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東京地方裁判所 平成10年(ワ)24987号 判決 2003年4月24日

原告

A

外九名

原告ら訴訟代理人弁護士

中下裕子

清井礼司

中村晶子

川口和子

原告H・同J訴訟代理人兼その余の原告ら訴訟復代理人弁護士

黒岩海映

被告

被告代表者法務大臣

森山眞弓

被告指定代理人

小尾仁

外一四名

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1  原告らの請求

1  被告は、原告らに対し、それぞれ二〇〇〇万円及び当該各金員に対するいずれも平成一〇年一二月一一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、原告らに対し、それぞれ別紙謝罪文を交付して謝罪せよ。

第2  原告らの請求の概要

本件は、いわゆる「日中戦争」当時、中華民国(現・中華人民共和国)山西省盂県に居住していた原告A、同B、同C、同D、同E、同F、同Gにおいては、自ら本人として、原告Iにおいては、同県に居住していてその後に死亡したMの相続人として、原告H及び原告Jにおいては、同県に居住していて自ら本人として本訴を提起した後に死亡したK及びLのそれぞれ訴訟承継人として、以上の山西省盂県に居住していた当事者ら(以下「被害者原告ら」という。)が中国大陸に侵攻した大日本帝国陸軍(以下「旧日本軍」という。)の兵士らに強姦等の被害を受けたと主張して、我が国の①当該被害それ自体に対する国際法上の責任、②当時の中華民国法上の責任、③日本国法上の責任のほか、④当該被害の救済を怠っていることに対する責任を請求の根拠として、我が国に対し、その被害に損害賠償として原告らそれぞれにつき二〇〇〇万円の慰謝料及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である平成一〇年一二月一一日から完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払と、我が国総理大臣(本訴提起当時・小渕恵三)の別紙謝罪文の交付による謝罪とを求めている事案である。

第3  前提となる事実

1  本訴請求に対する判断の前提となる事実は、以下の2ないし4のとおりであって、当事者間に争いがない事実であるか、公知の事実、あるいは、弁論の全趣旨によって認めることができる事実である。

2  旧日本軍による中国大陸の侵攻

(1)  旧日本軍は、昭和六年九月一八日のいわゆる満州事変を契機に、中国満州地方へ軍事侵攻を開始し、昭和七年三月一日の満州国の建国宣言をもって同地方をその支配下に置いた。そして、昭和一二年七月七日の盧溝橋事件を契機に、旧日本軍と中国(当時・中華民国)とは交戦状態に入り、いわゆる日中戦争が開始された。

(2)  旧日本軍は、昭和一二年一一月には上海、同年一二月には南京を占領したが、これに並行して華北地方全域に戦線を拡大していった。

(3)  これに対し、蒋介石を首班とする中華民国政府(国民政府)は、昭和一二年九月二二日、毛沢東の率いる中国共産党と第二次国共合作を成立させて抗日民族統一戦線を形成し、旧日本軍によって南京が占領された後は、首都を武漢、さらに重慶へ移転して、抗日抗戦を継続した。

3  山西省における旧日本軍と抗日勢力との衝突

(1)  山西省は、黄河の中流域に位置し、鉱物資源が豊富なこと、特に石炭の産出が多いことで知られていたが、昭和一三年秋以降、日中戦争が長期持久戦の様相を呈するようになっていくと、同省の地下資源が戦略物質としての重要性を強めていった。

(2)  旧日本軍の北支那方面軍第一軍は、昭和一二年一〇月ころから山西省に侵攻し、同年一一月八日に省都である太原を占領したが、同年一二月、太原の東北東に位置する同省盂県へ侵攻を開始し、昭和一三年一月に同県県城を占領するに至った。

(3)  これに対し、盂県では、昭和一二年七月に日中戦争が全面化した直後から、犠牲救国同盟会盂県分会及び中国共産党西煙支部が抗日活動を開始し、地方軍閥であった閻錫山の承認を得て盂県抗日民主政府を設立するほか、共産党指導下の八路軍によって農村で民衆が組織され、村々に抗日の党支部、党小組が作られていった。同党支部組織は、西煙、東郭湫、南社など県西部の村々に多く、県西部は八路軍の抗日組織活動が活発な地域となっていた。

(4)  八路軍は、昭和一五年八月から三か月にわたって、華北を占拠していた旧日本軍に対し、一一五個団(約四〇万人)の総力を挙げた攻撃、いわゆる百団大戦を行い、その結果、山西省に駐屯していた上記北支那方面軍第一軍は、多大な被害を受け、中でも盂県に展開していた独立歩兵第一四大隊は、その中隊、分遣隊の拠点をほとんど失う状態に至った。

(5)  旧日本軍は、昭和一四年春に構築した山西省盂県西煙鎮の軍事拠点を昭和一五年九月に放棄したが、その後、北支那方面軍第一軍による反撃作戦が開始され、同年秋からの晉中作戦、同年末の同県河東村への進駐作戦、昭和一六年秋からの晉察冀辺区粛正作戦の展開によって西煙鎮は再び旧日本軍の拠点となり、同県進圭社村には第一中隊司令部が侵攻するなど、山西省盂県における旧日本軍の配置はほぼできあがった。

(6)  しかし、やがて、被害を回復した八路軍による遊撃戦、政治工作が活発化し、中国戦線における泥沼状況は、昭和二〇年八月一四日、我が国がポツダム宣言を受諾するまで続くことになった。

4  被害者原告らの当時の居住関係

被害者原告ら(以下、各自の肩書は省略する。)は、一九四〇年(昭和一五年。以下、被害者原告らについて記述するときは、西暦を用いる。)末から一九四四年初めにかけて、Aにおいては、山西省盂県羊泉村、Dにおいては、同県南社村、Eにおいては、同県候党村、Bにおいては、同県西煙鎮西村、Cにおいては、同県西煙鎮南村、Fにおいては、同県尭上村、G、K及びLにおいては、同県後河東村、Mにおいては、同県南頭村に居住していたか、それぞれその実家に戻っていた。これらの村々は、今日の行政区画では、西潘郷、南社郷、西煙鎮に属し、いずれも盂県の西部に位置している。

第4  本件訴訟の争点

1  第一の争点は、旧日本軍の兵士ら(以下「日本兵」という。)によって加えられたという被害者原告らの被害の有無及びその態様であるが、この点に関する原告らの主張は、別紙「被害状況一覧」のⅠ及びⅡにその要旨を記載したとおりである。

2  第二の争点は、被害者原告らの上記被害が認められる場合に、当該被害(以下「本件被害」といい、本件被害に対応する日本兵の加害行為を「本件加害行為」という。)に対する我が国の損害賠償責任として、国際法上の責任が認められるか否かであるが、この点に関する原告ら及び被告の主張は、その準備書面の記載(特に、原告らについては、平成一四年一月一七日付け最終準備書面の八三頁一七行目ないし一二三頁一六行目、被告については、最終準備書面の一頁一八行目ないし二七頁一五行目)を要約すると、以下のとおりである。

(原告ら)

(1) 国家責任法理に基づく請求について

本件加害行為は国際法に違反するものであるから、被告は、以下のとおり、国家責任法理に基づき、被害者原告らの本件被害に係る損害を賠償する責任がある。すなわち、

① 国際法違反

日本兵あるいは旧日本軍の被害者原告らに対する本件加害行為は、以下の法規ないし国際慣習法に違反する。

ア 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則違反

陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(明治四五年条約四号)、いわゆる「ハーグ陸戦条約」に附属する陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則(以下「ハーグ陸戦規則」という。)は、その四六条で、「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ。私有財産ハ、之ヲ没収スルコトヲ得ス。」と規定しているが、同条で尊重が求められている「家ノ名誉」という概念には、強姦という屈辱的な行為を受けない家族の中の女性の権利も含まれると解されるので、日本兵による被害者原告らに対する強姦等の本件加害行為は、同条に違反する。

イ 国際慣習法違反

また、遅くとも第二次世界大戦までには、戦時下に行われる強姦、虐待等が戦争犯罪であるとの国際慣習法が確立しているので、日本兵による本件加害行為は、この戦争犯罪にも該当する。

ウ 人道に対する罪

さらに、日本兵による被害者原告らに対する強姦等の本件加害行為は、第二次世界大戦を契機として国際社会に登場した殺人、奴隷化及び戦争前又は戦争中に犯されるその他非人道的行為にも該当する。

② 国際法違反の効果

ア 国家責任の発生とその解除義務

国家による国際不法行為(国際犯罪・国際違法行為)については、個人が国家の国際不法行為によって権利を侵害された場合には、当該国家において、その損害を賠償する義務を負い、原状回復、金銭賠償、満足、再犯防止の確約等という方法で、その義務を履行しなければならないという国家責任を生じさせる。これは、いわゆる「国家責任法理」として、国際法の一般原則として確立された国際法規となっている。

イ 国家責任の解除義務の履行

上記の国家責任が解除されるのに必要な義務の履行は、当該国家の立法・行政・司法機関によって、それぞれその与えられた権限の範囲内において、行われるが、その具体的役割は、以下のとおりである。

(ア) 立法機関

立法機関による国家責任の解除義務の履行としては、被害者が受けた損害を回復するための特別立法を行うことである。なお、そのような立法措置を講じないため、被害者が救済を受けられない場合は、新たな国家責任を生じさせることになるのであって、そのような立法の不作為は、後述の国家賠償法上の違法性を帯びることになる。

(イ) 行政機関

行政機関による国家責任の解除義務の履行としては、被害者の救済措置を講ずることである。そのためには、まず、旧日本軍による性暴力についての日本国の法的責任を認めたうえ、公式謝罪、金銭賠償を行わなければならない。また、そのための行政審査機関の設置も必要である。さらに、立法化が必要であれば、内閣は、自ら法案提出権を行使しなければならないし、再発防止の確認、補償措置も講じる必要がある。違法行為の責任者に対する処罰も求められる。なお、そのような措置が講じられない場合には、それ自体が国家賠償法上の違法性を帯び、後述の行政の不作為による責任を生じさせることになる。

(ウ) 司法機関

司法機関による国家責任の解除義務の履行としては、その要請に合致するよう国内法令を訴訟において具体的に適用することである。国際法の「国内法化」の本質は、国内法の実現を担う司法府に、国際法の履行確保の役割が委ねられているところにある。すなわち、国際法が憲法によって国内法化されているのは、裁判所の司法的営みを通じて国際法の遵守を確保し、憲法の基本理念である国際協調主義の実現を図るためである。なお、裁判所が、それにもかかわらず、このような役割を回避するならば、それは後述の「裁判拒否」という新たな国家賠償責任を生じさせることになる。

ウ 条約の締結と被害者個人の請求権の帰すう

本件加害行為につき、国家責任を負う日本国と被害者原告らが属する中華人民共和国との間では、昭和四七年九月二九日、いわゆる「日中共同声明」が調印され、中華人民共和国政府は、日本国に対する戦争賠償の請求権を放棄している。

しかし、日中共同声明によって中華人民共和国が放棄したのは、あくまで戦勝国の敗戦国に対する戦争賠償の請求権にすぎず、戦時法規や人道原則に違反して相手国の国民に与えた被害を賠償する加害国の責任まで放棄されたわけではない。このことは、中華民国政府において、同国民が日本国に対して賠償請求を行う権利を有することを認めていること、日本国政府においても、いわゆる日韓請求権協定(昭和四〇年条約二七号)につき、日韓両国政府が放棄した国民の請求権につき、国家が有する外交保護権を放棄したものにすぎず、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない旨の国会答弁を行っていることからも明らかである。

被告は、本件訴訟の最終段階に至って、日中共同声明をもって、被害者原告ら個人の日本国に対する損害賠償請求権まで放棄したものであると主張しているが、その不当であることは明らかである。

③ 被害者個人の国際法上の法主体性

ア 国家が国際不法行為によって国家責任法理を負う場合に、その相手方となるのが当該不法行為によって被害を受けた個人であるのか、被害者の属する国家であるのかにつき、被告は、国家責任法理は加害国が相手国に対して負う義務であって、個人は国家責任を追求する主体とはなり得ないと主張するが、被告の主張は、あくまでも国際的平面における国際法の解釈にすぎないものであって、国内的平面で相手方を被害者個人と解することに何ら支障はない。

イ 個人は、従来、国際法上では、国際裁判所に対する出訴権が認められる場合など、国際機関による仲裁手続が定められていない限り、原則として国際法違反を理由に国家に対する直接的な請求はできないと解されていた。

しかし、国際法には、国際的平面と国内的平面という二つのレベルがあるのであって、上記の議論が妥当するのは、国際法の国際的平面である。国際法が国内の裁判所で援用される国内的平面では、上記の議論は妥当せず、一般的に、個人は、国内的効力を有する国際法を援用することが認められている。被告の主張をはじめ、従来の裁判例は、国際的平面における国際法の論点をそのまま国内的平面に移行させるものであって、両者の概念を混同している点で、不当である。

日本国憲法は、いわゆる一般的受容方式を採用しているので、国際法規は特別の立法手続を必要としないで、当然にそのまま国内法として法的効力を有する。このような国際法の国内法化は、既に明治憲法下でも認められていたものであるが、このようにして国内的効力を付与された国際法は、国内の裁判所においては、一般の国内法と同様、直接的な裁判規範として用いられ、個人は、国際法に基づく自らの権利・義務を主張することができる。その意味で、個人にも、国内的平面における国際法の法主体性が認められるのである。

ウ もっとも、国内的平面における国際法の適用といっても、国際法をそのままの形で国内の裁判所で援用できるというわけではなく、当該国際法の規定がそのまま国内の裁判所の裁判規範として援用できるという意味の「自動執行性」を具備していなければならない。しかし、自動執行性の有無は、国際法の規定が裁判規範たり得るかという国内法によって決せられるべき問題であって、日本国においては、上記のとおり、国際法には、一般的に国内的効力が付与されているから、国内法化した国際法は、他の国内法と同一の基準を持って裁判規範性の審査を受けると解されるべきである。

そして、国家責任法理の一般原則が自動執行性を有するか否かの判断は、その概念が上記の国内の裁判所での裁判規範性を意味するものであるから、同法理が国内法の審査基準と同一基準のもとで裁判規範性を具備しているか否かによることになる。そのような観点から見た場合、国家責任法理の内容は、我が国の民法七〇九条の規定ないし国家賠償法一条の規定と、その抽象性において、基本的な相違はないので、日本国の裁判所の裁判規範として認めることに特に問題はない。

この点につき、自動執行性を具備するための要件として、①当該国際法を直接に国内の裁判所で執行可能な内容のものにするという締約国の意思(主観的要件)、②当該規定が明白、確定的、完全かつ詳細に定められていること(客観的要件)の二つの要件が必要とされることがあるが、このような要件は、国際法が各国の国内の裁判所でそのまま適用されることを国際法的に義務づけられるという意味での直接適用可能性の判断基準であって、自動執行性の要件としては相当でない。

直接適用可能性という概念は、条約の締約国が当該条約を国内で直接適用が可能なものと意図しているか否かという国際的平面の問題であるのに対し、条約が自動執行性を有するか否かの判断は、国内法の問題であるからである。国際法規の直接適用可能性と、自動執行性とは同義ではなく、両者は完全に異なるレベルでの概念である。

本件において、原告らは、請求の根拠として、上記の自動執行性が認められる国家責任法理(その直接的適用)を援用する。仮に、国家責任法理に自動執行性(同法理の直接的適用)が認められないとしても、同法理は、国内法の解釈基準となるのであるから、民法・国家賠償法の規定を国家責任法理に沿うように解釈すべきものであって、この点(同法理の間接的適用)は、後述の日本国法に基づく請求の根拠となり得るものである。

(2) ハーグ陸戦条約に基づく請求について

また、被告は、本件加害行為につき、ハーグ陸戦条約三条に基づいて、被害者原告らの本件被害に係る損害を賠償する責任がある。すなわち、

① ハーグ陸戦条約三条の解釈の基準

ア 条約の解釈について、条約法に関するウィーン条約(昭和五六年条約一六号。以下「条約法条約」という。)三一条一項は、「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」と規定し、同条三項は、「文脈とともに次のものを考慮する。(a)条約の解釈又は適用につき当事国の間で後にされた合意、(b)条約の適用につき後に生じた慣行であって、条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの、(c)当事国の間の関係において適用される国際法の関連規則」と規定している。また、同条約三二条は、解釈の補足的な手段として、「前条の規定の適用により得られた意味を確認するため又は次の場合における意味を決定するため、解釈の補足的な手段、特に条約の準備作業及び条約締結の際の事情に依拠することができる。(a)前条の規定による解釈によっては意味があいまい又は不正確である場合」と規定している。

イ ハーグ陸戦条約は、条約法条約が発効する前の条約であるが、条約法条約で認められた条約の解釈原理は、国際判例等によって従来から認められ、国際慣習法として成立していた原則を確認し、明確化したものであるから、ハーグ陸戦条約の解釈に際しても、その原理が適用されるべきである。

この点につき、被告は、ハーグ陸戦条約三条は、文言上、交戦当事国間の国家責任を明らかにしたものにすぎず、国家が交戦当事国の被害者個人に対して直接に損害賠償責任を負う趣旨ではないと主張する。しかし、被告のような解釈は、ハーグ陸戦条約の主体が国家のみであることを前提としたものである。個人もまた、同条約の主体として、その拘束力が個人にも直接に及ぶのであって、同条約三条の趣旨・目的をこのように単純に断定することはできない。

また、ある条約全体の趣旨・目的と、その条約中の条文の趣旨・目的とが常に全く同一であるわけではなく、ハーグ陸戦条約三条の趣旨及び目的も、前文の「戦争の惨害を軽減するため交戦者の相互間の関係及び住民との関係において、交戦者の行動準則を定めることにある。」という一般的表現には尽くされない、同条独自の具体的な趣旨・目的があるとみるべきである。

ウ ハーグ陸戦条約三条の形式的な文理解釈では、損害賠償請求権者に個人も含まれるのか、それとも、被害者の属する国家のみが損害賠償請求権者であるのかを確定することができないとしても、そのような同条約三条の解釈に当たっては、上記の条約法条約三一条三項、三二条a項に基づき、事後の慣行及び条約の起草過程、実行例も考慮して解釈する必要がある。

② ハーグ陸戦条約三条の規定する内容

ア 起草過程からの解釈

(ア) ハーグ陸戦条約三条の起草過程には、「その者に対して」という文言(ドイツ語)があったのに、フランス語の条約正文では、その文言が抜けているが、それは、語法あるいは用語の使用方法の単なる相違である可能性が高く、「その者」、すなわち、被害者個人もその対象として規定していることは明らかである。

(イ) また、同条約三条に係るドイツ代表の提案理由をめぐるスイス代表の発言ないしこれに関連するフランス・イギリス・ロシア等の各国代表の発言をみても、いずれもハーグ陸戦規則に違反する行為によって生じた個人の損害をてん補することを意図していたものであった。その背景には、日露戦争時に日本帝国陸軍が兵士の過失によって生じた被害について賠償金を支払った行為に対する国際的な高い評価があったことも想起すべきである。

(ウ) 軍隊構成員は、個人一般と同様、戦争法規の直接の主体として、その規則に違反した場合に処罰されることは、国際慣習法の確立した原則であって、特に、戦争法規は、国家のみならず、その国民も、当該国民が軍隊の構成員であるか否かにかかわらず、拘束するという考え方は、当時の国際法の支配的学説であったばかりでなく、各国政府の公的な見解でもあったのであって、そのような考え方に基づいて締結された同条約に基づき、被害者個人が加害国に対して損害賠償を求め得るというのは当然のことである。

イ 実行例からの解釈

(ア) ハーグ陸戦条約三条に基づく個人の損害賠償請求の実行例は、締約国の意思ないし締約国による同条約の解釈を確認するためのものであるから、占領軍司令官の裁量による支払、占領軍政府による住民からの請求処理による支払等の事例を広く検討したものでなければならず、また、その実行例の評価に当たっては、当該事例が実質的に条約に沿ったもので、かつ、加害国の法的義務にかかわって実行されたことが確認されれば十分である。加害国の国内の裁判所における被害者個人の損害賠償請求が認容された判決のみを取り上げるというのは、狭きに失する。

(イ) そのような観点から個人の損害賠償請求の実行例をみてみると、裁判によったものとして、ギリシャ・レイバディア地方裁判所の一九九七年一〇月三〇日判決、ボン地方裁判所の一九九七年一一月五日判決、旧西ドイツ・ミュンスター行政控訴裁判所の一九五二年四月九日判決などがあるほか、裁判によらないものとして、ハーグ陸戦条約以前であるが、日露戦争時に日本帝国陸軍が、兵士の過失によって生じた火災につき、被害者に対して賠償金を支払った事例、第二次世界大戦時、イギリス、アメリカ、フランス軍が占領するドイツ地域において、占領軍兵士の不法行為に対して占領軍政府がその賠償責任を認め、住民から直接に占領軍政府に対する請求を取り扱う組織と手続とを作り上げて支払を行った事例、第二次大戦後、国連安保理決議六八七号(一九九一年四月三日)により決定された国連補償委員会に基づく実行例などがある。

(ウ) そもそも、戦闘行為・占領終結後の賠償問題に関する従来の解決方式にあっても、その背後には、いずれも個人に対する損害賠償が行われることを当然の前提としていたのである。

③ 以上のとおり、ハーグ陸戦条約三条は、同条約に附属するハーグ陸戦規則に違反する行為があった場合、交戦国は、その違反によって被害を受けた個人に対し、償金の支払義務を負うことを定めたものであると解釈されるべきところ、日本兵による被害者原告らに対する強姦等の本件加害行為は、ハーグ陸戦規則に違反するものであるから、被告は、ハーグ陸戦条約三条に基づき、被害者原告らの被った損害を賠償すべき責任がある。

(被告)

(1) 国家責任法理に基づく請求について

① 国際法違反

原告らは、本訴請求の根拠として、国際法違反を主張するが、国際法は、いうまでもなく国家と国家との関係を規律する法であるから、それが条約であっても、国際慣習法であっても、基本的には、国家間の権利・義務を定めたにすぎない。

国際法が個人の生活関係、権利・義務関係を規律の対象としたとしても、それは、ある国家が、そのような権利を他国民に認めること、あるいは、そのような義務を他国民に課すことを他の国家に約したにとどまるものであって、そこに規定されているのは、直接的には、ある国家と他の国家との国際法上の権利・義務にすぎない。国際法が個人の生活関係、権利・義務関係を対象とする規定を置いたということから、直ちに個人に国際法上の権利・義務が認められたということはできないし、また、これによって個人が直接に国際法上で何らかの請求の主体となることが認められるものでもない。

国際法が原則として国家間の権利・義務を規律するものである以上、ある国家が国際法の違反行為により責任を負うべき場合、その国家に対して国際法上の責任を追及し得る主体は、その違反によって被害を受けた他の国家であって、このことは、直接的な被害を受けたのが個人であったとしても同様である。この場合、被害を受けた個人の救済は、被害者の属する国家が外交保護権を行使することによって図られるべき問題である。

国際法に違反する行為により権利を侵害された個人が国際法上の手続によって直接にその救済を図り得る制度を内容とする条約が締結された場合に、個人が国家に対して特定の行為を行うことを国際法上の手続により要求できるのは、当該条約自体がそのような地位を個人に与えている結果にすぎない。それ以外に、被害を受けた個人が、国際法を準拠として、加害国に対し、加害国の裁判所において、損害賠償請求権などを行使することができるというためには、当該国際法に、その旨の特別の制度が存在することが不可欠であるところ、そのような国際法はない。

原告らは、その国際法として、国際慣習法も主張しているが、国際慣習法とは、「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」(一九四五年国際司法裁判所規定三八条)をいうところ、国際慣習法が成立するためには、諸国家の行為の積み重ねを通じて一定の国際的慣行が成立していること(一般慣行)と、それを法的な義務として確信する諸国家の信念(法的確信)とが存在することが必要であって、原告らが主張する国家責任の解除義務の履行として被害者個人の加害国に対する直接の損害賠償請求権を認めるというような国際慣習法もない。

② 国際法違反の効果

原告らは、国際法違反の効果として、国家責任が生ずると主張するが、その主張の当否はともかく、本件加害行為による本件被害を含め、日中戦争時の被害については、日中共同声明をもって、被害者個人の我が国に対する損害賠償請求権も放棄されているのであって、改めて我が国が責任を負うべきものではない。

③ 被害者個人の国際法上の法主体性

ア 国際法上の権利を国内の裁判所において援用する場合、まず、国際法上、個人に権利が認められているか否かを検討するのは当然である。国際法上、個人が権利の帰属主体として認められないのに、一般的受容方式を採用している結果、当該国際法が国内法化したからといって、個人に対し、その国内法化した国際法上の権利が認められるわけではないことは明らかである。原告らが本訴請求の根拠としているハーグ陸戦条約三条ないし国際慣習法は、いずれも国際法であるから、それらの解釈が国際法の一般原則に従って行われるべきことも、当然である。

イ 原告らは、被害者個人が国際法上の権利の侵害に対する国内的救済を受ける権利を有することは明らかであるように主張する。しかし、国際法における国内的救済の原則は、加害国の国内法上の救済規定が存在し、国内的救済が受けられる場合には、まず、その手段によるべきであるとしたものにすぎず、必ず加害国の国内法によって救済されることを意味するものではない。

ウ 以上の国際法の基本的な考え方によれば、国際法違反の効果は、国際法上の国家責任を発生させ、相手国から国家責任の追及を受けることはあっても、相手国の国民個人が加害国に対して国際法上直接に損害賠償を請求し得るとすることはできないし、そのような国際慣習法の成立も認められない。この点に関する原告の主張も失当である。

エ 仮に、条約が国内法としての効力を有するに至ったとしても、個々の国民が国際法を直接の法的根拠として、当然に具体的な権利ないし法的地位を主張したり、あるいは、国内の司法裁判所が、国家と国民との間、あるいは、国民相互間の法的紛争を解決するに当たり、国際法を直接適用して結論を導くことが可能であるか否かという国際法の国内適用可能性の有無の問題は、別途検討すべき問題である。

オ 原告らは、国家責任法理として、人道に対する罪も問題にしているが、国際法としての「戦争犯罪」及び「人道に対する罪」は、その規定の文言に照らせば、明らかに違反行為者個人の犯罪構成要件を規定しているものであるうえ、これらが、第二次世界大戦に関連して行われた非人道的行為・迫害行為を行った行為者個人の刑事責任を明らかにし、これを処罰するために設けられたことを併せ考えると、戦争犯罪ないし人道に対する罪違反の行為は、行為者個人の国際刑事責任が追及されるという効果を有するにすぎず、違反行為者個人の属する国家の民事的責任を基礎づけるものではないから、この点に関する原告の主張も失当である。

(2) ハーグ陸戦条約に基づく請求について

① ハーグ陸戦条約三条の解釈の基準

ハーグ陸戦条約一条は、「締約国ハ、其ノ陸軍軍隊ニ対シ、本条約ニ附属スル陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則ニ適合スル訓令ヲ発スヘシ」と規定し、同規則、すなわち、ハーグ陸戦規則の適用は、締約国において各国の陸軍に訓令を発する義務を課することによって実現する方式を採用しているが、これは、国家間に相互に義務を課し、国家間の権利・義務を定めることによって条約の実現を図ろうとする国際法の基本原則に沿うものである。そして、同条約三条は、このように締約国が訓令を発することにより実現することとした条約の実施に基づき、その履行を確保する一手段として、違法行為に対する伝統的な国家責任を規定したものである。しかも、同条約には、個人に国家に対する損害賠償請求権を付与することを示唆する規定や文言は全く存在しない。同条約三条は、その文言上、個人が直接に自己の権利を主張するための国際法上の手続を定めていないばかりでなく、そもそも、個人の国際法上の権利一般について何ら言及していない。

この点につき、原告らは、ハーグ陸戦条約では、一般的に個人が国際法の主体と認められるし、交戦法規違反の行為の場合、被害者個人は、条約によって規定された手続規定がなくても、加害国の国内の裁判手続を利用して、加害国に対して直接に損害賠償を請求し得るように主張する。しかし、国際法の生成過程からすれば、戦時国際法こそが国際法の出発点というべきものであって、戦時国際法は、平時国際法と比べて、特別の性格を有するものではないところ、一九二四年当時の国際法学会では、戦時国際法の分野において、個人の損害について加害国に対して損害賠償を求め得るのは、当該被害者の属する国家であるというのが一般的な見解であったことは明らかである。ハーグ陸戦条約三条などが交戦法規であることをもって、これらが被害者個人に対して損害賠償請求権を認めたものであるようにいう原告らの主張は失当である。

ハーグ陸戦条約三条は、その文理自体からして、国家間の国家責任を定めたものにすぎず、個人の損害賠償請求権を定めたものではないと解釈するほかないのである。国際法上、国家間の権利・義務を規定する形で個人の利益の保護を図る例は少なく、ハーグ陸戦条約が個人を保護の対象としているからといって、同条約三条が個人の加害国に対する損害賠償請求権を認めていると解すべき理由はなく、原告らの主張は、国際法の基本構造を理解しない独自の主張にすぎない。

② ハーグ陸戦条約三条の規定する内容

ア 起草過程からの解釈

原告らは、ハーグ陸戦条約の起草過程を根拠として、ハーグ陸戦条約三条が個人に損害賠償請求権を認めたものと解釈されるべきであると主張する。しかし、まず、条約文の審議過程や提案者の意図といったものは、条約文があいまい又は不明確等の場合に、補足的な解釈手段として例外的に利用されるにすぎず、ハーグ陸戦条約三条のように、条約の文理解釈において国家間の権利・義務を定めていることが明らかである場合には、そのような事情を考慮する必要はないから、審議過程などを重視して解釈すべきではない。また、実際、その審議経過からも、ハーグ陸戦条約三条が個人の損害賠償請求権を認める趣旨で審議されていたとすることはできず、原告の主張は失当である。

イ 実行例からの解釈

ハーグ陸戦条約三条が個人の損害賠償請求権を定めたことを根拠付ける実行例といえるためには、ハーグ陸戦規則違反の行為によって被害を被った個人が、交戦国に対し、ハーグ陸戦条約三条に基づき直接に損害賠償請求権を行使し、当該国家がその義務の履行として賠償金を支払ったことを内容とするものでなければならないところ、そのような実行例は存しない。原告がハーグ陸戦条約の実行例として挙げる裁判例は、それが個人の国際法上の損害賠償請求権の存在を前提としたものであるか否かは不明であって、ハーグ陸戦条約三条が個人の損害賠償請求権を定めたものと解釈する根拠とはならない。

③ 以上のとおり、ハーグ陸戦条約三条は、交戦当事者たる国家が、自国の軍隊の構成員によるハーグ陸戦規則に違反した行為に基づく損害について相手国に対して損害賠償責任を負うという国家間の権利・義務を定立したものであって、その行為により損害を被った被害者個人が相手国に対して直接に損害賠償請求をすることができることを認めたものではないから、原告らの請求が認められる余地はない。

3  第三の争点は、本件加害行為ないし本件被害に対する我が国の損害賠償責任として、当時の中華民国法上の責任が認められるか否かであるが、この点に関する原告ら及び被告の主張は、その準備書面の記載(特に、原告らについては、平成一四年一月一七日付け最終準備書面の一六一頁八行目ないし一六八頁末行、被告については、最終準備書面の二七頁一六行目ないし六五頁一七行目)を要約すると、以下のとおりである。

(原告ら)

(1) 本件加害行為に係る準拠法について

本件は、当時の中華民国において、日本兵が中華民国の婦女である被害者原告らを拉致、監禁、強姦したという事案であるから、準拠法は、法例一一条一項により不法行為地法の中華民国法であって、被告は、被害者原告らに対し、不法行為規定である同法一八四条、一九五条及び一九七条一項に基づく損害賠償責任を負う。

(2) 日本法の累積的適用の排除について

本件加害行為につき、法例一一条二項、三項により日本法の累積的適用がされるとしても、不法行為の成否については、日本法の国家無答責の法理は適用されず、また、不法行為の効力についても、その範囲に消滅時効、除斥期間は含まれず、民法七二四条後段の適用は排除されるべきである。

(被告)

(1) 本件加害行為に係る準拠法について

本件加害行為は、国家の権力的作用であって、極めて公法的色彩の強い行為であるから、国家の利害から切り離して考えることができず、国際私法の適用の対象ではない。国家賠償法六条がいわゆる相互主義を採用しているのも、その趣旨である。そのような行為については、これを国家間の私法規定の抵触の問題として捉え、法例を適用すべきものではないのである。

原告らは、公権力の行使に起因する損害賠償請求権も、私法的救済であって、その法律関係は、私法関係に属する問題であると主張する。しかし、国際私法の対象として用いられる場合の「法律関係」という語は、法律上問題とされる関係、すなわち、法律の規律の対象となる生活関係を意味するのであって、いずれかの法律関係の適用によって法律関係として成立した関係をいうのではない。

したがって、国際私法の適用対象となる私法的法律関係とは、国家利益と直接に関係しない生活関係のことをいうと解されるべきであって、ある法律の適用の結果として発生する権利・義務関係の法的性質を問題としているのではないから、原告らの主張は失当である。

(2) 日本法の累積的適用の排除について

仮に、法例一一条の適用があるとしても、同条二項により、不法行為の成立については、不法行為地法と法廷地法とが、また、同条三項により、不法行為の効力についても、不法行為地法と法廷地法とが累積的に適用されるところ、前者では、国家無答責の法理によって被害者原告らに対する不法行為の成立が否定され、後者では、除斥期間を規定した民法七二四条後段が適用されるので、いずれにしても我が国に損害賠償責任はなく、原告らの中華民国法に基づく請求は失当である。

4  第四の争点は、本件加害行為ないし本件被害に対する我が国の損害賠償責任として、日本国法上の責任が認められるか否かであるが、この点に関する原告ら及び被告の主張は、その準備書面の記載(特に、原告らについては、平成一四年一月一七日付け最終準備書面の一二三頁一七行目ないし一三六頁一〇行目、最終準備書面(追加一)の一頁一三行目ないし一〇頁六行目、被告については、最終準備書面の六五頁一八行目ないし六七頁一七行目、同三六頁二一行目ないし五五頁一二行目)を要約すると、以下のとおりである。

(原告ら)

(1) 日本国民法の適用について

本件加害行為は、日本国民法上の不法行為も構成するから、被告は、被害者原告らに対し、その被った損害を賠償する責任がある。

(2) 国家無答責の法理について

被告は、国家無答責の法理を理由に、本件加害行為につき、被告が損害賠償責任を負う余地はないと主張するが、以下のとおり、本件における主張としては、失当である。すなわち、

① 国家無答責の法理は、明治憲法の下において、大審院判例によって、国に民法の不法行為規定の適用が否定されていたことに由来するが、戦前の学説・判例において、もっぱら「行政作用」について論じられてきたところ、戦争行為は、軍事を軍政と軍令とに二分した場合に、「行政作用」に含まれる「軍政」という場面ではなく、統帥権の行使に係る「軍令」という場面として位置づけられていたので、そのような戦争行為として行われた本件加害行為についても、同法理が適用される前提がない。

② また、国家無答責の法理が適用される対象は、「統治権に基づく権力的行動」であって、その「統治権」とは、我が国の領土と我が国の国民とを支配する、いわゆる領土高権及び対人高権として、我が国の領土内における公法関係を形成するもの、その「権力的行動」とは、明治期以降、行政主体とその客体との法律関係において、伝統的に行政主体の意思に法的優越性が認められていた関係を指すものであった。すなわち、「統治権に基づく権力的行動」ということになるが、それは、国家の国土と国民を支配する権利行使として、公法関係が形成される場合における行政主体の意思に法的優越性が認められる関係を指すから、国家無答責の法理が適用され、妥当する場面は、結局、国内における公法関係であるか、外国における日本国民に対する公法関係であるか、そのいずれかということになる。

しかし、本件において、被害者原告らは、本件被害にあった当時、山西省に居住し、当時の中華民国(現・中華人民共和国)に居住していた中国人民であったから、この点においても、本件加害行為につき、国家無答責の法理が適用されることはない。

③ さらに、国家無答責の法理は、法令ではなく、上記のとおり、明治憲法の下における裁判所による法令の解釈・適用作用にすぎなかったのであるから、同憲法が廃止されている現在、本件加害行為については、国家無答責の法理によらないで、日本国民法が適用されるべきものである。

(被告)

(1) 日本国民法の適用について

本件加害行為は、国家の権力的作用に基づく行為であって、原告らの主張自体からして、国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的作用である権力的作用に係る行為であることが明らかであって、我が国民法の適用は否定される。

(2) 国家無答責の法理について

① 上記のような行為については、国家賠償法が施行される以前は、国家無答責の法理によって、我が国の損害賠償責任は否定されていた。

② 国家賠償法は、附則六項で、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と定めるが、この「従前の例による」というのは、法令を改正・廃止した場合に、改廃直前の法令を含めた法制度をそのままの状態で適用することを意味するものであって、従前に採用されてきた国家無答責の法理という法制度がそのまま適用されることにより、国又は地方公共団体が責任を負わないことを明らかにしたものであるから、この点においても、原告らの請求は法的根拠を欠く。

5  第五の争点は、我が国の日本国法上の責任が認められるとした場合に、その責任の帰すうであるが、この点に関する原告ら及び被告の主張は、その準備書面の記載(特に、原告らについては、平成一四年一月一七日付け最終準備書面の一三六頁四行目ないし一四八頁一〇行目、最終準備書面(追加一)の一〇頁七行目ないし一五頁一行目、被告については、最終準備書面の六五頁一八行目ないし六七頁一七行目、同五六頁一三行目ないし六五頁一一行目)を要約すると、以下のとおりである。

(被告)

(1) 民法七二四条後段による免責について

民法七二四条後段は除斥期間を定めたものであるというのが最高裁判所平成元年一二月二一日第一小法廷判決民集四三巻一二号二二〇九頁(以下「平成元年判決」という。)であるから、本件加害行為からその規定する二〇年が経過している本件においては、被害者原告らが損害賠償請求権を取得し得たとしても、現時点では、消滅している。

原告らは、その起算点を問題にするが、本件加害行為が行われた時点を基準とすべきことは、同条後段の文言からも明らかである。

(2) 関係する最高裁判例とその射程について

原告らは、民法七二四条後段の適用制限を認めた最高裁判所平成一〇年六月一二日第二小法廷判決・民集五二巻四号一〇八七頁(以下「平成一〇年判決」という。)の射程が本件にも及ぶように主張するが、同判決の射程は極めて狭いものであって、本件において、同判決にいう適用制限が認められるべきではない。

(原告ら)

(1) 民法七二四条後段による免責について

民法七二四条後段は、時効期間を定めたものと解されるべきであって、これを除斥期間であるとした平成元年判決は妥当ではなく、同判決に従った被告の主張は失当である。

仮に、除斥期間を定めた規定であったとしても、権利者の個人的事情を超えた客観的、一般的事情に照らして、権利を現実的に行使し得たとはいえない特別の事情がある場合には、権利行使を現実に行い得たといえる時期を除斥期間の起算点と解すべきところ、本件における被害者原告らの権利行使が可能であると分かったのは、一九九五年三月七日に当時の中華人民共和国副首相兼外務大臣銭其file_8.jpgが同国国民個人が第二次世界大戦中に受けた損害につき賠償請求することを認める旨の発言をした時点であるから、同日から起算すると、未だ除斥期間は経過していない。

(2) 関係する最高裁判例とその射程について

仮に、除斥期間が経過していたとしても、平成一〇年判決は、不法行為の被害者が当該不法行為を原因として不法行為の時から心神喪失の常況にある場合に、民法七二四条後段の効果が制限されることが条理にかなうときがある旨を判示して、その制限を肯定しているのであって、同判決の法理からすれば、本件も、被害者原告らにおいて、損害賠償請求権を行使することが不可能な状況に陥っていた特別の事情がある場合として、同判決にいう民法七二四条後段の適用制限が認められるべきである。

6  第六の争点は、本件加害行為ないし本件被害に対する我が国の損害賠償責任が認められない場合にも、その事後的な救済をめぐって、我が国に責任が認められるか否かであるが、この点に関する原告ら及び被告の主張は、その準備書面の記載(特に、原告については、平成一四年一月一七日付け最終準備書面の一四八頁一一行目ないし一六一頁七行目、被告については、最終準備書面の六七頁一八行目ないし七八頁八行目)を要約すると、以下のとおりである。

(原告ら)

(1) 立法府の責任について

立法府の不作為が国家賠償法上で違法と評価される場合について判示した最高裁判所昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決民集三九巻七号一五一二頁(以下「昭和六〇年判決」という。)は、昭和六〇年当時の、立法裁量の広い国会議員の選挙の投票方法に関する判断であって、その消極的な判断の射程は、本件加害行為によって被害者原告らが侵害された性的自己決定権のような根元的な人権については、しかも、戦時性暴力をめぐる国際的問題意識が格段に高まった現在においては、これを限定的に理解すべきものである。本件における被害者原告らの被害状況からすれば、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性とが認められ、被害者原告らに対して金銭的賠償を行う憲法上の立法義務が生じ、そして、平成五年八月の当時の河野洋平内閣官房長官談話によって我が国の国会が立法の必要性を充分に認識し、かつ、立法が可能な状況となったのに、それから一定の合理的期間を経過した一九九六年八月以後もなおその立法的な救済を放置しているのであるから、立法府の不作為は、国家賠償法上の違法性を有し、被害者原告らに対し、損害賠償責任を負うべきものとなった。

(2) 行政府の責任について

また、国は、被害者原告らの本件被害の実態を調査し、その被害認定に必要な審査機関を設置するほか、謝罪と賠償とに向けた条件を整備して、必要な法案を提出し、住居、医療等の物質的援助を行い、他方、加害者及び責任者をできる限り特定して処罰し、その重い戦争責任を認識して、真の平和を築いていける国民を育てる正しい歴史教育を行うなど、行政上の作為義務があるのに、これを怠っているのであるから、この点における行政府の不作為も、国家賠償法上の違法性を有し、被害者原告らに対し、損害賠償責任を負うべきものである。

(3) 司法府の責任について

さらに、国は、いわゆる戦後補償裁判をめぐる訴訟において、国際法上の義務違反を是正すべき憲法上の義務を負っているのであるから、その義務の履行として、原告らの被告に対する本訴請求を認容する判断を求められているところ、本訴請求を棄却するということになれば、憲法の要請に違反するばかりでなく、それ自体が「裁判拒否」という新たな違法行為として、国家賠償法上の違法性を帯びることになる。

(被告)

(1) 立法府の責任について

原告らの立法不作為に係る主張は、昭和六〇年判決に違背しているのみならず、国会議員の立法義務を導く根拠に飛躍がある。昭和六〇年判決に即して想定すれば、憲法上、具体的な法律を立法すべき作為義務につき、その内容のみならず、その時期を含め、明文をもって定められている場合であるか、憲法の解釈上、上記作為義務が一義的に明白な場合であるといった、一般的には、容易に想定し難い、例外的な場合に限られるところ、本件では、被害者原告らの救済に係る立法の作為義務を定めた憲法規定はなく、また、憲法の解釈上でも、その作為義務が一義的に明白であるということはできないから、被害者原告らの救済に係る立法をしなかった国会議員につき、国家賠償法一条一項の違法を問われる余地はない。立法不作為の違法をいう原告らの主張が失当であることは明らかである。

(2) 行政府の責任について

国家賠償法一条一項は、国又は地方公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民等に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民等に損害を与えた場合に、国又は地方公共団体がこれを賠償する責に任ずる旨を規定するものであって、具体的には、公務員の個々の国民に対する職務上の法的義務の有無及びその内容の確定と、その義務に係る義務違反の事実の有無とによって、当該公務員の行為の違法判断がされることになるのであるから、同条の責任を論ずるに当たっては、まず、加害公務員とその違法行為の特定とが必要である。しかし、原告らの主張では、加害公務員の特定がされていないばかりでなく、違法を論ずる前提となる公務員の法的義務についても、先行行為に基づく条理上の作為義務を主張するにとどまり、具体的にいかなる公務員のいかなる不作為が被害者原告らに対する関係で、職務上の義務違反となり、国家賠償法上の違法行為に該当すると主張するのか判然としない。原告らの主張は、国家賠償法一条一項の請求に必要な特定を欠くものであって、主張自体失当というべきである。

第5  当裁判所の判断

1  本件加害行為ないし本件被害について

(1)  暴力的被害の有無及びその態様

原告らは、被害者原告らに対する日本兵の加害行為ないしこれによる被害につき、その暴力的被害の有無及びその態様の要旨を別紙「被害状況一覧」のⅠのとおりに主張するところ、証拠(甲76ないし85、原告A、同B、同C、同D、同E、同G、同I及び同J、証人N及び同O)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、被害者原告らが日中戦争当時に日本兵によって加えられたという強姦等の被害事実は、それが、原告らの主張する本件加害行為ないし本件被害との間で、事実の細部にまで及んで、また、事実の評価を含めて、完全に符合するとはいえないが、その概要においては、これを明らかに認め得るところであって、以上の趣旨による本件加害行為ないし本件被害の認定を覆すに足りる証拠はない。

(2)  精神的被害の有無及びその態様

原告らは、被害者原告らの暴力的被害のほか、精神的被害についても、その有無及びその態様を別紙「被害状況一覧」のⅡのとおりに主張するところ、上記のとおり認定した本件加害行為ないし本件被害の事実に鑑みれば、被害者原告らに対して加えられた日本兵による強姦等の所業は、それが日中戦争という戦時下において行われたものであったとしても、著しく常軌を逸した卑劣な蛮行というほかはなく、被害者原告らが被った精神的被害が限りなく甚大で、原告ら主張のとおり耐え難いものであったと推認するに難くはなく、また、そのような被害を契機として、その同胞からいわれのない侮蔑、差別などを受けたことも、国籍・民族の違いを超えて、当裁判所においても、優に認め得ることができ、その程度はともかく、これまでに心的外傷後ストレスないし精神的な苛酷状態に陥り、また、そのような状態からようとして脱し得ないことも容易に推認し得るところである。

(3)  そこで、次に、上記認定の本件加害行為ないし本件被害に対する我が国の損害賠償責任につき、原告らの主張に応じ、順次、検討することとする。

2  我が国の国際法上の責任について

(1) 国際法の基本的な枠組み

原告らは、本訴請求の根拠として、第一に、我が国の国際法上の責任を掲げるが、条約、その他の国際法は、元来、国家と国家との間の権利・義務を定めたものであって、条約についていえば、その締約国が他の締約国に対して条約が定めた権利を有し、義務を負う関係を定めたものである。条約が締約国の一方あるいは他方の国民その他の個人の権利、利益の保護を目的とする規定を設けている場合であっても、その個人の保護は、基本的には、締約国の一方が条約の規定に従って行動することにより、あるいは、締約国の他方に対して条約上の義務を遵守することにより、いわば間接的に実現されるにとどまるものであって、当該個人につき、そのような間接的な保護の実現が図られない場合においても、その個人の属する締約国が相手国に対して条約違反を理由に外交保護権を行使して自国民が損害を受けたことを基礎とする締約国自体の損害の回復のために相応の措置を講ずべきことを求めること、すなわち、その属する締約国の外交保護権の行使によって、間接的な保護が図られるにすぎないものといわなければならない。

国際法の基本的な枠組みは、以上のとおりであるが、そのことから、直ちに個人の国際法に基づく請求は許されず、当該請求に係る訴えが不適法として却下されるべきものであるかというと、その意味での請求ないし訴えの適否は否定されるべきではない。請求の根拠とされている国際法が上記の基本的な枠組みにとどまるものであれば、個人の請求を理由がないとして棄却すれば足りるし、反対に、請求の根拠とされている国際法が上記の基本的な枠組みを超え、個人の権利、利益の保護を目的として、個人に直接的な権利を付与する旨の規定を設けている国際法であれば、当該条約に基づく個人の請求であっても、これを認容しなければならない場合もあるからである。いずれにしても、個人の国際法に基づく請求を受けた裁判所がその請求の根拠となっている条約の意味内容を解釈して、当該条約が個人の保護を直接的に規定しているか、それとも、間接的に規定しているにとどまるかによって、請求の当否を判断すれば足りる問題というべきである。

原告らの国際法に基づく請求については、個人の国際法上の法主体性の有無をめぐって、原告らと被告との間に見解の対立があるが、国際法の規定の具体的な意味内容を確定することなく、個人の請求を国際法に基づく請求であるというだけで不適法として、当該請求に係る訴えを却下すべきであるという意味では、これを採用することができないので、上記した見地から、以下、原告らの国際法に基づく請求の当否について判断することとする。

(2) 国家責任法理とその適否

①  原告らは、その請求の根拠となる国際法として、まず、国家責任法理を掲げるが、その前提となる本件加害行為が国際法に違反するという第一は、本件加害行為がハーグ陸戦規則に違反するというところ、同規則四六条が原告ら主張の規定を設けていることは否定できないし、同条が保護ないしその侵害の禁止を規定した個人の権利、利益には、本件加害行為、特に強姦行為によって蹂躙された被害者原告らの性的自己決定権も、原告ら主張の「家ノ名誉」にあえて含めて解釈する必要もないほどに、その保護の対象とされるべきものであって、本件加害行為は、「戦争は平時においては許されなかった行為をも許容する」といわれる戦時下の所業であったとしても、これが国際法的に是認されるという余地はおよそなかったものであるといわざるを得ない。

原告らは、さらに、本件加害行為が国際法に違反する第二として、国際慣習法の規定する戦争犯罪に該当し、第三として、人道に対する罪にも該当すると主張するが、その形式的な法律構成、法的根拠はともかく、本件加害行為が国際法的に是認される余地がないことは、上記したとおりであって、本件加害行為が国際法に違反するという原告らの主張は、これが国際法の次元においておよそ是認される余地のない、著しく愚劣な蛮行であったという意味では、これを十分に首肯することができる。

問題は、そのような国際法の次元においておよそ是認される余地のない本件加害行為につき、それ故に、被害者原告らが我が国に対して国際法違反を理由に直接に損害賠償を求めることができるか否か、すなわち、当該国際法の意味内容の解釈にある。

②  原告らは、本件加害行為が国際法に違反する効果として、被害者原告らが自ら国際法上の法主体性を認められ、我が国に対して直接に損害賠償を求めることができるとして、その理由を詳述するが、国際法の基本的な枠組みは、上記したとおりであって、その枠組みのなかで本件加害行為を捉えれば、本件加害行為につき、加害者である日本兵の属する我が国と被害者原告らが属する中華人民共和国(当時・中華民国)との間において、外交問題としてこれが解決されるべきものであることは否定できない。しかし、当該国際法が以上の基本的な枠組みにとどまる限り、国際法に違反した効果としては、違反者の属する加害国と被害者の属する相手国との間において、その被害の回復などが講じられるべきものであるにとどまるといわざるを得ない。原告らの主張は、その枠組みを超えて、被害者が自ら国際法上の法主体として加害国に対して直接に損害賠償を求め得るというのであるが、原告らの提出する関係証拠を検討しても、その主張を首肯することはできない。本件事案のように国際法的にみておよそ是認される余地のない本件加害行為によって被害者原告らに生じた本件被害についてであっても、その国際法的な被害の救済は、国家間、すなわち、加害国である我が国と相手国の当時の中華民国(現・中華人民共和国)との間で解決されるべきところ、この点は、いわゆる日中共同声明によって、一応の解決をみているところである。

日中共同声明の趣旨をめぐっては、これをもって、被害者個人の我が国に対する直接の損害賠償請求権まで放棄されていると解釈されるべきものであるか否かにつき、原告らと被告との間で見解の対立があるので、この点は改めて検討するが、ハーグ陸戦規則であっても、国際慣習法であっても、また、人道に対する罪であっても、本件加害行為につき、我が国が本件被害を受けた被害者原告らに対して、個人的に、かつ、直接的に責任を負うべきものであると規定しているとは解されない。

原告らは、国家責任法理を規定する国際法の我が国における自動執行性ないし直接適用可能性について言及するが、上記したとおり、本件加害行為につき、我が国が被害者原告ら個人に対して直接の損害賠償責任を負うべきものであると規定した国際法それ自体がないのであるから、その自動執行性ないし直接適用可能性を検討する前提を欠く。

③  したがって、原告らが主張する国家責任法理に基づく我が国の本件加害行為に対する責任は、我が国が被害者原告ら個人に対して直接に損害賠償責任を負うという国家責任法理それ自体が認められないので、これを否定せざるを得ない。

(3) ハーグ陸戦条約三条とその適否

①  原告らは、その請求の根拠となる国際法として、次に、ハーグ陸戦条約三条を掲げるところ、同条約及びこれに附属するハーグ陸戦規則は、我が国が明治四〇年一〇月一八日に署名、明治四四年一一月六日に批准、明治四五年一月一三日に公布をしたものであって、同条約三条は、「前記規則ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ。」と規定している。

②  原告らは、ハーグ陸戦条約三条をもって、戦時下の被害者個人に加害国に対する直接の損害賠償請求権を認めたものであると主張するが、ハーグ陸戦条約三条が「前記規則」として引用するハーグ陸戦規則は、交戦国の軍隊及びその構成員が陸戦において遵守すべき行為規範として規定されているものであることが明らかであって、ハーグ陸戦条約三条は、その遵守を確実にするために、交戦当事者となった国家に対して、その軍隊構成員による一切のハーグ陸戦規則違反行為によって生じた損害についての賠償責任を課したものであると解されるべきものである。

それは、同条約に被害者個人の加害国に対する直接の損害賠償請求を明示した規定ないしその請求を前提にした要件規定、手続規定などが存在しないばかりでなく、同条約二条として、同条約が国家間の権利・義務関係を規律していることを窺わせるいわゆる総加入条項が存在していることに照らしても、そういうほかなく、そのような理解が上記した国際法の基本的な枠組みでもある。

原告らは、ハーグ陸戦条約のドイツ語草案とフランス語正文ないしその和訳邦文との異同に着眼して、また、起草過程ないしその実行例からの解釈を踏まえ、同条約が、上記の基本的な枠組みを超え、被害者個人の加害国に対する直接の損害賠償請求を認めたものであると解釈されると主張するが、原告らが提出する証拠(甲19、20、21の1・2、22の1・2、23の1・2、34、56、57、65など)を検討しても、これに反する被告提出の証拠(乙8、15など)と比較すると、まず、前者については、同条約が被害者個人について言及しているとしても、それは、締約国の一方の国民である被害者の保護を締約国の他方がその一方に対して約束するという国家間の権利・義務の対象として規定されていると解釈されるべきものであるといわなければならず、次に、後者についても、上記の国際法の基本的な枠組みを超えて、同条約を原告ら主張のように解釈し得ると判断させる裏付けとして十分なものではないといわざるを得ないから、原告らの主張を採用することはできない。

③  したがって、原告らが主張するハーグ陸戦条約三条に基づく我が国の責任についても、国家責任法理に基づく責任と同様に、同条約が被害者個人の加害国に対する直接の損害賠償請求まで認めたものであるとは解されないので、これを否定せざるを得ない。

3 我が国の中華民国法上の責任について

(1) 本件加害行為とその加害者

原告らは、本訴請求の根拠として、第二に、我が国の中華民国法上の責任を掲げ、本件加害行為については、その不法行為地である当時の中華民国民法が適用されると主張するのに対し、被告は、本件加害行為が国家の権力的作用であることを理由に、原告ら主張の準拠法の問題として中華民国法が適用される余地はないと反論するところ、本件加害行為は、これが戦時下において日本兵によって行われた所業であったとしても、戦争行為それ自体ないし戦争行為に密接不可分の侵害行為ではなく、その被害状況に照らして明らかなとおり、著しく常軌を逸した日本兵が被害者原告らに加えた卑劣な蛮行にすぎない。そのような所業それ自体を国家の権力的作用であるという被告の主張は、国家ないしその権力の構造、その在り方・捉え方を不当に歪めるものというほかなく、これを採用することはできない。

本件加害行為という著しく卑劣な蛮行に及んだ日本兵が加害者個人として被害者原告らから個人的に責任を追及されるのは、ごく当然のことであって、本件は、当該加害者を公権力の遂行者という名の下に保護しなければ、いわゆる萎縮的効果によって、公権力の円滑な行使が妨げられるというような場合ではなく、反対に、これを保護するとすれば、公権力の遂行に乗じて、私利・私欲に駆られた不法行為を助長させる結果となって、その不当であることがいうまでもなく明らかな場合である。

しかしながら、本件加害行為それ自体が当該加害行為に及んだ日本兵の個人的な所業であったとしても、本件加害行為につき、我が国の責任が問題となる余地がないというわけではない。当該日本兵は、当時、旧日本軍に属していた兵士らであって、本来、その軍隊の紀律が徹底していれば、戦時下においてであっても、兵士らが軍紀から逸脱していることが明らかな上記の卑劣な蛮行に及ぶことは防止し得たはずであって、本件加害行為に及んだ日本兵を指揮・監督する上官ないし軍隊の上層部に至る関係者に軍紀を維持して本件加害行為を防止しなかったという意味での加害者性は認めざるを得ないからである。原告らにおいて、本件加害行為が旧日本軍全体の組織的、かつ、常態的な性暴力であるとして我が国の責任を問題にしているのも、本件加害行為における日本兵個人の加害者性ばかりでなく、その上官ないし軍隊の上層部に至る関係者という意味での旧日本軍の加害者性を含むものであることが明らかである。

(2) 旧日本軍の加害行為とその準拠法

そこで、上記した本件加害行為における旧日本軍の加害者性を前提にした準拠法について検討すると、この点については、当時の中華民国法が適用されるという原告らの主張に沿う見解(甲59)もないわけではないが、その主張を首肯することはできない。けだし、本件加害行為を防止し得なかった上官ないし軍隊の上層部に至る関係者の行為につき、我が国が被害者に対して損害賠償責任を負うか否かは、我が国の法制度の下で規律されるべき事柄であって、中華民国法が規律し得る事柄ではなく、上記の見解とは異なる見解(乙24)も説くように、損害賠償請求の可否という私的な権利行使に係る場面であったとしても、いわゆる国際私法によってその準拠法が決定されるべき問題ではないといわなければならないからである。

(3) したがって、原告らが、本件加害行為につき、直接的に当該加害行為を実行した日本兵の不法行為とみて、その日本兵に対して個人的に損害賠償を求める場合はともかくとして、旧日本軍において、その属する日本兵が軍隊の紀律から逸脱して当該加害行為に及ぶことを防止することができなかったために生じた不法行為とみて、我が国に対して損害賠償を求める場合においては、当時の中華民国法を適用して我が国の責任を検討する余地はないものといわなければならない。

4 我が国の日本国法上の責任について

(1) 旧日本軍の加害行為とその公務性

原告らは、本訴請求の根拠として、第三に、我が国の日本国法上の責任を掲げるところ、本件加害行為については、上記のとおり、当該加害行為に及んだ日本兵の上官ないし軍隊の上層部に至る関係者という意味での旧日本軍の加害者性を認めざるを得ないのであるが、その旧日本軍の加害行為は、軍隊の紀律の維持を図るという場面において、軍紀が弛緩して、その徹底を図ることができなかったため、日本兵を本件加害行為に至らしめたという意味での不法行為であって、日本兵の行為がおよそ公権力の行使とは関係がない卑劣な蛮行にすぎないのに対し、その性質上、現行法では問題とならない戦争という場面であるが、公権力の行使という場面で生じた不法行為であることは否定することができない。

(2) 公務執行上の不法行為と我が国の責任

そこで、旧日本軍の上記した不法行為に対する我が国の責任について検討すると、被告は、日中共同声明をもって、被害者個人の我が国に対する損害賠償請求権も放棄されたと主張するが、同声明も、国際法の基本的な枠組みのなかで解釈されるべきものであって、日中戦争における加害国である我が国に対し、その相手国である中華人民共和国(戦争当時は中華民国)が損害賠償請求、いわゆる「戦争賠償」を放棄したにとどまり、相手国の国民である被害者個人の我が国に対する損害賠償請求、いわゆる「被害賠償」まで放棄したものではない。被害を受けた国民が個人として加害者に対して損害賠償を求めることは、当該国民固有の権利であって、その加害者が被害者の属する国家とは別の国家であったとしても、その属する国家が他の国家との間で締結した条約をもって被害者の相手国に対する損害賠償請求権を放棄させ得るのは、自国民である被害者に自ら損害賠償義務を履行する場合など、その代償措置が講じられているときに限られるべきところ、中華人民共和国においては、日中共同声明を調印することによって、自国民に対して日中戦争に係る被害を自ら賠償することとして、我が国に対する損害賠償請求権を放棄させたという形跡はなく、被告の主張は採用し得ない。この点は、そもそも、我が国においても、例えば、日ソ共同宣言についても、日韓請求権協定についても、政府見解は、国民である被害者の相手国に対する損害賠償請求権まで放棄したものではないとして、これを否定していることからも裏付けられるというべきである。

しかしながら、被害者原告らが旧日本軍の不法行為を理由に我が国に対して損害賠償を求めることは、本件当時、現行の法制度とは異なり、国家の権力的作用については、その是非はともかく、いわゆる国家無答責の法理が妥当すると解されていたところ、旧日本軍の不法行為も、これが国家の権力的作用の場面で生じたものであることは、上記したとおりであるから、当該不法行為につき、被害者原告らが当時の我が国に対して責任を追及する余地はなかったといわざるを得ない。

この点につき、原告らは、国家無答責の法理は、これを「軍事」についてみれば、「軍政」といった場面について妥当しても、「軍令」といった場面については、いわば「空白」の領域であって、これが妥当しないと主張するところ、軍紀の弛緩から生じた旧日本軍の不法行為を軍令の場面において捉えるべきものであるか否かはともかく、前者につき、それが権力的作用の場面として、国家無答責の法理が妥当するとすれば、概念的・構造的にはそれ以上の位置を占める統帥権が行使される場面である後者につき、国家無答責の法理が妥当するのは当然というほかなく、従来、軍政の場面に限って国家無答責の法理が議論され、軍令の場面でその議論がなかったのは、国家無答責の法理を前提とする限り、統帥権の行使について国家が責任を負うことがないのは当然すぎるからであったとしか解されない。また、国家無答責の法理は、これが妥当するとしても、それは、我が国の国内に居住する私人あるいは外国に居住する国民に対する関係においてであって、我が国の国民ではなく、当時の中華民国に居住していた被害者原告らに対する関係においては妥当するものでないとも主張するが、国家無答責の法理の是非は格別、同法理を前提にする限り、これを原告ら主張のようにいわば属地的、属人的に限定して理解すべきものではなく、同法理の適用の結果、我が国の権力的作用の場面で我が国の国民ではない者が被害を受けた場合に、我が国が責任を負わないことの当・不当は、結局のところ、被害者の属する国と我が国との外交問題として解決されるべきものといわざるを得ない。

(3) したがって、原告らが、本件加害行為につき、旧日本軍において、その属する日本兵が当該加害行為に及ぶことを防止し得なかったために生じた不法行為とみて、我が国に対して損害賠償を求める場合においても、憲法一七条が公務員の不法行為に対する国又は公共団体の損害賠償責任を規定し、これを踏まえ、国家賠償法が制定されている現行の法制度の下ではともかく、そのような法制度とは反対に、公権力の行使については、国家無答責が当然とされていた当時の法制度の下においては、当時の日本法を適用して我が国の責任を追及することはできないというほかない。

因みに、現行の法制度の下においては、国家の権力的作用であっても、その行使が違法であれば、国において、その違法な公権力の行使によって被害を受けた者に対して損害を賠償すべき責任を免れないのが原則であるが、その被害を受けた者が外国人であれば、その被害者の属する国と我が国との間に相互の保証があるときに限って、保護を受けられるという制限(国家賠償法六条)がなお存するのであって、本件当時の国家無答責の法理による保護の否定とともに、その当・不当は、我が国の国家施策の問題に帰するものといわなければならない。

5 事後的な救済に係る我が国の責任について

(1) 以上説示したところによれば、本件加害行為それ自体に対しては、それが被害者原告らにとってこの上なくおぞましい日本兵の著しく卑劣な蛮行によるものであって、軍紀を維持・徹底して日本兵が本件加害行為に及ぶことを防止し得なかった旧日本軍にも、その加害者性を認めざるを得ないのであるが、それ自体に対する司法的救済の途はないといわざるを得ない。

(2) しかるところ、原告らは、本訴請求の根拠として、第五に、その次元を変え、本件被害のいわば事後的な救済という次元でも、被害者原告らに対する救済を怠っている我が国に責任があると主張するので、次に、その責任について検討する。

(3) 立法府の責任

①  原告らは、我が国の責任として、第一に、いわゆる立法の不作為を問題にするが、憲法が採用する議会制民主主義の下における国会議員の立法過程における行動は、原則として国会議員各自の政治的な判断に任され、その行動の当否は、最終的には自由な言論や選挙を通じての国民の政治的評価に委ねられているというべきであるから、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係で法的義務を負うものではないというべきであって(昭和六〇年判決参照)、立法の不作為は、当該立法を行わないことが憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず、あえてその立法を怠るなど、容易に想定し難い、例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないと解すべきである。

②  この点につき、原告らは、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性とが認められる場合には、国会議員には、原告らの被害を賠償する立法を行う憲法上の義務があり、その立法の必要性を十分認識し、当該立法が可能であったにもかかわらず、当該立法に必要な合理的な期間を経過してもなおその立法を放置した場合には、国家賠償法上の違法性があると主張するが、重大な人権侵害があって、その救済に高度の必要性が認められるとしても、その救済の程度・態様については、国会に広範な裁量が認められることには変わりないのであるから、本件被害に係る立法府の対応を直ちに国家賠償法上で違法ということはできない。

また、原告らは、憲法一三条から導かれる性的自己決定権及び人身の自由が本件のように徹底的に蹂躙された場面では、国会議員には、原告らのような被害者の損害を賠償するための立法をすべき義務が憲法上で一義的に定められているように主張するが、憲法一三条が規定する個人の尊重と生命、自由及び幸福追求権は、それらが国家による侵害から保護されるべき法的利益であり、人身の自由がその保障がなければ自由権そのものが存立し得ないといえるほどに重要な権利であるとはいえ、これらの侵害行為により、同条を直接の根拠として、その被害の救済に係る立法措置を講ずる義務が一義的に生じるとは解されないから、この点における原告らの主張も採用することができない。

③  したがって、事後的救済に係る立法の不作為を理由とする我が国の責任は、これを認めることができない。

(4) 行政府の責任

①  原告らは、我が国の責任の第二として、いわゆる行政の不作為を問題にするが、行政府の職務の本質は、立法府によって制定された法律の執行にあるところ、本件においては、立法府につき、本件被害の救済を怠った立法不作為の責任を認めることができないことは、上記のとおりであるから、既に制定されている法律の執行という意味では、行政府の不作為を問題にする前提を欠くといわなければならない。

②  もっとも、我が国においては、行政府に立法府に対する法案の提出権が認められているので、立法府の立法の不作為それ自体が止むを得ないものであったとしても、行政府が先んじて本件被害の救済を図る法案を提出していれば、立法府による法律の制定に至り、行政府がこれを執行する余地もあるという意味で、行政府の不作為が問題になり得るとしても、本件において、被害者原告らの救済を図る法案をこれまでに提出しなかったことが直ちに我が国の責任を認めさせるほどに行政府の職務の懈怠であったということはできない。

③  したがって、事後的救済に係る行政の不作為を理由とする我が国の責任もまた、これを認めることはできない。

(5) 司法府の責任

①  原告らは、我が国の責任の第三として、我が国の裁判所における裁判拒否として、これを問題にするが、被害者原告らの本件被害については、それ自体の救済という次元でも、その事後的な救済という次元でも、いずれもこれを否定せざるを得ない。

②  もとより、裁判所による司法的な救済は、法令の適用によって事件の解決を図るという、いわば過去形の問題解決しか許されないのであって、裁判所が本件に適用すべき法令を適用した結果として、原告らの請求を棄却する旨の裁判をする場合に、その現象面から、これを「裁判拒否」と批判するのは当たらないというべきである。

③ もっとも、戦後五〇有余年を経た現在も、また、これからも、本件被害が存命の被害者原告である原告らあるいは既に死亡した被害者原告らの相続人あるいは訴訟承継人である原告らの心の奥深くに消え去ることのない痕跡として残り続けることを思うと、立法府・行政府において、その被害の救済のために、改めて立法的・行政的な措置を講ずることは十分に可能であると思われる。被告が最終準備書面(補充)で主張するサン・フランシスコ平和条約の締結から日中共同声明の調印を経て現在に至る我が国の外交努力ないしその成果については、これに異が唱えられるべきものではないが、いわば未来形の問題解決として、関係当事者国及び関係機関との折衝を通じ、本件訴訟を含め、いわゆる戦後補償問題が、司法的な解決とは別に、被害者らに直接、間接に何らかの慰謝をもたらす方向で解決されることが望まれることを当裁判所として付言せざるを得ない。

6  よって、原告らの本訴請求をいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法六一条、六五条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・滝澤孝臣、裁判官・大島淳司、裁判官・五十嵐浩介)

別紙謝罪文

旧大日本帝国軍は、日中戦争において、あなた方を拉致監禁したうえ、輪姦、強姦を繰り返すなどの残虐かつ非人道的行為を行い、その結果、あなた方の心身に癒すことのできない重大な被害を与えるとともに、その名誉と尊厳を著しく傷つけたことを認め、ここに、日本国の名において、心から謝罪いたします。

日本国内閣総理大臣

○○○○

別紙被害状況一覧

Ⅰ 暴力的被害の有無及びその態様

A

Aは、数え年一五歳であった一九四三年六月から同年一二月にかけて、当時居住していた山西省盂県羊泉村から三回にわたって日本兵に拉致されて同県進圭社村の窰洞に監禁され、共産党員であったことから拷問として暴行・傷害を加えられるとともに、強姦という性暴力被害まで受けた。

一回目は、同六月ころ、自宅にいて病気の義父を看ていて逃げ遅れ、日本兵に捕まった際、日本兵に軍刀で斬り殺される寸前、村の老人の命乞いによって一命をとりとめたが、進圭社村にあった旧日本軍の拠点に連行され、日本兵から激しい拷問、性暴力を受けた。日本兵は、連日、強姦し、拷問したが、最初に拷問してしまうとAの身体がめちゃくちゃになって姦淫することができなくなるため、まず次々と強姦した後、拷問した。その拷問で、Aは、骨折し、また、傷口あるいは下腹部から出血が止まらない状態であったが、強姦され、拷問され続けた。食事はたまに少量の残飯が与えられるだけであった。その数日後、自力で隙をみて逃げた。

二回目は、同年八月ころ、自宅近くの池で洗濯をしていた際、日本兵に捕らえられ、監禁された。一回目に逃げ出したことで日本兵の怒りをかっていたこともあって、日本兵からさらに激しい拷問、輪姦を受けた。失神すると、水をかけられて放置され、意識を取り戻すと、再び拷問が繰り返されるという状況であったが、約一週間後、再び隙をみて逃走し、辛荘村の干(中国に独特の相互扶助的な擬制血縁的関係)の母に匿われて、難を逃れた。

三回目は、同年一二月ころ、羊泉村の自宅に戻っていた際、日本兵に捕らえられたが、以後、約二〇日余りにわたって日本兵から暴行、輪姦を受けた。共産党員の名前を言えと迫られ、銃床や棒でめちゃくちゃに殴られたうえ、固い軍靴で身体を踏みつけられるなどしたため、背中、胸、腰、脚を脱臼し、骨折したりした。また、激しいビンタを受けながら強姦され、その際、イヤリングをしていた耳たぶが引きちぎられるということもあった。釘先が飛び出している棒で頭を殴られ、頭部に大怪我をさせられたこともあるが、そのような被害を受けた後、さらに、両手を縛られて真冬に戸外の木に吊り下げられ、めちゃくちゃに殴られ、体毛を引き抜かれ、大量の水を飲まされて、上から棒で押さえて吐かされた。そして、そのような激しい拷問の結果、水をかけても意識が回復しなくなったため、裸のまま、真冬の川に投げ捨てられたが、中国人の老人に助けられて、奇跡的に一命をとりとめた。

Aは、その救出後、長期間意識が戻らず、意識が戻った後も、身体が全く動かない状態で、一年以上起き上がることもできなかった。背中、胸、腰、脚など身体中が骨折し、特に骨盤がめちゃくちゃに破壊されたことによって身体が変形してしまい、尻がなくなり、腰からすぐに脚部につながるような体形となった。身長一六五センチメートルの大柄だったAの身体は、一四七センチメートル程度に縮んでしまい、骨盤が破壊されたため、月経もなくなった。耳たぶも傷つけられ、釘の出た棒で殴られた頭部は現在でも痛み、その傷口にはその後頭髪が生えなくなった。Aの夫は、心労のため、間もなく病死した。

人の手を借りなければトイレにも行けず、一人で座ることができるようになるまで長期間を要した。夫を亡くしたAは、何とか生計を立てなくてはならなかったが、養女に手を引かれてようやく歩けるような状態であったため、畑仕事などもできず、村々で針仕事などをしたりして、糊口をしのぐ状態で、医者に診て貰うといった余裕は全くなかった。また、性暴力の被害者であることを知られている羊泉村にとどまることができず、同じ理由で再び家庭を築くこともできなかった。

Aは、一九九二年になって、日本兵による性暴力の被害者であることを名乗り出たが、それまで、その被害事実を誰にも話すことができなかった。

しかし、名乗り出た後も、被害事実を人前で語る際には、体調が悪くなって倒れることが何回もあった。被害の夢を見て気持ちが悪くなったり恐怖を感じることも度々である。さらに、被害後、様々な病気、不調を抱え、一九九三年二月には、腹水がたまったため、入院して手術を受け、一九九六年、一九九八年にも入院治療を受けるなど、体調はますます悪化している状態である。二〇〇一年一二月にも入院して、最近になって、退院したばかりである。

B

Bは、一九四一年一月ころ、新婚間もない数え年一六歳のとき、河東砲台からやってきた日本兵に西煙鎮の婚家で銃剣で脅されて捕らえられた。新婚の夫が居合わせたが、年下でまだ幼かったため、恐怖のあまり身体が震え、Bを助けることができなかった。纏足であったため、日本兵に担がれて河東砲台に連行されたが、その途中、胡河巷で、日本兵は、Bに銃剣を突き付け、怒鳴ったり殴ったりしながら、服を剥ぎとり、まだ幼い夫との間に性関係のなかったBを処女のまま七、八人で数時間にわたって輪姦した。さらに、日本兵は、Bを背負い、河東砲台の窰洞に連行して監禁した。

窰洞の中は暗く、極寒の真冬であるにもかかわらず、床に干し草が敷いてあるだけであった。ほぼ毎日、一〇数名の日本兵が来て、泣き叫ぶBを太い棒で殴りつけたり、大きな声で怒鳴りつけたりしながら、約二〇日間、昼も夜もなく、強姦した。Bは、日本兵から食事をほとんど与えられず、自らも到底食べられる状態ではなかったため、痩せ細り、栄養失調で顔面は蒼白になり、心身共に衰弱して、死人同然の状態であった。その後、父と舅とが家財を売り、親戚や村人から借金をして四〇〇銀元を集め、これを旧日本軍に渡して、ようやく救い出されて実家に戻った。

Bは、その後、長い間出血が止まらず、頭痛、めまい、腰や腹、足など身体中の痛みに苦しみ、実家で一年療養した後、さらに借金をして可能な限りの治療をしたが、以後、様々な症状に苦しんだ。

被害後、一〇年近く生理が止まり、二五歳になってやっと長女をもうけることができたが、母乳が足りず、長女は三歳で病死した。生理が止まったころから、喘息にかかり、現在も肺気腫で苦しんでいる。

Bの日本人に対する恐怖は、今でも非常に強く、当時のことを思い出すと体が震え、胸が苦しくなる状態である。現在でもなお、しばしば、逃げて逃げて逃げ切れなくてまた捕まえられるという悪夢にうなされている。

本訴提起に際して聞き取り調査を受けたが、聞き取りの対象が被害の核心に迫ると、鼓動が激しく、呼吸が困難になり、気が遠くなって、話を続けることができなくなった。日本兵に拉致された際に現場にいた夫には、被害事実を告げているが、その後に生まれた子供たちには、今だに、その被害事実を話すことができない状況にある。

C

Cは、数え年一七歳の一九四一年四月二日に発生した、後にいわゆる「西煙惨案」と称される事件、すなわち、同日早朝、盂県の東郭湫村及び河東村に駐屯していた旧日本軍及び警備隊計二〇〇余名が出動して西煙鎮を包囲し、村人を見かけると前後の見境なく銃剣で攻撃を加える事件の中で、被害を受けるに至った。Cは、日本兵の到来を知って、逃げようといったん自宅を出たが、隣人の蔡銀柱が日本兵に軍刀で刺し殺されたのを目の前に見て自宅に逃げ戻ったところ、迫って来た日本兵が、まず養母の頭の後ろに軍刀で斬りつけ、次に養父の喉を軍刀で刺したうえ、瀕死の重症を負わされたCの養父母には目もくれず、まだ未婚であったCを処女のまま輪姦し、さらに、纏足のCを養母が飼っていたロバの上に俯せに縛りつけて河東砲台下の窰洞に拉致した。

その洞窟に四〇数日間監禁され、連日、多い日で一〇数名、少ない日で七、八名の日本兵から強姦された。うち一人は猫耳太君と呼ばれていた。日本兵による連日の輪姦により、Cは、腰や太腿が擦れて肉がえぐられ腫れて痛んだほか、陰部が腫れ上がるほどであった。その後、日本兵に拉致されたことを知った実父と養父とが土地、建物など売り払ってようやく二一〇銀元を捻出し、これを旧日本軍に渡し、救出された。

Cの自宅にあった家財は、Cが拉致された日に日本兵によって奪い尽くされていた。そのうえ、養父母は、日本兵に負わされた傷が元で一年余の間に相次いで死亡し、C自身も、救出された後も動くことができず、約半年間は義姉に面倒を見てもらって何とか生き延びた。

日本兵から被害を受けたことを村中に知られたCは、なかなか嫁の貰い手がなく、数え年二〇歳のときに一度目の結婚をしたが、六年間の結婚生活の中で子供ができず、それを理由に夫から捨てられた。二、三か月後に再婚したが、三〇数歳で生理がなくなって子供を生むことが不可能になり、数え年三六歳のときに養女をもらうほかはなかった。その受けた被害によって、現在でも、胃痛、めまい、高血圧などに苦しめられている。

Cは、そのおぞましい経験による恐怖感や不安感などのため、一時は重度の精神的病状に苦しめられた。男性と会うことも嫌だという状態にもなった。

今もなお、その被害事実を忘れることができず、頭がはっきりしない、めまいがする、何をしているのかよく分からないという状態が続き、驚くことがあったり、怒りを感じたりすると、精神的なバランスを失し、平静を保つことができないでいる。また、その被害事実を恥ずかしさなどで誰にも話せないでいたが、養女が三〇歳を過ぎてからようやく被害事実を明らかにした。

D

Dは、結婚して夫とその両親とともに南社郷南社村に住んでいた数え年一七歳の一九四一年四月四日に発生した、後にいわゆる「南社惨案」と称される事件、すなわち、同日朝、河東砲台に駐屯していた旧日本軍及び警備隊約四〇名が河東砲台から南社村に向かい、途中遭遇した農民らを有無を言わさず、その場で惨殺したり、瀕死の重傷を負わせたという事件の中で、被害に遭った。

姑と共に自宅に居たDは、逃げ遅れて捕らえられ、牛車に乗せられ、他の五〇数名の老若男女の村人らとともに、上記の家屋に連行された。連行された村人のうち、男たちは、広場のようなところに集められて死ぬほど殴られ、八路軍との関係を断ち、旧日本軍に金を渡すように脅迫されるといった拷問を受けた。また、Dのような年若い女性は、別室に連れて行かれ、日本兵から連日強姦された。その約半月後、夫が土地を売って何とか二〇〇銀元を作って旧日本軍側に渡し、ようやく姑とともに解放された。

Dは、日本兵の性暴力により、腹部が腫れあがって痛み、出血が止まらなくなったり、月経不順となった。身体がだるくて、痛み、動けないことも多かった。貧困のため治療を受けることができず、だいぶ経ってから、ようやく医師の診察を受けることができたときには、「治療を受けるのが遅すぎた」と言われ、また、薬を買う余裕もなかった。

夫は、Dがそのような被害に遭ったこと、子供を生めないことを責め、もう要らないと言って、Dと離婚した。Dは、その後、再婚した夫との間でも子供ができないため、三年ほどで別れ、現在、三度目の夫と二人で暮らし、その姪を養女としている。

Dは、敵国の日本兵に強姦されることで汚れを負ったかのように蔑視された当時の中国農村部の社会通念の中で、一緒に拉致された姑を含む周りの人々にそれと分かる状態で、さらに被害を受けた。

その受けた精神的苦痛の大きさについて多くを語らないが、被害について思い出すととても苦しいと述べ、子供ができなかったために二度の離婚を余儀なくされたこと、実の子供ができなかったことが話題になると、今でもさめざめと泣き始める状況である。

E

Eは、当時、南社郷侯党村に住んでいて、被害に遭った。その夫は、中国共産党員で、抗日村長であり、E自身も、二一歳で婦女救国会の主任となって抗日活動をしていた。一九四一年あるいは一九四二年の二月二八日、旧日本軍が侯党村、小掌村、南貝村一帯を包囲し、南貝村で会議中であった共産党員を捕える作戦を行なった際、会議に参加していたEの夫は、旧日本軍に捕まって侯党村まで連行され、見せしめのために、過酷な暴行を加えられた後、殺害された。日本兵は、さらに、夫を助けようとして追いすがったEに対しても、銃で殴るなどの暴力を加え、Eに他の共産党員の名前を言うよう迫り、Eが黙秘すると拷問を加えた。そのために、歯が三、四本折れ、顔や胸は腫れあがり、体中血だらけになって気を失った。

日本兵は、Eをロバに縛りつけ、河東砲台の窰洞に連行して、監禁した。連日、昼間は二、三人、夜は七、八人の日本兵がEを輪姦した。日本兵がEを押さえつけたり、縛ったりしている間に、別の日本兵がEを強姦したり、Eの尿道が腫れあがったのをわざわざ服を脱がせてじろじろ見て面白がった後、さらに強姦することもあった。その後、Eの父が、土地、建物などの家財を売って捻出した金銭を対日協力者の黒腿子を通じて、これを旧日本軍側に渡し、これによって、拉致されてから二〇数日ぶりにようやく解放された。

Eは、監禁中に押さえつけられ縛られて暴行された際、右脚を骨折し、解放された後も、腰や陰部が腫れあがって出血したり、化膿して膿が出るような状態であった。実家に戻っても、二年間は全く動けず、下腹部に激痛があり、失禁状態になった。実父母の世話を受けてようやく生き延びたが、医師の治療を受けるために出費もかさみ、生活は大変であった。

村人らから、日本兵に強姦されたと嘲笑され、なかなか再婚もできなかったが、その後、再婚して四子を出産した。しかし、二番目の夫も死亡し六〇歳ころ三度目の結婚をしたが、その夫にも先立たれ、現在は独り暮らしである。かつてのすさまじい性暴力による精神的・肉体的打撃によって、Eは、健康を著しく損ない、現在、胸痛、胃腸炎、めまい、更には白内障など、たくさんの病気に苦しめられている。

Eは、夫を殺されたショックに加え、二〇数日間にわたって敵国の日本兵に強姦され続けたショックで、精神的にも、「頭はショックではっきりしなくなった」状態である。

自殺も考えたが、憔悴し切った身体では、それすら叶わなかった。

F

Fは、当時、結婚して盂県堯上村で夫、舅、夫の兄の子供と四人で暮らしていた際に被害に遭った。すなわち、一九四二年八月、Fが数え年で二五歳のとき、旧日本軍が堯上村を急襲した。村人らは、皆、逃げたが、Fは、住まいが日本兵の侵入地点に比較的近かったうえ、纏足であったために逃げ切れず、日本兵に捕らえられ、日本兵に銃で殴られたり、蹴られたりしたうえ、ロバに乗せられて西煙砲台に連行され、そこで、その日のうちに、約八名の日本兵に強姦された。昼間は、西煙砲台の中の煉瓦の上に藁を敷いた便器以外に何もない真っ暗な部屋に監禁され、夜になると、別室に連れて行かれ、連日、約七、八名の日本兵に輪姦された。ショックのあまり、日本兵を見るだけで気を失うFに、日本兵は、水をかけて目を覚まさせた。Fが辛さと苦痛の余り少しでも反抗すると、顔を殴り、首を絞め、口をふさぐなどの暴行を加えた。

その後、Fの監禁場所を知った夫、舅、実父が羊、ロバ、牛などの家財を売り、さらに借金をするなどして合計三八〇銀元を作って旧日本軍に渡すことによって、拉致されてから三〇数日後にようやく解放された。しかし、Fは、衰弱し切って、歩くことができず、戸板に乗せられて連れ帰られた。

Fは、その陰部が連日輪姦されたために腫れ上がり、不衛生な場所に監禁されて虫に食われた跡がそこかしこで化膿していた。ほとんど物を食べることができなかったため、解放された後も、衰弱が続き、歩くこともできない状態が続き、半年間は全く動けず、起き上がるのも横になるにも実母の介助が必要であった。動けるようになった後も、半年間は両側に杖をついてかろうじて動けるという有り様であった。解放されてから一年あまり経ってようやく身体が少し良くなったが、そのころ、夫が疲労のため病死した。Fの上唇の上部には今でも、日本兵による暴力の傷跡が残っている。その後に再婚した夫も、既に亡くなり、現在、独り暮らしである。

被害後、夫との間に子供が生まれなかったFは、二番目の夫の連れ子(娘)の子供(義理の孫)に生活の面倒を見て貰っているが、心臓病、胃病、めまいなどの病気を抱え、また、今も大腿部から臀部にかけて痛み、黄色い膿が出るなど、日々、健康面での不安を抱えながら苦しい生活を送っている。

Fは、当時、纏足のため人に支えられてようやく歩いていた状態で、本件被害に遭うまでは、ほとんど家の中にいて、家の外の出来事を何も知らなかったところ、ある日、突然、敵国の日本兵に拉致され、真っ暗な部屋に監禁されたうえ、連日、何人もに強姦されたのである。あまり辛い体験のため、床に頭をぶつけて死のうとしたが、死ぬことができなかった。

Fが監禁された部屋には、食事を差し入れるための小さな窓があり、日本兵は、この窓から食べ物を差し入れたが、Fは、見知らぬ複数の日本兵に暴行されることによるショックと監禁された部屋の便器から漂う異臭のため、ほとんどものを食べることができず、部屋の不潔さと悪臭が忘れられない記憶となっている。

G

Gは、数え年一四歳のときに結婚し、当時、河東村に住んでいて被害に遭った。一九歳の八月に出産したが、一九四〇年の一〇月か一一月ころ、夫が病気で死亡した。まだ夫の遺体が家に置かれている際、河東砲台に駐屯していた旧日本軍が村に来たので、一度は鳥耳荘の実家へ逃げた。しかし、夫の遺体を葬るため数日後に両親及び姉とともに家に戻った。一九四一年の正月を過ぎたころ、日本兵が再び村へ侵入して来て、銃剣で脅しながらG宅に押し入り、助けに入った両親に棍棒で胸を突いて血を吐くまで殴るなどの暴行を加えて家から追い出すと、Gをその場で強姦した。日本兵は、夫を亡くして後ろ盾のないGに目をつけ、連日、昼ころG宅に押し入っては、その都度、両親に暴行を加えて家から追い払い、Gとその姉のPとを強姦した。日本兵は強姦が終わると、乾燥したこの地では貴重な飲水を溜めてある台所の水瓶の水を柄杓ですくって性器を洗い、その汚水を水瓶に戻したり、床に撒いたりしていった。さらに、日本兵は、夜も、河東砲台に連行し、首を切る手まねをして、言うことを聞かなければ殺すと脅し、出血するまで頭、顔を殴りつけて山上の砲台に連行し、窰洞の中に放り入れて次々と輪姦した。日本兵は、Gの服を剥ぎ取ると、姦淫する前に、蝋燭の火をかざして両脚を開かせて、下身部に病気がないかどうか検査した。そのとき熱い蝋がタラタラとGの肌に落ち、火傷の苦痛と恥ずかしさとでGは手が震え、もう生きていられないと思った。日本兵から酌をさせられたり、膝まづいてお辞儀をするよう強要されることもあった。

乳飲み子を抱えていたGは、授乳のために早朝になると自宅に帰ることを認められたが、毎日激しい性暴力を受けて、身体が弱り、母乳も出なくなったため、乳児は、栄養失調と下痢のため、満一歳ほどで死亡した。それから一年以上を経て、二一歳となった年の九月に知人の勧めで再婚して村を出たが、他所に逃げることで、ようやく日本兵の性暴力から逃れることができた。

Gは、日本兵から受けた過酷な性暴力により、腹痛、月経困難、痙攣、震えの発作等様々な病を患った。日本兵から蝋燭の灯で下身部を検査された恐怖から震えの症状が止まらなくなった。満足に動けず、起き上がることさえできないことが度々であった。

生理不順がひどく、子宮の病気を直すために、再婚した夫が働いて五人の医者に次々にGを治療させ、ようやく三三歳になって子供が生まれたが、痙攣・震えの発作、その他の不調は今も治っておらず、手が震えて食事のときおかずを落とすことがよくある。

Gは、日本兵に性暴力を受けたことを誰にも打ち明けることができず、夫と二人の子供にも一度も話さなかった。夫は数年前に死亡したが、Gは、被害者として名乗り出ることで、子供たちに被害事実を知られることのほか、子供たちに日本人から報復があるのではないかと、弁護団の聞き取り調査中も、恐れていた。

また、その初めての聞き取り調査の際、五〇数年ぶりに日本人男性(原告ら訴訟代理人弁護士清井礼司)が日本語で挨拶するのを聞いて震えが止まらなくなった。今でもよく、逃げて、逃げて、靴をなくすほど逃げる夢、殴られる夢をみる状態である。

K

Kは、一九四一年あるいは四二年ころ、まだ未婚で両親、兄弟と西煙鎮後河東村で生活していた際、河東砲台に駐屯していた日本兵に輪姦され、拉致・監禁されたうえ、下士官の専用の女性として同下士官の移動に伴って連れまわされるなどの性暴力を受けた。当時数え年一七、八歳であったKが後河東村の自宅にいたときに、河東砲台に駐屯していた旧日本軍の「h」という下士官(以下「甲下士官」という。)の率いる日本兵が押しかけた。日本兵は、銃と手榴弾を持ち、家人を殴って家から追い出し、家の中でKを襲って輪姦した。日本兵は、その後、K宅に来ては、家の中でKを強姦したり、ある時は、Kを細い縄で縛り上げて河東砲台へ連行し、同砲台下の窰洞の中などで強姦するなどした。

当初は、数名の日本兵がKを強姦していたが、そのうち、甲下士官がKを気に入って独占してKを強姦するようになった。その後、某下士官が任務の都合で東郭湫の砲台に移動する際、馬車に乗せられて同行させられ、そこで、さらに甲下士官から性暴力を受けたが、東郭湫砲台へ連行されてから約半月後、その兄であるQがKを助け出すために区長に依頼し、金品を渡すなどして奔走した結果、ようやく救出された。

Kは、兄に助け出された後、二年ほど病気を患った。病状が少し落ち着いた二〇歳になったころに結婚し、身体が回復せず不正出血が続く中で、妊娠して出産したが、子供は生後数日で死亡してしまった。

三〇歳前半で月経がなくなり子供を生めない身体となった。その後、現在まで様々な婦人病を患い、下腹部、腰、脚の痛みに苛まれているほか、頻繁な下痢、失禁、めまい、高血圧に苦しんでいる。

M

Mは、一九四二年春ころ、既に盂県山河村在住の男性と結婚していたが、夫婦仲が悪く、河東村の西隣に位置する南頭村の実家に戻っていた際に被害に遭った。すなわち、同年春ころ、河東村に駐屯していた旧日本軍が南頭村に作戦行動を実施し、その際、「バカ隊長」と呼ばれていた「d」という下士官(以下「乙下士官」という。)が五、六人の日本兵を連れてMの実家に押し入り、Mの母を殴ったり、蹴ったりして、庭に追い出し、乙下士官がその場でMを強姦した。さらに、母と農作業から帰った父を殴って、Mを羊馬山の麓にあった警備隊の砲台近くの民家に拉致し、軟禁した。Mは、その後、数か月にわたり、その建物又は河東砲台に連行されて、乙下士官に専属的に強姦され続けた。

両親が七〇〇銀元もの大金を用意して旧日本軍に提供したが、Mは解放されなかった。一度逃げようとしたことはあったが、纏足で走れないため、捕らえられ連れ戻されてしまった。旧日本軍から報復をうけることが容易に予測できたため、Mは、その場から逃げることもできず、解放されないまま、以後、長期間にわたって監禁され強姦され続けた。そして、意に反して、乙下士官の子供を身ごもってしまい、数か月後、男児を出産した。望まない妊娠をして子供まで生まされたMであったが、その親戚の一部は、そのような事情を理解できず、Mを対日協力者として敵視し、Mの母に対して、「おまえの娘は日本人に奉仕したうえに日本人の子供まで身ごもった」と責め続け、一九四二年八月一四日夜半、数人でMの実家に乱入し、当時妊娠八か月であった母と二人の弟とを連れ出して殺害するという悲劇まで引き起こした。この事件を閉じ込められたまま聞かされたMは、ショックの余り自殺を図ったが、旧日本軍の通訳に助けられて死に切れなかった。

最初に拉致されてから約一年半後、Mは、乙下士官が異動により河東村を去ったため、この機に逃げようとしたが、「m」という後任の下士官(以下「丙下士官」という。)に捕まってしまい、二、三か月にわたり強姦され続け、また、夜は、砲台に連行されて複数の日本兵に殴る蹴るの暴行を受け強姦された。その状況は、Nの記憶に明らかであるが、連日のごとく日本兵がMをロバに乗せて羊馬山上の砲台へ連れていった。

たまりかねたMは、丙下士官が掃蕩に出かけて留守となった際、壁に穴を掘って逃げ出し、山西省陽曲県を転々と逃げ回った。怒った丙下士官は、Mを探して実家に押しかけ、その生き残った弟(当時一一歳)の手を馬の尾に縛りつけて引きずりまわして大怪我を負わせ、実家に火を放って焼き払った。丙下士官を含めた旧日本軍が河東村から去った後、ようやく実家に戻った。

Mは、その後、再婚して河東村に住んだが、中華人民共和国政府が成立した後の政治状況の中で、旧日本軍下士官らに性的関係を強要され続けたことをもって、抗日戦争中の対日協力者として裁かれ、二年間投獄された。

さらに、文化大革命が始まると、M本人が反革命分子として糾弾され、重労働を課されるなどしたばかりでなく、二番目の夫までが「反革命の妻を持った」ことを理由に糾弾された。また、日本兵による性的暴行により子宮の痛みや不正出血等の不治の婦人病にかかり、子供を生めない身体となったが、文化大革命中の激しい糾弾と病苦とに耐えかねた後、一九六七年、首を吊って自殺するに至った。

原告Iは、生後間もなくMの養女となったものであるが、数え年四歳の時に養母のMが上記のとおり首を吊って自殺した。Mは、亡くなる直前、夫に対し、養女のIが大きくなったら、Mが日本兵から受けた被害を全部話してその無念をはらして欲しいと頼んだ。

同原告は、養母のMがいつもオンドルに横になって動けない状態でいたことを記憶している。また、同原告は、小学校に通っていた一三歳のころ、憶苦思甜という大会で、初めてMが日本兵から強姦の被害を受けたという話を聞かされた。その意味を理解できなかった同原告は、帰宅後、養父に尋ねたが、養父は、泣きながら同原告を抱きしめて、「大きくなったらお母さんのことを全部教えます」と言って、そのときは詳しく話さなかった。同原告の養父は、一九九三年に死去したが、その直前、同原告に対し、Mの受難の経緯を詳しく語り聞かせた。その養父も、同原告がMに代わってその名誉回復を果たすよう強く希望しながら、本訴提起を待たずに他界した。

Mは、以上のとおり、「バカ隊長」と呼ばれていた乙下士官により約一年半の、「m」と称する丙下士官により二、三か月の長きにわたり、意に反して性関係を強要され、夫には救出してもらえず、実家による救出の努力は効を奏さず、意を決して逃れば捕らえられて連れ戻されたり、報復として実の弟に危害が加えられ、逃げることもかなわなかった。

そして、自らを強姦し続ける乙下士官の子供を身ごもっていた正にその時にそのことが原因して、Mの被害を理解できない親族により実の母、弟を殺されたことを聞いたMは、自殺を図ったが、助けられ、さらに、旧日本軍が去った後は、対日協力者として糾弾、弾劾され、投獄されたり、夫とともに反革命分子の烙印を押されたりした。その精神的苦痛は、夫と可愛がっていた幼い養女とを残したまま、遂に自殺に追い込むほどのものであった。

L

Lは、当時、盂県西煙鎮の男性と結婚し、一九四二年一〇月七日に長女を出産した。そこで、中国農村の習慣に従って、その娘を連れて河東村の実家に帰省していたところ、一九四二年暮れあるいは一九四三年初めの数え年二五、六歳のときに被害に遭った。Lの実家に突然日本兵が乱入し、Lの父の腰、背中を銃の台尻で殴り、母を蹴りつけて大怪我をさせ、Lを別室に連れて行き、その後、交替で強姦した。

最初の被害にあった後、Lは、春節(旧正月)を婚家で過ごすために西煙鎮の夫のもとに戻ったが、Lに暴行した二名の日本兵は、その後もしばしばLの実家に現れて、両親に殴る蹴るの暴力を振るいながら、Lを婚家から連れてくるように強要した。Lは、実家に戻れば必ず日本兵に強姦されると分かりながらも、両親を日本兵の暴力から守るために戻らざるを得ず、実家に戻ると、決まって同じ二名の日本兵に強姦された。そのような被害は、二人の日本兵が他所に交替していくまで半年以上にわたって繰り返された。その際、日本兵はLの腰を持って引っ張り回したため、Lは、腰を痛め、Lの婚家も、舅が日本兵に銃殺され、家を焼かれるという被害に遭った。

Lは、長女が生まれた喜びを両親らと分かち合うために実家に戻った際、上記被害を受け、さらに、両親を日本兵の暴力から守るために実家に戻って半年以上にわたり上記被害を受け続けた。

被害者でありながら、上記のような被害を受けたことに羞恥心を抱き続けたLは、こんな話をしたら子供たちに迷惑をかけると心配して、一九九八年八月の聞き取り調査の際、初めて三女で、相続人である原告Jに自らの被害体験を語るまで、五〇数年の長きにわたって誰にもその辛い思いを吐露することができなかった。聞き取り調査に際して、極めて体調が悪かったにもかかわらず、遠路、太原まで出てきて、横たわりながら聞き取りに応じて辛い話をしたが、その調査終了直後に入院し、三か月後に死亡した。

Ⅱ 精神的被害の有無及びその態様

被害者原告らは、上記Ⅰのとおり、一〇代前半から二〇代の若いころ、敵国の日本兵に襲われ、拉致され、監禁され、繰り返し強姦され、暴行、傷害を受けるに至ったものである。その際の同原告らの恐怖、苦痛、恥ずかしさ、悲しみ不安は、上記Ⅰで少し言及したが、その加害行為の凄まじさから想像されるとともに、同原告らが涙ながらに絞り出すようにして語ったとおり、およそ耐え難いものであった。

被害者原告らは、当時の家父長制の下で女性の貞節を強いる中国農村の根深い社会通念の中で、被害者でありながら、社会から蔑まれ、責められながら生きなければならなかったのであって、旧日本軍による直接の加害行為が去った後の精神的苦痛もまた、極めて苛酷なものであった。

さらに、被害者原告らの受けた精神的苦痛は、被害時及びその直後にとどまらず、その後も様々な形で継続して同原告らを苦しめてきたものであって、本件被害後六〇年余りの時間の経過も、同原告らの精神的苦痛を緩和するどころか、却って、その間に反復し増幅されて同原告らを苦しめ、同原告らは、心的外傷後ストレス障害、いわゆる「PTSD」に罹患しながら放置されてきたものである。

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