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東京地方裁判所 平成10年(ワ)6240号 判決

原告 A

右訴訟代理人弁護士 行木武利

被告 学校法人昭和大学

右代表者理事 天野長久

右訴訟代理人弁護士 鈴木俊光

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  被告は、原告に対し、金一〇二二万円及びこれに対する平成九年二月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

第二事案の概要

本件は、被告の開設経営する病院に入院して喉頭癌の手術を受けた原告が、被告の過失によりメシチリン耐性黄色ブドウ球菌(Methicillin-resistant Staphylococcusaureus’以下「MRSA」という。)に院内感染し、そのために本来必要でなかった多数回の手術を受けたことにより肉体的精神的苦痛を被ったと主張して、被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償として肉体的精神的損害に対する慰謝料と弁護士費用及びこれに対する遅延損害金を請求している事案である。

一  争いのない事実等

1  当事者

原告は、昭和四年生まれの男性である(弁論の全趣旨)。

被告は、肩書地において「昭和大学病院」(以下「被告病院」という。)を開設経営している学校法人である。

2  原告の病状及び治療経過等(甲三、乙一、一三、証人寺尾元、原告本人)

(一) 原告は、喉の異常のため治療を受けていた耳鼻咽喉科の医師から、喉頭腫瘍の疑いがあるとして被告病院耳鼻咽喉科を紹介され、平成八年一〇月二四日来院した。原告は、被告病院へ数回通院した後、平成九年一月六日、同病院に入院し、同月八日、喉頭微細手術(生検)を受けた。その結果、原告は、喉頭扁平上皮癌と診断され、同年二月七日、癌細胞を摘出するための手術(気管切開、喉頭摘出術、左右頸部郭清術、以下「本件癌手術」という。)を受けた。

(二) 同月一一日、被告において、原告の頸部に入れてあったドレーンを抜き、細菌検査に出したところ、同月二〇日、右ドレーンからMRSAが検出されたとの報告があった。また、同月一三日、被告において、原告の便を細菌検査に出したところ、同月一七日、右便からMRSAが検出されたとの報告があった。

(三) 右各報告に先立つ同月一二日、原告の手術創に発赤が認められたため、被告において、CTスキャンを施行したところ、皮下に膿瘍が確認された。そこで、原告は、同月一五日、緊急手術(下咽頭瘻孔閉鎖術)を受けたが、術中所見で下咽頭粘膜縫合部右側の壊死が確認されたため、これを切除され、再縫合が不可能であったため、前頸部咽頭皮膚瘻が作成された。

(四) その後、原告は、数回にわたる縫合手術等を受け、同年四月一八日、原告の胸の部分の皮膚を喉の部分に移植する手術(DP皮弁による瘻孔閉鎖術)及び原告の足の部分の皮膚を胸の部分に移植する手術(皮弁採取部への大腿からの皮膚移植)を受けた。

(五) 原告は、同年五月一六日にも手術(下咽頭皮膚瘻閉鎖術)を受け、同月二九日いったん被告病院を退院したが、同年七月七日再入院し、同月九日手術(咽頭皮膚瘻閉鎖術及び気切孔拡大術)を受けた後、同月二五日退院した。

(六) その後、原告は、同年九月二五日被告病院に再々入院し、同月二六日手術(気切孔拡大術)を受け、同年一〇月一〇日退院した。

二  争点

1  MRSAの感染経路と被告の過失

2  MRSAの感染と原告に対する治療が長引いたことの因果関係

3  原告の損害

三  争点に関する当事者の主張

1  争点1について

(一) 原告の主張

(1)  MRSAは、感染力及び増殖力が極めて弱いため、空気感染はほとんどあり得ず、事実上接触感染でしか罹患しない。しかも、保菌者と接触したためにMRSAに感染する者の範囲も、事実上、体力が弱っていて細菌に対する抵抗力が低下している者に限定される。入院患者の場合、手術等によって大きな外傷を身体に受け、抵抗力の低下している者がいて初めてMRSAに感染することになる。

また、前述のとおり、MRSAは感染力が弱いため、皮膚や粘膜ではなく、傷口から侵入する。したがって、入院患者の場合、患者の傷口に直接触れることのできる者、すなわち医師や看護婦等の医療従事者が、患者の患部に当てたガーゼの取替作業等の際に、患部に直接触れることが原因となって、MRSAに感染するのである。

本件において、原告がMRSAに感染したのは、平成九年二月七日に行われた喉頭癌摘出手術の直後、集中治療室(ないし観察室)で経過観察を受けていた時であると推測できる。そして、原告の受けた大きな外傷のうち、MRSAの感染が考えられるのは同日の手術によるものしかなく、原告にMRSAを感染させたのは、集中治療室(ないし観察室)で原告の傷口に触れた医師又は看護婦である。MRSAは、感染してから三日ないし一週間の潜伏期を経た後に発症するから、本件においても、同日が感染時期であると特定される。

被告は、原告がもともとMRSAの保菌者であった可能性も指摘しているが、前述のとおり、MRSAは、それ自体の感染力は極めて弱いから、仮に原告の皮膚に事前にMRSAが付着していたとしても、手術箇所の十分な消毒がなされていれば、MRSAに感染するはずがない。

(2)  被告は、原告に対して手術を施行するに際し、右のような院内感染を防止するため、担当医師又は補助者をして、手指ないし器具の消毒を励行させる等の注意義務を尽くすべきであったのに、これを怠り原告をMRSAに罹患させたのであるから過失がある。

(二) 被告の主張

(1)  MRSAへの感染は、原告の主張するような外部感染のみならず、MRSA保菌者が続発的に感染症患者となる場合や、手術時に内因感染する場合もあり、感染経路を簡単に断定することはできない。MRSAが好発する部位として、鼻前庭(鼻の入口)が最も多いため、喉頭摘出術など頸部の手術の際にMRSAが検出されることは決して少なくない。原告に対しては、入院後、気管切開を施行したため、MRSAの感染が起こる可能性が通常より高くなっていた。

(2)  被告は、右の点を手術前から十分予測し、抗生物質の使用法などにも注意しており、特に院内感染に関しては、手術後、原告を個室に入室させたり、部屋の入口に消毒薬を用意して手洗いを行い、ガウンの着用を義務付け、処置時には使い捨て手袋を着用するなど感染予防のために十分な注意をしていた。さらに、原告を収容した部屋には、必要最小限の者しか入室させないように配慮もしていた。また、原告の手術箇所の消毒は完璧であった。

したがって、原告のMRSAの感染経路は不明であり、この感染について被告に過失はない。

2  争点2について

(一) 原告の主張

原告に対する治療が長引いたのは、原告がMRSAに感染したことに原因がある。

被告が、原告に対する治療が長引いた原因として挙げている、原告の術後の安静保持が悪かったとの事実は否認する。原告に対し、被告から、具体的にどのような安静保持をしたらよいのかについての指示は、全くなかった。

(二) 被告の主張

通常の場合と比較して手術の回数が多くなったのは、原告がMRSAに罹患したことも一因であるが、原告の安静保持が悪かったことも一因である。原告の治療が長引いた直接の原因は、縫合部離開(縫合部が開くこと)である。縫合部離開の原因としては、<1>術後の頸部の安静保持が保てなかったこと、<2>唾液の流出が多かったこと、<3>唾液嚥下時の圧力が通常より強かったこと、<4>MRSA感染を起こしたこと、が考えられる。

通常、喉頭摘出術の手術が施行された後は、患者に対し、仰臥位で頭部をやや前屈させ、顔の両側に砂嚢を置いて、頸部が伸展したり顔が左右に動かないよう頸部の安静を義務付け、一週間くらいかけて徐々に坐位にしていく。ところが、原告は、このような頸部の安静を保持しなかった。また、通常、喉頭摘出術の手術が施行された後は、嚥下をする圧によって縫合部が開くのを予防するため、患者に対し、唾液の嚥下を禁止して、唾液をなるべく口から出すように指示をする。ところが、原告は、唾液の分泌が通常より明らかに多かった上、唾液嚥下時の圧も強く、被告において、術前術後に嚥下を控えるように説明したにもかかわらず、これを繰り返したため縫合部が離開したものである。

原告には、平成九年二月一五日の手術の際、唾液瘻が見られたが、唾液瘻の場合、その大きさにもよるが、自然閉塞には最低一か月はかかるとされており、本件における原告の疾病は、唾液瘻が発症した場合の一般的な経過をたどっている。被告が原告に対して施行した各手術は、いずれも原告の日常生活への復帰のために必要な手術である。

原告からはMRSAが検出されたが、このことと、感染症を発症することとは異なる。本件の場合、MRSAによって創部以外の部位にまで病変が広がったということはなく、原告の全身が重篤な状態になったということもない。つまり、MRSAの検出はあったが、このために原告が重篤な感染症を発症し、このためのみによって治療が長期化したということはない。

3  争点3について

(一) 原告の主張

原告は、MRSAに罹患したことにより、以下の損害(合計一〇二二万円)を受けた。

(1)  慰謝料 計九三二万円

<1> 死の不安 三〇〇万円

MRSAは、しばしば死亡を引き起こす感染症であり、完治が確認されるまで、患者は絶えず死の不安に直面させられる。原告は、ほぼ再発の恐れがないと思われるようになった平成九年七月末まで、MRSAによる不安に強く悩まされ続けていた。こうした不安による精神的損害を金銭に換算すると、三〇〇万円が相当である。

<2> 無用の手術による肉体的苦痛、胸と脚への醜状痕 五〇〇万円

MRSAに感染したことにより、本来は予定されていなかった無用の手術を何度も繰り返され、原告は、その都度肉体的苦痛を受けた。また、そうした手術の結果として、原告は、胸と脚とに大きな醜状痕を残した。これらに対する精神的損害を評価すると、五〇〇万円が相当である。

<3> 三か月間の無用な入院 一三二万円

原告は、平成九年一月六日から同年五月二八日まで、被告病院に入院し、被告の治療に不信感を抱いていったん退院した後、喉の穴を塞ぐ手術を受けるため、同年七月七日、再度入院し、同月二五日に退院した。喉頭癌の手術のためであれば、遅くとも同年二月末には退院できたはずであり、少なくとも三か月間は無用な入院を強いられたことになる。この間の入院慰謝料は、一三二万円が相当である。

(2)  弁護士費用 九〇万円

原告は、本件訴訟提起に先立ち、原告訴訟代理人に対し、本件訴訟の追行を委任した。その弁護士費用としては、請求額の約一割に当たる、九〇万円が相当である。

(二) 被告の主張

争う。

第三争点に対する判断

一  争点1(MRSAの感染経路と被告の過失)について

1(一)  証拠(乙八ないし一二、証人寺尾元)によれば、MRSAについて、以下の事実が認められる。

(1)  MRSAとは、黄色ブドウ球菌の感染症治療のため抗生物質が使用されるに伴って、次第にこれへの耐性を強め、ペニシリン系抗生物質、セフェム系抗生物質、アミノ配糖体系抗生物質などに対し広く耐性を持つに至った多剤耐性の黄色ブドウ球菌のことをいう。

黄色ブドウ球菌は、ヒトの鼻腔、咽頭、口腔、皮膚及び腸管内の常在菌であるが、その中には、一部右のようなMRSAが混ざっていることがある。

MRSAの毒性は、通常の黄色ブドウ球菌と比較して特に強いわけではないが、これが深部に選択的に増殖した場合、毒性が増幅して重篤な病態を引き起こすことがある。

(2)  ある者がMRSAを保菌している場合、常にその者に感染症状が発生するというわけではない。MRSAが検出された者は、保菌はしているが臨床的に問題となるような感染症状を引き起こさない者(保菌者)と感染症状を引き起こした者(発症患者)とに分けられる。

発症患者の感染症状は、表層感染と深部感染とに分けられ、前者の例としては皮膚の化膿巣、中耳炎等があり、後者の例としては髄膜炎や敗血症等があり、この場合、重篤化すると死に至ることもある。

(3)  MRSAの感染経路は、大きく分けて二つあり、<1>易感染性患者(高齢患者、悪性腫瘍患者、侵襲が大きく長時間を要する手術患者など)がMRSAを保菌していて、宿主の要因や医原性要因によってMRSA感染症状が発生する内因性感染と、<2>患者や医療従事者を介して新たに保菌者や、感染症例が発生する外因性感染とがある。外因性感染の場合、接触感染が主である。

(二)  前記争いのない事実等に証拠(甲一、三、乙一、一三、証人寺尾元、原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すると、原告の症状とMRSAの感染について、以下の事実が認められる。

(1)  原告は、平成九年二月七日、全身麻酔による本件癌手術(気管切開、喉頭摘出術、左右頸部郭清術)を受けたが、これに伴い、喉頭を摘出したことにより食道に楕円形の穴が開くことから食道粘膜を縫合する処置と、更にその外側の手術創を縫合する処置が行われた。

なお、本件癌手術後、原告は、観察室と称する二人用の病室に同月二三日まで収容され、その後、別の病室に移された。

(2)  同月一二日、原告の手術創に発赤が認められたため、被告において、緊急にCTスキャンを施行したところ、原告の皮下に膿瘍が確認された。そのため、同月一三日から、それまで原告に投与されていた抗生物質の種類が、ペントシリンから、より強いカルベニンに変更された。

(3)  ところで、同月一一日、被告において、原告の頸部に入れてあったドレーンを抜き、右ドレーンを細菌検査に出したところ、細菌検査の結果は、第一報(同月一三日)が「陰性」、第二報(同月二〇日)が「MRSA1+」であった。(なお、細菌検査は、採取したサンプルを培養することにより細菌の量を増やしていきながら、段階的に顕微鏡等で観察するという方法で行われるため、いまだ細菌の量がそれほど増えていない段階における観察の結果が「陰性」であっても、その後の細菌の量がある程度増えた段階における観察の結果が「陽性」ということがあり得る。この細菌検査からは、原告の頸部には同月一一日の時点においてMRSAが存在したという事実が判明したことになる。)

また、同月一三日、被告において、原告の尿、血液及び便を細菌検査に出したところ、その結果は、尿及び血液は「陰性」、便は同月一七日の報告で「MRSA3+」であった。

(4)  被告は、右のとおり、原告に投与する抗生物質の種類を変更したにもかかわらず、原告の皮下の右膿瘍の症状が改善されなかったことから、下咽頭食道の粘膜縫合部が離開したため唾液が食道の外の皮下部分まで出てきていることにより感染が生じているのではないかと疑い、同月一五日、緊急手術を施行したところ、推測したとおり下咽頭食道の粘膜縫合部の粘膜が切れた状態で離開していた。その上、開口部周囲の粘膜の壊死が進んでいたため、この時点でこれを再度縫合することは困難であったことから、被告は、右壊死部分を切除してその部分を開放創とし、頸部に小孔を開けて唾液を外に流して本件癌手術の創部を清潔に保つための前頸部咽頭皮膚瘻の作成手術を行った。

(5)  同月一八日、原告の頸部膿から「MRSA3+」が検出された(報告日は同月二〇日)。また、同月二七日、原告の頸部膿から「MRSA1+」が、喀痰から「MRSA少量」がそれぞれ検出された(報告日はそれぞれ同年三月七日及び同月三日)。更に、同年三月三日、原告の気管切開孔から「MRSA2+」が検出された(報告日は同月五日)。

(6)  被告は、同年三月七日、原告に対し、右の食道粘膜を縫合して閉鎖するとともに咽頭皮膚瘻を閉じるための手術(咽頭皮膚瘻閉鎖術、T‐Eシャント(天津法)閉鎖術)を施行したが、右の咽頭皮膚瘻は離開してしまった。

(7)  同月一四日、原告の咽頭粘膜から「MRSA少量」が検出された(報告日は同月一七日)。

(8)  被告は、同月二七日、原告に対し、縫合手術(下咽頭粘膜縫縮術及び皮膚瘻縫合閉鎖術)を施行したが、これもうまくいかなかった。

(9)  同月二八日、原告の咽頭粘液から「MRSA3+」が、同年四月一日、瘻孔周囲から「MRSA4+」がそれぞれ検出された(報告日はそれぞれ同月一日及び同月七日)。

(10) 被告は、同年四月一八日、原告に対し、原告の胸の部分の皮膚を咽頭皮膚瘻部分に移植する手術(DP皮弁による瘻孔閉鎖術)を施行した(なお、胸から皮膚を切除した跡には、原告の足の皮膚が移植された。)。ところが、右移植手術にもかかわらず、咽頭皮膚瘻は離開してしまった。

(11) 同月二五日、原告の創部から「MRSA2+」が、同年五月一二日、皮膚から「MRSA1+」がそれぞれ検出された(報告日はそれぞれ同年四月二七日及び同年五月一五日)。

(12) 被告は、同年五月一六日、原告に対し、縫合手術(下咽頭皮膚瘻閉鎖術)を施行したが、やはり縫合は成功せず、ついに原告は、同月二九日、咽頭皮膚瘻を残したまま強引に被告病院を退院してしまった。その後、原告は、同年七月七日、被告病院に再入院し、同月九日、手術(咽頭皮膚瘻閉鎖術及び気切孔拡大術)を受けたところ、ようやく皮膚瘻がふさがり、同月二五日、退院した。また、原告は、気切孔が狭窄してきたため、同年九月二五日、被告病院に再々入院し、同月二六日、気切孔拡大術を受け、同年一〇月一〇日、退院した。

(三)  前記争いのない事実等及び証拠(乙一、一三、証人寺尾元)を総合すると、被告病院においてMRSAの感染防止のためとられていた措置について、以下の事実が認められる。

(1)  被告病院においては、手術後の患者に対するMRSA感染の可能性を認識しており、これを防止するための措置がとられていた。原告が被告病院に入院して喉頭微細手術(生検)が行われた段階から、担当医師らは、原告に対する抗生剤の過剰な投与等により、MRSAが発生しやすくなることを防止するため、抗生剤の処方を慎重にするよう注意していた。

(2)  被告は、原告に対する本件癌手術の実施に際しては、事前に手術の対象となる箇所周辺の皮膚の表面をポピドンヨード(「イソジン」)で消毒し、術後は、創部に直接触れる処置は、専ら原告担当医師らの手によって行い、右医師らは、手術後ある程度の期間、原告の収容されていた病室の入口に備え付けられていた消毒薬で手を消毒した上、ビニールの使い捨て手袋を着用して右処置にあたっていた。

また、被告は、原告に対する本件癌手術施行後、原告の頸部に巻かれていたガーゼを全部はずした際には、創部周辺を触診して膿がたまっていないかなどを確認した上、ポピドンヨード(「イソジン」)で消毒していた。

(3)  被告は、MRSAの感染に備えた細菌検査を実施しており、この検査によって原告の頸部からMRSAが検出されたことが平成九年二月二〇日に判明した直後からMRSAに有効とされるバンコマイシンを投与するなどの措置をとった。このため、本件癌手術によって生じた創部付近にMRSAの感染症状の可能性のある化膿が生じたものの、それ以外には、高熱が続いたり、敗血症等が発生したりといった、MRSAによる重篤な感染症状とみられる症状は現れなかった。

2  右認定の各事実に照らすと、原告は、重篤なMRSA感染症状の発生(深部感染)には至っていなかったものの、少なくとも、部分的に本件癌手術によって生じた創部周辺の皮膚が化膿する程度の感染症状の発生(表層感染)には至っていた蓋然性が高いものと認められ、このことが原告の手術創の癒合が進まなかった原因のーつとなっていた可能性も否定できない。

しかし、原告が感染したMRSAの感染源及び感染経路については、原告主張のように、被告病院の医師らが原告に対して何らかの処置を施した際に、医師の手指、医療器具等に付着していたMRSAが創部周辺の皮膚に感染したものと断定することはできない。むしろ、右認定のとおり、<1>被告病院では、このような外因性感染を防止するために、手術後の創部に直接触れる医師らは消毒液で手を消毒した上、ビニールの使い捨て手袋を着用するなどの措置がとられていたこと、<2>原告は高齢の癌患者である上、本件癌手術は全身麻酔した上で気管切開、喉頭摘出等を行う侵襲の大きなものであった点で、内因性感染の易感染性患者であったこと、<3>本件癌手術のなされた部位が頸部であってMRSAの常在する可能性のある鼻腔、口腔等に近接しており、MRSAが常在していた場合、術後の体力の低下に伴いこれからの感染を生じやすい位置にあったこと、<4>更に、原告の頸部にMRSAの存在が確認された平成九年二月一一日及び頸部の手術創の発赤と皮下の膿瘍が認められた同月一二日の時点では、既に下咽頭食道の粘膜縫合部が離開してMRSAを含む可能性のある唾液が食道の外の皮下部分まで出てきていたものと見る余地もあること、に照らすと、原告の鼻腔内又は口腔内にもともと存在していたMRSAが、本件癌手術によって生じた創部周辺の皮膚に感染した可能性(内因性感染の可能性)が十分想定される。また、MRSAの常在菌としての性質に照らすと、これらの経路以外の何らかの感染源及び経路によって感染した可能性も否定できない。

そして、被告病院においては、右に見たとおりMRSAの院内感染を防止するため、相当の対策が講じられていたことが認められ、他に、被告病院における管理に関して、原告の院内感染を防止する観点から不十分な点は何ら窺われないから、MRSAの感染について、被告に過失があったものということはできない。

なお、この点に関し、本件癌手術の後、原告の下咽頭食道の粘膜縫合部が離開したためMRSAを含む可能性のある唾液が食道の外の皮下部分まで出てきていた点が問題となりうる。しかし、このような離開が手術の過誤によって生じたものと認めるに足りる証拠はなく、むしろ証拠(乙一、二、六、一三、証人寺尾元、原告本人)によれば、被告の担当医師らは、このような離開を防止するため原告の顔の両側に砂嚢を置いて頸部が伸展したり顔を左右に動かしたりしないようにした上、原告に対して手術後一週間は頭を固定して頸部の安静を保持することを指示・説明していたのに、原告がこのような指示に従わなかったことが粘膜縫合部の離開を招いた可能性が高いことが認められる。そうすると、仮に皮下部分まで出た唾液に含まれたMRSAが原告の頸部に感染したものとしても、このことについて被告に過失があったということはできない。

二  以上のとおり、原告のMRSAの感染については、その感染源及び感染経路は明らかでなく、被告の責に帰すことのできない内因性感染の可能性も認められる上、被告病院において感染防止のためにとられていた措置に不十分な点は認められないことからすると、被告に過失はなく、不法行為ないし債務不履行の成立する余地はないから、その余の点に触れるまでもなく、原告の本訴請求は理由がない。

(裁判長裁判官 西村則夫 裁判官 内田博久 裁判官 下澤良太)

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