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東京地方裁判所 平成12年(ワ)944号 判決 2000年11月30日

原告

右訴訟代理人弁護士

高橋正雄

被告

株式会社永岡書店

右代表者代表取締役

被告

右両名訴訟代理人弁護士

今井征夫

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

一  被告らは、原告に対し、連帯して二億五〇〇〇万円及びこれに対する平成一二年二月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告らは、朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞の各朝刊に別紙(一)記載の謝罪広告を別紙(二)記載の条件で一回掲載せよ。

三  被告らは、別紙第一書籍目録記載の「アニメ昔ばなしシリーズ」第一巻ないし第一〇巻及び「名作アニメ絵本シリーズ」第一巻ないし第九〇巻の再版及びこれによる販売をしてはならない。

第二事案の概要

原告は、別紙第一書籍目録記載の書籍(以下「原告書籍」という。)の著作者、著作権者であり、被告株式会社永岡書店(以下「被告会社」という。)は右書籍につき原告との間で出版契約を締結していた者である。

原告は、① 被告会社は右契約に基づく出版権の消滅後に発行の日付をさかのぼらせた上で原告書籍を印刷、販売して、原告の複製権を侵害した、② 仮にそうでないとしても、被告会社が右出版権の消滅後に在庫の原告書籍を販売したことは、原告の複製権の侵害に当たる、③ しかも、被告会社は、原告書籍を定価を大幅に下回る価格で販売して原告の著作者人格権を侵害した、④ 被告会社は、原告の許諾を得ることなく、別紙第二書籍目録記載の書籍(以下「被告書籍」という。)を出版して、原告が原告書籍について有する著作権を侵害した、旨を主張し、被告会社及び被告会社の代表者である被告Bに対し、損害賠償(被告らに対する訴状送達の日の翌日である平成一二年二月二日以降の遅延損害金の支払を含む。)、謝罪広告の掲載、原告書籍の再版及び販売の差止めを求めている。

一  当事者間に争いのない事実等(証拠により認定したものは、末尾に証拠を記載した。)

1(当事者)

原告は、童話作家であり、故Cに師事した後、日活撮影所の研究所勤務、手塚プロダクションのマネージャーを経て、昭和四六年アニメ絵本の「アンデルセン童話」をプロデュースするなどの経歴を有する者である。原告は、その出版物等の製作会社として、有限会社アニメ企画、有限会社ヤマヤ企画を設立している。

(甲一、五二、弁論の全趣旨)

被告会社は、図書の出版及び販売等を目的とする会社であり、被告Bは被告会社の代表取締役である。

2(原告書籍の出版契約)

原告と被告会社は、昭和五九年三月一〇日、原告を著作者、著作権者とする原告書籍につき、被告会社を出版者とする出版契約(以下「本件出版契約」という。)を締結した。

3(被告書籍の出版等)

被告会社は、平成九年七月一〇日から被告書籍を発行した。

原告は、被告会社に対し、平成一〇年三月九日ころ、被告書籍の発行が原告の著作権を侵害することを理由に本件出版契約を解除する旨の意思表示をした。被告会社は、これに対し、原告主張の解除理由は認められないが、本件出版契約の合意解除に応じる用意はある旨を回答した。(甲五九、乙一)

二  争点

1  被告会社は、本件出版契約の解除の意思表示がされた後、発行日をさかのぼらせた上で原告書籍を印刷して出版したか。

2  被告会社が、本件出版契約の解除の意思表示がされた後、在庫の原告書籍を販売したことが複製権の侵害に当たるか。

3  被告会社が、定価よりも安い価格で原告書籍を販売したことが原告の著作者人格権を侵害するか。

4  被告書籍の内容は、原告が原告書籍について有する著作権を侵害するものか。

5  被告Bの責任

6  原告の被った損害

三  争点に関する当事者の主張

1  争点1(発行日をさかのぼらせて出版した事実の有無)について

(原告の主張)

(一) 原告が本件出版契約解除の意思表示をした平成一〇年三月以前の被告会社による原告書籍の出版部数は、一か月当たり約五九万冊であった。

被告らが主張するとおり、もし、同年四月一〇日現在の原告書籍の在庫が二〇万部程度であったとすれば、それはわずか半月分の在庫にとどまる。

(二) 被告会社は、同日から二年以上経過した現在でも、全国の書店において原告書籍を販売している。被告の販売する原告書籍に印刷されている発行日は「一九九七年七月一〇日」「同年九月一〇日」「同年一〇月一〇日」「一九九八年二月一〇日」などとされているものの、被告らの主張する右在庫数が絶対的に少量であることからすれば、被告会社が原告書籍の製版フィルムを利用して、新たに原告書籍を印刷していることは明らかである。

(三) 右印刷の事実は、書店に陳列されている原告書籍の小口(本の綴じ口の反対側)や天地(本の上下の裁断面)が真新しく、色褪せる等の変色もないこと、書店から返品された書籍の小口や天地について変色したり、汚損等したりしていることを理由として施される各一・五ミリメートル程度の再裁断の痕跡もなく、天地と左右の各幅がそれぞれ一四八ミリメートルという同一の大きさであることからも窺われる。

(四) その上、原告書籍の表紙(背表紙を含む。)は、蛍光インク入りのインクで印刷されているので、屋内の本箱、本立てに立てておいたとしても二年程度経つと背表紙等が色褪せたり脱色するという短所があるところ、被告会社が販売している原告書籍にはそのような脱色等が見られない。このことからも、被告会社が新たに印刷していることは裏付けられる。

(被告らの主張)

(一) 原告から平成一〇年三月に本件出版契約解除の通知を受け取った時点で、被告会社では、既に同年四月一〇日発行予定の原告書籍「くるみわり人形」「アルプスの少女ハイジ」「はなよめになったねこ」各一万冊、合計三万冊の印刷を終了しており、これについては同日予定どおり再版発行した。なお、右再版については、同年四月中旬原告に対し従前どおり再版通知を行い、印税についても同年八月一〇日に支払っている。

被告会社では、原告による右解除通知の法的効力は別にして、以後の再版は見合わせた方がよいと判断し、右の三万冊の再版を最後に、以後原告書籍の発行は一切行っていない。

(二) 原告は、被告会社がその後に日付をさかのぼらせて原告書籍の印刷をした旨主張するが、全く理由がない。

平成一〇年四月ころ、被告会社の有していた原告書籍の在庫は、一タイトル二〇〇〇部としても、一〇〇タイトルあるので、二〇万部となる。

2  争点2(在庫の販売による複製権侵害の成否)について

(原告の主張)

仮に、被告会社が印刷の日付をさかのぼらせて原告書籍を印刷した事実が認められないとしても、被告会社は、本件出版契約が解除され、出版権が消滅した後に、原告の許諾を得ることなく、その消滅以前の発行日付の原告書籍を販売しているから、複製権の侵害に当たる。

(被告らの主張)

原告と被告会社は、本件出版契約において、出版権消滅後も在庫の原告書籍を頒布することができる旨を合意している。よって、被告会社による在庫の販売は複製権の侵害を構成しない。

3  争点3(著作者人格権の侵害の成否)について

(原告の主張)

被告会社は、いわゆるバッタ市場において、定価三五〇円の原告書籍を二〇〇円の廉価でいわゆるバッタ販売をした。

例えば、青森市<以下略>所在の「サンロード青森」、青森県弘前市<以下略>所在の「イトーヨーカ堂弘前店」、その他東京都内の書店等において、右バッタ販売は行われている。

これにより、著作者である原告の人格は根底から毀損され、出版界において作家として相手にされなくなるという回復不能の危機に陥れられた。

(被告らの主張)

(一) 著作権法に規定する著作者人格権は、著作物の公表権、氏名表示権、同一性保持権の三つを内容とする。

原告が主張する「原告書籍を廉価で販売した」といったことは著作者人格権とは関係がない。著作権法一一三条三項の主張と考えても、同条は著作物の利用面での規制を行う趣旨のもので、本件のような著作物の販売面を想定した規定ではないから、原告の主張は失当である。

(二) 一般に、出版会社が図書を通常の掛け率より安く卸売りすることが、著作者の名誉、声望を害することになるとは考えられないし、要は原告の個人的な主観の問題にすぎない。出版物は、ブックフェア、催事等に協力して、安く卸売りすることもあるし、極端な例では、古書店で安く販売されていることもある。被告会社は、原告書籍の在庫を相当数保有しており、正規価格で売りたいのはやまやまであるがそうもいかない場合もある。いずれにせよ、著作権者である原告には、上代価格に応じた印税が支払われており、原告の主張は全く理由がない。

4  争点4(著作権の侵害の成否)について

(原告の主張)

(一) 「三びきのこぶた」について

(1) 「三びきのこぶた」の物語は、英国のジェイコブズが古くから伝わる民話を集めた「イギリス民話集」の中の一編である。原告書籍の「三びきのこぶた」は、右ジェイコブズによる原典(以下、この項において単に「原典」という。)に原告が独自の翻案を加えたもので、内容において天と地ほどの大きな違いがある。

すなわち、原典では、① 藁の家を造った子豚は狼に息を吹きかけられて家をバラバラにされた上で食べられる、② エニシダの枝で家を造った子豚も同じように狼に息を吹きかけられて家をバラバラにされた上で食べられる、③ レンガの家の煙突から鍋に落ちた狼は茹でて食べられる、という内容である。しかし、原告書籍では、藁の家を造った子豚は、狼に家を吹き飛ばされるが、さっさと逃げて藁よりも丈夫な薪で造った家に逃げ込むという独自の翻案をしている。これは、「面倒くさがって、簡単に藁で家を作ると身を守れない。」という教訓を入れたものである。次に、原告書籍では、エニシダの枝ではなく、薪で造った家とし、狼はこれに息を吹きかけても壊れないので、体当たりして壊すことにしている。これは、少し苦労して釘を打って造った家も、力のある狼から身を守ることができないこと、「見かけだけ丈夫そうに作ってもだめですよ。」という教訓に編集し直したものである。そして、最後は、努力家で堅実な弟豚が、時間を掛け、汗を流して造ったレンガの家に兄豚たちが逃げ込んで、三匹全員が助かり、これを教訓にみんなで力を合わせて狼と戦い、これを追い払うという教訓にしている。原典は、米国では子どもに見せることは禁止されるほど残酷な内容であるので、原告は残酷な描写を排除する観点から、原典とは逆の話に翻案した。その結果、原告書籍では、母豚と三匹の子豚の対話から始まり、助かった三匹の子豚が手を取って喜ぶところで終わるという構成になっている。

(2) 被告会社は、原典を読みもしないで、別表一のとおり、原告が苦労して創作・翻案し、独自の絵で構成して編集した原告書籍の「三びきのこぶた」をそのままそっくり真似ており、原告の著作権を侵害していることは明らかである。

(二) 「にんぎょひめ」について

(1) 原告書籍の「にんぎょひめ」は、アンデルセン童話集の一部である原書の「人魚姫」に独自の創作を加えて翻案したものであるところ、被告会社は右原告独自の物語内容、ストーリーの展開をそっくり真似ている。

すなわち、岩波文庫刊「完訳アンデルセン童話集」Ⅰ(D訳・昭和五九年五月改版第一刷発行。以下この項において「原典」という。)と原告書籍を比較すると、以下のとおりの相違点がみられる。

(2) 原典では、人魚姫が大きな帆船に泳ぎ寄り、透き通った窓ガラスから船内を覗き見るという描写があるが、吃水線ぎりぎりに割れやすい構造の窓が設けられている船はあり得ないことから、原告書籍では合理的な設定に変え、王子が上甲板のデッキから身を乗り出している姿を人魚姫が海面から見上げるという形に翻案している。

(3) 原典では、王子の新婚旅行のシーンを、甲板にテントを張り、その中に王子と花嫁の二人が寝ているようにしているが、帆船の甲板でテントを張っていては、強風や嵐に耐えられないので、原告書籍では、キャビンに寝ているというように翻案した。

(4) 原典では、登場人物の服装はデンマーク風(原作者アンデルセンはデンマーク人)であり、人魚の髪の毛も黒髪であるのに対し、原告書籍では、服装はイギリスファッションとし、五人の少女人魚の髪の色を、金色、緑色、茶色、赤茶色、青色等とした。

(5) 原典では、人魚姫は甲板にあるテントの天幕のカーテンを開けて眠っている王子と花嫁に近づくという設定になっているのに対し、原告書籍では、キャビンの王子の寝室に忍び込む設定とし、また、花嫁と抱き合って寝ている原典を、教育上、王子一人だけで寝ているというように翻案した。

(6) ラストシーンについて、原典では、人魚姫は泡となって消えていく悲しい最期を迎えるのに対し、原告書籍では、泡となって消えていくのではなく、天使に手を引かれて空高く上っていく旨の世界で初めての翻案を独自に行い、世界中で賞賛されている。

(7) 被告会社は、別表二のとおり、原告書籍をそのまま真似て、原告の著作権を侵害したものである。

(三) 「ももたろう」について

(1) 我が国で数百年間語り継がれてきた「桃太郎」の原典のストーリーは次のようなものである。

桃太郎は、犬、猿、雉に力の出るきびだんごを分けてやって、家来にすると、鬼ヶ島に上陸する。そして、悪い鬼と戦うが、きびだんごの効能で十人力のついた桃太郎と犬、猿、雉は、あっという間に鬼たちをやっつけてしまう。そして、鬼の親分は「宝物を差し上げますから、命ばかりは助けて下さい。」と都から奪い取ってきた金銀財宝を山のように差し出す。桃太郎は、その宝物を車に積んで、犬、猿、雉が「えんやら」と、おじいさん、おばあさんの待つ家に持ち帰り、大金持ちになり、幸せに暮らす。

この原典の物語の内容は、正義の観念からは、とんでもない反社会的なものであり、将来性のある子どもたちのためにならないし、現代の道徳や刑法に照らしても、鬼が善良な人々を襲い強盗をして集めた宝物を取り返して自分のものにするというのは、盗人の上前をはねる犯罪行為である。

(2) そこで、原告は正義の観点に基づいた独自の物語の内容として、「取り戻した宝物は、盗まれた人々のところに返しました。そして、その感心な行いに殿様が褒美を下されます。」と翻案した。しかも、桃太郎は、「宝物を貧しい人々に分けてあげ、皆で協力し、畑や田を耕し、幸せに暮らした。」というように、従来あった「桃太郎」とは全く異なる内容に翻案した。

この原告書籍の内容は、原告による創作ストーリーであると同時に、新しく絵の登場人物、構図、カットを配列して構成した作品であるところ、被告会社は、別表三のとおり、原告書籍の内容をそのまま真似て著作権を侵害した。

(四) 「ぶんぶくちゃがま」について

(1) 原告書籍の「ぶんぶくちゃがま」は、原告が将来性ある子どもたちに明るく夢を与えるアニメ童話を創作するために、群馬県館林市の茂林寺に伝わる由来話に、独特なデザイン化をして現代っ子に分かりやすく翻案したものである。

(2) 原告は、この作品の要である「たぬき」が化けた「ぶんぶく茶釜」を、間抜けな「茶釜」として、蓋がめり込んでいるように独自に構成して翻案しているが、被告会社は、この原告独自の「茶釜」をデッドコピーし、九個の丸い突起の大きさや数まで同じようにしている。

また、被告会社は、別表四のとおり、原告書籍の絵を反転させてコピーしたり、そのままコピーして、原告の複製権を侵害したものである。

(五) 「さるかにばなし」について

(1) 原告書籍の「さるかにばなし」は、「猿かに合戦」という古くから伝わる昔話を原告が独自の編集方針により全く違う新しい童話として翻案したものである。

まず、「猿かに合戦」は、タイトルに「合戦」の語が付けられていることからも分かるように、合戦がテーマである。その物語の内容は、次のようなものである。

蟹は、猿の柿の種とおにぎりを取り換え、家に持ち帰って柿の木に育てると、おいしそうな柿がたわわに実った。

ところが、蟹は木に登れずに、せっかく実った柿の実を食べることができない。そこへ、猿がやってきて「かにさん ぼくが かきの実を とってあげよう」と親切ごかしに木に登り、おいしそうな赤い柿の実を食べてしまう。

蟹が「おさるさーん ぼくにも 一つでいいからとっておくれよ」と言うと、ずるい猿は、青くて渋い柿の実を「おれが 明日 食べるのが少なくなるから これでもくらえ」と投げつけ、「ドスーン」「ギャーッ」と、蟹は押しつぶされてしまう。

これを知った他の蟹は、助っ人の協力を得て猿を懲らしめ、仇討ちに成功する。

このように、昔話の「猿かに合戦」は、仇討ちと私刑(リンチ)がテーマである。

(2) しかし、現代においては、仇討ちはもとより、私刑は法で固く禁じられている。そこで、原告は次のような独自の翻案をしている。

① 母と子の愛がテーマである。

すなわち、お腹の空いた子蟹を飢えさせまいと、おにぎりを一つ、親子で食べてしまうより、柿の木を育て、たくさん実を増やして、子蟹に食べさせ、飢えさせまいとする母親蟹を描いている。

② 怪我をした母蟹を看病する子蟹の姿を描き、母を思う子の心を訴えている。

③ 臼、蜂、栗が、猿に反省を求め、懲らしめるが、最後は心から反省した猿を許すことにしている。

④ 猿は、みんなの優しい心に感謝して、木に登り、みんなのためにおいしそうな柿の実を採ってくる。そして、みんな仲良く暮らすという内容である。

⑤ 最後の教訓話は「罪を憎んで人を憎まず」ということである。

(3) 被告会社は、別表五のとおり、原告書籍をそっくりか又は酷似させて真似ており、それを隠蔽するために「お母さんがに」を「お父さんがに」と直し、臼、蜂、栗に「昆布」を付け足すという姑息な手段を用いている。

(六) 「編集権、編集構成権」の侵害について

被告会社は、原告書籍につき原告が創作した特殊小型変形版、本のページ数、表紙上段右側のシリーズナンバー、裏表紙のシリーズ本の内訳一覧、「アニメ絵本」というシリーズ名、タイトル名をそっくり真似て、原告の編集権、編集構成権を侵害した。

(被告らの主張)

(一) 「三びきのこぶた」について

(1) いわゆる三匹の子豚の物語は、昔から伝わる有名な話で、ストーリーの骨格はもともとできているが、その骨格に依拠しつつ翻案者の伝えたい思想ないしテーマが何かということにより、自ずと違いが出てくるものである。

右の観点から、原告書籍と被告書籍を比べてみると、被告書籍では、一番上の子豚を「飽きっぽい子豚」、二番目の子豚を「のんきな子豚」と性格づけ、その反対の性格、すなわち「忍耐強くコツコツと仕事をする」「慎重に物事を考える」という性格を三番目の子豚のイメージとしている。そして、飽きっぽい子豚やのんきな子豚の造った家が順次狼の襲撃を受け、最後にはコツコツと忍耐強く慎重に家を造った三番目の子豚が勝ちを収め、最終的に「僕たちも丈夫な家を造るよ。」と兄さん豚たちも学習したというところで終わっている。ここでの教訓は、言うまでもなく「飽きっぽい」「のんき」では危険に対処できないということである。

これに対して、原告書籍におけるテーマは、順次狼に襲われた子豚が、最後に「みんなで力を合わせて狼と戦い、追い払う」という展開からも分かるとおり、「力を合わせる」「協力する」ということを教えることにある。そのため、物語も「それから三びきのこぶたは、いつもきょうりょくしあってくらしました。」と結んでいる。

(2) このテーマの違いから、具体的な描写として、以下のような差異が生じている。

被告書籍では、忍耐強さ、慎重さがテーマとなるため、兄豚たちの性格は、これと逆なもの、すなわち「飽きっぽい」「のんき」でなくてはならず、文中でも「あきっぽい一ばん上の子ぶた」「のんきな二ばんめの子ぶた」と表現している(被告書籍五、七頁)。

これに対し、原告書籍のテーマは、全員の協力ということにあるため、子豚の性格は余り問題にならない。一番上の子豚は「なまけもの」で、二番目は「くいしんぼう」となっている(原告書籍一頁)。原告書籍におけるこれらの性格付けは、素早く家を造ることによりなまける(=文中では「これでのんびりひるねができる。」)、食べる(=文中では「もうおなかがすいています。『ではしょくじにしよう。』」)という事後の行動に結びつく表現となる(原告書籍七、九頁)。

このように、子豚の性格自体、またそれの持つ意味付けが異なるため、被告書籍では右のような「ひるねができる」「しょくじにしよう」といった表現は登場しない。

被告書籍のテーマからすると、飽きっぽい子豚、のんきな子豚が狼に襲われて恐ろしい思いをすることが重要で、子豚が狼に食べられてしまうまでの必然性はない。原告は、狼や子豚が生きているという翻案をしたのは自分が世界で最初であると言わんばかりの主張をするが、偕成社発行・E著の「世界のむかし話一年生」所収の「三びきの子ぶた」(昭和三一年一二月。乙四)では、襲撃された子豚が順次弟豚の家に逃げ込むように翻案しているし、ポプラ社発行・F編著の「たのしい名作童話8・三びきの子ぶた」(昭和三二年一〇月。乙五)でも、豚は三匹とも助かるようになっている。その他、狼がやけどをして逃げたと翻案している例はいくらもある。決して、原告が発案したストーリーではない。ちなみに、原告書籍では「おおかみは大やけどをした」というだけで、死んだのか逃げたのかは書かれていないが、被告書籍でははっきり逃げたと記述している。被告書籍のテーマからして、豚は食べられる必要はないし、また幼児向けの図書という配慮からも豚は助かる方が望ましいと考えて、ストーリーを組み立てたもので、誰もが思いつく翻案、過去にも行われていた翻案であり、特に原告書籍を真似たわけではない。

次に、原告は、被告らが家の壊し方、すなわち体当たりしたという表現を盗用したと主張する。しかし、両者には明らかな違いがある。

原告は、家の材料であるエニシダは幼児に分かりにくいということで木の家と翻案したため、いかに幼児向けの図書であっても、木の家が原典のように狼の息で吹き飛ぶのかという疑問を考慮して、二番目の木の家は体当たりで、三番目のレンガの家は体当たりをした上でハンマーで壊すという翻案をしたものと想像される。原典のエニシダは日本の幼児にはなじみが少ないと思われ、これを木、木の枝、木切れなどと翻案し、木の家を造ったとする翻案する例は多数ある。

被告書籍においても、木の家と翻案するのがよいと考えたが、息で吹き飛ばすという話にすると幼児が納得しづらいであろうから、家の壊し方の翻案は一応迷った点である。さりとて、三軒とも狼が息を吹きかけて壊そうとする原典の面白さも残したいと考え、一軒目には息のみ、二軒目には息で吹き飛ばそうとしたが息切れしたので体当たり、三軒目も息で吹き飛ばそうと何度も試みたがレンガには対抗できず、勢いをつけて体当たりをするという展開にし、そのように表現している。つまり、原典にある「狼の息」を三軒全部について残している。

原告書籍には、右のような「狼の息」を残した上でという配慮は全くない。すなわち、二軒目の家に対しては息を吹きかけようとするような記載はなく、いきなり体当たりしており、三軒目の家についても、息を吹きかけたりせず、体当たりをし、いったん引き上げた後にハンマーを持ってきて壁を壊し始めるという記述になっている。

原告は「体当たり」という部分が翻案であると誇っているが、それは枝葉の問題で、極端な話として、足で蹴飛ばす、頭突きをするといったいくつかの行動は考えられるが、そのような細部の表現は、創作性のあるものとして保護に値するものではない。家を壊すためにハンマーを持ってきたという表現はかなり独特ではあるが、それでも枝葉末節のことである。もちろん、被告書籍には狼がハンマーを持ち出す場面はない。

原告書籍では、兄弟豚の協力ということがテーマであるため、三匹目の豚の命令の下に石を屋根に乗せる共同作業の場面に一頁が使われているが、原典にはこのようなことはなく、被告書籍でも表現していない。また、狼がサンタクロースに変装して、豚を騙そうとする場面も原典にはなく、被告書籍でも表現していない。

そして、物語の最後にある教訓の部分が全く異なっている。すなわち、被告書籍では「『ぼくたちもじょうぶないえをつくるよ。』おにいさん子ぶたたちはおとうとにおれいをいいました。」となっているのに対し、原告書籍では、「それから三びきのこぶたはいつもきょうりょくしあってくらしました。」となっている。

(3) 絵に関し、原告は、原告書籍では子豚の着ている服がアメリカンスタイルのジーンズやオーバーロールであるところ、被告書籍はこれを模倣して複製した旨主張する。

しかし、原告書籍の絵と被告書籍の絵を比較すると、両者の豚の服装は襟が違うし、一匹が上半身裸であることも違う。また、狼の服装も、原告書籍では上半身が裸でズボンをはき、首にネッカチーフを巻いているが、被告書籍では、上下一体のつなぎを着ており、異なる衣装であることが明らかである。原告書籍では、最後に狼がサンタクロースに変装して煙突から侵入するというストーリーであるため、狼にサンタクロースの服を着せているが、被告書籍ではこのストーリーを入れていないので、絵としてもサンタクロースの服を着た狼は描かれていない。さらに言えば、動物にどのような服を着せようが、それがアメリカンスタイルであれ、ヨーロピアンスタイルであれ著作権法上問題となる事柄ではない。

(二) 「にんぎょひめ」について

(1) 原告書籍は、以下で詳述するとおり、原告が原典として引用する岩波文庫の翻訳本(以下「岩波本」という。)の表現から一歩も出ておらず、創作性、翻案性など皆無に等しい。

(2) 原告は、ラストシーンで人魚姫を天に昇らせたのは世界中で自分が初めてであり、かつ世界中から賞賛された旨主張するが、これは誤りである。人魚姫が天に昇るシーンは既に岩波本に書かれている。すなわち「翼がなくても、空気のように軽いからだは、ひとりでに空中に浮かんでいるのでした。人魚姫は、自分のからだも同じように軽くなって、あわの中からぬけ出て、だんだん上の方へのぼって行くのに気がつきました。」と翻訳されている。この物語で最も重要なことは、魂が天に昇るということであって、天に昇らない人魚姫の本を探すことの方が難しい。人魚姫は泡になって消えてしまうのが原典であるとあの世でアンデルセンが聞いたら、さぞ驚かれることであろう。

(3) 原告は、岩波本の「船室の窓の近くへ泳いでいき、透き通った窓ガラスの中を見ることができました。」とある翻訳文に対し、吃水線がどうの、窓ガラスの厚みがどうのと些細な点を問題にして、人魚姫が船上の王子を見初めるという翻案をしたのは、世界中で自分だけであると主張している。

もともと、人魚というこの世に存在しない世界を著述している話で、幻想性と美しさが重要なのであって、科学的にどうかといったことを問題にする方がよほどおかしい。

のみならず、岩波本では、王子はその後に水夫たちがダンスをしている甲板に出ていくようになっており、そして甲板にいる王子に対し「ああ、どんなに若い王子はきれいだったでしょう」「人魚姫はいつまでも船と美しい王子とから目を離すことができませんでした」と続くのであり、この作品の一般的な理解としては、人魚姫は船上の王子を好きになるということになっている。

(4) 原告は、人魚姫が王子に寝室に忍び込む場面につき、岩波本によりながら、甲板にテントを張る場面でなければならないはずであるとか、花嫁と抱き合って寝ている原典を、教育上、王子一人だけが寝ているシーンに翻案したなど、自慢げに主張している。

被告書籍では、王子の寝室が甲板にあったか船底にあったか、花嫁が抱き合って寝ていたか一人で寝ていたかなどの記述は、特にしていない。そんなことは枝葉の問題である。絵の部分も、天蓋に設けられた寝室か船底の寝室かなどには重点を置かず、王子らしい豪華さの雰囲気のある寝室を描いている。確かに、被告書籍も原告書籍も王子一人のみがベット上に描かれているが、両者ともにその方がよかろうと考えたまでのことで、著作権法上、何の問題もない。

(5) 具体的な描写を比較しても、物語自体がアンデルセンの童話としてあまりにも有名であるのでストーリーの展開が同じであるのは当然として、総体的にみて、以下のとおり被告書籍の方が各種翻訳本等からうかがえるアンデルセンの原典の表現を多く採り入れている。

被告書籍には表現されているのに、原告書籍に見られない記述は次のとおりである。

「うつくしい 六人の にんぎょひめが うたを うたって います。」 (一頁)

「はじめて 見たのは ばらいろに そまった 空。『あれが、おねえさまが はなしてくれた 夕やけ なのね。』」(七頁)

「すいこまれそうな くろい ひとみ」(一一頁)

「ふねの パーティーは よるまで つづいて いました。」(一三頁)

「お日さまが うみに のぼった ころ、白い すなはまに つきました。」(一七頁)

「カーン コン カーン コン…。かねの 音が なりひびきます。」(一九頁)

「きょうかいから 出て きた 一人の むすめが 王子を 見つけました。」(一九頁)

「にんぎょひめは うみの そこの ゴォー ゴォーと 水が うずまいている おそろしい どうくつを ぬけて」(二五頁)

「『あなたは、ぼくを たすけて くれた、あの むすめさんに にているね…。』」(三三頁)

「王子の ために うたう ことも できません。」(三五頁)

わずか文章部分が二三頁で文字数も少ない両者で、これだけの違いがあるのであり、被告書籍が原告書籍によることなく、原典のストーリーを幼児向けに翻案していることは明らかである。また、両者の絵が異なることは一目瞭然である。

(三) 「ももたろう」について

(1) 「桃太郎」は、日本の昔話を代表する有名な物語であり、その起源は、古くは神話時代にまでさかのぼることができ、今日各地に残されている物語、すなわち、桃から生まれた桃太郎が、きびだんごを持ち、犬、猿、雉の家来を従えて鬼ヶ島に鬼退治に行くという基本のストーリーは、室町時代から江戸時代にかけて生まれたといわれている。

江戸時代には儒教的な解釈や意味付けと結びついたり、戦前においては、植民地支配を拡大する西欧を鬼に例え、軍国主義的な教育読物として、鬼退治が強調されたこともあろうし、要は時代により、地域文化により、その描き方、受け取り方は変化していく性格のものであることは、公知の事実といってもよい。

確かに、物語には骨格があり、桃から生まれた桃太郎が鬼ヶ島に鬼退治に行くこと、犬、猿、雉ときびだんごが登場すること、鬼を負かして財宝を持ち帰ること等物語の骨格となる部分は、ある程度の普遍性があるようにも思われるが、持ち帰った財宝を独り占めにしたか、被害者に返したか、人々に分け与えたか等は物語の骨格からすれば枝葉の問題にすぎず、桃太郎という昔話の中では新規性、創作性などを認める余地はない。

しかも、原告書籍より前に、財宝を被害者に返したり、殿様から与えられた褒美を人々に分け与えたりする旨翻案している本は複数存在する。

フレーベル館発行「にほんむかしばなし ももたろう」(昭和五九年四月発行。乙九)三〇頁

「えんやらや えんやらや たからものと いっても もとは みんなのもの。ももたろうは それぞれ かえしてやりました。」

小学館発行「日本のむかし話 ももたろう」(昭和四二年一月第二刷発行。乙一〇)七七頁

「たからものは、とられた ひとを さがして かえして あげました。」

すばる書房発行「おとぎばなし絵本 ももたろう」(昭和五四年五月発行。乙一一)三九頁

「ももたろうは たからものを もとの ひとたちに かえして あげました。」

(2) 被告書籍においては、特に何かを教える教訓話として著述するより、国民的な大ヒーローである桃太郎が鬼を懲らしめ、奪われた物を取り返すという英雄物語として、強くて優しい桃太郎像を子ども心にとどめておきたいというのが著作のコンセプトである。

したがって、皆が極めて常識的に知っていると思われるストーリー展開を素直に取り入れつつ、自然な骨格を生かす物語として制作した。

桃太郎には、鬼にさらわれた人々を解放に行くとか、殿様に誉められて姫と結婚するとかいろいろな物語があり、原告書籍では後者を採用しているが、被告書籍ではことさらに鬼退治の正当性を強調したり、論功褒賞として殿様から財宝や姫を拝領するという点は採用せず、あくまでもシンプルに、鬼が村から奪った財宝を取り戻し、村人に返してやり、以後も村を守って幸せに暮らしたというストーリーに仕立てている。

鬼ヶ島から持ち帰った財宝については、何も原告書籍を真似たということではなく、取られた村人に返すという流れがよいと考えて、そのようにしたまでであり、原告ならずとも誰でも考えつく翻案であり、かつそのような例もあることは前述のとおりである。

(3) 原告は、特に具体的な指摘をしていないが、具体的な描写においても、以下のように原告書籍と被告書籍では、多くの差異がある。

原告書籍の三頁には、「まるで お月さまが おちて きたような大きな ももじゃ」という表現があるが、被告書籍にはない。

原告書籍の五頁には、「大きな ももよ こっちへ おいで」という表現があるが、被告書籍にはこのような表現はない。

原告書籍の九頁では、「おばあさんが ほうちょうで ももを きり」桃太郎が生まれるが、被告書籍の七頁では、「おばあさんが きろうとするといきなり ももが われ」て桃太郎が誕生する。

原告書籍の一一頁には、「かみさまが さずけて くださったのでしょう」という表現があるが、被告書籍には「かみさま」の表現はない。

原告書籍の一三頁では、桃太郎は「きびだんごを たべて、どんどん大きく なって」と記述されているが、被告書籍にはこのような内容や表現はない。

原告書籍の一五頁では、都から来た人が桃太郎に対して、鬼が都を荒らし回って困っていると話し、これが以後の鬼退治の理由となり、ひいては、最後に都の殿様から褒美をもらったり、姫との結婚に結びつくことになるが、被告書籍では、鬼は町や村を襲ったが、都については一切触れておらず(被告書籍一三頁)、したがって、表現や結末が全く異なることになる。

原告書籍の一九、二一、二三頁には「ももたろうさん、ももたろうさん、おこしに つけた きびだんご、一つ わたしに くださいな。」という歌になっている歌詞の記述があるが、被告書籍にはこのような記述はない。 原告書籍の二五頁では、桃太郎は漁師に鬼退治に行くので船を貸してほしいと頼み、貸してもらったという記述になっているが、被告書籍では、船をどのように入手したかについては、一切記述していない。

被告書籍の二五、二七頁では、船が嵐に遭遇し、それでも元気いっぱいに鬼ヶ島に向かう様子が絵と文で表現されているが、原告書籍にはこのような記述や絵はない。

被告書籍の二九頁では、空を見張っていた雉が「しまが見えるよ!」と教える記述があるが、原告書籍にはこのような記述はない。

原告書籍の二九頁では、「さるが きじに ぶらさがり、もんを とびこえ」鬼の城に入ったと表現されているが、被告書籍の三一頁では、「さるがするすると かけのぼって、中から もんを あけました。」と表現され、侵入方法に関する記述も異なっている。

原告書籍の三九頁では、桃太郎が鬼に対して「おまえたちが ぬすんできた たからものは、わたしが みんなに かえして あげる。」と告げる表現形式になっているが、被告書籍では、桃太郎がこのようなことを鬼に告げた旨の記述はない。

原告書籍の四一頁には、「みやこの とのさまは、ももたろうに ほうびを さずけました。」との記述があるが、被告書籍では、都や殿様は物語に登場せず、したがってこのような記述はない。

原告書籍の四三頁には、「ももたろうは とのさまから もらったたくさんの ほうびを、まずしい 人たちに わけて あげました。」「ももたろう、わたしの ひめの むこに なって ほしい。」との記述があるが、被告書籍では、このようなストーリーの展開になっておらず、したがってこのような記述はない。

原告書籍の四五頁では、物語の最後が「ももたろうは 人びとに しゅくふくされて おひめさまと しあわせに くらしました。」という結末になっているが、被告書籍の四五頁では、「ももたろうは それからも いぬ、きじ、さると いっしょに 村を まもり、みんな しあわせに くらしました。」という結末になっている。また、原告書籍では、桃太郎が姫が並んで座っている絵が描かれているが、被告書籍には、当然ながらこのような絵は存在しない。

(四) 「ぶんぶくちゃがま」について

(1) 原告は、原告書籍における茶釜の絵を被告書籍がそっくり真似た旨主張する。両者の茶釜の絵は似ているが、ぶんぶく茶釜の絵本等で、被告書籍や原告書籍のような茶釜のデザインを用いるのは極めて一般的なことであり、特に原告書籍の絵を真似たわけではない。

市販されているイラストのカット集においても、自由に何人も使える参考デザインとして、被告書籍や原告書籍と同じような茶釜が描かれており(乙一二)、原告の主張する独自のデザインによる茶釜ではなく、一般的に表現されている絵にすぎないことは明らかである。すなわち、被告会社は、日用生活品として一般的に存在し、表現方法が公知になっている絵を使用したにすぎず、それに対して、例えば蓋をめり込ませたとか、持ち上げる金具を何個にするかとか、その他若干の加除修正をしたとしても著作物性は発生しない。

(2) 仮に、原告書籍の茶釜の絵に著作物性が認められるとしても、茶釜の全体的な感じが似ているのは、両者ともに公知の茶釜の表現手法によっているため当然である。原告書籍の絵と被告書籍の絵では、蓋がめり込んでいるという共通点はあっても、形状に次のような差異がある。

第一に、蓋の形状が異なる。すなわち、原告書籍の蓋は山型ないし三角型に近いのに対し、被告書籍の蓋はコップ型ないし円柱型に近く、デザインとしては別のものである。第二に、蓋のつまみの下に、原告書籍では円形の模様があるが、被告書籍にはこのような模様はない。第三に、茶釜全体の感じが、被告書籍においては原告書籍よりも縦長であり(言い換えれば、原告書籍の方が被告書籍よりも扁平型)、デザインの観点から異なっている。したがって、複製権の侵害には当たらない。

(3) 原告は、被告会社が原告書籍の絵をそのままコピー等して真似た旨主張するが、失当である。

被告書籍二〇頁の絵については、対応する原告書籍の絵では、①「もりん寺」と寺の名称があり、②寺の戸は上下一枚であり(被告書籍では横木がある。)、③石畳のデザインが異なり、④背景の植物の描き方が異なり、⑤登場人物の人数、顔、仕草が異なっており、両者が異なる絵であることは明白である。

被告書籍二六頁の絵については、両者とも古道具屋が茶釜に化けた狸から呼び起こされてびっくりする場面であるから、状況、表情等が似通うことのあるのは当然である。しかし、①狸及び古道具屋のキャラクターは異なっており、②狸の仕草が異なっており、③原告書籍には背景がないのに対し、被告書籍では破れた壁等を描いており、それぞれが異なる絵であることは明らかである。

被告書籍三六頁の絵については、①原告書籍では登場人物は六名で、道具箱を担いだ大工らしき人物、犬、子連れの爺さん等が描かれているが、被告書籍では登場人物は七名で、大工らしき者も、犬もおらず、子連れの爺さんもいない。②原告書籍ではのぼり旗が立っており、背景の街は一色塗りであるが、被告書籍ではのぼり旗はなく、背景の街は鮮明に描かれている。大道芸の客集めという同じ場面を絵にしたものであるから、似通う面のあるのはむしろ当然であるが、絵としては別のものである。

(五) 「さるかにばなし」について

(1) 「猿蟹話」は、日本五大昔話の一つに数えられ、室町時代の末ころから親しまれてきた物語であり、その内容は、概ね次のとおりである。

① ずる賢いさるに騙された蟹が、にぎり飯と柿の種を交換する。②蟹が短期間に柿の木を育て実を付けさせる。③ 蟹が自分で柿をもぐことができずにいると、猿が再びやってきて、蟹を騙して木に登り、熟した柿を自分だけが食べ、催促した蟹に対して固い柿を投げつけて死傷させる(後述のとおり、蟹が死ぬ話と怪我をする話に分かれる。)。④ 義憤を感じた栗、蜂、臼、牛の糞(これらの助っ人については、伝承の過程や、語り手ないし著述者の好みでバラエティーがある。)が、仇討ちの助太刀をする。⑤ 助っ人の得意技による攻撃を受けた猿が負ける。

このように、人間が全く登場しない動物説話で、暗示に富んだ物語展開であるだけに、語り手ないし著者にとって各種の教訓、思想、情緒等を持ち込み、ある結果や出来事に強い意味を持たせることが容易に行われやすいジャンルであるといえる。現に、従来からある昔話には、蟹が猿に殺され、他の蟹が猿を殺して仇に報ゆるという復讐型と、蟹は猿に傷つけられただけであり、その結末もただ猿を懲らしめて悪心を改めさせるという膺懲型とが存在している。つまり、原告が「猿に反省を求め、懲らしめるが、最後は許す構成」と主張する点は、何も事新しいものではない。

(2) 原告は、原告書籍では母蟹と子蟹の愛をテーマとし、猿に反省を求め、反省した猿を許すことにより、罪を憎んで人を憎まずの教えを伝えたかった旨主張している。

被告書籍では、特に親子愛ということはテーマとは考えておらず、昔ながらの物語を子どもに分かりやすく面白く伝え、膺懲型によりながら、猿の悪心を改めさせるという内面形式になっている。なお、助っ人に昆布が登場するのは、牛の糞は幼児になじみが薄いと考えて、その代わりにすべりやすいもので、昔話としても語られている素材を使ったもので、原告の言うような「姑息な手段」ではない。

(3) また、具体的な描写においても、次のような差異がある。

原告書籍の五頁では、猿がにぎり飯を分けてほしいと母蟹に言い、母蟹は、お腹を空かせた子蟹たちが待っているという理由でいったん拒否しているが、被告書籍では、子蟹がお腹を空かせて待っているという設定はないし、このような表現もない。

原告書籍では、猿が母蟹に柿の種とにぎり飯の交換を求めるのに際し、おにぎりは食べてしまえばおしまいだが、柿の種はまいておけばおいしい柿が毎年食べられると母蟹を説得しているが、被告書籍の五頁では、「かきの たねをそだてれば、おいしい みを いっぱい つけるよ。」と表現しているだけで、毎年食べられるといった貧困対策につながるというような表現はしていない。

被告書籍では、猿との間で交換行為をしたのは父蟹という設定であり、七頁で「おとうさん、おかえりなさい。」と子蟹に語らせているが、原告書籍では母蟹という設定であり、このような表現はない。

原告書籍の一三、一五、一七頁には柿を育てながら蟹が歌う歌詞が載っている。この歌詞は、講談社発行の「猿蟹合戦」(昭和一二年八月初版。乙一六)に書かれている歌詞と一字一句同じである。この「早く芽を出せ」の歌は、親たちに古くから親しまれているもので、被告書籍でも、九、一一、一三頁で採用しているが、古文を現代文に直し(「出さぬと」を「出さなきゃ」、「ならぬと」を「おそいと」など)、表現し直している。

原告書籍の一九頁では、「木が 大きく なりすぎて、はじごが とどきません。」とあるが、被告書籍にはこのような表現はない。

被告書籍の一九、二一頁には、猿が蟹に「どうだい? これも、ぼく が あのかきの たねを おにぎりと とりかえて あげた おかげだぞ。」と言い、蟹が「さるくんの いう とおりだよ。おれいに かきを どっさり あげるから、かきを とって くれないか。」といった問答を配しているが、原告書籍にはこのような場面や表現はない。

原告書籍の二七頁では、柿が母蟹に当たったと表現されているが、被告書籍の二七頁では、父蟹に当たったと表現されている。

原告書籍の二九頁では、蜂、栗、臼の三人の友達が見舞いに来て、皆で力を合わせて猿を懲らしめようという話をしたと表現しているが、被告書籍の二九、三一、三二頁では、まず、父蟹の友人の蜂が遊びに来て、子蟹から話を聞き、蜂から臼と昆布に伝わり、その後栗も話を聞いて手伝うという流れになっており、両者は登場人物も情報伝達の経路も異なる表現となっている。

被告書籍の三五頁では、蜂が飛びながら猿の家の中の様子を教えたと表現しているが、原告書籍にはこのような表現はない。

被告書籍の三七頁では、昆布が入口の敷居に寝そべると表現しているが、原告書籍には昆布も牛の糞も登場しないので、このような表現はない。

原告書籍の三五頁では、栗は猿の尻に命中したと表現しているが、被告書籍の三九頁では、栗は猿の顔に当たったと表現している。

原告書籍の三七頁では、蜂も猿の尻を刺したと表現しているが、被告書籍の三九頁では、蜂は猿の目の上を刺したと表現している。

原告書籍の三七頁では、猿の「おしりは もう まっかっかです。」と表現しているが、被告書籍にはこのような表現はない。

被告書籍の四一頁では、猿が昆布に足を滑らせて転ぶ様子を表現しているが、原告書籍にはこのような表現はない。

原告書籍の四三頁では、謝った猿が柿の木に登って柿を取り、「どうぞみなさんで たべて ください」と言ったという表現があるが、被告書籍にはこのような表現はない。

なお、絵も両者では異なっており、被告書籍の「さるかにばなし」が原告書籍の複製ないし翻案であるとは到底言えない。

(六) 「編集権、編集構成権」の侵害について

原告書籍と被告書籍では、タイトルや番号の位置、裏表紙の構成方法等が類似しているが、このような構成方法は特段に新規なものでも、創作的なものでもないし、被告会社の販売政策上の必要から行っていることにすぎない。このような構成方法自体には著作権の保護は及ばないし、タイトルや番号に著作権が成立するものでないことも明らかである。

版型やページ数につき著作権の保護が及ばないことも明らかであるし、被告会社では昭和五三年から既に原告書籍と同じ版型(小重箱版)で書籍を発行しており、右版型は原告が考案したものではない。

5  争点5(被告Bの責任)について

(原告の主張)

被告Bは、被告会社の最高意思決定者として、被告会社の業務を行うについて、被告会社の前記不法行為を指導・容認したものであるので、被告会社と被告Bとの間には関連共同性が認められ、被告らは共同不法行為者として連帯して損害賠償義務を負う。

(被告らの主張)

否認し、争う。

6  争点6(原告の損害)について

(原告の主張)

被告らの前記各不法行為、すなわち、原告書籍についての原告の複製権の侵害、原告書籍を廉価で販売したことによる著作者人格権の侵害、被告書籍の出版による原告の著作権の侵害により、原告は多大な損害を受けた。

原告は、原告書籍の著作権者として、昭和六三年一〇月から平成一〇年九月までの一〇年間本件出版契約に基づき合計一一億七四九二万一〇六一円の使用料を被告会社から受領した。本件出版契約の有効期間は契約の日から初版発行の日まで及び初版発行の日から一五年であるので、一年間一億円として、損害額は一五億円となるが、本訴ではその内金として二億五〇〇〇万円を請求する。

(被告らの主張)

否認する。仮に、原告の著作者人格に対する評価が落ち、業界で相手にされなくなったとすれば、自らの生き方に問題があったということであろう。

第三当裁判所の判断

一  争点1(発行日をさかのぼらせて出版した事実の有無)について

1  証拠(甲九〇の一、二、九一の一、二、九二ないし九四)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 原告は、平成七年一二月一〇日発行の原告書籍である「月のてんし」と「オズとにじのくに」、その他数点の原告書籍をそのころ被告会社から贈呈され、有限会社アニメ企画の書庫の本棚に並べて保管していた。これらの書籍を現在観察すると、年月の経過により背表紙の地色、赤色等によるタイトルの文字等が薄く色褪せたものになっている。

(二) 原告書籍は、現在でも店頭で入手することができるところ、原告が最近購入した書籍の中には、前記アニメ企画において保管されていた書籍と比べ、発行年月日が古いのに背表紙の地色、タイトルの文字が鮮明に読みとれるものが存在する。

(三) 原告が最近購入した原告書籍の小口(本の綴じ口の反対側)及び天地(本の上下の裁断面)には、再裁断した形跡はみられない。

(四) 被告会社は、原告書籍の製版フィルムを本訴提起後も保有していた。

2  原告は、右の各事実及び被告らの主張する原告書籍の在庫数量には疑義があること等を理由に、被告会社が印刷日付をさかのぼらせて原告書籍を出版していることは明らかである旨主張する。

しかし、被告らは、過去三期分の決算時の在庫数量を証拠として提出しているところ(乙一九)、その数字に別段不自然な点は見られず、被告らが在庫の数をごまかしている旨の原告の主張は、認めるに足りない。また、一般に書籍は長年光に当たることにより背表紙等が変色し、文字が薄く色褪せたものになることがあるが、右変色の程度は書籍の保管状況によって様々であって、例えば、光に当たらず、湿度も一定の暗室のような場所に保管されていたとすれば、相当の年月を経ても変色がほとんどみられないということもあり得るはずである。さらに、被告会社が印刷会社に原告書籍の印刷を発注したのは、平成一〇年二月二七日が最後であり、その後は注文をしていない(乙二〇の1ないし3により認められる。)。

そうすると、右認定の事実から、被告会社が原告書籍の発行日をさかのぼらせて出版したことを認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

二  争点2(在庫の販売による複製権侵害の成否)について

原告と被告会社が本件出版契約を締結したことは当事者間に争いがないところ、証拠(甲三の1ないし4)によれば、本件出版契約の契約書には、被告会社は原告書籍の出版権が消滅した後もその在庫を頒布することができる旨の条項が含まれていることが認められる。

したがって、被告会社が原告書籍の在庫を販売することは、複製物の頒布として適法であり、何ら原告の複製権を侵害するものではない(著作権法八五条一項一号)。

三  争点3(著作者人格権の侵害の成否)について

1  著作権法にいう著作者人格権とは、公表権(同法一八条一項)、氏名表示権(同法一九条一項)及び同一性保持権(同法二〇条一項)の三つの権利を内容とするところ(同法一七条一項)、原告の主張するいわゆるバッタ販売による原告の人格に対する評価の低下は、右の意味での著作者人格権に関わるものではないから、著作者人格権侵害の主張はそれ自体失当である。

2  また、右の主張を、一般不法行為法としての名誉、人格権侵害を主張するものと解するとしても、出版物の価格設定は出版権者にゆだねられているから、著作物が定価より安い価格で販売されたとしても、これにより直ちに著作権者の名誉等が侵害されることにはならない。

よって、名誉、人格権の侵害を理由とする不法行為の主張も、理由がない。

四  争点4(著作権の侵害の成否)について

1  本件における原告書籍と被告書籍は、ともに伝承に係る昔話ないし古典的な童話を幼児向けに表現した絵本であり、その物語の内容は古くから言い伝えられ、また、広く一般に知られているものである。右によれば、原告書籍は、原典である古典童話ないし昔話を原著作物とする二次的著作物というべきであるから、その著作権は原告書籍について新たに付与された創作的部分のみについて生じ、原著作物であるところの原典たる童話ないし昔話と共通し、その実質を同じくする部分には生じない(最高裁平成四年(オ)第一四四三号同九年七月一七日第一小法廷判決・民集五一巻六号二七一四号頁参照)。したがって、被告書籍が原告書籍の著作権を侵害しているかどうかを判断するに当たっては、まず、原典たる童話ないし昔話に原告書籍において新たに付加された創作性を有する部分が被告書籍においても同様に存するかどうかを検討すべきである。この場合において、原告書籍と被告書籍とが、筋の運びやストーリーの展開が同一であっても、それが原典たる童話ないし昔話において既に表われているものであるときや、創作性を認めるに足りない改変部分に係るものであるときには、原告書籍の著作権侵害に結び付くものとはいえない。以下、右のような観点から、原告書籍と被告書籍を比較検討する(なお、原告の主張には、特に原告書籍と被告書籍の絵の対比において複製権侵害の趣旨と理解できる内容も含まれているので、併せて検討する。)。

2  「三びきのこぶた」について

(一) 証拠(乙四、五)及び弁論の全趣旨によれば、従来から伝えられている「三びきのこぶた」の物語と比べると、原告書籍においてこれと相違する独自の表現部分としては、次のものがあると認められる。

(1) 一番上の子豚に「怠け者」、二番目の子豚に「食いしん坊」という性格付けをしていること、それに伴い、一番上の子豚は「素早く家を造って昼寝をする」、二番目の子豚は「家を造る作業でお腹が空いたので食事にする」という行動に出ること

(2) 狼が二番目の子豚の造った木の家に息を吹きかけることなく体当たりして壊していること

(3) 狼が三番目の子豚の造ったレンガの家に息を吹きかけることなく体当たりして壊そうとするが失敗すること

(4) 三匹の子豚が、協力して三番目の子豚の造ったレンガの家の屋根に石を並べること

(5) 狼が三番目の子豚の造ったレンガの家を壊そうとして、ハンマーで壁を叩くが、家は壊れず、逆に子豚たちが並べた屋根の上の石が落ちてきて、狼が怪我をすること

(6) 狼がサンタクロースの格好をして、煙突からレンガの家に侵入すること、三番目の子豚が狼が化けたサンタクロースの正体を見破り、兄弟豚に対し注意を促すこと

(7) 物語の結びが、「三匹の子豚はいつも協力しあって暮らしました。」となっていること

原告は、右の点のほか、狼や子豚が生きているという翻案をしたのは原告が初めてであり、原典では子豚は狼に食べられ、鍋に落ちた狼も最後に子豚に食べられることになっている旨主張するが、原告書籍より前に発行された絵本(乙四、五)で、既に狼に家を壊された子豚が順次弟豚の家に逃げ込み、狼もやけどをするが助かるように翻案している例のあることがことが認められるから、原告の右主張は失当である。

(二) そこで、被告書籍が原告書籍における右の独自の表現部分を備えているかについて検討するに、被告書籍(甲一三)では、

(1) 三匹の子豚のうち、一番上の子豚には「飽きっぽい」、二番目の子豚には「のんき」という性格付けがされている。そのため、原告書籍にあるような昼寝や食事という行動に結びつく記述はない。

(2) 狼は、二番目の子豚の造った木の家に息を吹きかけて壊そうとするが、走ってきて息がゼエゼエしていたので、体当たりして壊している。

(3) 狼は、三番目の子豚の造ったレンガの家に息を吹きかけて壊そうとするが、うまくいかないので、体当たりをしている。

(4) 三匹の子豚が協力して三番目の子豚の家の屋根に石を並べたり、狼がハンマーでその家を壊そうとしたため、その石が落ちて狼が怪我をするという場面はない。

(5) 狼はそのままの格好で屋根の煙突から家の中に侵入しており、サンタクロースに変装していないので、子豚の間に「サンタクロースに化けているよ」といった問答はない。

(6) 物語の結びは、「怖い狼はそれから二度と現われず、三匹の子豚は幸せに暮らしました。」となっている。

右によれば、原告書籍における独自の表現部分である(一)の(1)から(7)については、いずれも、被告書籍がこれを備えていないから、原告書籍における右各表現部分が創作性を備えているかどうかを問題にするまでもなく、右各表現との類似性を理由とする著作権侵害の主張は理由がない。原告は右(2)及び(3)について、体当たりしている点が共通である旨主張するが、そもそも、体当たりの点だけを取り出して創作性を備えた表現部分と認めることはできない上、従来の物語では、二番目の子豚の家は狼の息で壊され、三番目の子豚の家についても狼が息を吹きかけて壊そうと試みるように記述されていたところ(乙四、五により認められる。)、被告書籍はこの点を残しつつ、二番目の子豚の家については、木の家が簡単に吹き飛ぶのかという疑問に答える趣旨で、三番目の子豚の家についてはそれとの関連で「体当たり」という方法を採用したもので、原告書籍と被告書籍はこの点で異なっているから、体当たりの部分が共通しても、それだけでは原告書籍の表現部分と類似するものとはいえない。

(三) 原告が別表一において指摘するその余の点は、ストーリーの展開上欠くことのできない部分で原告書籍において付加された創作性のある部分と認められないし、具体的な描写も異なるから、原告書籍の著作権を侵害するものとはいえない。また、表紙の三匹の子豚の服装については、被告書籍における絵を原告書籍における絵と比較すれば服のデザインや襟の有無等の違いがあることが認められるから、複製権の侵害は認められない。

以上によれば、被告書籍の「三びきのこぶた」が原告書籍の著作権を侵害するものとは認められない。

3  「にんぎょひめ」について

(一) 原告が、原告書籍における独自の表現部分として指摘するもののうち、窓ガラスから船内を覗き見るという記述を採用しなかったこと、甲板にテントを張るという設定をやめたこと、それに伴い人魚姫がテントの幕を開けて王子に近づくのではなく船室に忍び込むように翻案したことは、いずれもストーリーの展開上重要な部分ではなく、細部の表現の変更にとどまるものであって、これをもって原告書籍において付加された創作性のある部分と認めることはできない。

(二) 原告は、アンデルセンの原典では人魚姫は泡になって消えてしまうのに対し、原告書籍では、世界で初めて天に昇るという翻案をした旨主張し、「人魚姫が取り持つ奇跡」との見出しを付したブティック社作成の書面(甲五三)には、「ディズニーの映画の人魚姫は王子と暮らすことになっていますが、当社の『よい子とママのアニメ絵本』では、著者A先生の脚色により人魚姫は天使に守られて天国に昇ることになっています。」との記載がある。

しかし、証拠(乙六、七)によれば、昭和三年八月発行のG編「アンデルセン童話集」、昭和三八年一二月改訳のD訳「完訳アンデルセン童話集Ⅰ」では、いずれも人魚姫は上の方に天高く昇っていくように記述されていることが認められるから、原告の右主張は失当である(なお、甲五三号証は、原告の著作に係る絵本を出版する会社の作成した宣伝用書面であって、これをもって原告書籍が初めて人魚姫が天に昇る旨の記述をしたことを認めるに足りる証拠とはいえない。)。

(三) 原告は、別表二の③、④のとおり、被告書籍の絵は原告書籍の絵を翻案ないし複製したものと主張するが、両者を比較すると、王子が寝ている絵についてはベッドの型や人魚姫のポーズが異なるし、五人の人魚姫の絵についても髪の毛や下半身の部分の色が青、緑、橙色などカラフルになっている点は共通するが、髪の飾り、胸当て、尾びれの模様などが異なるから、著作権の侵害は認められない。

以上によれば、被告書籍の「にんぎょひめ」が原告書籍の著作権を侵害するものとは認められない。

4  「ももたろう」について

(一) 原告は、従来から伝えられている「桃太郎」のストーリーは盗人の上前をはねるという反社会的な内容であるので、原告書籍では、独自の観点から、桃太郎が取り戻した宝物を盗まれた人に返し、その感心な行いに対して殿様から褒美をもらうように翻案した旨主張する。

しかし、証拠(乙九ないし一一)によれば、いずれも原告書籍より前に発行された、小学館発行「日本のむかし話 ももたろう」(乙一〇)及びすばる書房発行「おとぎばなし絵本 ももたろう」(乙一一)では、桃太郎が鬼から取り戻した宝物を元の持主に返す旨の記述がされており、フレーベル館発行「にほんむかしばなし ももたろう」(乙九)では、桃太郎が長者の娘と結婚して幸せに暮らす旨の記述がされていることが認められるから、原告の主張する右の点に独自性を認めることはできない。

したがって、被告書籍において取り戻した宝物を元の持ち主に返した旨の記述がされていることをもって原告書籍の著作権の侵害ということはできない。また、被告書籍には、殿様から褒美をもらうとか、その姫と結婚するという記述はないから(甲三九により認められる。)、この点に関する原告の主張もまた失当である。

(二) 次に、具体的な描写についてみるに、証拠(甲六、三九)によれば、原告書籍と被告書籍を比べると、右に挙げた点のほか、「ももたろうさん、ももたろうさん」という歌の歌詞の有無、鬼ヶ島に行くための船の調達方法、鬼の城への侵入方法に関する記述など多くの点において違いがあることが認められる。

その他、原告が別表三において指摘する内容は、細部の表現にわたりもともと創作性の認められないものか、絵として異なるものである。

以上によれば、被告書籍の「ももたろう」が原告書籍の著作権を侵害するものとは認められない。

5  「ぶんぶくちゃがま」について

(一) 原告は、被告書籍の茶釜の絵は原告書籍にある蓋のめり込んだ茶釜の絵を複製したものである旨主張する。

しかし、証拠(乙一三)によれば、蓋のめり込んだ茶釜自体は実際に存在することが認められるから、蓋がめり込んだ構造自体に創作性を認めることはできないし、茶釜は日用品であり、一般にそのデザイン自体はカット集等により広く知られていることからすれば、原告書籍の茶釜の絵の備える突起があるなどの特徴を被告書籍における茶釜の絵が備えているとしても、これをもって直ちに著作権の侵害を認めることはできないというべきである。

(二) また、原告が別表四の②ないし④で指摘する点について検討するに、証拠(甲七、四五)によれば、原告書籍の絵と被告書籍の絵を比較すると、②の絵については、「もりん寺」という寺の名称の有無、寺の戸の構造、石畳のデザイン、背景の植物の描き方及び登場人物の数、顔、仕草が異なることが認められ、両者は異なる絵であるといえる。

③ の絵については、狸及び古道具屋のキャラクター、狸の仕草、背景の有無が異なることが認められ、両者は異なる絵であるといえる。

④ の絵については、登場人物の数、登場人物のキャラクター、のぼり旗の有無、背景の処理の仕方が異なることが認められ、両者は異なる絵であるといえる。

以上によれば、被告書籍の「ぶんぶくちゃがま」が原告書籍の著作権を侵害するものとは認められない。

6  「さるかにばなし」について

(一) 証拠(甲八、三六、乙一六、一八)及び弁論の全趣旨によれば、従来から伝えられている「さるかにばなし」と比べると、原告書籍における独自の表現部分としては、次のものがあると認められる。

(1) 母と子の愛をテーマの一つにしており、母蟹はお腹の空いた子蟹が待っているからといって、にぎり飯と柿の種の交換をいったんは断るが、柿の木を育てれば毎年柿が食べられるという猿の説明に納得して、結局は右交換に応じること

(2) 結末で、猿はみんなの優しい心に感謝し、木に登って柿の実を取ってきて配り、蟹やその仲間たちと仲良く暮らすこと

原告は、右の点のほか、臼などの助っ人が猿に反省を求め懲らしめるが、最後は心から反省した猿を許す構成にしたこと、結びを「罪を憎んで人を憎まず」の教訓にしたことも独自の表現部分であると主張する。

しかし、証拠(乙一六)によれば、従来から伝えられている「さるかにばなし」には、大きく分けて、柿の実を投げつけられた蟹が猿に殺され、他の蟹が猿を殺して仇を討つという復讐型と、蟹は猿に傷つけられるだけであり、その結末もただ猿を懲らしめて悪心を改めさせるという膺懲型の二つの系譜があること、現に、昭和二〇年より前に発行された講談社出版の「猿蟹合戦」(乙一六)では後者のように記述されていることが認められるから、原告の右主張は失当である。

また、右のとおり蟹は傷つけられるが死なないとすれば、子蟹が親蟹の看病をすることはストーリーの展開上当然予想される流れであり、この部分に創作性を認めることはできない。

(二) そこで、右の独自の表現を被告書籍が備えているかについて検討するに、被告書籍(甲三六)では、

(1) 親子の愛は特にテーマとはなっていないため、子蟹がお腹を空かせて待っている設定はなく、柿の木を育てると毎年おいしい柿が食べられるといった貧困対策につながる表現もない。

(2) 結末で、みんなが力を合わせて楽しい毎日を過ごしたという記述はあるが、猿が柿の木に登って柿の実を採りみんなに配ったという記述はない。

右によれば、被告書籍は、原告書籍の独創的な表現部分である(一)の(1)及び(2)を備えていないから、原告書籍における右各表現部分が創作性を備えているかどうかを問題にするまでもなく、右各表現との類似性を理由とする著作権侵害の主張は理由がない。確かに、右(2)で、猿と蟹たちが仲良く暮らしたとする点は両者で共通するが、このことは、蟹たちが反省した猿を許すというストーリーの展開上当然予想される流れであり、この部分だけを取り出して創作性を備えた表現部分と認めることはできない。

(三) その他、原告が別表五において複製権の侵害であると主張する点については、両者の絵は、全体の構図、猿や蟹等の登場するキャラクターのポーズが異なり、同じ絵であるとは認められない(例えば、⑤の絵については、親蟹の怪我の部位、親蟹が寝ている布団の色や模様、木桶と手拭いの位置、床の材質や色等において違いがある。)。

以上によれば、被告書籍の「さるかにばなし」が原告書籍の著作権を侵害するものとは認められない。

7  「編集権、編集構成権」の侵害について

著作権の対象となる著作物とは、「思想又は感情を創作的に表現したものあって、文芸、美術又は音楽の範囲に属する」ものをいうところ(著作権法二条一項一号)、原告が「編集権、編集構成権」の対象として主張する本の版型、ページ数、タイトル名などは、いずれも思想等の表現ではなく、創作に係る要素もないから、著作物性は認められない。したがって、右の点をもって著作権侵害をいう原告の主張は、それ自体失当である。

第四まとめ

以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は、いずれも理由がない。

(裁判長裁判官 三村量一 裁判官 和久田道雄 裁判官 田中孝一)

<以下省略>

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