東京地方裁判所 平成10年(ワ)19749号 判決 1999年6月29日
原告
嶋田隆文
原告
鳴田ユリ子
右両名訴訟代理人弁護士
石井和男
被告
国
右代表者法務大臣
陣内孝雄
右訴訟代理人弁護士
田中清
右指定代理人
黒澤基弘
外六名
主文
一 被告は、原告ら各自に対し、それぞれ二六万一三八五円及びうち二三万六三八五円に対する平成七年三月一一日から、うち二万五〇〇〇円に対する平成一〇年九月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、これを一〇〇分し、その七を被告の負担とし、その余は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告ら各自に対し、それぞれ三八六万八六二五円及びうち三二四万六一二五円に対する平成七年三月一一日から、うち六二万二五〇〇円に対する訴状送達の日(平成一〇年九月九日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、被告が設置する九州大学工学部建築学科に在学中であった訴外嶋田瑞代(事故当時二〇歳。以下「瑞代」という。)が、平成七年三月一〇日に同大学工学部校舎四階から地上に転落して受傷した事故(以下「本件事故」という。)について、右事故は、右建物の構造又は管理に瑕疵があったために生じたものであるとして、瑞代の両親である原告両名が、被告に対し、国家賠償法(以下「法」という。)二条一項に基づき、瑞代の右受傷により原告らが負担した治療関係費、原告ら固有の慰謝料及び本訴の提起に要した弁護士費用の賠償を求めている事件である。
一 争いのない事実等(証拠を示した箇所以外は当事者間に争いがない。)
1 原告嶋田隆文は瑞代(昭和四九年七月一七日生。本件事故当時二〇歳。(甲四、五))の父、原告嶋田ユリ子(以下「原告ユリ子」という。)は瑞代の母である。
2 瑞代は、被告が設置する九州大学工学部建築学科に在学中であった平成七年三月一〇日午後六時三〇分ころ、福岡市東区箱崎<番地略>所在の九州大学工学部構内に建造されている九州大学工学部建築学教室(C棟)(以下「本件建物」という。)四階窓外のひさし(以下「本件ひさし」という。)部分から地上に転落して、加療一〇か月以上を要する右大腿骨骨幹部骨折、右顔面・頭部打撲、前額部挫傷及び前歯牙破損の傷害を負った(甲四、五)(なお、瑞代が転落の開始をした箇所について、原告は「ベランダ」と、被告は「ひさし」と呼んでおり、これは、その部分の機能がどのようなものであったかによって、右部分が通常有すべき安全性を欠いていたか否かについての判断に影響を与える可能性があるとの考えによるものと思われるが、この点については、証拠によって、その構造、用途及び利用状況等を検討していくこととし、便宜上、右転落開始部分を「ひさし」ということにする。)。
本件建物はその内部には教室及び研究室が所在する四階建て建物であり、瑞代は、別紙「九州大学工学部建築学教室(C棟)立体図(北面)」、「九州大学工学部建築学教室(C棟)平面図(4階関係部分)」各黄色部分のひさし部分から地上に転落したものであった。
(甲四、五、一〇、乙一ないし四)
3 原告らからの要望もあり、被告は、本件事故後の平成八年八月ころ、本件ひさし部分に床面からの高さ一一五センチメートルで、9.5センチメートル間隔で縦棒のあるアルミ製手すりを設置した(甲一一ないし一六、一九、乙三、四)。
4 瑞代の負傷に関して、九州大学学友会保健部から九万六九七四円が支払われた。
二 争点(1ないし4)
1 本件ひさし部分の設置又は管理の瑕疵の有無
(原告らの主張)
(一) 瑞代が転落したのは、本件建物四階廊下の外に設置されたベランダ状の部分(被告が「ひさし」と呼んでおり、当裁判所も便宜上「ひさし」と呼ぶこととするのは前記のとおりであるが、原告はこの部分を「ベランダ」と呼んでいるので、原告の主張としては「ベランダ」と記載することもある。)からである。右廊下の外側にはガラス引き戸が設置されており、開閉自由な状態になっており、その外側に幅約一メートルのベランダ状の構造物があり、建物外壁に沿って床から七二センチメートルの高さに手すりが設けられており、右手すりには幅一五〇センチメートル間隔で支柱が立っている。
瑞代は、転落事故当時、右ベランダにおいて理学部グランドで行われていた野球を見ていたところ、手に持っていたスケッチブックを足元のベランダ床に落としたため、その落としたスケッチブックを拾おうとしてしゃがみ込んだとき、身体のバランスを崩し、手すりの隙間から約一〇メートル下の地上に転落した。
右ベランダは、ガラス引き戸を開ければ、廊下から人が自由に立ち入れる構造をしている。右ベランダに手すりはあるものの、幅一四二センチメートル、高さ七二センチメートルの空間が存在し、人の転落を防止するには不十分な構造である。また、右ベランダは、排水のために外部に向かって傾斜が付けられており、瑞代がしゃがみ込んだときに、身体のバランスを崩したのは、このベランダが傾斜していたからである。
(二) 本件建物は、九州大学工学部建築学科の教室及び研究室として使用されている建物であり、教職員及び在校学生だけでなく、大学関係者以外の人の出入りも事実上自由である。
したがって、被告は、教職員、学生及び一般人が建物内で事故が発生しないような措置を講ずべき注意義務があり、本件事故は、被告において、公の営造物たる建物の構造又は管理に瑕疵があったために生じたものといえる。
なお、被告は、本件ひさしは、建物の外観と美観を保つとともに、ガラスの清掃のために設けられているもので、学生等が自由に出入りすることは全く想定していなかったと主張するが、仮に、本件建物設計者がそのような想定で設計したものであったとしても、それは単に設計者の主観にすぎず、建物の設計者は、これを使う人間の通常の行動パターンを考慮して、構造を考えるべきであるところ、前記のとおりの本件ひさし部分の構造からして、通常人が、窓ガラスを開けて「ベランダ」(本件ひさし部分)に出ようとする場合に、この「ベランダ」をひさしであると認識し、「ベランダ」に出ないように躊躇するような物理的、心理的な障害物は全くない。また、被告は、強い力を出さないとガラス戸は開かないと主張するが、女性の力でもガラス戸は問題なく開閉できる。このような構造では、仮に、設計者が「ひさし」だと考えて一般人が出入りすることを予想しておらずとも、客観的な使用形態からすれば、人の出入りができるベランダであると断定せざるを得ない。
また、被告は、本件建物が建造されてから三〇数年間転落事故は一度もなかったと主張するが、たまたま事故がなかったことが安全性を具備していた証拠にはならない。
(被告の主張)
(一) 瑞代の転落箇所と考えられる本件建物四階のひさしは、横幅337.2センチメートル、縦幅(奥行き)六七センチメートルのベランダ状となっている。右ひさしの手前には、大きなガラス戸が二枚あり、開閉は可能であるが、開閉するには相当の力を要する。右ひさし部分はほぼ平坦で、水はけを良くするために、外側に向かって、ひさし真ん中付近で一〇〇分の5.4、左端で一〇〇分の5.7、右端で一〇〇分の7.2の勾配がある。この勾配は、マンション等のベランダとほとんど同じ程度の勾配である。ひさしの外側には、コンクリート製の手すり状の横桁が設けられており、横桁の下には七二センチメートルの空間があるが、右ひさしで、大人がかがんだ場合、頭部又は肩部が右横桁につかえて転落できないような構造となっている。
本件ひさしは、建築物としての美観を保つとともに、ひさし手前のガラス戸の清掃のために設けられているもので、清掃員が出入りすることはあっても、学生等が自由に出入りすることは全く想定していない。また、本件建物が建築された後三〇数年間、転落事故は一度もなかった。
(二) ところで、法二条一項にいう営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいい、右の安全性を欠くか否かの判断は、①当該営造物の構造、②本来の用法、③場所的環境及び④利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的、個別的に判断されるべきものである(最高裁昭和四五年八月二〇日第一小法廷判決・民集二四巻九号一二六八頁、最高裁昭和五三年七月四日第三小法廷判決・民集三二巻五号八〇九頁、最高裁昭和六一年三月二五日第三小法廷・民集四〇巻二号四七二頁、最高裁平成五年三月三〇日第三小法廷判決・民集四七巻四号三二二六頁)。
(三) これを本件についてみるに、前記のとおり、①本件ひさし部分は、横幅337.2センチメートル、縦幅(奥行き)六七センチメートルで、ひさし外側に高さ七二センチメートルのコンクリート手すりが設けられていること、②本件ひさし部分は、本来、建築物としての美観を保つとともに、ひさし手前の窓ガラスや壁の清掃のために設けられたものであること、③本件事故現場は大学の構内であり、また、本件建物四階は教官室と会議室が存するだけであり、本件建物に出入りする者は教官・学生等大学関係者に限られること、④本件ひさし部分入口には窓ガラスが二枚あり、開閉するには相当な力を要すること、⑤本件ひさし部分は、窓ガラス、壁の清掃に利用されており、学生等が出入りすることは想定されていなかったこと、⑥現に、本件建物が建築された昭和三〇年代半ばころ以降、三〇年以上もの長きにわたって転落事故は一度も起きていなかったことが認められ、これに加え、瑞代は当時二〇歳の建築学科の学生であり、十分な判断力・注意力を有していたと推測されること、その瑞代が、既に日の沈んだ午後六時三〇分ころ、肌寒く、かつ風が比較的強く吹き付ける中、自らの意思で、その本来の用法に反して、本件ひさし部分に足を踏み入れるという行動に及んでいることなども併せ考えると、本件ひさし部分につき営造物が通常有すべき安全性を欠いているとは到底いえず、その設置又は管理に何らの瑕疵も存しないことは明らかである。
2 因果関係
(原告らの主張)
瑞代は、転落事故当時、右ベランダにおいて理学部グランドで行われていた野球を見ていたところ、手に持っていたスケッチブックを足元のベランダ床に落としたため、その落としたスケッチブックを拾おうとしてしゃがみ込んだとき、身体のバランスを崩し、手すりの隙間から約一〇メートル下の地上に転落した。
本件事故は、前記1の「原告の主張」のとおり、右ベランダ(本件ひさし)部分の設置又は管理の瑕疵に起因して発生したものである。
(被告の主張)
本件ひさし部分に設置管理上の瑕疵は何ら存在しないが、仮に瑕疵が存したとしても、本件事故は、瑞代が自らの意思でおよそ予想することのできない方法で手すり部分から身を乗り出したり、手すり部分に乗るなどして転落したものと考えられるので、本件ひさし部分の設置管理上の瑕疵と本件事故発生との間の因果関係は存しない。
すなわち、①本件ひさし部分に設置されたコンクリート手すりの下部には七二センチメートルの空間があるが、大人がかがんだ場合、通常、頭部又は肩部が手すりにつかえて容易に転落しないはずであり、その構造からして手すり下部から転落するということ自体極めて不自然であること(乙三)、②仮に、原告ら主張のようにして瑞代が不慮の事故により転落したというのであれば、瑞代の身体に手すり下部の隙間から抜け落ちる際に擦過傷などが生ずるはずであるが、実際にはそのような傷害を負った形跡がないこと(甲二・一一頁、甲四、五、乙三)、③瑞代は、あえて春休み中に大学に赴いたにもかかわらず、本件事故の約一時間半前には本件建物二階階段付近でスケッチブックを持って佇んでおり、本件事故直前には、肌寒く、風も比較的強く、しかも既に日が暮れていたにもかかわらず(乙五)、一人、本件事故現場で何かを眺めているなど、その行動は極めて不自然であること(乙七・二項2)、④瑞代は、その両親である原告らが本件事故につき損害賠償請求訴訟を提起しているにもかかわらず、自らは訴えを提起することもなく、証人として証言することは勿論、陳述書を作成することすら拒んでおり、その姿勢は九州大学大学院修士課程を修了して既に就職した現在に至っても変わっていないことなどの事実ないし事情に照らすと、瑞代が自らの意思で、およそ予想することのできない方法で、手すり部分から身を乗り出したり、手すり部分に乗るなどして転落したものとしか考えられない。
3 原告らの被った損害額
(原告らの主張)
1 治療関係費
(一) 治療費 金七八万三六一三円
瑞代は、本件事故による傷害の治療のため、平成七年三月一〇日から同年五月一八日まで七〇日間、さらに平成八年三月二九日から同年四月九日まで一二日間入院し、この間に三回(平成七年三月一七日、同月二七日及び平成八年四月一日)手術を受けた。また、退院後も、平成九年一二月二九日まで約二年半の間通院を要した。右の治療費総額八八万〇五八七円を、原告らがそれぞれ二分の一ずつ負担した。右のうち、九州大学学友会保健部からの補てん額九万六九七四円を控除すると七八万三六一三円となる。
(二) 付添看護費
金八二万四〇〇〇円
その受傷の程度が重いため、原告らは瑞代に一〇三日間付き添った。その結果、原告らは、一日当たり八〇〇〇円の合計八二万四〇〇〇円の損害を被り、原告らはそれぞれその二分の一ずつを負担した。
(三) 入院雑費
金一二万三〇〇〇円
原告らは、瑞代が入院している八二日間、一日当たり入院雑費一五〇〇円を負担し、合計一二万三〇〇〇円を原告らはそれぞれ二分の一ずつ負担した。
(四) 通院交通費
金四四万六四四〇円
瑞代の付添い及び医師との治療方法相談のため、原告らは病院まで通った交通費として四四万六四四〇円を支出し、原告らはそれぞれ二分の一ずつ負担した。
(五) 宿泊通信費
金三一万五一九八円
原告らは、付添い及び医師との打合せのため、福岡市内のホテルに二泊して一万五一九八円を支出した。また、原告らは、瑞代の病状及び同人の入院に必要な事項の報告及び打合せのため、電話で通信するに当たり、月額二万円相当の金額を一五か月間合計三〇万円ずつ支出した。
2 慰謝料 各自金二〇〇万円(合計四〇〇万円)
瑞代は、本件事故により通算して二年半にわたる入通院を繰り返し、その間手術を三回行った。両親である原告らにとっては、瑞代の入通院及び手術中の苦痛を見るのは耐え難いものがあった。また、受傷当時二〇歳であった瑞代が無事に社会復帰できるかどうか、不安の毎日を送らざるを得なかった。
原告らが父母として受けた精神的苦痛は甚大であり、これを慰謝すべき金額としては各自二〇〇万円を下らない。
3 弁護士費用 各自六二万二五〇〇円(合計一二四万五〇〇〇円)
本件事故後、原告らと被告との話合いがあったが、被告は原告らからの損害賠償請求に対して誠意ある回答を示さなかったので、本訴の提起を弁護士である本件訴訟代理人に委任せざるを得ず、同代理人に対し、着手金四一万五〇〇〇円及び報酬八三万円の支払を約した。
原告らは、右金員の二分の一である各六二万二五〇〇円ずつの支払請求権を有する。
(被告の主張)
争う。
4 過失相殺の有無及び程度
(被告の主張)
瑞代が十分な判断力・注意力を有する二〇歳の大学生であり、前記1及び2記載の「被告の主張」のとおり、本件ひさし部分に設置されたコンクリート手すりの下部の隙間から転落するとはおよそ考えることができず、本件事故は極めて不可解で、瑞代が自らの意思で、若しくは重大な過失で、およそ予想することのできない方法で手すり部分から身を乗り出したりするなどして転落したものとしか考えられない。
したがって、万が一、仮に賠償請求が認められるとしても、その損害額の算定に当たっては、瑞代に重大な過失があったことが十分に斟酌されなければならない。
(原告らの主張)
本件事故について、瑞代に過失があったことを否認する。
なお、被告は、本件事故には、瑞代の注意義務違反があったと主張する。しかしながら、通常、人が立ち入れない場所に立ち入った場合ならば、その者はそれ相応の注意を払うであろうが、瑞代は、本件ひさし部分をベランダだと考えて行動している(本件ひさし部分の構造上、瑞代がそのように考えたのは合理的である。)。そして、瑞代は、スケッチブックを床に落とし、それを拾おうとし、その際、前かがみになってバランスを崩したものであるところ、(被告は、本件ひさしの床の傾斜はバランスを崩すほどのものではないと主張するが、)落としたものを拾おうとして、前かがみになった場合は、頭部の重みと床の勾配により平衡を失い、前のめりになる可能性が強くなるのは周知の事実であって、被告の瑞代には注意義務違反があったとの主張は理由がない。
第三 争点に対する判断
一 争点1(本件ひさし部分の設置又は管理の瑕疵の有無)について
1 証拠(甲一ないし五、一〇、一四ないし一六、一九、二一、乙一ないし五、六の1、2、七、八)及び弁論の全趣旨によれば次の事実を認めることができる(当事者間に争いのない事実を含む。)。
(一) 当時、九州大学工学部建築学科二年に在学していた瑞代は、平成七年三月一〇日午後六時三〇分ころ、本件建物四階の本件ひさし部分において、理学部グランド(なお、同グランドは、現在、人工分子集合組織体研究棟、工学研究科共同研究棟及び教育研究交流棟(仮称)の敷地となっているようである。甲二添附の「第1図・九州大学工学部平面図」及び乙四添附の「建築学科近辺建物配置図」)で行われていた球技(野球又はソフトボール等)を見ていたところ、手に持っていたスケッチブックを足元の本件ひさし床面に落としたことから、それを拾おうとして、身体の右側面を外部側に向けてしゃがみ込んだところ、身体の均衡を崩して身体が外部側(右側)に傾き、そのまま、本件ひさしの床面からその下部までの高さが七二センチメートルの手すり下部の空間をすり抜けるようにして本件ひさしの外部に出て、本件ひさし部分から約一〇メートル下の地上に落下した。
(二) 本件建物は、昭和三〇年代半ばに設計建築された、九州大学工学部建築学科の教室及び研究室等が所在する四階建て建物であり、本件建物四階部分には、教官室、会議室、給湯室及び男子便所が所在する(乙二)。
本件建物には、本件ひさし部分と同様のひさしが二ないし四階に存在したが、その設計者においては、右ひさし部分は、建築物としての美観を保つとともに、窓や壁の清掃のため利用することを考えて設けられたものであった(乙八)。
本件建物四階にある本件ひさし部分は、横幅337.2センチメートル、縦幅(奥行き)六七センチメートルのベランダ状となっており、その床面は、水はけを良くするために、外側に向かってひさしの真ん中付近で一〇〇分の5.4、外部側に向かって左瑞で一〇〇分の5.7、同右端で一〇〇分の7.2の勾配があるが、これはほぼ平坦といえるものである。本件事故当時、本件ひさしの外側には、それ自身の高さが内部側で一〇センチメートル、外部側で二〇センチメートル、奥行きが三五センチメートルのコンクリート製の手すり(以下「本件手すり」という。)が設けられていた。本件ひさし床面から本件手すりまでの高さは七二センチメートルあり、また、本件手すりの長さは二九三センチメートルあるが、そのちょうど真ん中に幅一一センチメートルの支柱があることから、結局、本件ひさし部分には、床面からの高さ七二センチメートル、幅一四一センチメートルの空間が二か所存在していたことになり、瑞代はそのうち、外部側に向かって左側の空間から転落したものであった。(甲一〇、乙三)
本件建物廊下と本件ひさしとの間には、開閉可能な床面までのクレセント錠付きのガラス引き戸が設置されており、本件事故当時、右ガラス戸はクレセント錠さえ外せば開閉自由であり(甲一〇)、また、開錠して右引き戸を開けることや、本件ひさし部分へ出ることを禁止するような措置が取られてはいなかった。
2 ところで、法二条一項にいう営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠いて他人に危害を及ぼす危険性のある状態をいい、このような瑕疵の存在については、当該営造物の構造、用法、場所的利益、利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的、個別的に判断すべきものであるところ(最高裁平成八年七月一二日第二小法廷判決・民集五〇巻七号一四七七頁)、前記第二の一「争いのない事実等」及び前記1の事実によれば、①本件ひさし部分は、その設計者においては、建築物としての美観を保つとともに、窓や壁の清掃のために利用することを考えて設けられたものであったが、廊下から本件ひさし部分に至るガラス引き戸や本件ひさし部分の構造は、一般に見られるベランダへの出入口及びベランダと同様のものであって、本件建物を利用するであろう教職員及び学生が、本件ひさし部分に出てベランダとして利用することを物理的及び心理的に阻害するような状況は認められず(なお、被告は、本件ひさしに至るガラス引き戸を開閉するには相当の力を要するもので、何らかの強い意思を有しない限り、容易に出入りできるものではないと主張するが、本件事故後、本件ひさしに安全のためにアルミ製の手すりが設置された後であるとはいえ、本件ひさしと同様のひさし部分が、ベランダとしての用途で広く利用されていることが推認されるところ(甲一一)、本件事故当時と比べて、その引き戸開閉の難易が変わったとは考え難いことからすると、被告の右主張は採用できない。)、かつ、本件事故当時、学生が本件ひさし部分に出ることを禁止するような措置も何らとられておらず、瑞代が本件ひさし部分に立ち入ったことが、その設置管理者である被告(具体的には大学管理者)の予想を超えた行動であったとは到底いえないこと、②本件ひさし部分の本件手すり下部の開口部は、床面からの高さ七二センチメートル、幅一四一センチメートルと極めて大きく、本件建物を、通常利用するであろう者が教職員や学生という大人であったとしても、本件のように、床にあるものを拾おうとするなどしてしゃがみ込んだ際に身体の均衡を失すると、右開口部から転落するおそれが十分にあるもので、本件手すり及びその支柱等の存在だけでは、転落防止の機能として不十分であったといわざるを得ないことが認められ、本件ひさし部分は、通常予想される危険の発生を防止するに足りると認められる状況になかったといわざるを得ず、その設置又は管理に瑕疵があったものと認められる。
3 なお、被告は、本件ひさし部分は、窓ガラス、壁の清掃に利用されており、学生等が出入りすることは想定されていなかったと主張するが、前記認定の事情によれば、学生である瑞代が本件ひさし部分に立ち入ったことが、大学管理者の予想を超えた行動であったとは到底いえず、被告の右主張は採用できず、また、本件建物が建築されて以来、三〇年以上にわたって転落事故は一度も起きていなかったこと(乙八)によっても、前記認定のとおりの本件ひさしの構造や管理状況等に照らすと、この設置又は管理の瑕疵が否定されるものではない。
二 争点2(因果関係)について
前記一で認定のとおり、本件事故は、本件ひさし部分において、理学部グランドで行われていた球技(野球又はソフトボール等)を見ていた瑞代が、手に持っていたスケッチブックを足元の本件ひさし床面に落としたことから、それを拾おうとして、身体の右側面を外部側に向けてしゃがみ込んだところ、身体の均衡を崩して身体が外部側(右側)に傾き、そのまま、本件ひさしの床面からその下部までの高さが七二センチメートルの手すり下部の空間をすり抜けるようにして本件ひさしの外部に出て、本件ひさし部分から約一〇メートル下の地上に落下したものであり、前記一で認定の本件ひさし部分の設置又は管理の瑕疵に基づいて発生したものと認められる。
もっとも、被告は、前記第二の二2の「因果関係の争点についての被告の主張」のとおり、本件事故は、瑞代が自らの意思でおよそ予想することのできない方法で本件手すり部分から身を乗り出したり、手すり部分に乗るなどして転落したものと考えられ、本件ひさし部分の設置管理上の瑕疵と本件事故発生との間に因果関係はないと主張している。
しかしながら、①瑞代の身長は不明であるものの、同人が通常の二〇歳の女性であることを前提に考えると、横向きにしゃがみ込み、更に平衡を失した場合(あくまで仮定ではあるが、そのような場合、無意識であっても、身を守ろうとしてどこかに手を付けようとする結果、更に身体が低くなることも考え得る。)、床面からの高さ七二センチメートル、幅一四一センチメートルの空間をすり抜けるようにして転落し得ることは十分に考えられ、そのような転落が不自然であるとは考え難く、また、瑞代の身体に本件手すり下部の隙間を抜け落ちる際の擦過傷が必ず生じるものであるとも考えられないこと、②本件事故当日の福岡市の天候は晴れ、気温は午後六時で10.5度、風力は午後六時で西の風5.8メートル、午後七時で西の風5.2メートル、日の入りは午後六時二二分であったこと(乙五)からすると、本件ひさし部分から、理学部グランドで行われていた球技を見ていた瑞代が、その日の入り直後の午後六時三〇分ころ(いまだ残照などのため、明るさが残っていたものと考えられ、それ故に、本件事故を目撃した川野哲也及び田中猛は、瑞代が落下していく状況を目視している(甲一))に本件事故に遭遇したという認定状況が不自然であったといえるようなものでもないこと、③瑞代が自ら訴えを提起することなく、本件訴訟において、証人として証言することは勿論、陳述書を作成することすらしていないことについても(もっとも、原告ら及び被告のいずれからもその証人申請は行われていない。)、瑞代が本件事故で被ったであろう恐怖感は相当なものであったことが認められ(甲三)、一方、同人は、現在、傷害を治癒し(甲四、五、二一)、大学卒業、大学院を修了して民間会社に就職するという前向きの生活を送っており、本件事故のことを思い出したくなく、かつ、将来に向けた前向きな生活を送りたいと考えていることが推測され、両親である原告らとは異なり(なお、念のため付言すれば、原告らの本件訴訟提起自体に問題あるという趣旨ではない。)、本件事故にこだわりたくないとして、自ら訴えを提起することなく、証人としての証言や陳述書の提出もしないとすることがあったとしても、そのことをもって、本件事故の発生経緯に疑問があるからであるといえるものではない。
そして、本件事故を目撃した者によれば、瑞代は、落下していくとき、しゃがんだ姿勢で横向きになって、身体は折れ曲げていたこと(甲一)、既に、本件事故直後の救急車の中で、瑞代は「スケッチブックを拾おうとして転落した。」と述べていたこと(乙七・二項4)からすると、やはり、本件事故は、瑞代が、スケッチブックを足元の本件ひさし床面に落としたことから、それを拾おうとしてしゃがみ込んだところ、身体の均衡を崩して、本件手すり下部の空間をすり抜けるようにしてそのまま転落したものと認められ、本件事故は、瑞代が自らの意思でおよそ予想することのできない方法で手すり部分から身を乗り出したり、手すり部分に乗るなどして転落したものと考えられるとの被告主張は採用できない。
三 争点3(損害額)について
1 治療関係費
被告は、本件事故によって傷害を負ったのは、原告らではなく瑞代で、原告らはその両親にすぎず、瑞代は、本件事故当時、既に二〇歳で成人しており、本件の治療費等は瑞代名義で支払がされており、しかも、瑞代は既に社会復帰しており、訴訟遂行能力は十分有していることからすれば、本件事故により治療費相当額の損害を被ったのは飽くまで瑞代であり、同人が自らその賠償を求めるにつき何らの障害もなく、仮に、原告らが、親族の情誼に基づき、瑞代の治療費を立替払したような事実があったとしても、それにより原告らが瑞代に対し求償権を取得するのは格別、直ちに原告らにおいて瑞代の治療費相当額の損害が生じ、被告に対してその賠償を求め得ると解すべき何らの根拠もないと主張する。
しかしながら、前掲各証拠によれば、瑞代は当時二〇歳の大学二年生であり、その生活費は原告ら両親に依存していたものであることが推測され、そうであるから、瑞代が二〇歳の成年に達していたからといって、原告ら両親がその治療費を支出するほかには、瑞代の差し迫った治療費を負担する方法が考えられないことは極めて明らかなことであり、また、原告ら両親が、本件事故で受傷した、資力がなく経済的には原告ら両親に依存している愛娘の治療費を負担しようとすることは極めて自然なことであって、原告らが、瑞代の治療のために要した治療費等を出損したことによって被った損害は、本件事故と相当因果関係のあるものと認められ、被告の右主張は採用できない。
(一) 治療費(認定額八八万〇七八七円)
証拠(甲六ないし九、二一)によれば、本件事故による瑞代の傷害の治療のため、原告らは合計八八万〇七八七円を支出していることが認められ、これらは、本件事故と相当因果関係のある損害と認められる(なお、九州大学学友会保健部からの補てん分控除については、後記四の過失相殺の有無及び程度についての判断の後で考慮する。)。
(二) 付添看護費(認定額一二万八〇〇〇円)
入院の際の付添費については、医師の指示があるときのほか、受傷の程度等により必要性が認められる場合には、それは事故と相当因果関係のある損害といえるところ、証拠(甲四、五、二一)及び弁論の全趣旨によれば、原告ら(特に原告ユリ子)は、本件事故のため入院した瑞代に付き添っていたこと、本件事故により、瑞代は、加療一〇か月以上を要する右大腿骨骨幹部骨折、右顔面・頭部打撲、前額部挫傷及び前歯牙破損の重篤な傷害を負ったもので、特にその当初は激痛を伴ったものであったことを考慮すると、その認定し得る入院期間(平成七年三月一〇日から同年五月一八日までの七〇日間。なお、これとは別に、瑞代は、平成八年三月二九日から四月九日までの一二日間入院し、同月一日、前に手術で入れたキュンチャー(棒)を抜く手術をしている。)のうち、本件事故により八木病院に入院した本件事故日の同年三月一〇日から、国家公務員共済組合連合会浜の町病院へ転院し、同病院において、平成七年三月一七日及び同月二七日の二度の骨接合術の手術を何れも終え、リハビリが始まった同年四月一一日の前日である同月一〇日までの三二日間については付添いの必要性を認めることができ、一方、右を超える部分については本件全証拠によっても、本件事故と相当因果関係がある付添いの必要性を認めることはできない。
そして、平成七年当時の近親者の入院付添費は一日当たり四〇〇〇円とするのが相当といえることから、本件事故と相当因果関係のある付添費は一二万八〇〇〇円(=4,000円×32日)となる。
(三) 入院雑費(認定額九万八四〇〇円)
前記(二)のとおり、瑞代は本件事故の治療のために合計八二日間入院したことが認められ、平成七年及び平成八年当時の入院雑費は一日当たり一二〇〇円とするのが相当といえることから、本件事故と相当因果関係のある入院雑費は九万八四〇〇円(=1,200円×82日)となる。
(四) 通院交通費及び宿泊通信費(認定額三万二三〇〇円)
証拠(甲二一、二二)及び弁論の全趣旨によれば、本件事故当時、広島市に居住していた原告ユリ子は、事故の連絡を受けて福岡市に駆け付け、入院及び手術をする瑞代に付き添ったものであり、そのための広島市内の自宅と福岡市内の病院間の往復交通費合計一万九五〇〇円(往復新幹線料金一万八六六〇円及び往復バス・地下鉄料金八四〇円、なお、広島市内の自宅と広島駅間のバス料金は証拠上必ずしも明らかではないが、相当額として往復四〇〇円とした。)は、前記瑞代の受傷に照らしてみると、本件事故と相当因果関係のある損害とみることができるが、原告らのたっての希望による(甲二一)八木病院から浜の町病院への転院費用は本件事故と相当因果関係のある損害とまでは認めることはできない。
また、入院付添い時の交通費については、前記(一)のとおり、入院付添いの必要が認められる三二日間分について、そのバス料金の範囲で、本件事故と相当因果関係のある損害と認めることができ、それは一万二八〇〇円(=400円×32回)となる。
しかしながら、原告が本件事故による損害と主張する通信費のうち、必要性が認められるものは、前記(三)の入院雑費中でその相当因果関係のあるものとして考慮されているものであるところ、それを超えて、宿泊通信費について、更に相当因果関係のある損害としてこれを認めるに足りる的確な証拠はない。
2 慰謝料
証拠(甲四、五、二一)及び弁論の全趣旨によれば、瑞代は本件事故により重篤な傷害を負ったが、幸いにして、その後の適切な治療と本人らの努力等により、その傷害もほぼ治癒し、後遺症もなく(後遺症を認めるに足りる的確な証拠はない。)、いずれも優秀な成績で、大学卒業、大学院修了を経て、現在、民間会社に就職していることが認められる。
ところで、子が受傷した場合の両親の固有の慰謝料については「第三者の不法行為によつて身体を害された者の両親は、そのために被害者が生命を害された場合にも比肩すべき、又は右場合に比して著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けたときにかぎり、自己の権利として慰藉料を請求できる」ものであるところ(最高裁昭和四三年九月一九日第一小法廷判決・民集二二巻九号一九二三頁)、前記認定の瑞代の状況に照らすと、いまだ原告らに固有の慰謝料が生ずるものとは認められず、その他、これを認めるに足りる的確な証拠はない。
四 争点4(過失相殺の有無及び程度)について
前記一で認定のとおり、本件ひさし部分の本件手すり下部の開口部は、床面からの高さ七二センチメートル、幅一四一センチメートルと極めて大きく、本件手すり及びその支柱等の存在だけでは、転落防止の機能としては不十分であったものであるところ、たとえ、本件ひさし部分に至るガラス引き戸や本件ひさし部分の構造が一般に見られるベランダへの出入口及びベランダと同様であったとしても、当時、二〇歳で、九州大学工学部建築学科二年に在学しており、十分な判断力、注意力を有していたと考えられる瑞代としては、本件ひさし部分の本件手すり下の開口部の状況を見て、その危険を察知し、自らの落下防止のために注意を払うべきであったといえ(前記認定の本件開口部の状況をみるに、一般人であっても、その危険を察知することは極めて容易であったと考えられる。)、それにもかかわらず、本件ひさし床面に落としたスケッチブックを拾おうとしてしゃがみ込んだ際にバランスを失したもので(本件ひさし部分床面の傾斜は水はけを良くするためのもので、ほぼ平坦といえるものであった。)、本件事故発生については、瑞代にも不注意があったといわざるを得ず、その過失割合は五割と見るのが相当であり、これは、原告ら側の過失として考慮すべきものといえる。
第四 結論
以上によれば、前記第三の三で認定した損害額合計一一三万九四八七円の五割(過失割合)を減じた五六万九七四四円から九州大学学友会保健部からの補てん額九万六九七四円を控除した額四七万二七七〇円が、原告らが本件事故により被った相当因果関係のある損害(弁護士費用を除く。)となり、また、原告らが本訴の提起・追行のために要した弁護士費用のうち、本件事故と相当因果関係のある金額は五万円が相当であるといえる(総合計額五二万二七七〇円)。
そして、弁論の全趣旨によれば、原告らは、右損害について、それぞれその二分の一ずつを負担し、又は負担することになっていることが認められるから、原告ら各自は、被告に対し、それぞれ二六万一三八五円及びうち相当弁護士費用分を除いた二三万六三八五円に対する本件事故発生日の翌日である平成七年三月一一日から、うち相当弁護士費用分(二分の一)二万五〇〇〇円に対する本件事故発生日の後で、訴状送達の日であることが記録上明らかな平成一〇年九月九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払請求権を有していることになる。
なお、本件においては、即時の執行が原告らに特に必要な事情があるとは考えられないことなど、仮執行宣言を付す必要性が認められないので、これを付さないこととする。
(裁判官本多知成)
別紙<省略>