東京地方裁判所 平成11年(ワ)24039号 判決 2002年3月08日
原告
株式会社 由布紀コーポレーション
同代表者代表取締役
濱田義彦
同訴訟代理人弁護士
山嵜進
被告
有限会社 エナツ・ファインアート
同代表者代表取締役
江夏規男
同訴訟代理人弁護士
朝比奈秀一
主文
一 被告は、原告に対し、金二七〇〇万円及びこれに対する平成一一年一一月七日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は、被告の負担とする。
三 この判決は、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
主文と同旨
第二事案の概要
一 はじめに
本件は、売買の目的物である絵画が贋作であったことを理由として、買主である原告が、売主である被告に対し、売買契約は要素の錯誤により無効であると主張して、不当利得返還請求として、売買代金の一部である二七〇〇万円及びこれに対する平成一一年一一月七日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払いを求めた事案である。
二 前提となる事実(当事者間に争いのない事実及び弁論の全趣旨により容易に認定できる事実)
(1) 原告は、美術工芸品等の輪出入販売等を行っている会社であり、被告は、美術・工芸品等の輸出入及び販売等を行っている会社である。
(2) 原告は、平成九年一〇月一日、被告からフランス一九世紀の画家であるギュスターブ・モロー(以下「モローという。)が描いたとされる「ガニメデスの略奪」と題する絵画一点(以下「本件絵画」という。)を、三〇五〇万円で買い受け(以下「本件売買契約」という。)、同月一七日、被告に対し、代金三〇五〇万円を支払った。
(3) その後、本件絵画は、贋作であり、モロー作の真正な絵画は、英国において、オークションにかけられ、第三者に売却されたことが判明した。
(4) 原告は、平成一一年一月一三日頃、被告に対し、本件売買契約の代金相当額の返還を求めた。
(5) 被告は、本件絵画を、代金二七〇〇万円で、三幸商事株式会社(以下「三幸商事」という。)から買い受けたものであるが、同年三月一九日、本件売買契約の代金額との差額分に相当する三五〇万円を原告に返還した。
三 争点
(1) 本件売買契約について、要素の錯誤があるといえるか(民法九五条)。
(原告の主張)
本件売買契約においては、本件絵画が真作であることが取引の重要な要素であり、原告は、本件絵画が真作であると信じて、本件売買契約を締結した。
仮に、本件絵画が真作であると原告が信じたことが動機の錯誤であるとしても、原告は、本件売買契約締結に際し、本件絵画がモローの真作であるので本件絵画を買い受ける旨の表示をした。
すなわち、契約締結の際、被告は、原告に対し、本件絵画について、モローの作品のカタログレゾネの該当箇所を示し、本件絵画が同カタログ中のモローの水彩画「ガニメデスの略奪」そのものであること、その作品の来歴については、サザビーズのオークションで、ある日本人が購入したものであり、真作であることに間違いないと述べ、原告は、本件絵画がモローの真作であることを前提として本件絵画を購入した。
よって、本件売買契約については、要素の錯誤により、無効である。
(被告の主張)
否認ないし争う。
原告は、自らの鑑識眼をもって、本件絵画の購入を決心し、被告に対して、本件絵画を買い受ける旨の意思表示をし、被告は、これに応じて本件絵画を売却したもので、原告の意思表示と内心の効果意思との間に不一致はない。
仮に、本件絵画が真作であることが原告の購入の動機であったとしても、被告に対して、この動機が表示されたとはいえない。
なお、被告は、カタログを示したことは認めるが、これはモローの作品に「ガニメデスの略奪」という絵画があることを確認したにすぎず、本件絵画が真作に間違いないという説明をした事実はなく、原告と被告との間で本件絵画が真作か否かは話題にならなかった。被告自身、本件絵画が贋作であるとは疑っていなかったものの、本件絵画が真作であると保証できるほどの鑑識眼は持ち合わせておらず、本件絵画を購入するか否かの判断は原告側に一切委ねた。
(2) 原告に重過失があるといえるか(民法九五条但書)。
(被告の主張)
原告は、フランス美術に造詣が深く、相当の鑑識眼を有しており、原告の身近には、フランス絵画の真贋を鑑識しうる能力を有する専門家がいるのであるから、例えば、本件絵画に添付されていたサザビーズの請求書と称する書類等を事前に確認するとか、モローの鑑定の第一人者であり、原告の友人であるキシシャンの知己であるピエール・ルイ・マチュー等に鑑定を依頼し、真贋を最終的に確認したうえで購入を決断することは容易であるところ、これを怠ったものであり、原告には重過失があるというべきである。
(原告の主張)
否認ないし争う。
(3) 権利濫用
(被告の主張)
複数の画商を通じて絵画取引が行われる場合において、取引後に絵画が贋作であると判明したときには、画商は、自己の支払った購入代金と自己の受領した売却代金との差額(利益分)を買主である画商に交付するのが通常である。被告は、既に、三幸商事から受領した代金二七〇〇万円との差額分を原告に支払っていること、原告自身も、自己の買主に対しては、利益分以外を返還していないこと、買主である原告のほうが売主である被告よりも優れた鑑識眼を有すること、被告は、原告の要請に応えるべく、被告への売主及びその前売主を相手方として別訴を提起したが、これらの相手方からの回収可能性は資力の点からみて低いことなどの事情に鑑みると、原告が被告に売買代金全額の返還を求めるのは権利濫用である。
(原告の主張)
否認ないし争う。
第三争点に対する判断
一 前記前提となる事実に加え、《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
(1) 当事者について
ア 原告代表者は、昭和五九年に、原告の前身である有限会社由布紀コーポレーションを設立し、西洋絵画や美術品の輸出入の仕事をはじめ、平成六年、会社を原告に組織変更した。平成九年当時、原告は、日本のコレクターが売りに出した美術作品を買い取って、フランス人顧客に販売することを会社の営業施策の一つとしていた。
イ 被告代表者は、昭和五二年に、実兄の経営する店舗で、欧米巨匠の版画や挿絵本等を取り扱う「ギャルリー江夏」に入社して以来、美術品等の販売に携わっているが、平成九年に被告会社を設立して、現在に至っている。被告は、「江夏画廊」を開設している。
(2) 本件売買契約に至る経緯
ア 平成九年八月、原告代表者方に友人であるフランスのクロード・キシシャン(以下「キシシャン」という。)からルノワールの出物があれば入手したいとの話があり、同年九月五日、原告代表者は、キシシャンとフランスのラロック画廊が派遣したマルク・ラロック(以下「ラロック」という。)とともに、江夏画廊を訪れた。
原告代表者らは、江夏画廊におかれていたルノワールの作品については、出来がよくなく、他には見るべきものがないとして、関心を示さなかった。
帰りがけに、被告代表者は、原告代表者らに本件絵画を見せて、本件絵画はモローの作であって、カタログレゾネに出ているといって、「ギュスターヴ・モロー その芸術と生涯 全完成作品解説カタログ ピエール=ルイ・マチュー著 高階秀爾、隠岐由紀子訳」と題するカタログレゾネ(以下「本件カタログレゾネ」という。《証拠省略》)のコピーの該当箇所を示した。
カタログレゾネとは、個々の作家の総作品目録のことであり、その作家の全作品の図版、タイトル、サイズ、制作年等の情報が整理して記載されているものであるが、そこに収録されている作品は、その反証が立証されない限り、本物として通用するとされている。
本件カタログレゾネには、「三四二 ガニメデスの略奪」の欄に、図版が載っており、その下に、「水彩 五八・五×四五・五」「年代;一八八六年)、「来歴;Char-les Hayem蔵―Hayem夫人蔵―売立"Impressionist & Moderm Drawings, Paintings & Sculptures"ロンドン、Chris-tie's,一九七一年七月六日、五四番、カラー複製(一二〇〇〇ギニー/一七三四〇〇フラン)」との記載がある。これによれば、当該作品の来歴としては、一九七一年に、ロンドンのクリスティーズで落札された作品であることまではわかる。
被告代表者は、さらに、本件絵画は、数年前にサザビーズのオークションにおいて、ある日本人が落札したがその後経済的に苦しくなって手放すことになったと説明した。
原告代表者らは、本件絵画の鑑定書の有無を被告代表者に尋ねたが、鑑定書はないとのことであった。
被告から原告に対して、本件絵画の売買価格として三六〇〇万円が提示されたが、被告代表者の話では仕入値は二九〇〇万円とのことであったので、原告代表者及びキシシャンは、三〇〇〇万円ないし三一〇〇万円で入手できると値踏みした。
ラロックは、本件絵画に興味を持ち、購入するかどうか、ラロック画廊の経営者であるピエール・ラロックに相談して決めることになった。
イ 間もなく、フランスに帰国したキシシャンから、ピエール・ラロックが、本件絵画のポジフィルムを見たいといっているとして、その手配の要請があったので、原告は、被告からこれを入手して作品の状態を確認してもらうために、ポジフィルムをフランスに送った。
ウ その後、ラロック画廊から原告に対して、本件絵画を三〇万ドルで購入したいとの連絡があり、原告代表者は、被告と交渉した結果、結局、原告は、被告から、三〇五〇万円で本件絵画を購入することになった。
エ 原告と被告は、平成九年一〇月一日、本件絵画についての売買契約書を作成し、本件売買契約を締結した。
売買契約書の第一条には、次の内容の記載がある。
「甲(被告)は、乙(原告)に対し、次の絵画を売り渡し、乙(原告)はこれを買い受けるものとする。
作品名 “ガニメデスの略奪”
作者 ギュスターブ モロー
数量 一点 グァッシュ 水彩 パステル 一八八六年
サイズ 五八・五×四五・五cm 」
原告は、同月二日、本件絵画を被告から受領し、同月一三日、本件絵画をフランス税関にて通関してラロック画廊に送付した。
売買代金については、同月一〇日、ラロック画廊から原告への送金手続がなされ、同月一七日、被告は原告の指定口座に三〇五〇万円を送金した。
(3) 本件絵画が贋作であることが判明した経緯等
平成一〇年一二月下旬、ラロック画廊から原告に対し、本件絵画と同一の絵画がロンドンのクリスティーズのオークションに出品されており、いずれかが贋作であることになるが、モローの絵画の鑑定人として最高権威であるマチューとカマールという二名の鑑定人が二点の作品を鑑定した結果、本件絵画が贋作であるとの鑑定結果であった旨の連絡があり、ラロックは、原告に対して、売買代金の返還を求めた。
原告は、直ちにこれを被告に連絡し、本件売買契約の代金三〇五〇万の返還を求めた。
マチューとカマールの鑑定報告書には、本件絵画は、パリの画商からこれを購入したラフォン夫人から、パリの画廊に貸与され展示されたが、誰一人として作品の信憑性を問うものはいなかったところ、ラフォン夫人が、一九九八年一二月八日、ロンドンのクリスティーズの販売目録の中に、作品名等が本件絵画と同一のものを発見したのを契機として、鑑定がされることになったこと、鑑定方法としては、二つの作品を実際に見て比較し、画紙のほか、技法や署名等についての詳細調査をしたこと、その結果、本件絵画は、原作画をベースに複製されたと思われること、複製は、一部のディーテールの処理を除き、精巧なものであること等の記載がある。
なお、クリスティーズのオークションで、落札された絵画の落札価格一八万八五〇〇ポンド(日本円に換算すると、約三七〇〇万円)であった。
(4) 関連事項
被告は、三幸商事から、本件絵画の販売の委託をうけていたが、被告は、平成九年九月二四日、原告代表者から三〇万ドルであれば買うという連絡があったので、三幸商事と価格の交渉をし、最終的に、被告は、三幸商事との間で、売買代金額を二七〇〇万円と合意し、同年一〇月二一日、三幸商事に二七〇〇万円を支払った。
被告は、原告から、本件売買契約の代金三〇五〇万円の返還を求められた後、代金の差額分である三五〇万円は、原告に返還するとともに、三幸商事を通して、株式会社輝翔(以下「輝翔」という。)及び服部紀一郎に対して代金返還についての協力を求めたが、はっきりした対応が得られなかった。三幸商事は、現在事実上倒産状態にある。
本件訴訟提起後、被告は、三幸商事及び三幸商事への売主である輝翔に対して、本件絵画の売買契約は錯誤により無効であると主張して、不当利得返還請求として、売買代金相当額である二七〇〇万円の支払いを求めて提訴した(別件訴訟・当庁平成一二年(ワ)第四七三三号事件。)。
二 争点(1)について
本件売買契約において、本件絵画が真作であることが、契約の要素であるかどうかについて検討する。
本件においては、本件売買契約の締結の際に、被告代表者が、本件絵画が真作であることは間違いないとまでいったと認めるに足る証拠はないが、前記一に説示したとおり、被告代表者は、本件絵画について、カタログレゾネに出ているといって、コピーの該当箇所を示したこと、同カタログレゾネには、本件絵画の来歴について、一九七一年にオークションで落札されたことまでしか記載がないが、被告代表者は、本件絵画は、数年前に日本人がオークションで落札したものであると来歴について補足して説明していること、原告は、鑑定書の有無を確認したこと、売買契約書には、本件絵画の特定方法として、作者、題名、制作年等カタログレゾネのデータと同じ記載がされていることを総合すると、被告代表者は、本件売買契約の目的物である本件絵画について、モローの「ガニメデスの略奪」という題名の絵画の真作であると表示したものとみるのが相当であり、原告は、本件絵画がモローの真作である旨の表示があることを認識していたとみるのが相当である。
そして、前記一に説示したとおり、本件絵画の売買代金額は、当初被告が三六〇〇万円を提示し、これに対して、原告が三〇万ドル位で購入すると申し入れをし、結局三〇五〇万円に決まったこと、実際に、平成一〇年にロンドンのクリスティーズで落札された真作の絵画の落札価格は、一八万八五〇〇ポンド(約三七〇〇万円)であったことに加えて、原告及び被告代表者は、双方とも仮に本件絵画がよくできた模造品だとして買う場合の価格について、ゼロに近いと思う旨の供述をしていることに照らして鑑みると、三〇五〇万円という本件売買契約の代金額は、本件絵画が真作である場合の価格の範囲内であり、このような高額の価格は本件絵画が真作であることを前提としていると考えられる。
これらの事実に、原告も被告も画商であり、原告がフランスの顧客に売却することを前提として本件絵画を購入することは、被告も認識していたこと、双方の代表者とも二〇年近くにわたって美術品の販売等に携わってきた経験を有すること等の事実を総合すると、本件売買契約においては、売主である被告は、本件絵画が真作であることを表示し、原告は、本件絵画が真作である旨の表示があると認識したうえで、本件絵画が真作であると信じたからこそ契約締結に及んだものというべきであり、本件絵画が真作であることは、本件売買契約の重要な要素であるというべきである。
そうすると、原告には、本件売買契約の要素についての錯誤(民法九五条)があったというのが相当である。
被告は、原告が、自らの鑑識眼をもって、本件絵画そのものを購入することを決めたのであるから、そこに内心の意思と表示との不一致はなく、したがって、原告には意思表示についての錯誤はないと主張する。
しかしながら、前記認定したとおり、売主である被告は画商であり、買主である原告は転売を予定していたこと等の事情に鑑みると、本件絵画が真作でないのであれば本件売買契約の対象にはなりえなかったものというべきであり、原告において、仮に後に本件絵画が贋作と判明したとしても被告の責任を問わないという趣旨で本件絵画を買い受ける旨の意思表示をしたとみることはできないから、被告の主張は、失当である。
三 争点(2)について
本件においては、被告自身が本件絵画が贋作であるとは疑っていなかったと供述していることからも明らかなように、買主である原告と売主である被告の双方が錯誤に陥って本件売買契約の締結をしたものであるが、このような場合には、契約を有効にして保護すべき利益が被告にあるとはいえないから、民法九五条但書は適用されないと解するのが相当である。
したがって、原告に重過失があるから錯誤を主張できないとの被告の主張は、失当である。
なお、原告の重過失の有無についても検討すると、前記認定したところによれば、原告は、画商である被告からこれを購入したものであり、本件売買契約に至る過程では、被告からカタログレゾネが示され、同カタログレゾネに記載された以降の来歴についても、日本人がオークションで落札した旨の説明があったほか、原告は、鑑定書の有無についても問い質したというのであり、真作を前提とする絵画取引において通常なされるような合理的な確認はされているというべきである。そして、前記認定したとおり、本件絵画は、結果的に、モローの第一人者ともいうべきマチューらによって、詳細な調査をしたうえで贋作と判断されたもので、マチューらも認めているように、非常に精巧に作られた真作の複製品であり、クリスティーズで真作の絵画が落札されて初めてその真贋を疑われるようになったことからもわかるように、一見して明らかに贋作と判明するような作品ではなかったものということができる。そうすると、原告がフランス絵画の取引の経験を有する画商であることを考慮に入れたとしても、原告に、予めモローの第一人者であるマチューの鑑定をとるなどしてさらに調査を尽くすべき義務があったというのは相当ではないから、原告に重過失があったということもできない。
三 争点(3)について
さらに、被告は、原告の請求が権利濫用であると主張するが、複数の画商間で売買がなされた場合に、自己の利益分について順次買主に返還されるのであれば、それが望ましいということはいえても、売買契約の要素に錯誤がある以上、契約の無効を主張して代金の返還を求めるのは買主の当然の権利であるし、原告自身も、自らの買主に対しては代金を返還すべき義務を負っていることに鑑みると、当該当事者間の公平に反するものともいえず、その他、原告の請求が権利濫用であると認めるに足る事実もない。
したがって、この点についての被告の主張は失当である。
四 よって、原告の請求は理由があるから、これを認容することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 土谷裕子)