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東京地方裁判所 平成11年(ワ)24547号 判決 2001年12月11日

原告

牧野太一

被告

並木雅明

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

一  原告

(一)  被告は、原告に対し、金三一五万五三五三円及びこれに対する平成九年三月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二)  訴訟費用は被告の負担とする。

(三)  仮執行の宣言。

二  被告

主文と同旨。

第二事件の概要

本件は、交通事故により受傷した原告が、以前に被告との間で成立した示談契約後においても同受傷による腰痛、頸部痛及び両膝痛等の治療が継続していると主張し、示談契約の効力を争い、自賠法三条に基づく損害賠償を求めたという事案であり、中心的な争点は、示談契約が錯誤により無効となるのか否か、すなわち、示談契約後に、原告に同契約時には予想し得なかった症状が発生し、または同契約時には予想し得ないほど症状が悪化したか否かにある。

一  争いのない事実

(一)  本件事故の発生

原告は、平成九年三月一五日午後一一時三〇分ころ、東京都新宿区新宿四丁目三番先の交差点内において、横断歩道を青信号に従って横断歩行していたところ、被告の運転する自動車(以下「加害車両」という。)の前部が原告に衝突した(以下「本件事故」という。)。

(二)  原告の受傷と治療経過

原告は、本件事故の結果、医療法人社団悦伝会目白病院(以下「目白病院」という。)において、右膝外顆頸骨折、内外側半月板損傷、両側腓骨骨折の傷害を負ったとの診断を受け、治療を受けた。

原告は、同治療にもかかわらず、腰痛、両膝関節痛の後遺障害が残るに至り、平成一〇年八月二七日、目白病院の野池勝利医師(以下「野池医師」という。)から、症状固定となった旨の診断を受け、平成一〇年一一月一七日には上記後遺障害につき、自賠法施行令第一二級一二号に該当するとの認定を受けた。

(三)  被告は、加害車両の運行供用者として、自賠法三条に基づき、本件事故によって原告が被った損害を賠償すべき責任がある。

(四)  示談契約の成立とその履行

被告は、平成一一年一月二六日、原告の代理人弁護士大倉克大との間で、「原告は、交通事故による人身損害についての損害賠償金として、既支払額一六一万四二五九円の他六一六万〇〇〇〇円を受領したときは、原告と被告との間には上記以外に何ら債権債務のないことを確認し、被告に対し後日裁判上、裁判外を問わず、何ら異議申立て、請求、訴の提起等をいたしません。尚、上記賠償金は、後遺障害一二級一二号を含みます。」という内容の示談契約(以下「本件示談契約」という。)を締結し、原告は、本件示談契約に基づき、被告から、六一六万円を受領した。

二  原告の主張(原告の請求原因)

(一)  原告は、本件示談契約が成立した後、現在に至るも、腰部、両膝関節部、肩部、項部、頸部、大腿部、臀部等に痛みが残存し、目白病院、医療法人社団敬裕会高田整形外科クリニック(以下「高田整形外科」という。)及び慶応義塾大学病院(以下「慶応病院」という。)に入通院して治療を受けている。

(二)  目白病院の野池医師は、平成一〇年八月二七日付けで腰痛、両膝関節痛を残して症状固定となった旨診断しているが、これは骨折に対しての診断であって、腰痛、頸部痛及び両膝痛等の治療については、交通事故による二次疾患として、現在も継続中である。本件示談契約後の治療は、交通事故に起因する傷害に対するものであり、下記の損害について、被告は賠償責任を負うべきものである。

(三)  原告の損害

(1) 治療費 二二万〇五六六円

(下記三つの病院の治療費合計二六万二五一五円から高額療養費として給付を受けた四万一九四九円を控除したもの)

<1> 目白病院における平成一一年二月二日から同年九月二八日までの治療費 一七万七八三五円

<2> 高田整形外科における平成一一年一月二七日から同年九月二九日までの治療費 四万九五四〇円

<3> 慶応病院における平成一一年七月一二日から同年九月二日までの治療費 三万五一四〇円

(2) 医薬品代 三万七七六〇円

(3) 通院交通費 五万一三四〇円

(4) 休業損害 二八四万五六八七円

原告は、料理人として、本件事故当時、一日あたり一万一五二一円の収入を得て、厨房において立ち仕事をしていた。しかして、原告は、本件事故による受傷の痛み等のため、立ち振る舞いが自由にならず、仕事の継続に支障が生じ、職場を離れることを余儀なくされた。原告は、本件事故による受傷がなければ、今日も引き続き職場に留まり、仕事に従事できたのであるから、平成一一年一月二七日から同年九月三〇日までの二四七日間の得ることができた収入は、二八四万五六八七円となる。

(四)  よって、原告は、被告に対し、上記(三)の損害に対する賠償として、自賠法三条に基づく損害賠償請求権として三一五万五三五三円及びこれに対する不法行為日である平成九年三月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うよう請求する。

三  被告の答弁

(一)  原告が、本件示談契約が成立した後に目白病院、高田整形外科及び慶応病院に入通院して治療を受けていることは知らない。

(二)  目白病院の野池医師の診断内容は知らない。

(三)  原告の損害は知らない。

四  被告の抗弁(示談の成立の抗弁・権利消滅抗弁)

被告は、原告との間において、平成一一年一月二六日、当時原告の代理人であった弁護士大倉克大との間で、既払額一六一万四二五九円のほか、六一六万円を支払うことを内容とする示談契約を締結し、上記示談契約に基づき、同月二八日、原告の預金口座に六一六万円を振り込んでいる。

本件では、腰痛・両膝痛についての自覚症状を含めて症状固定の診断がなされ、上記症状が難治性であることを前提にして本件示談契約が成立している。そして、本件においては、同契約以後の損害について対象外とする旨の特約がないこと、金員を受領したときは原告及び被告間には「何ら債権債務のないことを確認する」との清算条項があることからすると、本件示談契約により被告の原告に対する損害賠償債務はすべて尽くされている。

したがって、原告は示談金以外の請求権を放棄している。

五  被告の抗弁(示談の成立)に対する原告の再抗弁(錯誤による無効)

(一)  原告の膝部痛については、併合一二級の後遺障害等級において評価されているが、それ以外の腰部、肩部、項部、頸部、大腿部及び臀部等については、同認定からは考慮外とされ、示談の基礎事実とはされていない。すなわち、原告は、現在において、両大腿骨頭無腐性壊死、腰椎椎間板症、腰椎椎間板ヘルニア、仙腸関節炎、薬剤性肝障害、高尿酸血症、反射性交感神経性ジストロフィー、腰椎症、外傷性頸部症候群、外傷性末梢神経障害、化膿性腰椎椎体椎間板炎、頸椎椎間板症、頸部脊柱管狭窄症及び頸部膿疱炎の各症状を発症している。このうち、外傷性頸部症候群、外傷性末梢神経障害、化膿性腰椎椎体椎間板炎、頸椎椎間板症、頸部脊柱管狭窄症及び頸部膿疱炎は、後遺障害診断書の作成された平成一〇年一〇月一二日以降に発現したものである。

上記原告の症状固定後における上記各部位の痛みは、後遺障害第一二級一二号の後遺障害等級の認定において評価が尽くされているものではなく、本件示談契約の基礎となっていないものである。

(二)  また、原告の後遺障害等級の認定にあたっては、反射性交感神経症ジストロフィーは格別に検討されていないのであって、この症状については示談の範囲を超えるものである。仮に、拘束されるとしても、本件示談契約の成立時に予想しえなかった病状である。

六  原告の再抗弁に対する被告の反論

(一)  本件示談契約は、原告代理人の意思を確認したばかりでなく、原告本人の意思も確認してなされたものである。

(二)  本件示談契約は、原告の腰痛や両膝痛が難治性であることや、両膝痛が反射性交感神経ジストロフィーに基づくことが前提とされていたのであり、痛みが継続することはその当時予想されたことである。それが故に、右膝については、「頑固な神経症状を残す」として後遺障害一二級一二号に、左膝については「神経症状を残す」として同一四級一〇号にそれぞれ認定されているのである。したがって、痛みが継続するそのものは、本件示談契約当時、当然予想されていたことである。

(三)  原告の主張する上記症状のうち両大腿骨頭無腐性壊死及び化膿性腰椎椎体椎間板炎については、本件示談契約が成立する平成一一年一月二六日の前から診察が開始されているのであって、同示談が成立する時点において当然予想されていた症状である。また、腰椎椎間板症及び腰椎椎間板ヘルニアについては、平成一一年五月二〇日に、仙腸関節炎、薬剤性肝障害及び高尿酸血症は同年一一月二日に、頸部脊柱管狭窄症及び頸部膿疱炎については、平成一一年六月一〇日にそれぞれ診断されるなど、いずれも本件事故の発生から一年ないし二年以上経過していることからすると、本件事故と因果関係を有するか極めて疑わしいものがある。さらに、外傷性頸部症候群、外傷性末梢神経障害、頸椎椎間板症、頸部脊柱管狭窄症及び頸部膿疱炎については、ほぼ同時期に作成された他の医師の診断書には頸部の損傷については何ら記載がないことからすると、発症していない可能性も否定できない。

したがって、本件においては、本件示談契約当時に予想もできない症状が発症したこと、または予想できないほど症状が悪化したことなどの事情は存しない。

第三証拠

本件記録中の証拠関係目録を引用する。

第四当裁判所の判断

一  本件示談契約締結の経緯について

(一)  当事者間に争いのない事実と証拠(乙二ないし五)によれば、次の各事実を認定することができ、この認定に反する証拠はない。

(1) 原告は、平成一〇年一〇月一〇日、弁護士大倉克大に対し、被告の代理人大東京火災海上保険株式会社の担当者(鎌形祐司)との間で本件事故に関する損害賠償請求についての示談交渉をし和解契約を締結する代理権を授与し(乙二)、同委任を受けた大倉弁護士は、原告の代理人として、被告及び同代理人と交渉し、同年一一月一七日に自動車保険料率算定会から、後遺障害等級一二級一二号の認定を受けたこと(乙五)に基づき、平成一一年一月二六日、既払額一六一万四二五九円の他に金六一六万円を支払うことを内容とする本件示談契約を締結した。

(2) そこで、被告は、同示談契約に基づき、同年一月二八日付けで、原告名義の三和銀行大泉支店の普通預金口座宛てに同金員を振り込んだ(乙一)。

(3) 同示談書には、原告は、「上記金員を受領したときは、上記以外に何ら債権債務のないことを確認し、後日裁判上、裁判外を問わず、何ら異議の申立て、請求、訴えの提起等を致しません。尚、上記賠償金は、後遺障害一二級一二号を含みます。」旨が明記されている。

(二)  上記認定のとおり、示談書は、示談の合意の及ぶ範囲が明確にされ、かつ原告の委任状には原告本人の印鑑登録証明書と同一の印影が押捺され、代理人として弁護士が関与している(乙三)ことからすると、原告は本件示談契約の趣旨をよく理解したうえで、本件示談契約を締結したものと認めるのが相当である。

二  受傷・治療経過及び後遺症

(一)  原告は、平成九年三月一五日午後一一時三〇分ころ、本件事故により受傷し、翌日の同月一六日午前零時二一分ころ目白病院に搬入された(乙七の二、四頁)が、その後の原告の治療経過は、次のとおりである。

(1) 目白病院

<1> 入院

a 平成九年三月一六日から同年五月二五日まで(乙七の二)

(傷病名)両腓骨骨折、頭部外傷、右脛骨高原骨折、右半月板損傷

b 平成九年一〇月八日から同月二五日まで(乙七の三)

(傷病名)右脛骨高原骨折後、右膝内側半月板損傷後、両腓骨骨折後

c 平成一〇年一一月二日から同月一七日まで(乙七の四)

(傷病名)RSD、腰椎椎体椎間板炎、仙腸関節炎、薬剤性肝障害、高尿酸血症

d 平成一一年四月一五日から同年五月二日まで(乙七の六)

(傷病名)両大腿

<2> 通院

平成九年六月七日から平成一三年三月二七日まで(甲一四、乙七の一、乙七の五)

(内容)

a 平成九年六月七日から平成一〇年八月二七日まで(乙七の一)

(傷病名)両腓骨骨折後、頭部外傷、右膝内側損傷、右脛骨高原骨折後、右股関節炎、右膝内側半月板損傷後、RSD(平成一〇年六月一七日から)

b 平成一〇年四月二八日から平成一三年三月二七日まで(乙七の五)

(傷病名)両大腿骨頭無腐性壊死、腰椎椎間板症、左肩内部周囲炎、頸部脊柱管狭窄症、頸部膿疱炎

(2) 高田整形外科

平成一〇年九月一四日から平成一二年三月一六日まで通院(甲四、乙七の八・一三頁)

(傷病名)右外傷性変形性膝関節症、腰椎椎間板ヘルニア、右肩関節周囲炎、肩関節拘縮、左肘部管症候群、右大腿四頭筋萎縮(甲四)

(3) 慶応病院

平成一一年七月一二日から同年九月二日まで通院(甲九、乙七の七)

(傷病名)頸椎症、変形性脊椎症、両肩関節周囲炎、右変形性膝関節症、右膝関節内骨折

(4) 都立大久保病院

平成一一年八月二七日通院(MRI施行)(乙七の七・一三頁)

(二)  上記原告の治療及び後遺症のうち、本件事故と頸椎椎間板症、頸部脊柱管狭窄症及び頸部膿疱炎との因果関係について検討するに、証拠(甲一四、乙七の五・二七頁)によれば、原告は平成一一年六月一〇日に頸椎椎間板症、頸部脊柱管狭窄症及び頸部膿疱炎の診断を受けたことが認められるが、同症状はいずれも本件受傷から二年以上経過した後のものであり、本件において、本件事故によって原告が被った右膝外顆頸骨折、内外側半月板損傷、両側腓骨骨折の傷病から上記症状が生ずることについて相当因果関係を認めるに足りる証拠はない。

三  本件示談契約の効力について

(一)  交通事故による損害賠償の示談においては、全損害を正確に把握しがたい状況の下において、早急に少額の賠償金をもって満足する旨の示談がされた場合においては、同示談によって被害者が放棄した損害賠償請求権は、示談当時に予想していた損害についてのもののみと解すべきであって、その当時予想できなかった後遺症等についてまで賠償請求権を放棄したものと解するのは相当ではないと解すべきである。したがって、示談成立後にその当時には予想できなかったような後遺障害が生じたり、症状が著しく悪化したりしたため、全損害額の正確な把握を誤り、そのために本来締結すべきではなかったにもかかわらず示談契約を締結してしまったと認められる場合には、被害者において示談契約の締結に当たり要素の錯誤があったといいうることになる。すなわち、本件示談契約当時には予想できなかったような後遺障害が生じたり、症状が著しく悪化したという事情が存在していた場合には、被害者は後日その損害の賠償を請求することができることになる。

(二)  上記観点からすると、本件においても、原告に上記の事情が存在していた場合においては、損害の賠償を請求することができるのであるから、上記事情が存在していたか否かが重要な問題となる。そこで、原告の訴える腰部、肩部、項部、頸部及び臀部痛等が、本件示談契約当時に予想できたものか否かについて検討することとする。

(1) 腰痛について

<1> 原告は、本件受傷時は右下肢疼痛を訴えていたが、平成九年五月二日からは腰痛を訴えるに至り(乙七の二・三二頁)、同腰痛の訴えは、平成一〇年二月一八日(乙七の一・一一頁)、同年五月六日(乙七の五・四頁)、同月二〇日(乙七の一・一四頁)、同年六月二四日(乙七の一・一七頁)、そして、症状固定時の同年八月二七日(乙七の一・二〇頁)、同年一一月二日(乙七の五・七頁)の各欄の既往症等の欄においてそれぞれ認めることができる。また、後遺障害診断書(乙六)にも自覚症状欄には「腰痛」と記載され、各部位の後遺障害の内容欄には「腰痛は両膝痛に由来するものと思われる。」との所見が示されている。

<2> また、目白病院の入室時所見用紙の現病歴欄(乙七の四・三頁)には、(平成一〇年)「一一月一日pm二一度~腰痛増強、歩行困難あり」、診療録の一一月二日欄には「腰痛」「一一月一日より腰痛コントロールできない。」(乙二の七・六頁)、同月一〇日には「腰痛まだ」(同九頁)、同二六頁の一覧表の同月一四日欄には、「本日臀部に注射しても周りの痛みだけがとれて腰の痛みがとれない」とある。また、看護記録(同三〇頁)の一一月二日欄にも原告が腰痛を訴えている旨の記載が散見される。

<3> さらに、目白病院の外来診療録の同年一二月一五日欄にも「腰痛」の記載がある(乙七の五・一〇頁)。

<4> 加えて、高田整形外科の診療録(乙七の八・五頁)の主訴欄、同診療録の既往症等のうちの平成一〇年九月二五日欄(同五頁)、同年一〇月八日・同月一五日、同年一一月一九日欄(同六頁)にそれぞれ「腰痛」との記載がある。

以上によれば、原告が本件示談契約の成立する前から腰痛を訴えていたことは明らかであり、加えて、後遺障害等級認定手続においても、腰部の腰痛等、自訴による神経症状については、右膝と左膝の各関節痛等の評価に含まれていること(甲一五の一・弁護士法に基づく照会に対する回答部分)からすると、腰痛は本件示談契約の基礎事情となっているというべきである。

(2) 肩部・臀部について

<1> 原告の右肩痛についての訴えは、平成一〇年三月二四日(乙七の一・一二頁)、同年四月八日(乙七の一・一三頁)、同年五月二〇日(乙七の一・一四頁)の各欄に記載がある他、高田整形外科の診療録(乙七の八・五頁)の主訴欄と同診療録の既往症等のうちの平成一〇年一〇月一五日欄(同六頁)、同年一一月一九日欄(同六頁)にも記載がある。

また、臀部痛の訴えは、平成一〇年一一月四日(乙七の四・七頁)、同月八日(乙七の四・三〇頁)、同月一六日(乙七の四・九頁)、同月二四日(乙七の五・八頁)、同年一二月八日(乙七の五・八頁)、同月一五日(乙七の五・一〇頁)に記載がある。

そうすると、本件示談契約が成立する前から肩部痛・臀部痛があったことを認めることができる。

<2> もっとも、甲一五の一(弁護士法に基づく照会に対する回答部分)には、肩部・臀部痛等、自訴による神経症状について認定に関する記載がない。しかし、これは後遺障害診断書(乙六)の自覚症状欄において記載がなかったことから、認定理由の判断から漏れたにすぎないものと推認されるのであって、肩部痛・臀部痛も示談の基礎事情となっているというべきである。

(3) 項部・頸部について

証拠(乙七の五、七の六)によれば、原告は、目白病院において、平成一一年四月一七日に脊椎造影の検査を受けた際、脊椎穿刺後頭痛を訴えたこと(乙七の六・三頁)、同検査後の同年五月一三日から、項部痛を訴え始めたこと(乙七の五・二五頁)が認められる。そして、慶応病院の診療録(乙七の七)の五頁には、「H一一・四月 腰部を造影検査したところ髄液がもれてその時から頸部痛+となった」との記載がある。また、意見書(乙八)にも、「項部・頸部の痛みは造影剤検査後に発生している。造影剤検査後に頭痛、頸部痛、吐き気等を患者が訴えることは稀に見られることである。」との所見もある。

以上によれば、項部・頸部痛と本件事故との相当因果関係はないものと認められる。

(4) RSDについて

目白病院の高田整形外科に対する平成一〇年九月一〇日付けの診察情報提供書(乙七の五・五頁)には、「(痛みのコントロール)不能でRSDと考え、現在(硬膜外ブロック)行っております。」との記載があり、また、目白病院の外来診療録の同年一〇月一五日欄(乙七の五・六頁)には「RSD」、平成一一年一月一二日欄には「外傷後RSDの診断書」(同一二頁)との記載があることからすると、原告は治療において医師からRSDであることを告げられているものと推察できる。加えて、後遺障害診断書(甲一五の二)においては、「両下肢は反射性交感神経性ジストロフィーと思われる。」、「難治性の疼痛と考えられる(RSD)。」との所見が示されていることが認められるから、原告は同診断書を提出して後遺障害等級の認定手続をしている以上、診断書の記載内容から自らがRSDに罹患したことを知ったことは明らかである。そうすると、本件示談契約においては、その当時、原告がRSDに罹っている旨の診断が前提とされ、RSDに関わる痛みが継続することが本件示談契約当時に予想されたものと認めることができる。

ところで、被告の提出する意見書(乙八)においては、原告はRSDに罹っていない旨の所見が示されている。しかし、本件においては、原告が本当にRSDに罹患しているかという医学上の傷病認定の問題は重要ではなく、RSDと診断しうるか否か評価が分かれる両膝部等の疼痛が後遺障害等級の認定において考慮されているか否かが問題とされるべきであるところ、両膝部の疼痛は、上記認定のとおり、後遺障害等級の認定において考慮されている(甲一五の一)のであるから、痛みが継続することは本件示談契約の当時、当然に予想されていたことといえる。そうすると、原告がRSDに罹患しているか否かは、示談の効力についての結論を左右するものではない。

よって、本件において、RSDと診断されている疼痛は示談の基礎事情となっているというべきである。

(5) その余の傷病について

原告の両大腿骨頭無腐性壊死は平成一〇年四月八日において(乙七の五・二頁)、腰椎椎間板ヘルニアは同年五月二〇日において(甲一四)、仙腸関節炎・薬剤性肝障害、高尿酸血症、外傷性頸部症候群、外傷性末梢神経障害及び化膿性腰椎椎体椎間板炎は同年一一月二日において(甲一四、乙七の四)、それぞれ診察が開始されている。しかし、上記症状はいずれも本件示談契約が成立する平成一一年一月二六日の前に認められているものであるから、同契約時において当然予想されていたことである。

(三)  以上によれば、原告の現在の症状が、本件示談契約締結当時に原告においても予想し得なかったようなものであることを認めることはできない。

(四)  まとめ

本件においては、本件示談契約当時には予想できなかったような後遺障害が生じたり、症状が著しく悪化したという事情が存在したりしたため、全損害額の正確な把握を誤り、そのために本来締結すべきではない示談契約を締結した事実を認めるに足りる証拠はない。

よって、原告の再抗弁(錯誤)は、理由がない。

四  結論

以上によれば、原告の本件事故による損害賠償請求権は、本件示談契約の成立とその履行によって既に放棄されたものといわなければならず、本訴において、被告に対しこれを請求することはできない。

よって、原告の請求は、理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 片岡武)

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