東京地方裁判所 平成元年(行ウ)41号 判決 1991年9月24日
原告 甲野太郎
右訴訟代理人弁護士 渡邊興安
被告 地方公務員災害補償基金東京都支部長 鈴木俊一
右訴訟代理人弁護士 大山英雄
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告が別紙目録記載の災害につき昭和六一年三月三一日付けでした公務外の災害と認定した処分を取り消す。
第二事案の概要
一 争いのない事実
1(原告の受傷及び治療の経過)
(一) 原告は、昭和五三年一二月一三日当時、江戸川区江戸川保健所に総務課主査として勤務していた同区職員であったところ、同日午後七時一五分ころ、勤務を終えて帰宅途中、江戸川区中央一丁目一番地先路上で、福家和運転の大型貨物自動車に衝突、轢過され、全身打撲、右下肢多発外傷の傷害を負った(以下、この事故を「本件事故」という。)。
原告は、直ちに京葉病院整形外科に収容され、即日入院し、翌日三井記念病院整形外科に転院(入院)して本格的な治療を受け、昭和五四年三月五日、同病院を一旦退院し、以後、一、二日おきに同病院に通院して治療及び機能回復訓練を受けた。
原告は、約二年たった昭和五六年一月二三日、同病院に再入院して、前入院時に足の患部に挿入してあったプレートを除去する手術を受け、同年二月一二日、同病院を退院し、以後は、通院しながら治療及び機能回復訓練を受けた。
(二) その後、原告は、昭和五六年一一月一三日、秋枝病院に転院(通院)し、右大腿骨骨折変形治癒、右下肢リンパ浮腫、右股関節及び膝関節屈曲制限、右下肢長短縮、右膝外傷性関節炎と診断され、主として機能回復訓練を行いながら治療を継続したが、右大腿骨骨折変形治癒のため、右下肢の約三・五センチメートル短縮、右股関節、膝部の著しい屈曲制限、同関節機能の著しい障害、右大腿皮神経損傷による知覚異常等の症状を残して、昭和五八年八月三一日、症状固定の診断を受けた。
2(視力障害の発生)
原告は、昭和五六年九月九日以降同愛会病院眼科で受診し、昭和五八年六月二〇日以降は岸田眼科医院で受診して、「高度近視、網脈絡膜萎縮、初発性白内障」との診断を受け、その後、眼前手動弁(矯正不能)の状態となり、昭和六〇年五月二日、昭和大学病院で受診し、「両眼強度近視、網脈絡膜萎縮」との診断を受けた。
3(本件処分)
原告は、本件事故により被った足部骨折等の前記1(二)の傷害について、公務災害の認定申請をし、被告は、原告の申請どおり、これを公務災害と認める認定をした。続いて、原告は、昭和五八年七月二八日、被告に対し、「網脈絡膜萎縮」(以下、「本件疾病」という。)による視力障害も本件事故による公務災害であるとして、その認定申請をしたが、被告は、これを認めず、原告に対し、昭和六一年三月三一日付けで、別紙目録記載の災害は公務外の災害と認定する処分(以下、「本件処分」という。)をし、同年四月一日その旨の通知をした。被告の判断は、原告の視力障害は高度近視の自然的経過によるというものである。
4(審査請求等)
原告は、本件処分を不服として、地方公務員災害補償基金東京都支部審査会に対し、同年五月二三日、審査請求をしたところ、同審査会が、昭和六二年一二月五日付けで右審査請求を棄却したため、さらに、地方公務員災害補償基金審査会に対し、昭和六三年一月一六日、再審査請求をしたが、同審査会は、同年九月二八日付けで右再審査請求を棄却する旨の裁決をした。
二 争点
本件事故と本件疾病の間の相当因果関係が認められるかどうかが争点であり、原告は、本件事故によってプルチェル網膜症が発症した結果として原告の網脈絡膜萎縮が生じたと主張し、被告はこれを否認する。
1 争点に関し、原告は次のように主張する。
プルチェル網膜症は外傷後数日にして発症する例もあるが、数か月以上遅れて発症する例もあると聞く。原告が視力障害を訴えて眼科医の診察を受けたのは、確かに昭和五六年九月九日が初めてであるが、実際に原告が視力に異常を覚えたのは、もっと早い時期のことで、原告は、昭和五六年一月二三日から同年二月一二日までの二度目の入院時に、最初の入院時にはよく見えていた窓の外の同じ対象物がよく見えなくなっていた。原告は、かなり早期から視力の減退を覚えながらも、まさかそれが本件事故と因果関係があるものとは思い至らず、年齢からくるものであろうかと思っていたため、意識して眼科の診察を受けなかったにすぎない。
原告の眼底の状態を昭和六〇年五月二日及び昭和六一年四月一四日の二回にわたって直接診察した昭和大学医学部眼科教室教授深道義尚医師は、種々の検査も経て、それが高度近視によるものでなく、プルチェル網膜症によるものである旨診断しており、被告主張のような一般論をもって、現実に診察した医師の判断をたやすく覆すべきではない。
同医師の診察によると、原告の眼底所見は、網膜剥離を起こしていないのに、網膜及び脈絡膜全体が変性萎縮していた。近視性網脈絡膜萎縮の場合には、眼球の後極部、黄斑部を中心に萎縮が生じることは眼科医の常識である。網脈絡膜全体の変性萎縮の原因は、血管閉塞の結果として網膜の方に血液が流れなくなったためとしか考えられないのであり、このような血管障害は、血液中の脂肪球による栓塞又は骨折等の受傷によって血液の粘性が高まった結果であると考えられるから、原告の視力障害の原因はプルチェル網膜症以外にはあり得ない。
2 争点に関し、被告は次のように主張する。
(一) 原告の視力障害は、以下の点から、プルチェル網膜症ではないと考えられる。
(1) プルチェル網膜症であるかどうかに関して、受傷と発症の時間的関係は重要である。プルチェル網膜症の場合には、外傷から一日ないし数日後に、遅くとも数週間以内に、何らかの視力や視野の異常を自覚するはずであり、しかも、多くの場合、数週間から数か月で眼底の病変は消失し、視力、視野の異常が回復する。
しかるに、原告は、昭和五三年一二月の本件事故後当時には視力、視野の異常を自覚しておらず、原告が視力低下を感じて眼科を受診したのは、昭和五六年九月に至ってである。しかも、本件事故発生前である昭和五一年と本件事故後三年を経過した昭和五六年一二月の原告の視力を対比しても、視力低下の進行は緩徐であって、その進行が急激になったのは昭和五八年からのことである。そして、原告の視力の異常は回復していないのである。
(2) さらに、プルチェル網膜症の発症機序については、脂肪塞栓によるという説のほか、血液粘度の上昇によるという説もあるが、後者は、そもそも決して支配的な説ではない。また、原告の血液の粘性について現実に測定されたことはなく、血液の粘性増加というのは単なる想像にすぎない。
(3) 眼底に塞栓の特徴的所見が残るのはさほど長い期間ではなく、本件事故からかなり時間を経過した後の深道義尚医師の診断は、現実に原告を診察したといっても、あくまで推定にすぎない。
深道義尚医師は、原告がプルチェル網膜症を遅発したものとしているが、同医師は、遅発するプルチェル網膜症の原因が、血液の粘性増加と組織に対する刺激性の増加であるとしながら、血液の粘性増加については一つの意見にすぎないとも言い、なぜ血液の粘性が増加するかは分からないとし、また、外傷から何年も経過してから発症した理由は分からないとも言い、さらには、血液の粘性増加と本件事故とは関係がないとすら述べている。そして、本件事故から時間が経っているので、脂肪塞栓の直接の結果とは考えにくいとしながらも、視力障害の直接の原因が血流がなくなったことであるから、脂肪塞栓辺りが原因でない限り、そういうことは起きないので、プルチェル網膜症と診断したとも述べているのである。
(二) 仮に、原告がプルチェル網膜症であったとしても、それと本件事故との因果関係は明らかでない。
原告の援用する深道義尚医師の意見においてすら、前記のとおり、本件事故後時間がかなり経過していることから、脂肪塞栓が直接の原因とは考えにくいとされ、また、血液の粘性の増加と本件事故とは関係がないとされている。
(三) もともと、原告には最強度というべき近視があった。原告の視力障害は、近視性網脈絡膜萎縮によるものとみられ、それは、本件事故前から発症していたものと考えるのが自然である。
強度近視は、高齢化するほど矯正視力が不良となり、四〇歳台の強度近視者で矯正視力が低下するのは、老人性変化、加齢と関連があるといわれている。原告は、昭和二年一〇月一日生まれであり、本件事故当時五一歳、視力に異常を感じて受診したのが五四歳一一か月である。したがって、本件疾病は、内田幸男医師の述べるように、原告の素因である高度近視の自然的経過によって発症したものと考えられる。
第三争点に関する判断
本件全証拠を精査してみても、本件事故と本件疾病との間に相当因果関係を認めがたく、原告の請求は理由がない。
一 原告が視力低下を訴えて眼科医を受診した経過及びこれに関する診療担当医師らの意見並びに原告の視力の推移は、次のとおりである。
1 原告は、本件事故の前である昭和五一年に、以前に比べて見えにくいと訴えて岸田眼科医院を受診した。当時の原告の視力は、右眼:裸眼〇・〇二、矯正視力〇・四(矯正視力とは、最も適切な眼鏡等を使用して、最良の視力を出した場合の視力である〔甲第二〇号証の三、証人内田幸男の証言〕)、左眼:裸眼〇・〇二、矯正視力〇・二であった(甲第九号証の一、甲第二〇号証の三)。
2 原告は、本件事故後約二年九か月を経た昭和五六年九月九日まで視力の低下を訴えて受診したことがない(当事者間に争いがない事実)。
3 本件事故後約二年九か月から約四年半ころまでの間に原告が受診していた同愛会病院における検査結果及び診断は、次のとおりであった。
(一)(1) 本件事故の約二年九か月後である昭和五六年九月九日当時は、右眼:眼前手動指数二〇センチメートル(眼前手動指数二〇センチメートルというのは、目の前二〇センチメートルまで指を近付けると、それが何本か分かるということを表す。〔証人内田幸男の証言〕)、矯正視力〇・三(マイナス二四・〇ジオプトリーの眼鏡使用による。以下「ジオプトリー」のみで表示する。)、左眼:眼前手動指数二〇センチメートル、矯正視力〇・〇六(マイナス二四・〇ジオプトリー)であった(甲第八号証)。
(2) 本件事故の三年後である昭和五六年一二月当時も右同様で、右眼:眼前手動指数二〇センチメートル、矯正視力〇・三(マイナス二四・〇ジオプトリー)、左眼:眼前手動指数二〇センチメートル、矯正視力〇・〇六(マイナス二四・〇ジオプトリー)であった(甲第二号証、弁論の全趣旨)。
(3) 本件事故の約四年後である昭和五七年一一月二二日当時は、右眼:眼前手動指数二〇センチメートル、矯正視力id(マイナス二四・〇ジオプトリー)、左眼:眼前手動指数二〇センチメートル、矯正視力〇・〇一(マイナス二四・〇ジオプトリー)であった(甲第八号証)。
(4) 本件事故の約四年二か月後である昭和五八年二月一四日当時は、右眼:眼前手動指数二〇センチメートル、矯正視力〇・一(マイナス二四・〇ジオプトリー)、左眼:眼前手動指数二〇センチメートル、矯正視力id(マイナス二四・五ジオプトリー)であった(甲第八号証)。
(二) 以上のように、同病院における経過観察中は、右眼の視力は変わらず、左眼の視力が徐々に低下していった。同病院の佐藤幸裕医師は、これを高度近視・近視性網脈絡膜萎縮・老人性白内障と診断し、その原因について主に白内障の進行によるものと判断した(甲第八号証)。
4 本件事故後約四年半から約五年半ころまでの間に原告が受診していた岸田眼科医院における検査結果及び診断は、次のとおりであった。
(一) 本件事故の約四年半後である昭和五八年六月、原告は、江戸川区内に眼科の診療所を開設している岸田明宣医師の診察を受けるようになった。その初診時の訴えは、「最近になって視力が落ちた、目が霞む。」ということであった(甲第二〇号証の三)。
(1) 昭和五八年六月ころ当時の原告の視力は、右眼:眼前手動指数一〇センチメートル、矯正視力〇・〇二、左眼:眼前手動指数五センチメートル、矯正視力〇・〇一であった(甲第九号証の一、第一八号証の二)。同年七月の診察の際、原告には、高度近視による豹紋状の眼底所見が認められた(甲第一八号証の一、第二〇号証の三)。
(2) 昭和五九年二月六日当時は、右眼:眼前手動指数一〇センチメートル、矯正視力〇・〇二(マイナス二二・〇ジオプトリー)、左眼:眼前手動指数五センチメートル、矯正視力〇・〇二(マイナス二二・〇〇ジオプトリー)であった(甲第一八号証の三)。
(3) 昭和五九年一〇月一三日、視力が低下し、両眼とも「眼前手動弁」(目の前で手が動くのが分かるという程度を表す〔証人内田幸男の証言〕。つまり、物の形はまったく見えない〔甲第二一号証の三〕)の状態になり、同年一二月には両眼とも「眼前手動弁(矯正不能)」という状態になった(甲第一八号証の四、第二〇号証の三)。
(二) 岸田明宣医師は、原告の状態について、高度近視・網脈絡膜萎縮・初発白内障と診断したものの、急激な視力低下の原因が分からなかった。そこで、同医師は、原告に、昭和大学病院の深道義尚医師による診察を勧めて紹介した。
甲第九号証の一(岸田明宣医師の昭和五八年六月二六日付け診断書)には、「本件事故以前の視力は、右眼:裸眼〇・〇二、矯正視力〇・四、左眼:裸眼〇・〇二、矯正視力〇・二であった。昭和五三年一二月外傷(交通事故)以後当院での受診はなかったが、現在の視力低下の原因は、経年的なものよりむしろ交通事故により網脈絡膜萎縮が増悪したものと推定する。」との記載があり、また、同号証の二(同医師の同年九月一七日付けの自動車損害賠償責任保険後遣障害診断書)には、右同様、「視力低下増悪は交通事故の後遣合併症と考えられる。」との記載のほか、「眼底には、網脈絡膜に萎縮像漸次増悪す。」、「今後更に視力低下の恐れあり。」との記載がある。
なお、同医師は、昭和六一年九月二〇日の時点で、原告の眼底につき視束の色調が蒼白で、視神経が萎縮していることを確認したが、その原因は分からなかった(甲第一八号証の七、第二〇号証の三)。
(三) 以上のように、原告の視力が著しく低下していったのは、本件事故から約四年半を経て岸田眼科医院で受診するようになってからであり、とくに極度に悪化したのは、約六年近く経った昭和五九年一〇月以降である。そして、この間、岸田明宜医師は、直接原告の眼底所見につき網脈絡膜の萎縮が悪化途上にあることを確認している。
視力低下の経過に関して、原告は、三井記念病院に入院中の昭和五四年二月ころには、本を読むのに苦労したり、点滴の薬液が減っていくのが見えなくなったりした、もっとも、三井記念病院からの退院間近の昭和五四年二月末ないし三月ころには、窓から富士山が見えたし、給食のネームプレートも見えていた、しかし、同病院に再入院した昭和五六年一月二三日から同年二月一二日までの間に、窓から他人に見える富士山が見えなかったり、給食のネームプレートが見えなくなったりしたと供述している。けれども、原告が本件事故後約二年九か月を経た昭和五六年九月九日まで視力の低下を訴えて受診したことがない事実や昭和五八年六月の岸田眼科医院受診時の原告の訴えの内容、さらには、測定された視力低下の前記の経過をも参酌すると、原告に著明な視力低下が生じたのは、本件事故から約四年半を経たころ以降であったと認められる。
5 原告は、前記のような岸田明宜医師の紹介により、昭和六〇年五月、昭和大学病院の深道義尚医師のもとに赴いて受診した。
同大学病院における検査結果及び診断は、次のとおりであった。
(一) 本件事故の約六年半後である昭和六〇年五月当時は、光線に対して瞳孔が収縮する反応はあるものの、両眼とも眼前手動弁(矯正不能)であり、その後も回復せず、昭和六一年四月当時、眼底の視神経乳頭の境界は鮮明であるが、蒼白であり、視神経が大部分萎縮している、網膜全体が萎縮している、と認められた(甲第一〇号証の一、第一一号証、第一九号証、第二一号証の三)。
(二) この視力障害につき、甲第一〇号証の一(深道義尚医師の昭和六〇年五月二日付け診断書)には、「昭和五三年一二月一三日の交通事故により、網膜血管に脂肪栓塞が生じたためと考える。」旨の記載がある。
また、甲第一一号証(深道義尚医師の昭和六一年四月一四日付け診断書)には、「昭和五三年一二月一三日の交通事故により、下肢の骨折をきたしたため、眼球内にプルチェルの網膜症(その本態は脂肪栓塞と考えられている)が生じ、このため広い範囲に網脈絡膜萎縮をきたしたものと考える。」旨の記載がある。
二 プルチェル網膜症は、西暦一九一〇年ないし一九一二年ころ、プルチェルが頭蓋及び胸部外傷による遠隔性の網膜傷害の症例を外傷性網膜血管症として紹介して以来のものであり、以来、欧米では六〇件ないし二〇〇件ほどの症例の報告が、我が国では、昭和三〇年現在でも約三〇の報告例があり、その後も一、二年に一例程度の報告例がある(甲第二一号証の三、乙第四号証=平成元年八月発行の眼科MOOK三九号一三八頁以下の原田敬志著「鈍体外傷による網脈絡膜病変」、乙第五号証=昭和四六年三月発行の臨床眼科二五巻三号一〇〇一頁以下の高尾泰孝著「プルチェル病の一例」、乙第一〇号証=昭和五九年九月発行の「眼科」二六巻九号九四九頁以下の小野江仁外著「視力障害を残した片眼性プルチェル外傷性網膜血管症の一例」、その他後掲各文献書証、証人内田幸男の証言)。
原告の視力障害が本件事故を原因とするプルチェル網膜症発症の結果として網脈絡膜が萎縮したことによるものであるとの原告の主張に副う証拠について検討する。
1 岸田明宜医師は、前記各診断書において、原告の視力の低下と本件事故との因果関係を認める旨の記載をしているが、同医師の判断は、甲第二〇号証の三によると、通常、高度近視の場合に軽い白内障があっても視力はもう少し良いはずだと思う、昭和五九年一〇月以降眼前手動弁と、視力が著しく悪化したため、白内障がさほど進行していないのに視力の低下が著しいのが理解しにくく、このころ本件事故との関係があるのではないかと考えるようになったというものであり(判断の時期については、前掲甲第九号証の一、二の記載とは矛盾する。)、その診断内容にとくに積極的根拠があるわけではないことは明らかである(高度近視を原因として網脈絡膜萎縮を起こすことはないとの供述部分もあるが、供述全体の趣旨からすると、そのような医学的知見に基づいて判断しているものではなく、単に高度近視を原因とする網脈絡膜萎縮の症例の経験がないということにすぎないものと解される。)。
2 そこで、原告の視力障害の原因がプルチェル網膜症であるとする深道義尚医師の判断、推論の過程をみてみるに、同医師の意見は甲第一二号証の三と甲第二一号証の三に表れているところ、これらを通覧すると、甲第二一号証の三の同医師の供述中には、「両眼の網膜及び脈絡膜が殆ど全部変性萎縮しているということは普通はないことで、原因ははっきりしないが、普通の状態では起こり得ない」とか、「一般的にそういう状態を診た経験がない」とかいう部分もあって、本件疾病と本件事故とを結び付ける因果関係に関する推論内容に、それ自体として曖昧な点もあるのであるが、これをあえて整序してみると、次のようである。
(一) まず、甲第一二号証の三(回答書)によるものは、次のとおりである。
(1) 近視性網脈絡膜萎縮症は、主として眼球後極部、視神経乳頭から黄斑部を中心に発症するものであって、網膜剥離を伴わない場合には周辺部の網膜は正常である。これに対し、プルチェル網膜症の場合には、発症の好発部位はなく、脂肪栓塞の生じた部分はすべて損傷されるものである。
(2) 原告の眼底所見では、両眼とも網膜がすべて変性萎縮しており、網膜剥離による変性萎縮とはまったく異なり、広い範囲における血管性病変を考えなければ説明困難と考えた。
(二) 続いて、甲第二一号証の三(別件における尋問調書)におけるものは、次のとおりである。
(1) 原告の眼底の状態は、網膜及び脈絡膜全体が変性萎縮しており、網膜電位図でも網膜全体が正常でなかった。
(2) 網膜剥離も起こしていないのに、近視だけを原因として網脈絡膜が全体として萎縮することは普通考えられない。近視性網脈絡膜萎縮であれば、眼球の後極部、黄斑部を中心に発症することは眼科医の常識であり、網膜及び脈絡膜全体が変性萎縮することはない。
(3) したがって、原告は近視性網脈絡膜萎縮ではない。
(4) プルチェル網膜症の発症機序として、血液の粘性等血液の性状が変わって血管障害を起こすという説がある。血管障害による場合には、網膜及び脈絡膜全体が変性萎縮することがある。
(5) 原告の視力障害は、本件事故による受傷を参酌すると、プルチェル網膜症と推定される。
(三) 以上のように、右各甲号証における同医師の判断は、基本的には、近視性網脈絡膜萎縮の可能性を除外することにより、受傷という事実と結び付けてプルチェル網膜症と推定しているものであるが、甲第一二号証の三においては「脂肪栓塞」を例示しつつも、同第二一号証の三においては、本件疾病の発症が本件事故から時を経ていることから、「脂肪栓塞によるものとは考えにくいので、血液の粘性など血液の性状が変わって血管障害を起こした結果であろう。」と推定しているものである。
3 そこで、同医師の右推論、判断を、被告援用の内田幸男医師の意見(乙第一号証、証人内田幸男の証言)及び本件で証拠提出されたプルチェル網膜症に関する各文献上の記述に照らして順求検討する。
(一) まず、プルチェル網膜症の発症機序に関する文献の記載をみると、次のようである。
昭和六一年九月発行の松井瑞夫・馬嶋昭生編『眼科治療ハンドブック』(南山堂発行、甲第一四号証)によると、「眼球以外の部への外傷、たとえば頭部の打撲、胸部の圧迫損傷などにより発生する網膜症であり、外傷、ことに骨折による脂肪塞栓を含め、広く脂肪塞栓による網膜症と解釈するのが一般的となっている。」、「プルチェル網膜症の病理組織学的研究により、網膜血管に脂肪栓塞が多発していることが証明されている。」、「全身性の脂肪塞栓の原因として頻度の高いものは、外傷、ことに四肢の長幹骨の骨折を伴った外傷である。」、「脂肪滴が栓子となるには二つの機序がある。第一は、外傷前にあった脂肪が血流に流入するという機序であり、第二は、血中脂質の安定性が乱されて、乳化脂質が脂肪滴を形成するという機序である。」、また、「胸部への圧迫、あるいはバルサルバ操作によって、網膜出血と限局性の網膜血管内皮障害が発生することがあり、また、重量上げのような激しいスポーツの後に、小出血が黄斑に発生することがあるが、これらは、急激な血管内圧の上昇が網膜血管に伝達されるために発生するものと考えられているものの、プルチェル網膜症とは区別される。」というのであり、そしてさらに、講談社発行の『エンサイクロペディア・オブ・メディカル・サイエンス』の深道義尚医師自身の執筆箇所(甲第一三号証)にも、「原因は脂肪栓塞と考えられ、実験的にもほぼ確認されている。」とされており、南山堂医学大辞典(甲第一六号証)では、「プルチェルは、脳内圧の上昇の結果、血管周囲腔のリンパが組織内に溢出し、小静脈の破裂により出血が起こるとして、脳圧の一過性の急激な上昇を主因と考えたが、病理組織学的検討から脂肪塞栓によるという主張が有力となった。」とされている。他方、昭和六三年四月発行の三島済一・植村恭夫編『最新眼科学』(朝倉書店発行、甲第一五号証)によると、「種々の説が現れたが、外傷後の脂肪塞栓の際、網膜細動脈の多発性脂肪塞栓により、外傷性網膜症に似た網膜の白色斑が現れることや、プルチェル網膜症の病理組織学的検討により網膜の変化が網脈細動脈の脂肪塞栓によって生ずることが証明されていることから、脂肪塞栓が発病に重要な役を果たしていることは確かなようであるが、加えて、外傷による身体上半部の急激な静脈圧亢進も網膜出血などの病像を呈する原因となっている。すなわち、動脈(脂肪塞栓)と静脈(急激な圧上昇)による網膜病変が併発して発現するものと考えられる。」というのであり、前掲臨床眼科二五巻三号「プルチェル病の一例」(乙第五号証)では、「プルチェルが考えたような、昇圧した脳脊髄液が蜘蛛膜下腔、視神経を伝わって網膜血管鞘から網膜組織に侵入するという機序は、その後否定され、①網膜血管の透過性亢進に基づく、②頸部静脈の急激な圧上昇が頭部及び網膜静脈に逆行性に波及して出血や浸出をきたす、③脂肪が網膜血管を栓塞するなどの説が唱えられているが、これらの原因は、単独でも、また合同しても働くことが推定される。」とされ、また、前掲「眼科」二六巻九号の「視力障害を残した片眼性プルチェル外傷性網膜血管症の一例」(乙第一〇号証)や昭和六〇年一二月発行の「あたらしい眼科」二巻一二号一一四三頁の関本美穂子外著「プルチェル病(外傷性網膜血管症)の一例」(乙第一一号証)には、プルチェル網膜症の病因につき、プルチェルの説の後、「脂肪栓塞、血管攣縮、静脈血の逆流などが考えられたが、現在も明確な結論は出ておらず、これらの因子が複合していると考えられている。最近、急激な血管圧の上昇による内皮・基底膜の一次的損傷が起こり、二次的に血管に閉塞が起こった結果との説も唱えられ、さらに、急激な圧変化による器械力による光受容器の障害も考えられている。」などの記載がある。その他、昭和五〇年六月発行の眼科臨床医報六九巻六号二六頁以下の高木幹男・大石省三著「縊死未遂者にみられた一側性プルチェル網膜症の一例」(乙第六号証)は、プルチェル網膜症においては小動脈の閉塞によって網膜に変性が起こるものとみて、その原因を「頸動脈における急激な血流変化によって乳糜脂粒が物理化学的変化を受け大きな脂肪滴となって網膜の前毛細動脈を閉塞したために生じたか、または、頸動脈の破損した内膜によって網膜に多発性小栓塞が生じたのかもしれない」と推測しており、昭和五九年三月発行臨床眼科三八巻三号の谷瑞子外著「航空機墜落事故時の介達性外傷による視力障害の一例」(乙第九号証)は、航空機の墜落事故によって視力のみに異常を生じ、永久的な視力障害に至った症例の発症機序につき、「墜落の衝撃でシートベルトによって腹部が圧迫され、腹腔及び胸腔内圧が急激に上昇したことと、前方の座席シートによる前額部正中打撲による捩じれや介達外力が脳、視神経、眼球に及んだことが原因と考えられる。」、「永久的な視力障害は血管内圧の急激な上昇が脈絡膜や視神経の微小循環系にも起こっていたためと推測される。」とし、その機序につき、「まず、視神経鞘や視神経内に出血や局所の神経繊維の断裂が起こり、次いで、それらの変化が周囲組織に二次的浮腫をもたらし腫脹するために循環障害により壊死に陥り、動脈痙縮による血管閉塞や神経の梗塞がもたらされた。」という推論を採用している。さらに、平成元年八月発行の前掲眼科MOOK三九号「鈍体外傷による網脈絡膜病変」(乙第四号証)によると、「プルチェル網膜症の発症を説明する病態は、現在の段階では、正確には未詳である。これは、一つには、全身諸臓器への救急外来における対応に忙しく、本症の解明に必要な蛍光眼底撮影が、初期の段階では困難なことにもよっている。蛍光眼底上認められる網膜や脈絡膜の毛細血管の充盈欠損は、外傷に引き続いて眼窩血管で形成された血栓に由来する塞栓によって生ずるという報告もあり、血小板凝集能を変化させるセトロニンやADPが放出され、局所に血栓形成傾向が生じると説明する見解もある。」とされている。
原告は、血液の粘性が高まった結果、血流が阻害されて網脈絡膜が萎縮したとも主張するが、深道義尚医師によってすら、プルチェル網膜症の原因として脂肪栓塞のほか血液の粘性の増大によるものがあるというのは、「そのような意見がある。」、「そういうことが教科書で言われているが、それを確認したという眼科医はいないと思う。一つの意見として述べられているだけである。」という程度のものにすぎない(甲第二一号証の三)。
以上のような証拠関係に乙第一号証及び証人内田幸男の証言を総合すると、プルチェル網膜症の発症機序については、脂肪栓塞説、次いで急激な静脈圧上昇説等が有力であるが、血液の粘性が高まるためとするのは、支配的な説とはいえないものと考えられる。
(二) こうした発症機序に関する各説から当然考えられることであるが、プルチェル網膜症の発症時期は、受傷からさして遠くない時期とされている。すなわち、発症時期及び態様に関する各文献の記載は、次のとおりである。
前掲『眼科治療ハンドブック』(甲第一四号証)においては、「全身症状としては、受傷後六ないし七二時間で、それまで安定していた患者に、呼吸困難、頻呼吸を伴った切迫呼吸症候群が発生し、理学的にラ音が広い範囲に聴取されるようになる。胸部X線像には、肺野全体に、まだらな混濁が認められる。しばしば不安、混乱などの精神症状が認められ、昏睡へ移行していく。」というのであり、前掲『最新眼科学』(甲第一五号証)によると、「転落事故、胸部圧迫や肝臓破裂を伴う腹部圧迫外傷、骨折を伴う外傷、頭部外傷などの二ないし四日後」に発症するように記載されており、また、講談社発行の『エンサイクロペディア・オブ・メディカル・サイエンス』の深道義尚医師自身の執筆箇所(甲第一三号証)でも、プルチェル網膜症の診断は、「外傷後二ないし四日後に現れる上述の眼底所見による。」とされている。また、回復の可能性、時期に関しては、同医師の右記述中に、「網膜内の混濁と出血は、多くの場合四ないし六週間で消失する。視野欠損は、混濁の消失とともに回復する場合と永存する場合が経験されている。」とされており、南山堂医学大辞典(甲第一六号証)には、「数週ないし数か月で治癒する。視力障害が残ることも稀にある。」と記載されており、前掲眼科MOOK三九号「鈍体外傷による網脈絡膜病変」(乙第四号証)にも「プルチェル網膜症における視機能の異常はかなり可逆的であるといえる。」とされている。そして、その他の文献をみても、前掲眼科臨床医報六九巻六号の「縊死未遂者にみられた一側性プルチェル網膜症の一例」(乙第六号証)は、プルチェル網膜症の眼底変化を、①三日後から二週間の白斑期、②三週間ころの回復期には網膜等に小出血点が多数認められる出血期、③二か月目ころから視神経乳頭が蒼白化して著明になった視神経萎縮期の三期に分類して、その経過を説明しており、また、昭和五三年七月発行東京女子醫科大學雑誌四八巻七号五七九頁以下の大西裕子著「プルチェル外傷性網膜症の一例」(乙第七号証)は、視力障害に気づいたのが外傷後一七日目であった症例を、昭和五七年一一月発行日本災害医学会会誌三〇巻一一号の中村晴美外著「遠達性網膜損傷の経験三例」(乙第八号証)は、外傷後一週間で発症し、約三か月で治癒した症例と外傷後数日で発症した症例及び外傷後間もなく視力障害の自覚があったが約一か月後に眼科を受診した症例を、前掲臨床眼科三八巻三号「航空機墜落事故時の介達性外傷による視力障害の一例」(乙第九号証)は、墜落後救助中に左眼霧視に気づき、翌日一旦視力が改善されたが、約二週間内に急激に視力が低下していった症例を、前掲「眼科」二六巻九号の「視力障害を残した片眼性プルチェル外傷性網膜血管症の一例」(乙第一〇号証)は、頭部及び胸部受傷後約一か月半までに急激に視力の低下をきたしていった症例を、前掲「あたらしい眼科」二巻一二号の「プルチェル病(外傷性網膜血管症)の一例」(乙第一一号証)は、交通事故受傷の翌日に視力障害に気づき、約一週間で著しい視力低下をみたが、間もなく回復した症例を、昭和六〇年四月発行の眼科臨床医報七九巻四号一九五頁の泉谷昌利外著「プルチェル病の一例」(乙第一二号証)は、受傷後約一週間で視力低下を自覚し、約五〇日目に受診した際には著しい視力障害を生じていた症例を、昭和六三年八月発行の眼科臨床医報八二巻八号一六四頁の朝元綾子外著「外傷性網膜血管症の一例」(乙第一三号証)は、受傷の三日後に眼底に乳頭を中心とした後極部二ないし三乳頭径の範囲に白斑と網膜表層出血を認め、受傷後五日目に強度の視力障害が確認され、四か月後には白斑と出血は完全吸収されたものの、視力障害は完治しなかった症例を、平成元年八月発行の眼科臨床医報八三巻八号一一九頁の吉田晴子著「プルチェル症候群の一症例」(乙第一四号証)は、受傷直後に視力低下をきたし、二、三週間で症状を改善したけれども、視力は完全には回復しなかった症例を、平成二年一一月発行の眼科臨床医報八四巻一一号一一〇頁の佳波真弓外著「プルチェル網膜症の一例」(乙第一六号証)は、受傷の四日後に転院した際視力低下を訴え、極度の視力障害を示したが、受傷後約三週間で回復した症例を、それぞれ紹介している。そして、前掲臨床眼科二五巻三号の「プルチェル病の一例」(乙第五号証)は、プルチェル網膜症の報告がまれな理由につき、「症状が一過性で眼科専門医の診療を受ける機会が少ないためであろう。」という意見を紹介している。
(三) 右のとおり、本件で証拠として提出された文献中には、本件のように受傷から長期間を経た後に発症したという報告例はないのみならず、前記のような発症機序に関する有力な諸説を前提とすると、そのような長期間経過後の発症の可能性は考えにくいものといわざるを得ない。
深道義尚医師は、別件における供述(甲第二一号証の三)において、本件事故と原告の発症との時間的間隔が脂肪塞栓を原因とするものとしては余りにも長すぎると自認しつつ、この点について、「随分遅れて発症するという報告例もあるので、骨折部位から脂肪が血液中に入ったということでは説明がつかず、そのため、血液の粘性とかそういう血液の性状が変わってこういう血管障害を起こすのではないかという考え方も一方にはある。」と述べている。しかしながら、同医師は、原告訴訟代理人から、「プルチェル網膜症というのは、事故に遭ってから数日とか、割と早い時期に起こるのが普通であるとか、遅くとも二、三か月以内に発症すると普通はいわれているようですが、それよりもっと遅く発症するということもあるわけでしょうか」と質問されたのに対して、「分かりません。」と証言しているのであり(なお、右質問の中で、「二、三か月経って発症する」事例があるかのように述べられている点については本件証拠中に裏付けはない。)、さらに、「眼科の教科書にも、遅れて発症した場合には、それほど長く血液中に脂肪が混入していることは考えられないので、血液の成分が変わってそのようなことが起こるのであろうというふうに述べられているだけである。」旨供述しているにすぎず、「原告の場合のように一年くらいしてから急に見えなくなったとか、二年もしてから急激に見えなくなったという事例は、これまで聞いたことはない。」、「プルチェル網膜症の遅発とされる報告症例というのが、受傷から発症までどの程度の期間のものだったか記憶にはない。」、「血液の粘性の増加によって起こるのではないかという説があるが、血液の粘性の増加がどのような原因で起こるのかは分からない。外傷が原因でそういうことが起こるのではなかろうかということが教科書には述べられている。しかし、外傷から何年も経過してからもそれが起こり得るのかどうかは分からない。」、「甲第一二号証の三の中に記載した第三一回日本災害医学会総会における症例報告は、詳しい論文になっていないし、その学会で聞いただけで、具体的なことは覚えていない。」(もっとも、同記載は、『わが国においてプルチェル網膜症の事例が報告された例があるのかどうか。』との照会に対するもので、とくに受傷から年月を経て発症した事例の報告の有無を尋ねたものではない。プルチェル網膜症の報告事例が一定数存在すること自体は、前記のとおり、本件証拠上明らかである。)、「血液の粘性が増大するということだけでは、交通事故とは関係がないと思う。」、「こういう眼球内の変化は、脂肪栓塞辺りが原因でないと起きないと思う。」とも述べているのである(甲第二一号証の三)。そしてまた、血液の粘性増大という点については、現実にそれが測定されたわけではない。
原告は、原告の視力の低下が顕著になったのが本件事故後さほど時日を経ていないころからであるとする一方、受傷からかなり長期間経過後にプルチェル網膜症が発症する事例もあると主張したいようであるが、そして、なるほど、右における同医師の供述中には、「半年後、一年後に発症した事例というのは報告例がないのか。」という原告訴訟代理人の質問に対して、「時々されているようでございます。」と供述している部分もあり、また、「かなり遅い時期に発症する可能性は十分あるということは言えるわけですね。」との質問に対して、「そういう記載は教科書にもございます。」という部分もあるのであるが、同医師のこれらの答えは、前記の供述部分と明白に矛盾しており、しかも、その裏付けとなる成書等の証拠は、本件では何も提出されていない。
証人内田幸男は、プルチェル網膜症は、受傷から一日ないし数日後に発症するとされており、受傷から半年とか一年後にそれが発症したという文献を見たことはない旨証言しており、乙第一号証及び同証人によると、プルチェル網膜症の発症機序については、脂肪栓塞説のほかに血液の粘性が上がるという説もあるし、静脈の圧が上昇した結果だという説もあるが、いずれも、一時的で急激なものを指しており、受傷を原因とするプルチェル網膜症においては、視力の障害は受傷を契機として突然急激に生ずるもので、数か月もかけて徐々に低下していくものではなく、仮に、原告の視力低下が本件事故後二か月程度から起こったと仮定しても、本件事故によるプルチェル網膜症としては遅すぎるというのである。同証言に前記のような文献の記載を併せてみると、本件のように受傷から長期間を経た後、受傷による各種症状が消失、治癒した後になって、その受傷を原因として、他に特段の症候が発生することなく、視力にのみ障害を生ずることがあり得ると解することはできない。
(四) 次に、眼底所見、なかんずくその部位に関しては、深道義尚医師は、近視性網脈絡膜萎縮症は、眼球後極部、視神経乳頭から黄斑部を中心に発症するものであって、網膜剥離を伴わない場合には、網膜及び脈絡膜全体が変性萎縮することはないというが、内田幸男医師は、近視性網脈絡膜萎縮の部位は後極部に強い変性を伴うものが多いが、非常に強い近視の場合には、変性萎縮する範囲が広がり、周辺まで萎縮が進む症例がある(証人内田幸男の証言)というのであって、深道義尚医師の述べる方が医学上の経験則で、これと異なる趣旨の証人内田幸男の右証言の方が誤りであると認めるに足りる裏付けの証拠は、その提出を促す当裁判所の釈明にもかかわらず、結局、提出されなかった。
他方、深道義尚医師は、プルチェル網膜症の場合には、脂肪栓塞の生じた部位はすべて損傷され、発症の好発部位はないと述べているが、証人内田幸男は、プルチェル網膜症の場合、前記のような発症機序からして、何らかの理由で血管に栓塞を生じると、その部分から先の領域に変性が起こり、血管の異常、浮腫などが起こり、変性を起こした部分が白斑になって見えるが、それらは時とともにある程度引いて元に戻ることもままあると証言している。そこで、プルチェル網膜症に関する文献をみると、発症当時の特徴ある眼底所見には、好発部位があるものと考えられる。すなわち、前掲『眼科治療ハンドブック』(甲第一四号証)によると、「眼底所見は、両眼に綿花状白斑と静脈拡張がみられる。綿花状白斑は、多数に融合傾向がみられ、黄斑近傍を含む後極部に好発する。このほか、主幹血管に沿って、火焔状出血が認められる。」というのであり、前掲『最新眼科学』(甲第一五号証)によると、プルチェル網膜症の眼底所見につき、眼底に現れる部位は「黄斑部付近から神経乳頭周囲付近に多い。」というのであり、また、前掲眼科MOOK三九号「鈍体外傷による網脈絡膜病変」(乙第四号証)によると、「網膜静脈のうっ滞と蛇行、乳頭近傍静脈に沿って乳頭大ほどの白い浸出斑が出現し、線状・火焔状・斑状の網膜内あるいは網膜前出血が乳頭及び黄斑領域に認められる。」とされており、なお、南山堂医学大辞典(甲第一六号証)によっても、「眼球後極部にくる白斑出血浮腫(透明)を主体とする網膜の変化」であり、「白斑は五分の一乳頭大のものが多い。」というのであり、さらに、前掲『エンサイクロペディア・オブ・メディカル・サイエンス』の深道義尚医師自身の執筆箇所(甲第一三号証)にも、「網膜の主として後極部に多数のミルク様の混濁と小出血を認めるもの」であり、「眼球の後極付近の網膜に灰白色の混濁が出現し、小出血斑を伴っている。混濁に一致した視野の欠損が認められる。」というのであり、外傷後二ないし四日後に現れるこうした眼底所見によって診断するとされており、また、前掲『眼科治療ハンドブック』(甲第一四号証)によると、眼底所見として、「主幹血管に沿って、火焔状出血が認められる。」、「蛍光眼底造影によって、栓子による血管閉塞と綿花状薄板に対応した部の限局性造影欠損が認められ、造影晩期には、毛細血管からの色素漏れが認められる。これらの所見は、血管閉塞と毛細血管の内皮障害の存在を証明しているということになる。」というのである。なお、前掲臨床眼科二五巻三号「プルチェル病の一例」(乙第五号証)には、血管障害と網膜病変の関係について「血管障害が強く起こり、その変化が網膜血管まで及ぶような症例では、網膜滲出も起こり得る。」として、視力障害を引き起こすような症例においては、網膜血管に及ぶ血管障害はかなり高度なものである可能性が示されている。
こうした証拠によると、プルチェル網膜症の場合には、変化をきたす眼底の部位に特徴があるように考えられるが、もとより原告について本件受傷後そのような変化が認められたという証拠はない。
なお、プルチェル網膜症発症の原因として指摘されているものに関しては、前掲『眼科治療ハンドブック』(甲第一四号証)において、栓子となる脂肪滴の形成機序として血中脂質の安定性が乱されて、乳化脂質が脂肪滴を形成するとする場合の説明中にストレス等も原因となり得るように記載されており、また、前記のように、類似の症状の発症原因として、「胸部への圧迫、あるいはバルサルバ操作、重量上げのような激しいスポーツ等急激な血管内圧の上昇」をきたすものが掲げられている。しかし、本件事故の結果としてこれらの他の因子が働いたと解する根拠のないことはいうまでもない。
さらに、前掲臨床眼科二五巻三号「プルチェル病の一例」(乙第五号証)には、類似の各種の網膜病変との鑑別に関し、「臨床的に区別困難な症例も少なくないと思われる。」とされているのであって、以上のような証拠関係に照らすと、眼底の全面的変性がプルチェル網膜症の眼底所見として特徴とされるものではないと解されるから、深道義尚医師による眼底所見がプルチェル網膜症の積極的な根拠になるものとはいえない。
(五) ところで、網膜、脈絡膜が萎縮する原因は様々であるが、近視性網脈絡膜萎縮もその一つである。
一般に、近視の程度は、弱度、中等度、強度(又は高度)と分けられる。強度近視といわれるのは、マイナス八ジオプトリー以上のものである。強度近視の上に極度近視という分類をする者もある(岸田明宜医師は、前記のように、最高度近視又は悪性近視という呼び名もあるという。)。強度近視の主因は、眼軸長(眼球の前後径)が伸長することにより、眼軸長が増すほど近視度は強くなる。そして、近視度が強くなるほど裸眼視力及び矯正視力は悪くなる。眼軸長が伸びると、眼球外壁である強膜は拡張し、その内側を被っている脈絡膜と網膜は必然的に引っ張られることになり、組織が薄くなり弱くなって萎縮をおこす。これが近視性網脈絡膜萎縮である。近視の程度が強い場合には、網脈絡膜の萎縮は多かれ少なかれ存在するということができる。
原告の近視は、もともと、強度(高度)近視という中でも特別に強度の近視であり、極度近視あるいは最高度近視といわれるものに当たっていた。通常の近視の場合、矯正視力は一・二程度に達するものであるが、原告の場合、本件事故前である昭和五一年当時、既に矯正視力が右眼で〇・四、左眼で〇・二であって、眼底に近視性網脈絡膜萎縮があったと考えるのが自然である。
近視性網脈絡膜萎縮が進行すると、黄斑出血、黄斑変性、黄斑円孔、網膜剥離等が合併するなどして、著明な視力障害をきたすことになる。近視性網脈絡膜萎縮は、五〇歳台以後になると、老人性変化が加わり、さらに増悪する。このような経過をとるものを悪性近視、変性近視などとも呼ぶ。強度近視の自然的経過として失明に至るものもあり、六五歳以下の失明者の一四パーセントに変性近視がみられるという報告もある。
(以上につき、甲第二〇号証の三、乙第一号証、証人内田幸男の証言。なお、深道義尚医師自身も、甲第二一号証の三において、同愛会病院での「近視性網脈絡膜萎縮」との診断の当否を問われて、当時も原告の黄斑部には多少とも萎縮が生じていたであろう、と述べている。)
岸田眼科医院での受診経過をみても、原告は、本件事故前である昭和五一年当時にも、視力の低下を訴えて受診したことがあること、本件事故から約四年半を経た昭和五八年六月の受診時の訴えも、「最近になって視力が落ちた。」というものであったこと、当時、原告に高度近視による豹紋状の眼底所見があったことは前記のとおりであって、原告が問題としている視力低下は、高度近視の自然的経過の中で網脈絡膜萎縮が進行したことによるものと解する余地が十分あるといわざるを得ない。
4 原告は、原告の眼底の状態を直接診察した医師が種々の検査も経てなした診断は尊重されるべきであると強調する。医師が直接診察した上でなした診断が普通は尊重されるべきであるという原告の主張自体は、一般論としてはよく理解できる。しかしながら、医師の判断であっても、これと異なる診断結果が同時に存在し、そのいずれをもって医学上の経験則に副った適切な判断であるかが争いの対象となっている以上、当該医師の判断の過程を順次検証することが必須であることはいうまでもない。そしてまた、原告主張のような一般論は、当該疾病に診察当時特徴的な所見があり、その所見を直接得た医師の判断について妥当することである。しかし、本件においては、深道義尚医師によって原告の眼底の特徴として指摘されているのは、本件で提出された証拠による限り、両眼とも網膜がすべて変性萎縮しているという点にすぎず、深道義尚医師の診た当時の原告の眼底所見にプルチェル網膜症特有のものが残っていたことを認めるに足りる証拠はないのであるから、原告主張の一般論はまずもって妥当しない。眼科医の常識として近視性網脈絡膜萎縮によっては広範囲の萎縮が起こらないという同医師の見解が、前記のように裏付けられない以上、その見解を採用することはできない。
原告は、本件事故から二か月ほどしてから、徐々に視力が低下したと供述し、また、約二年後の再入院時に視力の異常を覚えた旨主張して、プルチェル網膜症の発症が本件事故から四年以上経過した後のことではないと主張したいようであるが、仮にそのような前提をとるとすると、深道義尚医師は、発症後四年以上あるいは六年以上経ってからの原告の眼底の状態を見たことになるし、また、仮に岸田眼科医院受診時ころに発症していたと仮定してみても、発症後二年半以上経ってからの原告の眼底の状態を見たことになるのである。しかし、それほど長期間を経てもプルチェル網膜症の眼底所見に特異なものが残っていることを認めるに足りる証拠はなく、むしろ、プルチェル網膜症の発症機序、症状経過等に関する医学文献の記載からみて、プルチェル網膜症に特有な眼底所見は発症当時に見られるもので、これほど長期間経過した後に、なお、プルチェル網膜症特有の眼底所見が残っているとは考えられないから、視力低下の経過に関する右のような原告の主張は、それ自体として既に、本件疾病がプルチェル網膜症によるものであることを積極的に根拠づけ得るものとはいえない。
5 また、原告は、原告の視力障害について加害者の責任を認めた本件交通事故にかかる損害賠償請求訴訟における判決(甲第二二号証)を援用するが、同判決は、「原告は、先天的高度近視で、その視力低下は網脈絡膜萎縮によるものであり、高度近視の場合は網脈絡膜萎縮を起こすことが多い」という認定を前提としながらも、原告につき「本件事故後視力低下が進んだ」という事実を認定し、医学的知見として、「近視性網脈絡膜萎縮は、普通は、七〇ないし八〇歳ころになって起こるもので、当時五五歳であった原告に近視性網脈絡膜萎縮が起こったとは考えにくい」、「近視性網脈絡膜萎縮の場合には、眼球の後極部、視神経乳頭から黄斑部を中心に発症する」、「原告の網膜は両眼ともすべて変性萎縮しているから、広い範囲における血管性病変を考えなければ説明がつかない」として、原告の視力障害は、「本件事故による外傷のため、血液の粘性が増加し、この血液の粘性増加と、組織に対する刺激性の増加が加わったことによる血管障害によって発症した」プルチェル網膜症であると判断している。
しかしながら、まず、原告の視力低下の進行状況は前記認定のとおりであり、その時間的経過からして、本件事故との因果関係を直ちに推認させるようなものではない。
また、「近視性網脈絡膜萎縮は、普通は、七〇ないし八〇歳ころになって起こるものである」という医学的知見の根拠は、本件において提出されている証拠の中では、甲第二〇号証の三の岸田明宜医師の意見のほかにはないが、同医師の供述の中には、網脈絡膜萎縮というのは、視力が出にくい場合に他の原因が不明のときに使う言葉であるとして、それが眼底の所見として現れるものではないかのように述べたり、生来的な高度近視の場合には経年的変化はないと述べたりするなど、一般的にいっても、特異な見解を述べる箇所があるのみならず、証人内田幸男の証言によると、東京女子医科大学の眼科主任教授である同医師は、高度近視の場合には、二〇歳でも三〇歳でも、近視の程度が強ければ萎縮は起こってくる、五〇歳台以降の高度近視の者に近視の合併症による視力低下の例が増えてくることを日常的な診療で経験しており、加齢により増悪したものと理解されており、原告について「近視性網脈絡膜萎縮が起こったとは考えにくい」との判断は不自然である、というのであるから、甲第二〇号証の三の岸田明宜医師の意見のみに基づいて前記のような医学的知見を認定することはできない。
さらに、「近視性網脈絡膜萎縮の場合には、眼球の後極部、視神経乳頭から黄斑部を中心に発症する」という点については、前記のとおり、近視の程度が強ければ後極部以外の周辺部分にも及ぶことがあり、萎縮の範囲が広いから近視性のものではないということは言えない。また、「原告の網膜は両眼ともすべて変性萎縮しているから、広い範囲における血管性病変を考えなければ説明がつかない」という医学的判断ももっぱら深道義尚医師の前記意見に基づくものと解されるが、同医師の判断根拠自体に疑問があることは前記のとおりである。
そして、「血液の粘性が増加し、この血液の粘性増加と、組織に対する刺激性の増加が加わったことによる血管障害によって発症した」プルチェル網膜症なるものについては、深道義尚医師ですら、一説として紹介しているにすぎず、前に検討したように、深道義尚医師の結論部分のみをそのまま採用することはできない。
三 以上のとおりであるから、本件事故と本件疾病との間に相当因果関係を認めることはできない。
(裁判官 松本光一郎)
<以下省略>