東京地方裁判所 平成10年(ワ)19822号 判決 2002年4月16日
脱退原告
野村ホールディングス株式会社(旧商号野村證券株式会社)
同代表者代表取締役
氏家純一
同訴訟代理人弁護士
清宮國義
原告引受承継人
野村證券株式会社(旧商号野村證券分割準備株式会社)
同代表者代表取締役
氏家純一
同訴訟代理人弁護士
清宮國義
被告
成瀬直邦
同訴訟代理人弁護士
黒岩俊之
主文
1 被告は,原告引受承継人に対し,997万7248円及びこれに対する平成8年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 この判決は仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
主文同旨
第2事案の概要
本件は,被告が脱退原告の社員であった当時に脱退原告の海外留学制度によりフランスに留学したところ,脱退原告が被告に対し,同留学費用は留学を終え帰任後5年間脱退原告において就業した場合には債務を免除する旨の免除特約付で貸し渡した貸金であるとして,その一部(費用合計3900万7293円のうち,受験・渡航手続に必要な費用,授業料及び図書費合計1575万3551円を帰任後の在籍年数1年10か月を債務免除までの期間5年で按分計算した金額)の返還と催告期限の翌日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求め,原告引受承継人が脱退原告から訴訟物を譲り受け本件訴訟を承継した事案である。
1 争いのない事実等
(1) 脱退原告は,証券会社である。
(2) 被告は,平成元年4月1日脱退原告に入社し,奈良支店に配属され営業課及び企業営業課に勤務していたが,平成3年5月脱退原告の海外留学候補生として選抜され,同年6月1日付けで本社人事部付になった後,辞令上は同年7月24日付け「本社勤務を命ず(株式会社野村ヒューマン・リソーシス出向)」として同日脱退原告社員の研修を担当していた同社の研修部に出向して語学学校に通うなど留学準備を行った。
その後,辞令上は平成4年2月20日付け「本社勤務を命ず(E.L.F.E.語学学校留学)」として,同日フランスに向けて渡航し,同月24日からパリ所在の語学学校であるELFEなどに通学して英語,フランス語等の勉強をするとともにビジネス・スクールを受験し,同年4月29日,パリ郊外所在のビジネス・スクールであるINSEADに合格し,辞令上は平成5年8月23日付け「本社勤務を命ず(インシアド留学)」として,同年9月,同校に入学しMBA資格を取得した後,平成6年7月12日帰国した(以下「本件留学」という。)。
(争いがない。弁論の全趣旨,<証拠略>)
その後,被告は,同月18日付けで米国ニューヨーク所在のワッサースタイン・ペレラ社に出向したが,平成8年4月22日付けで脱退原告に対し同年5月15日をもって退職する旨の退職届を提出し,同日退職した。
(3) 脱退原告の海外留学生派遣要綱(平成4年4月1日改正前のもの。以下「派遣要綱」という。<証拠略>)は,次のとおり定めている。
1条(目的)
海外留学生派遣制度は,社費により社員を外国に派遣し,海外の知識の吸収と国際的視野の拡大に努力せしめ,当社の発展に寄与する人材を育成するために,これを設ける。
2条(適用)
社員の海外留学については,この要綱の定めるところによる。(以下略)
3条(応募資格)
1項 海外留学を志望する者の応募資格は,次の各号に定める条件を満たしたものとする。
(1) 大学卒入社の場合,社内選考時に勤続2年以上5年未満(高校卒入社の場合,勤続6年以上9年未満)の総合職社員
(2) 当社に永年勤続の意思を有するもの
2項 前号にかかわらず,会社が特に認めるもの。
4条(選考及び決定)
1項 海外留学生(以下「留学生」という。)は,次の各号に定める条件を満たした者の中から選考する。
(1) 会社の指定する語学力試験の結果が優秀なもの
(2) 勤務成績が優秀なもの
(3) 留学の目的に十分応えうる能力を有するもの
(4) 部店長が留学生候補として推薦したもの
2項 留学生の決定は,留学受入先の承認を条件として行うものとする。
5条(派遣先及び派遣期間)
1項 留学生の派遣先及び派遣期間は以下の通りとする。
(1) 2年コース
欧米その他の地域における大学,大学院,ロースクール及びビジネス・スクールで2年間学ぶコース。
(2) 1年コース
欧米その他の地域における大学,ビジネス・スクール,研究所及び大学レベルの語学学校で1年間学ぶコース。
6条(留学の準備)
留学内定者は選考の時から渡航までの間,実務に携わりながら,各人の必要度に応じてそれぞれ研修を行い,留学の準備を進めるものとする。
8条(留学費用)
1項 留学のため会社が支給する費用は次の通りとする。
(1) 受験,渡航手続に必要な費用
(2) 留学支度金
(3) 生活費
(4) 授業料
(5) 図書費
(6) 旅費
(7) 帰国支度金
(8) 医療費
(9) 住宅設備費
2項 前項の支給額は別に定める。
9条(誓約書の提出)
留学生は留学に先立ち,本人及び身元保証人連名で別に定める「海外留学誓約書」を会社に提出しなければならない。
11条(留学期間中の取扱い)
1項 留学期間中は本社勤務とし,これを勤続年数に通算する。
2項 留学期間中の国内における給与および賞与の取扱いについては「海外勤務者給与規程」に準じて行う。
12条(留学中の報告義務)
留学生は毎月1回,留学中の研究状況および身辺の事情等について人事部長に報告書を提出しなければならない。
17条(帰国後の報告義務)
留学生は留学を終え帰国したときは,帰任後2か月以内に留学の成果および研究事項等について人事部長に報告書を提出しなければならない。
18条(留学費用の返納)
留学生または留学を終えたものが,次の各号の一に該当するに至ったた(ママ)ときは,本人,または身元保証人は第8条に定める留学費用の全部を即時弁済しなければならない。
(1) 留学期間中に,あるいは留学を終え帰任後5年以内に自己の都合によって退職したとき
((2)以下略)
(4) 被告は,平成4年2月12日付けで,要綱9条所定の海外留学誓約書(以下「本件誓約書」という。)に,被告及びその父である成瀬邦弘は,同日付けで,留学生身元引受証書にそれぞれ署名押印した。
ア 本件誓約書(<証拠略>)には,次の旨記載されている。
此度私は,社費留学生としてELFE大学へ留学するにあたっては,下記条項を遵守することを誓約いたします。
記
1 派遣要綱のほか会社の諸規定,諸規則,及び業務上の指示,命令を守り,留学生として誠実に自己の職務に精励いたします。
2 常に留学生としての体面を保ち,会社の名誉を傷つけ,信用を損なうような行為は致しません。
3 派遣要綱第18条(1),(2),(3)号に該当するに至ったときは,即時留学費用の全部を返却いたします。
4 上記各条項に違反した場合は,会社のいかなる指示,命令にも応ずることを確約します。
イ 留学生身元引受証書(<証拠略>)には,次の旨記載されている。
被告を,此度ELFE大学へ留学致しますについては,身元引受人として,本件誓約書に基づいて留学致させます。なお,この身元引受の期間は,出発の日から5年間といたします。ただし期間満了の1か月前までに本契約の解除を申し出ないときは,更に2年間自動的に延長するものといたします。
(5) 脱退原告は,被告の海外留学に関連する費用として,被告の指示により別紙「成瀬直邦留学関連費用支払明細」の支払日欄記載の日に同金額欄記載の金額を被告の指定する銀行口座に振り込み送金するなどして支払っており,その合計額は3900万7293円である(争いがない。<証拠略>。なお,被告は,受験・渡航手続に必要な費用及び授業料の支払に関与していないとして,これらの支払を争うと陳述するが,<証拠略>により,その大半が,被告から脱退原告に支払内容,金額,支払方法等を指定して支払を依頼し,それに従って脱退原告が送金し,その支払に関する結果領収書を被告が取得して脱退原告に送付するなどしたものであることが明らかである。書証の裏付けのない分も同様であると推認できる。)。
(6) 派遣要綱は,平成4年4月1日改定され,支給される費用と貸与される費用(受験に必要な費用,授業料及び図書費)を区別し,貸与される費用だけを返還の対象とするように改められた(<証拠略>。以下「新要綱」という。)。
(7) 脱退原告は,被告に対し,新要綱に準じた受験・渡航手続に必要な費用,授業料及び図書費の合計額1573万3551円のうち,さらに帰任後5年間のうち在職期間1年10か月間を控除した期間に対応する997万7248円について,平成8年6月15日までに返済するよう求めたが,被告は返済しなかった。
(8) 原告引受承継人は,平成13年10月1日付けで脱退原告から分割契約に基づき本件訴訟にかかる請求債権を承継した。
2 争点
(1) 留学費用返還に関する合意の成否
(2) 返還合意の性質と労働基準法16条違反の有無
3 当事者の主張の骨子
(1) 争点(1)について
(脱退原告)
被告が本件誓約書を作成した際,脱退原告と被告の間に,被告が脱退原告の海外留学制度によりフランスに留学するための費用につき,被告が留学を終え帰任後5年間脱退原告において就業した場合には債務を免除するが,そうでない場合は返還する旨の合意が成立した(以下「本件合意」という。)。
これを裏付ける事情は以下のとおりである。
ア 被告が署名押印した本件誓約書には,「派遣要綱第18条(1),(2),(3)号に該当するに至ったときは,即時留学費用を全額返済いたします。」と明記され,留学費用の返済意思が明確にされている。また,海外留学制度が,留学を終え帰任後,5年を超えて脱退原告において勤務を継続した場合は,留学費用の全部について返済が免除されるが,そうでなければ返済しなければならないものであること(派遣要綱第18条(1))は,海外留学候補生一般にとっていわば公知の事実である。派遣要綱は,海外留学候補生が所属する人事部に常備公開されており,社員が何時でも閲覧することができるようになっていた。本件誓約書には「ELFE大学へ留学するにあたっては」と記載されているが,海外留学は海外留学の受験及び渡航準備から目的たる留学先の卒業までを意味し,返還すべき留学費用はその費用全体に及ぶ趣旨である。
イ また,被告は,平成8年4月,脱退原告の人事部担当者から留学費用返済の承諾書に署名押印を求められた際,退職日が確定していないので,按分計算して算出する金額が特定できないことを理由に,署名押印を留保し,後日,退職日が確定した時点で確認のうえ署名押印し,その金額を支払う旨話しており,留学費用の返還について全く異議を唱えていなかった。この事実からみて,被告が,留学費用の返還義務を負担していることを十分に認識していたものということができる。
以上によれば,被告が,脱退原告との間で,留学費用の返還について合意していたことは明らかである。
(被告)
前提として,派遣要綱は就業規則等と一体となっているものではなく,それ自体では当然に社員を拘束するものではないから,脱退原告,被告間に個別の合意が成立したことが必要である。また,被告は,脱退原告に対し本件誓約書を差し入れるに当たり,脱退原告から派遣要綱の提示又は交付を受けていないうえ,留学費用の返還に関する説明も受けていないし,派遣要綱が海外留学生候補が所属する人事部に常備公開され,社員が何時でも閲覧できたこともないから,本件誓約書に記載された派遣要綱18条(1)の意味,留学費用の範囲,留学費用が支給されるのか,貸与されるのかについて明確に認識していなかった。
したがって,派遣要綱18条(1)は,本件誓約書の内容を構成するものとはいえず,被告が,脱退原告との間で,留学費用の返還について具体的な合意をしたものとはいえない。
また,本件誓約書には「ELFE大学に留学するにあたっては」と記載されているだけであり,その範囲が不特定であるか,又はELFE留学の費用以外については返還の合意はない。
(2) 争点(2)について
(被告)
本件留学は脱退原告の業務命令に従ったもの,又は脱退原告が主導し会社の人事政策の一環として行ったもので,脱退原告が被告の留学費用として支出した金員は,被告から返還を受けることを予定したものではなく,脱退原告が自己の業務遂行の経費として支出したものにすぎない。したがって,派遣要綱18条(1)の規定は留学を終えた社員を引き留め,一定期間脱退原告に就業させる目的のみのために違約金あるいは損害賠償額の予定の定めをしたものであり,労働基準法16条に違反し,無効である。
これを裏付ける事情は以下のとおりである。
ア 上記のとおり本件誓約書作成時の派遣要綱は費用の全額を支給とし,全額を返還の対象としたが,平成4年4月1日改定の結果,新要綱では支給される費用と貸与される費用とを区別して規定し,貸与される費用だけを返還の対象とした(<証拠略>)。このような改定の経過から見ても派遣要綱は違約金あるいは損害賠償額の予定の定めをしたものである。
イ 被告は,一方的に脱退原告の人事課から留学選考面接の対象になったとして出頭指示を受け面接され,留学候補生として選抜された。
ウ 面接の際,海外人事担当者からは,海外留学は業務命令であり,業務として取り組むようにとの訓示を受けた。そして,被告は,脱退原告の人事部から,留学準備のために通う語学学校,留学先の国(フランス),渡仏後の語学学校(ELFE),受験する学校を一方的に指定され,米国にある大学に留学するなどの選択の余地は全くなかった。
エ その後,脱退原告の人事部長は,被告がIN-SEAD他1校に合格した後,INSEADに行くように強く申し向け,被告は,これに従い,同校に入学することにし,INSEAD入学の条件であった,英語力及びフランス語力の向上を図るため,フランス渡航後は,英語及びフランス語の語学学校のほか,ESCPに通った。
オ 企業が有名MBA資格取得者を輩出していることは,企業に対する評価信用を向上させるから,被告がINSEADに入学しMBA資格を取得して卒業すること自体が脱退原告の重要な業務である。
カ 脱退原告は,フランスに留学した社員をフランス語圏に勤務させており,フランス留学は海外勤務の前段階として人事政策の一環である。
キ 脱退原告における留学制度は,優秀な営業成績を有し,脱退原告が必要と認める人材に対し,技能向上を図り又は営業店での功績に対する報奨のために運営されていたものである。被告が留学を辞退することは,業務命令に違反して,脱退原告での出世を諦めることに他ならず,そのような選択の自由は無に等しいものであった。
ク 被告は,月に一度被告(ママ)に月次報告書を提出し,パリ支店に行き業務の視察をし,顧客の観光案内,業務に関する提案書の提出をした。
ケ 米国ではなくフランスへの留学であるため,費用が増加した。この部分は業務に起因する費用である。
(脱退原告)
本件返還合意は,脱退原告被告間の労働契約とは別個に,脱退原告が被告に対し,被告が脱退原告の海外留学制度によりフランスに留学するための費用を,被告が留学を終え帰任後5年間脱退原告において就業した場合には債務を免除する旨の免除特約付(派遣要綱第18条(1))で貸し渡す旨の金銭消費貸借の合意をしたものであり,その後脱退原告が被告の指示に従って送金等することにより金銭消費貸借契約が成立した。このような契約には労働契約を規律する,労働基準法16条の適用はない。
これを裏付ける事情は以下のとおりである。
ア 脱退原告の海外留学制度の目的は派遣要綱1条のとおりで具体的な業務性はなく,実際の候補者も海外留学の希望を有し目的に適切な社員を選抜し,海外留学の運用も留学生の自主性に委ねられていた。被告もこのように自らの希望を実現するため,海外留学をして有益な経験や資格を取得したもので,本件留学は業務ではなく,その費用は脱退原告が負担しなければならないものではなく,労働契約とは別個に当事者間の契約によって定めることができる。
イ なお,脱退原告が被告に対し,留学地域としてフランス語圏を指定したが,それは,多様な人材の育成及び脱退原告留学生が一部地域に競合し競争することにより留学自体が困難となることを避けるため,選考時点での英語力を基準にして行ったもので,業務との関連性はない。また,当該地域においていくつかの学校を留学先候補として挙げたことはあるが,被告の留学準備の指針として提示したもので指定したわけではない。
第3争点に対する判断
1 争点(1)(留学費用返還に関する合意の成否)について
被告が署名押印した本件誓約書には「派遣要綱第18条(1),(2),(3)号に該当するに至ったときは,即時留学費用の全部を返済いたします。」と明記され,一定の場合に被告が多額に上ると予想される留学費用の全額を返済する意思が明確に表示されるとともに,派遣要綱の条項が具体的に引用されており,このような場合には同条項の存在及びその内容を了知した上で署名捺印するのが通常であること,派遣要綱は海外人事課に常備されていて,担当者から内容の説明をすることになっていたこと(<証拠・人証略>)からすると,被告も同条項の存在及びその内容を了知した上で署名捺印したと推認される。
これに対し,被告はそのような認識がなく合意が成立していないと主張する。しかし,被告は,当初派遣要綱の存在はもとより留学費用の返還について全く意識をしていなかったと主張したにもかかわらず,その後陳述書(<証拠略>)では,派遣要綱の存在及び返還の必要があるかについて明確な認識がなく,本件誓約書が形式的なものという程度にしか思っていなかったなどとあいまいな内容を述べ,さらに,本人尋問では留学を終え帰任後,一定期間を超えて脱退原告において勤務を継続した場合は留学費用の全部について返済が免除されるが,そうでなければ返済しなければならないものであること(派遣要綱第18条(1))の認識があったことを事実上自認するに至っている。したがって,上記推認に反する被告の主張及び供述等は採用できない。
また,本件誓約書には「ELFE大学へ留学するにあたっては」と記載されているが,同記載は渡航後最初に入学する学校を記載する扱いであったことによるもので,最終の留学先までの全体が対象となると認識されていたのであり(<人証略>),本件でも海外留学の最終目的がビジネス・スクール等の大学院の入学及び卒業にあり,外国人向けの語学学校であるELFE(Ecole de Langue Francaise pour Etrangers)で語学学習をすることが最終目的ではないことは明らかであり,したがって,本件誓約書でいう留学費用の全額とは海外留学の受験及び渡航準備費用はもちろん,その後入学したINSEADの費用にも及ぶ趣旨である。この点に関する被告の主張は採用できない。
以上のとおり,脱退原告と被告との間には,本件留学の派遣要綱8条所定の費用全額につき,被告が留学を終え帰任後5年間脱退原告において就業した場合には債務を免除するが,そうでない場合は返還する旨の合意が成立した。
2 争点(2)(返還合意の性質と労働基準法16条違反の有無)について
(1) 会社が負担した海外留学費用を労働者の退社時に返還を求めるとすることが労働基準法16条違反となるか否かは,それが労働契約の不履行に関する違約金ないし損害賠償額の予定であるのか,それとも費用の負担が会社から労働者に対する貸付であり,本来労働契約とは独立して返済すべきもので,一定期間労働した場合に返還義務を免除する特約を付したものかの問題である。そして,本件合意では,一定期間内に自己都合退職した場合に留学費用の支払義務が発生するという記載方法を取っているものの,弁済又は返却という文言を使用しているのであるから,後者の趣旨であると解するのが相当である。被告は,新要綱では支給される費用と貸与される費用とが区別して規定され,貸与される費用だけが返還の対象とされていることを指摘するが,新要綱は貸付金額を制限するのに伴って表現を整備したにすぎないものと解され,上記判断に影響するものではない。その他被告の主張は採用できない。
しかし,具体的事案が上記のいずれであるのかは,単に契約条項の定め方だけではなく,労働基準法16条の趣旨を踏まえて当該海外留学の実態等を考慮し,当該海外留学が業務性を有しその費用を会社が負担すべきものか,当該合意が労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものかを判断すべきである。
ところで,勤続年数が短いにもかかわらず将来を嘱望される人材に業務とは直接の関連性がなく労働者個人の一般的な能力を高め個人の利益となる性質を有する長期の海外留学をさせるという場合には,多額の経費を支出することになるにもかかわらず労働者が海外留学の経験やそれによって取得した資格,構築した人脈などをもとにして転職する可能性があることを考慮せざるを得ず,したがって,例外的な事象として早期に自己都合退社した場合には損害の賠償を求めるという趣旨ではなく,退職の可能性があることを当然の前提として,仮に勤務が一定年数継続されれば費用の返還を免除するが,そうでない場合には返還を求めるとする必要があり,仮にこのような方法が許されないとすれば企業としては多額の経費を支出することになる海外留学には消極的にならざるを得ない。また,上記のような海外留学は人材育成策という点で広い意味では業務に関連するとしても,労働者個人の利益となる部分が大きいのであるから,その費用も必ずしも企業が負担しなければならないものではなく,むしろ労働者が負担すべきものと考えられる。他方,労働者としても一定の場合に費用の返還を求められることを認識した上で海外留学するか否かを任意に決定するのであれば,その際に一定期間勤務を継続することと費用を返還した上で転職することとの利害得失を総合的に考慮して判断することができるから,そのような意味では費用返還の合意が労働者の自由意思を不当に拘束するものとはいいがたい。仮に,合意成立時に予想しないような特別の事情が発生して退職を余儀なくされたり,予想の範囲を超える多額の費用を要したのであれば,自己都合の解釈や権利濫用の法理によって妥当な解決を図ることができる。よって,上記場(ママ)合には,費用返還の合意は会社から労働者に対する貸付たる実質を有し,労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものではなく,労働基準法16条に違反しないといえる。
(2) 認定事実
前記争いのない事実等,証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によれば次の事実が認められる。
ア 被告は,平成2年1月付けの自己申告書の研修の希望に関する欄及び会社への要望欄に「是非海外留学をして人間の幅を広げたい。」旨記載し提出した(<証拠略>)。脱退原告の海外留学制度では,全国の部長・支店長から留学を希望し派遣要綱1条の目的に照らしてふさわしい社員を推薦してもらい,人事部で語学試験の成績,勤務成績,人事部インタビュー等の評価を考慮して面接対象者を決め,複数回の面談を通じて本人の留学希望,上記目的にふさわしい人格,見識,潜在能力,語学力を有するかを考慮して決定する。被告についても,留学希望を確認したところ,外国人の思考方法を知りたいというような理由で留学を強く希望した。
イ 脱退原告は被告に対し留学地域としてフランス語圏を指定したが,それは脱退原告の海外留学制度の目的から多様な地域に留学させ,多様な経験を有する人材を育成するという方針があり,被告の選考時点での英語力が相対的に劣るため他の者を米英に割り当て,被告を著名なビジネス・スクールのあるフランス語圏に指定したものである。ただし,フランス語圏は欧州において,ベルギー,スイスを含め広い範囲を占め,重要な地域であること,中長期的に基幹的な地位に配置することのできる人材を養成するという意味もあった。フランスで勤務する者の中にはフランス留学経験者が複数存するが,そうではない者もいる。
ウ また,脱退原告は被告に対し,フランス語圏にあるINSEAD,IMDを含めた5,6校の留学先の受験を勧め,その中の合格したところに留学するよう指導したが,INSEAD又はIMDに留学するよう指定したことはない。また,鈴木は平成3年秋ころINSEADの副学長が来日した際被告を引き合わせたことがあり,被告自身同校のことを調べて良い学校であると知り,その入学を希望するようになった。語学学校の選択については実績を考慮して脱退原告が数校を指定することはあっても最終的な選択は被告が行った。そして,被告は平成4年4月29日付けでINSEADから,語学力を高めた上で平成5年9月入学の,同年5月4日付けでIMDから平成5年1月入学の各合格通知を得たが,被告はその希望に従ってINSEADに対し入学する旨の連絡をし,脱退原告に対しその間の語学学習の費用を負担するように求め,脱退原告はこれに応じた。この間,脱退原告は被告に対しINSEADに入学するまでの間にロンドンで仕事をしながら語学の勉強をすることを提案したが,被告は平成4年5月13日ころそれは業務命令ではないとして断った。
(<証拠・人証略>)
エ 平成4年1月健康診断の結果,被告には健康状態に問題があると指摘されたが,被告は留学したいとの気持ちが強いため留学を断念せず(被告本人12回),内容の説明を受けた7ないし10日後,本件誓約書を脱退原告に提出した(<証拠略>)。脱退原告において,留学候補生が希望する留学先に合格しなかったなどの理由で留学を辞退した例があるが,人事制度上特段の不利益を被ったことはない。
オ 留学中は,月に一度月例報告書を提出するが,その趣旨及び内容は留学先での近況や今後の予定である(<証拠略>)。留学中は,留学生から脱退原告に相談があれば助言や援助をするが,留学生に現地法人や支店への出頭を命じるなど,命令や義務を課することはなく,留学先での科目の選択も留学生の判断に委ねられており,脱退原告が干渉することはない。ましてや脱退原告の業務を行わせることはない。被告についてもそうであった。(<証拠・人証略>)
カ ワッサースタイン・ペレラ社は脱退原告と資本業務提携をしている米国法人であり,主としてM&A業務を行っている。被告は同社に出向中の平成8年1月ないし2月にボストンコンサルティング・グループにコンサルタントとして転職することのオファーを受けてこれに応じ,その後,ゴールドマン・サックス社に転職したが,これら転職にIN-SEADのMBAを持っていることが役立っており,被告にとって大きな財産となっている。(被告12回)
以上の事実が認められ,被告の供述(本人及び<証拠略>)のうちこれに反する部分は,被告本人の供述が全体として不利な内容の質問に対しては記憶がないとして供述を回避したり,あいまいな供述をしたり,など信用性が低いから採用できない。なお,被告は,損失補填等の証券スキャンダルが転職の動機であるとの趣旨を述べるが,これが発覚したのは本件誓約書作成前の平成3年であること,退職当時はワッサースタイン・ペレラ社に出向中であったことから,採用できない。
(3) 判断
そこで,上記認定事実及び前記争いのない事実等に基づいて判断する。
本件留学は勤続年数が短いにもかかわらず将来を嘱望される人材に多額の費用をかけて長期の海外留学をさせるという場合に該当する。
本件海外留学決定の経緯を見るに,被告は人間の幅を広げたいといった個人的な目的で海外留学を強く希望していたこと,派遣要綱上も留学を志望し選考に応募することが前提とされていること,面談でも本人に留学希望を確認していること,被告には健康状態の問題など,本件合意の時点で留学を断念する選択肢もあったのに,被告は留学したいとの気持ちが強く本件留学を決定したこと,INSEAD入学及びその入学までの語学学習の方法は被告の強い意向によること,が認められる。これによれば,仮に本件留学が形式的には業務命令の形であったとしても,その実態としては被告個人の意向による部分が大きく,最終的に被告が自身の健康状態,本件誓約書の内容,将来の見通しを勘案して留学を決定したものと推認できる。
また,留学先での科目の選択や留学中の生活については,被告の自由に任せられ,脱退原告が干渉することはなかったのであるから,その間の行動に関しては全て被告自身が個人として利益を享受する関係にある。実際にも被告は獲得した経験や資格によりその後の転職が容易になるという形で現実に利益を得ている。
他方,脱退原告の留学生選定においては勤務成績も考慮すること,脱退原告は被告に対し留学地域としてフランス語圏を指定し,ビジネス・スクールを中心として受験を勧め,それにはフランス語圏が重要な地域であること等,中長期的に基幹的な部署に配置することのできる人材を養成するという会社の方針があることが認められる。しかし,これらは派遣要綱1条の目的に従ったものと見ることができ,あくまでも将来の人材育成という範囲を出ず,そうであれば業務との関連性は抽象的,間接的なものに止まるといえる。したがって,本件留学は業務とは直接の関連性がなく労働者個人の一般的な能力を高め個人の利益となる性質を有するものといえる。
その他,費用債務免除までの期間などを考慮すると,本件合意は脱退原告から被告に対する貸付たる実質を有し,被告の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものではなく,労働基準法16条に違反しないといえる。
なお,新要綱では費用の一部の貸与に止まること,米国留学に比べてフランス留学が費用がかさむことは認められるが,それによって本件合意が全体として違法なものとなるとは解することはできず,本訴請求の範囲では正当なものというべきである。その他,被告の主張はいずれも採用できない。
第4結論
以上のとおりであるから,原告引受承継人の請求は正当として認容すべきである。
(裁判官 多見谷寿郎)
(別紙)成瀬直邦留学関連費用支払明細
<省略>