東京地方裁判所 平成10年(モ)14991号 決定 1998年12月15日
原告
北野のり子
外四名
右五名訴訟代理人弁護士
古瀬駿介
同
千田賢
被告
社会福祉法人恩賜財団済生会
右代表者理事
山下眞臣
右支部業務担当理事
川上明之
右訴訟代理人弁護士
和田久
主文
本件を鹿児島地方裁判所に移送する。
事実及び理由
一 移送申立ての趣旨及び理由
1 申立ての趣旨
主文同旨
2 申立ての理由
本件の争点の立証に必要な証人はいずれも鹿児島県川内市内に在住する医師であり、当庁で証拠調べをするとすればその出頭の確保に困難がある。また、証人の旅費、日当等が多額なものとなることから、本件を当庁で審理すると、訴訟が著しく遅滞し又は当事者の衡平に反する。したがって、鹿児島地方裁判所に移送すべきである。
二 原告の意見
本件の争点の立証に必要な証人は被告病院の勤務医一名だけであり、その出頭の確保は困難とはいえない。また、争点の立証にあたっては、専門家による鑑定が必要であるところ、医療機関の多数存在する東京都周辺の方が鑑定人の確保が容易であり、訴訟の迅速化に資するから、本件を鹿児島地方裁判所に移送すべきではない。
三 当裁判所の判断
1 本件事案の概要
(一) 原告らの請求
原告らは、平成一〇年五月二二日、胃癌及び癌性腹膜炎により死亡した訴外亡北園信子(以下「信子」という。)の子である。被告は、鹿児島県川内市に済生会川内病院(以下「被告病院」という。)を設置する社会福祉法人である。
信子は、平成九年一一月六日、疲労感及び腹部の異常な膨満感を覚えて、訴外医療法人樟南会中郷病院(以下「訴外中郷病院」という。)において診察を受けたところ、同病院には精密検査をするための設備が整っていなかったため、被告病院を紹介された。
信子は、平成九年一一月一四日、被告病院において受診し、被告病院の担当医師蓑毛(以下「蓑毛」という。)により、触診及び腹部レントゲン撮影を受けた。蓑毛は、触診及び腹部レントゲン撮影を行った結果、腹部には異常なしとの診断をし、腹部についてはそれ以上の検査をしなかった。
被告は、右同日、信子との間で締結された診療契約上の債務として、診察の結果に異常を疑わせる状況が生じた場合には、検査等により右異常の医学的解明をなすべき義務を負う。しかし、蓑毛は、信子の腹部膨隆の訴え及び腹部レントゲン写真によって容易に腹水の存在を認識し、癌性腹膜炎、さらには胃癌の疑いを抱いてこれに対する治療を施すことが可能であったにもかかわらず、右腹水を認識せず、信子の腹水、胃癌及び癌性腹膜炎に対する検査及び治療を全く実施しなかったという過失がある。
原告らは、被告に対し、診療契約の債務不履行に基づく損害賠償を請求したのが本件訴訟である。
(二) 被告の主張
被告は、平成九年一一月一四日撮影の腹部レントゲン写真に、腹水の貯留は認められず、腹水の発生原因の解明のために必要とされる腹部エコーなどの諸検査をする義務はなく、債務不履行責任は負わないとして争っている。
さらに、被告は、そもそも、訴外中郷病院からは、信子に心雑音があり、疲れやすいとの訴えがあったため、心雑音の精査目的で被告病院の循環器科専門医の古田医師(以下「古田」という。)を紹介されたこと、平成九年一一月一四日に古田不在のため代わりに診察した蓑毛が、胸部レントゲン撮影などの諸検査を行った後になってから、信子が腹部膨満感及び便秘気味であることを訴えたため、腹部レントゲン撮影をしたこと、同年一二月二日に、古田が心エコー検査を行ったが、心不全は認められず、血液検査の結果、鉄欠乏性貧血が認められたことから、消化器官からの出血の可能性を指摘して、消化器科専門医の診断を受けるよう勧めたにもかかわらず、その勧めに従わなかったため、信子の胃癌、癌性腹膜炎の発見が遅れたこと等を主張している。
2 検討
(一) 本件訴訟の中心的争点は、平成九年一一月一四日撮影の腹部レントゲン写真に腹水の貯留が認められるか、被告担当医師蓑毛がそれを見逃し、信子の腹水及び胃癌、癌性腹膜炎に対する検査、治療をする機会を逸したかにあると解される。この争点の判断にあたっては、同日、信子を直接診察した医師の蓑毛の証人尋問は不可欠である。
それ以外の証拠調べの必要性について検討するに、被告は、蓑毛以外の医師の証人尋問は不要であり、書証の取調べで足りる旨主張する。この点は、主張整理の展開いかんにもよるが、当面、信子が被告病院を紹介された目的、信子がいつから腹部膨満感を訴えていたか等という事実関係についても争いがあることから、被告病院を紹介した訴外中郷病院の医師井原の証人尋問が必要となることも予想される。加えて、信子の胃癌、癌性腹膜炎による死亡と被告病院の診断に際しての過失との因果関係の有無の判断にあたっては、蓑毛から信子の診察を引き継ぎ、消化器科専門医の受診を勧告した医師古田の証人尋問も必要となることも予想される。これら三名はいずれも鹿児島県川内市内に居住・勤務する医師である。
以上によれば、当庁で本件を審理した場合、証人尋問の実施に当たり、当事者の負担すべき旅費、日当等の負担もさることながら、証人の出頭の確保、期日指定の関係等から訴訟が著しく遅滞するおそれが生じることは必至であると考えられるが、これに対して、鹿児島地方裁判所で審理した場合には、このような問題の発生を回避することが可能である。
なお、原告は、腹部レントゲン写真に腹水の貯留が認められるか否かの認定のためには、専門家による鑑定が必要であり、付近に医療機関の多数存在する当庁で審理する方が迅速な審理が可能である旨主張する。
しかし、本件で予想される鑑定を受けることのできる適切な知識・経験を有する専門家を、鹿児島地方裁判所管轄区域内で探すことも可能であると考えられる。仮に管轄区域外の専門家に鑑定を依頼するとしても、それによって生じるおそれのある訴訟遅延の程度は、当庁で審理する場合に、前記の証人尋問から生じる訴訟遅延の程度に比べると、むしろ小さいものであると予測される。
(二) 本件原告らは、患者であった信子の子であり、医療機関である被告の責任を追及し、その被害救済を求めているものである。その住所地は、二名が鹿児島県川内市であり、他の三名は、大阪府富田林市、神戸市、千葉県印西市である。また、原告らは、東京都港区に事務所を有する原告訴訟代理人らに本件訴訟追行を委任している。
これに対して、被告は、全国に病院を開設して医療に従事する社会福祉法人であり、鹿児島県川内市に被告病院を設置し、主たる事務所を東京都港区に置くものである。被告が開設する病院の院長は、被告法人の理事に選任され、理事はそれぞれ代表権を有し、自己の所管する病院の医療全般を統括している。本件についても、被告病院院長(被告鹿児島県済生会支部業務担当理事)川上明之が、鹿児島市に事務所を有する被告訴訟代理人に本件訴訟追行を委任している。
本件訴訟の損害賠償請求という性質に鑑みると、原告らが本件訴訟追行のため支出する金銭はできる限り増大しないよう配慮することが相当であると考えられる。もっとも、原告らは、それぞれの住所地の弁護士を訴訟代理人に選任すること及びその地の管轄地方裁判所に提訴することをしなかったのであるから、そのことに伴う余分な出費は予期しているものと解される。また、本件訴訟が、東京地方裁判所に提起されたことは、被告に普通裁判籍があること、前記の鑑定申請の便宜等を含む原告訴訟代理人の訴訟追行上の便宜を考慮したことによるものと考えられる。このうち、鑑定申請の便宜をどうのように考えるかについては、前述のとおりであるが、原告訴訟代理人が、自らの訴訟追行上の便宜を考慮することはそれ自体当然のことである。
しかしながら、被告側は、前記のとおり、被告病院院長が被告訴訟代理人を選任して、現に応訴準備を開始しているのであり、こうした被告側の訴訟追行上の利益を無視することも相当とはいえない。そして、原告らが、原告訴訟代理人らを選任して本件訴訟を提起している経緯及び原告らが当裁判所管内に一人も居住していないこと等を考慮すると、本件訴訟を鹿児島地方裁判所に移送することとしても、当事者の衡平を損なうものとはいえいないと解される。
(三) 以上によれば、本件訴訟は、民事訴訟法一七条に基づき本件訴訟を鹿児島地方裁判所に移送するのが相当であるから、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官加藤新太郎 裁判官宮武康 裁判官日暮直子)