東京地方裁判所 平成11年(ワ)11433号 判決
原告 有限会社パミール薬品
右代表者代表取締役 田村幸男
右訴訟代理人弁護士 石田英治
被告 片桐寛孝
右訴訟代理人弁護士 今村嗣夫
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、金三〇二〇万円及びこれに対する平成一一年六月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告が被告に対し、主位的に、原告は被告との間に建物賃貸借契約を締結したが、被告に債務不履行があったことから、これを理由に同契約を解除したと主張し、債務不履行に基づく損害賠償請求(金三〇〇〇万円)及び契約解除に基づく原状回復請求(金二〇万円)として、予備的に、仮に右契約が成立していないとしても、原告と被告との契約締結の交渉は契約締結上の準備段階にあり、被告が原告との契約の締結を拒絶するには正当な事由を要するにもかかわらず、被告は正当な事由なくこれを拒絶したと主張し、いわゆる契約締結上の過失に基づく損害賠償請求として、金三〇二〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である平成一一年六月六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
一 争いのない事実等(末尾に証拠等が掲記された事実は、これによって認められる事実であり、その余は当事者間に争いのない事実である。)
1 原告は、医薬品の製造、販売及び輸出入に関するコンサルティング並びに薬局の経営等を業務とする有限会社であり、代表取締役は田村幸男(以下「田村」という。)、取締役は同人の妻である田村純子(以下「純子」という。)である(弁論の全趣旨)。
被告は、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を所有し、これを賃貸して賃料収入を家計に充てるなどしている者であるが、同建物の賃貸借契約の締結等については、被告の妻である片桐邑子(以下「邑子」という。)に対し代理権を授与していた(甲一、乙五、弁論の全趣旨)。
2 田村は、イトーヨーカ堂にマネージャー兼管理薬剤師として勤務していたが、会社(原告)を設立して調剤薬局を経営しようと考え、平成一一年二月ころから、藤越不動産株式会社(以下「藤越不動産」という。)の代表取締役である藤枝義昌(以下「藤枝」という。)に対し、調剤薬局の店舗となる賃借物件の斡旋方を依頼していた(甲六)。
3 被告及び邑子は、かねて本件建物が空家となっていたことから知合いの不動産業者等に対し同建物の賃借人の斡旋方を依頼していたが、同年三月に至るまで同建物の賃借人は定まっていなかった(乙五、証人邑子)。
4 藤枝は、本件建物が賃貸に出されているとの情報を入手し、同月五日、邑子に対し、本件建物の賃借希望者があると伝え、同人から、次のとおり本件建物の賃貸条件等が記載されたテナント募集広告(以下「本件広告」という。)の交付を受けた(甲四、一四、乙五)。
(一) 賃料 月額金一六万三〇〇〇円
ただし、賃料については、被告と藤枝との事前の交渉の際に、右金額から金五〇〇〇円を減額し、月額金一五万八〇〇〇円とされていた。
(二) 契約期間 二年
(三) 敷金 賃料の一〇か月分
(四) 償却 解約時賃料の二か月分
(五) 共益費 なし
(六) 更新料 新賃料の一か月分
(七) 消費税 免税
(八) 特約 公正契約(契約書について公正証書を作成する。)
5 田村は、同月九日ころ、本件建物が同年六月に開業予定であった朱クリニックの調剤薬局として最適な場所にあったことなどから、本件建物を賃借することとし、その旨を藤枝に伝えた。
その後、同月一五日には、原告の設立登記がされた。
6 邑子は、同月一八日午前、藤越不動産の事務所において、藤枝との間で、原告が本件建物を賃借することについて交渉をした(なお、その際には、原告の商業登記簿の提出はなかった。)。
また、邑子は、右同日、藤越不動産の事務所において、純子から金二〇万円(以下「本件交付金」という。)の交付を受け、原告との本件建物の賃貸借契約の締結に関する交渉に応ずることとした。
藤枝は、同月二一日、被告の郵便受けに本件建物の賃貸借申込書(甲第二号証、以下「本件賃貸借申込書」という。)を投函し、被告はこれを受け取ったが、同申込書には原告の保証人は純子とする旨記載されていた。
7 邑子は、同月二五日、藤越不動産の事務所において、原告の代表取締役である田村及び藤枝に対し原告との賃貸借契約締結を拒否する旨意思を表明し、被告が受領していた本件交付金を原告(田村)に返還しようとし、これを現実に提供したが、原告(田村)はその受領を拒否した。
邑子は、同月二六日、藤越不動産の事務所において、田村及び純子と再度面談し、「将来に向かって信頼関係は保てない」などと述べ、本件交付金を返還しようとして、これを現実に提供したが、原告(田村)はその受領を拒否したことから、藤枝においてこれを預かることとなった。
8 被告は、同月三一日、原告に対し、内容証明郵便をもって、藤越不動産に預けた本件交付金(金二〇万円)を一週間以内に受領するよう催告するとともに、右期間内に受領しない場合は供託する旨通知し、同通知は翌日原告に送達された。
被告は、同年四月八日、藤越不動産(藤枝)から本件交付金(金二〇万円)の返還を受け、これを東京法務局に供託した。
9 被告は、同月一四日、ニチワ不動産の仲介により株式会社プライムとの間に本件建物を同社に賃貸する旨の賃貸借契約を締結し、そのころ、同社に本件建物を引き渡した(乙五、証人邑子)。
10 原告は、本件訴状をもって、原告と被告との本件建物の賃貸借契約を解除する旨の意思表示をし、同訴状は同年六月五日に被告に送達された。
なお、原告は、同年四月一四日ころ及び同年五月二〇日ころ、被告に対し、被告の債務不履行を理由に本件建物の賃貸借契約を解除する旨の意思表示をしたと主張するが、右各意思表示が被告に到達したことを認めるに足りる証拠はない。
二 争点
1 原告と被告との間における本件建物の賃貸借契約の成否
2 被告の契約締結上の過失の有無
3 原告が被った損害の有無及び損害額
三 争点に対する当事者の主張
1 争点1について
(原告の主張)
(一) 原告と被告との間には、平成一一年三月一八日、本件建物について、次の内容の賃貸借契約あるいは無名契約が成立した(以下「本件賃貸借契約」という。)。
(1) 使用目的 調剤薬局
(2) 賃料 月額金一五万八〇〇〇円
(3) 支払方法 翌月分を前月末払い
(4) 契約期間 二年間
なお、契約の始期については、基本的には後日協議の上決定するものとするが、原告と被告は、合理的期間内に本件賃貸借契約に関する公正証書を作成するものとし、右公正証書作成と同時ないしその直後とする。右合理的期間内に公正証書が作成されないときは、右合理的期間が経過した時に始期が到来したものとみなす。
(5) 保証金 一五八万円
ただし、解約時に賃料の二か月分を償却する。
(6) 共益費 なし
(7) 更新料 新賃料の一か月分
(8) 保証人 後日協議の上決定する。
ただし、原告は相当の資力のある者を保証人として提供しなければならず、原告が相当の資力のある者を保証人として提供したときは、被告はこれを承諾しなければならない。被告が合理的な理由なく承諾しないときは、原告は他に保証人を提供する義務を負わない。
(二) なお、本件交付金は本件賃貸借契約の手付金の趣旨で交付されたものであって、手付の交付は原則として解除権を留保する効果を有するものであり、解除の対象となる何らかの契約が締結されたことが当然の前提となっているから、本件賃貸借契約は成立しているものと認められるべきである。
(被告の主張)
(一) 原告と被告との間に本件賃貸借契約が成立したことはない。
(二) なお、本件交付金は、本件建物の賃貸借契約に関する交渉の際、原告の商業登記簿謄本の交付がなかったことから、原告が本件建物を賃借する意思を表明し、他より優先して契約交渉を進めるために授受されたものであり、手付金ではない。
(三) また、邑子は、本件交付金を預かり、原告と優先的に契約交渉を始めることとしたが、藤枝に対し、実際に賃貸するかどうかは、賃借希望者において本件賃貸借申込書に所定の事項を記入し、これとともに原告の商業登記簿謄本等の提出を受けた後に、被告と相談の上決めるつもりであり、賃貸する場合には契約書を公正証書にする旨申し入れていた。
2 争点2について
(原告の主張)
仮に本件賃貸借契約が成立していないとしても、当事者が契約締結上の準備段階にあり、一方の当事者が契約は確実に成立するであろうと期待を抱き、他方の当事者がその期待を予想することができる場合には、他方の当事者は、一方の当事者の期待を裏切ることがないように努める義務があり、正当な事由がなければ契約の締結を拒絶できないと解するべきであって、正当な事由なく契約の締結を拒絶した場合には、その当事者には契約締結上の過失があるものと解するべきであるところ、本件の場合には、以下のとおり、被告には契約締結上の過失があるというべきであるから、被告は、原告に対する損害賠償責任を免れないものというべきである。
(一) 原告と被告とは、以下のとおり、被告が本件建物に関する契約の締結を拒絶する旨明言した平成一一年三月二六日までの間に、本件建物の賃貸借契約について契約締結上の準備段階に入っており、原告は契約が確実に成立するものと期待しており、被告はその旨容易に予想することができたというべきである。
(1) 邑子は、同月一八日、藤越不動産の事務所において、原告の代表者である田村と会い、本件建物の賃貸借契約に関する交渉を行い、細かい条件については必ずしも十分に詰めることはなかったものの、賃貸借契約を締結することについて基本的には合意し、原告から将来正式に賃貸借契約が締結された場合には、保証金や家賃等に充当する趣旨で金二〇万円(本件交付金)を受領し、双方にとって円満な交渉が行われた。
(2) 原告は、同月二一日までに、被告に対し、本件賃貸借申込書を交付した。
(3) 原告は、同月二四日、イトーヨーカ堂に勤務中の同僚三名に対し、本件建物において開業する調剤薬局で勤務する従業員として同月二六日から勤務して欲しいと勧誘し、その承諾を得るとともに、右薬局において使用する予定のコンピューター等のリース契約を締結するなど、右薬局の開業に必要な準備行為に入っていた。
(4) 田村は、同月二六日、イトーヨーカ堂を退職し、邑子から契約の締結を拒絶する旨を告げられた際には、同人に対し、前日に勤務先に退職願を提出し、コンピューター等のリース契約も締結した旨を告げた。
(二) 本件の場合には、以下のとおり、被告に原告との契約の締結を拒絶する正当な事由があるとは認められず、しかも、原告と契約締結上の準備段階に入って原告に契約締結の期待を抱かせながら、競合相手の存在及び条件を隠し、正当な事由なく原告の申込みを拒絶することはあまりにも信義に反するものであるから、被告には契約締結上の過失があるというべきである。
(1) 被告が契約の締結を拒絶した理由は、藤枝の強引な交渉態度が気に入らなかったことにあると思われるが、藤枝の交渉態度が常識の範囲を逸脱したものであったとはいえないし、仲介業者である藤枝が契約締結後に被告と接触することはなく、被告との間に利害関係も生じないのであるから、右は被告が原告と契約を締結するについて支障となるものではない。また、藤枝は最終的には被告に対し相当な譲歩を示し、自らはこの取引から外れ、別の仲介業者に依頼してもよいとまで提案しているのであって、被告が藤枝の交渉態度を理由に契約の締結を拒絶したものであるとすれば、それは正当な事由といえない。
(2) 被告は、被告が契約の締結を拒絶した理由として、原告の信用不安と保証人の人選の不適切さの二点を挙げるが、原告の信用不安については本件訴訟の係属後に主張されたものであり、被告が契約の締結を拒絶した真の理由ではないし(なお、邑子は原告が相当の資産を有していることを認めていた。)、保証人の人選についても、原告は田村の実父を保証人とすることを申し入れていたが、その人選自体には害意や不誠実さがあったわけではなく、藤枝にも了承をとってしたことであり、しかも、被告が契約の締結を拒絶する旨を表明した平成一一年三月二六日の時点では、原告は、被告の希望どおりに純子の実父を保証人とすることを承諾しており、この時点において、被告の不満は解消されたはずである。したがって、被告が契約の締結を拒絶するについて正当な事由があったとはいえない。
(3) 被告は、同年四月一八日までに、株式会社プライムに対し、本件建物を賃貸して引渡しているが、このことからすると、被告は、同年三月二六日までに同社から本件建物について賃貸借の申込みを受け、同社と契約するために、原告との契約の締結を拒絶するに至ったものである。
(被告の主張)
原告と被告との契約交渉の経過に照らすと、以下のとおり、被告が原告との契約締結を拒否したことが違法と評価することはできず、仮に原告に損害が生じたとしても、被告がこれを賠償する責を負うものではない。
(一) 原告と被告との間では、原告が従業員との雇用契約を締結し、コンピューター等のリース契約を締結したと主張する平成一一年三月二四日の前日である同月二三日までに、継続的契約である賃貸借契約にとって重要事項である賃借人の債務の保証人(特に、本件の場合には、賃貸借期間、賃料、保証金、更新料などについて、原告と被告との間で格別の契約交渉が積み重ねられてこれらが定められたわけではないため、保証人を誰にするかは最重要事項であった。)について問題があり、本件建物の賃貸借契約における保証人は定まっていなかったから、原告と被告が、本件建物の賃貸借契約に関する交渉について、契約締結上の準備段階にあり、被告に原告との契約を締結すべき信義則上の義務があったということはできない。
(二) また、賃貸借においては、契約締結に関与した不動産仲介業者が、将来の賃料増額、更新契約書の作成、更新料の授受、その他賃貸借当事者間の利害調整を行うものであるから、被告が、藤枝と原告との間に特別の利害関係があることを理由に、藤枝を介して原告と本件建物の賃貸借契約を締結することに対して消極的になったことには、合理的な理由があるというべきである。
(三) 原告(田村)が純子の実父を保証人とすることを承諾したのは、被告が原告との契約締結には応じられない旨通知した後である同月二五日夜のことであり、その時点では、被告は既に原告との契約締結を拒絶する旨表明していたのであるから、これをもって、被告が原告との契約締結を拒絶したことが違法ということはできない。
(四) 被告が同年四月中旬ころ株式会社プライムとの契約交渉をするに至ったのは、原告が、同月一〇日ころ、本件建物と同じ商店街にある他の物件について賃貸借契約締結交渉を行っていたからであって、同社の提示した条件が好条件であったからではない。
3 争点3について
(原告の主張)
(一) 原告は、被告の本件賃貸借契約上の債務の不履行により、本件建物で調剤薬局の営業ができなくなり、次のとおり、合計金二億五四八五万六四三五円の損害を被った(ただし、原告が本訴において請求しているのは内金三〇〇〇万円である。)。
(1) 営業利益相当分の損害 金二億四〇〇〇万円
原告が本件建物で調剤薬局を開業した場合、原告は、平成一一年四月以降一〇年間は毎月少なくとも金二〇〇万円の営業利益を得られたはずであるから、原告が被った営業利益相当分の損害は金二億四〇〇〇万円となる。
(2) リース代金相当分の損害 金二四万六四三五円
原告は、本件建物で営業する調剤薬局において使用するためにコンピューターのハード及びソフトのセットについてリース契約を締結していたことから、平成一一年七月分から一〇月分までのリース代金として合計金二四万六四三五円の支払をせざるを得なかったのであり、同金額が原告の損害となる。
(3) インストラクターの派遣を受ける利益相当分の損害 金五五万円
原告は、被告の債務不履行によって、リース契約をしていたコンピューター二セットのうち、一セット分をメーカーから専門のインストラクターの派遣を受けて現場で使用方法の説明・指導を受ける権利とともに他に譲渡せざるを得ず、インストラクターの派遣を受けられなくなったが、これにより原告が被った損害は金五五万円である。
(4) リース契約解約等の交渉によって生じた損害 金五〇万円
原告(田村)は、被告の債務不履行によって、本件建物で営業する調剤薬局において使用するために締結していたコンピューター二セットのリース契約のうち、一セット分についてリース契約を解約した上でこれを他の買主に引き継いでもらうことについて関係者の承諾を得るために交渉を重ねることとなり、そのために他の業務に従事することができず、得べかりし利益を失うとともに、新店舗の開業が遅れる等の損害を被ることとなったが、この損害を金銭的に評価すると金五〇万円が相当である。
(5) 従業員給与等相当分の損害 金一三五六万円
原告は、平成一一年三月二四日、本件建物において開業する調剤薬局の従業員とするため四名の者と雇用契約を締結したが、本件建物において調剤薬局を開業することができなくなったことから、二名の者についてはそれぞれ金三〇万円を支払って退職させ、残りの二名については退職させることができずにそれぞれ月額金一八万円の給与を支払い、三年程度は雇用を継続しなければならないこととなったのであって、これにより合計金一三五六万円の損害を被った。
(二) なお、被告が原告に対し、被告の契約締結上の過失に基づいて賠償すべき損害の範囲は、信頼利益に相当する右(2) ないし(5) の損害額の合計金一四八五万六四三五円である。
(被告の主張)
すべて争う。
なお、原告が主張するリース契約(甲五の一、二)におけるリース物件設置場所は、本件建物の所在地ではなく、原告(田村)が本件建物について契約締結の交渉を開始する以前に藤枝との間で賃貸借契約を締結していた建物の所在地とされている。
第三当裁判所の判断
一 争点1(本件賃貸借契約の成否)について
1 前記争いのない事実等のほか、証拠(甲二、三〔ただし、但書部分を除く。〕、四、六ないし一二、一四、乙五、証人藤枝、証人邑子)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる(なお、甲第六号証、第九号証、第一〇号証、第一四号証及び証人藤枝の証言中、後記認定に反する部分は、乙第五号証及び証人邑子の証言に照らし、いずれも採用することができない。)。
(一) 邑子は、平成一一年三月一八日午前中、藤枝からの電話連絡を受けて藤越不動産の事務所に行き、同所において、同人から、本件広告に記載された本件建物の賃貸条件等を前提にして(ただし、被告はかねてから藤枝に対し賃料については同広告に記載された金額から五〇〇〇円を減額して月額金一五万八〇〇〇円とする旨表明していた。)、本件建物について使用目的を調剤薬局として賃借を希望する会社(原告)があると告げられたが、その際、藤枝は邑子に対し、賃借希望会社の代表者の両親をよく知っており、同代表者はいい人で立派な人であると言うのみで、同社代表者の氏名住所を記載した申込書等を交付しなかった。
そこで、邑子は、右賃借希望会社(原告)が本件建物について賃貸借契約を締結する意思を有しているかどうかが不明であるとして、同社が手付金を交付するならば、同社と優先的に本件建物の賃貸借契約締結に関する交渉を始めようと考え、藤枝に対し、賃借希望会社から被告に手付金を交付することにしてはどうかと提案し、早期に書類を取りそろえるよう伝えて帰宅した。
(二) 邑子は、同日昼ころ、藤枝から再度電話連絡を受けて藤越不動産の事務所に行き、同所において、田村の妻である純子の紹介を受け、同人から申込人(原告代表者である田村)の氏名・住所・業種を記載した申込書とともに、金二〇万円(本件交付金)の交付を受けたことから、藤枝において作成した金二〇万円の領収書(甲第三号証)に被告の氏名を記入し、持参していた印鑑を押捺した上、これを藤枝に交付した。
その際、邑子は「調剤薬局であればきれいに使ってもらえるからよい。待っていてよかった。」などと述べて、原告が本件建物を調剤薬局として賃借することを歓迎する態度を示した。
なお、右領収書には、但書として「別紙公正証書契約に基づく店舗賃貸借契約手付金として(領収した)」旨の記載があり、藤枝は同人において右領収書用紙に金額と但書を記入した上で邑子に被告名義での署名捺印を求めたと供述するが(甲一〇、一四、証人藤枝)、右但書の記載は、右領収書が作成された当時には存在していない公正証書が「別紙公正証書契約」として引用されている点において不自然であることのほか、邑子自身が署名捺印する際には右但書の記載はなかったと供述していること(乙五、証人邑子)に照らし、右但書の記載をもって、邑子が原告(純子)から本件交付金の交付を受けることにより、原告と被告との間に本件賃貸借契約が有効に成立したものと認識していたとまでは認めることができない。
(三) 邑子は、翌一九日の夕方、藤越不動産の事務所において、藤枝に対し、被告が使用していた本件賃貸借申込書用紙を交付し、これに所要の事項を記入するとともに、原告の商業登記簿謄本等を提出するよう要請し、被告としてはこれらにより本件建物を原告に賃貸するかどうかを決定することとし、原告に賃貸する場合には契約書を公正証書とすると伝えたが、その際、藤枝が「被告が所持する公正証書を見せて欲しい。公正証書を作成するのであれば、契約書は無駄であるから作成しない。」などと述べたことから、同人の言動に不審を抱くようになった。
(四) 純子は、同月二〇日、藤越不動産の事務所において、右申込書用紙の賃料欄に月額一五万八〇〇〇円、保証金欄に一五八万円、手付金・仮契約欄に同月一八日に二〇万円、更新料欄に新賃料の一か月分、申込人欄に有限会社パミール薬品、保証人欄に純子などと記入して(なお、保証金等の償却欄及び残金・本契約欄は記入されていない。)、これを藤枝に交付し、同人は、そのころ、右申込書を原告の商業登記簿謄本とともに被告方郵便受に投函した。
(五) 邑子は、同月二一日、本件賃貸借申込書に原告の保証人は純子とする旨記載されていたことから、藤枝に対し、保証人が原告代表者の妻(純子)では本件建物を原告に賃貸できないと伝えた。
(六) 藤枝が、同月二三日、原告(田村)に対し、被告の右意向を伝えたところ、原告側では、藤枝と相談の上で、保証人を田村の実父、あるいは田村の叔父とする旨提案したのに対し、被告(邑子)は純子の実父が地元で手広く事業をしている工務店の経営者であるとして同人を保証人とするよう要請したため、折合いがつかず、保証人は定まらなかった。
(七) 邑子は、同月二四日、被告と相談の上、同月五日に本件建物の賃貸借について話が始まったにもかかわらず、未だに保証人が決定しないことに対する不満、仲介業者である藤越不動産(藤枝)の態度等に対する不審、原告が代表者の妻である純子を保証人としたことに対する不審、原告が新設会社であるにもかかわらず、同一商店街に二店舗の調剤薬局を出店することによる原告の先行きに対する不安等から、原告に本件建物を賃貸すると後に問題が生じ兼ねないと判断し、原告には本件建物を賃貸しないこととした。
(八) 邑子は、同月二五日、藤越不動産の事務所において、藤枝及び原告(田村)に対し、本件建物を原告に賃貸することはできない旨を告げて、本件交付金(金二〇万円)及び本件賃貸借申込書等を返還しようとしたが、田村は、右申込書等についてはこれを受領したものの、本件交付金は受領しなかった。
邑子は、その後、藤枝から電話で夜に田村が前記領収書をもって本件交付金を受取りに行く旨の連絡を受けていたにもかかわらず、田村から連絡がないことから、同日午後七時ころ、同人方に電話を掛けたが、田村から「今日弁護士会でお宅からもらった領収書を見てもらったところ、契約は成立していると言われた。お宅の店舗を押さえて使えなくしてやる。」などと言われたため、前記領収書の記載を確認するために同人方を訪問し、田村に対し領収書の原本を見せるよう求めたが、同人はこれを拒否した。
その際、田村及び純子は、邑子に対し、被告が希望するとおり、純子の実父が保証人となることについて同人の了承を得たと伝えたが、邑子が原告に本件建物を賃貸することを承諾することはなかった。
また、邑子は田村に対し、持参していた本件交付金を返還しようとしたが、同人はその受領を拒否した。
(九) 邑子は、翌二六日午前中、藤枝からの電話連絡を受けたことから、藤越不動産の事務所に行き、同所において、再度、藤枝、田村及び純子と話合いをもったものの、折合いがつかず、その際にも、原告(田村)に本件交付金を返還しようとしたが、田村がその受領を拒否したため、藤枝に右金員を預けて帰宅した。
(一〇) 被告は、同月三一日、原告に対し、内容証明郵便をもって、藤越不動産に預けた本件交付金(金二〇万円)を一週間以内に受領するよう催告するとともに、右期間内に受領しない場合は供託する旨通知し、同通知は翌日原告に送達された。
被告は、同年四月八日、藤枝に確認したところ、同人において本件交付金を預かっているとのことであったことから、同人から右金員の返還を受け、これを東京法務局に供託した。
2 以上の事実を総合すると、右認定にかかる邑子の言動等をもって、被告(その代理人である邑子)が原告に対し、原告と本件建物の賃貸借契約を締結することを確定的に承諾したものと認めることはできず、他に原告と被告との間に本件建物の賃貸借契約が確定的に成立したものと認めるに足りる証拠はない(なお、原告は、本件交付金は手付金の趣旨で授受されたものであるから、本件賃貸借契約は成立しているものと認められるべきであると主張するが、右認定事実に照らすと、本件交付金は被告の希望により本件建物の賃借申込証拠金の趣旨で交付されたものと認めるのが相当であるから、本件交付金が授受された事実をもって、本件建物について賃貸借契約が成立したものと認めることはできない。)。
また、被告が藤越不動産(藤枝)を通じて原告から本件建物の賃借の申込みを受けた平成一一年三月一八日から被告が原告に本件建物を賃貸することはできない旨を告げた同月二五日までの間に、被告側においては、賃借人である原告の保証人が誰であるかは原告と賃貸借契約を締結する上で特に重要であると考えていたにもかかわらず、保証人について被告と原告らとの間に合意が成立しなかったこと(原告が被告に対し被告の希望する者を保証人とする旨回答したのは、被告が原告に対し本件建物を賃貸することができない旨を告げた後のことである。)、賃貸借契約(本契約)の締結日を何時するか、公正証書の作成日を何時とするか、本件建物の引渡日を何時とするか等、本件広告に記載された賃貸条件以外の賃貸条件等については、被告と原告との間に何らの合意が成立していなかったことも、右認定判断を支える事実といえる(なお、右認定に反する甲第一四号証及び証人藤枝の証言は、曖昧かつ前後矛盾する部分があるほか、乙第五号証、証人邑子の証言に照らし、採用することができない。)。
さらに、甲第八号証における邑子の発言中には、原告と被告との間に本件建物について賃貸借契約が成立していることを認める趣旨の部分があるが、乙第五号証及び証人邑子の証言のほか、同号証及び甲第七号証における邑子の全体的な発言内容及びその状況等に照らすと、右発言部分をもって、邑子が原告との契約は有効に成立したものと認識していたとまでは認めることができない。
二 争点2(被告の契約締結上の過失の有無)について
前記認定事実によれば、原告は被告に対し本件建物について賃借申込みをするとともに、本件交付金を交付して本件建物の賃貸借契約の締結交渉を始めたが、その後、被告が原告に対し本件建物を賃貸できない旨を告げるまでの間に、原告が契約締結のために行ったことは、被告の求めに応じて本件賃貸借申込書を提出し、その後、被告が藤枝を通じて原告の申出にかかる保証人では契約を締結することはできないと伝えたことから、被告の意向に従い、藤枝を介して保証人を誰とするかについて交渉・調整等を行ったのみであって、その交渉期間もわずか七日間程度であること、原告と被告との間において、本件建物の賃貸条件等について直接の確認・話合い等が行われたことはなく、本件広告に記載された賃貸条件等以外に、本件建物の賃貸条件等に関する具体的な合意が形成されることはなかったこと、しかも、その間に、被告(その代理人である邑子)が原告に本件建物の賃貸借契約が確実に成立するものとの期待を生じさせるような言動等をとったこともなかったことが認められ、これらの事実からすると、原告と被告との間において、本件建物の賃貸借契約に関する交渉が契約締結上の準備段階にまで至っていたものと認めることはできないから、原告において被告との契約が確実に成立するであろうとの期待を抱いていたとしても、被告が原告と契約を締結しなかったことが信義則に反するものとまではいうことができない(なお、被告が原告と契約を締結しないこととしたのは、原告及び藤越不動産〔藤枝〕の交渉態度等から、原告と契約した場合には、賃貸借契約を円満に継続するために必要な信頼関係が維持できるかどうかについて不安があると考えたこと等によるものと認められるから、被告が原告との契約締結を拒否した理由に違法不当な点があるともいえない。)。
したがって、被告に契約締結上の過失があるとする原告の主張は、その前提を欠くものというべきであるから、これを採用することができない。
第四結論
以上の次第であり、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 村田渉)
物件目録
(一棟の建物の表示)
所在 東京都葛飾区亀有五丁目一八八番地一
構造 鉄骨造陸屋根四階建
床面積 一階 一五一・三九平方メートル
二階 一六一・三〇平方メートル
三階 一六一・三〇平方メートル
四階 一五五・六四平方メートル
(専有部分の建物の表示)
家屋番号 亀有五丁目一八八番一の五
種類 店舗共同住宅
構造 鉄骨造三階建
床面積 一階 一一三・四六平方メートル
二階 九七・七〇平方メートル
三階 九七・七〇平方メートル
のうち、一階一〇二号室(三〇・一五平方メートル)