東京地方裁判所 平成11年(ワ)27058号 判決 2001年2月23日
原告
ソフトウエア開発株式会社
代表者代表取締役
高浜節夫
原告
有限会社ソリトン技研
代表者取締役
小笠原誠持
原告ら訴訟代理人弁護士
我妻真典
被告
小畑米蔵
訴訟代理人弁護士
延命政之
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実及び理由
第1請求
1 被告は、原告ソフトウエア開発株式会社に対し、金三二四万七三一三円及びこれに対する平成一一年一二月一二日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告有限会社ソリトン技研に対し、金二四〇万円及びこれに対する平成一一年一二月一二日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は、原告ソフトウエア開発株式会社(以下「原告ソフトウエア開発」という)が、同社を退職した元従業員である被告に対し、一度支払った退職金について、退職金規程に定める就業規則の不支給事由に該当するとして、その返還を求め、また、原告有限会社ソリトン技研(以下「原告ソリトン技研」という)が、同社へ原告ソフトウエア開発から派遣されていた被告が、退職金規程違反により、原告ソリトン技研に対し損害を与えたとして、被告に対し損害の賠償を求める事案である。
1 争いのない事実等
(1)ア 原告ソフトウエア開発は、コンピューターの使用技術開発等を業とする資本金四億円の株式会社である。
イ 原告ソリトン技研は、コンピューターエンジンニアの派遣を主な業とする資本金三〇〇万円の有限会社である。
ウ 被告は、原告ソフトウエア開発の従業員であったが、平成一一年三月三一日、同社を自己都合により退職した。被告の退職当時の原告ソフトウエア開発における役職は、第二技術部選任技術部長であり、同部の管理責任者兼技術実務担当であった。
(2) 原告ソフトウエア開発は、平成九年一〇月一日から平成一一年三月三一日まで、被告を原告ソリトン技研に派遣した。
原告ソリトン技研は、上記期間、被告を松下電送システム株式会社(以下「松下電送」という)から受註したIPV6プロトコル開発業務を同社内で行うべく同社に派遣した。
(3) 原告ソフトウエア開発は、平成一一年四月三〇日、被告に対し、同社の退職金規程に基づき、退職金三二四万七三一三円を支給した。
(4) 原告ソフトウエア開発の退職金規程には次のような退職金支給の除外規定がある(書証略)。
第8条 次の各号の1に該当する者については退職金を支給しない。
(1) 勤続満二年未満の者
(2) 懲戒解雇された者
(3) 競合関係にある同業他社へ採用された者及び競合関係を持つ会社を設立した者
(4) 職責による競業避止契約を締結しなかった者
(5) その他前各号に準ずる者
2 争点
(1) 退職金規程8条(3)ないし(5)の効力
ア 被告の主張
退職金規程8条(3)ないし(5)の各規定は、労働者の職業選択の自由を著しく制約するものである上、運用の基準が曖昧で、かつ恣意的に運用されるなど極めて不合理であるから、公序良俗に反し無効である(民法九〇条)。
イ 原告ソフトウエア開発の主張
コンピューターのソフトウエア開発は、業務の性質上すぐれて労働集約的産業であり、その営業成績はソフトウエア技術者の質及び量に左右されるが、他の業界に比較して、人材の流動が極めて激しく、それに伴い企業秘密の不正流出の危険も高い。本件のように技術者が、顧客先に派遣されて開発業務を行う場合、顧客先との結び付きが強くなる結果、技術者の同業他社への転職によって、顧客先を奪われることも珍しくない。
このような業界の特殊性を考慮すれば、退職金不支給の限度で競業行為及びこれに準ずる行為を抑制しようとすることは、企業防衛手段として許されるものと解すべきであり、公序良俗違反には当たらない。
(2) 退職金規程8条(3)、(5)への該当性
ア 原告ソフトウエア開発の主張
被告が、松下電送で従事していたIPV6プロトコルの開発業務は、通信技術開発に関するもので、機密性がたかく、代替性がきかず、同社で積み上げた経験が後の受注の際に大きな条件となる性格のものであった。そこで、原告ソフトウエア開発は、被告との間で、平成一一年三月一一日から同月三一日にかけて、「被告は、退職後、直接にも間接にも松下電送には関与しない。松下電送の要望で引き続き関わらざるを得ないときは原告ソフトウエア開発及び同ソリトン技研を経由する」旨合意した(以下「本件競業避止契約」という)上、被告に対し退職金を支給した。ところが、被告は、原告ソフトウエア開発退職後も引き続き、松下電送において同様の業務に従事しており、その結果、松下電送は、原告ソリトン技研との契約を打ち切ったのであるから、被告の行為が退職金規程8条(3)、(5)に該当することは明らかである。
イ 被告の主張
被告は、原告ソフトウエア開発に対し、同社を退職する際、「現在は何も考えていない。将来に関わることは約束できない」と述べており、原告ソフトウエア開発の主張するような合意はしていない。
また、原告ソリトン技研と松下電送との間の契約は、期間を六か月間とするものであり、被告が退職した当時、両者の契約は期間満了により終了したものである。
そもそも、IPV6プロトコルは汎用性のあるソフトウエアであり、クローズドされたものではない上、被告が一人その開発従事していたわけではないから、その開発業務も代替性がないものではない。ところが、原告ソリトン技研は、被告と同レベルのスキルを有する技術者を確保することができなかったために、松下電送から契約の更新を拒絶されたにすぎず、被告は、松下電送に請われて、同社で業務に従事しているものであり、退職金規程8条(3)、(5)に該当しない。
(3) 退職金規程8条(4)の規定への該当性
ア 原告ソフトウエア開発の主張
原告ソフトウエア開発と被告との間の前記(2)ア主張の合意が認められないとしたら、被告は退職時、競業避止契約を締結しなかったことになるから、退職金規程8条(4)に該当する。
イ 被告の主張
原告ソフトウエアの主張は争う。
(4) 原告ソリトン技研の損害賠償請求権の有無
ア 原告ソリトン技研の主張
原告ソリトン技研は、被告が原告ソフトウエア開発の退職金規程に違反して、同社退職後も引き続き松下電送で業務に従事したことによって、松下電送から契約を打ち切られた結果、月額一〇〇万円の請負代金を得ることができなくなった。このうち、原告ソリトン技研は、原告ソフトウエア開発に対し、被告の派遣料として月額八〇万円を支払っていたので、被告の行為によって、原告ソリトン技研は、月額二〇万円の利益を得ることができなくなった。そして、松下電送における業務は、少なくとも今後一年間は継続するものであったから、原告ソリトン技研が被る損害は二四〇万円(二〇万円×一二か月)となる。
イ 被告の主張
前記(1)ア及び(2)、(3)の各イのとおり、原告ソフトウエア開発の退職金規程8条(3)、(5)は公序良俗違反により無効であり、また、仮にそうでないとしても、被告には同規定違反の行為はない。
また、前記(2)イのとおり、原告ソリトン技研と松下電送との契約は期間満了により平成一一年三月三一日終了したものであるから、その後の請負代金請求権が発生しないのは当然である。
さらに、前記(2)イのとおり、松下電送が原告ソリトン技研との契約を更新しなかったのは、被告と同程度のスキルを有する技術者を確保できなかったからにすぎず、被告の行為とは関係がない。
第3争点に対する判断
1 前記争いのない事実等、証拠(略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、前記証拠中、これに反する部分は採用しない。
(1) 被告は、原告ソフトウエア開発における処遇に不満があったことから、同社を退職することにして、退職届を作成した。原告ソフトウエア開発は、平成一一年三月一一日、被告からの退職届を受理する際、被告に対し、退職理由や今後のことなどについて聴取した。被告は、その際、今後のことについては、何も考えていない、国へ帰ることも考えている旨回答した。
(2) その後、原告ソフトウエア開発は、被告が退職する同月三一日、被告から引継文書(書証略)を受領した後、被告に対し、契約書(書証略)を示して、署名を求めた。その契約書(書証略)には、競合関係にある同業他社へ就職した場合、競合関係を持つ会社を設立した場合の競業避止等を規定するもので、具体的特約事項として、日本電気株式会社、松下電送及びその協力会社、取引会社には直接的にも間接的にも入社せず取引もしない旨の規定が記載されていた。
しかし、被告は、将来にわたって拘束されるおそれがある旨述べて、契約書(書証略)に署名しなかったが、原告ソフトウエア開発は被告に退職金を支給した。
(3) 被告は、原告ソフトウエア開発を退職して約三か月後、松下電送で、IPV6開発関連業務に従事するようになった。
2 本件競業避止契約の成否について
原告ソフトウエア開発は、被告が、退職後は国へ帰ると述べ、また、契約書(書証略)の規定に違反しない旨誓約した旨主張し、(人証略)、同証人の陳述書(書証略)の記載には、同主張に沿う部分がある。そして、原告ソフトウエア開発が被告に対し、退職金を支給したこと(前記1(2))からすれば、本件競業避止契約が成立したものと推認する余地もないとはいえない。
しかし、契約書(書証略)の規定に違反しない旨誓約した被告が契約書に署名しないというのはいかにも不自然である。むしろ、被告が、将来にわたって拘束されるおそれがある旨述べて契約書(書証略)に署名しなかったこと、被告としては、退職時、その後のことを具体的に考えていたわけではないが、長年コンピューターのプログラム開発に従事してきたことから、このような仕事をするだろうと考えていたこと(証拠略)からすると、被告は、退職後、国へ帰ることも選択肢の一つとして考慮し、その旨原告ソフトウエア開発に対し述べたことがあったとしても、被告には、本件競業避止契約を締結する意図がなかったことは明白であり、同契約の成立を認めることはできない。
3 退職金規定8条(3)ないし(5)の効力について
(1) 退職金規程8条(3)ないし(5)は、退職金の不支給事由とすることで、原告ソフトウエア開発に対する競業及びこれに準ずる行為を抑制しようとするものであることは明らかである。そして、(証拠略)によれば、情報産業においては、技術成果物やノウハウは、会社ではなく、技術者個人や顧客に蓄積させることになるため、ある会社で蓄積したノウハウ、人脈、職位などを利用して転職したり、敵対的同業社を設立するようなことが極めて行われやすく、原告ソフトウエア開発も、技術ノウハウの流出等に悩まされていたことが認められる。このことからすれば、原告ソフトウエア開発が、企業防衛の観点から、退職金規程8条(3)ないし(5)の規定を設ける必要性があることは認められ、退職金が功労報償的な性格をも有していることも考慮すれば、退職金の支給を競業避止義務の遵守義務にかからしめることも直ちに許されないということはできない。
しかし、一方、退職金は、基本的には賃金の後払いとしての性格を有していること、競業避止義務は労働者の職業選択の自由を制約するものであることから、労働者に及ぼす不利益は重大であるから、どのような規定であっても許されるというものではなく、当該規定の効力は、個別的に検討して判断されなければならない。
(2) そこで、退職金規程8条(3)ないし(5)について検討するに、同条(3)の競業避止については、場所的、時間的範囲の制限が一切なく、文言からはおよそ無制限に競業避止を義務付けているものとしか解することができない。この点について、(人証略)は、競業避止の対象となるのは「かつて知ったる会社」であり、期間は約一年を想定しているが、これに該当するかどうかは原告ソフトウエア開発の判断である旨証言しており、従業員には、場所的、時間的範囲が明確に判断できないことが明らかである。また、同条(4)は、いわば競業避止契約を強制するような内容となっている。しかも、原告ソフトウエア開発においては、同条(3)ないし(5)に該当する場合、退職金は一切支給されないのである。
これら規定によれば、結局、原告ソフトウエア開発を退職しようとする従業員は、およそ無制限の競業避止義務を遵守しなければ退職金の支給は全く受けられないことになるのである。こうした規定は、労働者に対し、職業選択の自由を著しく制約するもので、また、基本的に賃金としての性格を有する退職金を一切支給しないというもので労働基準法違反の疑いもあるのであって、原告ソフトウエア開発の必要性に比して労働者に与える不利益が重大かつ深刻にすぎるというべきであり、退職金規程8(3)ないし(5)は、公序良俗に反し無効であるといわなければならない(ただし、同条(5)については、同条(3)、(4)に準ずる者の限度で無効であるというべきである)。
したがって、その余の点について判断するまでもなく、原告ソフトウエア開発の請求は理由がない。
4 原告ソリトン技研の損害賠償請求権の有無について
そもそも、被告が原告ソフトウエア開発の退職金規程に違反することによって、何故原告ソリトン技研に被告に対する損害賠償請求権が発生するのか不明であり(退職金規程の効力はともかくとしても、同規程は原告ソフトウエア開発と被告との間の雇用契約に関するものであって、原告ソリトン技研とは関係がない)、主張自体失当というほかない。
仮に、原告ソリトン技研が被告に対し、不法行為に基づいて損害賠償を求めるものであったとしても、被告が原告ソフトウエア開発を退職した後に松下電送で業務に従事することが不法行為に当たらないことは明らかであるし、その他、原告ソリトン技研との間で債務不履行の問題が生じる余地もないというべきであるから、原告ソリトン技研の請求も理由がない。
5 以上の次第で、原告らの請求は、いずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法六一条、六五条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 松井千鶴子)