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東京地方裁判所 平成12年(特わ)3434号 判決 2001年3月07日

主文

被告人を懲役一〇月に処する。

未決勾留日数中九〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六一年三月防衛大学校を卒業し、海上自衛隊に幹部候補生として入隊して、海曹長に任命され、三等海尉、二等海尉、一等海尉を経て、平成九年一月ころ、三等海佐に昇進し、情報幕僚としての勤務や各種幹部研修課程を履修して、防衛情報を扱う幹部自衛官としての経験を積み、平成一〇年四月から平成一二年三月までは防衛大学校総合安全保障研究科に在籍して、旧ソビエト連邦海軍の地域研究等に従事した後、同年四月ころからは、防衛研究所第一研究部第二研究室に所属し、我が国の防衛政策の策定に資するために必要な政治、法制、社会、思想等に関する調査研究を行う職務に従事していたものであるが、右防衛大学校総合安全保障研究科在籍中、在日本国ロシア連邦大使館付海軍武官A(以下、「A」という。)と知り合い、同人から誘われるままに二人だけで会食を重ねては、自己の研究や修士論文執筆のために有益でありながら、日本国内では入手困難な旧ソ連海軍関係に関する資料の提供を懇請していたものの、同人からは容易に右資料の交付を受けられなかった上、白血病を患っていた長男の看病等も相俟って、研究に打ち込めないまま、卒業期を迎えてしまい、学位取得のために、同年三月に提出した修士論文につき試験官から酷評されて、再提出を求められた末、その期限が同年七月下旬に迫っていたにもかかわらず、長男の死亡による心労やその後の対応等で、一向に捗らず、このままでは海上自衛隊内での昇進もおぼつかないと考えて、焦燥感を募らせ、この際は、修士論文作成に役立てる資料をAから入手するため、同人の要求に応じて、同人に対し、海上自衛隊内の秘密文書たる戦術関係の資料や自衛隊の将来像に関する資料を提供することもやむを得ないと決意し、同年六月三〇日、東京都渋谷区渋谷<番地略>**ビル三一階所在の飲食店「○○」において、自己が平成七年六月ころ、海上自衛隊第一術科学校在校中に入手した防衛に関する秘密文書である「戦術概説(改訂第3版)」の写し及び自己が平成一〇年二月ころ、防衛庁海上幕僚監部調査部調査課在勤中に入手した防衛に関する秘密文書である「将来の海上自衛隊通信のあり方(中間成果)」の写しを、Aに交付してその内容を知らせ、もって、職務上知ることのできた秘密を漏らしたものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

罰条 自衛隊法一一八条一項一号、五九条一項

刑種の選択 懲役刑

未決勾留日数の算入 刑法二一条(九〇日を算入)

(量刑の理由)

本件は、現職の海上自衛官であった被告人が、在日本国ロシア連邦大使館付海軍武官に、自己が職務に関連して入手した防衛に関する秘密文書の写しを交付して、職務上知ることのできた秘密を漏らしたという事案である。

被告人が漏らした秘密についてみるに、「戦術概説(改訂第3版)」は、海上自衛隊の各種作戦における戦術を体系的にまとめ上げた中級幹部自衛官のための教育資料であり、これを使用する海上自衛隊第一術科学校においても、生徒たる幹部自衛官に対し、授業中のみ貸付され、学外への持ち出しはもちろんのこと、ノートを勝手に取ることも許されていないものであって、その内容が外部に漏れた場合には、作戦遂行に支障を与えるおそれのあるものであり、また、「将来の海上自衛隊通信のあり方(中間成果)」は、近代戦において、殊に重要視される通信システムについて、海上自衛隊幕僚監部防衛部通信課内で検討した現状の問題点や今後の具体的構想を記載した文書で、その内容が外部に漏れた場合には、国防上の脅威となりうるものであって、いずれも、我が国の安全保障上重要な秘密にあたる。そして、被告人は、任官後、幹部自衛官として艦隊や陸上での勤務を経験したばかりでなく、近年は、幹部専門情報課程や幹部戦略情報課程等を履修し、海上幕僚監部調査部調査課にも勤務して、将来の海上自衛隊における情報管理の方策を検討する職務に従事するなど、防衛情報に係る専門家として、情報管理の重要性を熟知していた身でありながら、上官の忠告を意に介さず、在日本国ロシア連邦大使館付海軍武官の誘いに安易に応じて同人と二人だけで食事を共にし、その後も、同人との密会を続け、同人の要求のまま「部内限り」のものを含む各種資料を提供した挙げ句、本件犯行に及んだものであって、本件は、我が国の防衛を担う幹部自衛官としてあるまじき犯行で、自己の立場への自覚を著しく欠いた重大かつ悪質なものというほかない。

本件犯行の結果、これらの秘密が外国の軍事関係者に漏れたことによって、場合によっては、戦術や将来にわたる通信システム整備計画の見直しの必要性も生じかねず、その影響には深刻なものがある。

しかも、本件は、海上自衛隊内の中枢にあって防衛政策の策定にも関与しようとしていた幹部自衛官が国防に関する秘密情報をロシアの現役武官に漏洩したという点で、国民に与えた衝撃は大きく、防衛情報管理の甘さを露呈することとなった自衛隊への信頼を大きく損ねたと考えられるし、さらには、他の外交関係にも悪影響を与えかねないものがあったといわざるをえず、これらの点からも、本件の結果は重大であるというほかない。

本件犯行に至る経緯について見るに、被告人は、自衛隊から派遣された防衛大学校総合安全保障研究科において、従来から関心を持っていた旧ソ連海軍の地域研究を専修テーマとしていたため、在日本国ロシア連邦大使館付海軍武官であったAと知り合うや、同人から専修テーマに沿った修士論文作成に有用な資料を入手できるかもしれないと期待して、前述のとおり、同人との密会を継続し、同人の要求に応じて各種資料の提供を続けるうち、本件犯行に至ったものである。そして、この間、被告人は、Aから毎回食事の提供を受けたばかりか、長男への見舞金や香典さらには同児の供養に用いるとの名目で一回当たり十数万円という不相応の額の現金を受け取り、その金額からして右金銭には情報提供料の意味が込められていることを薄々感じながらも、Aとの関係を断ち切れず、むしろ、食事や金銭の提供に負い目を感じるようになるとともに、同人が被告人の長男の死を悼み、被告人が同児の冥福を祈って盲信していた宗教への理解を示すかのような言動を見せたことで、Aを友人のように感じて信頼する一方で、時折強い眼差しで資料の提供を迫る同人に恐怖感を覚えることもあって、その執拗な働きかけを受けた際、これを拒めなかったという側面は認められるものの、本件犯行の主たる動機は、前記のとおり、修士論文作成に有用な資料の入手にあったというべきであり、結局は、国防に関する秘密を漏洩し国益を犠牲にしてまでも、優れた論文を作成して、海上自衛隊内での自己の地位を保全し、将来の昇進の道を確保しようとしたという利己的で自己中心的なものというしかなく、犯行の動機に酌量の余地は乏しい。さらに、被告人が、金銭目的で犯行に及んだとまではいえないものの、前述のとおり、Aから被告人の長男への見舞金等の名目で度々提供される金銭を情報提供の報酬であると認識しながら、これを受領し続けていたことが本件に結び付いているという点も、厳しい非難に値するといわなければならず、これらの事情を考慮すると、被告人の刑事責任は相当に重い。

もっとも、被告人がその写しを交付した「戦術概説(改訂第3版)」、「将来の海上自衛隊通信のあり方(中間成果)」は、それぞれ「秘」、「指定前秘密(秘)」の指定にとどまるものであり、「機密」又は「極秘」の指定をうけたものと比較すれば、秘匿の必要性がとりわけ高度のものであるとまではいえないし、被告人は、当時長男が不治の病に侵され、妻とともに、献身的な看病を続けたにもかかわらず、その甲斐なく、死亡するに至ったことで、深い悲しみに打ちひしがれた状態にあったことから、平静を失っていたその心の隙間に、Aに巧妙に付け入られ、心理的に追い込まれて利用されたという側面があることも否定できない。

また、被告人は、内偵捜査を行っていた警察官から任意同行を求められた後は、ほぼ、一貫して、捜査官の取り調べに素直に応じ、本件の事実関係を自ら明らかにするとともに、公判廷においても、安易に反省の弁を述べて許しを請うのではなく、自己が犯した犯罪によって、国民の安全を脅かしてしまったことを謝罪するとともに、いかなる裁きであっても受けるつもりであり、一生涯をかけて自己の犯した罪を償っていきたいとその決意を明らかにしており、内省を深めてきたことは十分に認められるし、本件により一〇数年余り勤めた海上自衛隊を懲戒免職となり、その生活の基盤を失ったことや、本件が社会的に耳目を集め、マスコミにおいて盛んに報道されたこと等によって、既に幾分か社会的制裁を受けてもいる。

その他、被告人の両親が寛大な処罰を望んでいること、本件に至るまで、被告人には前科前歴はもちろん、海上自衛官としての処分歴もなかったこと、Aから受領したのとほぼ同額の金銭を法律扶助協会に贖罪寄付していることなど、被告人のために斟酌すべき諸事情も認められる。しかしながら、被告人の刑事責任の重大性に鑑みると、被告人のために酌むべき事情を十分考慮しても、本件は、刑の執行を猶予すべき事案とはいえず、主文記載の刑は免れないものと判断した。

(裁判長裁判官・吉村典晃、裁判官・松藤和博、裁判官・鎌倉正和)

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