東京地方裁判所 平成11年(合わ)497号 判決 2002年8月30日
主文
被告人を無期懲役に処する。
未決勾留日数中五〇〇日をその刑に算入する。
理由
(犯罪事実)
第一強盗殺人事件
被告人は、甲(当時四九歳の女性)を殺害して現金二〇〇万円を強取しようと企て、平成一一年八月二四日午後七時二四分ころから同日午後七時五七分ないし午後八時ころまでの間、東京都江戸川区a町b丁目c番d号所在の甲方において、殺意をもって、甲に対し、その頭部を比較的鋭い部分のある鈍器で十数回殴打し、その頸部をタオルで締め付け、刃物でその両手首を切るなどし、よって、そのころ、その場で、甲を頸部圧迫による窒息、橈骨動脈切断部からの出血による出血性ショック又はその両者の競合のいずれかにより死亡させて殺害し、その際、甲が所有する現金二〇〇万円を強取した。
第二放火事件
被告人は、第一の犯行を隠ぺいする目的で、甲の実父及び実母が所有する現に人が住居に使用せず、かつ、現に人がいない前記場所の木造陸屋根・スレート葺三階建会社事務所併用住宅(床面積合計約一六七・七七平方メートル)に放火してこれを焼損しようと企て、前記日時ころ、同住宅三階において、その寝室、リビング等にガソリンをまき散らすなどした上で火を放ち、リビング内のソファー、寝室内のベッド等に燃え移らせ、よって、同住宅三階の床板、板壁等合計約二・四四平方メートルを燃焼炭化させるなどして焼損した。
第三詐欺事件
被告人は、義父が所有していた土地が既に売却され、その売却代金はほぼ全額被告人が代表取締役をしている会社の債務の返済等に充てられていたにもかかわらず、その土地がいまだ売却されておらず被告人が税金を納めなければ売却できないかのように装い、かつ、返済する意思も能力もないのに、
一 平成一一年五月中旬ころから同年六月中旬ころまでの間、東京都江戸川区ef丁目g番h号所在のA三〇四号室ほか数箇所において、数回にわたり、乙に対し、「税金が払えないので土地が売れない。自分が一〇〇〇万ちょっとをどうにかしなくちゃいけない。」、「自分がもらうことになっている土地だから、税金だけはどうにかしなくちゃいけない。その金額を貸してくれ。売れたら売れたお金で返す。」、「土地さえ売れちゃえば、絶対に返せるから。」、「買う相手も決まってる。」、「知り合いの人から二〇〇万とか三〇〇万どうにかできたから。」、「知り合いの人が二〇〇万どうにか貸してくれることになった。」、「もう一人の知り合いから三〇〇万円借りられることになった。」、「お父さんのほうからも二、三百万出してくれるから。」、「あともう少し足りないから。」、「あと五〇どうにかならないか。」などとうそを言い、乙をその旨誤信させ、よって、同月一七日ころ、同区ij丁目k番先路上に駐車中の普通乗用自動車内において、乙から現金三五〇万円の交付を受け、
二 同年七月中旬ころ、前記A三〇四号室において、乙に対し、「あともう少し足りない。一三〇万円いる。」、「土地が売れたお金から借りている金を返す。必ず全部返すから。」などとうそを言い、乙をその旨誤信させ、よって、同月二三日ころ、同室において、乙から現金一五〇万円の交付を受けた。
(証拠)省略
(補足説明)
第一強盗殺人及び放火事件(判示第一及び第二)について
弁護人は、強盗殺人及び放火事件につき、被告人は事件当日の午後七時二四分ころ、被害者が前夜忘れていった物を届けるために被害者宅を訪ねたことはあるが、午後七時五七分ころにはその場を去っており、火災が発生したのはその後のことであるから、被告人は犯人ではないと主張し、被告人も、これに沿う旨の供述をして捜査・公判を通じて無実を訴えている。そこで、以下、補足して説明する。
一 被害の状況等
本件被害の状況等として、関係各証拠から次の事実が認められる(なお、強盗殺人及び放火事件のあった平成一一年八月二四日を「事件当日」ともいい、事件当日の出来事については時間だけで示すことがある。)。
1 被害者の略歴
甲は、昭和六一年にCと婚姻した後、二人で住宅の建築、設計等を扱う有限会社を営んでいたが、平成九年ころからCと別居し、平成一一年六月に離婚して、事件当時は甲方に一人で住んでいた。同女は、同年五月から、マージャン店の店長として働いていたほか、海産物の卸業を営んでいた(なお、有限会社の経営からは手を引いていた。)。
2 甲方の構造
甲方は、三階建ての会社事務所併用住宅(床面積合計約一六七・七七平方メートル)で、一階が事務所、二階が資材置場、三階が居住部分となっている。甲の居住していた三階部分へ行くには、道路に接している東側の外階段から二階に上がり、二階の玄関を入って、内階段を上っていくことになる。二階の玄関は、資材置場の出入口とは別にあって、三階へ行くにはこの玄関を通らなければならない。
3 本件火災の発見状況
甲方の南隣にはC石油株式会社a給油所(以下「C石油」という。)がある。C石油の臨時店長D1及びアルバイト店員D2らは、事件当日の午後八時ころに店を閉め、閉店作業を終えて、午後八時七分ころにタイムカードを押し、そのころ同店の事務室を出た。焦げ臭いにおいがしたことから付近を確認したところ、D2が甲方西側排気口から黒い煙が立ち上っていることに気付き、D1の指示を受けて、午後八時一五分、一一九番通報をした。
この通報を受けて、午後八時一六分ころ消防署員が出動し、八時一九分ころから消火活動に当たった。その最中、消防署員が、甲方三階寝室内で甲の焼死体を発見した。
4 遺体の状況及び死因
(一) 甲の遺体は、寝室内出入口付近の床上に、仰向けに横たわっていた。着衣は半ば焼失し、顔面、右上肢及び左右下肢は皮膚が炭化して茶褐色に変色し、左上腕、胸腹部及び右側胸部も褐色に変色していた。
遺体の頸部にはタオルが巻かれており(なお、そのタオルは、頸部後ろから掛けられるようにして、頸部右前で、左右の余った部分を交差させて三回程度ねじられていた。)、左前腕部手首にもタオルが一周巻かれた状態でかかっていた。
(二) 遺体を司法解剖したことにより得られた主な結果は、次のとおりである。
頭部に、長さ一ないし三センチメートル、深さ〇・三ないし〇・四センチメートルの挫裂創が一四箇所ある。これらの挫裂創は、その形状等から、先端部に比較的鋭い部分のある鈍体により、かなり強い力で形成されたものと推定される。
頸部の皮下及び筋肉内に出血がある。頸部リンパ節及び舌口蓋扁桃にうっ血が、結膜及び頭皮下に多数の溢血点が認められた。また、甲状軟骨の左の上角は骨折している。これらは、かなりの外力が加わって頸部が圧迫されて窒息したことを支持する所見である。
左手首には長さ約六・五センチメートル、最深部の深さ約一センチメートルのし開創があり、橈骨動脈とその枝が合計三本切断されている。右手首にも長さ約八・五センチメートル、最深部の深さ約一・五センチメートルのし開創があり、橈骨動脈の枝が約四本切断されている。これらの切創は、刃物で形成されたものと推定される。
死因は、頸部圧迫による窒息、橈骨動脈切断部からの出血による出血性ショック又はその両者の競合のいずれかによるものと考えられる。本件火災には、死後間もなく、又は死戦期に遭遇したものと推定される。
5 本件火災後の甲方の状況(血痕及び出火箇所等)
事件当日以降、甲方の実況見分や検証をし、押収物を鑑定するなどして得られた結果は、次のとおりである。
(一) 甲方三階の血痕
甲方三階には次の場所に血痕が残されていた。
(1) リビング出入口近くの北側の壁付近に飛沫血痕
(2) リビング出入口近くの北側床に滴下した血痕
(3) リビング出入口付近の床には出入口ドアにはめられていたガラスが落ちており、その裏面に付着した線状の血痕
(4) リビング北側のカウンター下の床上にほぼ焼損した座布団が三枚重ねで置いてあり、一番下の座布団の南側の縁から床板にかけて付着した血痕
(5) リビング中央西側掃き出し窓付近のソファー上のクッション及び座布団に多数の血痕
(6) リビング中央東側のソファーに浸潤した血痕
(7) リビング東側の寝室との仕切壁の北東角壁面部分に飛沫血痕
(8) 寝室中央床上のカーペット(遺体が発見された付近)に浸潤した血痕
(二) 出火箇所及び焼損面積等
甲方二階と三階の間にある内階段踊場の手すり部分に点火棒(いわゆるチャッカマン)があった。そして、その踊場から三階廊下に至る内階段の一段目の踏み板に、焼損した靴下片方の残さがあった。
本件火災の状況から、出火箇所(出火した部分)は、①前記靴下残さがあった付近、②三階リビング中央西側掃き出し窓の北側のカーテン付近、③同リビング北側台所寄りのソファー付近、④同リビング北側の折り畳みテーブルの東側に束となって積み重ねられていた新聞紙やちらしの付近、⑤三階寝室内出入口の東側付近、⑥同寝室のベッド北側の中央部付近の六箇所と推定され、その着火点は一箇所で足りるものと考えられた。
これらのうち②を除く五箇所から油性反応があり、②については近くのソファー付近から油性反応が認められた。また、②付近のごみ箱内及び⑥のベッド上に、いずれもキャップの付いていないポカリスエットのペットボトル(一・五リットル)が一本ずつあり、近くからキャップも発見された。そのごみ箱内には油類臭のする水溶液が貯留していた。
本件火災によって、甲方の三階に至る階段上(前記靴下残さのあった箇所)、リビング北側板壁及び床面、リビング北側の折り畳みテーブル付近及び寝室内出入口付近床面が燃焼炭化するなどして焼損し、その焼損面積の合計は約二・四四平方メートルであった。
(三) ガソリンの検出
鑑定の結果、前記靴下残さ、(一)(4)のカウンター下の座布団のうち最上部のもの、前記新聞紙等、ごみ箱内及びベッド上の各ペットボトルの内部の抽出物、ごみ箱内の水溶液から、それぞれガソリンが検出された。そのうち、ごみ箱内の水溶液から検出されたガソリンがハイオクガソリンであることも判明した(他のガソリンがハイオクガソリンであるか否かの鑑定はされていない。なお、弁護人は、二本のペットボトル内部の抽出物に関する鑑定の信用性は低いと主張するが、その鑑定を担当した警視庁科学捜査研究所化学研究員の公判供述及び同人作成の鑑定書の内容に疑わしい点はなく、十分信用することができる。)。
(四) 甲方に残された現金等
甲方には、寝室内のクローゼットの棚の上に置かれたプラスチック容器内の封筒に現金一〇万円(すべて千円札)、寝室内の整理だんすの上に置かれた封筒に現金六万二〇〇〇円、同整理だんすの最上段の引き出しに入れられた財布に現金八万四七三〇円など、合計約二九万円の現金が残されていたが、物色されたような形跡は見当たらなかった。
6 甲が事件当日に現金二〇〇万円を借り受けた状況
甲は、十日で一割の利息で金を貸すいわゆる「といち」の金融業者であるE保証から融資を得ようと考え、事件前日である八月二三日午後、E保証に電話をして、店長のような立場にあったF1に対し、翌日夕方の融資を申し込んだ。金額について、甲は、一〇〇万円以上になるかもしれないし、三〇万円とか四〇万円くらいかもしれないとも言ったが、最終的には一五〇万円くらい希望する旨話したため、E保証の側で検討することになった。その際、甲は、もうけ話があるようなことや、二、三日で返すかもしれないし、もっと長く借りるかもしれないなどと話した。
その日の夜、甲は、自ら店長として働いていたマージャン店の経営者であるGに電話をかけて、ちょっとおいしい話があって急に金が必要になったから、一日、二日のうちに百二、三十万円貸してほしいと頼んだ(なお、Gは、公判廷では、甲から一五〇万円か二〇〇万円と言われたかもしれないとも述べている。)。甲は、Gがもう少し時間があれば何とかなるかもしれないと言うと、街金から借りると話し、Gがそれではいくらおいしい話があってももうけにならないでしょと言うと、短期間借りるだけで二、三週間も借りるわけではないからなどと答えた。
甲は、翌日(事件当日)午後零時二五分、E保証のF1から融資金額が一五〇万円となった旨を伝えられた。そこで、午後零時三一分、江戸川区役所生活振興部東部事務所に電話をし、離婚前の甲姓に変更した場合でも変更した名前ですぐに印鑑登録証明書の交付を受けられることを確認した上、午後四時三〇分ころ、同事務所を訪れて、甲姓に変更し、印鑑登録証明書等の交付を受けた。
その後、甲は、午後五時一一分ころから一二分ころにかけて、H銀行I支店J出張所のATM機で、クレジットカードを用いたキャッシングによって合計五〇万円を引き出した。
そして、甲は、午後五時半ころ、地下鉄J駅前でE保証の従業員F2から現金一五〇万円(一万円札一五〇枚)を受け取り、F2に対して借用証書と前記印鑑登録証明書等を渡した。
このようにして甲は、事件当日の夕方に現金合計二〇〇万円を入手しているが、それ以降甲がそれを費消した形跡がなく、焼失した可能性もないのに、事件後に甲方に残された現金は前記のとおりであって、その現金二〇〇万円は発見されていない。
7 客観的証拠から推認される犯行の状況
これまでみた甲の遺体の状況及び死因、本件火災後の甲方の状況、甲の事件当日の行動等に照らすと、次の諸点を指摘することができる。
まず、犯人が、甲を殺害した上、甲方に放火したことは明らかである。すなわち、犯人は、甲方において、甲に対し、その頭部を比較的鋭い部分のある鈍器で十数回強い力で殴打し、その頸部をタオルで強く締め付け、刃物でその両手首を深く切るなどして、甲を殺害し、それを隠すために、三階寝室やリビングにペットボトルに入ったガソリン(その全部又は一部がハイオクガソリン)をまき散らして放火し、甲方三階の一部を焼損したのである。そして、犯人は、甲方から現金二〇〇万円を奪い取ったものと認められる。
二 被告人が事件当日に甲方を訪ねた経過
被告人が事件当日の夜に甲宅を訪れて甲に会っていることは争いがないが、その経過として、以下の事実が認められる。
被告人は、甲とは、平成二、三年ころ、遊びに行ったマージャン店で甲が当時働いていたことから知り合った。被告人は、かねてより交際のあった乙を事件当日夜の食事に誘っていたところ、その日の午後一時一八分、乙に電話をかけ、食事の前に知り合いのところに行くので、午後七時ころ送っていってほしいと頼み、その後の電話で被告人の自宅近くのセブンイレブンで待ち合わせることになった。被告人は、甲とも、その日の夜甲方を訪れる約束をしていた。
被告人は、午後七時二分ころ、そのセブンイレブンで靴下を一足購入した後、長さ六、七〇センチメートルの大きなバッグを持って、乙の車の後部座席に乗り込み、甲方に向かった。被告人は、午後七時一〇分ころと七時二〇分ころ、車内から甲に電話をかけ、道順を尋ねるなどした。また、そのころ、車内で先に購入した靴下をはいた。被告人は、午後七時二四分ころ、甲方に到着し、乙を甲方前路上に停めた車内で待たせた上、バッグを携えて、被告人を出迎えた甲とともに甲方二階玄関に入った。その一〇分か一五分後、被告人はいったん車に戻り、車内で待っていた乙に一言声をかけて、再び甲方玄関に入っていった。その後、被告人は、午後七時五六分三七秒から同分四三秒まで乙に電話をかけ、それから間もなくして外階段を降りて車の後部座席に乗り込み、甲方を離れた(この間に乙に話した内容等については、後に検討する。)。
三 甲方を訪れたことに関する被告人の供述
被告人は、事件当日に甲方を訪れたことにつき、公判廷で次のように供述している。
甲方を訪れたのは、甲が前日の夜に被告人方にカタログ大の雑誌ようの物を忘れたので、それを届けるためであった。事件当日の夜は、乙と食事をする予定であったが、乙に頼んで食事の前に車で甲方に寄ってもらうことにした。セブンイレブンで靴下を購入したのは、乙と初めて食事に行くのに作業ズボンに素足ではみっともないかなと思ったためである。甲方に到着すると、その雑誌ようの物を入れた大きめのバッグを持って、出迎えてくれた甲とともに外階段を上って二階玄関付近に行き、そこで雑誌ようの物を渡して話を始めた。途中、乙に何も言わずに出てきたことに気付き、甲が被告人の汗を拭くためのタオルを三階に取りに行った間に、車に戻って乙に「ちょっと待ってて」と伝えた。その後、再び二階玄関に戻り甲と話し込んだが、予想以上に長くなったので早く話を打ち切ろうと考え、そこから乙に電話をかけて「もうすぐだからエンジンかけといて」と伝え、すぐに甲方を辞去した。強盗殺人も放火も私がやったのではない。
四 犯行と被告人の結び付き(犯人性)
1 時間的観点からの犯行の機会
本件では、事件発生に近接した時間帯に被告人が甲方を訪れて甲に会っていたことは争いがない。犯行時刻を直接的に確定するに足る証拠はないが、本件火災によって甲方から漏出した煙を目撃した者が複数いる。そこで、被告人が甲方を辞去した後に甲以外の者が甲方に現在したとうかがわせる具体的な証拠はないものの、煙の目撃時刻や犯行に要した時間等を検討することにより、被告人による犯行と被告人以外の第三者による犯行のそれぞれの可能性を検討することにする。
(一) 煙の目撃時刻
(1) C石油関係者の煙の目撃時刻
甲方南隣りのC石油の店員であるD2が、午後八時七分ころにタイムカードを押して臨時店長であるD1とともに事務室を出た後、両名が焦げ臭いにおいを感じたことから付近を確認し、甲方西側排気口から黒い煙が立ち上っていることに気付いたため、午後八時一五分に一一九番通報したことは、前記のとおりである。
D1は、においを感じて付近を確認してから煙に気付くまでの時間について、時計を見ているわけではないので定かではないとしながら、「一、二分だと思います。」と供述し、煙に気付いてから通報するまでの時間についても、時計を見ていないので感覚でものをいうしかないとしながら、「二、三分。四、五分。そんなもんじゃないですか。」「煙を見付けてからは、(通報まで)早かったと思いますよ。」などと証言している。このD1証言は、真しな態度でされているほか、D1が本件と全く利害関係がなく、内容に不合理な点もうかがわれないことなどから、高い信用性が認められる。
したがって、D1及びD2が甲方の煙を目撃した時刻は、午後八時一〇分ころから一三分ころまでの間であったと認めることができる。
(2) K夫妻の煙の目撃時刻
K1と妻K2(以下、両名併せて「K夫妻」という。)は、甲方から約六〇ないし六五メートル離れたところに住む夫婦であり、いずれも自宅から本件火災の煙を目撃した。
K夫妻の証言の概略は、「会社から帰宅したK1がシャワーを浴びている最中に、巨人の○○選手がホームランを打ち、その映像をテレビで見たK2がその旨K1に伝えたほか、一瞬ではあるが停電があった。K1は、雨が激しくなってきたので、シャワーから上がる際、K2に二階の窓を閉めてこいと言ったが、K2からは雷が鳴っていて怖いから嫌だと断られた。そこで、K1は、体を拭いてパジャマに着替えた後、窓を閉めに二階に上がった。K1が二階西側の窓を閉めようとした時、甲方の向こうで煙が上がっているのが見えたので、階下のK2に対し、こんな雨の中たき火しているばかがいるぞと声を掛けた。K2も二階に上がってその窓から見ると、甲方から煙が出ていたが、二人とも火事だとは思わなかった。K2は、夕飯の支度のために直ぐ階下に下りたが、K1は、稲光が激しかったこともあってしばらく外を見ていた。やがて食事の支度ができたので、二人で食事を始めたところ、消防車のサイレンの音がした。」というものである。
K夫妻が甲方の煙を目撃した時刻につき、検察官は、煙を見た時にC石油の明かりが甲方壁に反射していたとするK2の証言を前提として、T選手がホームランを打った午後七時四四分以降、C石油の消灯時間である午後八時二分までの間であると主張する。
確かに、K2はそのように証言しているが、他方、K1は、C石油の明かりがついていたかどうかはっきり覚えていないが、ついていたような気はすると述べる程度であること、K2の証言は、甲方壁に反射したC石油の明かりの形につき、当初は客観的証拠(実験結果報告書)と異なり、その後客観的証拠と整合するものに訂正されたものの、変遷の理由について十分納得のいく説明がされておらず、その明かりと甲方東側三階の丸い窓との位置関係についても、客観的証拠と異なっていることなどに照らすと、そのまま信用するにはなおためらいを覚える。
また、検察官は、C石油のD1らが、午後八時より前にゴムのような物が焼けるにおいを感じた旨証言している点も、K夫妻が前記時間に煙を目撃したとする根拠の一つとしている。しかし、D1らが感じたそのにおいが、果たして本件火災に基づくものであるかは必ずしも明らかではないので、犯行時刻を推認する証拠としては用いないことにする。
この点、K夫妻の供述を基に、煙を目撃するまでにしたK夫妻の個々の行動に要した時間を加算するなどして目撃時刻を導く方法も考えられないではないが、時刻について明確な裏付け証拠がないため(T選手のホームランの時刻は明確であるものの、K2の見た映像が生放送のものかビデオでの再放映のものかはっきりせず、停電の時刻については、明確な証拠がない。)、相当幅のある時間でしか特定することができず、目撃時刻の有効なしぼり込みは不可能である。
他方、夕食を始めたころに消防車のサイレンが聞こえたとするK2の証言を基に目撃時刻を推論することは、可能と考えられる。消防車のサイレンがK夫妻に聞こえたのは、早くて消防隊が出動した午後八時一六分ころ、遅くて消防隊が甲方に到着した午後八時一九分ころであったと認められるところ、K1が煙を見ていた時間は、K夫妻の証言によれば五分間から一〇分間というのであるから、K1が煙を見始めた時間は、午後八時六分ころから一四分ころまでの間であったということができる。
(二) 犯行に要した時間
甲を殺害するのに要した時間については、実行行為だけでも前記のとおり十数回の頭部の殴打、頸部の圧迫、両手首への切り付けが認められる上、リビング内の複数の箇所に血痕や飛沫血痕が残されていた状況や、死体直下の寝室のカーペットの北西端がめくれ上がっていたことなどから、甲が犯人の攻撃から逃れようとしていたことや、犯人が甲を引っ張って寝室に移動させたものと考えられるので、相当程度の時間を要したものと認められる。しかも、犯人は、その後、ガソリンを寝室及びリビングにまき散らした上で放火しており、ガソリンの散布から煙の屋外への漏出までの時間としても、ある程度の時間を要したものと認められる。
この点につき、甲の遺体を鑑定した医師が、殺害に要した時間について、「単純な足し算で言えば五分程度以上は必要だが、一〇分以内には終わると思う。」と証言していること、捜査官が甲方寝室及びリビングと同規模の模擬建物を簡易に建築した上、燃焼実験をした際、捜査官がペットボトル一本に入ったガソリンを寝室及びリビングに相当する部分に散布するのに要した時間が約二〇秒間であったこと(実況見分調書)、甲方の検証の際、補助者として参加し、前記燃焼実験を行った警部補が、煙が隣りの家から見ても分かるくらいになるまでにどのくらいかかるかと問われたのに対し、一概には何分と言えないと思うが、この現場に限って推定すると、約三分程度あれば十分煙あるいはにおいがなんか変だという感じにとられても不思議はない状況だと思うと証言していることなどを総合すれば、殺害の着手から煙の漏出までに要する時間は、短くても一〇分前後と認められる。
(三) 被告人が甲方を辞去した時刻
被告人は、前記のとおり、午後七時五六分四三秒に電話を終え、間もなくして甲方外階段を降りて、車に乗り込んでいる。この点につき、乙は、公判廷において、その電話の後三、四分くらいしてから被告人が外階段を降りてきたと供述しているが、捜査段階では、その電話があって一、二分して被告人が戻ってきたとも説明しているので(再現実況見分調書)、被告人が甲方を辞去した時刻を確定するのは困難であるが、午後七時五七分ころから午後八時ころまでの間と認められる。
(四) 第三者による犯行の可能性
以上の検討結果を前提として、第三者による犯行の可能性を検討する。
被告人が甲方を辞去した時刻は確定できないので、ここでは被告人に最も有利に、早い時刻、すなわち午後七時五七分ころ甲方を辞去したものと想定する。そして、本件放火によって発生した煙が甲方から漏出したのを、D1らは午後八時一〇分ころから一三分ころまでの間、K1は午後八時六分ころから一四分ころまでの間に目撃しているから、ここでも被告人に最も有利に、遅い方で両者の重なる午後八時一三分ころと想定すると、被告人が甲方を辞去してから煙が屋外に漏出して目撃されるまでの時間は約一六分間となる。
被告人以外の者が犯人であるとすると、その犯人は、約一六分間という時間の中で、前記のとおり殺害に着手し、現金を奪い、ガソリンを散布の上放火して煙を屋外に漏出させたことになる。しかし、前記(二)で検討した殺害や煙の漏出に要する時間、すなわち短くても一〇分前後という時間を勘案すると、その犯人は、被告人が辞去した後、かなり早い時点で犯行に着手し、手際よく犯行を遂行したことになるが、通常、そのような事態はまず考えにくいといわざるを得ない。しかも、以上の検討は最も長い時間を想定した場合のものであり、時間がより短い場合にはますます考えにくくなるという関係にある。
このように、煙の目撃時刻、犯行に要した時間及び被告人が甲方を辞去した時刻等を前提とすると、犯行が被告人以外の第三者によって行われた可能性は極めて低いということができる。
(五) 被告人による犯行の可能性
そこで、以上の検討とは逆に、被告人が犯人である可能性について検討する。
被告人が午後七時二四分ころから七時五七分ないし八時ころまでの間甲方に在室したことは前記のとおりであるから、その在室時間内に本件犯行に着手して遂行することが可能であったことは明白である。
また、本件火災の消火活動に従事した消防指令補が、同人の経験に基づいて火災の状況等から判断すると、発火してから消火活動に当たるまでに数十分単位の時間が経過していると証言していることなどに照らし、被告人が甲方を辞去する前に放火したと考えても、不自然な点は何らうかがわれない。
(六) まとめ
以上のように、犯行に要する時間、煙の漏出に要する時間と煙の目撃時刻等の時間的事情からは、被告人が犯人であると考えると不自然な点がないのに対し、被告人以外の第三者が犯人である可能性は極めて低いということができる(なお、煙の目撃時刻について採用しなかったK2の証言(前記(一)(2))が信用できると仮定した場合には、更に被告人が犯人である可能性が強まり、第三者が犯人である可能性が否定されることになるので、証拠としなかったことで被告人が不利となるわけではない。C石油のD1らが午後八時より前に感じたにおいが本件火災に基づくものと仮定した場合についても、同様である。)。
2 被告人のハイオクガソリンの購入
(一) 犯行現場からハイオクガソリンが検出されたことは前記のとおりであるところ、検察官は、被告人が事件当日の朝ガソリンスタンドでハイオクガソリンを購入したと主張するのに対し、弁護人は、被告人は甲と事件当日の未明まで飲酒し、起きたのはその日の昼ころであるから、午前中にガソリンを買いに行ったことはないと主張する。
(二) Lの公判供述
(1) 江戸川区il丁目所在のiサービスステーション(以下「iSS」という。)の従業員であるLは、要旨次のとおり証言している。
被告人はiSSの常連客で、顔にあざがあるのですぐ覚えた。被告人は前の方がこげ茶色ぽい感じのホンダカブで来店していたが、当時被告人以外にその色のカブに乗ってくる客はいなかった。
平成一一年八月二四日午前九時五分にハイオクガソリン八・六リットルを売った伝票があるが、私が被告人に売った際のものである。当日、私は、被告人からオイル缶を二缶欲しいと言われ、四リットルの空のオイル缶を探し出して洗った後、二缶にハイオクガソリンを入れた。二缶で八リットル、それにバイクに〇・六リットル給油して販売したと思う。
その年の九月初め、警察官が訪ねてきて、オイル缶にガソリンを入れて売らなかったかと聞かれたので、売ったと答えた。何日ごろかと聞かれたが記憶がなかった。何時ころかとの問いには午前中と答えた。誰に売ったか、知ってる人か知らない人かとも聞かれ、思い出せないでいると、被告人の写真を示されたが、その時点では思い出せなかった。その二、三日後くらいに、警察官から八月二四日の伝票を見せられ、この伝票に記憶はないかと聞かれた。そう言えばオイル缶二缶売って、バイクに入れたのがそれくらいだったなと思い出した。そして、この伝票と写真とで、ガソリンをオイル缶に入れて売ったのが被告人だったというのも思い出した。
(2) Lの証言は、伝票の記載に裏付けられた具体的かつ詳細なもので、特に不自然な点は見当たらず、しかもLがあえて被告人に不利な事実を虚構する動機も見当たらないから、十分信用することができる。
これに対して、弁護人は、Lが、販売した相手が被告人であると思い出したという経緯は不自然であり、警察官から強い精神的圧力を受けた結果、警察官が言うのだから被告人だったのだとの認識が植え付けられたなどと主張している。しかしながら、販売した相手が被告人であったと思い出した経緯と根拠についてのLの説明は合理的であり、しかも、Lは、被告人であることを思い出しても人違いをおそれてすぐには警察官に言わなかったというのであって、Lが警察官から強い精神的圧力を受け、警察官の認識が植え付けられたなどと疑うべき事情はない。
(三) 被告人の捜査段階の供述
被告人自身、捜査段階では、事件当日の午前九時過ぎころから一〇時前の間にiSSに行って、ハイオクガソリンをバイクに給油したことを認める供述をしていた。
その供述は、ハイオクガソリンをオイル缶に入れて購入した点に触れられていないなどの点でLの証言と相違する部分はあるものの、いずれの調書でも具体的かつ詳細に供述されており、特に平成一一年九月一五日付け警察官調書では、被告人自らが「8月24日午前9時頃から10時前頃ガソリンを入れに行った状況」と表題を書いて、その状況を図示した図面を作成していることなどから、信用することができる。
これに対し、被告人は、公判廷で、その図面は八月後半に給油に行った際の状況を説明するために書いたもので、表題は書いていなかったところ、何日かして、捜査官から、その図面を出され、「二五日を中心に前後一〇日では広すぎる。その間には当然二四日も含まれるか。」と聞かれたので、それが事件当日であることを余り深く考えずに「含まれます。」と答えると、捜査官から、「じゃこれは八月二四日の九時とか一〇時で書いてくれ。ある程度日にちを絞ってくれないとこっちも調べようがないから。」と言われて、その図面に前記のとおりの表題を書いた旨供述する。
しかしながら、取調官が、この法廷で、その図面が被告人の供述するような経緯で作成されたものではない旨証言しているところ、同調書において被告人は八月二四日が事件当日であることを明確に認識した上でその図面に即応した内容を供述していることや、事件当日の出来事という重要な事項について、余り深く考えることなく捜査官から言われるままに表題を書いたという被告人の供述内容自体が不自然不合理なものであることなどに照らすと、被告人のその供述は信用し難い。
(四) まとめ
以上のとおり、Lの証言のほか、被告人の捜査段階における前記供述等の関係各証拠によれば、被告人が事件当日の午前九時五分ころ、iSSでオイル缶に入れたハイオクガソリン八リットルを購入したものと認められる。
また、既にみたとおり、本件犯行にはガソリン(その全部又は一部がハイオクガソリン)が用いられているところ、そのガソリンは、ポカリスエットの一・五リットルのペットボトル二本に入れられていたものである。関係各証拠によれば、このペットボトルと同一のロット番号のものが被告人の住んでいたところからほど近い場所にある店舗で販売されているところ、被告人自身、当時ポカリスエットをよく飲んでいて、一・五リットルのペットボトルで購入していたことや、事件当日にペットボトル二本を入れることのできる程度の大きさのバッグを携えて甲方玄関に入ったことを自認しているのであるから、被告人が購入したハイオクガソリンをペットボトルに入れて甲方に入ったと考えることに妨げとなる事情は存在しない。
以上の各事実、すなわち、被告人が事件当日にハイオクガソリンを購入したこと、被告人が当時入手していたのと同種類のペットボトルにハイオクガソリンが入れられて、本件犯行に用いられたこと、被告人がペットボトル二本を入れることのできる程度の大きさのバッグを携えて甲方玄関に入っていることなどの各事実は、被告人の購入したハイオクガソリンと本件犯行に用いられたハイオクガソリンが同一のものであるとまで認めるに足る鑑定等の証拠はないものの、被告人が本件の犯人であると推認させる方向に強く作用するものといえる。
3 被告人の経済状態等と被告人の係わり
(一) 被告人の経済状態
被告人の当時の経済状態は次のとおりであり、被告人も公判廷で認めているところである。
(1) 収入
被告人は、鉄筋工事等を業務とする株式会社Mを設立し経営していたが、平成一〇年五月に事実上倒産したため、同年一〇月ころからは収入がなくなり、乙やいとこのN1らからの借入金で生計を立てていた(もっとも、被告人の妻は、平成一一年八月当時、月約六万円のパート収入を得ていた。)。
(2) 支出
被告人は、平成一一年二月ころから、妻及び長男(本件当時九歳)と三人で江戸川区ef丁目所在のA三〇四号室に住んでいたが妻や乙には内緒で、同年七月下旬に同区im丁目所在のI三〇五号室を賃借し、同年八月三日ころから、そこに一人で住むようになった。その際、被告人は、家具、電化製品一式、生活用品等を新たに購入したため、敷金等を含め合計約二〇〇万円を使った。
そのころ、被告人が生活費や賃料等として毎月必要とした資金は、概ね六〇万円から七〇万円で、その内訳は、妻に渡していた生活費約一五万円、被告人自身の生活費約一五ないし二〇万円、甲及び駐車場の賃料一五万四〇〇〇円、I三〇五号室及び駐車場の賃料一二万一〇〇〇円、公共料金約一〇万円等である。
(3) 債務
本件当時、被告人は、主なものとして次の債務を負担していた。
① 被告人の義父は、かねてから、株式会社Mが融資を受ける際に連帯保証人や物上保証人になるなどして被告人を援助してきたところ、株式会社Mが多額の債務を抱えて倒産したのを受けて、自ら所有する江戸川区no丁目p番q号所在の土地(以下「nの土地」という。)を任意売却することでその債務を整理することにした。nの土地は、平成一一年三月一九日付けで売買契約が締結され、代金一億二八九四万円で売却された。義父は、受領した売買代金のうち合計一億二八三四万三七六二円を株式会社Mの債務等の返済に充てた。この分が被告人の義父に対する債務として残っていることになるが、その金額につき、被告人は、約一億二五〇〇万円と述べている。
② 被告人は、平成一〇年六月から平成一一年八月一二日までの間、一二回にわたり、乙から、合計八二八万円の現金を借り受けている(判示第三の詐欺事件に関わる金額も含む。)。これらは、全く返済されておらず、債務として残っている。
③ 被告人は、N1から、株式会社M倒産後の平成一〇年七月から同年一二月にかけて、七回にわたって合計六七〇万円を借り入れ、平成一一年六月二一日に二〇万円を返済したが、残り六五〇万円は債務として残っている。
④ 以上のほか、N2(実父の再婚相手)に対し三一〇万円、N3(実母)に対し約五〇〇万円、N4(知人)に対し約四〇〇万円、N5信販株式会社に対し約二五〇万円、他の金融業者に対し合計数十万円等の債務を負っていた上、かつての住居兼事務所の賃料滞納分として約二〇〇万円の債務が残っていた。
(二) 八月の被告人の乙に対する言動(金銭に関して)
関係各証拠によれば、次の事実が認められる((1)(2)は特に争いはない。)。
(1) 被告人は、乙に対し、当初は八月のお盆前ころまでにある程度まとまった金額を返すと話していたが、それができなかったため、今度は八月一三日以前に、同月二五日に七〇〇万円くらいを返すと話した。しかし、被告人には返すあてがなかった。
(2) 被告人は、妻からお金がないと言われたので、八月一二日、乙に電話して三万円を借り受けることとし、乙がその日に甲の部屋の新聞受けに三万円を入れた。
(3) 被告人は、事件当日の午後一時一八分、乙に電話をかけ、知り合いのところに行くので午後七時ころ送って行ってくれないか、用事はすぐ終わり、その後(一緒に)食事をするからお金を立て替えてほしいと話した。これを受けて、乙は、夕方勤務先を出てから郵便局で現金五万円を引き下ろした(この点について、弁護人は、被告人の方から食事を誘いながら、乙に食事代の立替えまでもあらかじめ要求するのは虫がよすぎる話で信用できないと主張し、被告人も、乙に金を立て替えてほしいというような話をした記憶はない旨述べている。しかし、その点に関する乙の証言は、具体的かつ自然な内容で、乙が郵便局で現金を引き出した点が他の証拠によって裏付けられていることや、後記第二の二で指摘する点などに照らし、信用することができる。)。
(三) 被告人の事件後の所持金等
被告人が事件当日以後に所持していた金額や費消した金額は、判明しているだけで次のとおりである(争いがなく関係各証拠により認められる。)。すなわち、(1)八月二六日に生活費等として妻に渡した現金三〇万円、(2)八月三一日にH銀行O支店のATM機から振り込んだI三〇五号室及び駐車場の賃料合計一二万一〇〇〇円、(3)その際に同銀行支店で普通預金口座を開設して預け入れた現金七〇万円、(4)八月二五日から二七日まで車を借りて支払った代金三万二六〇〇円、(5)九月一日に行われたI三〇五号室の捜索で居間から発見された現金五〇万円であり、その合計は一六五万三六〇〇円となる。
(四) 汚れた紙幣の両替
P1、P2、P3の各証言、写真撮影結果報告書(同意部分)、P1の検察官調書等の関係各証拠によれば、次の事実が認められる。
被告人は、八月三一日にH銀行O支店に赴き、前記のとおり七〇万円を預け入れたほか、三〇万円の両替を申し込んでいる。その際、被告人は、一万円札で七〇万円と三〇万円あるとして二つの束を女性行員に渡し、前者については預け入れられ、後者については千円札一五〇枚、五千円札三〇枚に両替された(後者は実際には三九万円であったため、九万円はそのまま返却された。)。
ところで、被告人が行員に渡した二つの札束には次のような特徴があった。すなわち、いずれの札束とも、全体的に湿気を帯びてべたべたしており、札の四隅が少しせり上がって、全体が少し波打っていた。色は、表面が全体的に黒ずみ、端の白い部分が特に黒ずんでおり、札束の側面の部分も同じような色に汚れていた。事件後、捜査官が一万円札に人血を塗布して水で洗うなどした場合の紙幣の色調変化を実験したところ、その女性行員が見た汚れ具合は、一万円に人血を塗布し、直後にそれを水で洗い一週間経過させた汚れ方に似ていた。
(五) まとめ
以上の事実を基に検討すると、次の諸点を指摘することができる。
(1) まず、被告人が事件当時経済的に困窮していたことは明らかであるから、金員の強奪を含む本件犯行に及んだとしても、不自然とはいえない。この点は、直ちに被告人と犯行とを積極的に結び付ける事情とまではならないものの、被告人の経済的状況をみてもその結び付きを否定すべき事情がないという意味において、一つの間接事実となるものと考えられる。
これに対して、弁護人は、当時被告人は乙やN1らからの借入金の残り二、三百万円をI三〇五号室に保管していたと主張し、被告人も、この法廷で、これに沿う供述をしている。しかしながら、このことは、被告人が八月一二日に乙から三万円を借りたり、事件当日には乙を初めて食事に誘っておきながら、食事代程度の金額についても立て替えるよう依頼したことと全くそぐわない。また、N1らから借り入れたのは相当以前のことである。これに加えて、前記のような被告人の当時の経済的状況に照らすと、当時二、三百万円の現金があったとする被告人の供述は到底信用できず、これに依拠した弁護人の主張も採用できない。
(2) そのように事件当時は経済的に困窮していた被告人が、特に他から入手した形跡もないのに、甲方を訪問した以降には少なくとも一六五万円というある程度まとまった現金を所持するなどしており、しかも、そのうちの一〇九万円は全体的に湿気を帯びて汚れており、その汚れ具合が塗布した人血を水洗いして一週間経過したものに似ていたというのである(さらに、乙の証言によれば、乙が貸し付けた金にぬれたりしていた紙幣はないというのである。)から、被告人が所持するなどしていた現金一六五万円が甲方からなくなった現金二〇〇万円の一部であったと考えることに妨げとなる事情はない。この事実は、被告人と本件犯行とをかなり強く結び付ける間接事実といえる。
4 被告人のレノマの靴下の購入
関係各証拠によれば、次の事実を認めることができる。
被告人が事件当日の午後七時二分ころにセブンイレブンで靴下一足を購入したことは、前記のとおりである。その靴下は、サイズが二五から二七センチメートル、色がブルーで、「U.P renoma」とプリントされたものである。被告人は、甲方に向かう乙の車の中で、この靴下をはいた。
ところで、前記のとおり、事件後、甲方の内階段の踏み板に、ガソリンの付着した靴下片方の残さがあった。その残さには「U.P renoma」、「サイズ 25~」(それ以降は焼損)のプリントがあった(なお、その靴下の焼損前の色は判別困難である。)。そして、「U.P renoma」の靴下のサイズは、二五から二七センチメートルのものと、二六から二八センチメートルのものの二種類しかなく、販売元がセブンイレブンに卸していた種類は前者だけであり、色はブルーと白の二種類であった。
以上の事実によれば、被告人が事件直前に購入して甲方にはいていった靴下と同種の靴下で、ガソリンが付着し、犯人が燃やしたものの残さが、甲方から発見されたことになる。この点も、被告人と本件犯行とを結び付ける一つの間接事実である。
なお、被告人は、公判廷で、甲方にはいていった靴下はI三〇五号室にあると思うと述べ、事件後にI三〇五号室から同種の靴下が発見されているが、それと被告人が事件直前に購入した靴下とが同一のものであるとする証拠はない。また、そもそも靴下購入に関する被告人の供述は極めて不合理なものである。すなわち、被告人は、靴下を購入したのは乙と食事に行くのに素足ではみっともないと思ったからであり、もともと靴下はI三〇五号室にもあったが、乙とセブンイレブン付近で待ち合わせる前に乙と連絡がとれず、乙に送ってもらうことをあきらめて、一人でバイクに乗って甲方に行こうとして外に出た時に乙と連絡がとれたので、もうI三〇五号室に戻るのがしんどくなって、セブンイレブンで靴下を購入したというのである。しかし、乙と連絡がとれなくなった時点でも、乙と食事をする約束がなくなったわけではないし、情交関係のあった乙との長い交際状況に照らすと、その説明は、セブンイレブンで靴下を購入した理由として納得できるものではない。また、被告人は、検察官による取調べの際には、「私は、夏場は運動靴をはくときもほとんど靴下ははかず、I三〇五号室の自宅を出たときにも靴下ははいていませんでした。しかし、靴下をはかないまま自室を出たものの、初めて甲さんの家を訪ねていくのに、作業服で靴下をはかないままではみっともないと考え、セブンイレブンで靴下を買ったのです。」と供述していたのに、その供述を前記のように変遷させた理由を問われても、その検察官調書のことはよく覚えていないなどと不合理な弁解に終始している。これらの事情からすると、I三〇五号室に同種の靴下があったことを考慮しても、先に導いた結論は左右されないものと考えられる。
5 メモ紙片の記載と被告人の係わり
甲方三階リビングのごみ箱内から、メモ紙片が発見された。そのメモ紙片は、右上部分がほぼ正方形に近い形に破り取られており、残りの部分の中央に大きく、三段に分けて①「090」「○○○○」「○○○○」(注 ○は数字)と鉛筆で書かれた記載、その左上に②「7:30~8:00」とインクで書かれた記載(なお、「7:30」については、「7:00」と書いた後に重ね書きしたように見える。)、①の上に③「△△△△△△△△」(注 △は数字)とインクで書かれた記載、①の右に④「200万」か「700万」のいずれか(「2」と「7」のいずれを書いたのか癖があって判別が困難である。)をインクで書いた記載がある。
証拠上、これらが甲の字であり、①が当時被告人の使用していた携帯電話の番号、③が江戸川区役所生活振興部東部事務所の電話番号であることは明らかである。また、④については金額を書いたものとみて誤りはない。
そして、③については、前記のとおり、甲が八月二四日午後零時三一分に前記東部事務所に電話をかけているところ、その直前に一〇四番に電話をして番号案内を受けていることから、その際に書かれたものと認められる。そして、これは、甲がE保証から一五〇万円を借りる際に必要となった印鑑登録証明書等の交付を受けるためにされた電話である。
その余については、甲がいつ、どのような関連で書いたのか必ずしも明らかではない。ただ、被告人が、この法廷で、八月二四日昼、甲に電話をかけて、甲の忘れ物を甲方に届ける時間について、「七時から七時半と幅を持たせた記憶が残っている。七時半から八時という話になった可能性もないとはいえない。ただ、七時から七時半のほうが、確率としては高いかなと思っている。」と述べていることと、時間を示す②の記載と被告人の携帯電話の番号である①の記載がインクで幾重かに周囲を囲むようにして線が引かれていることから、①と②の記載が関連付けられているものとうかがわれるところ、被告人は、事件当日の午後七時二四分ころ実際に甲宅を訪れているのであるから、これらの事情を併せ考慮すると、②の記載は事件当日に被告人と会う時間を書いたものと解することができる。また、①ないし④が同一のメモ紙片に書かれていることからして、すべてが関連し合うものとみることも可能である。
そうすると、このメモ紙片は、被告人と甲との間で二〇〇万円あるいは七〇〇万円の金額に関するやり取りがされ、その件で事件当日午後七時三〇分から八時までの間に会う約束があったことを示すものとみることも可能であり、この点も、被告人と本件犯行とを関連付ける一つの間接事実と考えることができる。
6 点火棒(いわゆるチャッカマン)の不発見
甲方の内階段の踊場の手すり部分に点火棒があったことは、前記のとおりである。その点火棒は、ピンク色で、TOKAI製である(検証調書)。
他方、被告人は、捜査段階から一貫して、点火棒を平成一一年五月ころに近くのスーパーで買い、I三〇五号室に持っていたことを認めた上、「警部が持っていたトウカイ製のピンク色のチャッカマンと全く同じです。」と供述している。ところが、捜査官がI三〇五号室及びA三〇四号室を捜索しても、その点火棒は発見されていない。そして、被告人は、その行方について問われても、分からないと述べている。
そうすると、甲方にあった点火棒は、被告人の所持していたものであったと考えることが可能である。
7 被告人の甲方訪問時の言動
乙の証言によれば、①被告人が甲方に入ってから一〇分か一五分後に車に戻ってきて乙に話した言葉が、「後でもう一度電話を入れるから携帯電話の電源を切らないで」であったこと、②午後七時五六分の被告人からの電話で被告人が述べた言葉が、急いだ様子で「ドア(あるいはかぎ)開けておいてね」であったこと(なお、乙は、「ドア(かぎ)開けておいてね」というのははっきり記憶にあるが、「もうすぐだからエンジンかけておいて」と被告人が述べたかについては絶対になかったと言い切ることはできない。」と公判廷で述べている。)、③その電話から間もなくして車に乗り込んできた被告人の息遣いが荒く、押し殺したように短くハッハッと息を切っているような感じで、それが車を発進させ最初の信号を曲がってから二、三分くらいは続いていたことが認められる。
これに対して、被告人は、この法廷で、①の際に話した言葉は「ちょっと待ってて」であり、②の際に述べた言葉は「もうすぐだからエンジンかけておいて」であり、「ドア(かぎ)開けておいてね」とは言っていない、③のように車内に戻ってから息遣いが荒かったことはないなどと述べているが、いずれも信用性の高い乙の証言に照らして信用できない。
乙の証言する①ないし③の一連の言動は、②につき「もうすぐだからエンジンかけておいて」との話もあったと仮定しても、被告人が犯人であるとして矛盾しないばかりでなく、①と②は殺害、金員奪取、放火の犯行現場から素早く立ち去るための犯人の言動、③は犯人の犯行直後の息遣いとして理解することができる。したがって、この点も、被告人が犯人であると強く推測させる事実といえる。
8 事件後の被告人の言動
乙の証言によれば、被告人は、翌八月二五日夜、乙と会った際、乙に対し、警察に聞かれたこと以外はしゃべらないでと言ったことが認められる。
また、亀有警察署刑事課強行係主任の証言によれば、被告人は、同月二七日昼、O駅前の交番で、初めて本件で任意の事情聴取を受け、甲との交際状況を尋ねられた際、当初は、かなり前に会っているからいつか忘れたというような言い方で答え、その後、最後に会ったのは八月二三日午後八時ころ車の中で二時間くらい話をしたと答えたことが認められる。
被告人が真に犯人でないとしたら、事件後に乙に口止めをしたり、警察官に事件当日甲と会ったことを隠す供述をするのは、いかにも不自然である。
五 結論
1 以上の検討をまとめると次のとおりである。
(一) 犯行に要する時間、煙の漏出に要する時間と煙の目撃時刻等の時間的事情からは、被告人が犯人であると考えると不自然な点がないのに対し、被告人以外の第三者が犯人である可能性は極めて低いということができる。
(二) 被告人が事件当日にハイオクガソリンを購入したこと、被告人が当時入手していたのと同種類のペットボトルにハイオクガソリンが入れられて、本件犯行に用いられたこと、被告人がペットボトル二本を入れることのできる程度の大きさのバッグを携えて甲方に入っていることなどの各事実は、被告人の購入したハイオクガソリンと本件犯行に用いられたハイオクガソリンが同一のものであるとまで認めるに足る鑑定等の証拠はないものの、被告人が本件の犯人であると推認させる方向に強く作用するものといえる。
(三) 被告人が事件当時経済的に困窮していたことは明らかであり、金員の強奪を含む本件犯行に及んだとしても、不自然とはいえない。そして、経済的に困窮していた被告人が、甲方訪問以降は少なくとも一六五万円を所持するなどしており、そのうち一〇九万円の紙幣の汚れ具合が、塗布した人血を水洗いして一週間経過したものと似ていたことから、被告人が所持するなどしていた現金一六五万円が、甲方からなくなった現金二〇〇万円の一部であったと考えることに妨げとなる事情はない。この事実は、被告人と本件犯行とをかなり強く結び付ける間接事実といえる。
(四) 被告人が事件直前に購入して甲方にはいていった靴下と同種の靴下で、ガソリンが付着し、犯人が燃やしたものの残さが、甲方から発見されたことも、被告人と本件犯行とを結び付ける一つの間接事実である。
(五) 甲方にあった甲のメモ紙片の記載は、被告人と甲との間で二〇〇万円あるいは七〇〇万円の金額に関するやり取りがされ、その件で事件当夜会う約束があったことを示すものとみることも可能であり、同様の間接事実と考えられる。
(六) 甲方にあった点火棒(チャッカマン)は、被告人の所持していたものであったと考えることが可能である。
(七) 被告人が甲方を訪れた際の乙への言動や、甲宅を辞去した後しばらくの間息遣いが荒かったことなどは、犯人の言動等として理解することができ、被告人が犯人であると強く推測させる。
(八) 被告人は、事件後に乙に口止めをしたり、警察官に事件当日甲と会ったことを隠すなど真犯人でないとしたら不自然な行動をとっている。
2 前記一(被害の状況等)で認定した事実や指摘した諸点に前項(一)ないし(八)の諸事情を総合考慮すると、被告人は、何らかの事情で甲が現金二〇〇万円を手にすることを知り、甲を殺害してその二〇〇万円を強取し、その後は犯行を隠ぺいするために甲方に放火することを計画した上、八月二四日午後七時二四分ころ、ポカリスエットの一・五リットルのペットボトル二本に入れたハイオクガソリン等を携えて甲方に立ち入り、その後、判示第一及び第二の各犯行に及んだものと認めることができる。
なお、検察官は、被告人が、甲に架空のもうけ話を持ち掛けて甲に現金を準備させた上、甲を殺害してその現金を奪うとの計画を立て、それを実行したと主張している。しかしながら、甲にもうけ話があったことはこれまで認定したところからうかがわれるものの、それを被告人が持ち掛けた架空の話であったとまで認めるに足りる証拠はない。
3 これに対して弁護人は、被告人が犯人であるならば、乙という目撃者として犯罪の証明者となり得る者をわざわざ犯行現場に連れて行くのであろうかという素朴な疑問が生ずるとの主張をはじめ、被告人が犯人であった場合に合理的に説明するのが困難であるとして種々の点を指摘している。確かに、本件全証拠によっても、被告人の意図や行動のすべてを解明することはできないが、それらが解明できないとしても、被告人が本件各犯行を行ったとの認定を揺るがすような種類のものではない。その他弁護人の指摘する諸点及び被告人の弁解をつぶさに検討しても、右認定に合理的な疑いを容れる余地はない。
第二詐欺事件(判示第三)について
一 弁護人の主張
弁護人の主張は次のとおりであり、被告人もこれに沿う供述をしている。
被告人は、平成一〇年から一一年にかけて、乙から総額八二八万円を借りている。これは、被告人に恋愛感情を抱いていた乙が、ノンバンク等に借金のある被告人を援助したいとの気持ちから、被告人に当時返済の資力がないことを知りながら貸したものであって、乙が錯誤に陥って貸したわけではない。
被告人が、義父所有の土地を売却するには税金を納めなければならないかのように装って、税金の支払いに必要だから金を貸してほしいなどとうそを述べて乙を欺いたことはない。被告人は、いずれ事業を興してから一括して乙に借金を返済しようと考えていたのであるから、返済の意思も能力もあった。
二 乙の証言の信用性
判示第三の認定に沿う乙の証言は、具体的かつ詳細で、覚えていないところはその旨断りながらされている。また、被告人に対しては、お金さえ返してもらえば処罰は望まない旨述べるなど、被告人と古くから情交関係があり被告人に対する恋愛感情を持っていた者として、被告人に対する配慮をみせながらされた供述であって、あえてうそを述べる理由はうかがわれない。そうすると、乙の公判供述の信用性は極めて高いと認められる。
これに対して弁護人は、乙の供述によると、平成一一年五月に被告人から未払い税額が七〇〇万円か八〇〇万円と聞き、その後被告人から、知り合いから二〇〇万円、義父から二〇〇万円か三〇〇万円、もう一人の知り合いから三〇〇万円を借りることができたなどと聞いたことになるが、それでは未払い税金が残らず、乙から借りる必要はないはずであり、この点の説明を求められても合理的な説明をしていないとして、乙の証言は信用できない旨主張する。しかし、乙は、被告人から税金の額や手当のできた金額等について数度にわたって聞かされており、しかも税金の額については会うたびに変わっていったというのであり、被告人から種々言われたことをまとめて計算しなかったとしても何ら不自然ではないから、乙の供述の信用性が損なわれるものではない。このほか弁護人の主張する諸点を考慮して検討しても、乙の証言の信用性が揺らぐことはない。
三 結論
信用性の高い乙の証言に加えて、nの土地が平成一一年三月一九日付けで売却され、同年五月中旬までにはその売買代金で株式会社M等の債務が整理され、税金のことで売却できないような事情がなかったことは証拠上明らかであって、それらのことを被告人も当然認識していたと認められることや、これまで認定したように、平成一一年五月ないし七月当時においても、被告人は多額の借金を抱えながらも無職・無収入で経済的に困窮し、乙に対しては借金を全く返済していなかったことなどを併せ考えれば、被告人が、乙に対し、nの土地を売却するには税金を納めなければならないかのように装って、かつ、返済する意思も能力もないのに、税金の支払いに必要だから金を貸してほしいなどとうそを述べて、その旨誤信した乙から現金合計五〇〇万円の交付を受けたものと認めることができる。
(法令の適用)省略
(量刑の理由)
一 本件の概要
本件の強盗殺人及び非現住建造物等放火事件(判示第一及び第二)は、被告人が、計画的に、甲を殺害して現金二〇〇万円を奪い取った上、その犯行を隠ぺいするために、所携のハイオクガソリンを甲方三階にまき散らして放火し、同所の一部を焼損したという凶悪で重大な事犯であり、詐欺事件(判示第三)は、生活費等欲しさから、乙を欺いて、二回にわたって合計五〇〇万円の現金をだまし取ったという事案である。
二 強盗殺人及び非現住建造物等放火事件の犯情
本件ではもはや甲に語る口がなく、被告人が犯行への関与を否定しているため、犯行に至る経緯、犯行の動機及び態様等の具体的な内容について解明できないところが多々あるが、これまで検討してきたところやその他の関係各証拠によって、少なくとも次の犯情を認めることができる。
1 被告人は、何らかの事情で甲が現金二〇〇万円を手にすることを知って、甲を殺害してその現金二〇〇万円を奪い取った後、自己の犯行の発覚を免れるために、甲方に放火しようとしたものである。そのような短絡的で自己中心的な動機に酌量の余地がないことは明白である。
被告人が金員の強奪を計画した背景には、被告人が当時経済的に困窮していたことがあるが、そのような経済的苦境に陥ったのは、多額の債務を抱えて株式会社Mが倒産した後、知人や親戚らの援助によって、株式会社Mの債務を整理したり、自身や妻子の生計を維持していたのに、自分は無職・無収入のまま、それまでの生活態度を改めるどころか、妻以外の女性と親しく交際して飲み歩いたり、さほど高い必要性も認められないのに、妻には内緒で多額の費用を投じて新たにマンションの一室を借り受け、備品も整えて暮らすという、浪費傾向の認められる生活態度に起因しているのである。したがって、本件に至る経緯においても、酌むべき事情は全く見当たらない。
2 態様をみると、被告人は、現金二〇〇万円を奪い取るために甲を殺害することにし、更に自己の犯行の発覚を免れるために放火して手掛りを焼損させることにして、あらかじめ用意したペットボトルに入ったハイオクガソリン等を携えて甲方に立ち入って犯行に及んだのである。このように、本件は、計画的に遂行された犯行である。
そして、被告人は、甲方で、甲に対し、その頭部を比較的鋭い部分のある鈍器で十数回強打し、その頸部をタオルで強く締め付け、その両手首を刃物で深く切り付けるなどして殺害し、現金二〇〇万円を強奪したのである。甲の生命を確実に奪おうとの極めて強固な確定的殺意に基づいて、執ように非情な攻撃を加えており、残虐な犯行というほかない。
その後、被告人は、その犯行を隠ぺいするため、一・五リットルのペットボトル二本に入ったハイオクガソリンを、甲方の三階寝室やリビング等にまき散らして火を放ち、甲方三階の一部(約二・四四平方メートル)を焼損している。直ちに強い火力の得られるガソリンが用いられていること、甲方が住宅街にあることなどを考えると、極めて危険性の高い悪質な犯行というべきである。
事件後に発見された甲の姿は、前記の攻撃を受け、更に炎に包まれたことで余りにも無惨であり、いかに非道な犯行であったかをよく物語っている。
3 本件の結果は、もとより重大である。甲は、当時四九歳で、マージャン店の店長として勤務するとともに海産物の卸しの仕事をするなど特に問題のない生活を送っていたのであり、厳しい一面もあったが、自分のした約束は守り、親思いの女性であった。ところが、知人である被告人と付き合ううちに被告人の手にかかって、かけがえのない命を奪われたのである。甲が死に至るまでに受けた肉体的苦痛は想像を超えるものがある。その無念さは察するに余りある。
そして、甲の遺族らが受けた精神的な衝撃や悲嘆の念がいかに大きく深いものであるかは言うに及ばない。甲の両親、弟が極刑を求め、とりわけ甲の実母は、この法廷での証言、あるいは病に倒れた後にした書面による意見陳述において、被告人が極刑に処せられることを繰り返し切望しているが、その心情も十分理解できるところである。
また、本件によって奪われた現金や甲方建物に生じた損害が多額であることも看過できない事情である。
4 本件が住宅街の中で行われ、広く報道されるなどして社会に与えた影響も大きかったものと認められる。
三 詐欺事件の犯情
詐欺事件をみると、被告人は、情交関係のあった乙から借金を繰り返し、犯行時までにその額が合計三二五万円に上っていたのに、乙が被告人に好意をもってそれまでも種々援助してくれていたことにつけ込んで、更に二回にわたって現金合計五〇〇万円をだまし取ったものであり、その動機や経緯に酌むべき事情はない上、乙の気持ちを逆手にとった卑劣でこうかつな犯行といわざるを得ず、被害額も少なくない。
四 小括
以上に対して、被告人は、強盗殺人及び放火事件については、自分は犯人ではないとの供述に固執する余り不自然不合理な弁解を繰り返し、結局、甲やその遺族に対して、一度も謝罪の言葉を口にしていない。詐欺事件でも否認を続けている。誠に残念なことに被告人には反省悔悟の念を感じ取ることができない。
以上の諸事情を考慮すると、被告人の刑事責任は極めて重いというほかはない。
五 被告人にとって有利な情状
被告人は、犯行時四〇歳で、工業高校卒業後、建設会社等に勤務した後、昭和五八、九年にはマンションの階段の手すりの設置等を手がけるQ組を立ち上げ、資金繰りや自身の体調が悪化したことなどから昭和六三年に同組を閉鎖し、平成二年六月に鉄筋工事等を業とする株式会社Mを設立し、倒産する平成一〇年五月までその経営をするなどして主に建築業に身を置き、現在は離婚したものの犯行時には妻子のあった者である。既に指摘したとおり生活態度には問題があったものの、昭和五四年一〇月に傷害罪により罰金一〇万円に処せられたほか、道路交通法違反の罪により罰金に処せられた前科がある程度で、それを除けば犯罪とは無縁の生活を送ってきた。
六 結論
このように、本件が凶悪重大事犯であって、被告人が短絡的で自己中心的な動機から、計画的に、執ようかつ残虐な手段で人一人の命を奪い、遺族の処罰感情が峻烈であるにもかかわらず、被告人が反省の態度を全くみせず、社会的影響も大きいことなどの諸事情を考慮すると、量刑に当たっては極刑の選択も視野において考慮しなければならない事案であることは間違いない。しかしながら、死刑が真にやむを得ない場合における究極の刑罰であることに照らし、諸般の事情を総合考慮すると、被告人に対して死刑を選択することにはなお躊躇を覚える。そこで、当裁判所は、被告人を無期懲役に処し、被告人の一生をかけて甲の冥福を祈らせて自らの犯した罪の重さを考えさせることが相当であると考えた。
(求刑 死刑)
(裁判長裁判官 池田修 裁判官 浅香竜太)
裁判官 三上潤は差し支えのため署名押印できない。 裁判長裁判官 池田修