻。今夏完結/泥沼の中国侵略から敗戦に至る激動の時代の昭和天皇を克明に追いながら、その戦争責任を鋭く問う/(以下略)」
川本は、同月一三日午後四時四八分、右原稿を写植打ちしたいわゆる版下原稿を原告にファックスで送信し、原告は、直ちに何箇所かの修正を指示した原稿を同日午後五時二七分被告東京本社広告局出版広告部にファックスで送信した。
5 西田は、同日午後六時三〇分ころ原告に電話をし、「ドキュメント昭和天皇」の広告が掲載できなくなった旨連絡した。
6 同月一八日被告発行の東京新聞朝刊「昭和史」特集保存版には前記「ドキュメント昭和天皇」の広告は掲載されなかった。
二争点
原告は被告との広告掲載契約の成立を主張するのに対し、被告は、原告が契約の相手方としたのは日新広告株式会社(以下「日新広告」という。)であり、原告と被告との間に何ら契約関係は存しないと主張する。
第三争点に対する判断
一証拠によって認定できる事実(以下の認定に採用した証拠は後に別に掲げるものの外、証人西田である。)
1 平成元年一月当時、被告の東京本社広告局は、第一ないし第三部、案内・地方部、出版広告部、スポーツ部、広告管理部、企画開発部及び整理部に分かれており、各部は、整理部が品川分室に置かれている外、日比谷分室に置かれていた。
出版広告部(被告の東京本社広告局の部をいう。以下同じ。)は、出版物及び通信教育の広告を扱っていた。なお、整理部は、広告審査、整理・校閲の外、新聞全体の広告の大まかな割付(レイアウト)を担当していたが、出版広告部も、出版物及び通信教育の広告の分野に限り割付の権限を有していた。
そして出版広告部の構成は、部長の田中盾彦(以下「田中」という。)、次長(いわゆるデスクに相当する。)の山田正一及び田沢兼一(以下「田沢」という。)、川本、西田ら総勢六名であった。
(<証拠>)
2 被告は、昭和天皇死亡前から、昭和天皇死亡の翌日に第一集の天皇追悼特集を、死亡後一〇日以内に第二集の昭和特集を組むことを企画し、第二集については広告も集めるということを予定していた。被告の東京本社広告局企画開発部では、「『昭和史』特集保存版発行のお願い」と題する企画書を作成し、右企画書の中には「東京新聞では新元号実施にあたり、昭和時代の偉大な足跡を顧みて、日本史の中での評価は後世の歴史家に任せるとして、『昭和』は戦前、戦中、戦後、そして民主化、近代化、工業化、経済大国ニッポン、世界のリーダーにまでなった、まさしく激動の時代でした。この姿を『昭和史』特集保存版として発行することになりました。」と記載されていた。
出版広告部は、第二集の広告掲載のために広告局から部に割り付けられたスペースに、昭和史だけでなく、昭和と天皇に関する本の広告を集めることにし、その企画の趣旨は天皇の追悼とすることとした。また、出版広告部は、前記企画書に以下のような依頼文を添付した上で広告会社に配付することにした。
「なお、昭和及び天皇関係について書かれた書籍の連合広告を掲載します。ぜひご出稿のほどお願い申し上げます。
広告料金 一枠三段八分の一で定価三〇万円(中日新聞及び東京新聞併載)
持ち単価のある場合はそれを適用
原稿締切 一月一二日(木)
紙やき又は版下」
(<証拠>)
3 出版広告部では、右企画に合わせて、昭和及び天皇の出版物のリストアップを川本が行ったが、その際、発行日の古いものと本の表題から明らかに天皇制批判になるものは除外した(<証拠>)。
4 本件では、広告の募集開始が平成元年一月九日、原稿の締切が同月一三日で、募集期間が五日間しかないので、被告は、広告会社に全てを任せるのではなく、出版広告部の部員も直接出版社に広告出稿を要請し、常時取引している広告会社を聞き出す等の取材活動を行い、その結果を広告会社に伝えて、出版社と広告会社が契約に至るまでの補助的な役割を果たすことになった。
しかし、その場合でも、出版広告部では、広告会社を介さずに被告と広告主が直接契約するのではなく、必ずその間に広告会社を介在させる扱いになっていた。
5 平成元年一月一〇日の原告に対する川本及び西田の広告出稿依頼については、前示(第二の一2)のとおりであるが、その際、川本は原告代表者に対し、割引について具体的な金額の提示をしなかったものの、「金額の点については相談に乗りますのでご検討をお願いします。最低でも二桁くらいはお願いしたい。」と話した。
6 西田は、同月一二日午前一〇時ころ、原告代表者に電話をして、掲載条件が中日新聞と東京新聞の併載から東京新聞の単独掲載に代わり、広告代金も五万円になった旨述べ、再度広告の出稿の依頼をした。しかしながら、原告代表者は、「うちは自発的に広告を出すことはまずない、稀に出す場合は広告代理店が買切企画で最後の一枠が埋まらない場合に、原稿製作料程度の金額を出して乗せてもらっているくらいだ。」と述べ、広告の出稿を断り続け、西田が最終的に三万円という提示をしたのに対し、原告代表者は一万円なら出してもよいと述べた。
西田は、原稿製作料自体で一万円ないし一万二〇〇〇円程度かかり、一万円の広告料であれば広告掲載料はおろか広告代理店のとる手数料すら出なかったことから、原告代表者の右提案を非現実的な提案と考えたが、最後の一枠が埋まらないという場合に掲載するという程度の条件付のものであれば可能性もあると考え、「分かりました。一万円なら出していただけるのですね。」と確認をとった上で、その場では原告代表者の申し入れを断わらなかった。
そこで、西田は、原稿の締切が翌日であるので、版下原稿は被告が作成するから、広告の原稿を手書きでもよいから至急ファックスで被告に送って欲しいと要請したが、原告代表者は、今日は一日中忙しいので明日まで待ってくれと述べ、西田は翌日の朝まで待つことにした。
7 右同日、同所において、西田は原告代表者に「広告は直接取引はできませんので、扱い広告代理店を指定して下さい。」と依頼し、原告代表者は「うちはコミュニティ・ハウスと日新広告と取引がある。今回はどちらでもよい。」と答えたので、西田が「どちらかを指定して下さい。」と言ったところ、原告は「今回は日新広告にする。」と答えた。
8 原告は、前示(第二の一4)のように、同月一二日午後六時四二分手書きで広告原稿を作成して、出版広告部あてにファックスで送信し、西田は同月一三日午前九時三〇分に出社した際にこの原稿を見て、直ちに版下(写植機で活字を打ってそれを台紙に貼り込んだもので、広告の原稿の体裁になっているもの。)作成のために、日新広告を介することなく、版下作成業者である株式会社精美堂(以下「精美堂」という。)に直接ファックスで送信した(<証拠>)。
9 その後西田は、原告の原稿の広告文面のうち「(昭和天皇の)戦争責任を鋭く問う。」という箇所が企画の趣旨に合わないのではないかという疑念をもち、川本と田沢に相談した。その結果、自分たちでは判断できないという結論に達し、田中出版広告部長の判断を仰ぐことにしたが、田中は外出していたので、夕方に田中が帰社するのを待つことにした。
10 同日午後一時半ころ、精美堂から被告に版下原稿のファックスが戻ってきて、西田はそのうち明らかに誤植の部分を三文字修正したが、右のような問題がもちあがっていたことから、西田は原告に右原稿を直ちにファックスで送信することなく、保留の扱いとし、机の上に置いた。
その後西田が外出した後、川本は前示(第二の一4)のように、午後四時四八分修正した原稿を原告にファックスで送信した。川本は、原告の原稿が問題のあるものであることは知っていたが、広告原稿の定稿はその日の夕方であるので、とりあえず原稿を手配しておくという意味で、原告に原稿を送信したものである。
その後出版広告部では、同日午後五時二七分原告から何箇所かの修正を依頼する原稿がファックスで送信されてきた。西田は、前記のような問題があったので、その結論が出るまで原告代表者に連絡するのは差し控えようと考え、原告代表者に連絡することなく、そのまま原稿を精美堂に送信した。精美堂からは原告が修正した箇所が多過ぎて校正に時間がかかり定稿に間に合わないので、修正箇所を少なくしてほしいと連絡してきた。西田は前同様、原告代表者に連絡することを差し控えていたが、同日午後五時五〇分ころ原告代表者から西田に、修正原稿を見てもらったかどうかという電話がかかってきたので、その際、写植であるから修正に時間を要するということと精美堂から修正箇所を少なくしてほしいという連絡が来ている旨を説明した。そのため、原告代表者は、誤植の訂正と字体をゴシックにすることと「ドキュメント昭和天皇」のタイトルの字体の間延びをつめることとの三点に絞って校正を依頼することとし、西田もこれを承諾し、その旨精美堂に連絡し、原告の原稿を載せるか載せないかの判断は別としてとりあえず原稿を手配した。
(<証拠>)
11 その後同日午後五時五五分ころ、田中出版広告部長が帰社し、田沢は、原告の原稿が企画の趣旨に合わないのではないかという問題について、田中に説明した。田中は、右原稿を見た後、広告の文面中の「(昭和天皇の)戦争責任を鋭く問う。」という箇所が企画の趣旨に合わないので、今回は出稿を遠慮してもらうという判断を下した。この際、新泉社発行の「天皇の戦争責任を追及し、沖縄訪問に反対する東京会議」編「昭和の終焉と天皇制の現在」(広告代理店は同じく日新広告)も、その編集者名に難があり、企画の趣旨に合わないとして、同じく出稿を遠慮してもらうことにした。川本は、ちょうどその場に居合わせた日新広告の社員に、原告と新泉社の原稿を広告掲載から外す旨話した。
その後、川本は、集まっていた原稿のうち、掲載しないことにした右二稿を除いた原稿を品川の整理部に持参した。
(<証拠>)
12 西田は、同日午後六時三〇分ころ、原告代表者に電話をし、「(昭和天皇の)戦争責任を鋭く問う。」という箇所が天皇追悼という企画の趣旨に合わないので掲載できない旨連絡したが、原告代表者はこれを了承せず、反論したため、もの別れに終わった(原告代表者)。
13 被告においては、広告掲載契約を広告依頼主と直接締結すること、あるいは代金の取立のみを広告会社の取扱いとすることはかつて一度もなく、必ず広告会社を介在させる取扱いになっていた。原告との間でも、「ドキュメント昭和天皇」等の原告出版の書籍の広告を、昭和五九年七月二七日から昭和六三年一二月一八日にかけて四回にわたり被告発行の日刊紙(東京新聞、東京中日スポーツ、中日新聞)に掲載したことがあったが、いずれの場合も広告会社を介在させて、原告と被告は直接に契約を結ぶことなく、原告と広告会社、そして広告会社と被告がそれぞれ個別に契約を締結して、広告が掲載された。
なお、広告掲載契約における一般的な慣行としても、広告会社を介在させることなく、新聞社と広告主とが直接契約をする例は希有である。
(<証拠>)
二1一に認定の事実によれば、新聞社の広告掲載については代理店を通すのが一般的な扱いであって、原告が今日まで新聞社と直接に広告掲載契約を結んだと認めるに足りる証拠はなく、また、被告の扱いとしても必ず広告代理店を介在させる取扱いになっていたものであり、本件においても、西田が原告代表者に対し直接取引はできないので代理店を指定してほしい旨明言し、これに対し原告代表者は日新広告を広告代理店に指定していたのであるから、原告においても広告掲載契約は原告と日新広告との間で締結されるものであることを了解していたというべきである。したがって、原告との間では、出版広告部の部員が広告掲載のための準備交渉を行っていたとはいえ、これは、限られた時間内に多数の広告を集める必要があったため、出版広告部の部員が事実上原告と広告会社間の契約の補助的行為を行ったものにすぎないというべく、本件において、原告と被告間で広告掲載契約が締結された事実はないものというほかない。もともと、原告と日新広告間の契約が成立した場合には、日新広告は被告の発行する東京新聞紙上に原告の広告を掲載するよう被告と交渉し、日新広告と被告間で広告掲載契約を締結すべきもので(その意味で日新広告の地位は準問屋と説明しうる。)、原告と被告は直接の契約関係には立つ余地がないというべきである。
原告は、新泉社の広告の出稿については、専ら日新広告が新泉社と交渉に当たり、版下も日新広告が作成したのに対し、本件では出版広告部の部員が原告との交渉に当たったことをもって、広告掲載契約は原告と被告との間で締結されたと主張するが、新泉社の広告について原告主張のような経緯があったとしても、右事実は前示認定を左右するものではない。
2 本件においては、出版広告部の部長が原告の原稿の不掲載を決定し、西田が右決定を原告代表者に通知する以前に、原告と日新広告が直接契約締結のため交渉をしたと認めるに足りる証拠はなく、したがって、原告と日新広告との間で成立すべき契約は、契約締結前にその目的が達成できないことが明らかとなり、結局不成立のまま終わったというべきである。
3 なお、原告は、広告掲載契約については商法五〇九条の適用があるところ、被告は原告の広告掲載の申込に対し、遅滞なく諾否の通知をしなかったから、申込を承諾したものとみなされる旨主張するが、前示のように、被告にとって原告は平常取引をする者とは認められず、原告から広告会社を介在させることなく直接被告に対し広告掲載の申込があったと認めるに足りる証拠はないから、本件では同条の適用の前提を欠いており、原告の右主張は採用することができない。
第四結論
以上によれば、原告の本訴請求は、その余の点につき判断を加えるまでもなく、失当である。
(裁判長裁判官石川善則 裁判官永田誠一 裁判官田代雅彦)