東京地方裁判所 平成10年(ワ)10590号 判決 2001年2月27日
原告
中原誠
原告
黒岩泰
原告ら両名訴訟代理人弁護士
鹿野哲義
同
中川文彦
同
佐々木雅康
同
遠藤賢治
被告
破産者山一證券株式会社破産管財人松嶋英機
同訴訟代理人弁護士
的場徹
同
長谷一雄
同
福崎真也
同
佐藤高章
同
山田庸一
同
山崎恵
同
川村百合
同
升田純
同
星隆文
同
濱田芳貴
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1請求
1 原告中原誠(以下「原告中原」という。)が破産者山一證券株式会社(以下「破産者」という。)に対し東京地方裁判所平成11年(フ)第3936号破産事件につき退職金として321万4020円の優先権のある破産債権を,損害金として20万1646円の優先権のある破産債権を,それぞれ有することを確定する。
2 原告黒岩泰(以下「原告黒岩」という。)が破産者に対し東京地方裁判所平成11年(フ)第3936号破産事件につき退職金として58万4800円の優先権のある破産債権を,損害金として4万5101円の優先権のある破産債権を,それぞれ有することを確定する。
第2事案の概要
1 本件は,破産者に雇用されていた原告らが,破産者の破産管財人である被告に対し,原告中原については未払退職金及びこれに対する遅延損害金として合計341万5666円の優先権のある破産債権(この内訳については前記第1の1のとおりである。)を有することの確定を,原告黒岩については未払退職金及びこれに対する遅延損害金として合計62万9901円の優先権のある破産債権(この内訳については前記第1の2のとおりである。)を有することの確定を,それぞれ求めた事案である。
2 前提となる事実
(1) 破産者は,有価証券の売買,媒介,取次などを目的とする株式会社であり,平成9年11月24日自主廃業することを公表した。
(争いのない事実)
(2) 原告中原は,昭和62年4月1日に破産者に入社し,平成10年1月31日に破産者を解雇されたが,解雇時には総合3級,事務職としてエクイティトレーディング第二部に配属されていた。
原告黒岩は,平成4年4月1日に破産者に入社し,平成9年10月15日に破産者を自己都合により退職した(原告中原が平成10年1月31日に破産者を「解雇」され,原告黒岩が平成9年10月15日に破産者を自己都合により「退職」したことを,合わせて以下「退社」ということがある。)が,退職時には総合2級,営業職として長崎支店に配属されていた。
(争いのない事実)
(3) 破産者の退職金規程によれば,原告中原の退職金の金額は321万4020円であり,原告黒岩の退職金の金額は58万4800円である。
(争いのない事実)
(4) 破産者の退職金規程では,破産者は退社した従業員に対し退社した日から1か月以内にその従業員の退職金を支払わなければならないと定められている。
(争いのない事実)
(5) 山一互助会(以下「互助会」という。)は,大正15年破産者の従業員の親睦,扶助を図るために設立された組織であり,従業員から会費を徴収して生活費を貸し付けたり遺児育英年金やせんべつ金を支払うなどしていた。破産者の債券部部長,投資信託部部長,山一證券従業員組合(以下「組合」という。)の執行委員長などが互助会の常任理事となり,その互選によって理事長を選任し,常任理事会の決議をもって互助会を運営してきた。
互助会には,山一互助会規約(以下「本件規約」という。)が設けられており,平成9年7月1日から実施された本件規約には次のような定めがある。
「第1章 総則
第5条(事業)
本会は,第2条の目的を達成するため次の事業を行う。
1ないし5は省略
6 会員に対する金銭の貸付
7は省略
第8章 貸付
第45条(貸付の区分)
会員に対する金銭の貸付は,次の各号に定める支出に係る信用貸付および株式購入貸付とする。
1 自己の居住する面積330平米以下の土地の購入(ただし,山一住宅融資制度との同時申込の場合を除く)
2 自己の居住する延面積165平米以下の家屋の購入(ただし,山一住宅融資制度との同時申込の場合を除く)
3 自己の居住する延面積165平米以下の所有家屋の新築・増改築(ただし,山一住宅融資制度との同時申込の場合を除く)
4 自己の居住する所有家屋に付随する門扉,塀,外構,車庫,浴室,洗面所,床・壁の張り替え,キッチンシステム,ソーラー・システムの設備工事
5 自己の居住する所有家屋の修理費
6 自己の居住する所有家屋の風水害,火災等による復旧費用
7 自己または配偶者および子女の教育に要する資金(2年次以降の授業料も可。ただし,授業料等については1年度分までを対象とする)
8 自己または扶養する家族の傷病費用
9 自己または子女の結婚式,披露宴に要する費用
10 配偶者,子女および実・養・義父母の葬儀費用
11 墓地・墓石の購入
12 自己の居住する賃貸家屋(借間を含む)の敷金・礼金・仲介料・更新料
13 自己研鑽のため必要とするパーソナルコンピュータの購入資金
14 自動車の購入資金
15 自己または扶養する家族の旅行費用
16 その他常任理事会において適当と認めたもの
<2> 株式購入貸付は,会員が自己名義で会社に開設する口座を通じて行う会社の発行する株式の購入に係る貸付とする。
第52条(返済)
本会から貸付を受けた者が元利金完済以前に死亡,退社および解雇により退会するときは残金全額を一括返済しなければならない。
第53条(全額返済)
本人の希望により貸付金全額を返済する場合は,給与または退職金の支給日に返済することができる。
<2> 貸付金は期限前であっても,事情により常任理事会の決議をもって全額を返済させることができる。」
互助会は,昭和60年4月1日から破産者等の従業員が破産者の株式を市場から買い付けた代金を融資するという取扱いを始めた(互助会の会員である破産者等の従業員が破産者の株式を市場から買い付けた代金の貸付けを互助会から受ける制度を以下「自社株融資制度」という。)。
(争いのない事実,<証拠略>)
(6) 原告中原は,別紙<略>1において「中原誠」と記載された部分の株購入日欄に記載された年月日に,同部分の購入株数欄に記載された数の破産者の株式を,同部分の購入単価欄に記載された1株当たりの単価で購入した購入代金(同部分の株購入代金総額欄記載の金額)の支払に充てる目的で,自社株融資制度を利用して,互助会から,同部分の借入日欄記載の年月日に,同部分の借入金額欄記載の金額の金員を借り受けた。原告中原の右の借入金に対する弁済の状況は,別紙2に記載されたとおりである。
原告黒岩は,別紙1において「黒岩泰」と記載された部分の株購入日欄に記載された年月日に,同部分の購入株数欄に記載された数の破産者の株式を,同部分の購入単価欄に記載された1株当たりの単価で購入した購入代金(同部分の株購入代金総額欄記載の金額)の支払に充てる目的で,自社株融資制度を利用して,互助会から,同部分の借入日欄記載の年月日に,同部分の借入金額欄記載の金額の金員を借り受けた。原告黒岩の右の借入金に対する弁済の状況は,別紙3に記載されたとおりである(原告らが破産者の株式の購入代金の支払に充てる目的で自社株融資制度を利用して互助会から金員を借り受けたことを総称して以下「本件貸付け」という。)。
(争いのない事実,弁論の全趣旨)
(7) 原告らは,本件貸付けの申込みの際に,それぞれ原告らが破産者を退職するときは退職時における原告らの本件貸付金に係る残元本及びこれに対する利息を一括して弁済することを合意した。
(争いのない事実)
(8) 破産者は,昭和43年12月2日,組合との間で労働基準法24条1項ただし書に基づいて賃金の一部を控除して支払うことについて次のとおり協定した(以下「本件協定」という。)。
「一 会社は従業員の毎月の給与および賞与から次の各号に定めるものを控除することができる。
1 法令に基づき従業員が支払うべきもの
2 社宅または寮使用料
3 互助会費
4 互助会貸付返済金および利息
5 住宅融資返済金および利息
6 社内預金
7 累積投資払込金
8 従業員組合費
9 生命保険料,損害保険料,傷害保険料
10 割賦払による物資購入の払込金
11 その他会社と組合が協議して必要と認めたもの
二 会社は従業員が死亡しまたは退職した場合において,前条各号に掲げるもののうち未払額があるときは退職金から控除することができる。
三 この協定の有効期間は協定締結の日から三年とする。ただし期間満了九十日前までに会社または組合が改訂の申入をしないときは,有効期間は更に1年間延長するものとし,その後も同様とする。」
(<証拠略>)
(9) 破産者は,自主廃業の公表後,退職マニュアルを制定し,これを各従業員に通達したが,この退職マニュアルの中には,要旨,次のような内容の記載がある。
ア 自社株融資制度等を利用して互助会から貸付けを受けている従業員が,貸付残高のうち200万円又は退職金の50パーセントに相当する金額のいずれか小さい方までについて,退職金からの弁済の猶予を希望する場合には,退職金からの弁済を猶予する。
イ アで弁済の猶予を希望した従業員の退職金のうち弁済を猶予した分についてはその従業員に支払い,その余の分については貸付残高の弁済に充てるものとする。
ウ アで弁済の猶予を希望した従業員は,弁済を猶予された分について公正証書を作成する。
(争いのない事実,<証拠略>)
(10) 原告中原は,解雇時に本件貸付けに係る残元本として金394万6440円(別紙1において「中原誠」と記載された部分の「株融資残額」欄記載の金額の金員),互助会からの貸付けの残元本として金59万円(別紙5において「中原誠」と記載された部分の「融資の抗弁」欄中の「融資内容」欄中の「項目」欄において「特別3回」と記載された欄の「退職時残高」欄記載の金額の金員),残元本の合計として金453万6440円及びこれに対する利息の返還債務を負っていたが,原告中原は,破産者に対し,原告中原の退職金と親から借りた金員をもって右の返還債務を弁済することにし,平成10年1月末ころ,本件貸付けに係る残元利金として合計395万9787円及び互助会からの貸付けの残元利金として59万0577円,総計455万0364円から,原告中原の退職金321万4020円及び原告中原に支払われるべきせんべつ金10万円,合計331万4020円を控除した残金123万6344円を破産者に支払った。
原告黒岩は,退職時に本件貸付けに係る残元本として金271万5020円,互助会からの貸付けの残元本として金33万円,残元本の合計として金304万5020円及びこれに対する利息の返還債務を負っていたが,原告黒岩は,破産者に対し平成9年10月31日付けで別紙4の任意相殺合意書(以下「本件相殺合意書」という。)を差し入れている。
(争いのない事実,<証拠略>)。(ママ)
(11) 破産者は,平成11年6月2日,東京地方裁判所において破産宣告を受け(同裁判所平成11年(フ)第3936号破産事件。以下「本件破産事件」という。),被告が破産管財人に就任した。
(争いのない事実)
(12) 原告中原は,本件破産事件において未払退職金として金321万4020円の債権及びこれに対する退職金の支払日の翌日である平成10年3月1日から破産者が破産宣告を受けた日の前日である平成11年6月1日まで民法所定の年5分の割合による遅延損害金として金20万1646円の債権をそれぞれ優先権のある破産債権として届け出た。
原告黒岩は,本件破産事件において未払退職金として金58万4800円の債権及びこれに対する退職金の支払日の翌日である平成9年11月15日(なお,原告黒岩は,本訴では退職金の支払日を平成9年11月15日と主張しているが,破産債権の届出では退職金の支払日を平成9年11月14日としている)から破産者が破産宣告を受けた日の前日である平成11年6月1日まで民法所定の年5分の割合による遅延損害金として金4万5101円の債権をそれぞれ優先権のある破産債権として届け出た。
(争いのない事実)
(13) 被告は,平成11年12月15日に開かれた本件破産事件の債権調査期日において原告らから届け出られた右(12)の各債権について異議を述べた。
(争いのない事実)
3 争点
(1) 破産者は,本件協定に基づいて,原告らの退職金から原告らの退社時における本件貸付けに係る残元本等を控除することができるか。
ア 被告の主張
破産者は,本件協定,本件規約52条(前記第2の2(5))及び本件貸付けの申込みの際の退職時の一括返済約定(前記第2の2(7))に基づいて退職金全額を本件貸付けに係る残元本等の返済に充当処理することができる。破産者においては本件協定に基づいて従前から従業員の退職時に退職金から互助会の貸付けに係る貸付金を控除してきており,従業員もその処理を当然と考えてきたのであって,もはや慣例化しており,原告らについてもこれと同様の方法により処理しようとした。
イ 原告らの主張
(ア) 破産者は,原告らの個別の合意なしに原告らの退職金から本件貸付けに係る残元本等を控除することができる理由として本件協定を挙げているが,互助会と破産者は別の組織であり,そうであるとすると,原告らは,破産者に対し退職金債権を有しており,互助会は,原告らに対し本件貸付けに係る残元本等の返還請求権を有していることになるが,この2つの債権を相殺することはできない上,本件協定は,破産者と組合との間の合意であり,原告らは,本件協定の内容を了解したことはないのであるから,本件協定をもって原告らの個別の合意なしに原告らの退職金から本件貸付けに係る残元本等を控除することはできないというべきである。本件協定については後記のとおり一般組合員はおろか組合執行部も把握していない実情にあっては,破産者と原告らとの間に黙示の合意が成立しているということもできない。
(イ) 仮に破産者が本件協定を理由に原告らの個別の同意なしに本件貸付けに係る残元本等を控除することができるとしても,そもそも本件協定は,次の理由により効力を有しないから,結局のところ,本件協定に基づいて原告らの個別の同意なしに本件貸付けに係る残元本等を控除することはできない。
a 本件協定が,労働基準法24条1項ただし書にいう「労働者の過半数で組織する労働組合」との間で締結された協定であるといえるかどうかは疑わしい。なぜなら,平成9年当時の組合には本件協定が全く引き継がれていないからである。
b 労働基準法24条1項ただし書は,購買代金,住宅,寮,その他の福利厚生施設の費用,社内預金,組合費等,事理明白なものについてのみ,労働基準法36条の時間外労働と同様の労使の協定によって賃金から控除することを認める趣旨である(27.9.20基発675)ところ,本件貸付けのうち自社株融資制度に基づく貸付けは,その本質において株式投資であり,従業員の福利厚生とはいえない上,自社株融資制度に基づく貸付けは,破産者が自己の財務内容を偽って「飛ばし」や「にぎり」を大がかりに行っている事実を違法に秘匿して原告らに破産者の株式を買わせてその代金を互助会から借り入れさせたというもので,貸金そのものが存在しないのであり,また,破産者の株式を買わせるに当たって破産者が破綻する直前の平成9年11月に破産者の延命を目的に「山一は大丈夫」という情報をわざと流して破産者の株式を買わせてその資金を互助会に融資させたという極めて違法性の高いものが含まれているのであって,そうである以上,本件貸付けに係る残元本等についてこれを本件協定に基づいて控除することが従業員の福利厚生を目的とした労働基準法24条1項ただし書の趣旨に反することは明らかであり,本件協定がそのような控除を許容するものとすれば,本件協定はそれ自体が無効であるというべきである。
c 破産者と互助会が別法人であるとすれば,破産者が互助会の従業員に対する貸付金を処分するような内容の協定を互助会の関与もなしに作成することはできないというべきであるところ,本件協定は,破産者が互助会の従業員に対する貸付金返還請求権を処分するという内容であるから,本件協定の成立に互助会が関与していない以上,本件協定は無効である。
d 本件協定は,労働基準法24条1項ただし書が定めた賃金全額払の原則の例外であり従業員にとって不利益な内容であるから,これが有効といえるためには少なくとも従業員が本件協定の内容を知りうる機会が与えられなければならないところ,組合が発行したハンドブック(組合員手帳)には互助会の貸付金を給与から控除することは書かれているが,退職金から控除することは書かれていないのであり,また,このハンドブックを作成した当時の組合も本件協定の存在を知らなかったのであって,このように本件協定二項については破産者の従業員にこれを知る機会が与えられていたということはできないのであり,本件協定は,原告らの退社時には失効していたものというべきである。
(ウ) 仮に本件協定が有効であるとしても,次の理由により,破産者は,本件協定に基づいて原告らの退職金から本件貸付けに係る残元本等を控除することはできない。
a 本件協定は,昭和43年12月2日に成立しているのに対し,自社株融資制度は,昭和60年4月1日に創設された制度であるから,本件協定は,自社株融資制度に基づく貸付けを対象とはしていないものと解すべきである。
b 自社株融資制度に基づく貸付けに係る返済金を原告らの給与及び賞与から控除することについては原告らと互助会との間で合意していたが,自社株融資制度に基づく貸付金等を退職金から控除することは合意していないのであり,原告らと破産者との間でも自社株融資制度に基づく貸付金を退職金から控除することは合意していないのである。したがって,破産者が本件協定に基づいて原告らの退職金から原告らの退社時における本件貸付けに係る残元本等を控除することはできない。
(エ) 仮に破産者が本件協定に基づいて原告らの退職金から本件貸付けに係る残元本等を控除することができたとしても,民法510条及び民事執行法152条により原告らの退職金の4分の3に相当する部分については控除することができない。
ウ 被告の反論
(ア) 本件協定は,過半数で組織された労働組合との間で締結した協定である。破産者は,本件協定の成立以降現在に至るまで退職する従業員の退職金から貸付金の控除を行ってきており,また,労働基準監督署が今回の退職金の処置について本件協定を含めた関係書類を審査したにもかかわらず違法であるとの指摘は受けなかったのであり,さらに,破産者は,平成9年12月12日付けで組合から自社株融資や互助会融資などの支払猶予の具体的な措置を明らかにするよう求められ,これを受けて前記第2の2(9)のとおり決定したのであって,以上によれば,破産者は,本件協定に基づいて本件貸付けに係る貸付金等を従業員の退職金から控除することができるのであり,また,本件協定は現在に至るまでその効力を有しているというべきである。
(イ) 本件協定が労働基準法24条1項ただし書に反するという原告らの主張に対する反論は,次のとおりである。
a 労働基準法24条1項ただし書は事理明白なものについてのみ法36条の時間外労働と同様の労使の協定によって賃金から控除することを認める趣旨であるとの通達が存在することは原告らの主張するとおりであるが,これは,控除の対象が従業員にとって明確に識別できるものであって,予想されないものを控除される不利益を防ぐことにあると考えられるから,この通達は,従業員の個別の同意が不要であることを前提としているものと解される。
b 自社株融資制度は,破産者の従業員が財産形成の目的で破産者の株式を購入することを支援する目的で行われたものであり,正に福利厚生の意味,目的を有している上,自社株融資制度に基づく貸付けには原告らの主張に係る違法性はないのであるから,本件貸付けに係る残元本等についてこれを本件協定に基づいて控除することは従業員の福利厚生を目的とした労働基準法24条1項ただし書の趣旨に反しない。
(2) 原告中原が本件貸付けに係る残元本等の弁済に退職金を充てたこと及び原告黒岩が破産者に本件相殺合意書を差し入れたことによって,原告らの退職金債権は消滅したかどうか。
ア 被告の主張
前記第2の2(10)によれば,原告らは,破産者との間で原告らの退職金を本件貸付けに係る残元本等の支払に充てることを合意したというべきである(以下「本件相殺の合意」という。)が,本件相殺の合意が原告らの「自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは」,本件相殺の合意は有効であるということができる(最高裁平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁)ところ,本件相殺の合意が原告らの自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在することは,前記第2の2(10)の事実から明らかである。
イ 原告らの主張
(ア) 本件相殺の合意が原告らの自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在しないことは,次の事実から明らかである。
a(a) 原告中原は,平成10年1月中旬ごろ破産者が一方的に制定した退職マニュアルによる互助会の貸付金と退職金との相殺を知らされた後に,厚生課から電話で「全額相殺するのか,公正証書を作成して半分だけ相殺するか,どうするか。」と聞かれたが,公正証書を作成するのは気分的に嫌だったし,その作成に別に費用を取られるという話も聞いて,全く納得できなかったが,親から借りて互助会の貸付金を支払った。
(b) 原告黒岩は,平成9年10月15日に退職手続を済ませ,同月下旬ころ破産者の自由が丘支店に呼び出され,「会社に借金を残したままで退職するとは何事だ。」という雰囲気の中で,同支店の支店長,総務次長及び退職金支払を担当している厚生課所属の2名の従業員から,「互助会貸付を全額返してもらうことになっているが,退職金をその返済に充ててもらう。」,「もし互助会貸付が返済されないのなら,新しい勤務先にも影響が出る。」と脅され,やむなくそれに従うことにし,破産者の用意した本件相殺合意書に署名押印した。
b 原告らは,前記aのとおり自社株融資制度に基づく本件貸付けに係る残元本等の返済を破産者から強く求められていた。原告らは,この融資には非常に問題があり,その支払を不満に思っていたが,どのように対応していいのか分からなかった。また,原告らには再就職の不安があった。前の就職先でトラブルがあると,再就職に重大な影響が出て最悪の場合には採用してもらえないのではないかという不安が大きかった。そして,破産者は,自らの提案に係る条件を原告らが受け入れないときには退職金を出さないという強い態度に出ていた。破産者は,自主廃業前にしろ,自主廃業後にしろ,強い立場にあったのに対し,原告らは職を失い,法的対応力の弱さ,今後の生活維持,再就職のことなどを考えれば,退職金の交渉という場における立場は弱く,その差は圧倒的であった。
(イ) 本件相殺の合意は,原告らの自由な意思に基づいてされたものであるということはできない。すなわち,原告らは,本件相殺の合意の際には本件貸付けが取り消し得るものであることを知らなかったのであり,破産者が,2900億円もの簿外債務があることを公表し,平成10年4月17日に山一證券社内調査報告書を公表して,はじめて原告らは,本件貸付けが取り消し得るものであることを知って,本件訴訟を提起し,本件貸付けについて詐欺取消しの意思表示をし,錯誤無効の主張をするに至ったのであり,右のような経過によれば,原告らがした本件相殺の合意が原告らの自由な意思に基づいてされたものということができないことは明らかである。
(3) 本件貸付けは詐欺を理由に取り消され,又は,原告らの錯誤により無効か。
ア 原告らの主張
(ア) 破産者は,多額の債務を隠し,虚偽の損益計算書や貸借対照表を公表し,破産者の財務内容を偽り,それが真実であると原告らをして誤信せしめた。原告らは,破産者の公表された財務内容やうその社内情報を信じて破産者の株式を買った。破産者の自主廃業の公表直前の「破産者の財務内容は大丈夫」という社内情報により破産者の株式の購入を決断したケースも相当多数に及んでいる。破産者は,自主廃業直前に自社株融資制度の適用を拡大する措置もとっている。しかし,原告らが破産者の真実の財務内容を知っていれば,破産者の株式を買うことはなかった。原告らは,自社株融資制度を利用して互助会から本件貸付けを受け,約定に従い給与などから天引きされて分割弁済してきた。
(イ) 以上の次第で,本件貸付けは,破産者の欺罔行為により締結されたものというべきである。
そして,破産者の従業員は,入社の日をもって互助会に入会し互助会員となるが,会員は,互助会の意思決定に何らの関与もさせられず,破産者の幹部で構成する常任理事会と称する集団が財産処分,規約改正など互助会の根本に関する事項ですら会員に意見を聞かずにすべてを決定することができることになっているが,その決定は,当然ながら破産者の意向を受け,ないしは方針に沿うものでなければならず,少なくとも破産者の意思に反することは事実上できないのであって,このように,互助会は,その運営のすべてが破産者の指揮下にあり,自社株融資制度も破産者の管理の下に行われていた。そして,自社株融資制度に基づく融資の回収の具体的な方法も破産者が定めた「退職手続マニュアル」に記載され,これが破産者の顧問委員会の承諾を得て作成され,それに基づいて互助会が実行しているにすぎず,互助会の独立した意思はなく,単なる互助会の事務を破産者の指示のまま執行するにすぎないのであって,まさしく実体はわら人形にすぎない。
したがって,互助会に権利能力なき社団としての地位を一般的に与えることができるとしても,破産者の欺罔行為は互助会の欺罔行為と見るべきであって,原告らは,民法96条1項に基づき本件訴状により本件貸付けを取り消す旨の意思表示をする。
仮に破産者の欺罔行為を互助会の欺罔行為と見ることができないとしても,互助会は破産者の欺罔行為を知っていたのであるから,原告らは,民法96条2項に基づき本件訴状により本件貸付けを取り消す旨の意思表示をする。
また,前記のとおり原告らの自社株購入については錯誤があるが,この錯誤は,本件貸付けの動機として表示されていたというべきであるから,本件貸付けは,錯誤により無効である。
イ 被告の主張
否認ないし争う。
破産者が原告らの主張に係る欺罔行為をしたことはない。したがって,本件貸付けは,有効に存続している。
(4) 本件貸付けが取り消され又は無効である場合に,原告らの退社時における本件貸付けに係る残元本等について,原告らが互助会に返済すべき金額は幾らか。
ア 原告らの主張
(ア) 原告らは,(3)アの取消し又は錯誤無効によって本件貸付けに係る貸付金によって買い付けた破産者の株式を不当利得しているというべきである。その理由は,次のとおりである。
破産者ないし互助会は,自社株融資制度というシステムを作り,原告らに金銭を貸し付け,その資金で自社株を買うことを積極的に推奨した。破産者ないし互助会が自社株融資制度を設けず,かつ,破産者ないし互助会による積極的な推奨がない場合に,原告らが自社株を購入するために銀行などから借入れをし,あるいは手元資金で株を購入することはなかったのであり,また,実際原告らにおいて銀行から借入れをして自社株を買うとか,手持ちの現金預金で自社株を買ったとの事情はない。
また,自社株融資制度に基づいて互助会から貸し付けられた金員については,貸付けを受けた破産者の従業員の口座に振り込まれているが,直ちに1万円未満の自己資金とともに破産者の株式の買付代金の支払のために引き落とされるのであって,このように自社株融資制度に基づく貸付金は書類上の動きにとどまり,貸付けを受けた従業員がその現金を手にすることは一度としてないのであり,破産者はそのようなシステムを意図的に構築しており,これは,自社株融資制度に基づいて貸し付けられた金員が他に流用されることを防ぐために執られた措置である。
そして,従業員持株融資制度に基づく融資の使途はあくまでも自社株の購入に限られており,特に自社株融資制度においては規約上融資の日から6か月間は一括返済及び自社株の売り付け又は返済が禁止され,また,融資金の返済手続が完了する以前においては自社株の返却又は売り付けが禁止されている。このことからすれば,破産者は,実質的に自社株上に担保を有していたということができる。
以上の事情を考え併せると,自社株融資制度に基づく融資による原告らの利益は,まさに自社株そのものであり,原告らが利得したのは破産者の株式である。
(イ) 原告らは,(3)アの取消し又は錯誤無効によって本件貸付けに係る貸付金で買い付けた破産者の株式を不当利得しているわけであるが,原告らは,善意の利得者であるから,現に利益の存する限度で返還すれば足りるところ,原告らは,現在も破産者の株式を保有しているが,これは現在無価値であるから,原告らには利得はない。
イ 被告の主張
詐欺によって金銭消費貸借契約が取り消されたとしても,当該金銭消費貸借契約に基づいて借主に交付された金員については不当利得返還義務が発生している。この場合,借主が返還義務を負うのは交付された金員相当額の金員である。
(5) 本件貸付けが取り消され又は無効であり,本件貸付けに係る残元本等の利得がゼロであるとした場合に,原告らが弁済した本件貸付けに係る元利金についての不当利得返還請求権等を自働債権として互助会からの貸付けの残元本を相殺することはできるか。
ア 原告らの主張
(ア) 原告中原が解雇前に弁済した本件貸付けに係る元利金は,別紙5において「中原誠」と記載された部分の「再抗弁」欄中の「弁済の再抗弁」欄中の「不当利得金請求権」欄記載のとおりであり,また,原告中原が解雇の際に現金を出えんして弁済に充てた本件貸付けに係る元利金は,同部分の「再抗弁」欄中の「弁済の再抗弁」欄中の「その他の弁済金」欄記載のとおりであるが,これらは,本件貸付けが取り消され又は無効であることにより,互助会が不当に利得したものというべきである。そして,互助会が原告中原に支払うべきせんべつは,同部分の「再抗弁」欄中の「弁済の再抗弁」欄中の「餞別金請求権」欄記載のとおりである。
したがって,原告中原は,互助会に対し,互助会からの貸付けに係る残元本59万円について前記合計額のうち対当額をもって相殺する。
(イ) 原告黒岩が退職前に弁済した本件貸付けに係る元利金は,別紙5において「黒岩泰」と記載された部分の「再抗弁」欄中の「弁済の再抗弁」欄中の「不当利得金請求権」欄記載のとおりであり,また,原告黒岩が退職時に財形貯蓄を解約して弁済に充てた本件貸付けに係る元利金は,同部分の「再抗弁」欄中の「弁済の再抗弁」欄中の「その他の弁済金」欄記載のとおりであるが,これらは,本件貸付けが取り消され又は無効であることにより,互助会が不当に利得したものというべきである。
したがって,原告黒岩は,互助会に対し,互助会からの貸付けに係る残元本33万円について前記合計額をもって相殺する。
イ 被告の主張
争う。
第3当裁判所の判断
1 争点(4)(本件貸付けが取り消され又は無効である場合に,原告らの退社時における本件貸付けに係る残元本等について,原告らが互助会に返済すべき金額は幾らか。)について
(1) 原告らは,本訴において,退職金債権が優先権のある破産債権であることの確定を求めているから,被告が原告らの退職金債権の消滅事由として主張する争点(1)及び(2)は,いずれも抗弁に当たると解されるが,被告の抗弁は,いずれも本件貸付けに係る金銭の返還請求権が有効に成立していることを前提としているところ,原告らは,再抗弁として,本件貸付けに係る金銭の返還請求権が取り消され又は無効であり(争点(3)),その結果,結局のところ,原告らの互助会に対する不当利得返還債務の金額はゼロになる(争点(4))と主張しており,仮に,原告らの主張のとおり原告らの互助会に対する不当利得返還債務の金額がゼロになるとすれば,少なくとも原告らの退社時における本件貸付けに係る残元本及びこれに対する利息を原告らの退職金から控除することはできないことになる。
そこで,まず,仮に,本件貸付けが取り消され又は無効であると仮定した場合に,原告らの互助会に対する不当利得返還債務の金額がゼロになるかどうか(争点(4))について判断することとする。
(2) 前記第2の2(6)及び(10)の各事実,証拠(<証拠略>,原告中原)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められ(ただし,争いのない事実を含む。),この認定を左右するに足りる証拠はない。
ア 互助会は,原告中原に対し,平成9年4月23日に利息を年2.1パーセントとして345万円を,同年11月25日に利息を年2.1パーセントとして60万円を,それぞれ貸し付けた(本件貸付け)。原告中原が解雇までに弁済した本件貸付けの元利金の合計は,23万9351円である。原告中原の解雇時における本件貸付けに係る残元本は394万6440円であり,原告中原の解雇時における互助会からの貸付けの残元本は59万円であった。これらの残元本の合計及びこれに対する解雇時における利息の総計は,395万9787円であった。
(前記第2の2(6)及び(10),争いのない事実,<証拠略>,原告中原,弁論の全趣旨)
イ 互助会は,原告黒岩に対し,平成9年1月16日に利息を年2.1パーセントとして287万円を貸し付けた(本件貸付け)。原告黒岩が退職までに弁済した本件貸付けの元利金の合計は,17万7554円である。原告黒岩の退職時における本件貸付けに係る残元本は金271万5020円であり,これに対する平成9年6月3日以降の利息が未払であった。原告黒岩の退職時における互助会からの貸付けの残元本は33万円であり,この互助会からの貸付けについては利息を支払う旨の約定があった。
(前記第2の2(6)及び(10),争いのない事実,<証拠略>,弁論の全趣旨)
ウ 自社株融資制度の概要は,次のとおりである。
(ア) 日的 自社株を買い付けた代金について互助会会員が希望する金額を互助会が融資するもので,福利厚生の一環として従業員の財産形成を日的とする。
(イ) 融資限度額 売渡代金のうち1万円単位までの融資希望額であるが,勤続年数により異なる。
(ウ) 融資回数 3回まで(ただし,平成9年4月ころに5回に拡大された。)
(エ) 貸付利息 賞与から天引きする方法により控除する。
利率は,変動金利であり,平成4年4月15日までは年6.8パーセント,同年10月15日までは年5.7パーセントであり,平成5年4月15日までは年5.3パーセントであり,同年10月15日までは年4.6パーセントであり,平成6年4月15日までは年4.1パーセントであり,平成7年6月15日までは年3.5パーセントであり,同年10月13日までは年2.8パーセントであり,平成8年4月15日までは年2.4パーセントであり,同月16日から現在に至るまでは年2.1パーセントである。
(オ) 融資申込日 自社株買付約定日の翌日
(カ) 融資実行日 自社株買付の受渡日(買付約定日の4取引日目の日)
(キ) 返済期間 10年
(ク) 返済方法 元金均等方式で,給与から元金の500分の1を,賞与から500分の19を,それぞれ天引きする方法により返済する。賞与は年2回である。
(ケ) 返済開始時期 原則として買付の翌月の給与から天引きを開始する。
(コ) 申込必要書類 借入金証書,受渡計算書(約定明細),借入金連絡メモ
(サ) その他 融資日から6か月間は一括返済及び売り付けはできない。融資金の一部返済はできない。融資金の返済手続が完了する前に証券の返却又は売り付けをすることはできない。
(争いのない事実,<証拠略>)
エ 破産者の従業員が,自社株融資制度を利用して互助会から融資の実行を受けるまでの流れは,次のとおりである。
従業員は,上司に購入を希望する株式数を申し出,その購入について上司の許可を得る。許可が得られた従業員は,一般の顧客と同様に破産者に取引口座を開設し,許可した上司以外の上司が担当としてその従業員のために自社株を市場から買い入れる。破産者は自社株買付の有価証券売買取引報告書(受渡計算書)をその従業員に交付し,株購入代金総額が確定する。自社株を買い付けた従業員は,自社株買付の翌日,互助会所定の用紙に株購入代金総額のうち1万円未満を切り捨てた1万円単位の金額を書き込んで借用書を作成し,破産者を通じて互助会に提出する。自社株を買い付けた従業員は,株購入代金総額のうち1万円未満の金額を破産者の入金担当の従業員に交付し,交付された金員は破産者に開設されたその従業員の取引口座に入金される。互助会に貸付けを申し込んだ貸付金は,自社株買付の日から4取引日目の日(この日が自社株の受渡日となる。)に,貸付けを申し込んだ従業員の取引口座に互助会から送金され,同日その取引口座から株購入代金総額が引き落とされ,これによってその自社株は買い付けた従業員の所有となるが,破産者は直ちにその株券を担保として預かり,すぐには買い付けた従業員に交付されない。
このように,互助会から送金された貸付金は,自社株を買い付けた従業員の取引口座に送金され,直ちに株購入代金総額の支払のために引き落とされ,貸付けを申し込んだ従業員が互助会から貸付けを受けた金員を手にすることはないが,これは,株購入代金の支払に充てる目的で貸付けを受けた従業員が貸付金を引き出して他の使途に充てることを防ぐことがその目的の1つとなっている。
(争いのない事実)
(3) 争点(4)に関する原告らの主張は,要するに,本件貸付けは,詐欺を理由に取り消され,又は,錯誤により無効であるから,本件貸付けに基づく金銭の返還請求権は無効であり,原告らは,互助会に対し不当利得返還債務を負うところ,原告らが利得したのは金銭ではなく株式であり,この株式は,現在無価値である上,原告らは.利得について善意であるから,結局のところ,原告らは,互助会に対し,不当利得返還義務を負わないことになる,というものである。
金銭消費貸借契約に基づき金銭の貸付けを受けた借主は,金銭消費貸借契約が取り消され又は無効である場合には,貸主に対し不当利得返還債務を負うことになるが,貸主が金銭消費貸借契約に基づいて借主に交付したのが金銭である以上,借主が利得したのは金銭であるというべきである。
借主が金銭消費貸借契約に基づいて貸主から交付された金銭をもって株式を購入したからといって,そのことから直ちに借主が利得したものが株式になるわけではない。金銭消費貸借契約が株式の購入代金を融通する目的で締結されたものであるとしても,そのことは,借主が利得したのは金銭であるとの結論を左右するものではないし,また,破産者の従業員が自社株融資制度を利用して互助会から融資の実行を受けるまでの流れによれば,互助会から送金された貸付金は,自社株を買い付けた従業員の取引口座に送金され,直ちに株購入代金総額の支払のために引き落とされ,貸付けを申し込んだ従業員が互助会から貸付けを受けた金員を手にすることはないが,そのことは,借主が利得したのは金銭であるとの結論を左右するものではない。
結局,原告らの主張は,採用できない。
(4) そうすると,仮に,本件貸付けが取り消され又は無効であるとすれば,原告中原は,法律上の原因もないまま414万円を利得し,解雇までにこのうち23万9351円を弁済したということになるから,原告中原の退社時における不当利得の金額は,少なくとも390万0649円であるということになり,また,原告黒岩は,法律上の原因もないまま287万円を利得し,退職までにこのうち17万7554円を弁済したということになるから,原告黒岩の退社時における不当利得の金額は,少なくとも269万2446円であるということになる。
2 争点(2)(原告中原が本件貸付けに係る残元本等の弁済に退職金を充てたこと及び原告黒岩が破産者に本件相殺合意書を差し入れたことによって,原告らの退職金債権は消滅したかどうか。)について
(1) 前記第2の2(9)及び(10)の各事実,証拠(<証拠略>,原告ら本人)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められ,証拠(<証拠略>,原告黒岩)のうちこの認定に反する部分は採用できず,他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。
ア 自社株融資制度をはじめとする貸付制度を利用して互助会から貸付けを受けた者は,互助会との間で,退社時に貸付残高及びこれに対する利息を一括して返済する旨の合意をしており,破産者は,これまで互助会から貸付けを受けた従業員が破産者を退社するときにはこの貸付金を退職金から控除するという取扱いをしてきた。
組合は,破産者が自主廃業をすることを公表した後である平成9年12月12日,破産者に対し,雇用関係消滅後の社内融資(住宅ローン,自社株融資,互助会融資等)に関する支払猶予措置等の具体的対応策を早期に示すことをはじめとする5項目の要求を行った。これを受けて,破産者は,同月中に,<1>社内融資については原則として退職金で全額弁済することとするが,互助会特別融資,自社株融資及び住宅融資については合計200万円(ただし,退職金の50パーセントを上限とする。)まで弁済を猶予し,<2>残債務の返済方法については3年後をめどとした債権譲渡をあらかじめ承諾の上,従来どおりの返済方法で破産者と契約し,退社時までに契約書を取り交わすという措置を執ることを明らかにした。そして,破産者は,これらの措置を執ることを前記第2の2(9)のとおり退職マニュアル中に盛り込んだ。
(前記第2の2(9)の事実,<証拠略>,弁論の全趣旨)
イ 原告中原は,平成10年1月中旬ころ,上司であるエクイティトレーディング第二部長から,人事部からの報告として相殺の方法について簡単な説明を受け,その数日後に社内メールによって相殺の方法の内容が知らされた。原告中原は,破産者を解雇される1週間ほど前に,破産者の人事部厚生課所属の従業員から電話で「互助会貸付金と退職金を相殺するか,半額相殺して残りについて公正証書を作成するか,どうするか。」と聞かれ,どちらも嫌ではあったが,借金を残しておくこともためらわれたので,破産者側の非に疑問を持ちつつも相殺に応ずることにし,解雇前の同月末ころにその旨を人事部厚生課所属の従業員に伝えた。原告中原には,退社時に本件貸付けに係る残元本として金394万6440円,互助会からの貸付けの残元本として金59万円,残元本の合計として金453万6440円及びこれに対する利息の返還債務があったが,原告中原は,自分の退職金と親から借りた金員をもってこの返還債務を弁済することにし,同月末ころ,本件貸付けに係る残元利金として合計395万9787円及び互助会からの貸付けの残元利金として59万0577円,総計455万0364円から,原告中原の退職金321万4020円及び原告中原に支払われるべきせんべつ10万円,合計331万4020円を控除した残金123万6344円を破産者に支払い,貸付金証書の返還を受けた。
(前記第2の2(10)の事実,<証拠略>,原告中原)
ウ 原告黒岩は,平成9年9月に破産者の長崎支店への勤務を命じられたのを契機に破産者を退職することにし,同年10月15日に破産者を退社した。原告黒岩は,退社時に本件貸付けに係る残元本として金271万5020円,互助会からの貸付けの残元本として金33万円,残元本の合計として金304万5020円及びこれに対する利息の返還債務を負っていたが,返済資金がなかったためこれらを返済しないまま,また,返済計画や返済の見通しなどを明らかにしないまま破産者を退職した。原告黒岩は,同月31日(金曜日)に互助会の貸付金の返済の件で破産者から呼び出されて破産者の自由が丘支店に赴き,同支店において,支店長及び支店総務次長の立会いの下に,破産者の人事部厚生課所属の従業員から,「互助会の貸付金と退職金は相殺する。相殺後の貸付金の残金はどのように返済するのか。」と聞かれたが,原告黒岩は,返済資金に窮していたことから,その旨を話した上で,「返す方向で努力する。」旨答えた。原告黒岩は,人事部厚生課所属の従業員から本件相殺合意書の提出を求められ,本件相殺合意書の日付欄,住所欄及び氏名欄等に自署し,自署した氏名の右横に実印を押印した上で,これを提出した。原告黒岩は,人事部厚生課所属の従業員から本件相殺合意書に押印した実印の印鑑登録証明書の提出を求められ,同年11月4日(火曜日)に川崎市から印鑑登録証明書の交付を受け,これを破産者に提出した。
(<証拠略>,原告黒岩)
エ 原告らは,自社株融資制度とは,株式の購入資金のない従業員に購入資金を貸し付けて破産者の株式を購入させる制度であるが,購入した株式が値上がりすれば,これを売却することにより相応の利益を上げることができるので,資産のない者に資産を形成させるための制度であると理解していた。原告らは,そのような理解の下に,資産形成の目的で自社株融資制度を利用して破産者の株式を購入した。
(原告ら本人)
以上の事実が認められる。
これに対し,原告黒岩は,その陳述書(<証拠略>)及び本人尋問において,平成9年10下旬ころに破産者の自由が丘支店に呼び出され,「会社に借金を残したままで退職するとは何事だ。」という雰囲気の中で,同支店の支店長,総務次長及び人事部厚生課所属の従業員から,「互助会貸付を全額返してもらうことになっているが,退職金をその返済に充ててもらう。」,「もし互助会貸付が返済されないのなら,新しい勤務先にも影響が出る。」と脅され,やむなくそれに従うことにし,破産者の用意した本件相殺合意書に署名押印した旨の供述をするが,原告黒岩が互助会からの貸付けを返済しないまま,また,返済計画や返済の見通しを明らかにしないまま破産者を退職したという経緯からすれば,人事部厚生課所属の従業員らが原告黒岩の供述に係る言動をしたことは十分に考えられることではあるものの,原告黒岩が本件相殺合意書の提出を求められた状況に関する原告黒岩の供述の内容に照らせば,原告黒岩が本件相殺合意書の提出を強要されたとは認め難く,そうすると,原告黒岩の供述だけでは,原告黒岩が破産者の従業員から本件相殺合意書への署名押印を強要されたと認めることはできず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(2) 原告らが,本件貸付けの申込みの際に,それぞれ原告らが破産者を退社するときは退社時における原告らの本件貸付金に係る残元本及びこれに対する利息を一括して弁済することを合意していたこと(前記第2の2(7))に,前記第3の2(1)アで認定した事実及び証拠(<証拠略>,原告ら本人)を加えて総合考慮すれば,原告らは,自社株融資制度を利用して互助会から貸付けを受けた貸付金については退社時に退職金等から残債務を一括して返済することを了解していたものと認められること,前記第3の1(2)アないしウの各事実,第3の2(1)エの事実及び証拠(原告ら本人)によれば,自社株融資制度は,自社株を買い付けた代金について互助会会員が希望する金額を互助会が融資するもので,福利厚生の一環として従業員の財産形成を目的とするものであり,その貸付利息は金融機関からの借入れと比べて低利であり,また,その返済期間は10年間で,その返済方法は,毎月の給与から元金の500分の1,年2回の賞与から元金の500分の19,毎年合計元金の500分の50ずつを利息とともに返済するというもので,当初から長期による分割弁済を予定していたことが認められること,以上の点を総合すれば,自社株融資制度を利用して互助会から貸付けを受けた貸付金については退社時の退職金等との相殺処理は当初から予定されていることであるものと認められる。
そして,(1)で認定した事実によれば,原告中原が本件貸付け等に係る残元利金を返済する際に破産者から原告中原の退職金による返済を強要されたことや,原告黒岩が本件相殺合意書を提出した際に破産者からその提出を強要されたことをうかがわせるような事情は認められないのである。
以上によれば,本件相殺の合意は,原告らの自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在していたものというべきであるから,本件相殺の合意は有効である。
これに対し,原告らは,本件相殺の合意の際に本件貸付けが取り消し得べきものであること又は無効であることを知らなかったのであるから,本件相殺の合意が原告らの自由な意思に基づいてされたものとはいえないと主張するが,仮に,本件貸付けが取り消し得べきものであり又は無効であるとしても,本件貸付けに係る金員返還請求権の代わりに本件貸付けに係る金員の不当利得返還請求権がなお存続することは前記認定,説示のとおりであって,そうすると,原告らには相殺の対象とされた債権について錯誤があったにすぎないから,その錯誤をもって本件相殺の合意が原告らの自由な意思に基づくものということができないとはいえない。
そして,仮に,本件貸付けが取り消され又は無効であるとしても,原告中原の解雇時における不当利得の金額は,少なくとも390万0649円であり,原告黒岩の退社時における不当利得の金額は,少なくとも269万2446円であるということになる(前記第3の1(4))から,原告らの退職金債権は,いずれも本件相殺の合意により消滅しているものというべきである。
3 結論
以上によれば,その余の点について判断するまでもなく,原告らの請求はいずれも理由がない。
(裁判官 鈴木正紀)