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東京地方裁判所 平成11年(ワ)20802号 判決 2005年11月22日

原告

甲野太郎

原告

乙川花子

原告

丙山春子

原告ら訴訟代理人弁護士

弘中惇一郎

飯田正剛

被告

さいたま市

同代表者市長

相川宗一

同訴訟代理人弁護士

加藤済仁

桑原博道

主文

1  被告は,原告甲野太郎に対し金1100万円,原告乙川花子及び同丙山春子に対し各金550万円並びにこれらに対する平成9年12月14日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は,これを5分し,その2を原告らの負担とし,その余を被告の負担とする。

4  この判決は,第1項に限り仮に執行することができる。ただし,被告が原告甲野太郎のため920万円,原告乙川花子及び同丙山春子のため各460万円の担保を供するときは,その各仮執行を免れることができる。

事実及び理由

第1  請求

被告は,原告甲野太郎に対し1650万円,同乙川花子及び同丙山春子に対して各1100万円並びにこれらに対する平成9年12月14日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2  事案の概要

本件は,原告甲野太郎の妻で,その余の原告らの母である故甲野花江が,右視床出血による左不全片麻痺を来して,平成9年11月22日から被告の設置する浦和市立病院(現在は「さいたま市立病院」。以下「被告病院」という。)に入院して治療中,平成9年12月14日午後9時11分に死亡したことにつき,原告らが,被告病院の医師らには故甲野花江の呼吸不全に対する救命措置を怠った過失があるとして,被告に対し,不法行為における使用者責任又は債務不履行に基づき,慰謝料及び弁護士費用の損害賠償を請求した事案である。

1  前提となる事実(証拠を掲記した以外の事実は,当事者間に争いがないか,弁論の全趣旨によって認められる。)

(1)  当事者等

ア 故甲野花江は,昭和4年*月*日に出生し,平成9年12月14日,被告病院において死亡した(死亡当時68歳)。

イ 原告甲野太郎は故甲野花江の夫であり,原告乙川花子は故甲野花江の長女,原告丙山春子は故甲野花江の二女である。

ウ 被告は,被告病院を設置している地方公共団体である。

(2)  被告病院への入院

ア 故甲野花江は,平成7年11月から血液透析のため,望星病院外来に慢性腎不全で通院していた(昭和58年12月から他の病院で血液透析を行っていた。)。故甲野花江には,被告病院に入院する前の既往歴として,甲状腺機能低下症,高血圧症,脳梗塞などがあった。(乙1,乙2の1,2,乙11)

イ 平成9年11月22日,故甲野花江は,朝起床した際,左半身が動かなかったことから,救急車で望星病院に搬送された。故甲野花江は,同日起床時からの左上下肢の筋力低下及び構語障害を訴えたことから,同病院医師は,故甲野花江を精査目的で被告病院に救急車で搬送した。(乙1,乙2の1,2)

ウ 被告病院医師が故甲野花江を診察したところ,意識は清明で,右上下肢には特に所見はなく,左上肢は,空中挙上できるものの不安定で,左下肢は,膝立てができるものの空中保持ができないという状態であった。また,CT検査を行ったところ,右視床に出血が認められたことから,右視床出血による左不全片麻痺の診断で被告病院神経内科に緊急入院となった。(乙1,乙2の1,2)

(3)  診療経過

別紙記載のとおり。(甲4から9,乙1,乙2の1,2,乙3から乙10,乙12,乙13,証人丁木A夫,戊谷B子,同己田C夫,原告乙川花子)

(4)  故甲野花江の死亡

ア 平成9年12月14日午後8時15分ころ,戊谷B子看護師(以下「戊谷看護師」という。)が他の患者の巡回からナース・ステーションに戻ったところ,ナース・ステーションに設置され,故甲野花江の呼吸状態を管理していた医用テレメータ(患者監視モニター。この装置は,動脈血酸素飽和度(SaO2)がセットした一定値を下回れば,アラームが鳴って異常を知らせる機能を備えており,アラームは,異常が続いている限り鳴り続ける。)のアラーム音を聞いた。そこで,心電図モニターを見ると,故甲野花江の心拍数が30から40回/分と低下していたので,すぐに故甲野花江の病室に赴いたところ,故甲野花江の意識レベルはⅢ−300となっており,自発呼吸はなく,血圧測定もできなかった。そこで,戊谷看護師は,すぐにドクターコールするとともに,心臓マッサージを行った。間もなく当直医が駆けつけ,アンビューバッグによる人工呼吸を開始し,あわせて気管内挿管の準備を開始した。(乙5,証人戊谷B子)

イ 動脈血酸素飽和度については,正常値が95パーセント以上であり,85パーセントを下回るような場合には酸素投与などの治療が必要とされていた。酸素飽和度の低下が長く続けば,脳に不可逆的なダメージを与えたり,心肺停止を引き起こす可能性がある。(甲4,証人丁木A夫)

ウ 同日午後8時30分ころ,丁木医師が来院し,故甲野花江の処置に当たった。故甲野花江の心拍数は,1分当たり20回から零に低下し,丁木医師は,故甲野花江に対し,気管内挿管をして,レスピレーターを装着し,ボスミンを心腔内に注射するなどしたが,故甲野花江の心拍は回復せず,同日午後9時11分,死亡宣告がなされた。

エ 丁木医師は,故甲野花江の死亡直後,その診療録に,死因に関して「①脳幹部梗塞・出血,髄膜脳炎以外の原因による呼吸中枢の障害,②経鼻カヌラでも阻止できない上気道の狭窄閉塞が考えられる。」と記載した。(乙2の1)

(5)  故甲野花江の解剖等の実施

ア 平成9年12月15日午前9時40分から,被告病院において,故甲野花江の死因を解明するため,同女の遺体について剖検がなされ,これに基づき病理解剖記録(乙3)が作成された。(乙3,証人己田C夫)

イ 同月24日,被告病院において,最初のブレイン・カッティングが行われた(なお,「ブレイン・カッティング」とは,一般臓器における「切り出し」に相当する業務であり,「切り出し」とは摘出された臓器をホルマリン液で固定した後,観察のため細かく切り顕微鏡標本を作製する作業をいう。)。

ウ 平成10年8月5日,原告乙川花子は,故甲野花江の死亡に関し,浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所)に証拠保全の申立てを行い,同年9月24日,同地方裁判所裁判官は,上記申立てを相当と認め,被告病院において証拠保全を実施した。

エ 平成11年3月4日,被告病院において故甲野花江の脳灌流動脈系及び脳幹部(延髄,橋)等の追加切り出しが行われ,これに基づき病理解剖記録(乙4)が作成された。(乙4,証人己田C夫)

2  争点

(1)  故甲野花江の死因

(原告らの主張)

ア 故甲野花江は,被告病院に入院後に呼吸不全の症状が次第に明らかとなり,平成9年12月2日には酸素飽和度が低下して気管内挿管の処置をして状態が改善し,死亡前日の同月13日にも酸素飽和度が低下してナザール・エアウェイを挿入することにより改善するなどのことを繰り返していたのであって,このような場合に,同月14日の呼吸不全についても,それまでの症状の経過と同様の原因を考えるのが自然かつ合理的である。

イ 実際,解剖の結果でも,故甲野花江の肺が正常の2倍程度に重量が増加し,高度の肺うっ血,肺胞の液体貯留が認められたのであり,このような肺の症状は,持続した呼吸不全により惹起したものと考えるべきであり,死亡直前に生じるようなものではない。

ウ 本件における水谷俊雄鑑定人(以下「水谷鑑定人」という。)は,想定される直接死因として,肺うっ血・肺水腫のほかに,成人呼吸促進症候群,痰による気道閉塞を挙げているが,同鑑定人の意見によれば,成人呼吸促進症候群の可能性は低く,痰の気道閉塞も積極的な病理所見はなかったものであるから,肺うっ血・肺水腫が最も可能性が高いことになる。

エ また,水谷鑑定人は,脳幹部には新しい梗塞を疑わせる病理形態学的所見は認められず,直接死因を脳幹部梗塞とすることはできないと鑑定しており,故甲野花江の死因は,後記被告の主張のような脳幹部梗塞に基づくものではない。

オ なお,故甲野花江の死因が上記ウの3つのいずれであっても,そのベースは持続した呼吸不全にあるのであるから,原告らの主張する後記過失及び因果関係については変わりはない。

(被告の主張)

ア 故甲野花江の死因は,呼吸循環中枢が存在する延髄を含む脳幹部の虚血性機能不全によるものであり,上記虚血性機能不全は脳梗塞に由来する。

すなわち,故甲野花江の脳動脈は,中等度以上の動脈硬化が認められているが,特に左鎖骨下動脈分岐部に潰瘍や石灰沈着を伴う粥状硬化巣(アテローム)が認められている。このように,潰瘍や石灰沈着を伴う粥状硬化巣は,ある程度進展したものであり,進展した粥状硬化巣の表面には凹凸があり,そのために血栓が形成されやすい。他方,故甲野花江の脳幹部(橋,延髄)には,橋下部孤束路(両側,左右差があり)における海綿状態及び孤束核の神経細胞における虚血性変化,橋左腹側部における新鮮血栓と鬱血・出血,延髄上部の網様体における組織の粗鬆化と腹側部の著明な浮腫等があったものであり,脳幹部は虚血の状態にあったといえる。

これらを総合すると,左鎖骨下動脈分岐部の粥状硬化巣に形成された血栓がはがれて,椎骨,脳底動脈に飛び(脳塞栓),呼吸を司る脳幹部に虚血性機能不全をもたらしたものと考えられる。

イ 平成9年12月14日の急変時において,故甲野花江には,ナザール・エアウェイが挿入されており,舌根沈下あるいは舌根沈下による気道閉塞は起きない。

(2)  被告病院の過失の有無

(原告らの主張)

被告病院(医師・看護師)には,平成9年12月14日夜,故甲野花江が呼吸不全に陥った際,同人に対する酸素投与等の措置が遅れたことについて,以下のアからエのいずれかの過失が認められる。

ア 被告病院は,故甲野花江に装着していた医用テレメータについて,異常時にアラームが鳴るように設定していなかった。

イ 仮に被告病院がアラームが鳴るような措置を採っていた場合であっても,被告病院はアラームが鳴っていることに対応して,速やかに故甲野花江に対して救命措置を採らなかった。

ウ 仮に被告病院がアラームが鳴るような措置を採っていた場合であっても,被告病院はアラームが鳴っていることに対応して,アラームが直ちに聞こえるような「ナースステーション」を設置する措置を採っていなかった。

エ 被告病院はアラームが鳴っていることに対応して,速やかに故甲野花江に対する救命措置を採ることのできるような医療看護態勢を採らなかった。

(被告の主張)

ア 故甲野花江の死因は,前記(1)の被告の主張のとおり,呼吸循環中枢が存在する延髄を含む脳幹部の虚血性機能不全によるものであり,故甲野花江の死亡はアラームの設定等の処置により呼吸管理に万全を期していても避けることはできなかった。

イ 被告病院には,故甲野花江の呼吸管理に過失はない。

(ア) 被告病院は,故甲野花江のSaO2(動脈血酸素飽和度表示)については,下限を90パーセントとして,異常時にはアラームが鳴るように設定して医用テレメータにより監視していた。平成9年12月14日午後7時45分ころには,モニターを集中管理しているナースステーションには,2人の看護師が入院患者の処置のために各部屋を巡回している時間帯で,誰もいなかったことから,アラームに気付かなかったものである。

(イ) 被告病院の体制は,本件当時においても,関係法規に照らして最も充実したものとなっている。その体制のうえに,モニターやアラームなどを付け加えて,できるだけ情報を拾えるように努力しているのであって,それが違法であるとか,医療水準を満たしていないなどということはできない。

(ウ) アラーム音に100パーセントの確率で対応するためには,アラーム音が鳴れば,100パーセントの確率で看護師が聴取できるようにする必要があるが,被告病院ではナースステーションでモニターを集中管理しており,かなりの程度までは看護師のうちの誰かが聴取できるので,考え得る方法の中で最も高い確率で対応が可能となっている。

(エ) 関係法規に照らして最も充実した体制を採った場合であっても,病棟患者のための重要な看護業務のため,看護師がナースステーションに100パーセントの確率でいることはできない(特に患者が就寝前の時間帯)。実際にも,アラームをつけているからといって,その対応をするための看護師をナースステーションに常駐させている医療施設は存在しない。

(3)  過失と死亡との因果関係(延命可能性)

(原告らの主張)

本件において,故甲野花江が死亡した平成9年12月14日の日中の状況やそれ以前の臨床経過,故甲野花江には脳幹部梗塞がなかったことなどからして,被告病院(医師・看護師)において,上記過失がなければ,故甲野花江は救命できたのであり,水谷鑑定人によれば,「相当期間生命を維持する可能性があった」ものである。

(被告の主張)

ア 前記(1)の被告の主張のとおり,故甲野花江の死因は脳幹部梗塞であり,その予後は厳しい。

イ 故甲野花江の死因が脳幹部梗塞であることに否定的な水谷鑑定人も,気管挿管などの措置により,救命される可能性を認めるのみであるから,故甲野花江に対して救命挿管などの措置を行えば,高度の蓋然性をもって,あるいは相当程度の可能性をもって,同女の死亡を避けることができたとはいえない。

ウ しかも,故甲野花江につき,救命後において,すべての医療措置が奏効したとしても,相当期間生命を維持する可能性があるのみであって,複数のリスクファクターを考えると,延命可能性は低い。

(4)  損害

(原告らの主張)

ア 故甲野花江に生じた精神的苦痛に対する慰謝料 2000万円

原告らは,法定相続分に従い,原告甲野太郎についてはその2分の1である1000万円,原告乙川花子及び同丙山春子についてはその4分の1である500万円ずつをそれぞれ相続した。

なお,水谷鑑定人は,故甲野花江の複数のリスクファクターからして,予後の予測は不可能とするが,原告らが損害の内容として主張しているのは,平成9年12月14日の医療過誤による急死によって生じた精神的苦痛であり,故甲野花江の完全な回復や長期間の延命を前提とした損害ではない。逸失利益や介護費用と異なり,死亡慰謝料については,余命の程度により差をつける理由はないから,本件で予後の予測の不可能なことを考慮する必要はない。

イ 原告ら固有の慰謝料 各500万円

原告らは,故甲野花江の死亡により,著しい精神的損害を被った。原告らの固有の精神的損害を金銭的に評価すると,それぞれ500万円を下らない。

ウ 弁護士費用 350万円

被告は,原告らに対して,任意に本件賠償義務を履行しないので,原告らは,原告ら訴訟代理人に対して,本件訴訟の提起,追行を委任した。その委任に伴う弁護士費用のうち,それぞれ上記ア及びイの合計額の1割に相当する金員を相当因果関係の範囲に該当する損害として請求する。

(ア) 原告甲野太郎 150万円

(イ) 原告乙川花子 100万円

(ウ) 原告丙山春子 100万円

(被告の主張)

ア 原告らの主張は争う。

イ 被告の過失と死亡との因果関係が肯定される場合でも,その場合の生命予後は慰謝料を含む損害額算定の上で重要な要素となるものと解される。

第3  当裁判所の判断

1  争点(1)について

(1)  前記第2の1(3)で認定した診療経過によれば,平成9年12月2日,故甲野花江の酸素飽和度が低下したことから,気管内挿管を行い,酸素飽和度はその後90パーセント台後半にまで持ち直していること,死亡前日である同月13日においても酸素飽和度が低下したものの,ナザール・エアウェイの挿入により酸素飽和度が改善していたことが認められる。以上の診療経過に加え,水谷鑑定人は,平成16年10月28日付け鑑定書及び平成17年4月22日付け補充鑑定書(以下,両鑑定書の内容をあわせて「水谷鑑定」という。)において,故甲野花江につき想定される直接死因として,肺うっ血・肺水腫のほかに,成人呼吸促進症候群,痰による気道閉塞が考えられるが,成人呼吸促進症候群の可能性は低く,痰の気道閉塞も積極的な病理所見はないこと,剖検所見からみると,脳幹部を含め脳には新しい出血や梗塞は見当たらず,したがって,気道が確保されて呼吸状態が改善されれば救命された可能性があること,実際,解剖の結果でも,故甲野花江の肺が正常の2倍程度に重量が増加し,高度の肺うっ血,肺胞の液体貯留が認められ,このような肺の症状は,持続した呼吸不全により惹起したものと考えるべきであり,死亡直前に生じるようなものではないことに照らしてかんがみると,その死因は,肺うっ血・肺水腫が最も可能性が高いものと認められるとの鑑定意見を述べていることを考え合わせれば,故甲野花江の死亡当日である同月14日に見られた呼吸不全も不可逆的なものではなく,適切な呼吸管理を行っていれば酸素飽和度が改善され,死には至らなかったものと推認するのが相当である。

(2)  この点,被告は,故甲野花江の死因を脳梗塞に基づくものであると主張し,病理解剖記録(乙4)中にも,「14.延髄,上部:浮腫,高度。血管周囲にごく軽度に出血もみられる所がある。」という記載があるほか,神経病理学的診断として,下記のとおりの記載があり,これらの記載をした己田C夫医師(以下「己田医師」という。)は,これらの所見を踏まえて,故甲野花江の死因について,孤束核という核及び疑核という核とその近くが障害されており,呼吸運動系が障害されたのが死因であると考える旨述べている。

「1 脳塞栓症。左鎖骨下動脈分岐部に潰瘍形成を伴う粥状硬化巣。

a)脳梗塞,新旧,多発性。

イ)貧血性梗塞

① 新鮮;橋下部網様体

橋下部孤束路(両側,左右差あり)の海綿状態と核で神経細胞の疎血性変化を認める。

(*橋左腹側部で新鮮血栓と鬱血・出血をみる。)

延髄上部の網様体

組織の粗鬆化と腹側部に著明な浮腫

② 亜急性;橋網様体,左側。

③ 陳旧性;左被殻,橋中央部左側・網様体部

ロ)出血性梗塞

① 新鮮;右視床,広範。

② 陳旧性;左小脳扁桃

b)脳出血,陳旧性;右側頭葉(微小),橋中心丘」

(3)  しかしながら,水谷鑑定において,水谷鑑定人は,脳幹部には新しい梗塞を疑わせる病理形態学的所見は認められず,直接死因を脳幹部梗塞とすることはできないこと,一般に形態学的に認められる梗塞では,壊死巣とそれを取り巻く浮腫の領域,そして正常な領域をかなり明瞭に区別することができるが,故甲野花江の脳幹では浮腫性変化を呈している場所と正常な領域との境を見出すことができないこと,壊死性変化が認められない限り,微細海綿状態をもって梗塞とすることはできないことを指摘し,脳幹部の虚血性機能不全を否定する意見を述べている。

水谷鑑定人について,その中立性や専門性について疑わせる事情は特に存在しないことに加えて,故甲野花江の死亡前日である平成9年12月13日においても,丁木医師はMRIの結果として脳幹部には問題ある所見は見当たらなかった旨述べていること,「神経内科診療録」(乙2の1)には,「死因に関しては,①脳幹部梗塞,出血,髄膜脳炎以外の原因による呼吸中枢の障害,②経鼻カヌラでも阻止できない上気道の狭窄,閉塞が考えられる。」と記載されていることなどからすれば,証人己田の病理解剖意見及び証言をもってしては,直ちには故甲野花江の死因が脳梗塞に由来する脳幹部の虚血性機能不全であると断定することはできないというべきであって,被告の上記主張は採用できない。

2  争点(2)について

(1)  別紙の診療経過キ(エ)の事実(被告病院においては,遅くとも平成9年12月2日午後4時40分ころまでに,故甲野花江にアラーム機器を装着し,血圧,酸素飽和度及び脈拍が一定基準に達した場合にはアラームが鳴るように設定したこと)について,原告らは,被告病院はアラームが鳴るような措置を採っていなかったと主張する。

しかしながら,上記主張に沿う原告乙川花子の陳述書の記載や本人尋問の結果は,丁木医師がそのような発言をしたことのみを根拠とするものであるところ,丁木医師は,証人尋問の中でアラームが鳴るようにセットしていた旨証言していることや,証拠(乙2の1,乙5,乙10)によれば,平成9年12月14日午後8時16分のアラーム機器の出力記録には,「ALARM: ASYSTOLE」との記載があり,この記載が設定時間(3秒から10秒以上)の心停止があったことからアラームが鳴ったことを意味していること,同日午後7時45分及び午後8時15分の出力記録には,アラームが鳴った旨の記載がないが,アラームが鳴った場合であっても,アラーム記録をしないよう設定することが可能であることが認められることからすれば,アラームが鳴っていたとの戊谷看護師の陳述書(乙10)及び証人尋問の結果を覆すに足るものではなく,他に原告らの主張する事実を認めるに足る証拠はない。

(2) そして,前記前提となる事実で認定したように,故甲野花江については無呼吸の状態になることがたびたび見られたり,酸素飽和度が低下するなど呼吸状態が不安定になることがあったこと,死亡前日にも酸素飽和度が75パーセントから80パーセントの状態になることがあったことからすれば,被告病院としては,故甲野花江の呼吸状態が再び悪化した場合に備えて故甲野花江に対する監視体制を強化し,酸素飽和度の低下があった場合には直ちに気管内挿管等の措置を採ることができるような体制を施すべき注意義務があったというべきである。

しかるに,被告病院は上記義務を怠り,ナース・ステーションを不在にすることにより酸素飽和度が73パーセントにまで低下したにもかかわらず,鳴っていたアラームに気付くこともなく30分間も放置するという結果を招いたものであるから,被告病院には上記注意義務の懈怠があったというべきである。

(3)  被告は,本件死亡当時においても被告病院の体制は関係法規に照らして最も充実したものとなっており,被告病院には過失は存在しない旨主張する。

なるほど,証拠(乙14ないし20)によれば,故甲野花江の死亡当時の被告病院の病床数は501床であって,この病床数を前提とする入院患者に対する医療法上置くことが義務づけられている看護師の員数は126名であること,外来患者の平均が1日1500名であったことから同じく置くことが義務づけられている看護師の員数は50名であること,これに対し,被告病院が置いていた看護職員数の合計が353名(臨時採用を加えると370名)であったこと,平成13年10月の厚生労働省の調査においても,全国の国立病院・療養所188施設のうち夜勤の看護師を2名しか置いていない病棟が83.8パーセントであって,3名以上の体制を採っていたのは15.9パーセントであったことなどが認められる。

しかしながら,法令の基準はいわば最低基準を示すものであり,これを満たしていなければ過失を肯認する事情に働くとはいえても,法令の基準を満たしているからといって当然に過失を否定するということにはならない。また,たとえ故甲野花江の死亡当時,3名以上の夜間勤務の看護師を置いている国立病院が少数であったとしても,そのことはその状態を改善する理由にはなりえてもアラームの警報音を30分以上も気付かなかったという本件事故当時における被告病院の過失を否定する理由にはならない(乙第20号証の新聞記事も「国立病院の夜間看護体制の薄さが浮かび上がった」として,現状を憂う趣旨の内容である。)のであって,被告の上記主張は理由がないというべきである。

3  争点(3)(因果関係・延命可能性)について

(1)  被告は,被告病院が気管挿管などの措置を行っても,高度の蓋然性をもって,あるいは,相当程度の可能性をもって,故甲野花江の死亡結果を避けることができたとはいえないと主張する。

しかしながら,水谷鑑定によれば,「救命後,気道の確保を含む呼吸管理,呼吸器や尿路系の感染防止,血圧の管理,血液透析,貧血の是正などが適切に行われれば,意識レベルが多少改善され,生命を維持することができたと考える」と指摘しており,これを覆すに足る証拠はないから,被告の主張には理由がないというべきである。

(2)  また,被告は,故甲野花江の延命可能性は低いと主張し,確かに水谷鑑定は,「既知の合併症の増悪あるいは新たな合併症の併発などによって状態が急変する可能性も大きく,予後を予測するのは不可能である。」と指摘しているが,その趣旨は,生命予後を予測するのが困難であるというにとどまり,延命可能性が低いと断定しているものではなく,他に故甲野花江の延命可能性が低いと認定し得る証拠はないから,被告の上記主張も理由がないというべきである。

4  争点(4)(損害)について

(1)  故甲野花江の死亡当時の年齢,病歴,被告病院入院時の病状,死に至る経緯等の診療経過,その他本件に現れた一切の事情を考慮すると,故甲野花江の被った精神的損害に対する慰謝料は2000万円と認めるのが相当である。

そうすると,原告らは,上記慰謝料を法定相続分の割合に従い,原告甲野太郎についてはその2分の1である1000万円を,原告乙川花子及び同丙山春子についてはそれぞれ4分の1である500万円を相続したことになる。

(2)  また,故甲野花江の死亡により被った原告らの精神的損害に対する慰謝料については,前記事情を考慮すると,故甲野花江の慰謝料の相続以外個別に認めることはできないというべきである。

(3)  原告らが弁護士である原告ら訴訟代理人に対し本件訴訟の提起・追行を委任したことは本件記録上明らかであるところ,原告らの請求認容額,本件事案の内容,審理の経過等諸般の事情を考慮すると,被告病院の過失と相当因果関係のある弁護士費用相当の損害額は,原告甲野太郎につき100万円,原告乙川花子及び同丙山春子につき各50万円と認めるのが相当である。

第4  結論

以上によれば,原告らの請求は,不法行為(使用者責任)を理由として,原告甲野太郎については1100万円,原告乙川花子及び同丙山春子については各550万円並びにこれらに対する不法行為時である平成9年12月14日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから,これを認容し,その余の請求は理由がないからこれを棄却することとし,仮執行については免脱宣言を付することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・柴田寛之,裁判官・飯塚圭一,裁判官・目黒大輔)

別紙<省略>

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