大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成10年(ワ)21635号 判決

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

草葉隆義

被告

学校法人自治医科大学

右代表者理事

大林勝臣

右訴訟代理人弁護士

加藤済仁

松本みどり

岡田隆志

右訴訟復代理人弁護士

桑原博道

主文

一  被告は、原告に対し、別紙目録二(一)ないし(二二)記載の各パラフィンブロック及び各プレパラート並びに同目録二(二三)記載の下垂体パラフィンブロック一個を引き渡せ。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、別紙目録一ないし四記載の臓器等を引き渡せ。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は、原告の負担とする。

第二  事案の概要

一  事案

本件は、原告が、亡母の遺体の解剖を実施した被告に対し、所有権に基づき、被告が保存している亡母の臓器等の返還を求めている事案である。

二  争いのない事実等

(一)  原告の母甲野花子(以下「花子」という。)は、昭和六三年五月一六日、被告の大学附属病院(以下「被告病院」という。)に入院し、強皮症腎クリーゼと診断され、昭和六三年六月二〇日深夜、肺出血による呼吸不全により死亡(当時六七歳)した。

(二)  花子の死亡後、同人の夫である甲野春男(以下「春男」という。)及び原告(以下、春男及び原告を合わせて「原告ら」という。)は、花子の主治医である丙山医師らから、死体解剖保存法(以下「保存法」という。)に基づく花子の遺体の解剖と内臓及び脳の保存についての承諾を求められ、これに応じた(以下「本件承諾」という。)(甲一三、乙二、原告本人)。

(三)  主治医らは、被告の病理学教室に花子の遺体の解剖を依頼し、同月二一日、同教室の丙川医師によって花子の遺体の剖検が行われた。この際、花子の胸骨、椎体骨も採取された。

その後、同教室の丙野教授(以下「丙野教授」という。)が丙川医師の作成した剖検レポートをチェックの上最終診断を行った。

(四)  原告らは、同日、被告病院から、保存された花子の内臓及び脳のそれぞれの一部を除いて、花子の遺体の引渡しを受けた。

(五)  なお、花子の相続人は夫である春男と花子と春男との間の子である原告の二人であったが、春男はその後死亡したので、現時点においては、原告が唯一の相続人である。

(六)  被告は、別紙目録二(一)ないし(二二)記載のパラフィンブロック(解剖により取り出した臓器から三ないし四センチメートル×二センチメートル大、厚さ五ミリメートル程度(臓器がこれに満たない場合は除く。)の組織を切り出し、パラフィンの中に埋め込んだもの)及びプレパラート(パラフィンブロックを一〇〇〇分の三ないし四ミリメートルの厚さに薄切りし、それをガラスに張り付け、薬品で染色して作成した顕微鏡標本)並びに同目録二(二三)記載の下垂体にパラフィンブロック一個(以下、合わせて「本件標本」という。)を保存している。

第三  争点

一  原告の主張

1(一)  原告らは、本件承諾の際、花子の主治医らから、花子の背骨の一部も標本にして保存したいと告げられた際、これを拒否し、解剖の範囲を内臓及び脳に限定して承諾をしたが、剖検の際、約二〇から三〇センチメートルの椎体骨二本が採取された。

(二)  また、原告らは、保存臓器の一覧明細及び病理説明文の速やかな交付を承諾の条件としたが、右明細等は現在まで交付されていない。

2  原告は、肉眼標本及び顕微鏡標本のすべてを含む花子の遺体の全部の返還を受けて手厚く祭り、花子が永遠の眠りにつくことを望んで本件訴えを提起した。

3  よって、原告は、被告に対し、本権に基づき、被告が保存する別紙目録記載の臓器等(以下「本件臓器等」という。)の返還を求める。

二  被告の主張

1  被告は、本件臓器等を、本件標本を除いて保存していない。

2(一)  病理解剖医は、原告らに対し、花子の遺体の解剖及び遺体の一部臓器(組織)を標本として保存したい旨説明し、原告らはこれを了解した上で保存法の規定に基づいて解剖されることに異存はないとの意思を明らかにした。

(二)(1)  原告は、背骨の一部を標本にすることを断ったと主張するが、血液細胞を作る骨髄は重要な臓器の一つであり、骨髄の状態を検索するために胸骨、椎体骨を採取することは世界中の剖検で行われており、遺族から解剖の承諾を得る際に個別に椎体骨採取の承諾を得ることをしないのが世界の常識である。

(2) また、保存臓器の一覧明細と病理説明文の交付は本件承諾の条件とされておらず、しかも、「パラフィンブロック及びプレパラートの保有状況調書」(被告準備書面(二)添付)や原告に交付された「剖検所見のまとめ」(乙四)及び「正式レポート」(乙三)によって保存臓器の詳細と病理説明は既に明らかになっている。

(三)  したがって、原告らは被告の学長が花子の死体の一部を標本として保存することを承諾したから、保存法一七条一項に基づき、被告において本件標本を保存することができる。

3  なお、保存法一七条、一八条等の「標本」には、本来、写真等で代替できず、僅少で、追憶の念を呼び起こす性質も希薄な顕微鏡標本(パラフィンブロック・プレパラート)は含まれないと解釈すべきである。

4  さらに、公衆衛生の向上及び医学の教育又は研究という正当な目的で標本を保存している被告に対し、僅少な顕微鏡標本である本件標本の返還を求めることは、権利濫用に当たり許されない。

第四  証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

第五  争点に対する判断

一  本件臓器等の保存について

1  証拠(甲五、七、一三、乙九、証人丙野教授、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば本件臓器等に関して、以下の事実が認められる。

(一) 昭和六三年六月二一日の剖検

(1) 着衣すれば隠れる部分の皮膚が切開され、臓器が取り出された。

(2) 以下の臓器は連続した状態で取り出された。

舌、咽頭、扁桃、顎下腺、食道、喉頭、甲状腺、副甲状腺、気管、頚静脈・頚動脈・鎖骨下動脈・腋窩動脈(いずれも両側)、上大動脈、大動脈、胸腺、心土嚢、両側横隔膜、下大静脈、総腸骨動脈・内外腸骨動脈・腸骨静脈(いずれも両側)、膀胱、子宮、両側卵巣と卵管、これらの周囲にあるリンパ節、神経、脂肪組織、結合組織など。

(3) 耳下腺、尾骨小体は採取・摘出していない。

(4) 血液は、剖検時にくみ出したが、採取・保管していない。

(5) 摘出された臓器はホルマリン溶液に保存された。

(6) その後、遺体は縫合、清拭され、着衣の上原告らに返還された。

(二) 標本の作成

(1) 昭和六三年七月一一日から同月末にかけて、剖検で摘出された臓器を肉眼的に再検討した後、主な臓器から代表的切片を切り出し、パラフィンブロック及びプレパラートが作成された。残りの臓器は引き続きホルマリン溶液に保存された。

(2) 下垂体(重さ0.5グラム以下)は、パラフィンブロック(厚さ五ミリメートル弱)の中に全部埋められた。右パラフィンブロックから作成されたプレパラートは、後に破損、紛失した。

(3) 遺体から切り取られた皮膚は、すべてパラフィンブロックに封入された。

(三) 臓器の返還

(1) 原告は、平成二年九月二八日、被告病院を訪れ、被告から、丙野教授を介して、ホルマリン溶液に保存されていた臓器の返還を受けた。

(2) 腎臓、副腎、肝臓、胆嚢、膵臓、脾臓、肺、心臓、胃、食道、大脳・小脳、骨・骨髄、小腸・大腸・直腸、甲状腺、子宮、卵巣は、右(1)のとき返還された。

松果体(脳にある径二から三ミリの小さな臓器)は、脳とともに返還された。

ランゲルハンス島(膵臓の中に多数あるホルモンを分泌する細胞の塊)は、膵臓とともに返還された。

顎下腺、副甲状腺(上皮小体と同じもの)、胸腺、リンパ節、横隔膜は、他の臓器とともに舌から連続した状態で返還された。

頚動脈小体、傍大動脈小体(いずれも脂肪組織内の非常に小さな臓器)は、脂肪組織から切除されておらず、臓器摘出の際必ず臓器に付着する脂肪組織については、そのままの状態で返還された。

2  右で認定した事実によれば、本件臓器等のうち、別紙目録一(六)記載の耳下腺、同四(五)記載の尾骨小体は、いずれも、本件剖検時には採取・摘出されず、昭和六三年六月二一日に花子の遺体の一部として原告らに返還されたこと、同目録四(一)の血液は採取・保管されていないこと、その他の同目録一、三、四記載の臓器等は、いずれも、剖検時に採取されてホルマリン溶液中で保存された後、平成二年九月二八日に丙野教授を介して原告に返還されたこと、同目録二(二三)記載の下垂体のパラフィンブロックは一個だけ作成されたこと、下垂体のプレパラートは破損したため残っていないこと、以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

したがって、本件臓器等のうち、本件標本以外の物については被告において保存していないものと認められる。

二  原告の返還請求の可否

そこで、次に、被告の保存する本件標本について、原告の返還請求の可否について検討する。

1  証拠(甲一三、乙二、原告本人)によれば、本件承諾は、保存法に基づく解剖を行うための要件である遺族の承諾(保存法七条)としての性質とともに、原告らが、被告病院の長に対し、解剖後の花子の脳及び内臓について、公衆衛生の向上を図り医学の教育又は研究に資するという保存法の目的(保存法一条)に従った保存の権限を与える承諾(保存法一七条)としての性質をも有するものと認められる。もっとも、右承諾は、死体の全部又は一部の保存との関係では、被告病院の機関である長による保存を保存法や他の公法的規制との関係で正当化するものにすぎず、死体の所有者との関係では、法人格を有する被告と承諾者との間の寄付(贈与)、使用貸借等の私法上の契約に基づいてされるものと解すべきである。

2  ところで、遺体の解剖を承諾する際、遺族は、頭の解剖はしないなど解剖の範囲を限定することがしばしばあり、そうした場合には、遺族の希望に沿うかたちで剖検が行われている(証人丙野)ところ、本件においては、原告らは、主治医らに対し、花子の指一本と背骨の採取については明確に拒否の意思を伝えた(甲一三、原告本人)にもかかわらず、剖検の際には、胸骨、椎体骨が採取されている(前記争いのない事実等)。

そして、証拠(乙九、証人丙野)によれば、剖検を担当した丙野教授らは、解剖に関する遺族の承諾書(乙二)を確認し、主治医の丙山医師から指の検索については原告らの承諾を得られなかった旨の連絡を受けた後に剖検を開始していることが認められる。

そうすると、剖検の際に花子の椎体骨が採取されたのは、原告らが背骨の採取を拒んだことが主治医らから丙野教授らに伝えられなかったために丙野教授らが椎体骨の採取についても当然原告らに拒絶の意思がないものと誤信したか、あるいは、伝えられたが丙野教授らがそれを無視あるいは失念する等したことによるものと推認できる。

3(一)  ところで、遺体の解剖・保存に対する遺族の承諾は、公衆衛生の向上、医学教育・研究という解剖・保存の目的の公共性、重要性に鑑み、これを遺体に対する自らの尊崇の念に優先させて、経済的な対価や見返りなくされるものであるから、右承諾の基礎には、解剖・保存を実施する側と遺族との間に、互いの目的と感情を尊重し合うという高度の信頼関係が存在することが不可欠である。

(二) しかし、本件においては、右2で認定したとおり、原告らの意思に反して椎体骨が採取されたという事実があり、しかも、右事実は、被告側の責めに帰すべき事情に起因するものであることは明らかである。

そうすると、本件においては、本件標本の保存の前提である剖検に際して、遺体の解剖・保存に対する遺族の承諾に不可欠な、原告らと被告の間の高度の信頼関係を失わせる事情が存在したことになる(骨髄が重要な臓器であり、剖検の際椎体骨を採取することが通常行われているとしても、事前に原告らが明確に背骨の採取を拒否する旨伝えている本件においては、通常右のような取扱いがされていることをもって、原告と被告の間の信頼関係が失われていないとすることはできない。)。

4 したがって、本件においては、本件承諾の基礎にある高度の信頼関係が剖検時における被告側の事情により破壊されたものと認められるから、原告は、本件承諾と同時にされた寄付(贈与)又は使用貸借契約を将来に向かって取り消すことができるというべきである。

三  権利濫用の主張について

証拠(甲一三、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、原告が本件訴訟を提起した目的は、花子の遺体すべての返還を受けてこれを手厚く祭ることにあるものと認められる。そして、公衆衛生の向上及び医学の教育又は研究を目的とする保存法に基づく遺体の標本としての保存は、あくまで遺体に対する遺族の尊崇の念との調和の上に認められるものであるから、本件標本が僅少な顕微鏡標本であることから、母の遺体を手厚く祭ることを目的に本件臓器等の返還を求める原告の請求が不当であるとすることはできず、本件においては、他に原告の返還請求が権利の濫用であると認めるに足りる事情はない。

よって、権利の濫用をいう被告の主張は理由がない。

四  なお、被告は、パラフィンブロック・プレパラートとした標本は、もはや保存法一七条及び一八条に規定する「標本」には当たらない旨主張するが、そのように加工されたものであっても、それが死体の一部であることに変わりはないから、右主張は、失当である。

また、被告は、パラフィンブロック・プレパラートの作成について相当額の費用をかけたから本件標本を留置する旨の主張もするが、そのような加工により死体の一部の所有権が被告に帰属するに至ったとすることはできないし、被告が原告にその費用の返還請求権を有するとすることもできないから、被告の右主張は失当である。

第六  結論

よって、原告の請求は、所有権に基づき別紙目録二(一)ないし(二二)記載の各パラフィンブロック及び各プレパラート並びに同目録二(二三)記載の下垂体のパラフィンブロック一個の引渡しを求める限度で理由があるから、右の限度でこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六四条本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・岡久幸治、裁判官・都築政則 裁判官・日比野幹は、研さんのため署名押印することができない。裁判長裁判官・岡久幸治)

別紙目録

一 亡甲野花子(昭和六三年六月二〇日死亡)の以下の臓器

(一) 卵巣 一

(二) 卵管 一

(三) 松果体 一

(四) 上、下上皮小体上下一対計四

(五) ランゲルハンス島 一

(六) 耳下腺 左右計二

二 甲野花子の臓器から作成された以下のパラフィンブロック及びプレパラート

パラフィン    プレパラートブロック(個) (個)

(一) 皮膚   二 二

(二) 腎臓   三 九

(三) 肺    七 一六

(四) 心臓   八 一二

(五) 食道   二 五

(六) 胃    二 二

(七) 腸    六 九

(八) 肝臓   二 五

(九) 胆嚢   一 一

(一〇) 膵臓   一 一

(一一) 顎下腺  一 一

(一二) 甲状腺  一 一

(一三) 副甲状腺 一 一

(一四) 胸腺   一 一

(一五) 副腎   一 一

(一六) 子宮   一 一

(一七) 卵巣   一 一

(一八) 骨・骨髄 二 六

(一九) 脾臓   一 一

(二〇) リンパ節 一 一

(二一) 横隔膜  一 一

(二二) 脳   一四 二八

(二三) 下垂体  二 二以上

三 右二の顕微鏡標本作成のための余白として臓器の一部である小片(ただし数量不明)

(一) 腎臓 (二) 副腎 (三) 肝臓 (四) 胆嚢 (五) 膵臓 (六) 脾臓 (七) 肺 (八) 心臓 (九) 胃 (一〇) 食道 (一一) 大脳・小脳 (一二) 骨・骨髄 (一三) 小腸・大腸・直腸 (一四) 甲状腺 (一五) 子宮 (一六) 卵巣 (一七) 皮膚 (一八) 顎下腺 (一九) 副甲状腺 (二〇) 胸腺 (二一) リンパ腺 (二二) 横隔膜

四 その他亡甲野花子の遺体の以下の部分

(一) 血液(採取量不明) (二) 脂肪組織(採取量不明) (三) 頚動脈小体(数量不明) (四) 大動脈旁体(数量不明) (五) 尾骨小体(数量不明)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!