東京地方裁判所 平成11年(ワ)25189号 判決 2001年7月13日
原告
野村浩
同訴訟代理人弁護士
横田俊雄
被告
株式会社河合楽器製作所
同代表者代表取締役
河合弘隆
同訴訟代理人弁護士
片桐一成
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、五三〇万四三七八円及びこれに対する平成一一年一一月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
被告の従業員であった原告は、昭和四七年七月一日付けでなされた解雇の効力を争い、被告を債務者として地位確認等の仮処分を申し立て、昭和五二年九月二九日、被告との間で、被告が解雇の意思表示を撤回し、原告が和解日をもって退職する等の条項による裁判上の和解を成立させた。
本件は、原告が、和解成立日までは被告の従業員として厚生年金被保険者資格が継続していたのに、被告が解雇時になした同資格喪失届を和解成立後遡って取り消す処理をしなかったため、うべかりし厚生年金相当額等の損害を被ったとして、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償を求めた事案である(付帯請求の起算日は訴状送達日の翌日)。
1 争いのない事実等
(1) 原告は、昭和三九年七月二一日被告に入社した。
(2) 被告は、昭和四七年七月一日、原告に対し、解雇の意思表示をした。解雇理由は、通勤手当と住所変更の社内手続を怠り不当に利得したこと、広告宣伝費ほかについて会社への経理処理を怠り不当な行為のあったこと、東京楽器研究所名義を使用して浜楽商事株式会社東京営業所と取引を行い、また職務を利用して自己のために利益を得ていたこと、以上の行為が就業規則五九条(1)6号に該当する、というものであった。
(3) 原告は、昭和四七年八月三一日ころ、同解雇は無効であるとして、東京地方裁判所に対し、被告を債務者として、従業員たる地位の保全と給与の仮払いを求める仮処分を申し立てた(同裁判所昭和四七年ヨ第二三六三号事件)。
これに先立ち、原告は、被告が昭和四六年一〇月二八日付け通告書をもってなした降格処分及び同年一一月二三日付け通告書をもってなした転勤命令等の効力を争い、昭和四七年三月二日ころ、東京地方裁判所に対し被告を債務者とする仮処分を申し立てていた(同裁判所昭和四七年ヨ第二二三三号事件)。
(以下、両事件を合わせて「前仮処分事件」という)
(4) 昭和五二年九月二九日、前仮処分事件について、原告と被告との間に裁判上の和解が成立した(以下「本件和解」という)。
和解条項の要旨は次のとおりである。
<1> 被告は、前記降格処分、転勤命令及び解雇の意思表示をいずれも昭和五二年九月二九日撤回し、原告はこれに同意する。
<2> 原告は、昭和五二年九月二九日被告に対し退職の申出をなし、被告はこれを承認する。
<3> 被告は、原告に対し、昭和五二年一〇月一一日限り、解決金として一〇〇〇万円を支払う。
<4> 当事者双方は、将来相互に友好関係を継続し、この条項に定めるところ以外相互に何らの請求をしない。
<5> 訴訟費用は各自弁とする。
(5) 被告は、前記解雇の意思表示の翌日である昭和四七年七月二日付けで、原告について厚生年金の被保険者資格喪失の届出をしたが、本件和解後、同資格喪失の処理を取り消す手続は取っておらず、昭和四七年七月二日から昭和五二年九月二九日までの間の同保険料も納付していない。
2 争点
(1) 被告は、原告について、厚生年金保険の被保険者資格喪失処理を取り消し、事業主として退職時までの社会保険料を納付する義務を負っていたか。
(原告の主張)
ア 解雇の効力について紛争がある場合について、社会保険の通常の取扱いは、一応資格を喪失したものとして取り扱い、労働委員会又は裁判所が解雇無効の判定をし、その効力が発生した場合は、遡及して資格喪失の処理を取り消すものとされている。
被告は、本件和解により、原告に対する解雇を撤回し、昭和五二年九月二九日付けの退職を承認したのであるから、社会保険の通常の取扱いに照らし、被告は、被保険者資格喪失処理を取り消し、事業主として同退職日までの厚生年金保険料を国に納付すべき義務を負っていた。
イ (被告の主張に対する反論)
(ア) 本件和解条項<4>には、厚生年金保険法に定める被告の事業主としての義務まで免除する趣旨は含まれていない。
(イ) 本件和解の解決金は未払賃金に相当するものであり、また原告が現実に就労できなかったのは、被告が原告の要求を拒否したためであるから、昭和四七年七月一日に実質的使用関係が終了したということはできない。
(ウ) 国民健康保険は強制加入であり、国民健康保険と国民保険とはセットになっている。事業主からの資格喪失届の提出があった場合、社会保険事務所は一応社会保険の資格を喪失したとして取り扱う以上、国民年金法七条に従い、強制加入の対象とするのであって、原告の認識は何ら関係しない。
(被告の主張)
ア 本件和解条項<4>により、被告は原告の保険料について原告負担分を解決金から控除することができない代わり、事業者負担分を納付する義務も負わないというべきである。
イ 仮にそうでないとしても、昭和四七年七月二日以降昭和五二年九月二九日まで、原告は全く労働をしておらず、被告は報酬を支払っていないから、原・被告間に実質的に使用関係がない。したがって、厚生年金保険法の観点からは、昭和四七年七月一日に使用関係が終了し、原告は同月二日被保険者の資格を喪失したというべきであるから、被告に保険料納付義務はない。なお、本件和解において、被告が原告に解決金一〇〇〇万円を支払う旨の合意がなされ、被告はこれを支払ったが、これはあくまで解決金であって報酬ではない(厚生年金保険の保険料は被保険者の標準報酬月額に一定の保険料率を乗じて計算されるから、報酬支払がない本件では保険料を定めることができない)。
ウ 原告は、本件和解成立当時、国民保険に加入していたが、本件和解成立後も遡って国民保険を脱退していない。これは、原告自身、解雇処分発令後和解日までの期間につき、厚生年金保険の資格喪失の処理が遡って取り消されないものと理解していたからに他ならない。
(2) 原告の損害
(原告の主張)
被告が前記義務を怠ったことによる原告の損害は、次のとおり合計五三〇万四三七八円である。
ア 逸失厚生年金 三八〇万四三七八円
昭和四七年七月当時の標準報酬月額は八万六〇〇〇円、再評価率は三・六〇である。被保険者期間を昭和四七年七月から昭和五二年八月までの六二か月とし、生年月日に応じる経過措置、報酬比例部分〇・八〇六パーセント、定額部分一・一七〇を乗じ、物価スライド(一・〇二五)をすると、逸失年金額は、少なくとも下記<1>と<2>の合計二七万九四〇五円(年額)となる。
<1> 定額部分
1,625円×1.170×62×1.025=120,824円
<2> 報酬比例部分
8,600円×3.60×0.806×62×1.025=158,581円
平成七年度の簡易生命表による六〇歳男性の平均余命は二〇・二七年であるから、原告は今後二〇年間にわたり、少なくとも年額二七万九四〇五円の年金を受給する権利を失ったこととなる。その現価は三八〇万四三七八円である(新ホフマン係数による年五パーセントの中間利息控除)。
イ 逸失厚生年金基金 一〇〇万円
厚生年金保険法は、事業主及び被保険者をもって組織する厚生年金基金についても規定しており、原告は、前記期間に応じ、厚生年金基金からも年金を受け取る権利を有している。その現価額は少なくとも一〇〇万円を下回らない。
ウ 弁護士費用 五〇万円
(被告の主張)
争う。
第三争点に対する判断
1 争点1(被告は、原告について、厚生年金保険の被保険者資格喪失処理を取り消し、事業主として退職時までの社会保険料を納付する義務を負うか)について。
(1) 厚生年金保険法は、事業主に被保険者資格の得喪に関する事項の届出義務を課し(二七条)、また、被保険者は当該事業所に使用されなくなったときにその資格を喪失する旨を定めている(一四条二号)。
解雇の効力について労働者と使用者とが係争中の場合、社会保険実務の上では、解雇行為が労働法規又は労働協約に違反することが明らかな場合を除いて、事業主から被保険者資格喪失届の提出があったときは、一応資格を喪失したものとして、これを受理し、労働委員会又は裁判所が解雇無効の判定をし、かつ、その効力が発生したときは、当該判定に従い遡及して資格喪失の処理を取り消す扱いがされている(昭和二五年一〇月九日保発第六八号厚生省保険局長から都道府県知事あて通ちょう参照)。
もっとも、この取扱いは、労働委員会又は裁判所が解雇が無効であるとの公的判断を行い、その結果、雇用関係が解雇時以降将来にわたって法的に継続することとなる場合の行政庁の運用であって、紛争が当事者の和解により終了した場合には、和解が双方の合意に基づくものである以上、上記被保険者資格の取扱いに関しても、この点に関する当事者の意思がいかなるものであったかを、和解条項等により、客観的合理的に解釈して判断すべきである。
(2) 前記争いのない事実及び証拠によれば、次の事実が認められる。
ア 被告は、昭和四七年七月二日付けで、浜松西社会保険事務所に対し、原告の社会保険被保険者資格喪失を届け出た。(前記1(5)、弁論の全趣旨)
イ 原告は、昭和四八年五月六日、国民健康保険及び国民年金に加入した。(書証略)
ウ 原告は、前仮処分事件において、降格処分及び転勤命令の各効力停止と従業員たる地位を仮に定めることを求めるとともに、賞与等二一八万〇九一八円及び昭和四七年七月分から昭和四八年三月分まで八万〇七七〇円、昭和四八年四月分から昭和四九年一月分まで九万五〇七〇円、同年二月分から同年三月分まで九万六三七〇円、同年四月分から昭和五〇年三月分まで一二万六三七〇円、昭和五〇年四月分から本案裁判確定の日まで一四万一二七〇円の各月分給与の仮払いを求めた。この給与の額は、本給と各種手当の合算額(昇給・増額分を含む)であり、社会保険料等は控除されていない。本件和解成立時を終期とする上記仮払申立額の合計額は、九八〇万五八二八円である。(書証略)
エ 本件和解においては、被告が原告の同意のもと解雇の意思表示を撤回し、原告は和解成立日に退職の申出をし被告がこれを承認すること(前記和解条項<1>、<2>)、被告は原告に解決金として一〇〇〇万円を支払うこと(同<3>)、当事者双方は同和解条項に定めるところ以外相互に何らの請求をしないこと(同<4>)が合意された。(前記第2の1(4))
オ この和解は、原告から、被告が解雇の意思表示をまず撤回し原告に一〇〇〇万円を支払えば、原告は辞表を提出するとの和解条件を申し出、被告がこれに応じた結果成立したものであった。(書証略)
カ 被告は、原告に対し、昭和五二年一〇月一一日までに、本件和解で定められた一〇〇〇万円全額を支払った。(弁論の全趣旨)
キ 本件和解成立後の昭和五二年一二月ころ、被告人事部勤労課の担当者が、原告の社会保険資格継続の要否について前仮処分事件を担当した稲木延雄弁護士に相談したところ、稲木弁護士は、同担当者に対し、本件和解により被告が原告に支払うこととなった金員は、和解金の性質を持つもので解雇後和解期日までの賃金の補償をするものではないこと、一般的にこのような場合に遡って資格を継続させる慣行がないことから、遡って資格を継続させる必要はない旨説明した。(書証略)
ク 原告は、昭和四八年五月六日に加入した国民健康保険及び国民年金について、本件和解成立後も特段の手続を取らず、引き続き保険料を納付していた。(証拠略)
ケ 原告は、被告が解雇を主張し就労を拒否したため、解雇後和解成立までの間、現実に被告の労務に従事していなかった。(証拠略)
(3) 上記認定事実によると、本件和解において、被告が解雇の意思表示を撤回し、改めて原告が和解成立の日付けで退職を申し出、被告がこれを承認したことのみを捉えると、法的には、和解成立日までは使用関係が継続したこととなる。
しかし、そうであれば、被告は原告に対し、その間の給与その他の報酬の(被告に退職金規定がある場合は、和解成立日をもって退職する原告の退職金も)支払義務を負うこととなり、それと同時に、使用者として、支払う報酬等に応じた所得税等の源泉徴収分や、労働者負担部分と合わせた社会保険料を行政所管庁に納付する義務を負うこととなるから、報酬等の額を確定させ、源泉徴収税額・社会保険料額を確定させた上で、労働者である原告負担部分の社会保険料をどのように処理するか、原告が昭和四八年五月六日以降納付した国民年金等の保険料との関係も合わせ、当然問題となるところである。
しかしながら、本件和解成立に至る過程において、上記の問題が協議されたことを窺わせる証拠は皆無である。そして、前記和解条項<3>では、被告が原告に支払う一〇〇〇万円は、給与及び賞与等ではなく解決金とされ、その金額も、原告の要求額を被告がそのまま受け入れて決定されたもので、上記のような観点の下に計算された数値によるものではなく、その支払にあたり、社会保険料や所得税の控除は行なわれていない。これらの点や、理由はともかく原告が解雇日以降現実に被告の労務に就いていなかったこと及び前記(2)キ及びクにおいて認定した稲木弁護士及び原告の態度を総合すると、和解当事者である原告及び被告の双方とも、本件和解により、形式上は和解成立日まで使用関係が継続することとなるものの、それ以上に、使用関係が実質存続したと同様の状態を再現させることまでは予定していなかったと解するのが相当である。
(なお、原告の主張中には、被告が昭和四七年七月二日付けで社会保険資格喪失届を提出したことを認識していなかったとするような部分があるが、昭和四八年五月に国民健康保険及び国民年金の加入手続を取っている以上、そのときまでには被告が同資格喪失届を提出したことを知っていたはずであり、採用できない)。
(4) したがって、被告が前記被保険者資格喪失処理を取り消し、事業主として退職時までの社会保険料を納付する義務を負っていたとは認められない。
2 よって、原告の本訴請求は、その余について判断するまでもなく理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 三代川三千代)