東京地方裁判所 平成11年(ワ)15789号 判決
原告 A
右訴訟代理人弁護士 根本伯眞
被告 株式会社富士銀行
右代表者代表取締役 山本恵朗
右訴訟代理人弁護士 海老原元彦
同 若林茂雄
同 浅井弘章
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
一 被告は、原告に対し、一五八万五一二八円の預金債権を有することを確認する。
二 訴訟費用は、被告の負担とする。
第二事案の概要
一 本件は、被告に預金を有していた原告が、駐車中の自家用自動車の車内に置いていた預金通帳を盗まれ、翌日、被告の二つの支店において預金の払戻しがされたが、右各払戻しを行った被告の窓口担当者に過失があったことから効力がないとして、被告に対し、預金債権の確認を求めた事案である。
二 当事者間に争いがないか弁論の全趣旨により認められる事実
1 原告は、被告麹町支店との間で、預金の預入及び払戻し等の取引を行う総合口座取引を行い、預金口座を開設し(口座番号一五二八八九七、以下「本件預金口座」という。)、平成一一年一月七日当時、本件預金口座に預金残高一五七万〇七三〇円を有していた(以下「本件預金」という。)。
2 被告は、本件預金口座の通帳(以下「本件通帳」という。)を自家用自動車内に置いていたところ、平成一一年一月七日午後六時から同月八日午前〇時までの間に、何者かに本件通帳を盗まれた(弁論の全趣旨)。原告が取引印鑑として被告に届け出た印鑑(以下「本件届出印鑑」という。)は、現在も原告が所持している(甲四、弁論の全趣旨)。
3(一) 平成一一年一月八日午前九時二〇分ころ、氏名不詳者が被告西荻窪支店に本件通帳及び原告の「A」名の印影がある払戻請求書を持参し、本件預金のうち八八万円の払戻請求を行った(以下「本件第一払戻し」という。)。
被告西荻窪支店において払戻しを担当したB(以下「B」という。)は、払戻請求書に押捺された印影と本件通帳に押捺された本件届出印鑑の印影を重ね合わせ照合した結果、二つの印影は同一の印章により押捺された印影であると判断し、右氏名不詳者に対し、八八万円の払戻しを行った(乙一の1、六)。
(二) 右同日午前九時三八分ころ、氏名不詳者が被告荻窪支店に本件通帳及び原告の「A」名の印影がある払戻請求書を持参し、本件預金のうち六九万円の払戻請求を行った(以下「本件第二払戻し」といい、本件第一払戻しと本件第二払戻しを合わせて「本件各払戻し」、それぞれの払戻請求書を合わせて「本件各払戻請求書」ということがある。)。
被告荻窪支店において本件第二払戻しを担当したC(以下「C」という。)は、本件第二払戻請求書に押捺された印影と本件通帳に押捺された本件届出印鑑の印影を重ね合わせ照合した結果、二つの印影は同一の印章により押捺された印影であると判断し、右氏名不詳者に対し、六九万円の払戻しを行った(乙一の2、五、証人C)。
三 争点
本件各払戻しに過失があるか。
四 争点に対する当事者の主張
1 被告
(一) 本件預金の各払戻手続を行ったのは三十代の男性で、本件通帳を持参するとともに、A名の印鑑を押捺し、被告のコンピューターに入力されている原告の氏名及び住所と同一の住所、氏名が記入された被告所定の払戻請求書を窓口に提出しており、また、本件預金は、定期預金の期限前解約でもなく、払戻金額も銀行窓口における通常の取引に比べ不自然に多額ということはない。さらに、右男性には、窓口における照合作業等の間に不審な行動は見られなかったし、服装等も特に異常は認められなかった。
(二) 本件各払戻請求書の印影と、本件届出印鑑として本件通帳に貼付されている印影は、同一の印章によって顕出された印影である。仮に、本件各払戻請求書に押捺された印影が偽造印によって顕出されたものであるとしても、本件各払戻請求書の印影と本件届出印鑑の印影は、印影の直径、各文字の大きさ、配置、余白とバランスの各点において酷似しているし、又、全体の印象としても、各文字の字体が丸みを帯びている点で一致しており、細部の相違は同一印章による場合であっても朱肉の付き具合や印章の押し方等によって生ずるものと判断される程度のものである。
(三) 本件第一払戻しを担当したBは、約二年半の間、本件第二払戻しを担当したCは、約五年半の間、それぞれ窓口業務として印鑑照合事務に携わり、その業務に習熟しており、過去に印鑑照合事務において事故にあったことはない。BとCは、被告の一般的取扱に従い、本件各払戻請求書の印影と本件通帳の印影を重ね合わせて照合したが、それでも二つの印影は酷似していたため、肉眼をもってその相違を発見し得なかったものである。
(四) 原告と被告は、総合口座取引規定(以下「本件取引規定」という。)に従う旨の合意をしたが、右規定には、「この取引において払戻請求書、諸届その他の書類に使用された印影を届出の印鑑と相当の注意をもって照合し、相違ないものと認めて取扱いましたうえは、それらの書類につき偽造、変造その他の事故があってもそのために生じた損害については、当行は責任を負いません。」と定められている。BとCは、本件各払戻しに際し、銀行の印鑑照合事務を担当するものとして社会通念上一般に期待される業務上の相当の注意をもって印影の重ね合わせ照合を行い、その結果、二つの印影は同一の印章によるものと判断して、本件各払戻しを行った。本件各払戻請求書の印影と本件届出印鑑との間に何らかの相違があったとしても、両方の印影には、相当の注意をもってしても、別異の印章による印影であることを発見し得るような相違があるとは言えず、本件各払戻しに関してB及びCには何らの過失もない。
したがって、本件各払戻しは、本件取引規定又は民法四七八条により有効な弁済となる。
(五) 本件預金の平成一一年八月一九日現在の残高は、一一三二円である。
2 原告
(一) 本件各払戻請求書に押捺された原告名の印影は、本件届出印鑑の印影と肉眼でも一見して明らかに異なる相違があり、この相違は、同一印章の使用状況の変化等によって生じうる相違の範囲を超えるものであり、これを同一印章により押捺された印影と判断した被告の各担当者の払戻行為には過失がある。
(二) 本件預金の残高は、一万五一二八円であることから、原告は、被告に対し、右残高に被告によって払戻された一五七万円を加えた一五八万五一二八円の預金債権を有することの確認を求める。
第三争点に対する判断(認定に供した証拠は、認定の後の括弧内に掲示した。)
一 被告西荻窪支店のBは、約二年半の間、被告荻窪支店のCは、約五年半の間、それぞれ被告の印鑑照合事務に携わっており、その業務に習熟しており、過去に印鑑照合事務において事故にあったことはない。前記第二の二3(一)及び(二)に記載のとおりBとCは、被告における預金の払戻しに関する一般的取扱に従い、氏名不詳者から、預金口座の名義人の住所、氏名、口座番号及び払戻希望金額を記入し、所定の位置に本件届出印鑑を押捺した本件各払戻請求書の提出を受け、口座番号等の確認の後、被告のコンピューターに登録されている住所や氏名と本件各払戻請求書の記載が一致していることを確認した後、本件通帳に貼付されている本件届出印鑑の印影の上に本件各払戻請求書に押捺されている印影を重ねて、払戻請求書を何度もめくったり重ねたりして、二つの印影の残像が一致するかどうかを確認する、いわゆる重ね合わせ照合と呼ばれる肉眼による印鑑照合を行い、二つの印影が同一であると判断し、本件各払戻しを行った(乙五、六、証人C)。
二 印鑑照合の方法としては、記憶に基づく照合、平面照合、折り重ねによる照合、重ね合わせによる照合、及び科学的方法による照合(顕微鏡や拡大鏡等を使用して照合する方法)があり、後者になるほど慎重な照合方法であることは一般に知られていることであるが、銀行の印鑑照合担当者が、払戻請求書に使用された印影と届出印鑑の印影を照合するにあたっては、特段の事情がない限り、折り重ねによる照合や拡大鏡等による照合をするまでの必要はなく、肉眼によるいわゆる平面照合の方法をもってすれば足りると解される。この場合、担当者は、銀行の印鑑照合担当者として社会通念上一般に期待される業務上の相当の注意をもって照合を行うことが要求され、印鑑照合事務に習熟している担当者が、通常の事務処理の過程で相当の注意を払って照合すれば肉眼で二つの印影は別異の印章によることが発見できるのに、それを看過した場合には、担当者には過失があり、その払戻しは無効というべきである(最判昭四六・六・一〇民集二五巻四号四九二頁)。
三 1 本件各払戻しの請求をした者は、原告と同じ男性であること、払戻請求書に原告の氏名とともに本件通帳に記載されていない原告の住所(右住所は、本件預金口座を開設した当時のものとは異なるものである。)をも正確に記載していること、及び窓口における照合作業等の間、キョロキョロ付近を見渡すなどの不審な行動をとったりしたことがなかったことから、本件各払戻行為に不信を抱かせるような特段の事情はなかったものと認められる(乙一の1、2、二、五、六、証人C)。したがって、右のような状況においてBやCが本件各払戻しについて、重ね合わせによる照合をもって確認したことには過失はない。
2 本件各払戻請求書に押捺された印影と本件届出印鑑の印影を比較対照した場合、二つの印影は、直径が同一であり、また、「○」、「△」、「□」の各文字の大きさはいずれも同一である。さらに、各文字の配置、余白と文字のバランスも一致しているし、各文字の字体は、全体として丸みを帯びている点においても一致している。しかし、右印影をさらに詳細に比較対照すると、△の文字の旁の部分「マーク<省略>」の三本ある縦線部分について、本件届出印鑑の印影では相互にほぼ平行に上下に伸びているのに対し、本件各払戻請求書の印影では、三本ある縦線の左側の線が他の二本の線と平行ではなく、右に傾いた形になっているように見える点で相違があり(乙一の1、2、二)、右のような印影の相違は、同一印章によりながら、朱肉の付き具合や押捺の仕方等によって生ずる相違と認めることは難しく、原告が現在も本件届出印鑑を所持していることが認められることを併せて考慮すれば、本件各払戻請求書の印影は、偽造の印章により押捺されたものと推認される。
3 しかし、右に指摘した△の文字の旁の部分の相違は、確かに二つの印影が相違していることを前提に詳細に検討するのであれば格別、これを一見してその違いが明らかとなるような相違とまでは言えず、印鑑照合事務に習熟しているBやCは、右のような相違について重ね合わせによる照合を行うなど相当の注意を払って照合したにもかかわらず、肉眼では二つの印影は別異の印章によることが発見できなかったものと認められる。
4 そうすると、Bによる本件第一払戻手続とCによる本件第二払戻手続におけるそれぞれの印鑑照合事務には過失がなく、本件各払戻しが原告以外の者にされ、これにより原告が損害を被ったとしても、被告は、本件取引規定によりその責を負わないものと認められる。
四 なお、原告は、本件預金の残高は一万五一二八円であると主張する。右残高が、平成一一年八月一九日現在一一三二円の限度で存在することは当事者間において争いのないところ、本件全証拠によっても、右残高が争いのない金額(一一三二円)を超えて存在することを認めるに足りない。
五 以上によれば、原告の本件請求は理由がないから主文のとおり判決する。
(裁判官 城内和昭)