東京地方裁判所 平成13年(ワ)24052号 判決 2003年2月05日
原告
甲野太郎
訴訟代理人弁護士
池田直樹
被告
東日本旅客鉄道株式会社
代表者代表取締役
大塚陸毅
代理人支配人
大川博士
訴訟代理人弁護士
西迪雄
同
向井千杉
同
富田美栄子
同
石井崇
主文
一 被告は、原告に対し、金一六万円及びこれに対する平成一三年六月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告に対し、金一一〇万円及びこれに対する平成一三年四月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 事案の骨子
本件は、重度の身体障害を有する原告が、単身で、手押し型の車いすを使用し、電車を利用して移動中、被告が管理・運営するJR線新宿駅(以下「新宿駅」という。)構内において、被告の駅員の介助を受けたところ、同駅員が新宿駅中央線九番線ホームで原告の車いすをブレーキを掛けずに一時放置したため、車いすが線路方向に向かって動き出し、それにより原告が極度の恐怖を感じさせられ、また、同駅員が新宿駅中央東口改札外で原告の車いすをブレーキを掛けずに放置したため、車いすが動き出し、それにより原告が強い不安を感じさせられたことから、精神的苦痛を被ったと主張して、被告に対し、旅客運送契約上の安全配慮義務違反又は不法行為(使用者責任)に基づく損害賠償として、慰謝料合計一〇〇万円及び弁護士費用一〇万円の合計金一一〇万円並びにこれに対する上記放置後の平成一三年四月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
二 前提事実
争いのない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定することができる事実等は、次のとおりである。
1 原告は、昭和四〇年八月生まれの男性であり、大阪府知事から、障害名「脳性麻痺による緊張性アテトーゼ」、身体障害者福祉法別表四(次に掲げる肢体不自由)の六(一から五までに掲げるもののほか、その程度が一から五までに掲げる障害の程度以上であると認められる障害)に該当、身体障害者等級表による級別「壱級」とする身体障害者手帳の交付を受けた者である(甲1)。
なお、アテトーゼとは、ある姿勢を維持しようとしたり、運動を行おうとする時に現われる不随意運動をいい、一般に、不規則なゆっくりとした動きであって、精神的に緊張したり、疲労した時などに増悪するものである(甲14)。
2 被告は、旅客鉄道事業等を営むことを目的とする株式会社であって、我が国における公共交通網の基幹を担う会社の一つである(弁論の全趣旨及び公知の事実)。
3 原告は、平成一三年四月二八日、単身で車いすを利用し、東海旅客鉄道株式会社及び被告の電車に乗車して移動していたが、同日午後一時ころ、新宿駅構内において、中央線下り電車を降りて中央東口改札外へ行くに当たり、被告の駅員である乙野次郎(以下「乙野」という。)の介助を受けた(争いのない事実)。
4 乙野は、中央線九番線ホーム及び中央東口改札外において、原告の乗った車いすから離れる際に、いずれの場合も原告の車いすのブレーキを掛けなかった(争いのない事実)。
三 争点
本件の主要な争点は、①被告の駅員が原告の車いすのブレーキを掛けなかったことが、旅客運送契約上の安全配慮義務違反又は不法行為に当たるか、②新宿駅中央線九番線ホームで、原告の車いすが、ブレーキが掛かっていなかったため、乙野がこれを置いた位置から動いたか、③同じく、新宿駅中央東口改札外で、乙野がこれを置いた位置から動いたか、④原告に精神的損害が発生したのかである。
四 争点に関する当事者の主張
各争点に関する当事者の主張の要旨は、次のとおりである。
1 被告の駅員が原告の車いすのブレーキを掛けなかったことが、旅客運送契約上の安全配慮義務違反又は不法行為に当たるか。
(一) 旅客運送契約上の安全配慮義務違反
(1) 原告の主張
① 原告は所定の運賃を支払って中央線下り電車に乗車しており、原告と被告との間には旅客運送契約が成立している。
被告は、旅客運送契約に基づき、乗客を目的地まで安全に運送する安全配慮義務を負っており、被告の駅員はその履行補助者である。被告は、乗客の安全を確保するため、物的設備を整えるのみならず、駅員の配置、教育等にも配慮すべき義務を負っている。乗客が車いす利用者である場合、被告の駅員がその介助をすることは、被告の旅客運送契約上の義務の履行であって、単なるサービスではない。
② 被告の駅員は、乗客が車いす利用者である場合、その介助に当たっては、乗客に事故のないように細心の注意を払うべきであり、また、車いす利用者が別に介助者を用意しているときには、その介助者のところまで介助を引き継ぐ義務がある。
しかるに、乙野は、中央線九番線ホームが九番線線路側に向かって下り勾配で傾斜していることを知っており、原告が重度の身体障害者であること、原告の車いすが電動式ではなく、かつ、原告自らが駆動することのできるタイプの車いすではないことを知り得たはずであるから、原告が自ら車いすのブレーキを掛けることができないことも知り得たはずである。そうすると、乙野は、車いすのブレーキを掛けずに原告をホームに放置すれば、原告の車いすが自然に動き出し、最悪の場合は車いすごとホームから線路に転落し、原告が死ぬかも知れないことも認識し得たはずである。したがって、乙野は、原告の車いすから離れるときには、ブレーキを掛ける法的義務があったというべきである。それにもかかわらず、乙野は、原告に対して車いすのブレーキ操作をすることができるかどうかの確認すらせず、ブレーキを掛けないまま原告の車いすをホームに放置したのであるから、乙野には旅客運送契約上の安全配慮義務違反があるというべきである。乙野は、また、中央東口改札外でも、原告が用意した介助者に引き継ぐことなく、ブレーキを掛けずに原告の車いすを放置したのであって、この場所でも、旅客運送契約上の安全配慮義務違反があるというべきである。
③ 被告は、車いす利用者を介助する際の注意事項をまとめたマニュアルを作成し、これを駅員に配布しているが、そのマニュアルにも、車いすから離れる際はブレーキを掛けなければならない旨記載されている。このことからも、乙野が、中央線九番線ホーム及び中央東口改札外でブレーキを掛けずに原告の車いすを放置したことに旅客運送契約上の安全配慮義務違反があることは明らかである。
④ 被告は、車いす利用者が鉄道を利用して旅行する際には、当然に自らが手配した介助者を同行するなどのほか、駅員等の第三者に介助を依頼した場合は必要な指示を与えるなど、自己の安全の確保を図るように努め、その責任を負担すべきであると主張するが、車いす利用者には必ずしもそのような義務はない。
原告は、新大阪駅において、駅員に、東海道新幹線を利用して新大阪駅から東京駅に行き、東京駅で中央線に乗り換えて新宿駅に行くという行程と、介助者が同行しないことを伝えていた。原告は、各駅員の介助により、新大阪駅で東海道新幹線に乗り、東京駅では新幹線ホームから中央線ホームまで移動しているが、原告はいずれの駅員からも介助者を同行して乗車すべきであるとか、介助者がいない場合は車いすの自力操作が可能であると理解されるとの説明を受けたことはない。このことからも、車いす利用者たる原告に、被告の主張するような義務がないことは明らかである。
(2) 被告の主張
① 乙野が原告の車いすを置いた位置は、中央線九番線ホームのときも、中央東口改札外のときも、車いすのブレーキを掛けていなくとも、原告の生命、身体等に危険を生じさせることがない位置である。それゆえ、乙野がブレーキを掛ける必要はないものと判断し、原告の車いすのブレーキを掛けずにその傍らを離れたことに、特に問題とすべき点はなく、乙野には安全配慮義務違反はない。すなわち、乙野が、中央線九番線ホームで原告の車いすを置いた位置は、別紙図面1の△印地点であるが、乙野は、車いすを利用している乗客の介助を多数担当しており、エスカレーターの運転切り換え操作をする場合は、常に本件と同様の位置に車いすを置いている。乙野は、他の乗客の動きを阻害しないこと、傾斜がなく、車いすが動き出したり、他の乗客と衝突したりすることがないこと、九番線線路は通常は電車が入線しないこと等の合理的な理由に基づいて、車いすを置く位置を選んでいるのである。実際、別紙図面1の△印地点は、平坦な場所であり、九番線線路側に向かって下り勾配で傾斜していないから、九番線線路側に向かって原告の車いすが自然に動き出すことは物理法則上あり得ず、また、同地点から九番線線路側のホーム端までは約三メートルの距離があるから、原告の車いすがこのような平坦な場所をホーム端まで移動し、更にそこから線路に落下するおそれはないに等しい。また、乙野が、中央東口改札外で原告の車いすを置いた位置は、別紙図面2の△印地点であるが、同地点は、ほとんど傾斜がない平坦な場所であり、原告の車いすが自然に動き出すということは物理法則上あり得ない。加えて、原告は、車いすのブレーキを自ら操作することができたはずである。なぜなら、原告は中央線下り電車の車中では、車いすにブレーキが掛かっていたことを認めているところ、乙野が新宿駅で原告を同電車から降車させた際、原告の車いすにはブレーキが掛かっていなかったことからすると、原告が自ら車いすのブレーキを解除する操作をしたと考えられるからである。
よって、乙野には安全配慮義務違反はない。
② 被告は、これまで、身体障害者や高齢者も安全で快適に鉄道を利用し得るようにする努力の一環として、駅員による車いす利用者の介助の手伝い等を行ってきた。しかし、車いす利用者も、自らが手配した介助者を同行するなどのほか、駅員等の第三者に介助を依頼した場合には必要な指示を与えるなど、自己の安全の確保を図るように努め、その責任を負担すべきである。原告が、障害のため、電動式車いすの操作さえ困難であり、あえて介助者によって駆動するタイプの車いすを利用しているというのであれば、公共交通機関である電車を利用するに際しては、原則として、移動中の全行程を通じて介助者を同行すべきであり、駅員等の第三者に介助の依頼をする場合には必要な指示を与えるべきである。
(二) 不法行為(使用者責任)
(1) 原告の主張
乙野は、被告の駅員として、被告の指揮監督の下に、被告の事業の執行として、原告の介助を行った。前記のとおり、乙野が、中央線九番線ホーム及び中央東口改札外で、ブレーキを掛けずに原告の車いすを放置し、その結果、原告の車いすが動き、原告に恐怖や不安を与えたことについて、乙野には過失がある。
(2) 被告の主張
後記2及び3の各(二)で詳述するとおり、原告の車いすは、中央線九番線ホームでも、中央東口改札外でも、動いていないのであるから、乙野が原告の車いすのブレーキを掛ける必要がないと判断し、ブレーキを掛けなかったことについて、過失はない。
2 新宿駅中央線九番線ホームで、原告の車いすが、ブレーキが掛かっていなかったため、乙野がこれを置いた位置から動いたか。
(一) 原告の主張
(1) 乙野が原告の車いすを置いた位置等について
原告は、新宿駅で、乙野の介助を受けて、車いすに乗ったままの状態で、中央線下り電車を降り、車いすを押してもらいながら、エスカレーター乗り口付近まで移動した。乙野は、中央線九番線ホームの別紙図面1の×印地点に原告の車いすを置き、一時、その傍らから離れた。
(2) 原告の車いすが動いたかどうかについて
中央線九番線ホームは、別紙図面1の×印地点から九番線線路側に向かって緩やかに下り勾配で傾斜している。また、原告は、前記障害のため、不随意に身体が大きく揺れ動き、身体を静止させていることができないところ、このときも原告の身体は大きく揺れ動いた。以上の二つの事実のいずれが原因なのか、あるいは他に何らかの外力が加わったことが原因なのかは不明であるが、乙野が車いすのブレーキを掛けずに原告の傍らを離れたため、原告の車いすは、別紙図面1の×印地点から矢印の方向、つまり線路側に向かってカーブして約一〇センチメートル動き、その車輪が警告ブロックに引っかかった所で止まった。
(二) 被告の主張
(1) 乙野が原告の車いすを置いた位置等について
乙野は、新宿駅で、車いすに乗ったままの原告を介助して中央線下り電車から降ろし、ホームの下に向かうため、車いすを押してエスカレーター乗り口付近まで移動した。エスカレーターは上昇運転中であったから、これを下降運転に切り換える必要があった。そこで、乙野は、エスカレーターの運転切り換え操作のため、原告に「少々お待ち下さい。」と声を掛け、原告の車いすを、中央線九番線ホームの九番線線路側のエスカレーター乗り口付近の横脇、別紙図面1の△印地点に置き、約四分間、原告の傍らから離れた。
(2) 原告の車いすが動いたかどうかについて
中央線九番線ホームは、別紙図面1の△印地点から九番線線路側に向かって緩やかに上り勾配で傾斜している。また、乙野は、原告の車いすを線路と並行に置いた。それゆえ、原告の車いすは、線路側に向かって自然に動き出すような状況にはなかった。乙野が、エスカレーターの運転切り換え操作を終えて原告の傍らに戻ってきた際、原告の車いすは別紙図面1の△印地点から動いていなかった。また、原告は乙野に対して何らの抗議もしていないが、このことからも原告の車いすが動かなかったことは明らかである。
3 新宿駅中央東口改札外で、原告の車いすが、ブレーキが掛かっていなかったため、乙野がこれを置いた位置から動いたか。
(一) 原告の主張
(1) 乙野が原告の車いすを置いた位置等について
原告は、中央東口改札から約四メートル離れた当時の身体障害者用トイレ前で介助者と待ち合わせをしていたため、乙野に、その身体障害者用トイレ前まで連れて行ってくれるように依頼した。ところが、乙野は、エスカレーターを利用して原告をホームの下まで移動させ、そこから車いすを押して中央東口改札外まで行った後、原告の車いすを別紙図面2の×印地点に置き、原告が待ち合わせをしている介助者に引き継ぐことなく、その傍らを離れて立ち去ってしまった。
(2) 原告の車いすが動いたかどうかについて
別紙図面2の×印地点は平坦な場所ではなく、床に傾斜があった。また、前記障害のため、このときも原告の身体は大きく揺れ動いた。以上の二つの事実のいずれが原因なのか、あるいは他に何らかの外力が加わったことが原因なのかは不明であるが、乙野が車いすのブレーキを掛けずに原告の傍らを離れたため、原告の車いすは、別紙図面2の×印地点から矢印方向に向かって約三メートル動き、コンクリートの柱にぶつかった所で止まった。
(二) 被告の主張
(1) 乙野が原告の車いすを置いた位置等について
乙野は、エスカレーターを利用して原告をホームの下に移動させ、車いすを押して中央東口改札外まで行った後、原告の車いすを別紙図面2の△印地点に置き、「ここでよろしいですか。」と原告に確認した後、原告と別れた。
(2) 原告の車いすが動いたかどうかについて
別紙図面2の△印地点はほぼ平坦であるから、原告の車いすが、ブレーキを掛けなかったために、コンクリートの柱の方向に動くはずはない。人通りの多い中央東口改札付近で、人の乗った車いすが約三メートルも動き、コンクリートの柱に衝突したというようなことがあれば、これを目撃した通行人等から被告の駅員に対して連絡があるはずであるが、被告の駅員はこのような連絡を受けたことがない。
4 精神的損害
(一) 原告の主張
原告は、乙野により、中央線九番線ホームで、車いすのブレーキを掛けずに放置され、車いすが線路側に向かって動いたため、死に直面する恐怖を感じており、また、中央東口改札外で、車いすにブレーキを掛けず、介助者への引継ぎもされずに放置され、車いすが動いたため、強度の不安を感じた。これらにより原告が被った精神的苦痛を慰謝するための金額は、一〇〇万円を下らない。
また、原告は、被告が原告の慰謝料請求に対して任意の支払をしないため、本訴の提起を余儀なくされ、弁護士費用として一〇万円が必要となった。
(二) 被告の主張
原告の車いすは、中央線九番線ホームでも、中央東口改札外でも、乙野がこれを置いた位置から動いていないのであるから、原告が恐怖や不安を感じたはずはなく、原告に何らの精神的苦痛も発生していない。
また、原告は、車いすにブレーキが掛かっていないときは、車いすが動き出さなくても不安を感じるというが、そのような不安は慰謝料をもって償うべき精神的苦痛とはいえない。
第三 当裁判所の判断
一 争いのない事実、証拠(甲1ないし7、14、乙1ないし3、証人乙野、原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。ただし、甲第6及び第7号証、乙第3号証並びに証人乙野及び原告本人の各供述中、下記の認定に反する部分は、あいまいであるか、又は客観的裏付けを欠くので、採用することができない。
1 原告は、生後まもなく罹患した病気の後遺症により全身が麻痺しており、移動には車いすを利用している。原告は、当初、母親の介助により、手押しの車いすを利用していたが、昭和五六年ころからは、電動式車いすを利用するようになった。しかし、平成一二年一〇月ころからは、上体を支えて車いすに座っていることや電動式車いすのコントローラの操作をすることさえも困難になったため、自ら駆動するタイプのものではない手押しの車いすを使用するようになった。
平成一三年四月二八日当時に原告が使用していた車いすは、通常の手押しの車いすとは大きく形状が異なり、後輪が小さく、自分の手で後輪を回すことのできないタイプのものであった。このような特殊な車いすであることは、第三者からみても、容易に見て取れるものである。また、その車いすのブレーキは、後輪前部にあるレバーを後方に引くと掛かり、これを前方に押すと解除されるというものであって、手押しの車いすのブレーキとしては一般的なものであったが、ブレーキの位置が通常の車いすより下にある上、原告の上半身及び手が安定せず、不自由であるため、原告は、この車いすのブレーキ操作を自ら行うことはできなかった。
なお、原告は、車いすのブレーキが掛かっているかどうか、車いすに乗ったまま直接視認することができる。
2 原告の障害名は脳性麻痺による緊張性アテトーゼであるが、原告は、この障害のため、頻繁に腕や上体、首等が不随意に揺れ動く状態にあり、身体を静止させていることができない。特に、緊張すると、この動きが激しくなる傾向があり、また、体調によっては、上体が前後に揺れることもある。そのため、原告は、車いすに乗っているときは、胸部付近をシートベルトで固定し、ヘッドレストも使用している。また、原告は、発声も極めて不自由であって、言葉を途切れ途切れに発するのにも努力と緊張が必要であり、それを第三者が聞き分けるのにも、かなりの困難が伴う。しかし、注意して繰り返し聞けば、その意味を聞き取ることが可能である。なお、原告は、表情をコントロールすることも困難である。原告のこのような身体状態は、第三者からみても、通常の注意をもって観察し、会話を試みれば、ごく短時間で了知し得るものである。
3 乙野は、昭和二四年生まれの男性であり、昭和四三年に当時の国鉄に入社し、その後、被告の従業員となって、平成一二年一〇月一日からは新宿駅で勤務するようになった。乙野は、新宿駅では、主として車いす利用者の対応を職務としている。
新宿駅の一日平均の乗降人員数は約一五〇万人であるが、そのうち車いす利用者は五〇人ないし一〇〇人程度であり、乙野は、一日平均約五〇人の車いす利用者の介助に当たっていた。しかし、平成一三年四月二八日は、いわゆるゴールデンウィークの初日に当たったため、人出が多く、新宿駅では、車いす利用者からの対応依頼は、一〇二件と多く、乙野も通常の日以上に繁忙であった。
4 平成一三年四月当時、新宿駅では、被告の駅員向けマニュアルに、車いすを利用している乗客から離れるときは、車いすのブレーキを掛けなければならない旨記載されていた。しかし、乙野は、必ずしもその必要はないと考えており、介助者が同行しておらず、かつ、手押し型の車いすを利用する者は、自分で車いすのブレーキを掛けることができるものと考えており、車いす利用者から特に申出がある場合を除いては、介助者が車いすのブレーキを掛ける必要はないと判断していた。そして、乙野は、介助者の同伴していない車いす利用者から、実際にそのような申出を受けた経験はなかった。
5 原告は、平成一三年四月二八日、新大阪駅から新宿駅までの所定の運賃を支払って、新大阪駅で東海道新幹線に乗車した。原告は乗車するに当たり、新大阪駅から東京駅まで東海道新幹線に乗車すること、東京駅から新宿駅までは中央線の電車に乗車すること、及び介助者を同行しないことを駅員に伝えた。駅員は、原告の乗車を拒否せず、また、原告に対し、特別な注意をしなかった。原告は、東京駅で東海道新幹線から中央線に乗り換えた。原告は、各乗降に際して、各駅の駅員の介助を受けたが、その際も、被告の駅員から乗車を拒否されたり、特別な注意を受けたことはなかった。
6 乙野は、平成一三年四月二八日午後〇時四五分ころ、内勤の駅員から、無線で、新宿駅一二時五二分着中央線下り電車の三号車から、手動車いす、介助者なしの乗客が下車するので、対応するようにとの連絡を受け、中央線下り電車が到着する一〇番線ホーム(反対側半分が九番線ホームということになる。)に一人で行き、三号車が停止する所定の位置で待機していた。すると、原告の乗った電車が到着し、乙野は、原告の介助に当たった。原告は、電車内ではホーム側のドアに背を向けていたので、乙野は、後ろに下がるように車いすを引いて、原告を電車から降車させた。その後、乙野は原告に行き先を尋ねたが、原告の言葉を聞き取るのにかなり苦労した末、結局、行き先が中央東口改札外であることを確認した。乙野は、原告に行き先を尋ねた際、原告の言葉が明瞭でなく、何度も聞き返したことから、原告に言語障害があるものと認識したが、その他の原告の身体障害の程度や車いすの形状などについては特に関心を払わず、格別通常の車いす利用者と異なる者であるとは考えなかった。そして、原告の車いすの形状が通常の車いすと異なることや、原告が自分で車いすのブレーキを操作することができないことには気が付かなかった。
7 新宿駅中央線一〇番線ホームから中央東口改札への順路は、ホームの下の地下中央通路を通るというものである。そこで、乙野は、エスカレーターを利用してホームの下に降りるため、エスカレーター乗り口の方へ原告の車いすを押して行った。エスカレーターは、上昇運転中であったから、下降運転に切り換える必要があった。乙野は、原告の車いすをエスカレーター乗り口付近の中央線九番線ホーム上に、線路とほぼ並行に置き、車いすにブレーキを掛けないまま、原告の傍らを離れた。このとき、乙野は、原告が車いすのブレーキを掛けたか否かも、また、原告が自分で車いすのブレーキを掛けることができるのかどうかについても、確認することをしなかった。乙野は、階段を降りて地下中央通路に行き、エスカレーターの運転切り替え操作をし、同じ階段を上って原告の傍らに戻った。乙野が原告の傍らに戻るまでに、約二分ないし四分程度かかった。
8 原告のもとに戻った乙野は、エスカレーターを利用して、原告をホームの下まで連れて行き、地下中央通路を通って、中央東口改札に向かった。乙野は、原告の車いすを押して行き、改札口を出た後、改札口からそれほど離れていない場所である別紙図面2の×印又は△印付近の位置に、原告の車いすを置き、原告の依頼していた介助者に原告を引き継がないまま、そこを離れた。乙野は、原告のもとを立ち去るに際して、原告の車いすにブレーキを掛けることをせず、ここでよいのかとか、ブレーキを掛けるのかなどと、原告の要望を確認することも、また、ブレーキが掛かっているのか否かを確認することもしなかった。
9 原告は、間もなく、依頼していた介助者に発見され、同人と共に新宿駅駅長室に赴き、新宿駅助役に対して乙野が車いすのブレーキを掛けずに車いすから離れたため、車いすが動き、大変怖い目にあったなどとして、駅員の介助方法につき強く抗議した。
10 原告は、被告の取締役社長宛に、平成一三年五月一日付けの「抗議書」と題する書面を送付した。同書面には、「二〇〇一年四月二八日午後一時前、私、甲野太郎が東京駅から新宿駅に下車した時、介助にあたった駅員は、私の手押し介助用の車椅子を押してエスカレーターの前まで行き、エスカレーターの操作を確認するために車椅子から手を離しその場を離れました。その時に、駅員が私の車椅子のブレーキを掛けなかった為、私の車椅子はエスカレーターの前から線路のほうに向かって勝手に動きだし、ホームの点字ブロックに車輪が引っかかってやっと止まりました。その時私は、ホームから線路に落ちるのではないかと思って大変怖い思いをしました。点字ブロックによって転落をまぬがれたと思います。その後、その同じ駅員に東口改札の外の車椅子トイレまで連れていってほしいと頼みましたが、その駅員は東口改札を出てすぐに車椅子から手を離してどこかに行ってしまいました。その時も車椅子のブレーキを掛けなかったため、車椅子が動き出して私は車椅子ごとコンクリートの柱にぶつかったのです。」と記載され、また、被告が車いすを使用している乗客に対する介助についてどのような社員教育をしているのかにつき、文書による回答を求める旨記載されていた。
この抗議書を受け取った被告では、被告営業部サービス課長前田厚雄が、平成一三年五月一一日付けの手紙を原告に送付した。この手紙には、「社員が甲野様を車椅子で誘導する際、お客さまの安全を確保するために最も大切なブレーキ扱いを行わなかったことで大変不安な思いをおかけし、また、きめ細かな配慮ができなかったことにつきまして、お詫び申し上げます。誠に申し訳ございませんでした。早速新宿駅においては今回のご指摘を踏まえ、車椅子をご利用のお客さまへの応対について改善を行いました。具体的には、『手動車椅子のお客さまから離れる際は必ずブレーキをかける。』『車椅子のお客さまから離れる際には、ブレーキがかかっていることを再確認し、お客さまに声をおかけして離れる。』などの点を徹底することとしました。……中略……社員は、お客さまにはホームでお待ちいただいたうえで切替操作をする必要がありました。そのために四分ほど時間がかかり、甲野様からのご指摘の状況が発生したと思われます。お待ちいただくために車椅子をエスカレーターの入口付近に止めましたが、車椅子のブレーキ扱いを行わなかったため、大変不安な思いをおかけしてしまいました。その後社員は中央東口までご案内し、声をおかけして甲野様のもとを後にしておりますが、ここでご要望などをより親身にお聞きできればよかったと反省しております。従来より、社内社員向け小冊子に車椅子のお客さまへの基本応対を掲載し社員教育を行うなどしてまいりましたが、弊社ではこの度のご指摘を真摯に受け止め、車椅子のお客さまへの応対について再度徹底いたします。何卒ご容赦いただきたく存じます。」などと記載されていた。
なお、乙野は、同年四月二九日、新宿駅駅長から、原告に対する介助の状況について問い合わせを受けた。
11 被告からのこの手紙に対し、原告は、平成一三年六月一六日に大阪府大東市の大東郵便局で差し出した「通告書」と題する内容証明郵便を被告に送付した。同通告書には、前記五月一一日付けの手紙で事実経過を認めて、おわびが書いてあったが、納得できないこと、大変怖い思いをしたこと、被告の幹部の謝罪文書及び一〇〇万円の支払を要求することなどが記載されていた。
上記通告書を受領した被告では、被告営業部サービス担当部長神保憲二が、平成一三年七月三日付けの手紙を原告に送付した。この手紙には、「当日、新宿駅社員が車椅子から離れる際に声をおかけしなかったことにつきましては、改めてお詫び申し上げます。弊社では、この度のご指摘を真摯に受け止め、車椅子のお客さまへの応対について徹底したところでございます。何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げますとともに、それ以上のご要求には応じかねますので、ご容赦いただきたく存じます。」と記載されていた。
12 新宿駅中央線九番線及び一〇番線ホームのエスカレーター付近の形状は、別紙図面1のとおりであって、ホームの中央部にエスカレーターがある。エスカレーターの九番線側側壁の中心線から九番線側の上屋支柱の中心線までは約一二〇センチメートル、同上屋支柱の中心線から九番線側警告ブロックの内側の端までは約九五センチメートル、同警告ブロックの内側の端からホームの九番線線路側の端までは約一一〇センチメートルの距離がある。なお、中央線九番線ホームには、線路側に安全柵などの設置はないが、九番線線路は、ラッシュ時を除き、臨時電車以外入線せず、電車の入線が少ない線路であった。
中央線九番線ホームの警告ブロックの外側の端から同ホームの線路側の端までは、わずかに下り勾配の傾斜があるが、エスカレーターの九番線側側壁から上記警告ブロックの内側の端までの間については、下り勾配の傾斜があることを認めるに足りる証拠はない。
13 新宿駅中央東口改札付近は、別紙図面2のとおりであり、階段等の目立った段差はない。また、床面に勾配があったことを認めるに足りる証拠はない。
二 以上の事実関係を前提に、各争点について検討する。
1 争点1について
(一) 被告が、公共事業であって、かつ、危険性も伴う鉄道事業を担う我が国の中核的企業の一つであることは、公知の事実であり、このことからすれば、被告は旅客運送契約を締結した乗客の生命、身体等の安全を確保し、快適に安心な移動ができるようにする広範な債務を負担しているというべきである。そして、同債務の具体的内容は、被告が電車・線路の形状、電車の運行態様等に関する被告の専門的知識や乗客一般の要求、社会通念、経済的合理性等を総合考慮して決定した経営判断に基本的には委ねられているといえる。
(二)(1) これを本件についてみるに、前記認定事実によれば、①原告は、単に足が不自由なだけではなく、身体の重度の障害により、上体や手、首、表情、発声等も自由にコントロールすることができないこと、②原告は、頻繁に手や上体が不随意な動きをし、車いすを自由に操作することができず、言語も極めて不明瞭であること、③原告の車いすは、後輪が小さく、ブレーキの位置も低く、利用者が自ら車輪を回して駆動するタイプの車いすとは全く異なる外形を有しており、原告は、これにベルトで固定された形で乗車していたこと、④原告及び原告の車いすを通常の注意をもって見れば、容易に①ないし③のような特殊性を認識することができるにもかかわらず、被告の東京駅及び新宿駅の各駅員は、原告が被告の電車を介助者なしで利用することを拒否したり、特別な注意を与えることをしていないこと、⑤車いすは、容易に動くことがある上、ホーム上では、線路側に警告ブロックはあるものの、安全柵等の障害物がない場合があるので、ブレーキを掛けていない車いすが線路側に向かって動いたり、あるいは落下する危険性がないとはいえず、また、他の乗客とぶつかる危険性もないとはいえないこと、⑥被告は、車いすを使用している乗客を介助することを主な職務とする駅員を新宿駅に配置したこと、⑦本件の場合も、介助者なしの車いす利用者が乗車しているとの連絡により、担当の駅員がこれを介助すべく待機していたこと、⑧被告の社員向けの車いす利用者の介助のマニュアルには、車いすから離れる際にはブレーキを掛ける旨が記載されていたことが認められる。
以上によれば、被告は、少なくとも車いす利用者対応の専門職員を配置した新宿駅においては、介助者なしの手押し型の車いす利用者と旅客運送契約を締結した場合には、必要な介助を行うことを同契約上の債務、すなわち乗客に対する安全配慮義務の一つとして、自ら負担したものと認めるのが相当である。
被告は、車いす利用者への介助を「努力の一環」であると主張し、また、車いすの利用者も、自ら手配した介助者を同行するなど自己の安全の確保に努めるべきであり、障害のため電動式車いすの操作さえ困難な者は原則として移動中の全行程を通じて介助者を同行すべきであるなどと前記のとおり主張する。確かにこれらの主張は、一般論としては、必ずしも誤りと断ずることはできないが、現に、重度の障害を有して、特殊な車いすに乗り、車いすを自由に操作することができない者であると容易に見て取れる原告に対し、乗車を拒否せずに、乙野のような立場にある者が前記認定の経緯による介助を行っている以上、その介助は、駅員の自由意思に基づく事実上のサービスであるとか、いわゆるボランティアとしての自発的行為であると評価することはできず、被告が乗客との間で介助業務を含む旅客運送契約を締結したものと認めるのが相当である。
(2) そして、乙野が、車いすの介助を主な職務としており、毎日多数の介助を行っているいわば専門職員であることに、前記①ないし⑧の事実を合わせ考慮すると、本件の場合、乙野は、単身で車いすに乗って移動している原告の介助を引き受けた以上は、他の介助者に引き継がないまま車いすの傍らから離れるときは、当然にブレーキを掛けるか、又は既にブレーキが掛かっているのか、あるいは原告が自分でブレーキを掛けるのかを確認する旅客運送契約上の債務(安全配慮義務)を負っているというべきであり、これは、一般の駅員がたまたま車いすの利用者を見つけて手助けをした場合や、あるいは一般の乗客がボランティアとして車いす利用者の介助をした場合とは法律関係が異なるというべきである。したがって、このような旅客運送契約の履行補助者と位置付けられる乙野は、中央線九番線ホームにおいても、また、中央東口改札外においても、ブレーキを掛けたり、前記確認をすることを一切怠っている点において、債務不履行(安全配慮義務違反)があるというべきである。
なお、乙野は、前記のとおり、原告や原告の車いすについて特段の印象を持たず、原告の障害の程度等にも関心を払っていなかったことからすると、原告について、上体や手も不自由な重度障害者であるとか、車いすのブレーキ操作をすることができない者であるとの認識をしていなかった可能性が高い。しかし、乙野が単なる通行人や一般の駅員ではなく、前示のとおりの職務と経験を有する者であることと、前記認定の諸事実を合わせ考慮すると、上記のような認識をするのは容易だったはずであって、むしろ、会話さえ困難な乗客であったからこそ、更に必要な介助方法等について尋ねるか、あるいは自ら十分な配慮をすべきであり、これを怠ったまま、一般的な車いすの乗客と同様であると速断したからといって、前記義務を免れることはできない。
(3) 被告は、乙野が車いすを置いた場所は、平坦あるいは線路側に向かって上り勾配の場所であって、安全な地点であるから、ブレーキを掛ける必要はない旨主張する。しかし、車いすは、乗っている者の動作や通行人が触れるなどの外力によって動き出すこともあり、かつ、自ら車いすのコントロールをすることができない者にとって、ブレーキの掛かっていない車いすが動き出すことには、極めて大きな恐怖感があることは容易に推認することのできる事柄であるから、原則として、車いすを置く場所にかかわらず、前記のとおりの義務を負うというべきである(他の駅員が監視している場所とか、あるいは、誰も通行しない上、動いても事故が起き得ないような場所等であれば、例外とするか検討しなければならないであろうが、被告主張の場所は、このような場所ではない。)。被告の上記主張は採用することができない。
なお、被告は、乙野が、中央線車内で、原告の介助を開始したとき、車いすのブレーキが解除されていたから、原告はブレーキ操作をすることができるはずであると主張し、証人乙野もその旨供述しており、乙第3号証(同証人の陳述書)にも、その旨の記載がある。しかし、乙野は、原告がブレーキ操作をしているところを現認したわけではない上、前記認定に係る原告の身体の障害の程度と車いすの特殊性に照らせば、乙第3号証と証人乙野の供述によっては、原告が車いすのブレーキを自分で掛けることができなかったとの前記認定を覆すことはできないというべきであるし、前記の各債務が存しないということもできない。
2 争点2について
(一) 乙野が原告の車いすを置いた位置について
原告は、中央線九番線ホームで乙野が原告の車いすを置いた位置につき、線路側に近い別紙図面1の×印地点であると主張し、被告は、エスカレーター側に近い別紙図面1の△印地点であると主張し、原告本人及び証人乙野もそれぞれ原告及び被告の各主張に沿った供述をしている。
そこで検討するに、証人乙野は、車いす利用者を介助するに当たり、エスカレーターの運転切り替え操作の際、いつも別紙図面1の△印地点付近に車いすを置くことにしており、ホームの端に近い所を避け、かつ、スムーズにエスカレーターによる昇降ができるような場所を選んで車いすを置いている旨供述し、乙第3号証(同証人の陳述書)にも同旨の記載がある。それらに格別不自然なところはなく、上記△印地点を選択することにも合理性があると認められる。
もっとも、証人乙野は、前示のとおり原告の障害の程度や原告の車いすが通常のものと異なることにも気付いていなかった上、証人尋問の際の供述内容、供述態度に照らし、原告について格別の印象を持っておらず、当時の原告についての記憶は相当にあいまいであること、そのため、通常こうであったはずであるという、いわば理屈に頼って供述している面が強いことが窺われる。
さらに、前記認定のとおり、原告は、待ち合わせをしていた介助者と共に、すぐに新宿駅駅長室に行き、乙野の介助方法について強く抗議していること、三日後の平成一三年五月一日付けの抗議書(甲2)にも、点字ブロック(警告ブロック)にひっかかってやっと止まった旨記載されていること、被告が乙野に問い合わせた後に作成した二通の原告宛ての手紙では、ホーム上の状況について原告の抗議に反論する部分は全くなく、むしろ、原告の抗議を認めて謝罪する内容となっていることが認められる。そして、甲第6号証(原告の陳述書)には、「車椅子を止めた場所は、JR東日本が主張するような『エスカレーターの脇』ではなく、ホーム端の点字ブロックに近いところでした。」とあり、甲第7号証(原告の陳述書)では、私を放置した場所は、別紙図面1の×地点であると記載され、更に、原告本人尋問においても、乙野が車いすを置いた場所は、別紙図面1の×印地点である旨、一貫して供述している。そして、前記認定のとおり、九番線線路には電車が余り入線しないのであるから、電車の到着を並んで待っている乗客はほとんどいないはずであり、したがって、ホーム上を移動するためにはホームの一〇番線側ではなく、むしろ九番線側を選ぶ者も少なくないはずであるし、また、エスカレーターを利用してホーム上まで来た者は、逆方向に進むときは、そのまま、エスカレーターと支柱との間を通ろうとすることも自然であると考えられる。そうすると、乗客の通行のため、別紙図面1の△印地点付近にスムーズに車いすを置きにくいときも十分あり得るというべきである。そうすると、別紙図面1の上屋支柱の中心から九番線ホームの端まで約二〇五センチメートルあることを考慮すると、乙野がたまたま別紙図面1の上屋支柱とエスカレーター側壁との間ではなく、上屋支柱と警告ブロックとの間に原告の車いすを置いた可能性もあるというべきである。
以上のほか、前述のように、証人乙野が原告について、他の車いす利用者と異なる特別な者としての印象を持っておらず、記憶もあいまいであることを考え合わせると、証人乙野及び原告本人の各供述及び各陳述書のみから、車いすを置いた場所を、別紙図面1の×印地点か、同図面の△印地点か、どちらかに特定することはできず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。そうすると、乙野が原告の車いすを置いた位置は、前記認定のとおり別紙図面1の×印地点から△印地点までの間のいずれかであると認めるのが相当である。
(二) 原告の車いすが動いたかどうかについて
前記認定事実によれば、原告の身体は、その障害により、不随意に腕及び上体が揺れ動き、静止していることができないこと、そして、精神的に緊張する時には、この不随意運動が増悪すること、車いすのブレーキが掛かっていなかったこと、原告は、乙野がブレーキを掛けていなかったことを認識していたこと、乙野が原告の傍らに戻ってくるまでの間に、約二分ないし四分程度の時間があったことが認められる。そうすると、この間に、何度も原告の身体が揺れ動いていたはずであり、その振動がブレーキが掛かっていない車いすの車輪に伝わって、車輪も揺れ動いたと考えるのが自然である。そして、原告の身体の揺れが繰り返され、車輪も揺れ動いた結果、車いす自体も数センチメートルないし一〇センチメートル程度動くことは十分あり得ると考えられる。また、通行人が車いすに軽く触れたり、あるいは、ホーム上の勾配のため(車いすを置いた場所及びそこの勾配を明確に認定することができないので、勾配が原因であると断定することはできない。)、車いすが動いた可能性も全く否定することはできない。そうすると、前記認定のように、原告が一貫して車いすが動いたと主張し、待ち合わせていた介助者と合流した直後からその旨被告に抗議してきたこと、被告も事件の直後に乙野に問い合わせているのに、抗議に対する回答書において、原告の抗議内容を否定していなかったことも合わせ考慮すると、原告の車いすは数センチメートルないし一〇センチメートル程度動いたものと認めるのが相当である。ただし、動いた距離を明確に認定することはできず、また、動いた方向が線路側であって、警告ブロックに触れて止まったという事実については、これを裏付ける客観的証拠がないので、認めるに足りないというべきである。
証人乙野は、原告の車いすは置いた場所から動いていなかった旨供述するが、数センチメートルから一〇センチメートル程度の位置のずれの有無を第三者が認識し得るとは考え難い上、前記のとおり、同証人は、記憶があいまいであるのに、この点のみ動いていないと断定していることなどからすると、この供述部分は措信することができないというべきである。
また、被告は、原告が乙野に対して直接抗議していないので、原告主張のような事態は生じていない旨主張するが、前示のように乙野が原告の障害程度等に関心を払っておらず、ほとんど会話も成立していない状況であることや、原告が身体及び言葉とも不自由であること等を考えると、友人である介助者と合流し、気持ちが落ち着いてから抗議をしたとしても、必ずしも不自然ではないので、被告の上記主張は採用することができない。
3 争点3について
(一) 乙野が原告の車いすを置いた位置について
原告の主張する別紙図面2の×印地点と、被告の主張する同図面2の△印地点は、それほど離れておらず、原告本人の供述を検討しても、中央東口改札を出た所で、身体障害者用トイレの前まで行かない所という程度の特定である。他方、証人乙野の供述を検討しても、改札を出た所の花屋近くの誘導ブロック付近であるというものであって、両者を明確に区別するに足りる目印等の存在は供述されておらず、他の裏付け証拠も見当たらない。したがって、いずれの地点とするか決め手に欠けるので、乙野が原告の車いすを置いた場所は、別紙図面2の×印地点又は同図面の△印地点付近と認めるのが相当である。
(二) 原告の車いすが動いたかどうかについて
前記認定のとおり、原告の身体が揺れ動くのに、乙野は車いすのブレーキを掛けておらず、また、原告は、平成一三年五月一日付け抗議書(甲2)、陳述書(甲6、7)及び原告本人尋問の結果でも、一貫して、車いすがコンクリートの柱のところまで動いた旨主張ないし供述している。また、通行人が車いすに触れることによって車いすが動く可能性や、原告の動作と勾配の相乗作用によって車いすが動き出す可能性も、否定することはできない。これらからすると、原告の車いすは、その原因を特定することはできないものの、前記ホーム上の場合と同様の理由で若干程度動いたと認めるのが相当である。しかしながら、動いた方向や三メートルも動いたという点については、これを裏付ける客観的証拠がないので、認めることができない。
なお、被告は、原告主張のような事態が生ずれば、通行人等から駅員に連絡があるはずであるが、駅員はそのような連絡を受けていないので、車いすは動いていない旨主張する。しかし、駅を通行する者が必ずしも他人に強い関心を払うとは限らず、駅員に連絡するとは限らない上、まして短い距離の動きなら、関心を持つ者は少ないであろう。加えるに、原告が待ち合わせをしていた介助者が現れれば、それに任せるのが通常であろうから、駅員に何の連絡もなかったとしても、前記認定を覆すことはできない。
また、被告は、別紙図面2の×印地点又は同図面の△印地点は、平坦な場所であるというが、これらの地点の傾斜については証拠上明らかでない上、平坦でも車いすが動かないとは限らないから、被告の上記主張は採用することができない。
4 争点4について
原告は、自ら車いすを動かしたり、ブレーキ操作をすることができず、しかも、不随意に身体が動いてしまう障害を有しているのである。したがって、原告が、車いすのブレーキを掛けずに放置され、ほんのわずかな距離でも現実に車いすが動き始めると、自分で車いすを駆動・操作することのできる者とは全く異なる強い恐怖感を感ずるであろうことは十分推測することができるところであり、この点に関する甲第6号証(原告の陳述書)及び原告本人の供述は、基本的には、首肯することができる。殊に、ホーム上でこのような状態となった場合には、現実に線路上に落下する危険性があるとないとにかかわらず、ホームの端には、原告にとって安全に着地することも、ホームによじ登ることも全くできない大きな段差があり、かつ、線路上を電車が通行してくることも予想され得るのであるから、ブレーキが掛かっていないことを知り、かつ、車いすが動き出すことにより、原告本人の供述するように、そのまま動き続けて線路に落下するかも知れない、場合によっては電車に轢かれるかも知れないという強い恐怖を感じたものと認めることができる。もっとも、前示のとおり、原告の車いすがホーム上に置かれた位置と動いた方向とを確定することができないことも勘案すると、原告が死に直面する恐怖を味わったことまでは認めるに足りない。また、中央東口改札外では、車いすが動き出したとしても、被告の生命、身体に危険が生じる可能性がホーム上に比べて大幅に低いので、車いすのブレーキを掛けてもらえなかったために車いすが若干動いたことにより、原告は一瞬の恐怖と不安を感じた程度であると推認することはできるものの、それ以上の精神的苦痛を認めるに足りる的確な証拠はないというべきである。
以上のほか、前記認定の諸事実を総合勘案すると、原告が二回にわたり、車いすのブレーキを掛けてもらわないまま介助者(乙野)にその場を離れられ、車いすが動いたことにより、原告の受けた恐怖、不安等の精神的苦痛を慰謝するためには、中央線九番線ホームの場合が五万円、中央東口改札外の場合が一万円が相当であると認めるべきである。
そして、弁護士費用として、本件事案の内容と複雑性、訴訟前の被告の対応、訴訟経緯等にかんがみ、一〇万円が被告の債務不履行と相当因果関係のある損害と認める。
三 以上によれば、原告の請求は、金一六万円及びこれに対する請求の日(前記認定事実によれば、前記通告書の差出しの二日後である平成一三年六月一八日より遅いことはないと認められる。)の翌日である平成一三年六月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容し、その余は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担については、事案の性質及び訴訟経緯にかんがみ、民事訴訟法六四条本文、六一条を適用して二分の一ずつの負担とし、仮執行宣言について、同法二五九条一項を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・菅野博之、裁判官・松本有紀子、裁判官・中西正治)
別紙図面1・2<省略>