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東京地方裁判所 平成13年(ワ)13363号 判決 2002年5月17日

主文

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は,原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求の趣旨

被告は,原告に対し,金2313万4900円及びこれに対する平成11年11月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

本件は,検査のために被告の経営するD病院に入院していた原告が,病院5階トイレの出入口スロープ部分が水に濡れていたため滑って転倒し,左大腿骨頚部骨折の傷害を受けたとして,主位的に,土地工作物の設置又は保存の瑕疵による不法行為に基づき,予備的に,原告が本件事故当時独力で院内を安全に歩行することが困難な状態にあったにもかかわらず,夜間の独力歩行をさせたという注意義務違反及び睡眠薬(ハルシオン)を継続投与する際の観察看護義務違反を理由とする債務不履行又は不法行為に基づき,被告に対し,損害賠償を求めた事案である。

1  争いのない事実等

(1)ア  被告は,健康保険法に基づく健康保険組合であり,D病院(以下「被告病院」という。)を設置して,被告病院の施設等を所有している(争いのない事実)。

イ  原告は,昭和5年12月19日生まれであり,平成11年11月13日当時,68歳であった(争いのない事実)。

(2)  原告は,同月8日,嚥下障害を訴え,被告病院の診察を受け,食道がんの検査のために,被告病院の別紙図面斜線部分表示の5階西側の大部屋(619号室)に入院し,同月9日及び10日,胃カメラ撮影等の検査を受けた(争いのない事実,甲7,乙1)。

(3)  原告は,同月10日及び12日午後9時ころ,看護婦に不眠を訴えて,睡眠薬(ハルシオン)各1錠の投与を受けた(争いのない事実,乙1,証人E)。

(4)  原告は,同月13日午前1時ころ,被告病院5階において転倒し,左大腿骨頸部骨折の傷害を受けた(以下「本件事故」という。)(争いのない事実)。

(5)  原告は,同月22日,人工骨頭置換手術を受けた。その後,原告は,被告病院においてリハビリ等を行うとともに,同年12月22日,胃カメラ撮影等の検査の結果発見された胃ガンの治療のため,幽門側胃切除術を受け,平成12年1月30日に被告病院を退院した(争いのない事実,乙1)。

(6)  原告には,左股関節の機能障害(人工骨頭)の後遺障害が残り,原告は,同年2月15日に身体障害程度等級4級の認定を受けた(争いのない事実)。

2  争点

(1)  本件事故が生じたのは,被告病院の施設の設置又は保存の瑕疵に基づくものか(原告は,右手に点滴用スタンドを持った状態で,被告病院トイレの出入口スロープ部分が水に濡れていたために転倒したか。)。

(2)  被告に,原告の夜間の独力歩行を避けさせるべき注意義務違反があったか。

(3)  被告に,ハルシオンを継続投与する際の観察看護義務違反があったか。

(4)  原告の損害額(判断の必要がなかった。)

3  争点についての主張

(1)  本件事故が生じたのは,被告病院の施設の設置又は保存の瑕疵に基づくものか(原告は,右手に点滴用スタンドを持った状態で,被告病院トイレの出入口スロープ部分が水に濡れていたために転倒したか。)。

(原告の主張)

ア 被告病院5階西側のトイレ(以下「本件トイレ」という。)の出入口(別紙図面<ア>表示の部分)は,長さ2メートル,高さ約20センチメートルのスロープになっており,手すり等はつけられていない。

イ 原告は,平成11年11月13日午前1時ころ,尿意を感じ目を覚まして,ベッドから起きて右手に点滴用スタンドを持った状態で本件トイレへ歩いて行った。

ウ 原告は,小用を終えて本件トイレの出入口のスロープ部分を歩いていたとき,スロープ部分が水で濡れていたため,左足が滑ってその場に転倒した。その状況は,原告の右足が廊下へかかった際に,スロープ上にあった左足が滑って後ろへ大きくとられ,いわゆる股裂き状態となって,ばたんという大きな音と共に,右手には点滴スタンドを持ったまま,体は前へ倒れる形となって転倒したものであった。なお,原告は,当時,被告病院の売店で購入したスリッパを履いており,そのスリッパは特に滑りやすいものではなかった。

エ 原告が滑って転倒したのは,本件トイレの出入口のスロープ部分が水に濡れていたこと,スロープ部分に手すりがつけられておらず,また,滑りにくい床材となっていなかったことによるものであり,被告病院の施設の保存又は設置の瑕疵に基づくものである。

(被告の主張)

ア 原告は,右手に点滴用スタンドを持った状態で本件トイレの出入口スロープ部分で転倒したのではない。原告が転倒したのは,原告の病室から廊下に抜ける通路部分(別紙図面<イ>表示の部分,以下「本件通路部分」という。)においてである。

イ 本件事故当時,原告に対して点滴は行われていなかったし,本件トイレの出入口スロープ部分は,水で濡れていなかったし,その傾斜も緩やかであり,スロープの高さに関する原告の主張は誤っている。原告が滑って転倒したのは,被告病院の施設の保存又は設置の瑕疵に基づくものではない。

(2)  被告に,原告の夜間の独力歩行を避けさせるべき注意義務違反があったか。

(原告の主張)

ア 原告は,本件事故当時,68歳という高齢であり,被告病院に入院後本件事故発生までの間,食道運動異常症,びまん性食道けいれん等により,食事摂取が困難となって,点滴で栄養補給をしており,体力低下及び栄養状態の変調を来していた上に,本件事故前日の午後9時ころ就寝前に睡眠薬(ハルシオン)を処方されていた。

このような原告の年齢及び体力の低下状況に加えて,睡眠薬を投与していたことからすると,原告は,本件事故当時,夜間独力で被告病院内を安全に歩行することが困難な状態にあった。

イ 被告は,原告との診療契約に付随する安全保護義務ないし不法行為上の注意義務として,入院患者である原告が,被告病院内で安全な療養生活を過ごすことができるように管理する義務を負うところ,原告がアのとおり,夜間独力で被告病院内を安全に歩行することが困難な状態にあったのであるから,被告には,原告に対し尿意を感じたときは尿瓶を使用させ,あるいは,ナースコールをさせるなどして,原告の夜間の独力歩行を避けさせるべき注意義務があった。

ウ しかるに,被告は,原告に対して,尿瓶を使用させる等の特段の措置をとらず,上記注意義務を怠った結果,原告は夜間独力でトイレに行こうとして転倒し,本件事故が生じた。

(被告の主張)

ア 原告は,被告病院入院後,全身状態向上を目的として点滴がされていたが,食事をほぼ全量摂取しており,点滴によって栄養補給をしなければならないほど栄養状態は悪化していなかったし,本件事故までは日中自由に歩き回っており,意識状態も清明で歩行状況に何ら問題はなかった。また,原告は,平成11年11月10日午後9時ころ就寝前にハルシオンを服用した際にも何ら問題を生じていなかった。

イ 原告が主張する事情は,原告が病院内を独力で安全に歩行できたか否かとは無関係の事情である。

ウ 以上のとおり,原告は,本件事故当時,嚥下障害等を訴えるほかは通常人と全く異なるところがなかったのであるから,被告において,かかる原告に対しハルシオンを処方したからといって,夜間の独力歩行をさせてはならないという注意義務を負うことはない。

(3)  被告に,ハルシオンを継続投与する際の観察看護義務違反があったか。

(原告の主張)

ア 原告に投与されたハルシオンは,超短期作用型の睡眠薬であり,副作用として,中途覚醒時の出来事を覚えていないなどの一過性前向性健忘,もうろう状態,ふらつき並びにけん怠感及び脱力感等の筋緊張低下症状等が指摘されており,看護上,患者の言動を十分に観察する必要がある。また,めまい,ふらつき等は,用量依存的に出現するため,少量から開始し,患者の観察を十分に行い,増量は慎重にすべきであり,継続投与は避けるべきとされている。さらに,副作用の生じやすい高齢者や衰弱患者には,慎重投与とされている。

イ 原告は,当時68歳の高齢者であり,食事摂取困難により体力が低下していたのであるから,ハルシオンを投与する場合には,服用後に「もうろう」や「ふらつき」という副作用が発現する可能性があることを念頭に置いて,服用後の患者の言動を十分に観察すべき注意義務があり,また,継続的に投与すれば,めまい,ふらつき,健忘等が出現しやすくなるのであるから,安易な継続投与は避け,やむをえず継続的に投与する場合には,患者の状態及び症状等の異常の有無を十分に検討すべき注意義務があった。

ウ 被告は,原告に対し,平成11年11月10日及び12日と連続的にハルシオンを投与したが,同月12日の投与後には特に注意して原告の状態を観察看護すべきであり,中途覚醒時には副作用が生じる可能性が高いのであるから,最低限夜中に目が覚めた場合にナースコールをさせる等の対応が必要であったのに,原告の状態について,何の注意も払っておらず,上記注意義務を怠った。

エ 被告の上記注意義務違反により,原告は,同月13日午前1時ころ,中途覚醒し,ハルシオンの副作用であるもうろう,ふらつき及び筋緊張低下等の影響で,被告病院内で転倒したため,本件事故が生じた。

(被告の主張)

原告は,平成11年11月10日のハルシオン投与の際にも何らの問題点を生じていなかったし,2回のハルシオン投与は,同薬において避けるべきとされる連続投与には当たらず,被告において,患者の状態及び症状等の異常の有無を十分に検討すべき注意義務を怠った過失は認められない。

(4)  損害額

(原告の主張)

ア 治療関係費  6万7020円

イ 付添看護費  43万4500円

ウ 入院雑費  10万2700円

エ 自動車購入費  24万5000円

オ 休業損害  149万6225円

カ 逸失利益  788万9455円

キ 慰謝料  1080万円

ク 弁護士費用  210万円

第3当裁判所の判断

1  争点1(本件事故が生じたのは,被告病院の施設の設置又は保存の瑕疵に基づくものか。)

(1)  原告は,右手に点滴用スタンドを持った状態で,本件トイレの出入口スロープ部分が水に濡れていたために転倒したこと,転倒後,そのままの姿勢で自室に向かって這って戻ろうとしたが,本件トイレ出入口前のホールにおいて立ち上がろうとした際にバランスを失って,右手でつかんでいた点滴スタンドを倒してしまい,その物音に気付いた同室の入院患者F(以下「F」という。)らに助けられ,自室のベッドまで運んでもらったこと,被告病院の者によって,転倒時にスロープ部分の水によって濡れてしまったパジャマのズボンを交換してもらったことなどを主張し,原告本人もこれに沿う供述及び陳述(甲11)をし,原告の妻であるGも,原告が本件事故が起きた翌朝に同様の話をしていたと陳述する(甲12)。

そして,証拠(甲8,乙1)によれば,被告病院の平成11年11月15日付け転科転棟患者申し送り書には,原告について,「11.13.1:30頃トイレ歩行時転倒」との記載があり,同年12月8日付け転科転棟患者申し送り書にも,同様に「H11.11.13,5F病棟で,トイレ歩行中転倒にて受傷」との記載があることが認められ,これらの記載からすると,原告の転倒場所は,本件トイレの出入口スロープ部分であると認められないわけではない。

(2)  しかし,証人Fは,物音を聞いて原告を助けに行った同室の患者であるが,原告が転倒していたのを確認した地点は,本件通路部分の辺りであり,原告は,右足をまっすぐ前に投げ出し,左足を後ろにして膝を曲げて尻が床についた姿勢で病室の方に向かって座っていたこと,原告は,その際,点滴をしておらず,寝ぼけたようなぼやっとした様子をしており,声をかけると,原告が,ちょっとここで転んでしまったと述べたことを証言し,さらに,原告の転倒に気づいたのは,壁にどすんと何かがぶつかったような音がしたためであり,金属音ではなかったこと,原告をほかの患者と2人で病室の原告のベッドまで連れて行ったが,その後まもなく,原告が再びベッドから出て,本件トイレの中で服部看護婦に片腕を支えられていたのを見つけ,原告がしゃがみ込んだため,原告を1人で抱き上げてトイレの外に連れだし,そこから駆けつけてくれた患者と2人で原告のベッドにまで連れて行ったこと,原告のパジャマのズボンは濡れていなかったことを証言し,同様の陳述(乙3)をしている。

また,証人Eは,被告病院看護婦であるが,本件事故発生後,ナースコールで呼ばれたところ,原告が本件通路部分に右足を前に投げ出し,左足を後ろにして,両足を広げた状態で座っていたこと,Fとほかの患者1名がその場にいたこと,Fらの協力によりベッドに原告を戻した後,Eが原告の求めに応じて病室を出て尿器を取りに行っている間に,原告は,再び1人で歩いて本件トイレに向かってしまい,Eは,これを止めきれなかったため,原告に付き添って,原告を本件トイレまで連れて行ったものの,原告は,排尿を始める前に力が抜けて座り込むような状態になったこと,Eは,原告を支えきれなくなってナースコールで服部看護婦を呼んだが,服部看護婦の指示で車椅子を取りに行っている間に,Fらが原告をベッドに連れて行ったこと,原告のパジャマのズボン及び本件トイレのスロープ部分は濡れていなかったこと,本件事故当時,原告には点滴は処方されていなかったが,本件事故後,血圧が低下したため,午前2時以降に点滴をしたことなどを証言し,同様の陳述(乙4)をしている。

(3)ア  証拠(乙1)によれば,原告の入院中の看護記録の平成11年11月12日午後11時から翌13日午前8時の欄には,原告が,午前1時,619号室前の廊下に座り込んでいて,他の患者からナースコールがあった,原告は急に足がふらふらしたと述べていた,ベッドへ安静臥床させた後に原告がまた1人で歩き出してしまい,トイレでうずくまってしまった,午前1時血圧78/58,午前1時40分血圧90/82という趣旨の記載がされていることが認められる。

イ  上記証人F及び証人Eの各証言は,おおむね一致しており,その内容が具体的かつ詳細であり,本件事故直後の看護記録の記載内容とも合致していること,両者とも本件事故当時,就寝前で覚醒しており,誤解や勘違いをしたことも考えにくいこと,Fは,本件事故について全く利害関係を有しない第三者であり,その証言の信用性は高いことなどから,両名の証言は,十分信用することができるといわなければならない。

ウ  これに対し,証拠(乙1)によれば,原告の入院中のカルテの平成11年11月15日欄には,「11月13日朝病棟にて転倒 本人記憶がないと」との記載がされていることが認められ,かかる事実からは,原告は,平成11年11月15日の時点では,本件事故当時の状況について記憶がないと述べていたことが認められるし,また,原告のパジャマのズボンが濡れていたことについても,原告は,当初,被告病院の賄いの女性がパジャマの上下を取り替えてくれたと陳述していた(甲11)が,被告から本件事故が起こった深夜の時間帯には賄いの女性はいないとの指摘を受けて,原告本人は,誰に着替えさせて貰ったか記憶がないと供述を変更するなどしているのであり,原告の前記(1)記載の供述及び陳述の各内容は,信用し難いものがある。

そして,前記(1)に判示した転科転棟患者申し送り書の各記載についても,トイレに行く途中で転倒した趣旨とも理解することができ,必ずしもトイレ内を歩行中に転倒が生じたことを意味するものではないから,これらの記載が原告本人の供述を裏付けるものであるとは認められない。

さらに,原告が本件事故時に点滴を受けていたか否かについても,証拠(甲9,10,乙1)によれば,原告は,平成12年12月21日から同月31日の間,2000ミリリットルの点滴を24時間かけて投与されていたこと,本件事故前日にも同様に2000ミリリットルの点滴を受けていたことが認められるが,一方,(甲9,10,乙1,4,5,証人E,証人H)によれば,平成12年12月21日からの入院注射処方箋(甲9)には,2000ミリリットルの点滴を24時間かけて投与する旨の時間の指定がされているのに対し,本件事故前の入院注射処方箋(乙1)には,時間の指定がないこと,平成11年12月21日から同月31日までの間は,原告が人工骨頭置換手術を受ける直前直後のことであって,手術直後には手術による出血,侵襲によって循環状態が不安定になることから,特に指示をして24時間かけて点滴を行ったものであること,これに対し,特別の事情がない場合には,500ミリリットルの点滴1本につき,2,3時間で滴下するのが通常であり,2000ミリリットルの点滴は,午前9時ころに始めて就寝前には終了すること,本件事故前には特別の事情はなかったことが認められ,これらの事実からすると,原告が本件事故当時点滴を受けていたことを裏付ける客観的証拠も存在せず,原告本人の供述及び陳述の各内容は採用することができない。

(4)  以上の検討によれば,(1)に判示した原告本人の供述及び陳述の各内容並びにGの陳述内容は,採用することができず,(2)に判示した証人F及び同Eの証言は,信用できると認められるから,原告は,右手に点滴用スタンドを持った状態で,本件トイレの出入口スロープ部分が水に濡れていたために転倒したと認めることはできず,本件通路部分で転倒したと認められる。

そして,原告から本件通路部分における設置又は保存の瑕疵についての具体的主張はないし,本件全証拠によるも,本件通路部分の設置又は保存に瑕疵があったと認めることができないから,被告病院の施設の設置又は保存の瑕疵に基づき本件事故が発生したとの原告の主張は認められない。

2  争点2(被告に,原告の夜間の独力歩行を避けさせるべき注意義務違反があったか。)

(1)  前記第2,1に認定した各事実及び証拠(甲7,8,乙1,5,7,証人H,証人E)並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

ア 原告は,当時68歳の高齢であったが,被告病院への入院前後はタクシー運転手として勤務していた。原告は,平成11年11月3日ころから嚥下困難,食餌の経口摂取困難を訴え,同月8日午前11時ころ,独力で歩いて被告病院に来院し,食道がんの検査のため入院した。

イ 原告は,入院時の診察で嚥下困難,食道運動異常症,びまん性食道痙攣と診断され,入院当日の原告の入院診療計画として,食事摂取困難時の栄養は,点滴で補うため管理をすることとされていた。

ウ 原告の栄養状態は,入院当日の血液化学検査によれば,トータルプロテイン値が6.6とわずかに基準値(6.7ないし8.3)よりも低いほかは,アルブミン及び総コレステロール値も基準数値の範囲内であり,特に異常はなかった。

エ 原告は,入院当初,嚥下困難があったため,流動食と1日2000ミリリットルの点滴を指示されていたが,点滴は,流動食によるカロリー摂取の不足を補うものであり,食事の摂取については,入院当日の同月8日に昼食として副食(ポタージュ)を2分の1摂取し,夕食として牛乳1本を摂取しただけであったが,翌9日には昼食を2分の1程度,夕食には主食を全量,副食を3分の1摂取した。同月10日には昼食は全く食べていないが,朝食及び夕食は全量摂取し,同月11日及び同月12日には全量摂取した。同日の診察では,原告から食物の通り具合がよいとの話があったので,夕食から流動食が5分がゆに切り替えられた。

オ 原告は,被告病院入院中,日中は病院内を自由に歩き回っており,意識状態も清明で,歩行状況に何ら問題はなかった。

カ 原告は,同月10日に不眠を訴え,睡眠薬ハルシオン1錠の投与を受けたが,翌朝看護婦に対しよく眠れたと話しており,ハルシオンの投与に問題点はなかった。原告は,本件事故が起こった前日の午後9時ころハルシオン1錠の投与を受けていた。

(2)  以上の事実によれば,原告は,入院当日ころまでは摂食困難な状態にあったが,独力で歩行することに支障はなく,栄養状態も入院時から悪くなかったこと,入院後点滴を受けていたが,流動食によるカロリー摂取の不足を補うためのものであり,また,入院後次第に食事の摂食量が増えて,本件事故直近の同月12日の夕食には5分がゆを食べられるまでに回復していたこと,原告は,入院後も,日中は病院内を自由に歩き回っており,その行動からは原告の歩行に特に注意すべきような点は存しなかったこと,ハルシオンの投与についても,同月10日の使用時に特に異常が生じていなかったことが認められる。

このような原告の状態を考えると,原告が68歳という高齢であること及び睡眠薬であるハルシオンを投与したことを考慮しても,平成11年11月12日の原告が就寝する時点において,原告が夜間独力で被告病院内を安全に歩行することが困難な状態にあると被告において予測することはできなかったと認められるし,原告に対し,尿瓶を使用させ,あるいは,ナースコールをさせるなどして,夜間の独力歩行を避けさせるべき注意義務があったとは認めることはできない。

よって,この点の原告の主張も認められない。

3  争点3(被告に,ハルシオンを継続投与する際の観察看護義務違反があったか。)

(1)  証拠(甲13,乙5,6の1,2,証人H)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

ア ハルシオンは,超短期作用型とされる催眠・鎮静薬であり,一般的な睡眠導入剤として広く病院において使用されており,その効果は,服用後3,4時間程度持続する。

イ 治療薬マニュアル(甲13)には,ハルシオンについて,高齢者には1回0.125ミリグラムから0.25ミリグラムまでに使用量が制限されていること,高齢者及び衰弱者について慎重投与とされ,後者については副作用が現れやすいこと,注意として,反応に個人差があり,眠気,めまい,ふらつき及び健忘等は用量依存的に出現するので,少量(1回0.125ミリグラム以下)から開始し,観察を十分に行い,増量は慎重に行うこと,不眠症に対する投与は,継続投与を避け,短期間にとどめ,やむを得ず継続投与する時は定期的に患者の状態,症状等の異常の有無を十分確認すること,不眠症には就寝直前に服用させることが記載され,重大な副作用として,中途覚醒時の出来事を覚えていないなどの一過性前向性健忘が0.12パーセントの割合で生じ,もうろう状態が0.05パーセントの割合で生じること,その他の副作用として,ふらつき,めまい,転倒,倦怠感,脱力感等が生じることがあること,看護上の注意として,服薬後にもうろう状態が生じ,起床後に前夜の行動について健忘が起こり得ることを念頭に,患者の言動を観察することなどの記載がある。

ウ 被告病院は,外来患者に対してハルシオンを処方する場合に,各患者に対し,①アルコールとの併用を避けること,②就寝の直前に服用すること,③車の運転や危険の伴う機械の操作等には十分気をつけること,④就寝後短時間で起きて仕事等をする可能性のある場合には服用しないこと,⑤用量を自分の判断で増やさないことなどの注意をしている。

(2)  原告は,まず,被告病院が原告に対し,ハルシオンを継続的に投与したと主張するが,前記2(1)カに認定したとおり,原告は,平成11年11月10日と同月12日の2回ハルシオンの投与を受けただけであり,証拠(証人H)によれば,ハルシオン使用の際に避けるべき継続投与とは,月単位ないし年単位にわたる投与のことをいうと認められるから,原告に対するハルシオンの2回の投与が継続投与に当たらないことは明らかである。

(3)  次に,原告は,原告が当時68歳の高齢者であり,食事摂取困難により体力が低下していたこと,ハルシオンの服用後にもうろうやふらつきという副作用が発現する可能性があることから,被告には,服用後の患者の言動を十分に観察すべき注意義務があり,最低限夜中に目が覚めた場合にナースコールをさせる等の対応をさせる注意義務があると主張する。

しかしながら,前記2に認定したとおり,原告は,当時68歳という高齢ではあったが,栄養状態等が特に悪化していたわけではなく,また,衰弱していたとも認められず,証拠(乙1,6の1,2,証人E,証人H)によれば,被告病院は,原告に対し,ハルシオンを1錠投与したことが認められ,治療薬マニュアルが定めた高齢者に対する投与量を超えて投与したとは認められない。

そして,前記(1)アウのとおり,ハルシオンは,一般的な睡眠導入剤として,不眠を訴える患者に対し広く使用されており,被告病院が外来患者に対してハルシオンを出す場合にも前記ウに記載した注意をするにとどまり,服用後短時間で目が覚めた後に1人で動き回らないことやトイレに行く場合には付添が必要であるなどの指示をしているわけではないことが認められ,かかる被告病院の取扱いが不適切であると認めるべき証拠もない。

また,前記2(1)カに認定したとおり,原告には,平成11年11月10日にハルシオンを投与しているが,その際,原告には何ら異常は認められなかった。

これらの事情からすると,前記(1)ウのとおり,ハルシオンには,一般的に,めまい,ふらつき,中途覚醒時の出来事を覚えていないなどの一時的健忘,筋緊張低下及び転倒等の副作用が生じる可能性があるとされていることが認められるが,被告病院において,原告にそのような副作用が生じることを具体的に予測できたとはいえず,通常の入院患者に対する観察看護義務を超えて,ハルシオン投与後の原告の行動を観察すべき注意義務があったとは認められないし,また,夜中に目が覚めた場合にナースコールをさせる等の対応をさせる注意義務があったとも認められない。したがって,被告にそれらの注意義務違反があったということはできない。

よって,この点に関する原告の主張も認められない。

4  結論

以上のとおり,原告の本訴請求は,いずれも理由がないからこれを棄却することとし,訴訟費用の負担につき,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 前田順司 裁判官 池町知佐子 裁判官 増尾崇)

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