大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成10年(ワ)9113号 判決 1999年1月25日

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告に対し、金三七一万五〇〇〇円及びこれに対する平成一〇年五月二日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、マンション建築分譲業者である被告との間でマンションの売買契約を締結した原告が、右売買契約の錯誤無効または詐欺取消しを理由に、不当利得返還請求権に基づき、手付金の返還を求めるとともに、不法行為請求権に基づき契約書に貼付した印紙代相当額の損害賠償金の支払を求めた事案である。

一  前提事実(認定事実には証拠等は掲記する)

1 被告は、不動産の開発・マンションの分譲販売を業とする会社である。

2 原告は、平成九年五月二七日、被告との間で、平成一〇年三月完成予定の横浜市港北区新羽町字南上町六二二番地一所在の土地付区分建物クリオ新横浜北参番館(以下「本件マンション」という。)のうち六〇七号室六六・九六平方メートル(以下「本件物件」という)について、代金三七五〇万円(消費税相当額を含む)で売買契約を締結した(以下「本件売買契約」という)。

3 原告は、被告に対し、本件売買契約に基づき、平成九年五月二七日手付金三七〇万円並びに同年六月二四日中間金三七〇万円を支払った。

また、原告は、本件売買契約書貼付の印紙代として一万五〇〇〇円を負担した。

4 被告は、平成一〇年一月、被告から本件売買契約に定めた平成一〇年三月二七日を期限とする最終金を支払う意思がないとの通知を受けて、本件売買契約は被告の自己都合により解約されたものとして手付金三七〇万円を没収し、平成一〇年二月、中間金三七〇万円を原告に返還した。

二  原告の主張

1 錯誤について

(一) 原告は、現住居が自動車交通量が極めて多い県道二号線に面していたため振動、騒音及び排気ガスに長い間悩まされ、二年前には夫を肺ガンで亡くしたので、空気がきれいで交通量の少ない環境に転居することを考えて、平成五年五月本件マンションのモデルルームを見学した。被告は、被告営業社員から準工業地帯であることを知らされたが、本件マンションの周辺道路は交通量が少なく、工場もいずれ少なくなって住宅ばかりになり、近くに公園も造られ小鳥も来て、良い環境になるとの説明を受け、本件物件の購入を決意した。

ところが、原告は、同年一〇月二七日、新聞折込広告で、本件マンションの建設予定地(以下「本件建設予定地」という。)から約五〇〇メートル南の位置に横浜市が計画している高速横浜環状北線(以下「本件道路」といい、本件道路の建設計画を「本件道路計画」という)の施設である地下トンネル排気塔(以下「本件排気塔」という)と約六、七百メートル南西の位置にトンネル出入口(以下「本件トンネル出入口」という)建設の計画があることを知り、その後、本件道路計画に対し住民の反対運動があることも知った。

右計画が実現すれば、交通量の増大による騒音、大気汚染の点で、本件マンション周囲の環境が極めて悪化することは明白である。

したがって、本件売買契約締結にあたり、原告には動機の錯誤があり、右動機は被告に表示されていた。

(二) 本件売買契約締結当時、原告は、本件道路の本件排気塔や本件トンネル出入口の建設計画があり、本件マンションの環境が悪化するおそれがあることを知っていれば、本件マンションを購入しなかった。したがって、原告の錯誤は要素の錯誤にあたる。

(三) したがって、本件売買契約は錯誤により無効である。

2 詐欺について

(一) 被告は、本件売買契約締結に際し、本件道路の本件排気塔及び本件トンネル出入口の建設計画があることを知りながら、原告に対し、敢えて右事実を秘匿し、本件マンションの周辺は空気がきれいで静かな環境であると誤信させて、本件売買契約を締結させた。被告の右行為は詐欺にあたる。

(二) 原告は、被告に対し、平成九年一二月二日到達の書面により、本件売買契約を被告の詐欺により取り消すとの意思表示をした。

3 不法行為について

(一) 被告は、本件売買契約締結に際し、本件道路計画を告知する義務がありながら、故意過失により右計画を告知しなかった。これは不法行為にあたる。

(二) 原告は、被告の右不法行為により本件売買契約を締結し、本件売買契約書に貼付した印紙代相当額の損害を被った。

二  被告の主張

1 錯誤について

(一) 被告が本件道路計画とその施設である本件換気塔及び本件トンネル出入口の建設計画について知っていたことは認める。現在、本件道路計画は計画決定されておらず、横浜市の手続が完了し、神奈川県の環境アセスメントのための資料作成準備中の段階であり、計画決定は平成一二年三月か同年四月の見込みとされている。また、横浜市の説明では、本件道路によって環境悪化はないとされている。

本件売買契約書及び重要事項説明書には、本件マンションが準工業地域にあり、工場及び事業所等への車両等の出入及び騒音があることが明記され、工場操業及び関連車両の出入、通行に伴って生じる一定の騒音、振動、臭気及び粉塵等の発生の可能性も説明されている。原告は、被告営業社員から右事項の説明を受けて、本件物件を購入している以上、原告主張の動機で本件物件を購入したとすること自体不合理である。

(二) 本件計画道路は計画決定すらされていないこと、本件換気塔の建設予定地は本件マンションから五〇〇メートルも離れた位置にあること、横浜市の説明では環境悪化はないとされていることから、被告には本件計画道路についての説明義務はない。

したがって、本件計画については説明義務すら生じない程度のものであるから、仮に原告主張の錯誤があったとしても、準工業地帯に存在する本件マンションを購入する消費者一般を基準にした場合、五〇〇メートル離れた本件計画道路の本件換気塔や本件トンネル出入口が建設されることを知っていれば、本件マンションを購入しなかったとまでは社会通念上言い得ないから、契約の要素の錯誤にはあたらない。

2 詐欺について

前記のとおり、被告には本件計画道路について告知義務はないから、告知しなかったからといって欺もう行為にはあたらない。告知した場合には、逆に利便性の追求とも受け取られ、かえって宅地建物取引業法違反に問われかねないものである。

3 不法行為について

被告には原告主張の告知義務はないから、不法行為は成立しない。

第三  当裁判所の判断

一  前記前提事実、《証拠略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

1 被告は、不動産の開発・マンションの分譲販売を目的とする会社であり、平成九年五月頃、横浜市港北区に平成一〇年三月完成予定のクリオ新横浜北の分譲販売を行った。

原告は、綱島街道沿いのマンションに長女、次女と暮らしていた。

2 クリオ新横浜北の本件建設予定地は、新横浜北駅から徒歩一分のところにあり、周辺には工場が点在し、準工業地域に指定されている。本件建設予定地の前面道路は宮内新横浜線であり、同道路を約一・五キロメートル南進すると環状二号線と交差して新横浜駅に至るが、近年新横浜駅周辺は横浜アリーナ、高層ホテル、スポーツ施設等が相次いで建設され、都市再開発が進行中である。また、宮内新横浜線の西には高速自動車道である第三京浜国道がこれと平行して走り、本件建設予定地の真西には右国道の港北インターチェンジがある。

3 本件建設予定地の南に東西に走る本件道路の建設が計画されていた。同計画は、平成五年八月の素案に検討を加えて、平成九年五月二日に原案がまとまり、今後、環境アセスメントを経て計画決定がされ、西暦二〇一〇年を目途に開通の予定とされている。同計画によると、本件道路の施設として、本件建設予定地から宮内新横浜線を約五〇〇メートル南進したところに本件排気塔、六、七百メートル南西に本件トンネル出入口の各施設が建設され、また、直線距離で南西八〇〇メートルの位置には本件道路の新横浜出入口が設置される予定である。

4 原告は、転居先を探していたが、住み慣れた土地からあまり離れたくないという気持ちがあったところ、本件マンションの新聞折込広告を見て、平成九年五月二五日の午前中に長女を連れて、午後に長女、次女を連れて本件マンションのモデルルーム見学に二回赴いた。

原告は、被告営業社員岡田から、航空写真やパンフレットの内容に沿って、新横浜北駅は駅南に商業地や公園が出来て将来良い街になるとの説明を受けた。右パンフレットには、新横浜北駅周辺が新横浜副都心として再開発中であることが記載され、本件排気塔については、四頁下段の「新横浜長島地区土地区画整理事業・市街化予想図」の地図中に「都市運営施設用地」として図示されていた。

岡田は、原告から本件物件の間取り・設備・仕様、本件物件購入手続について質問を受け、また、周辺道路の交通量を質問し、岡田は、本件建設予定地の前面道路の現在の交通量はたいしたことはない旨説明した。岡田は本件道路計画に関してまったく説明しなかった。

原告は、老後の一人暮らしに適し、本件マンションが最寄りの駅や岸根公園近くにある夫の墓地に近いことなどから、本件物件の購入を決意し、その場で申込手続をした。

5 岡田は、平成九年五月二六日、原告宅に赴いて申込金を受け取り、翌二六日、本件売買契約を締結した。岡田は、重要事項説明を説明書を読み上げて行い、本件建設予定地が準工業地域にあることをも説明した。本件売買契約書及び重要事項説明書には、本件マンションを含む地域が準工業地域であり、工場及び事業所への出入り及び騒音等があること、区分所有者は工事操業及び関係車両の出入、進行により生じる関連法規内の騒音、振動、臭気及び粉塵等について近隣工場に苦情を申し立てないとの内容の共同住宅に関する協定書が被告と近隣工場及び横浜北工業会との間で締結されていることが明記されている。

岡田は、原告から将来どうなるかの説明を求められて、マンションが建つと工場はいずれ撤退して住宅地になる例があることを希望的観測を交えながら説明した。

6 原告は、平成九年一〇月二七日、本件道路とその施設である本件換気塔及び本件トンネル建設の計画があることを新聞折込広告で初めて知り、その後、右計画に対する住民の反対運動があることを知った。

7 本件マンションは、低価格であることと利便性から約二週間で完売した。原告は、平成一〇年一月、被告から、本件売買契約の最終金を支払う意思がないとの通知を受けて、本件売買契約は被告の自己都合により解約されたものとして、本件物件を他に販売した。

二  錯誤について

1 原告は、より良い環境を求めて、具体的には空気が綺麗で交通量の少ない環境を求めて本件物件を購入したのであり、本件道路の本件換気塔及び本件トンネル出入口の建設計画があり、計画が実現すれば環境が悪化するおそれがあることを知っていれば、原告は本件売買契約を締結していなかったと主張する。

2 原告は、空気がきれいで交通量が少ない環境を求めて本件物件を購入したというけれども、前記認定した事実によれば、現時点においても、本件マンションの西には第三京浜が通り、車を利用しての新横浜駅の乗降客も多く、周辺の交通量は決して少なくないこと、本件マンションは新横浜駅前の環状二号線に接続する道路に面し、新横浜駅周辺、新横浜北駅周辺は再開発が進行中であり、本件マンション周辺の交通量が将来的には増大するであろうことは容易に予測されること、本件建設予定地は準工業地帯であることに照らせば、本件建設予定地は、現在においても空気がきれいで交通量の少ない環境と言うには憚れる立地条件にあることが認められる。そして、原告は、新横浜駅に近い神奈川区松見に居住しているものであり、新横浜駅周辺の右のような立地条件を認識していたと考えられるうえ、本件売買契約にあたって、被告営業社員からもパンフレットや重要事項説明書により右立地条件の説明を受けていること、本件パンフレットをみても、僅かながら本件マンションの自然環境に触れている部分があるけれどもその比重は小さく、全体としてみれば、「街の力」と銘打って、新横浜駅に近い副都心に所在することの利便性を強調していること、被告営業社員も原告の関心は本件物件の間取り・設備・仕様、利便性にあったとの印象を受けていること、被告本人も、本件物件の購入動機は、現在のマンションの築年数が古く、最寄りの駅や夫の墓地に近いことなどもっぱら本件物件の利便性にあったと供述していることに照らせば、原告は、本件売買契約締結にあたって、本件マンション周辺の自然環境をも考慮したことは否定できないとしても、本件マンション周辺が交通量が少なく空気のきれいな環境であることがその動機であったとは認められず、むしろ、本件物件購入にあたっての原告の動機は、もっぱら本件物件の利便性にあったと認めるのが相当である。

3 仮に、将来とも本件マンション周辺の交通量が少なく、かつ空気がきれいなことが原告の購入動機であったとしても、右2の諸事情に加えて、マンション購入にあたっては、自然環境のみならず、大都市からのアクセスの容易性、街としての利便性、レジャー施設の内容、建物自体の設備内容、各室の間取り、価格等種々の要素が考慮され、右のような価値のいずれに重きを置くかは購入者の主観に大きく左右されること、原告が供述する購入動機も、将来環境が悪化するおそれがあるとの可能性にすぎないこと、本件計画道路は現在でも計画決定されていないうえ、将来本件計画道路が実現しても、本件建物周辺の環境にいかなる影響を及ぼすかは将来の予測の問題であって、現時点ではその影響の程度は不明というほかないこと、本件マンションの物件は、価格と利便性の良さから僅か二週間で完売されていることに照らせば、原告主張の購入動機に錯誤があったとしも、通常人にあればその意思表示をしなかったであろうと考えられるほどに重要な部分についての錯誤があったとは認められないから、原告主張の購入動機をもって、契約の要素の錯誤とみることはできない。

また、原告と被告間で、原告主張の購入動機が本件売買契約の当然の前提となっていたとか、その条件になっていたことを認めるに足りる証拠もないから、この点でも錯誤が成立する余地はない。

4 なお、原告が本件道路計画を知らなかったことをもって錯誤であるとの主張とみるとしても、被告が右計画を告知しなかったことにつき告知義務違反が生じるかはともかくとして、原告と被告との間で、本件道路計画の有無が本件売買契約の当然の前提となっていたとか、その条件になっていたことを認めるに足りる証拠はないから、この点で錯誤が成立する余地はない。

5 以上によれば、原告の錯誤の主張は、錯誤の要件のいかなる点からみても理由がないから、本件売買契約の錯誤無効を前提とする原告の不当利得返還請求は理由がない。

三  詐欺について

1 原告は、本件売買契約締結に際し、被告は、原告に対し、本件道路の施設である本件換気塔及び本件出入口の建設計画があることを知りながらこれを告知せず、本件マンション周辺の環境は空気がきれいで静かなところであると誤信させて、本件売買契約を締結させたと主張する。

しかし、本件売買契約締結に際し、原告に錯誤がなかったことは前記の通りであるから、欺もう行為の成立について判断するまでもなく、原告の詐欺の主張は理由がない。

2 なお、原告は、欺もう行為が成立するとして縷々主張しているので付言しておく。

(一) 原告は、被告担当者が「いずれ工場がなくなって住宅ばかりになります」「いずれ周辺に公園ができ、小鳥が来ます」旨述べたことをもって、殊更に環境の良さを謳い、原告を欺いたと言いたいかのようであるが、仮に、右事実が認められるとしても、前者はそのような実例として、後者は将来の計画として述べられたにすぎないから、被告担当者との会話の中で右発言をしたというだけでは、殊更に環境の良さを強調して欺もう行為をしたということにはならないし、また、前記認定のとおり、被告営業社員が、原告に対し、パンフレットや重要事項説明書で本件マンションの客観的な立地条件を説明したうえでのことであるから、被告担当者に欺もう行為があったということはできない。

(二) また、告知義務の点からみても、本件道路の施設である本件換気塔及び本件トンネル出入口はいわゆる嫌悪施設であるが、前記認定事実によれば、本件道路計画が、本件売買契約締結当時において、原案が策定された段階にとどまり、計画決定すらされていないこと、同計画によれば、本件換気塔及び本件トンネル出入口は本件マンションから五〇〇メートル以上離れた位置に建設される予定の施設であること、環境アセスメントの実施前の段階であるために、右施設が周辺の環境、道路事情に及ぼす影響も不明であることに照らせば、本件売買契約に際して、被告には本件道路計画を告知する義務があったとはいえない。したがって、被告営業社員が原告に対し本件道路計画を告知しなかったことをもって、欺もう行為にあたるということはできない。

3 以上によれば、詐欺の要件のいずれの観点からみても、原告の詐欺の主張は理由がない。

三  不法行為について

被告に不法行為が成立しないことは、これまで判示したところから明らかというべきであるから、不法行為に基づき印紙代相当額の損害賠償の支払を求める原告の請求も理由がない。

四  よって、原告の本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民訴法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 坂本宗一)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例