東京地方裁判所 平成13年(ワ)26261号 判決 2006年2月15日
目 次
主文
事実
第1 原告らの請求
第2 事案の概要
第3 当事者の主張
理由
第1 認定事実
1 中国東北地方をめぐる日本とロシア(ソ連)との対立の歴史
2 中国東北地方への国策大量移民
(1) 東アジア情勢
(2) 中国東北地方への国策大量移民と国民保護策の欠如
(3) 原告Aの移民状況(日ソ開戦まで)
(4) 原告Bの移民状況(日ソ開戦まで)
(5) 原告Cの移民状況(日ソ開戦まで)
3 日ソ開戦と大量の日本人難民の発生
(1) ソ連軍の対日参戦時期の切迫と関東軍の居留民対策の欠如
(2) ソ連軍の対日参戦と日本人の難民化
(3) 日本人難民の苛酷な越冬生活
(4) 原告Aの難民生活
(5) 原告Bの難民生活
(6) 原告Cの難民生活
4 日中国交回復までの未帰還者の引揚状況
(1) 終戦直後の時期
(2) 前期集団引揚げ
(3) 後期集団引揚げ
(4) 未帰還者調査
(5) 個別引揚者に対する旅費国庫負担制度
(6) 帰還手当
(7) 原告Aの中国における生活状況
(8) 原告Bの中国における生活状況
(9) 原告Cの中国における生活状況
(10) 原告らの帰国意思
3
5 日中国交回復後の長期未帰還者の帰国状況
(1) 国交回復前の長期未帰還者の状況
(2) 国交回復直後の長期未帰還者の状況
(3) 脚光を浴びる孤児問題と影の薄い残留婦人問題
(4) 一時帰国援護
(5) 日本国内の親族による帰国者受入の困難
(6) 本邦への上陸手続(永住帰国・一時帰国とも)
(7) 上陸後の在留資格・国籍の扱い(永住帰国)
(8) 原告Aの帰国状況
(9) 原告Bの帰国状況
(10) 原告Cの帰国状況
6 日中国交回復後の中国からの帰国者に対する公的自立支援策の状況
(1) 帰国旅費国庫負担
(2) 帰還手当
(3) 帰国後1年で自立という標準モデルとその破綻
(4) 日本語教育
(5) 引揚者生活指導員
(6) 日本帰国直後のオリエンテーション
(7) 定着促進センター
(8) 自立研修センター
(9) 支援・交流センター
(10) 身元未判明者の身元引受人制度
(11) 身元判明者の身元引受人制度
(12) 自立支援通訳制度
(13) 住居支援制度
(14) 年金
(15) 就業状況
(16) 生活保護の運用状況
7 原告らの帰国後の生活状況
(1) 原告A
(2) 原告B
(3) 原告C
8 自立支援法
第2 早期帰国義務違反に関する当裁判所の判断
1 早期帰国義務の法的根拠としての法令、条約等(条理を除く)
2 先行行為に基づく条理上の作為義務
3 終戦直後から日中国交回復まで
4 日中国交回復後
5 検討
第3 自立支援義務違反に関する当裁判所の判断
1 一般の戦争被害者と異なる自立支援措置の必要性
2 生活保護制度の帰国者に対する運用状況
3 日本語教育等
4 特別身元引受人等
5 老後施策
6 検討
第4 結論
当事者の表示 別紙「当事者目録」記載のとおり。
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第1原告らの請求
1 被告は、原告Aに対し、2000万円及びこれに対する平成13年12月14日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員(民事法定利率による遅延損害金)を支払え。
2 被告は、原告Bに対し、2000万円及びこれに対する平成13年12月14日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員(民事法定利率による遅延損害金)を支払え。
3 被告は、原告Cに対し、2000万円及びこれに対する平成13年12月14日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員(民事法定利率による遅延損害金)を支払え。
第2 事案の概要
本件は、第2次世界大戦の終盤における日本軍とソ連軍との戦闘により現在の中国東北地方に国策移民として居住していた原告ら(1945年8月当時16歳、13歳又は11歳)が難民となり、その後の日本敗戦に伴う混乱の中で終戦後も30年以上もの間日本に帰国することができずに中国に取り残され、日本に帰国した後も原告らの日本国内での自立に対する十分な支援措置を受けられなかったことについて、被告が原告らの早期帰国を図る義務があるのにこれを怠ったこと(早期帰国義務違反)及び帰国後の原告らに対して十分な自立支援措置を実施する必要あるのにこれを怠ったこと(自立支援義務違反)が被告の公務員の職務上の義務違反であると主張し、被告に対して、国家賠償法に基づき、これによる精神的損害の賠償(慰謝料)として原告らそれぞれに2000万円を支払うことを求める事案である。
第3当事者の主張
当事者双方の主張は、別紙「当事者の主張」記載のとおりである。
理由
第1認定事実
証拠(甲1及び2の各1から4まで、3の1から6まで、4の1から5まで、5ないし8、9の1・2、10ないし15、20の1から3まで、21ないし26、27の1・2、28ないし48、49の1・2、50ないし59、60の1から6まで、61、62、63の1から3まで、64の1・2、65、66の1・2、67、68の1から4まで、69、70の1から3まで、71、72の1から4まで、73、74、75及び76の各1・2、77、78、79の1から3まで、80の1から5まで、81、82、83の1から5まで、84の1・2、85の1から3まで、86の1・2、87の1から9まで、88、89の1・2、90の1から8まで、91及び92の各1から4まで、93の1から5まで、94の1・2、95の1から3まで、96の1から7まで、97、98の1から5まで、99の1・2、100の1から3まで、101、102、103の1から4まで、104の1から7まで、105の1から6まで、106、107、108の1・2、109、110、111の1から4まで、112ないし116、118の1から3まで、119、120の1・2、122の1・2、123ないし134、135の1から3まで、136ないし145、146の1・2、147ないし155、157、158、159及び160の各1・2、161ないし198、199の1から4まで、200ないし238、乙1ないし5、6の1・2、7ないし28、30、31の1から3まで、35ないし37、40ないし61、63ないし125、126及び127の各1・2、128ないし138、139の1・2、140、141の1から3まで、142の1から6まで、143の1から4まで、144、148、149、151ないし155、証人甲、原告ら各本人)、公知の歴史的事実及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。
1 中国東北地方をめぐる日本とロシア(ソ連)との対立の歴史
19世紀後半から20世紀前半にかけての世界史は、産業革命を他国に先駆けて成し遂げ、高度な生産力と軍事力を擁するに至った欧米を中心とする列強諸国が、圧倒的な力を誇り、発展途上地域を植民地化し、支配下地域の資源や産業、ひいては政治体制をも直接、間接に支配するなどして、欧米の列強諸国とそれ以外の地域の差別化が進んでいくとともに、本国の政治的、軍事的実力や資源、経済力のみならず、植民地地域から得られる富をも合わせた総合力をもって、欧米の列強諸国が世界の覇権を競い合うという一面をもつ歴史であった。
そのころ、明治維新を成し遂げ開国した日本を取り巻く状況は、西欧列強諸、ロシア、アメリカ合衆国が東アジア地域にまで支配地域を広げようとしているころであった。特に、当時不凍港を求めて南下政策を続け、東方への勢力拡張をめ、中国(清)から沿海州の割譲を受け、朝鮮半島の朝鮮王朝への影響力も確保しようとしてきたロシアは、日本にとって大きな軍事的脅威であった。日本は文明化、富国強兵策をもってロシアを始めとする列強諸国に対抗し、国土の植民地化防ぎ、国家の主権と独立の保持に懸命に努力してきたところであった。朝鮮王朝に対する後見人的地位をめぐる中国(清)との対立から、日清戦争が起こり、朝鮮半島及びその周辺が主な戦場となった。1895年に締結された日清戦争終結に際しての講和条約(下関条約)で、わが国には、朝鮮半島における権益、台湾の領有のほか現在の中国東北地方の最南端に位置する遼東半島の領有が認められた。しかしながら、もともと遼東半島や朝鮮半島を狙っており、中国東北地方における日本の権益伸張を嫌うロシアを中心とするいわゆる三国干渉があったため、遼東半島は中国(清)に返還することになった。中国(清)の弱体化が顕著になり、欧州列強による中国の権益の分割が進んでいく中で、ロシアは、中国東北地方全域に軍隊を駐留させてその権益を取得し、三国干渉により返還させた遼東半島にある旅順及び大連を租借地とし、朝鮮半島の朝鮮王朝にも影響力を行使するようになり、東アジア地域における勢力を拡大していった。朝鮮半島がロシアの影響下に入り、ここにロシアの軍事基地が置かれることとなれば、日本の国防にとってのこの上ない脅威であり、日本とロシアの対立が深まっていった。
やがて、日露戦争が起こり、中国東北地方及び朝鮮半島付近が主な戦場となった。1905年に締結された日露戦争終結に際しての講和条約(ポーツマス条約)で、日本には樺太の南半分の領有、旅順及び大連の租借地並びに南満州鉄道(旅順から長春まで)の権益の取得等が認められた。これにより、わが国は、一方において大陸における権益を朝鮮半島から中国東北地方の南部にまで拡大し、他方において朝鮮半島にロシアの軍事基地が置かれることを防ぐことができたが、沿海州はロシア領のままであり、中国東北地方の北部は依然としてロシアの影響下にあるなど、双方の勢力の境界付近における軍事的緊張は依然として残ったままであった。日本は、1906年に関東都督府を設置し、植民地経営会社的な色彩の強い南
満州鉄道株式会社を設立するなど中国東北地方への影響力を強め、1910年には日韓併合を行い、朝鮮半島にロシアの軍事基地が置かれる危険はひとまず遠のいた。このように、日本は、欧米の列強諸国と同様に、一方においては東アジアの近隣地域を中心に植民地支配を行い、他方においては欧米列強諸国と東アジア地域の覇権を競い合う国となっていった。
アメリカ合衆国は、ハワイ、フィリピンと太平洋地域を東から西へ向けて進出し、既に中国における権益をおおむね分割し終えた欧州諸国と日本に対して中国における権益の門戸開放を要求し、門戸開放に応じない日本の中国進出には批判的になり、日本人のアメリカ合衆国への移民の禁止など、排日的な動きを増していった。
欧州を主要な戦場とする第一次世界大戦の期間中(1914年から1918年まで)及びその前後には、日本は、ドイツが有していた中国の山東半島における権益を継承、拡大したり、中国に21箇条の要求を承諾させたりして、中国における権益を拡大し続けた。また、ロシア革命後のシベリアに出兵してソヴィエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」という。)を牽制し、併せて中国東北地方の北部いわゆる北満地方)への影響力を増していった。
東アジア地域及びその周辺地域におけるわが国の権益拡大は、これらの地域の権益を狙うロシア(ソ連)やアメリカ合衆国など他の欧米列強諸国及びこれらの地域の原住民との利害対立を生じ、19世紀後半から20世紀前半にかけての中国東北地方は、政治的、軍事的に不安定な危険地帯であった。
2 中国東北地方への国策大量移民
(1) 東アジア情勢
1920年代(第一次世界大戦終了後)に入ると、日本は不況となり、金融恐慌が発生し、農家は困窮し、都市には失業者が多数発生した。1928年以降
は、世界恐慌が発生し、その後世界経済のブロック化が進み、日米関係も好転しなかった。世界経済のブロック化と対米関係の悪化は、その支配下地域内に石油資源の乏しい日本にとっては、石油の確保の観点から、外交的及び軍事的な環境の著しい悪化となった。石油を動力とする兵器が第一次世界大戦以降の主力兵器となったという状況の変化もあって、その影響は深刻であった。
1931年の満州事変(関東軍による南満州鉄道線路爆破とこれに引き続く軍事行動)、1932年の満州国建国の宣言(その支配下地域は、旅順、大連の日本租借地を除く中国東北地方の全域を占める。)、「日満議定書」の調印による日本の満州国承認、これに伴う満州国の国防、治安維持並びに陸海空運関係施設の管理及び新設の日本への委任等により、中国東北地方全域における権益を日本が独占することが決定的となった。
中国東北地方は、ロシア革命後のソ連の沿海州地域及び東シベリア地域並びにソ連の保護下にある蒙古人民共和国と国境を接する地域であり、かつてはロシアがその権益を有していた地域でもあって、伝統的な南下政策を承継するソ連との強い軍事的緊張関係が続いていた。また、中国東北地方は、歴史的には、満州民族、蒙古民族、漢民族などが居住してきた地域であって、日本人が居住してきた地域ではなく、満州国の国防、治安維持に当たる日本軍(関東軍)と中国人の抗日勢力との軍事的緊張も続いており、この意味においても不安定な地域であった。しかしながら、当時、一般の日本人の間において、関東軍(中国東北地方に駐屯する日本陸軍部隊)は、非常に強力な軍隊であり、関東軍がいるので中国東北地方の防衛は心配ないと信じられていた。
当時既に始まっていた世界恐慌、これに伴う世界経済のブロック経済化、1933年の国際連盟の満州国不承認決議と日本の国際連盟からの脱退、1937年に始まる日中戦争により、中国等への拡張政策を続ける日本は、アメリカ合衆国など他の欧米列強諸国との対立を深めていった。
1939年に欧州を主戦場とする第二次世界大戦が始まった。日本は、アジアが手薄になった欧州諸国に代わって、東アジア地域や東南アジア地域への勢力拡張を続け、石油資源を確保しようとした。1940年には、日独伊三国軍事同盟が締結され、日本の支配するアジア地域の資源が枢軸国側の支配に置かれることが欧州戦線における連合国側の脅威となり、日本と連合国側欧米列強諸国との対立は決定的となっていった。アメリカ合衆国は、石油の禁輸措置や大陸からの撤退要求などで日本を追いつめていき、支配下地域における権益を捨てるという決断をすることができずに手詰まりとなった日本は、1941年にアメリカ合衆国等と戦争(太平洋戦争)を開始した。その戦況は、年ごとに日本に不利になっていった。
アメリカ合衆国との開戦に先立つ1941年4月、日本は、ソ連との間で、日ソ中立条約を締結した。同条約の内容は、両国が平和友好の関係を維持し、相互に他方の領土の保全・不可侵を尊重すること、一方の締約国が第三国よりの軍事行動の対象となる場合には他方は中立を守ることであり、条約の有効期間は5年とし、5年の期間満了の1年前に廃棄通告をしないときはさらに自動的に5年間延長されるものとされた。同時に発せられた日ソ両国の声明においては、日本が蒙古人民共和国の領土の保全及び不可侵を尊重し、ソ連が満州帝国の領土保全及び不可侵を尊重することが宣言された(乙41)。
(2) 中国東北地方への国策大量移民と国民保護策の欠如
日本は、閣議決定に基づき1932年から中国東北地方(満州国の地域)への移民を開始した。当初は、現地住民との紛争も予期されたため、機関銃等を装備した武装移民であった。農家の困窮と都市部の失業者の増加の打開のためにも移民が必要であったが、アメリカ合衆国との対立関係から北米地域や中南米地域への移民が禁止されていたこと、日本の国防上の観点からの中国東北地方における北方拠点の強化、特にソ連国境線に近い地域における兵站の確保(前線部隊への食糧その他の物品の供給等)の要請などから、中国東北地方への大規模な移民を実施することとなった。移民は、満州国の国籍を取得せず、日本国籍のままとされた。移民は、中国人と結婚をせずに、日本人同志で結婚して日本民族の血を守ることが半ば義務化され、満州国内で指導的地位に立つべきものとされた。そのため、内地の若い日本人女性に対しても、「大陸の花嫁」などのネーミングのもとで、積極的に中国東北地方に移民することが奨励されるようになった。
1935年8月25日には、「対満重要策の確立、移民政策及び投資の助長等」という項目を含む七大国策綱領が閣議決定された。1937年には、移民を所轄する日本の中央官庁である拓務省は、中国東北地方への開拓移民を20年間に100万戸、500万人を送出する大綱を決定し、かつ、最初の5年間の実施計画として満州移民第1期計画実施要領を策定し、1937年から1941年までの5年間に10万戸を送出するという大量移民計画を立てた。また、満州拓殖公社という公法人も設立され、集団移民に必要な土地分譲、資金融通、開墾、建築、生産物の販売、必需品の購入等の事業の経営又はあっせんを行った。開拓地の設定については、農業適地であることのほか、国防上の要請を勘案した総合的な立地計画という観点も考慮された。そのため、移民の大半が、中国東北地方の中でも北部のソ連との国境に比較的近い地域に入植した。1938年に関東軍が作成した「国境方面における国防的建設に係る要望事項」には、移民について「国境建設一般方針に準拠し日本移民並に善良なる鮮人移民及原住民は之を国境接帯に於ても定着せしめ一は以て銃後の培養力たらしむると共に他は以て各種の施策に活用し得しむ・・・入植地に付ては局地的に軍の駐屯地、防御営造物の関係其他諜報警戒監視等を考慮し各現地につき其実情に適応する様確定するものとす」という記載があり、物資調達及び集積について「国境地帯に於ける物資不足の現況と軍補給の関係上現地調弁額の激増並其の多元的調達等とに基く軍需、民需の統制按配は焦眉の急務に属す。」という記載があり、これに引き続いて検討事項として「軍側需要の調製と各機関の統制確立並軍需民需の連携措置要領の決定」などの項目が挙げられている(甲7)。
そもそも開拓団が耕す農地については、誰も使用していない未開墾地を充てるというのが、当初の構想であった。しかしながら、大量移民計画の実施に伴い、未開墾地の調達が間に合わなくなり、中国人が実際に耕作中の農地を安く買収して、これを日本人開拓民に与えることが多く行われるようになった。この点は、中国人の反感をかうことになった。この間の事情について、当時の日本の拓務省拓務局長は、後に「(本格的移民が昭和11年にようやく4集団、1集団300戸として1200戸程度しか送出していなかったものが)百万戸計画の第一年度である12年度には一挙16個集団、300戸宛とすると4800戸、その次の13年度となるとそれがさらに増加して一挙40個集団というように飛躍的な、また驚異的な発展ぶりである。こうなると勢い、移民用地もその以前に用意して置いた100万町歩とか200万町歩程度のものでは間に合う筈もない。100万戸樹立の際には、関東軍で満州国側に折衝し、移民用地1000万町歩の準備を約束しているとはいうものの、これはまだ買収ずみではなかった。そこで勢い満拓公社では、満州国側と協議の上で、必要の土地をどんどん買いはじめたのであるが、そうすると急ぎの場合であるため、既墾地や未墾地の区別は取り上げておられなくなった。従来満人が入地し相当に落付いて耕作しているような処でも日本人の入植に都合がよく、したがってその定着に便利のよい土地は無理してまでも買収して仕舞うというような場合も起こった。これが先住の満人、漢人達には非常に侵略的な印象を与えるにいたった。このような最中に支那事変の勃発である。最初は現地解決のつもりが次第に拡大し、わが方の戦争目的もそれに伴なって「暴支膺懲」から「蒋介石を相手とせず」に変わり、新たに樹立せられた臨時政府ないしはその後に現れた汪精衛氏の新国民政府と提携していわゆる「東亜新秩序の建設」というような処まで発展して行ったのである。これに対して蒋介石政権側としても飽くまで対抗して、独り武力戦のみならず宣伝戦においてもなかなか猛烈に対抗するにいたった。ことに宣伝戦では、真正面から日本の侵略主義を打倒せよと叫ぶようになった。満州を奪い、それでも足りずして支那本土まで魔手を伸して来たのだ。口には五族協和とか東亜新秩序の建設とか唱えても、それは要するに日本侵略主義の仮面でしかないことは事実がこれを明らかに証明している。満州で原住民達が今どういう目に遭っているか、彼等は日本人移民の大量進出によって耕地は取上げられ、住居は追われ、食うに食なく住むに家ない状態に陥りつつあるではないか、支那本土もまたかくの如くならんとしている。民衆よ起て、失地を回復せよ。起って日本侵略主義と戦えといったような訳だ。その蒋介石政権の宣伝は、満州の漢人には最も有効であったと思われる。彼等は本来、支那本土からの移住民であり、そこには血のつながりがあるからだ。当時満州の原住民、特に漢人の動揺は否定すべからざる事実であった。」(甲3の3)と述べており、当時の事情を伝えているものと認められる。
中国東北地方は、移民開始当初から、軍事的危険度の高い危険地帯であった。中国東北地方は、日本人が居住していた地域ではなく、昔から住んでいる現地人が多数居住していた。また、この地域の権益を巡って長年争ってきたソ連と陸続きで国境を接しており、ソ連との軍事的緊張関係も残っている地域であった。ひとたびソ連軍や現地軍との武力紛争が生じて陸戦となり、日本軍の勢力が地をはうに至ったときには、現地に同化せず、現地人の軍事組織に忠誠を誓ってもいない日本人居留民の安全の確保は、非常に危うかった。しかしながら、日本政府は、そのような危険性を移民に告知した上で移民を送出したわけでもなく、むしろ日本は強
い、関東軍がいるから安心だと広報、宣伝、教育に努めていた。戦乱の危険が高まったり、戦闘状態に突入するなどの危機発生時における国民保護策(避難計画等)、策定していなかった。 第2次世界大戦の戦況が日本に不利となった1943年以降も中国東北地方への開拓民の送出は続けられた。軍事的には敗北が決定的となり、翌年の1946年には日ソ中立条約が期限満了により失効することが確実な情勢となった1945年に入っても、移民の送出は続けられた。原告Cは、1945年に佐賀県から中国東北地方に渡っている。
1945年の時点で、中国東北地方の開拓団の人口は約27万人(その多くが北部のソ連国境に近い地域に居住)で、同年に行われたいわゆる根こそぎ動員によりうち壮年男子約5万人が日本軍(関東軍)に召集され、日ソ開戦時には老幼婦女子を主体とする約22万人が開拓団員として居留していた。なお、中国東北地方全体では、1945年時点で、軍人以外の一般の日本人約155万人が居留しており(その多くは南部のソ連国境から遠い地域に居住)、同年に行われたいわゆる根こそぎ動員によりうち約15万人が日本軍(関東軍)に召集された。
(3) 原告Aの移民状況(日ソ開戦まで)
原告Aは、1928年12月に、現在の東京都中央区(京橋)で生まれた。家族構成は、父、母、長姉、次姉、三姉、兄、原告A、妹の8名であった。原告Aの家の家業は、4代続く青物問屋であった。しかしながら、戦時統制経済が進んでいく中で、取り扱える商品がなくなっていった。周囲においては、仕事がなくなった商工業者などを中心に、東京からも中国東北地方に開拓団を出すという話が立ち上がり、農業に転業して開拓団に入ることの熱心な勧誘を原告Aの父も受けた。原告Aの父は、乗り気でなかったが、結局、勧誘に負けて、東京仏立開拓団(日蓮宗本門仏立講信徒の参加した開拓団、甲3の6)の一員として中国に渡ることとなった。当時、原告Aは女学校に通っていたが、学校を途中でやめることになった。1943年7月、当時海軍兵学校に在籍していた兄を除き、原告Aの一家は、中国に出発した。中国東北地方の中でも北西部に位置する興安南省の哈拉黒(はらへい)(現在の内モンゴル自治区)に入植した。中国東北地方の中では、ソ連及びソ連の保護下にある蒙古人民共和国との国境に比較的近い地域であった。開拓団の村には、電気もラジオもなかった。開拓団の農地は、もともと地元の中国人農民が耕作していた土地を収用したものであった。原告Aは、当時14歳であったが、現地で教員が不足していたため、開拓団の国民学校で、代用教員として働くことになった。
原告Aの父は入植後まもない1943年11月に病気で死亡し、原告Aの母も1944年10月に病気で死亡した。3人の姉は結婚して現地で別に暮らしていたため、原告Aと妹の2人で暮らすことになった。
1945年7月に入ると、開拓団の青年、45歳以下の壮年男性のほとんどが、いわゆる根こそぎ召集により日本軍(関東軍)に召集され、開拓団には女性、老人及び子供だけが残された。
(4) 原告Bの移民状況(日ソ開戦まで)
原告Bは、1932年4月に、岩手県下閉伊郡O村で生まれた。家族構成は、祖母、父、母、長姉、兄、次姉、原告B、弟、妹の9名(幼児死亡した兄弟姉妹を除く。)であった。原告Bの家は豊かではなく、原告Bの父は製材や建築関係の仕事をしていたが、農地を持っておらず、役場から移民の話を聞いて乗り気になり、下見を経て、1941年の秋に一家9名全員で、岩手県依蘭開拓団の一員として、中国東北地方に出発した。当時、原告Bは9歳で小学生、原告Bの父は50歳近く、原告Bの祖母は74歳であった。原告Bの一家は、中国東北地方の中でも北東端に位置する三江省の樺川県依蘭地区の開拓団の村に到着した。中国東北地方の中では、ソ連の沿海州地域との国境に比較的近い地域であった。18歳以上の男性であった父と兄に各十町の畑が割り当てられ、農業を営んだ。割り当てられた農地は、もともと中国人農民が耕作していたものを収用したもので、中国人農民達から畑を使うなと抗議を受けた。
兄は1944年に日本軍(関東軍)に召集され、その後長姉の夫その他の開拓団の青年、45歳以下の壮年男性全員が、いわゆる根こそぎ召集により日本軍(関東軍)に召集されて開拓団を離れ、開拓団には女性、老人(原告Bの父を含む。)及び子供だけが残された。
(5) 原告Cの移民状況(日ソ開戦まで)
原告Cは、1934年1月に8人姉妹(うち1人(2女)は幼児死亡)の末子として出生した。原告Cの母は原告Cが幼い時に死亡し、原告Cの父は、もと炭坑労働者であったが、聴力が不自由なため解雇され、以後は失業状態であった。原告Cの一家は、長姉の労働によるわずかな収入だけで、佐賀県内で苦しい生活をしていた。近所に住む警察官が原告C一家に、「満州」は王道楽土であり豊かな生活ができると盛んに移民を勧めたことから、移民を決意した。原告C一家は、既に大阪に嫁いでいた姉1人(3女)を除き、父と姉妹6人が、終戦の5箇月前である1945年3月に日本を出発し(当時原告Cは11歳)、同年4月末に、中国東北地方の中でも北東端に位置する三江省の通河県漂河屯の佐賀県開拓団の村に到着した。中国東北地方の中では、ソ連の沿海州地域との国境に比較的近い地域であった。開拓団の村にはラジオも電話もなかった。原告Cは、開拓団の小学校に通学することとなった。原告Cの一家が開拓団の村に到着してまもなく、開拓団の青年、45歳以下の壮年男性全員が、いわゆる根こそぎ召集により日本軍(関東軍)に召集されて開拓団を離れ、開拓団には女性、老人及び子供だけが残された
。
3 日ソ開戦と大量の日本人難民の発生
(1) ソ連軍の対日参戦時期の切迫と関東軍の居留民対策の欠如 関東軍は、日本の国防上伝統的に最重要問題であったソ連からの防衛を担当していたため、一時は陸軍だけで兵力80万人を誇っていた。しかしながら、直接の戦闘地域を持たないため、第二次世界大戦の進行にしたがい他の戦闘地域における日本の戦況が不利になるにつれ、これらの地域の支援のため、師団の多くを中国東北地方から転出させざるを得なくなった。1945年にはいったころは、関東軍は、従来の3分の1程度の戦力しか有しておらず、戦力比較において極東ソ連軍よりも劣勢であることは、日本軍(大本営)も認識するところとなっていた。
日本は、関東軍の兵力不足解消のため、1945年7月、中国東北地方在住の日本人男性のうち行政、治安維持、交通通信、戦時産業等のため絶対に必要な人員を除き、18歳以上45歳以下の男性約20万人を召集(いわゆる「根こそぎ動員」)し、関東軍に配置した。
1944年以降の第二次世界大戦の戦況は、日本やドイツに顕著に不利になっていた。ソ連は、ドイツとの戦線での優位を確保し、1945年2月ころからは兵力の極東への移送を活発化させるようになり、1945年4月5日には、日本に対し、日ソ中立条約を期限満了(1946年4月)後に延長しない旨の通告をした。1945年5月にドイツが降伏し、このころ、日本軍(大本営)も、満鮮支に対する米ソ軍の進攻は必至でありいずれが先後になるか判定できない、1945年の夏又は秋にソ連軍が対日参戦して中国東北地方に進攻してくる可能性があり、その場合、ソ連軍は、優秀な兵力をもって西、北、東の三方向から包囲的に進攻してくることが必至であるとみていた。関東軍の作戦方針は、従来は攻勢作戦であったが、1944年に正式に持久、守勢作戦に方針が変更され、ソ連軍の進攻に際しては、満州国内の地形を利用してその侵入を阻止し、やむを得ない場合は南満、北鮮の山岳地帯を確保して抗戦を続けるというものであった。1945年5月30日策定の満鮮方面対ソ作戦計画要綱においては、中国東北地方の全部についての絶対的防衛策を放棄し、朝鮮半島全域及び中国東北地方の最南部のみを絶対的防衛地域とし、残りの中国東北地方の北部、中部を持久戦のための戦場とする策をとることとした。この作戦によれば、多くの開拓団の村は持久戦のための戦場と化すことになる。しかしながら、これらの事実は開拓民には知らされず、開拓民は関東軍に強い信頼を置き、国防上の不安はないものと信じているのが一般であった。
日本軍内部でも、ソ連国境に近い居留民全員の避難や、老幼婦女の絶対的防衛地域以南への避難の意見もあったが、日本軍の守勢作戦への転換をソ連軍に予知させる等の理由で取り上げられなかった。
防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書関東軍(2)」(乙45)には、居留民に対する措置について、次のような記述があり、当時の事情を伝えるものと認められる。
「関東軍の守勢持久方策と居留民処理との間には不可分の関連があった。満州における居留民については、他の支那及び南方正面と異なり国策に基づく開拓団という存在があり、その少なからざるものは関東軍の指導により国境に入植し、交通線の維持確保・生産・補給など兵站に一役も二役も買っていた。しかも根こそぎ動員において、そのうち兵役に堪える壮年層はほとんど召集され、更に青少年義勇隊員12、000名も倉庫警備及び勤労奉仕に従事し、残る大部は老幼婦女という団が少なくなかった。開戦に先だち132万余の居留民を内地に還送することは船腹その他の関係上不可能であり、朝鮮にさげることについても、いずれ米ソ軍の上陸によって戦場化することが必至であるとみられていたほか、第一それに必要な食糧に対する目途がつかなかった。一方、居留民特に開拓団側においても、あくまで関東軍と運命を共にするとの考えが強く、満州開拓総局長齋藤彌平太中将にも開拓団を後退させる意向はなく、また事態が逼迫してから東京の中央省部から在満居留民なり開拓民の後退その他について一度でも意図が述べられたことはなかった。
関東軍総司令官の平時任務において、在留邦人の保護が重要な一目途であったことは多言を要しない。戦時危難の降りかかる時、{門困}外の指揮官が所在同邦の生命を守ることは当然視されていたのであり、そこに疑義はない。殊に満州開拓団には前述のごとく特種の事情があった。前述のごとく開拓総局及び開拓団自体が後退をいさぎよしとしなかった大きな原因の一つは、軍の後退守勢の動きを知らず、最後まで関東軍在りせばの気持ちが強かったことと、今一つ外地において国威が落ち戦力が地をはらう事態に立ち至り、殊に敗戦となった場合、いかに悲惨な場面が展開されるかなどについて全く無経験であったからであろう。後者については関東軍自体またしかりであった。大部の開拓団に対し、軍は自己の分身として臨み、やむなき向きには強権を発動しても後退させ、また作戦の条件が許す限りこれら辺境の邦人群を軍戦力の庇掩下に置くごとく努むべきは、作戦考案決定上関東軍の場合殊に重要な一条件であった。」(353頁)
「企図の秘匿は敵の意表にいで、また敵をして乗ぜしめないための一要素として、作戦要務令においても強調していた。最も重要なことは、秘匿せんがための目途を明確にするとともに、結果に置いて好ましからぬ自体が起こらぬよう留意することである。すなわち、企図の秘匿はある作戦目的を有利ならしめんがための手段であるが、とらわれ過ぎると本質を失うことになりかねない・・・居留民問題についても、関東軍はその後退がソ軍に対し防勢転換を予知させるという考え方にとらわれ、事前の措置をとらないうちに開戦となり、その結果殊に辺境の邦人を筆紙に尽くせぬ苦境に陥れることになった。」(354頁)
「関東軍が持久守勢に転移して以来、居留民対策は幾度か問題になりつつも、ついに決定的措置がとられないうちにソ連の参戦に直面することになった。それには幾多の理由があった(既述)が、「今直ちにソ連が出て来ては困るし、また今直ちに出て来るとも限らない」という軍当事者の希望的心理と、防衛企図を秘匿せんとする考えのほか、いまだかって接壌交戦を経験せず、極めて多数に及ぶ在外居留民が直接戦乱の渦中に投げ込まれた体験を持たなかったことが大きな原因であったといえよう。」(408頁)
(2) ソ連軍の対日参戦と日本人の難民化
1945年8月9日、ソ連軍の中国東北地方への進攻が始まった。当時、関東軍の主力は、守勢作戦への変更に伴い国境線からは内部に後退していた。わずかながら残っていた国境付近の関東軍は、ソ連軍に応戦したが、兵員、装備ともにソ連軍が優勢で、これをくい止めることができず、ソ連軍は中国東北地方の内部にどんどん進攻していった。
関東軍は、同日、国境地域の日本人居留民について、関係方面軍などに、東安・東寧・牡丹江方面は図門経由北鮮、黒河、佳木斯方面はハルピン経由長春、ハルピン付近は長春、海拉爾、チチハル方面は奉天及び四平街、熱河方面は南満及び関東州を目標に、それぞれ退避するよう意図を通達した。
この避難の指示は、辺地の開拓団には2、3日後に到達し、ソ連軍の進攻の可能性や関東軍の弱体化を知らされていなかった日本人開拓民は、外地において、陸続きの隣国の進攻による陸戦の混乱の中にじかに置かれることになった。日本人開拓団員は、開拓団の村を放棄して、食糧、衣糧、燃料、医薬品等の蓄えももなく避難を開始し、寄宿できる場所のあてもなく、難民となった。しかも、前記根こそぎ動員等のため、壮年男子、青年男子が不在で、集団の構成員がほとんど老幼婦女子だけという状態で避難を開始せざるを得ないという状況にあり、その避難行動は困難を極め、避難の過程で、ソ連軍の攻撃、一部中国人匪賊の襲撃、飢餓、疾病、集団自決等によって多くの死者を出した。
日本は、1945年8月15日にポツダム宣言を受諾する意思を内外に明らかにした。その時の日本軍は、ミャンマーやフィリピンなどの地域で一部戦闘状態にあるほかは総体的には銃火が収まった状態にあったが、中国東北地方の関東軍のみが優勢なソ連軍と悲愴な交戦を続けている状態にあった。ソ連軍司令官は、8月15日にポツダム宣言受諾の知らせを聞いても、日本軍の軍事行動に変化がなく停戦の兆候が認められないことを理由に、攻撃を続行した。日本軍(大本営)は、8月15日に、進攻作戦は中止するが当面現任務を続行せよという命令を出した。
当時、進攻作戦中の部隊は存在しておらず、この命令では自衛上応戦を続けている防勢作戦中の関東軍は、現任務の防勢作戦に基づく戦闘を続行するほかないことになる。日本軍(大本営)は、8月16日、関東軍にソ連軍との停戦協定を結ぶ権限を与え、ようやく8月19日に双方の軍首脳の間で現地停戦協定が結ばれた。この停戦協定が僻地の部隊にまで伝達されるまでの間、中国東北地方の辺境の地域においては、なお戦闘が続いたが、8月末日ころまでには中国東北地方全土で戦闘状態が終結した。
しかしながら、ソ連軍との戦闘状態終結によっても、生き残った日本人難民たちの苦難は終わらず、それから長期間にわたり、日本人難民たちは悲惨な状態に置かれた。
中国東北地方全土において、ソ連軍兵士による発砲、物資の略奪、婦女暴行が頻発し、多数の日本人難民がこの被害を受けた(中国人にもソ連軍兵士から同様の被害を受けた者が出た。)。また、中国人匪賊が中国東北地方全土に出現するようになり、日本人の生命、身体に危害を加え、また、日本人の持ち物を奪っていった。
生き残った日本人難民は、それぞれの地区の比較的大きな町に避難した者が多く、そのような町において日本人難民の収容所に充てられた建物(倉庫等)に収容され、暖房も医薬品もなく、衣食に事欠く越冬生活に入ることを余儀なくされた。中には、避難中に難民集団からはぐれて、単独で中国人の保護を受けた者もいた。
防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書関東軍(2)」(乙45)には、開拓団の避難の状況について、次のような記述があり、当時の事情を伝えるものと認められる。
「それに輪をかけたのが辺境からの撤退者の運命であった。第一線の兵団・諸隊はこれら同胞の救済を焦ったが、多くは本然の作戦処理に追われ、そこまで手が伸びなかったのが実状である。開戦と同時にもよりの鉄道を利用して後退できたのは僥倖の一つまみの人たちにすぎない。最前線の居留民のうち、ある部分は所在の日本軍陣地に収容され、これらの同胞はほとんど例外なく将兵とともに悲壮な最期を遂げた。国境線以外、軍の主力は作戦の必要上概して少しく内部に後退したため、「根こそぎ動員」によって一家並びに職域・地域の中心を失った居留民の逃避行は悲惨を極めた。途中あるいは暴れいな敵軍並びに暴民の迫害によって命を落とし、又は陵辱を被り、幸いにそれらの毒牙を免れても、着のみ着のまま、わずかな携行食だけの難民にとっては、それこそ雲煙万里のさまよいの連続であり、疲労・疾病・飢餓、そしてひごとに加わる北満の寒気、精根の限界が永遠の別れであった。肉親の死に対しても逃避をせかされるため埋葬する余裕もなく、また、疲労の余り愛児とともにグループから脱落するもあり、更に万策尽きて他の子供を救うためやむなく手足まといの幼児を現地人に託す事例すら少なくなかった。逃避行においてソ軍、暴民の包囲を受け自決の途を選んだ例は枚挙にいとまがないほどである。軍の庇護を失った難民に対し、諸所わずかに残った国境警察隊員・鉄路警護隊員が楯となり、鋒鏑に斃れたのは殊に悲壮であった。最後の対ソ防衛戦における在満居留民の動態は、我が国の歴史上類例のない大悲劇であり、それはまた統帥との相関性についても大きな問題として残されている。」(411頁)
「ソ軍の侵入開始後辺境の在留邦人が悲惨な境地に陥ったことについては既に幾度か掲記した。終戦とともに無警察状態になった北鮮を含む満州全域の各地所在日本人の惨状ははなはだしいものがあった。この実状に直面しても既に無条件降伏した関東軍としては、ほとんどなすすべがなく、わずかに実状を東京に伝え中央における外交交渉に期待するのが関の山であった。以下は関東軍ないし駐満大使
(関東軍総司令官兼任)から出された電報例(要約)の若干である。
参謀次長あて関参一電第1258号(8月23日参謀長発)
ソ軍首脳筋は日本軍・邦人に対する無謀行為を戒めあるも、現実には理不尽の発砲・略奪・強姦・使用中の車両奪取等頻々たり(中略)今や日本軍に武力なく、加うるに満軍警・満鮮人の反日侮日の事態の推移等、将兵の忍苦真に涙なくして見るを得ず(中略)願わくば将兵今日の忍苦をして水泡に帰せしめざるよう善処を切望してやまず(以下略)
重光外相へ(8月30日駐満大使発)
現在全満に推定50万の避難民あり。わずかな手回り品すら略奪され、着のみ着のままにて食事すら事欠き数日絶食の者さえあり(軍人を含む邦人約200万、うち約9万は朝鮮、関東州に疎開)(中略)目下食糧状況悪化、採暖用石炭の輸送は認可されず、冬季用衣糧住宅等を徴発略奪され、冬季に入りたる以後飢餓凍死者の続出を憂えしめらる(中略)本件ソ軍主脳の内意をただしたるところ、右は東京にて取り決めらるべしとのことにて、ソ支側にては何ら措置せず、当方として全く手のつけようなし。ついては、在外邦人に対し措置される時は、事情御了察のうえ在満婦女子病人を優先するよう御援助あい煩わしたく懇願す」(462頁)
「かくのごとく終戦後における在留邦人(武装解除後の軍人を含む)の状況は極めて憂慮すべきものがあったところ、9月6日以降においてはしばらく通信が全く途絶し、交通もしゃ断せられたため、新京(長春)においてさえ各地の実情を把握することができず、いわんや東京においてはただ推測により、憂慮するばかりであった。9月末ころ以降に至り、三々五々身をもって満鮮から避難した人たちが内地に帰還するに及び、これらからようやく実状が判明するようになった。当時関東軍の高級者は既にソ領内に移送されていたが、大部の将兵は集結地において不安のうちに現地労役に酷使され、在満約100万の居留民中約10万は北鮮に、約
50万は南満関東州方面への避難を続けた。」(464頁)
(3) 日本人難民の苛酷な越冬生活
開拓団で生き残った者たちの多くは、1945年9月ころから、たどり着いた北部の町において、収容所に充てられた建物を難民キャンプとして、越冬態勢に入った。原告Aのように、集団からはぐれて、個別に中国人の保護を受ける者もいた。
中国東北地方の秋は寒く、冬が近づくにつれて寒さはその厳しさを増していった。定職と家を失った日本人難民たちに物資はなく、食糧、衣糧、燃料、医薬品が著しく不足する生活を余儀なくされた。収容所に充てられた建物も、倉庫、学校などの非居住用建物であるのが通常であり、もちろん寝具はなく、土間の上にわら等を敷いて寝具代わりにするのが通常であった。このため、秋から冬にかけて、当時の中国東北地方の風土病である発疹チフスが流行し、各収容所において大量の死者を出した。また、飢えと寒さが原因で衰弱死する者も多数出た。老人、乳幼児が特に犠牲になった。
中国東北地方の真冬は、最低気温が氷点下30度以下になることが普通であり、このような状況下で、冬用の衣類も寝具もなく、暖房もなく、冷たい土間の上で寝ることを余儀なくされ、食糧の不足も著しい状態が続き、死者が続出していた。この越冬期間内の死亡者は、1945年12月末までに約9万名、1946年5月までに累計約13万名に及んだと推定されている。
開拓団所属の日本人難民は、婦女子がその大多数を占めていた。そして、このような状況の下で、婦女子を中心とした日本人難民の多くは、自活の手段を失い、このまま死をまつか、現地住民に救いを求めるかの究極の二者択一を迫られた。開拓団員であった日本人女性は、生き延びるためには、中国人の保護を受けるほかなく、そのためには結婚することを余儀なくされるのが通常であった。どうしても嫁になれと暴力をふるわれることもあり、中国人の保護を外れると冬期は最低気温が氷点下30度以下にもなる環境の下で生きていける保障はとてもないこともあって、泣く泣く中国人と結婚し、その後中国に取り残される結果となった日本人女性の数は、非常に多かった。また、多数の子供が、両親を失って孤児となり、あるいは親が養育できないために現地住民に託され、その後中国に取り残される結果となった。これらの女性や子供は、自ら望んだわけでもないのに、中国人の保護を受ける(生命は助かるが中国に取り残されるリスクを負う。)か、中国人の保護を受けない(生命を落とすリスクを負う。)かの運命の分岐点上に立たされていたわけである。
防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書関東軍(2)」(乙45)には、開拓団の越冬の状況について、次のような記述があり、当時の一般的な事情を伝えるものと
認められる。
「さて、満州・北鮮における敗戦直後の混乱は、10月ころになって一応落ち着きを取りもどし、邦人は恐るべき満州の寒気に対し越冬態勢に移ることになった。邦人の大部は家なく、職を失った難民であって、半年にわたる冬季間において、衣糧、医薬及び燃料の極端な不足、不備な居住施設に加えて襲い来った寒気のため各地に罹病者が続発し、殊に栄養失調症や発疹チフスによる死亡者が多かった。この昭和20年10月下旬に始まった第一次越冬期間内の死亡者は、満州における病没約17万人のうち76%に達し、翌21年5月末ころまでに13万人(うち約70%は20年内の死亡者)を数えるに至った」(464頁)
また、満州開拓史刊行会編「満州開拓史」(甲219)には、原告Cのいた通河県におけるある開拓団の越冬状況について、次のような記述があり、当時の標準的な事情を伝えるものと認められる。
「ソ軍侵入と同時に、県公署から現地引揚命令に接したが、在団壮年男子は殆ど不在であった。例えば集団8次大古洞開拓団では、8月10日59名が佳木斯松花部隊に現地応召している。したがって、老幼婦女子のみであったから、その進退に迷うと共に、一面国境地区に配置されていた関東軍に対する信頼の念も未だ厚く、また一面悪天候のため引揚の方途も円滑でなかったので、ぐずぐずしている間に、遂に避難の機を失し、土匪の来襲相次いで起こり、多大の犠牲者を出し、遂に現地越冬の止むなきに立ちいたった。」
「(1945年)10月2日約4000名の小銃、鎌、槍を手にする暴民が三方から本部に来襲、団長は戦死し、婦女子は山に逃げたが、途中衣をはぎ子供を奪う等乱暴を行い、婦女子は断髪姿となった。この夜本部事務所で37名が自決した。この事件を契機に保安隊に救出された団員は、10月5日濃河鎮に護衛引率され同地民家に収容されたが、10月下旬1棟30坪余りの倉庫に仮床を設けて二階とし、これを収容した。藁、乾草を敷物として藁を編んで布団に代用した。各棟に対し2か所宛のぺーチカを設置した。その付属物として炊事場があった。収容所生活中は、濃河鎮治安維持会から援助を受けたが、支給物は左のとおりであった。
主食 「もみ」1人当たり約0.5キロ(自力運搬、自力脱穀)
食塩 若干
灯火用大豆油 1日に1キロ宛
炊事用燃料 大車約50台分(原住民労力運搬)
また、野菜は稼働人員が原住民の収穫脱穀労働に雇用されて得た賃金収入で購入、味噌は本部醸造場跡から婦女子青年が約500キロ背負ってきた。炊事用燃料は、団所在地の最寄り部落の個人家屋をこわしてこれに充てた。
10月下旬から再帰熱、発疹チフスが発生し始め、これが防止に努めたが、薬品皆無のため手の下しようがなかった・・・11月中旬に至り栄養失調による死亡は日に7~8名を数え、11月下旬から12月中旬までの約1箇月の死亡数は信濃村開拓団のみで四百名の多数に及んだ。このような殺人的悪条件によって年内に約200名は満人部落に縁故疎開(多くは満妻)し、あるいは木蘭県に出て自活するようになった。この結果、本収容所で越年したものは僅かに45名、資金500余円にすぎなかった。」
中国東北地方の北部に位置する通河県の方正の町で難民状態で越冬していた開拓団員の女性(当時16歳)は、自己の越冬状況について次のように語っており(甲163)、当時の標準的な事情を伝えるものと認められる。
「その時分はもう中国人が車を引いていっぱい来るの。ぼくの家に来ないかって連れに来るんです。奥さんのない人は奥さんに欲しいし、いっぱい来るので、私も考えて、栄養失調で父も亡くなって、小さい妹も亡くなって、私と妹と母と3人が残っていたんです・・・私もそこにいたらすぐ死んでしまうから、中国人が毎日毎日嫁さんにならんかといって来るので、母と相談をして、もしか私が嫁さんになったら三人一緒で置いてくれるようなところがあったら行こうということにしました。どうかして生きていたらいつか日本に帰れると思って、方正の町の人ならということにしたの。方正の町にいたらきっといつか帰るときがあったらすぐ帰れるけれども、山の中に行ったらわからないから、いつ帰るかわからない。それで私は方正だというし、3人でもいいからといった人がいたので、次の日に来るまで迎えに来てもらって行ったの。でも方正は方正だけれども・・・奥の方へ行っちゃって、また川を越して、また次の部落で、遠いところで、(牛の車で)3時間もかかってそこの部落へ着いた。私がお世話になったところ。何月ごろまでがんばっていたんだっけ。12月。寒くて寒くて・・・12月で、すぐお正月になってね。その家も兄弟が多くて12人家族もいて、そこへ私たちが3人入ったから15人になっちゃって、そこでお世話になることになって、明けの年に結婚したんです。主人は25歳で、私より8歳違いですね。それでも結婚した。しかたないしね。母と妹を連れて何とか生きていくためにね。どうかして生きていたら3人で日本へ帰れると思って。私の母がほしい人もいっぱいいましたが、私は、私1人が犠牲になればよいと思いました。母や妹までは中国人には、やりたくなかったのです。言葉もあまりわからなかったし、中国人の生活にも一苦労しました。どうかして3人一緒にいたら暖かくなったら逃げてでも、日本に帰る覚悟していました。でも親切にしてくれ母も45歳でまだ働けたし妹も大事にしてくれました。そのうちに、子供も産まれ、生活もあまりよくないけど色々な事もあり、どうにか生きて来ました」(50~51頁)
さらに、満州国史編纂刊行会編「満州国史総論」(甲47)には、開拓団の難民化、越冬状況について、次のような記述があり、当時の一般的な事情を伝えるものと認められる。
「終戦後しばらくは、まだ満鉄社員の手で鉄道が運行され、沿線地帯の日本人は、北・中満ではチチハル、ハルピン、長春、瀋陽等の都市を目指し、南満では大連、安東、北鮮等に向け集中避難ができたが、奥地の住民は、ソ連軍の攻撃にさらされ、その上暴民の襲撃などのため多数死亡し、あるいは自決し、またはソ連軍に連行された。この難を免れた者も途中幾多の困難と生命の危険にさらされつつ、命からがら前記の都市に辿りついたのであった。最も悲惨をきわめたのは、国境方面や開拓団の人々で、避難途中の山野で力つきて斃れ、あるいは足手まといとなった瀕死の幼児を棄て、飢えと寒さと闘いつつ野宿を重ね、難行を続けたのであった。しかも満身創痍のか弱い婦女子が、ソ連兵によって辱められた事例が多かったのである。このようにして長春や瀋陽の町に辿りついた避難者は、わずかの身の廻り品も掠奪されて全くの着のみ着のままの姿となり、極度の疲労困憊と栄養失調のため心身ともに衰弱し、のちには発疹チフスなどの伝染病が発生し、幼児を筆頭に多数の日本人が死亡した」
「避難者はこのように極度の心身疲労に加えて寒気と栄養不足と非衛生が重なり、また慣れぬ高粱飯や粟粥常用のため、消化器の不調を来たし、栄養失調症や肺結核の併発で死亡者が続出した。長春日本人会では保健所8ヵ所、擁護所40ヵ所、従業員500名をもって医療、防疫に懸命となったが、終戦以来翌年3月までの8ヵ月間の死亡者は2万5000名に達した。最も死因の多かったのは伝染病で、中でも発疹チフスが最も多く、死亡率は4歳以下56%、60歳以上の老齢者31%に上り、幼児の半数以上は難民生活中に死亡した。長春日本人会では、鉄西の賽馬場跡に3万人分の穴を掘って日本人の共同墓地とした。」
「以上は大都市の例であるが、奥地の日本人、特に開拓団の老幼婦女子の場合は、ハルピン、長春等の大都市に辿りつけぬ者は、避難の途中、地方の収容所(たとえば、方正、海林、拉古、延吉等)に収容されたが、倉庫、学校等の土間やコンクリートの上に蓆一枚の生活で冬を迎え、寒気と医療施設皆無のため、死亡者が続出した。このほかソ連軍に拉致される者、脱出して中国人の妻となる者、自決する者など、さながら生地獄の惨状を呈した。旧満拓公社では、ハルピンを中心に開拓団に対し、独自の救済策を講じたが、資金の関係で十分に行きとどかなかった。」
(4) 原告Aの難民生活
1945年8月9日から始まるソ連軍の中国東北地方進攻を受けて、原告Aのいた開拓団も、1945年8月12日に、王爺廟を目指して避難することになった。王爺廟には関東軍がいて庇護してもらえると思っていたが、丸一日歩いてたどり着くと、王爺廟には関東軍はおらず、もぬけの殻であった。集団自決が提案されたが、反対意見もあり、長春に向かって逃避行することになり、難民となった。この間、中国人の暴民(匪賊)の銃撃や襲撃が繰り返しあり、ソ連軍戦車隊からの銃弾による攻撃もあって、多数の開拓団員が死亡し、荷物や着衣までも奪われ、集団も分散していった。原告Aは、長姉、次姉とその子たちなどからなる小集団となった。食糧や衣類を与えてくれる親切な中国人もいたが、中国人匪賊からの襲撃も繰り返された。がけから突き落とされて重傷を負っても治療もできず、食糧の確保も困難で疲弊していき、襲撃を繰り返し受けるうち原告Aははぐれて1人になってしまった。この間、原告Aは、銃弾を受けて負傷し、がけから突き落とされて股関節脱臼の傷害を負った。
原告Aは、難民となって数週間後、中国人の老人に保護され、その後複数の中国人宅を転々とした。1946年には、賭博師の中国人に引き渡され、1948年ころまで、その賭博師の下で奴隷的労働に従事させられた。燃料用の牛糞集めなどの仕事をさせられたが、食事を与えられないことも多く、暴力や幽閉等の虐待的待遇を受けることもあった。そのような原告Aの身の上を他の村人が案じて、1948年には内蒙古興立屯在住の男性に引き取られた。原告Aは、この時に初めて
日本の敗戦を知った。
(5) 原告Bの難民生活
1945年8月9日から始まるソ連軍の中国東北地方進攻を受けて、原告Bのいた開拓団でも、1945年8月12日ころに、開拓団全員に対して、歩いて4日かかる依蘭の町まで避難するように命令が出た。突然の命令であった。開拓団全員で依蘭に向かったが、必要最低限の荷物だけを持って避難を開始し、難民となった。途中では、ソ連軍の飛行機から機関銃で攻撃されて同行の者が何十人も死亡したり、増水した川に止められたりしながら、4日かかって依蘭に到着した。しかし、更に移動することになり、原告Bの父は原告Bの祖母を背負って移動していたが、途中で祖母を尼寺に預けた(祖母は、その数箇月後に病死した。)。開拓団の
者は、川を泳いで渡るなどしながら十何日も歩き、途中でも死亡者を出しながら、方正の町に到着した。
方正の町には、他の開拓団の日本人も多数避難してきており、全員が既に難民化していた。原告Bの開拓団は、穀物用倉庫に収容され、倉庫の土間に寝泊まりしながら、いくつかの倉庫を転々とした。10月以降寒さが厳しくなり、食糧に乏しく、暖房もなく、環境の厳しさのため、周囲の日本人難民からは、次々と死亡者(凍死、餓死、病死、衰弱死)が出て、原告Bの父も11月に死亡した。真冬に入り、最低気温が氷点下30度以下にもなる寒さの中で、医薬品も暖房も寝具もなく、食糧・衣類も乏しく、原告Bの一家6人(母、長姉、次姉、原告B、妹、弟)は、穀物用倉庫の土間の上のむしろで一日中横になっているしかなかった。このような環境の中で、原告Bは、足に凍傷を負った。このままの状態が続けば、皆が凍死、餓死、病死又は衰弱死となる危険性が、非常に高い状態にあった。
元々中国人たちも貧しく、中国人の嫁を迎える資金のない中国人男性からは、難民の日本人女性が格好の嫁候補であったこともあり、原告Bの長姉は、一家6人を助けるために、当時同様の境遇に置かれた多くの若い開拓団員女性がそうであったように、中国人の嫁になることを決心した。原告Bの一家6人は、長姉が嫁入りした中国人の家で養ってもらうようになり、病死や衰弱死(凍死、餓死)の危機を回避した。1946年1月には、原告Bの次姉も別の中国人の農家に嫁入りし、母、原告B、妹、弟も次姉が嫁入りした中国人の家で養ってもらうことになった。
(6) 原告Cの難民生活
1945年8月9日から始まるソ連軍の中国東北地方進攻を受けて、同年8月14日か15日ころ、原告Cの開拓団の村も全員が避難することになった。開拓団の団長は、家を全部焼いて、松花江に面した港町である清河鎮に行って、船に乗って日本に帰ることを指示した。開拓団全員が、全部の家を焼き払い、清河鎮に向けて歩き始めた。原告Cの開拓団が清河鎮に到着してみると、関東軍や警察等の官公署は引き揚げた後であり、町全体ががらんとしていた。3日待っても船が来ないので、船をあきらめ、原告Cの開拓団全員が難民化し、付近に所在する太古洞(長野県の開拓団の入植地)に移動した。
原告Cの開拓団は、太古洞で越冬することになった。情報も援助も入ってこなかった。ソ連兵が略奪や強姦を目的に襲ってくることや、中国人匪賊が物を奪いにくることが何回もあった。最低気温が氷点下30度以下にもなる寒さの中で、衰弱死する者や病死者が多数出た。食糧も燃料の薪もなくなってしまい、このままでは全員が凍死、餓死、病死又は衰弱死するほかない状況になった。そこで、生き続けるために、各人が生きる道を自分で捜すことになった。
原告Cの一家は、1946年3月ころ清河鎮の町に出て、中国人の家で雑用、手伝いの仕事をしながら寄宿させてもらうことにした。その中国人の家も貧しく、食事も十分には与えられず、もちろん給料ももらえなかった。日本に帰るための情報もなく、日本人だと分かると何をされるか分からないという恐怖感があり、情報を探しに積極的に動くこともできなかった。元々中国人たちも貧しく、中国人の嫁を迎える資金のない中国人男性からは、難民の日本人女性が格好の嫁候補であったこともあり、原告Cの姉たち(長女、4女、5女)は、当時同様の境遇に置かれた多くの若い開拓団員女性がそうであったように、生き延びるために、中国人と結婚した。
4 日中国交回復までの未帰還者の引揚状況
(1) 終戦直後の時期
日本政府は、1945年8月以降、終戦後の混乱の中で外地の軍人及び民間人の日本内地への引き揚げ対策をも講じてきたが、連合国の占領軍の日本進駐とともに、引揚援護業務も日本政府独自の業務としてではなく、占領政策の一環としてGHQの管理下で行われることとなった。1945年10月25日、日本政府の外交機能は全面的に停止され、外国との交渉は、GHQを通じて行うか又はGHQが日本政府に代わって行うこととされた。このような状態は、連合国と日本政府との間で調印された日本国との平和条約(昭和27年条約第5号。いわゆるサンフランシスコ平和条約)の発効により、1952年4月28日に、日本が主権を回復するまで続いた。
このため、1946年4月ころまでソ連軍管理地域であった中国東北地方における日本人の保護及び引揚げに関する事項の処理のために必要なソ連との連絡を日本政府が直接とることはできなかった。GHQを通じて、ソ連に対して、ソ連軍占領下の日本人の保護を要請した。ソ連軍は、日本人の引揚げについて何らの措置も執らないまま、1946年4月ころ中国東北地方から撤退した。
その後の中国東北地方は国共内戦状態に入り、場所によっては戦闘状態が断続的に続き、混乱状態にあった。1949年の中華人民共和国の成立により、中国東北地方の全域が中華人民共和国政府の支配下に入った。
(2) 前期集団引揚げ
1945年から1946年までの冬季の中国東北地方においては、多数の日本人難民が、想像を絶する厳しい越冬生活を強いられた。1946年4月にソ連軍が撤退したが、中国国内は国共内戦状態にあった。1946年5月に、中国東北地方からの日本人の集団引揚げが開始され、国民党、中国共産党、米軍の間で日本人の送還に関する協定も成立し1949年までの間に100万人もの日本人が中国から日本に帰国した。この間、国共内戦の戦乱に巻き込まれ、再度の戦乱を経験した日本人も多数いた。1949年10月1日の中華人民共和国の樹立、日中国交断絶等の事情により、1949年10月に集団引揚げは中断された。
1949年以降しばらくの間は、中国政府の特別の帰国許可を得るなどして個別に引揚げが行われるようになった。
中華人民共和国の成立の時点においても、中国国内には、東北地方を中心に、数万人の日本人が取り残されていた。その中には、居留民団等の日本人集団を形成していたり、又は日本人であって中国側に留用(徴用)され、若しくは収監されているなど、中国当局が日本人と把握することが容易な者もいた。しかしながら、他方においては、原告らのように、日本人のコミュニティが崩壊したまま、生活のために単独で、または家族単位で中国人社会の中に入り、中国の当局からも把握が困難であり、取り残された日本人の側からも帰国情報を取得することが困難な状況に置かれた者も多数いた。このような状況に置かれた者が多数いることは、厚生省や外務省の担当職員も認識するところとなっていた。
厚生省発行の「続・引揚援護の記録」(1955年3月・非売品)(乙59)には、1949年前後の中共地域の状況の報告等として、次のような記載があり、当時の標準的な事情を伝えるものと認められる。
「東北各地の主要都市はもとより、僻村地区において、日本婦人並びに孤児の姿を見ないところはないといってよい。孤児はほとんど日本語を忘れ、一見しては、日本人と判別することが困難なほどである。孤児に対する現住民の態度は、比較的良好であるが、婦人は悲惨な状況に置かれている者も少なくない。延吉の例では、引揚を希望する者に対しては、「4カ年間の食費代を支払え」などと、身代金を請求しているところもある。帰国の希望はあっても、本人の自由意志によるところの引揚はほとんど困難で、救出以外に道はない。」(57頁)
「これらの非留用者のうちには、ソ連進駐当時の混乱・窮乏のうちに、親を失い又は行き倒れとなって、満人の家庭に拾われ、年少労働者又は妻妾となり、その後解放の機会を与えられない境涯にある者が相当あることが特記される。」(63頁)
「特に、哀れなのは婦女子であった。喰わんがために、やむを得ず、個々に中国人の家庭に入り、その実態は家婢として奴隷的な酷使の下に、何れに訴える方法も知らず、病にたおれるまで塗炭の苦しみに喘いでいる者である。辺境の地に相当数の難民が流浪しており、中には、自分の名前さえ忘れた日本人孤児の群も少なくない。しかも、こうした者にとっては、故国との消息交換もできず、天涯孤独、ただ動物的生存を続けるの外なき状況であった。」(63頁)
「なお、中共地区残留者に対する通信の検閲は、朝鮮動乱後漸次強化せられ、また日本人による左翼団体の活動によって残留の痛苦をうったえ、又は帰還の願望を率直に表明することができなくなっている。日本人による引揚嘆願も個々人としての外は禁ぜられており、日本からのラジオ放送聴取の禁圧、日本国内在住の親族の本人宛送付の一部出版物の没収および職場その他日常の生活を通じて組織的系統的に共産教育の普及徹底を図っており、残留者をして故国との縁を絶ち切る一連の処置がとられている。」(63頁)
なお、1949年のソ連からのシベリア抑留者の引揚げにおいて、引揚船中において騒乱事件を起こし、日本上陸にあたって天皇島敵前上陸などと叫び、革命歌を合唱し、上陸後引揚援護局内において合唱、引揚げ踊り等を行い引揚業務に協力せず、引揚列車による帰郷途中も騒ぎを引き起こし、東京を通過する者は東京において下車し、関係官庁を訪れ政治、思想、処遇等について集団陳情を行い、都内で示威運動をして気勢をあげるなどの常軌を逸した行動を繰り返すという事態が生じたことがあった(乙40)。その原因は、シベリア抑留中のソ連当局による思想教育にあったと推定される。
(3) 後期集団引揚げ
中国側の中国紅十字会と日本側の日本赤十字会、日中友好協会及び日本平和連絡会との間で、1953年3月5日、民間レベルの合意として、「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」(いわゆる北京協定)が成立し、中国地域からの集団引揚げが再開された。
1953年(第1次)から1958年(第21次)まで、集団引揚げが実施され、約2万6000人が帰国した。その間、中国紅十字会からの集団引揚げの打切通告などもあったが、1958年7月(第21次)まで集団引揚げが実施され、3万人余りの日本人が帰国した。
この後期集団引揚げにより帰国した者は、中国側に留用(徴用)されていた者(現地における行動は一定していた。)が主であった。日本人のコミュニティが崩壊したまま目につかない場所に取り残されている者、原告らのように生活のために単独で、または家族単位で中国人社会の中に入ったことにより中国人の社会に同化して生活している者は、あまり後期集団引揚げによる帰国ができなかった。
1958年5月の長崎国旗事件(日中友協会主催の中国切手展会場で1人の日本人青年が中国国旗を引きずりおろた事件)に端を発する日本の岸首相の発言を中国側が中国敵視と受け取ったことどから、中国紅十字会は、前記日本側3団体に対し、第21次の引揚げをもって団引揚げを終了する旨伝え、以後、個別引揚げに移行した。 政府レベルにおいては、この間、日本政府は、中国政府に対して、長期未帰還者の引揚問題に関して、様々な直接交渉等をしていたが、前記のような外交関係上の問題もあり、協議は進展しなかった。
1958年7月17日、衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会において、当時の厚生省引揚援護局長は、中華人民共和国内にいる日本人未帰還者について「6000ぐらいと考えていいんじゃないかというふうに思います。ただ、その内訳を見てみますと、いわゆる国際結婚した人、あるいは向こうの中国人にもらわれて行った子供というふうな、実質的に中国人になった人が大部分でございまして、この数字が今申し上げました6000のうちの5000くらいを占めるのではないか、かように考えております。あと残りの1000名程度がその他の人でございます。この人たちも、さしあたり帰る希望を持っておられる方は非常に少数であろう、かように考えておるわけであります」と発言しており、長期未帰還者の帰国について非常に消極的なニュアンスを伝えている。
(4) 未帰還者調査
日本政府においては、1946年以降、中国東北地方からの未帰還者調査を続けてきた。民間人(軍人、軍属に非ざる者)の未帰還者の担当省庁は、1954年3月までは外務省、同年4月以降は厚生省(未帰還調査部・後に援護局が担当)であった。
調査の方法は、主に日本国内における調査であって、当初は、引揚者からの情報収集(上陸地、帰郷後の定住地で実施)を行った。しかしながら、中国東北地方の北部の開拓団に所属していた者らについては、中国東北地方に取り残された後、その北部の目につかない僻村などにおいて中国人の社会に同化して生活している者が多く、中国東北地方の中南部にある都市部の居住者を中心とする引揚者からは容易に情報が得られなかった。そこで、開拓団関係者等からの情報収集(資料提供の嘱託)、日本国内在住の親族からの未引揚邦人届の提出要請その他の情報収集等を実施した。
中国政府及び中国紅十字会に対して中国国内における未帰還者調査への協力を依頼したが、国交断絶状態にあるなどの当時の国際情勢から、協力的な対応を得られなかった。中国における居所が判明している者に対しては、留守宅からの通信調査等を実施した。
1958年には、都道府県と連携し、関係団体との協力を得て、一斉特別調査を実施した。日本国内においては、帰還者に対して各種名簿を送付して消息資料の提供を求めた。
1959年に「未帰還者に関する特別措置法」(昭和34年法律第7号)が制定された。同法の主要な内容の一つは、失踪宣告に関する民法30条の規定の特例として、厚生大臣にも未帰還者に係る失踪宣告(以下「戦時死亡宣告」という。)の請求及びその取消しの請求ができる地位を与える(この厚生大臣の権限は、未帰還者の本籍地の都道府県知事に委任される。)とともに、請求をする厚生大臣に日本国内在住の親族の意向の尊重義務を課するというものであった。これは、戦時消息不明者の取扱いにつき、戸籍法89条(事変による死亡)の規定に基づく取調官公署による「死亡の報告」による死亡扱いは、死亡についての確実な資料のある者についてしか適用することができず、生死不明者は、失踪宣告制度によるほか方法がなかったところ、利害関係人が失踪宣告の請求をしない場合の特例を定めるべき社会的必要性があると認識されたからであった。
厚生大臣による戦時死亡宣告の請求は、日本国内在住の親族の意向調査を行い、それまでの調査究明の内容の説明等をした上で、日本国内在住の親族の納得と同意を得た場合に限り実施することとされ、また、戦時死亡宣告後に生存が判明したが利害関係人が宣告取消請求を行わない場合には、厚生大臣が宣告取消請求を行うこととされ、おおむねそのように運用された。
戦時死亡宣告が確定した者についても、死亡の確認がされたものではないことを考慮し、未帰還者調査資料は廃棄せず、継続して調査を行うこととされた。
(5) 個別引揚者に対する旅費国庫負担制度
日本政府は、集団引揚(船賃は無料)と異なり船賃が個人負担となる個別引揚者の経済的負担を軽減するため、1952年3月1日から、船賃を支弁することが困難な個別引揚者につき、日本国内在住の親族の申請により、個別引揚者の帰国に要する船運賃の国庫負担制度を開始した。
日本政府は、1962年6月1日から、中国において帰国を希望しながら居住地から出境地(出港地)までの旅費を支弁することが困難であるため事実上帰国できない者の引揚促進を図る趣旨で、日本国内在住の親族の申請により、居住地から出港地までの中国国内旅費を日本赤十字社を通じて帰国希望者に支給する制度を実施した。
しかしながら、これらの制度は、原告らのように、中国東北地方の北部の僻村や小都市で難民化したまま中国人に助けられ、日本人のコミュニティがなく、中国人の中で暮らす長期未帰還者の間では、ほとんど情報として広まらなかった。
(6) 帰還手当
日本政府は、第2次世界大戦終戦の翌年である1946年4月25日、事務次官会議において、「定着地に於ける海外引揚者援護要綱」(乙58の資料99頁)を決定した。その内容は、海外からの引揚者については日本上陸後おおむね1年間は援護を行うこと、援護の機関を地方の機関(都道府県、地方事務所、支庁及び市区町村)とすること、各地において一時宿泊施設や相談所を設置したり、就職や住居のあっせんを行うことなどであった。物資の優先配給等の援護策はあったが、一時金の交付は、援護の内容とはなっていなかった。
その後、引揚げが遅れて戦後長期間海外にとどまらざるを得なかった者も出てきたので、1953年2月1日以降に日本国内に永住の目的をもって引き揚げた引揚者に対し、日本政府から、一時金として、帰還手当1万円(子供は5000円)が支給されることとなった。この帰還手当の額は、1972年の日中国交回復までは、据え置かれたままであった(乙61)。
帰還手当は、日本国内において新たに日常生活に必要な物品一式をそろえるのに相応の費用がかかることを考慮して作られた制度であるとみられる。制度の趣旨としては、日本語の能力もあり、日本の社会、生活習慣にも慣れている者が、日本におけるとりあえずの日常生活の基盤を整えるために必要と見られる標準的な額を援助するという点にあるとみられ、日本語の習得や日本の社会習慣に慣れていくために必要な経費を支弁するものとはみられない。
(7) 原告Aの中国における生活状況
原告Aは、いつも日本に帰りたいと思っていたが、周囲に日本人はおらず、中国東北地方の南部(南満州地域)では集団引揚げが開始されていることも分からず、帰国のために何をしたらよいのか全く分からなかった。原告Aは、引き取って貰った男性の意向に従い、1950年にその男性の息子と結婚した。当時の原告Aにとっては、助けてもらった人の意向に逆らうことは、事実上困難であった。その男性の保護下から放り出されると、また難民となり、冬期には最低気温が氷点下30度以下にもなる気候の下で、生きていける保障はなかった。自己の意思により進んで国際結婚をして中国に残ることを選択したものではなかった。 原告Aは、夫との間に1951年に生まれた長女をはじめとして、2男3女のこどもをもうけた。結婚当初は内蒙古興立屯に住み、1960年には遼寧省に、1963年には撫順市に転居した。
1958年には、はじめて日本に帰国できるという情報が入った。しかし、子供を置いて夫と別れ、原告A1人で帰国しなければならないという条件であることが分かり、生まれたばかりの子をおいていくことはできず、帰国を断念した。原告Aは、夫の同意が得られたので、中国国籍は取得せず、日本国籍のまま、日本人として中国国内における外僑登録をした。
原告Aは、いつか日本に帰れる日のために日本語を忘れないようにしようと思い、そのために、一人でひんぱんに日本語の歌を口ずさんだりするなどのたゆまざる努力を継続した。日本語の音声情報も日本語の文字情報も入ってこず、周囲に日本語を話す者がいないという環境に長期間置かれた者には、日本語能力の著しい低下が生じるのが通常であるが、原告Aは、このような通常並はずれた努力によって、日本語能力がほとんど低下しなかった。
(8) 原告Bの中国における生活状況
原告Bとその一家は、いつも日本に帰りたいと思っていたが、新聞も来ない田舎で、情報が全くなかった。国共内戦下で、中国東北地方の南部(南満州地域)では集団引揚げが開始されていることも分からず、帰国のために何をしたらよいのか全く分からなかった。
原告Bが世話になった中国人の家庭も元々貧しい家庭であり、原告Bの妹は口減らしのために別の中国人の家に養女に出され、1948年1月には原告Bも口減らしのために次姉の夫の従兄(15歳年上)と婚姻した。冬には氷点下30度以下にもなる環境の下で、異国人である女性が一人で生きていくことは不可能であり、生きていくためにやむを得ず結婚したものであった。自ら進んで国際結婚をして中国に残ることを選択したものではなかった。
原告Bは、夫との間に1男5女のこどもをもうけた。結婚当初は方正県で農業を営んでいたが、1956年の夏に松花江で大洪水があり、畑などの財産を失った。その後、伊春市浩良河に移住し、夫は職を転々としたが、生活は安定しなかった。
原告B、その母、姉、妹、弟らは、日本に帰りたいと思い続けてきた。1954年ころ、兄が生きて帰国していれば迎えに来てくれないかと思い、岩手県O村役場に手紙を出した。役場から返信が来て、兄が生存して帰国していることは分かったが、兄からの返信はなかった。その後も、日本に帰国するためにどうすればよいのか情報が全くない状態であった。1958年に、中国の公安局に日本人登録をした。日本人登録をしておけばいつかは日本に帰れるのではないかと思っていた。日本人登録は毎年更新が必要であったが、鉄道の切符を買う金もないので、更新時期の12月には、貨車に乗って公安局に行った。
原告Bの母は、原告Bの次姉が嫁いだ中国人一家と同居していたが、1959年に、日本に帰国することができないまま、中国で死亡した。
原告Bは、日本語の音声情報も日本語の文字情報も入ってこず、周囲に日本語を話す者がおらず、中国語を用いて生活せざるを得ないという環境の下に置かれ、日本語の能力が徐々に衰えていった。他方、中国語の方は、家庭内の日常会話は何とかできるようになっていったが、読み書きは、学習機会もなく、不自由なままであった。
(9) 原告Cの中国における生活状況
原告Cは、いつも日本に帰りたいと思っていた。
1947年ころ、当時13歳であった原告Cは、中国共産党員に連行されて地方工作員の子守役として働くことになり、ここで父を始めとする家族と離ればなれになった。原告Cは、国共内戦の時期を中国共産党軍と共に移動しながら、子守役として働いていた。ハルピンの保育園の保母として働いている時期に、すぐ上の姉(7女)と再会した。なお、原告Cの父(1893年生)は、日本に帰る希望もかなわず、1960年ころ中国で死亡した(乙143の3)。
1951年ころ、原告Cは、すぐ上の姉(7女)に誘われて黒竜江省の鶴崗に行き、寮母などとして働いたが、給料は少なく、食べていくのがやっとの生活であった。日本への帰国情報が全くなく、帰国の見通しも立たない1952年3月、当時18歳の原告Cは、11歳年上の男性と結婚した。帰国の見通しも立たない中、厳しい気候環境の下、異国で身寄りもない女性が一人で生きていく将来展望も持てず、やむを得ず結婚したものであった。自ら進んで国際結婚をして、中国に残ることを選択したものではなかった。
1953年3月には、長男が誕生した。長男誕生後の1953年夏ころ、地元の公安局に日本人妻を持つ中国人男性多数が集められ、日本人女性を日本に帰すこと、ただし、夫と離婚し、夫と子供は中国に残ることが条件となることが伝達された。原告Cは、生まれたばかりの子を置いて日本に帰ることはできないと考え、帰国しなかった。すぐ上の姉(7女)は、たまたま日本人の未帰還者男性と結婚していたため、この時に帰国した。
原告Cは、他の姉たちとは音信不通であった。原告Cの居住地域には、周囲に日本人はほとんどいなかった。日本語の音声情報も日本語の文字情報も入ってこず、中国語を用いて生活せざるを得ないという環境の下で、日本語の能力が衰えていった。
原告Cは、日本国籍のままでいると年に1回の公安局への申請手続きに行くのにたいへんな時間がとられること、原告Cが日本国籍のままだと自分や子ども達にいろいろ支障があるから中国籍に変えてほしいと配偶者に希望されたことから、1955年に中国籍を取得した。原告Cは、5男3女に恵まれた。
それにもかかわらず、1966年から始まる文化大革命の時代には、原告Cの夫は、日本人を妻にしたという理由で差別され、強制労働にもかり出され、子供たちもひどいイジメを受けた。
(10) 原告らの帰国意思
被告は、原告らは、従前(少なくとも1972年の日中国交回復前)は日本への帰国意思を有していなかった者であり、そのような者に対しては、被告は、帰国旅費国庫負担申請がされるまでは帰国の措置をとる義務を負わないと主張する。当裁判所は、1945年から帰国までの間原告らは全員が帰国意思を継続的に持ち続けていたものと優に認定することができ、被告の主張は、証拠上の根拠がきわめて薄弱であって理由がないと判断するものである。その理由は、以下のとおりである。
ア 原告Aの帰国意思の有無について
被告は、原告Aの帰国意思欠如の証拠として、資料通報名票等(乙10から13まで)の記載、殊に1967年4月に東京都から厚生省に送付された資料通報名票(乙13)の「中国人と結婚し5人の子供あり、帰国の意志はない」との記載を援用する。また、これに反する原告Aの供述に対する弾劾証拠として原告Aの親族(中国に取り残され、中国で生活中の者)が1967年3月に東京都に宛てた手紙(乙145)に原告Aにつき中国人と結婚し5人の子供がいて帰国はしない旨の記載があること、手紙(乙146。被告は、原告Aが1967年2月に日本国内在住の妹Dに宛てたものであるかのように主張する)に「私の一生を中国の人民と一緒に革命に斗争しようと決心した」との記載があることを援用する。
しかしながら、1967年4月の資料通報名票(乙13)は、原告Aに対する直接の調査の結果を記載したものではなく、原告Aの親族(姉の息子)からの手紙(乙145)を原資料とするものとうかがわれるところ、そもそも、この手紙自体は原告Aの作成になるものではなく、伝聞証拠にすぎない。この手紙の作成者が原告Aの意思をどのようにして確認したのか全く明らかではなく、原告Aの帰国意思の有無に関しては証拠価値が皆無である。また、この原資料の記載(中国人と結婚し5人の子供がいて帰国はしない)からいかなる援助措置が整えられても中国に残留するという原告Aの確定的意思を推認することが経験則に反するものであることも、また、明白である。
まして、弾劾証拠として提出された手紙(乙146)については、原告Aは書いた記憶がないと供述しており、他に原告Aが書いたことを認めるに足りる証拠はなく、原告Aが作成したことの証明はないものというほかはない。なお、仮に原告Aが書いたものであると仮定しても、当時の中国の世相は、文化大革命の嵐が吹き荒れ、かつ、たとえ日本語で書かれた手紙であっても、いつどこで手紙を検閲されるか分からないという情況であって、そのような時代背景を考えるとき「私の一生を中国の人民と一緒に革命に斗争しようと決心した」という当時の中国政府の政策に迎合的な記載を作成者の真意に基づくものと推認することが、吾人の経験則に反するものであることは明白であり、このことは論をまたないところである。
さらに、この手紙の後の方には、「日文をしっかり勉強して後からお母さんが行くことが出来なかったら私が行かう懐しい姉娘Dさんの下へと決心して居ります」という記載もあるのである。仮に、担当の公務員がそのような記載のある手紙を見たとして、当該記載を作成者の確定的な帰国意思の放棄と断定してその後の公務を進めるとすれば、それは、援護業務を担当する公務員としての職務上の注意義務違反であるといえよう。
乙152(原告Aが日中国交回復後の1975年に厚生省の担当官に宛てた書簡)中に「私姉妹30年の間国に帰ることもすっかりあきらめていたのです」という記載があるのも、帰国したいという強い願いを持ちつつ、日中国交回復までの客観的情勢からそれは困難であると諦観していたことを示すものであって、このような記載から日中国交回復前の時期における帰国意思の欠如の事実を推認することが、吾人の経験則に反するものであることも、また明白である。
原告Aが、1945年以降、その内心において日本に帰国したいという強い願いを持ち続けていたことは、その本人尋問の結果から明白である。吾人の経験則に照らせば、そのような願いを持ち続けていたものと、容易に推認することができる。被告の主張は、証明力のある具体的な証拠に基づくものではなく、およそ採用できない。まして、前記のような証明力のほとんどない証拠に基づき、帰国意思の欠如という長期未帰還者の心情を著しく害する主張・立証をする意味がどれほどあるのか、当裁判所としても、甚だ理解に苦しむところである。
イ 原告Bの帰国意思の有無について
被告は、原告Bの帰国意思欠如の証拠として、資料通報名票等(乙16から20まで)の記載、殊に1961年の「生存残留者昭和36年度資料照合打ち合わせ票」(乙20)に原告Bから日本国内にいる親族宛に帰国を希望しない旨の内容の通信があったとの記載があること、現地結婚したらしいとの記載があることを援用する。
しかしながら、当時原告Bから日本国内にいる親族宛に帰国を希望しない旨の内容の通信があったことを認めるに足りる証拠はない(前掲乙20は当該通信があったことを直接証明するものではない。)。
当時29歳で結婚して小さな子もいることが予想される原告Bに対して、帰国の援助があるという条件なしで帰国の意思を問うても、遠い日本まで、費用、手続を自ら負担して自力で帰国することは難しいという反応が返ってくることは容易に想像できることであり、この程度のことを帰国の意思の確定的な放棄と解するのは無理であるというほかはない。前記打ち合わせ票(乙20)にも「一応意思不詳としておく」との打ち合わせ結果が当時の担当公務員により記載されているのである。(乙147の長姉Eの書簡にも帰りたいと書いてある)
原告Bが、1945年以降、その内心において日本に帰国したいという強い願いを持ち続けていたことは、その本人尋問の結果から明白である。吾人の経験則に照らせば、そのような願いを持ち続けていたものと、容易に推認することができる。被告の主張はおよそ採用できない。
ウ 原告Cの帰国意思の有無について
被告は、原告Cの帰国意思欠如の証拠として、生存残留者昭和36年度資料照合打ち合わせ票等(乙24・25)の記載、殊に1961年の「生存残留者昭和36年度資料照合打ち合わせ票」(乙25)に「30.8.2姉Fの通信によれば幸福に暮らし残留希望」との記載があることを援用する。また、これに反する原告Cの供述に対する弾劾証拠として当時中国在住の原告Cの長姉の夫が1965年6月に日本国内にいる原告Cのすぐ上の姉(7女)に宛てた手紙(乙150)に「Cはゼッタイに帰りません」との記載があることを援用する。
しかしながら、原告C本人に対する直接の調査結果はないのであり、原告C本人からの直接の日本国内への通信もなく、長姉の夫からの手紙(乙150)の主題は、原告Cの2つ上の姉(6女)が虐待され悲しい生活をしているので日本へ帰国させたいことであり、原告Cについては、わずか一行の前記記載があるだけにすぎない。この記載も、日本への帰国を希望しない理由の記載は一切なく、結論だけが記載されているものにすぎない。この程度の情報をもとに、原告Cが帰国の意思を確定的に放棄したと解するのは無理であるというほかはない。このような資料をもとに、原告Cの確定的な帰国意思の欠如を断定してその後の公務を進めるとすれば、それは、援護業務を担当する公務員としての注意義務違反であるといえよう。
原告Cが、1945年以降、その内心において日本に帰国したいという強い願いを持ち続けていたことは、その本人尋問の結果から明白である。吾人の経験則に照らせば、そのような願いを持ち続けていたものと、容易に推認することができる。被告の主張はおよそ採用できない。
5 日中国交回復後の長期未帰還者の帰国状況
(1) 国交回復前の長期未帰還者の状況(甲133等)
中国に取り残され、長期間の中国における生活を余儀なくされた長期未帰還者(日本婦人、日本人孤児ら)は、中国社会で「日本鬼子、小日本」などといわれて侮蔑されることも多かった。特に、1966年に始まる文化大革命の時代には、日本人というだけで紅衛兵にスパイとして街中を引き回されるなどの虐待的扱いを受けたり、下放され、農村部や炭坑などで厳しい労働を命ぜられたりするなどのひどい目にあうことも多かった。長期未帰還者本人のみならず、長期未帰還者と結婚した中国人や、長期未帰還者の子供たちも、同様の目にあうことが多かった。
日中国交回復時(1972年)は未だ文化大革命が続いていた時代であり、長期未帰還者たちは、このような日本人差別、被虐待経験があるため、将来も、自分達や自分達の子孫が日本人の血が混じっていることを理由に中国社会で文化大革命時代のような待遇を受け続けるのではないかという思いから、中国社会に希望が持てず、日本への帰国を希望する者も多かった
(2) 国交回復直後の長期未帰還者の状況
1972年に日本と中国の国交が回復した。
日中国交回復に伴い、中国国内に在北京日本国大使館が開設された。原告ら長期未帰還者の中にも日本に帰国できるという期待を持つ者が増加し、在北京日本国大使館にも長期未帰還者から帰国についての問い合わせの手紙が殺到した(乙61の397頁には永住帰国や一時帰国(乙40は一時帰国のみ)を希望する手紙が多数よせられ始めたとあるが、長期未帰還者は永住帰国や一時帰国という制度を知らず、とにかく帰りたい、どういう方法があるのかという問い合わせの手紙が主流であったと認められる。)。
しかしながら、日本政府は、国交正常化を契機としては、長期未帰還者の発掘、所在調査、永住帰国のための援助について、格別の新たな対策を講じることはなかった。既に説示した日本国内在住の親族の申請による帰国船賃(日中航空協定による航空便運行開始後は航空運賃)の国庫負担制度、居住地から中国出国地までの国内運賃の国庫負担制度及び帰還手当の制度を、従来のとおり維持し続けただけであった。
また、これらの制度の存在及び内容を、中国国内に取り残された長期未帰還者に対して、直接周知させるための格別の方策も、とられなかった。
日本政府は、1973年3月に、在北京日本国大使館に、長期未帰還者等の名簿(未帰還者2963人、戦時死亡宣告により除籍された者1万3564人、自己の意思により帰還しないと区分されて未帰還者から除かれた者1040人)を送付したが、日中国交回復直後の数年間のうちに、未帰還者調査につき、名簿の送付のほかにどのような具体的な調査を行ったかどうかは、判然としない。
中国側からは、1973年5月に、廖承志中日友好協会会長から「現在、中国には、中国人と結婚したり、その家族となっている日本人が約5000人いる。このなかには、中国に永住したい者、帰国したい者、あるいは一時的に里帰りしたい者がいる。われわれは、このいずれについても希望にそうよう努力している」という発言があったが、日本側からは、長期未帰還者の所在確認、永住帰国又は一時帰国の希望調査、永住帰国の場合の同伴家族の範囲とこれに伴う中国に残る家族との調整、帰国後の自立支援措置などの永住帰国のための環境整備などの新たな政策の立案、実施は、ついに行われなかった。
(3) 脚光を浴びる孤児問題と影の薄い残留婦人問題
1945年当時既に10歳以上で自己の身元を明らかにすることができる原告らと異なり、1945年当時乳幼児又は年少児童であったため自己の身元を明らかにすることができない長期未帰還者(中国残留孤児)も多数存在していた。これらの孤児の身元調査は、国交回復前から民間篤志家の間で独自のルートを通じて実施されていたところであった。そして、現地調査が実施しやすくなった国交回復後においては、1973年にこれら篤志家が結成した「日中友好手をつなぐ会」を中心として、民間における活発な肉親捜しの活動が行われるようになり、これに呼応してマスコミ各社も身元未判明孤児の問題を報道し、1974年からは孤児の身元判明のための手掛かりの具体的内容を広く報道するようになった。日本政府においては、遅ればせながら、身元解明のために、保有資料による確認調査、現地調査等を行い、1981年からは孤児の訪日調査も実施した。
しかしながら、日本政府は、日中国交回復後に身元が判明した日本人孤児の永住帰国策については、しばらくの間は格別の新たな支援措置を講じなかった。
また、身元未判明の日本人孤児の永住帰国策については、長年の間、何らの支援措置を講じてこなかった。
当時の日本国内においては、孤児の親族探しに社会的注目が集まる一方で、1945年に13歳以上であった原告ら長期未帰還者(中国残留婦人)の帰国支援問題、帰国後の自立支援問題に対しては、社会的関心が集まらなかった。日本政府(厚生省)は、身元未判明孤児の親族探しを優先させた。そして、身元が判明している者、特に1945年に13歳以上であった残留婦人たちの帰国援護策や帰国後の自立支援策は、これらを孤児の親族探しと同時に行うことができない格別の事情が存在したわけではないにもかかわらず、後回しにされた。
1985年2月22日には、当時の厚生大臣が、中国残留孤児とその親について「まあ見捨てて帰ってきたわけですから」という発言をして、問題となった(甲93の3)。孤児の身元確定のための血液検査費用が、国庫負担ではなく当事者負担であることに関連しての発言であった。これによって、衣食に乏しく、医薬品も暖房もない状態で越冬を余儀なくされた日本人難民集団の中で、体力の弱い乳幼児は、病死、凍死、衰弱死する危険性が極めて高く(前記3(3)において説示したとおり、満州国の首都とされた長春においてすら、乳幼児の半数以上が越冬中に死亡しており、北部奥地の日本人難民収容所においては、もっと悲惨な結果が生じていたものと推認される。)、中国人に預けたり中国人に拾ってもらうということは致死率の非常に高い高度の危険状態からの脱却を意味し、現地人に託されなければ死亡していた可能性が高い者が孤児であるという事実を、所管大臣が十分に認識していないことが明らかになった。なお、被告は、厚生大臣発言当時は血液検査費用は国庫負担であったと主張し、その証拠として乙82(厚生省の昭和60年度予算要求書。孤児の血液検査費用として要求額120万円(単価6万円)の記載がある。)を提出する。しかしながら、前記厚生大臣発言のあった1985年(昭和60年)2月は、会計年度としては昭和59年度であって(財政法11条)昭和60年度ではなく、昭和60年度の予算要求書にすぎない乙82は大臣発言当時血液検査費用が国庫負担であったことについて証拠価値を持たない。また、乙82の要求額120万円の横にカッコ書きで0円という記載があることからすると、大臣発言のあった昭和59年度の予算においては血液検査費用の国庫負担予算はなかったのではないかとの疑いもあるところであり、他の証拠(甲93の4)に照らしても、乙82により大臣発言当時血液検査費用が国庫負担であったことの証明があったとはいい難い。
これに先立つ1975年3月ころ、孤児の親族探しを行っている民間の篤志家たちが、参議院社会労働委員会の議員たちに対して孤児問題についての説明をしたところ、議員から「あんたたちがおいてきて、いまさらそんな」と言われたという報告もある(甲93の1)
「中国残留日本人孤児問題懇談会」(いわゆる厚生大臣の私的諮問機関)は、1982年8月26日、「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書(乙101)を厚生大臣に提出した。
この報告書は、<1>孤児の親族探しの計画的推進(1983年度以降3か年計画の訪日調査で親族捜しを完了させる。1回の調査対象孤児60人程度、年3回)、<2>養父母等の扶養(扶養費の貸付制度、送金代行制度)、<3>養父母や中国社会に対する感謝、<4>孤児を帰国後直ちに一定期間入所させ、集中的に日本語教育を含めた生活指導を行う帰国者センターの設置など帰国後の定着化対策、<5>身元の判明しない孤児の受入れ(身元引受人制度の発足)、<6>ボランティア団体による民間援護活動の推進を提言するほか、次のような内容の記載がある。
「孤児がその家族とともに日本に帰国することを望む場合には、政府、国民が一体となって、その受入れ、日本社会への定着のための援助を行う必要があることはいうまでもない。」
「社会体制が異なっていることもあり、中国にいる孤児たちの間に、日本社会がバラ色で、日本に帰ってさえくれば幸せになれるかのような、事実と相違した情報も流布されているようである。日本は自由経済体制のもとで経済発展をしてきたが、それだけに、自分の生活は自分の手で築いていかなければならず、既に中年に達している孤児が、言葉や社会習慣の異る日本で職を得て自立していくことは決して容易ではない。政府が帰国した孤児の定着のために根幹的な対策を進め、地方公共団体やボランティア団体が新たに地域住民となった孤児たちのためにあたたかい援助を行うことが必要なことはいうまでもないが、それはあくまでも側面的な援助であって、最終的には孤児自らが努力して困難を克服していかなければならない。日本に帰国したほうが幸せか、中国に留まったほうが幸せかは、そのような日本社会の実情をよく知った上で、孤児自身がよく考えて判断することであるが、日本国民も孤児の判断を誤らせないように、日本社会の実情を孤児に正しく理解させるよう努力しなければならない。孤児も、帰国を決意する以上は、多くの困難を乗り越えていくだけの覚悟が必要であろう。」
日本は、国家としても国民レベルにおいても、日本語を知らない成人に日本語を教え、日本の生活習慣を教えるということに慣れておらず、その大変さがどれほどのものか、一般的な知識として普及しておらず、また、これらの点を効率的に教授するためのノウハウの蓄積も存在しなかった。日本語の能力が著しく低下し、生活習慣も中国風の意識になっている長期未帰還者を日本の社会に定着させるためには、日本語教育や就労支援についてどれほどの援助が必要か、この懇談会においては、その大変さが十分には理解されていなかったものとうかがわれる。この報告書の「側面的な援助」という表現は、日本語の能力が著しく低下し、生活習慣も中国風の意識になっているが、日本への強い帰国意欲を持つ終戦当時13歳以上であった長期未帰還者に対する日本語教育や就労支援等の措置の基本を定めるものとしては、いささか消極的である。
18年後の2000年には、厚生省に設置された中国帰国者支援に関する検討会が「中国帰国者支援に関する検討会報告書」(甲105の6)を出しているが、その中では、下記のように、前記懇談会報告書(乙101)をもとに立案実行された施策が必ずしも成功しなかったことを裏付ける記載もあるのである(なお、甲105の6の報告書の記載にもかかわらず、帰国者の日本語教育対策、就労対策、生活保護の運用等が問題を多々抱えるものであることは、後記説示のとおりである。)。
「帰国後当面の支援から継続的支援へ
先にも述べたように、帰国者本人の高齢化が進む一方、2・3世を同伴して帰国する者も増加し、現在では、国費帰国者の半数程度が2・3世となり、帰国者の姿は多様化している。このため、帰国者の自立支援に当たっては、帰国者の抱える課題に応じ、きめ細かく継続的に取り組むことが必要である。
現在の援護施策は、帰国後当面の支援に重点が置かれ、帰国後3年以内に限定されている。
しかし、帰国者の姿が多様化し、日本社会に速やかに適応することが難しくなっていることから、従来の帰国後3年間に限られた施策を転換し、継続的な支援を実施するべきである。」
「高齢化や2・3世の増加に応じた支援
高齢化した帰国者や、障害のある帰国者については、地域社会での孤立も指摘されていることから、経済的な自立に限らず、地域での交流を保ちながら社会の一員として生活するという意味での社会的ないし精神的自立を図ることを主として支援することを今後の施策の基本とするべきである。
また、就労可能な2・3世については、自身の社会的、経済的自立を実現するとともに、まずは精神的に、さらに可能な限り経済的にも帰国者本人の世帯の支えとなる役割を期待する。このため、これらの人々や就労可能な年齢層の帰国者に対しては、可能な限り就労が実現できるように施策を講じるべきである。
帰国者本人が別途日本に呼び寄せる2・3世について、これらの人々は、一般には両親の一方を中国人とする中国国籍の成人であり、帰国者支援法による帰国援護の対象にはなり得ない面はある。しかしながら、高齢となった帰国者本人を囲む家族的連帯関係を考慮すると、帰国者本人の精神的・経済的支えとなる可能性のある2・3世については、日本入国後の社会的適応自立促進のための支援施策が必要であり、国、地方公共団体において可能な範囲で弾力的対応が望まれる。」
「日本語習得
現在の日本語研修の期間内では日本語が十分に習得できていない現状及び帰国者の姿が多様化していることに鑑み、進度別、目的別など帰国者のニーズに合わせ、3年間に止まらず継続的に日本語を習得できる体制を確保する必要がある。
年齢的に就労が可能な帰国者が安定した職場に就労するためには、職業能力開発施設等において技能を修得することが大きな役割を果たすと考えられる。
そこで、これらの者が職業能力を向上する機会を得られるよう、こうした施設での訓練を十分に理解できるような水準の日本語の習得の途を開くべきである。
他方、高齢となった帰国者については、今後、福祉サービスの利用が必要となること等が考えられ、そのためにも、日常生活を営むことのできる程度の日本語を習得できるよう、継続的に研修を受けられる体制が求められる。」
(4) 一時帰国援護
長期未帰還者の永住帰国については目立った支援策を講じなかった日本政府も、墓参、親族訪問等の目的での一時帰国については、1973年10月、日本国内に在住する親族の申請により、一時帰国希望者の帰国旅費を国で負担するという援護措置を実施することとした。
しかしながら、1人1回限りの援護措置として実施されたため、一時帰国を終了して日本から中国に旅立つ長期未帰還者は、もう二度と日本の土を踏むことはできないのではないかと非常につらく寂しい思いをしたのであった。原告Aの次姉も、原告Bも、そのような立場に置かれたものである。原告Aが永住帰国への切り替えを決意した背景にも、この事情があった。
1987年になってようやく、前の一時帰国から10年経過すれば再度の一時帰国ができるようになった。その後、前の一時帰国からの経過年数が徐々に短期化され、1995年以降は前の一時帰国から1年経過すれば再度の一時帰国ができることとしている。
一時帰国をするに当たっても、身元判明者については、帰国旅費申請ができるのは長期未帰還者本人ではなく、その日本国内在住の親族に限られ、かつ、日本国内在住の親族がいわゆる身元保証、身元引受をすることが必要であり、日本国内在住の親族が身元引受をしない場合であってボランティア団体等が身元引受を行うときにおいても、日本国内の親族の一時帰国についての同意書を徴求することが必要とされた。このような状態が、日中国交回復後も長らく続き、自らの一時帰国について日本国内在住の親族の同意を得られない長期未帰還者らは、一時帰国すらもできないありさまであった。
また、身元未判明者の一時帰国は困難を極め、訪日調査に参加できるほかは来日が事実上不可能であった。ようやく1985年から、後記6(10)記載の身元引受人制度が発足して、一部の身元未判明者に永住帰国の途が開かれるようになった。1994年に至ってやっと、祖国訪問との位置付けにより一時帰国旅費の援護も実施されるようになった。
一時帰国者が一時帰国中に永住帰国に切り替えるためには、日本国内在住の親族等の身元引受人が永住帰国に同意することが必要であるという運用が、現場の第一線では当たり前のこととして通用していた。
日本政府は、一時帰国したもののその際に永住帰国を希望しなかった長期未帰還者については、自己の意思により中国に止まることを選んだ者に該当すると判断し、永住帰国のための旅費の援護その他の援護の対象外とするという対応を行い、そのような対応は1979年まで続いた。一時帰国したものの永住帰国を希望しなかった長期未帰還者は自己の意思により中国に止まる者に当たるという事実認定は、後記(5)で説示する親族による受入の困難その他の本判決説示に係る各種事情を前提として考えていくとき、吾人の経験則に反している。1979年までの被告のこのような対応は、長期未帰還者が戦後30年以上の置かれてきた環境の実態に即さないものといわざるを得ないところである。
(5) 日本国内の親族による帰国者受入の困難
長期未帰還者の日本国内の親族は、長期未帰還者の帰国受入に必ずしも積極的ではなく、むしろ客観的に受入が困難であるため、長期未帰還者受入に消極的な者が多いのが、日中国交回復時の実情であった。
中国東北地方への移民は、家族単位で一家そろっての移住であったものが多く、長期未帰還者の父母も日ソ開戦時に中国に居住していたのが通常である。長期未帰還者の父母は、日ソ開戦により戦死し、またはその後の難民越冬生活中に病死または衰弱死した者が少なくない。また、死を免れても、そのまま未帰還者となった者も多い。特に、終戦時に10代の年齢に達していた原告らの世代の開拓団員の父母は、原告B及び原告Cの父のように、父も根こそぎ動員を免れ、そのまま取り残された者が多い(集団引揚ができなかった父母世代の多くの者は、帰国を果たせずに、中国で死亡した。)。長期未帰還者の父母が終戦後日本に引き揚げることができた場合であっても、戦後30年の経過により、死亡し、あるいは老齢により現役を引退して子や孫世代の扶養を受けているのが通常の事態である。したがって、長期未帰還者の日本国内在住の親族であって、長期未帰還者を受け入れる能力を有するものは、傍系親族、すなわち、兄弟姉妹、甥、姪、叔伯父、叔伯母などであるのが通常であると認められる。
第2次世界大戦の終戦からの長い年月の経過により、長期未帰還者にも新たな家族ができるように、これらの傍系親族にも新たな家族ができるのが通常である。他方、傍系親族が長期未帰還者の帰国を受け入れるには、傍系親族又はその配偶者等の家族が帰国した長期未帰還者の世話のために多くの労力を注がなければならず、その範囲は、帰国者の官公署の手続、住居の手当て、日本語教育、就職、帰国者子女の学校関係の保護者代わり、病気のときの様々な世話など、おびただしい分野に及ぶ(6(10)参照)。ことに住居の確保はたいへんであって、同居する場合の居住空間の捻出又は別居する場合の部屋探し及び敷金、礼金、家賃等の負担をしなければならないことが多い。そのほか、生活費援助その他の経済的負担の増加に耐えなければならない。これらの手間や支出の増加に耐えられる家庭はさほど多くないとみるべきであろう。
長期未帰還者と直接血がつながっていない配偶者の理解を得ることも、長期未帰還者の傍系親族にとっては、たいへんなことである。
移民を送出した第2次世界大戦前の日本の農村も変化し、長期未帰還者の親族の都市部への流出や、農村自体の都市化も進んでいった。戦前の農村は、近所の助け合いもあり、住空間については現在よりも融通がきき、かつ余裕があるものであり、食についても現在よりも自給自足率が高く融通がきいたものである。
戦後の高度成長期を中心に、日本の農村部の経済生活も、貨幣経済化率が高まって自給自足率が低下し、自給自足部分に生まれる余裕がなくなっていった。都市、農村の住空間も、床面積、空間、構造の面で、融通がきかず、余裕のないものに変化し、またプライヴァシー重視の傾向という意識の面での変化も進んで、予期せぬ新たな住人の同居に耐えうる住居が減ってきたものである。
第2次世界大戦の終戦から長い年月が経過し、日中国交回復までの世界情勢はほとんどが東西冷戦期間であった。資本主義圏と社会主義圏の間の交流のパイプは細く、冷戦の終局の見通しもついておらず、中華人民共和国との国交回復の見込みもないというのが、1950年代、1960年代の大方の見方であった。したがって、長期未帰還者の中国からの帰国は、将来にわたり極めて困難であるというのが日中国交回復直前までの社会通念であった。
このような事情を背景として、終戦後まもない時期においては帰還にそなえた準備をしていても、集団引揚も打ち切られたころからは次第に帰国は到底無理であると思うようになった日本国内在住の親族は、少なくないものとみられる。そして、長期未帰還者の生存が分かっていても、帰国は無理という前提で、自己の人生設計、生活設計をしてしまっていることが自然な流れとなっていった。兄弟姉妹や甥、姪などの傍系親族は、長期未帰還者の世話を焼くための物心両面における準備をしてこなかったのが通常であると考えられる。
第2次世界大戦後30年も40年も経過し、日本の社会も前記認定のように著しく変化した状況下において、長期未帰還者の世話の負担を長期未帰還者の傍系親族に丸抱えさせることには、無理があることは否めないところである。第2次世界大戦後30年以上を経過して、都市化、物価高、核家族化が進んだ日本国内においては、別の一家を余分に自宅に受け入れたり、別の一家の生活費の援助をしたりするだけの生活の余裕を持った家庭は少なくなっていったものである。
原告Aが日本国内在住の妹から一時帰国者としての帰国旅費国庫負担申請しかしてもらえず、帰国後に妹を拝み倒して永住帰国者としての身元保証人になってもらったことや、原告B及び原告Cについての永住帰国者としての帰国旅費国庫負担申請をしてくれたのは、長期未帰還者としてのつらい境遇を共通の体験として有する先に帰国した姉妹であって、昭和20年代に引き揚げて日本国内に在住する親族からは永住帰国者としての帰国旅費国庫負担申請をしてもらえなかった(原告Bは一時帰国者としての帰国旅費国庫負担申請をしてもらい、1975年に一時帰国したが、数箇月後に中国に戻ることを余儀なくされた。)ことも、日本国内の親族に長期未帰還者の帰国に消極的な者が多かったという前記認定事実を裏付けるものである。
親族による受入を優先させる論拠として、民法上の扶養義務が持ち出されることがある。確かに、民法877条1項は、直系血族及び兄弟姉妹に互いに扶養をする義務があると宣言している。しかしながら、その扶養義務の内容については、直系血族のうち親とその未成熟子の間においては生活保持の義務(相手の生存を自分の生存そのものとして維持する義務)があるとされるのに対し、兄弟姉妹間においては生活扶助の義務(自分の生活に余裕がある場合にだけ相手の困窮に援助する義務)があるとされている。日本国内在住の親族のうち兄弟姉妹は、長期未帰還者に対して、後者の生活扶助の義務を負っているにすぎない(甥、姪、伯叔父、伯叔母に当たる日本国内在住の親族は、民法877条2項により、特別の事情がある場合に限り扶養義務を負わされる可能性があるにすぎない。)。また、日本人間の扶養の順位、程度及び方法は、日本国内の家庭裁判所の審判によって定められるのが通常であるが(民法878条以下)、日本国内在住の親族が長期未帰還者を日本に引き取って扶養してくれない場合に、長期間中国に取り残されたまま日本語の能力が低下し、扶養義務の準拠法にも日本の司法制度にも明るくない長期未帰還者が、中国から日本の家庭裁判所に対して、扶養に応じてくれない日本国内在住の親族を相手方として、扶養の順位、程度及び方法を定める家事審判の申立てをすることが、およそ非現実的なものであることは明白である。民法上の扶養義務は、長期未帰還者にとっては、実現の期待できない画餅なのであって、過去の政府の国策により危険性の告知も危急時の対策もないまま危険地帯に移民として送出されたことにより原告ら長期未帰還者が中国に取り残されたものであることを考えるとき、親族による扶養を強調して政府の政策を後退させることには、問題なしとしないところである。
(6) 本邦への上陸手続(永住帰国・一時帰国とも)
長期未帰還者の本邦への上陸(日本国内への入国許可)手続においては、日本旅券を所持している者のみが日本人とみなされ、日本人が日本国内に入国する場合と同様に、身元保証人の身元保証書は不要とされた(甲101)。しかしながら、第2次世界大戦後初めて日本に帰国する長期未帰還者が日本旅券を所持しているなどという事例は、ほとんど存在しなかった。
長期未帰還者の本邦への上陸(日本国内への入国許可)手続においては、中国国籍取得の有無や日本国内における戸籍の残存の有無にかかわらず、日本旅券を所持しない者は外国人(中国人)とみなされてきた。したがって、入国管理法令に基づき、日本国内に居住する身元保証人の身元保証書が必要とされた(甲100の1)。先に一時帰国をしたことがある(その際に日本旅券を取得した。)者などごく例外的な場合を除き、ほとんどの長期未帰還者が外国人(中国人)としての入国を余儀なくされた。
身元保証人は、日本国内在住の親族はもちろん、一定の条件(納税証明書、在職証明書等を提出できる)を備えていれば、誰でもなることができる。しかしながら、入国管理当局からは、身元保証人に対して長期未帰還者が永住帰国する以前の時点で未だ中国に在住する長期未帰還者の日本国内の就職先の手配をするよう努力することを求められた時期もあった(甲100の1)。このように、官公署から入国管理事務上の身元保証人になる以上は、入国管理事務とは無関係の日本国内における生活関連の身元引受人的業務も行うことを当然視する空気があって、そこまでの覚悟のある者でなければ身元保証人になることを引き受けないのが通常であった。したがって、日本国内在住の親族か、熱意ある民間のボランティアしか身元保証人になってもらうことが期待できないのが実態であった。親族が身元保証人になってくれない場合、日本国内との情報の連絡の悪い中国国内にいる長期未帰還者が、身元保証人を捜すのは極めて困難であり、これも長期未帰還者の早期帰国を妨げた要因の一つであったと認められる。
1986年から、法務省及び外務省は、終戦前に中国本土に渡航し、その後も引き続き同地に居住している者(残留孤児を含む。)のうち、日本戸籍の存在が確認され、又は新たに日本戸籍への就籍が許可されたもの及びこれに同伴する一定範囲の家族が中国旅券を所持し査証申請する場合には、身元保証書の提出を不要とし、在日関係者からの招へい理由書(身元未判明孤児で、定着促進センターに入所するものについては、本人からの帰国理由書をもってこれに代える。)及び戸籍謄抄本の提出があれば、中国旅券に在中国の日本公館限りで査証の発給を受けて永住帰国できるよう取り扱うこととした(乙151)。しかしながら、前記通知にいう日本戸籍の存在が確認されたかどうかの判断をするのは、行政の現場の第一線(法務局、入国管理当局)の担当者なのであって(司法の判断によるのではない。)、帰国前の中国在住長期未帰還者本人が、日本国内在住の親族の協力なしに、行政の担当者から当該日本戸籍が自分のものである旨の認定を受けることは困難である(日本上陸前に日本戸籍への就籍の許可を得るのも、日本国内在住の親族の協力なしには困難である。)ほか、前記通知によっても、通常の場合においては、親族の同意を得て日本国内在住の親族に招へい理由書を書いてもらうことが必要なことに変わりはない。
なお、長期未帰還者が永住帰国又は一時帰国のために中国を出国する際の中国入国管理当局の出国手続の内容は、本件全証拠によっても判然としない。したがって、中国国内で日本人登録をしていたが日本旅券を所持していない者が多数いたとみられるが、そのような者が日本旅券も中国旅券も所持しないままで中国を出国することができたのかどうか(便宜的に中国旅券を所持させて中国を出国したのかどうか)も、判然としない。
(7) 上陸後の在留資格・国籍の扱い(永住帰国)
外国人登録法3条は、本邦に在留する外国人は、本邦に入つたときは、その上陸の日から90日以内に、その居住地の市町村長に対し、外国人登録の申請をしなければならない旨規定している。このため、永住帰国者のうち、日本旅券を所持しないで(中国旅券を用いて)入国しようとする者については、日本人としての帰国の確認を受けることができない限り、中国国籍を有するものとして上陸手続をとらざるを得ず、また、上陸後も外国人としての在留資格において外国人登録申請をすることが必要とされた。外国人登録申請期間中(上陸後90日又は150日以内)に法務当局から日本国籍の確認を受けた場合には外国人登録申請をしなくてもよいのであるが、そのような短期間の間には、法務当局から国籍の確認を得られないことも多かった。したがって、長期未帰還者であって帰国した者の多くが、その後、費用と時間のかかる就籍許可、国籍確認等の裁判手続を行わなければならない羽目に陥り、精神的苦痛を受けた。
(8) 原告Aの帰国状況
原告Aは、1972年に日中国交回復を知り、日本に帰国できるかもしれないという期待を抱いた。しかしながら、日中の公的機関からの情報は何もなく、周囲に日本人もおらず、具体的な情報は全く得られなかった。1973年ころ、吉林省白城市在住の次姉に連絡をとったところ、日本への帰国には日本国内在住の親族の受入承諾が必要であり、次姉自身が、先に帰国していた兄や妹に受入を要請したが、兄や妹にもそれぞれ家庭があって生活が大変であることを理由に受入を断られたことを知った。
原告Aは、1974年前後に、先に帰国していた兄と妹にそれぞれ手紙を書いて受入を要請したが、最初はいずれも断られた。原告Aが「日中友好手をつなぐ会」にも兄、妹の説得を頼んだところ、一時帰国なら協力するという返事に変わり、1978年には、兄が次姉の身元引受人、妹が原告Aの身元引受人となって、原告Aとその姉の一時帰国が実現した。原告Aは、末娘を連れて一時帰国した。
原告Aの上陸手続の内容(日本人としての上陸手続か、中国人としての上陸手続か。)は、判然としない。また、いったん外国人登録をせざるを得なかったかどうかも、判然としない。
日本国内における原告Aの戸籍は、この時点まで、死亡、失踪宣告、戦時死亡宣告などの扱いがされることはなく、残っていた(乙141)。
原告Aは、一時帰国した際、一足先に一時帰国していた次姉から、当時は一時帰国は1人1回限りとされていたため、また日本に来られるかどうか分からないし、仮に日本に来られるとしても兄か妹に依頼しなければならないという不安を聞かされた。次姉は、その後、泣く泣く中国に戻った。次姉は、その弟(前記原告Aの兄で次姉の身元保証人)の配偶者に「お姉さんは一時帰国ですよ。お姉さんは一時帰国ですよ。」と繰り返し言われ、たいへん悲しい思いをしたのであった(甲164)。
原告Aは、身元引受をしてくれた妹及びその一家の様子を見て、傍系親族による身元引受が非常に大変であることを悟った。妹にもその夫をはじめとする家族があり、その生活も決して余裕のあるものではなかった。原告Aは、自分が日本に残って身元引受人となり、自分の家族や泣く泣く中国に再入国した次姉とその家族を呼び寄せる決心をした。そうでもしないと、自分も次姉も再び日本に帰ってくることは困難であろうと考えたのであった。原告Aは、身元引受人である妹を拝み倒して、永住帰国者としての原告Aの身元保証人になってもらい、一時帰国から永住帰国に切り替える手続を行い、日本に永住帰国した。その際、日本政府から、子供の分も含め、帰還手当として15万円を受領した(乙15)。
東京都援護課から永住帰国に切り替えるために提出を求められたのは、戸籍謄本、住民票及び身元引受人(妹)の承諾書であった。妹の承諾書がなければ、永住帰国者としては扱ってもらえず、永住帰国者としての援護も受けられなかった。乙144(1974年の援護局長通知)によれば、一時帰国者が永住帰国に意志を変更した場合において、身元引受人の承諾書は提出書類となっていないが、帰国者が直面する現場の第一線における取扱いは、そのようなものではなかった(甲113)。
(9) 原告Bの帰国状況
原告Bは、中国に取り残されていた期間中も、中国国籍を取得しておらず、中国当局には日本人として登録していた。
原告Bは、日中国交回復後、里帰りができるという情報を姉たちから聞き、手続をして、1975年の夏に岩手県O村の兄の家に一時帰国した。
日本国内における原告Bの戸籍は、この時点まで、死亡、失踪宣告、戦時死亡宣告などの扱いがされることはなく、残っていた(乙142)。
本当は永住帰国がしたかったが、一時帰国手続であったので、1976年1月に中国に戻った。一時帰国中に日本政府発行の日本旅券を取得し、これを中国に持ち帰った。
原告Bの弟は、原告Bと同じころに一時帰国をした際、そのまま永住帰国した。1980年ころには次姉が、その後妹が、自費で旅費を工面して永住帰国した。原告Bは、いつでも帰国できるように帰国の準備を行い、また、1950年にシベリアから引き揚げた兄や先に帰国した次姉のもとに何度も手紙を書いて帰国の相談をした。兄も次姉も、国費帰国のためには身元保証人が必要であることを当然の前提として、次姉は自分は生活保護受給者なので身元保証人にはなれないと言い、岩手県在住の兄は自分が身元保証人になると岩手県の田舎に住まないといけないので都会に住む身元保証人を見つける必要があると言っていた。
原告Bには当時事情がよく分からなかったが、次姉が帰国旅費国庫負担申請をしてくれたため(乙149)、1985年に永住帰国ができることになった。
原告Bは、1985年12月(当時53歳)、下の娘2人を連れて日本に永住帰国した。永住帰国の際には、日本人として、日本旅券を使用して、本邦に上陸した。子供の分も含めて、日本政府から帰還手当33万6000円を受領した(乙23)。
(10) 原告Cの帰国状況
1973年、大阪に嫁いで渡満しなかった姉(3女)の援助で、原告Cの3つ上の姉(5女)が一時帰国することになった。3つ上の姉(5女)は、たまたま原告Cが黒竜江省鶴崗の町にいることを知っていたので、住所を黒竜江省鶴崗、宛名を「C」とだけ書いて原告C宛の手紙を郵送した。原告Cは、その手紙の配達を受け、姉たちが日本に一時帰国したことなどを知った。原告Cは、日本大使館を通じて、渡満しなかった姉(3女)に手紙を出したが、その姉からは、原告Cが日本語ができないことを理由に、その帰国に反対する内容の返事がきた。親族が身元を引き受けてくれないと日本に帰れないと聞いて、原告Cは絶望的な思いになった。なお、中国における原告C一家の生活も苦しく、国際郵便料金を捻出することも大変なことであった。
原告Cのところには、帰国旅費国庫負担制度などの帰国のための情報は届かなかった。1986年に、一番上の姉(長女・中国在住・一時帰国経験者)に相談した結果、先に永住帰国していた原告Cの姉(4女・長期未帰還者)の協力で手続書類が届いた。しかしながら、夫も未婚の子も国費負担帰国できるという情報は届いておらず、原告Cの姉(長女)の認識(18歳以下の子しか国費で帰国できない)に従い、下の子2人のみを連れて帰国することとした。1988年に、帰国の途中に寄った北京で、夫も未婚の子も国費負担で帰れることを知って驚いた。
原告Cは、1988年7月(当時54歳)、4男と5男を連れて日本に永住帰国した。帰国の際、日本政府から、帰還手当として、子供の分等も含めて41万5600円を受領した(乙27)。
日本国内における原告Cの戸籍は、この時点まで、死亡、失踪宣告、戦時死亡宣告などの扱いがされることはなく、残っていた(乙143)。
原告Cは、中国国籍を取得していたが、帰国の際の上陸手続の詳細やその後の外国人登録の手続等の詳細は、不明である。
原告Cは、1945年当時11歳であり、「孤児」の範疇に属するため、子2名とともに中国帰国孤児定着促進センターの入所資格を有していたが、定着促進センターには入所しなかった。その理由は不明である。原告Cは、帰国後直ちに東京都が運営する常盤寮に入寮し、日本語や日本の生活習慣を身につける訓練を受けた。
6 日中国交回復後の中国からの帰国者に対する公的自立支援策の状況
(1) 帰国旅費国庫負担
日中国交回復後においても、中国に取り残された長期未帰還者に対する国の援護施策は、終戦直後の引揚援護施策の延長線上にあるものとして企画、立案された。帰国のための旅費については、4の(5)において認定された制度(個別引揚者に対する旅費国庫負担制度)が、そのまま日中国交回復後も継続されている。すなわち、長期未帰還者側においても日本国内在住の親族側においても帰国旅費を支弁することが困難な個別引揚者につき、日本国内在住の親族の申請により、帰国旅費の国庫負担制度を実施している。終戦時12歳超であったかどうかの別なく実施されており、原告らもその支援を受けた。
日本政府は、日中国交回復の前後を問わず、中国国内に取り残された長期未帰還者に対しては、帰国旅費国庫負担制度の積極的な広報、周知策を実施しなかった。中国政府に対して、広報、周知のための協力を求めようともしなかった。帰国旅費国庫負担制度は、原告らのように、中国東北地方の北部の農村や小都市で難民化したまま中国人に助けられ、日本人のコミュニティとは切り離され、中国人の中で暮らす長期未帰還者の間では、ほとんど情報として広まらなかった。
帰国旅費国庫負担制度については、1973年以降男性長期未帰還者の中国人の妻の旅費についての国庫負担制度もできたが(乙71)、女性長期未帰還者の中国人の夫の旅費についての国庫負担制度はできなかった。女性長期未帰還者の中国人の夫について、旅費の国庫負担制度ができたのは、1982年のことであった。
1989年までは未婚の孤児2世であれば年齢を問わず国費による同伴帰国が認められていたが、1990年からは成人している未婚の孤児2世には国費による同伴帰国が認められなくなった。
依然として、帰国旅費の国庫負担の申請をすることができる者は、日本国内在住の親族に限るものとされた(甲75の1・2)。この申請権者の制限は、長期未帰還者の帰国の促進について深刻な問題を生じさせた。もともと日本国内在住の親族にとって長期未帰還者の受入が困難であることは、5(5)において認定したとおりである。これに加えて、帰国旅費国庫負担申請をする日本国内在住の親族は、具体的な事情を付して「帰国旅費を支弁する能力がないので国庫負担を申請します」と記載し、帰国旅費を支弁する能力が自らにも欠けていることについて民生委員の証明をもらわなければならないという仕組みになっており(甲75の2)、自己の経済的能力の低さを地元の民生委員に証明してもらうことに心理的抵抗感を抱き、国庫負担申請に消極的となる親族もいた。しかしながら、長期未帰還者を自費帰国させた場合には、その他の各種の帰国者支援措置(帰還手当支給、公営住宅優先入居等)も受けられなくなるので、日本国内在住の親族は自費帰国にも消極的であるのが一般的であり、早期帰国が促進されない結果となっていった。
(2) 帰還手当
日中国交回復後においても、中国に取り残された長期未帰還者に対する国の援護施策は、終戦直後の引揚援護施策の延長線上にあるものとして企画、立案された。帰国の際の当座の必要資金については、4の(6)において認定された制度(帰還手当)が、そのまま日中国交回復後も継続されている。終戦時12歳超であるかどうかにかかわりなく支給されており、原告らもその支援を受けた。 日中国交回復後の帰還手当の額の推移は、次のとおりである。なお、小人1人当たりの支給額はその半額である。
1972年 1万円
1973年 2万円
1974年 3万円
1975年 4万円
1976年 5万円
1978年 10万円(以後毎年消費者物価スライド方式により増減)
1987年 13万8600円(少人数世帯加算額制度開始)
1995年 15万8000円
1987年以降は、名称が「帰還手当」から「自立支度金」に改められ、支給額の算定も、個人単位支給額の制度(大人1人13万8600円)のほかに、少人数世帯加算額(大人1.0、小人0.5で換算した世帯人員が2.0以下の世帯に個人単位支給額とほぼ同額を、2.5以上3.5以下の世帯に個人単位支給額の約半額を、個人単位支給額とは別に支給する制度)が付け加えられるようになった(乙91)。
帰還手当は、日本国内において新たに住居を確保し、かつ、日常生活に必要な物品一式をそろえるのに相応の費用がかかることを考慮して作られた制度であるとみられる。制度の趣旨としては、日本語の能力もあり、日本の社会、生活習慣にも慣れている者が、日本におけるとりあえずの日常生活基盤の確立のために必要と見られる標準的な額を援助するという点にあるとみられ、日本語の習得や日本の社会習慣に慣れていくために必要な経費を支弁するものとはみられない。
(3) 帰国後1年で自立という無理な標準モデルとその破綻
日本政府は、中国からの帰国者につき、帰国後1年で日本語をマスターして就労し、生活保護の助けを受けずに自立するということを、標準的なモデルとした。
このモデルは、5(3)の「中国残留日本人孤児問題懇談会」の報告書(乙101)が示した下記3段階モデルをもとにしたものであった。
第1段階 定着促進センター入所、基礎的な日本語教育、生活費は全部国費
第2段階 定着促進センターを退所し地域社会に入る、職業訓練、日本語教育、生活保護
第3段階 就職・自立、生活保護からの脱却(収入の度合いに応じて生活保護で補てん)
懇談会報告書には、各段階の終了に要する標準的な期間は示されていない。わずかに、第1段階について標準的な入所期間を4箇月程度と示しているだけであり、「日本に帰国した孤児をあまり長い間一般社会から遠ざけておくことは好ましくない」ことが、標準的な入所期間を4箇月に止める理由として掲げられているだけである。第1段階を4箇月と限定したり、第2段階を8箇月と限定したり、生活保護からの脱却(第2段階の終了までの期間)を1年と限定したりしているものではない。
それにもかかわらず、この標準モデルをもとに、生活保護の受給資格認定の基準(帰国後1年間は日本語その他の学習や職業訓練のために就労を猶予する(生活保護を与える。)が、帰国後1年経過後は前記学習等のための就労の猶予を打ち切り、就労能力がある限り(病気、老齢等の事情がない限り)、就労することを求め、原則として生活保護を与えない。)が作られた。
帰国後1年で、多人数教室授業や通信教育の方法により、職業生活に必要な日本語をマスターすることが通常は困難であることは、経験則上明らかである。まして、後記(4)のとおり日本語教育機関も充実していなかった。したがって、この標準モデルには無理があり、モデル策定当初から実質的には破綻していた。
長期未帰還者たちは、帰国後1年経過すると、十分な日本語を習得しないまま就労を迫られた。その結果、意欲と能力があり、高度な仕事につくことを希望する者も、1年間の就労猶予期間が過ぎると専門学校等に通うことができなくなってその希望を打ち切られる傾向が強まり、帰国者たちの苦難のもととなった。
帰国後1年で自立という標準モデルは、後記(7)の定着促進センターにおける帰国直後の4箇月の宿泊研修、その後8箇月の後記(8)の自立研修センターにおける通所形式の研修により、日本語と日本の生活習慣、社会習慣等をマスターできるという考え方をその基礎とするものである。しかしながら、これらの日本語教育は、いずれも、外国人への日本語教育に関する熟練の専門家がマンツーマン指導を行うのではない。これらの日本語教育は、教室における多人数講義方式で行う外国語学習による外国語能力の伸びについての経験則を無視し、職業生活に耐えうる日本語の研修としては不十分なものであった。他方、生活保護担当の官公署は、個別の帰国者の個別の日本語マスター状況を把握しながら生活保護受給の当否を決定するのではなく、帰国後1年経過という形式的な基準をもとに帰国者に就労圧力をかけていったものである。
このように、自立支援策相互の有機的な連動がない状態で、帰国後1年で自立という標準モデルは、早々に破綻していったものである。
(4) 日本語教育
ア 国は、1977年4月以降の中国からの引揚者のうち語学教材を必要とするものに対して、日本語教材(テキスト、録音テープ、再生機から成るもの)の配布を行ってきた。支給対象者は、厚生省援護局庶務課が決定することとされた。
原告らは、この支援を受けていない。
テキストと録音テープによる学習を続けるだけで、日本国内で自立、就労できる程度の日本語能力が身に付くかどうかは疑わしい。
イ そのほか、定着促進センター、自立研修センター、支援・交流センターにおいても日本語教育が実施されている。これらの機関による日本語教育は、マンツーマン指導ではなく、多人数教室授業や通信教育の方法によるものであって、その期間や内容に照らして、日本国内において自立、就労できる程度の日本語能力を当該学習期間で身に付けることができるかどうかは、疑わしい。
これらのセンターにおける支援は、長らく、終戦時の年齢が12歳超であった者(いわゆる残留婦人)がその対象外とされ、原告らも支援を受けていない。
ウ 結局のところ、原告らは、日本政府から日本語教育の支援を受けることはなかったのである(乙137・138)。
(5) 引揚者生活指導員
1977年から、国は、引揚者に関する相談、指導等の業務を民間篤志家に依頼することとし、その業務に当たる民間人を「引揚者生活指導員」(1987年に「自立指導員」に改称)と呼んでいる。現実の業務は、都道府県に委託して実施している(乙120ないし122)。
長期にわたり、言語、習慣の異なる外地での生活を余儀なくされていたため、習慣等の相違から、帰国者は社会生活を営むのが困難であるので、引揚者世帯を訪問して、生活上の諸問題の相談に応じ、必要な助言指導等を行うというのが、引揚者生活指導員の制度である。都道府県担当課が派遣を必要と認めた世帯に対して、帰国後1年間(派遣日数は24日)に限り派遣することとされた(派遣期間は、後に帰国後2年間(1年目84日、2年目12日)に延長され、さらに帰国後3年間に延長された。)。
帰国後1年で帰国者の自立が可能であるとの見通しの下に作られた制度である。しかしながら、帰国者は帰国から1年経過した後も、日本語や日本国内の生活に不自由な状態にあるのが通常である。したがって、派遣期間経過後の帰国者は、引揚者生活指導員からは放置されたような状態になる。
各地に熱心な引揚者生活指導員がいたことも事実のようであるが、派遣期間の限定(帰国後1年ないし3年以内)及び派遣日数の制限などから、その役割は限定的なものにとどまり、帰国者の世話をする負担の大半は、日本国内在住の受入親族、これに代わる身元引受人やボランティアが負わされているのが実情である。
原告らが帰国直後の時期にこの援助を受けたかどうかは判然としないが、役に立ったという印象があまり残っていない制度のようである。
(6) 日本帰国直後のオリエンテーション
1979年から、国は、帰国時オリエンテーションを実施することとした。
これは、中国からの引揚者が成田空港又は大阪空港に帰国した際に、東京都内又は大阪市内に1泊させて、専門講師により、帰国後の援護の内容、相談に行くべき行政機関の窓口等帰国後すぐに必要とする事項のオリエンテーションを行うというものである。講師は、オリエンテーションを受講する引揚者を成田および大阪の空港へ出迎え、人員を把握のうえ、あらかじめ指定する宿泊施設まで同行して案内することとされた(乙93)。
帰国後1日だけのオリエンテーションでは、その効果も限定的なものにとどまったと推認される。
原告らが帰国の際にこの援助を受けたかどうかは判然としないが、役に立ったという印象があまり残っていない制度のようである。
(7) 定着促進センター
中国からの帰国者のための研修教育施設は、社団法人国際善隣協会その他の民間団体(多くはボランティア団体)からの要望(甲131、132)にもかかわらず、1972年の日中国交回復後も長らく存在しなかった。
1984年になってようやく、埼玉県所沢市内に、「中国帰国孤児定着促進センター」(1994年に「中国帰国者定着促進センター」に改称。以下、この種の施設を「定着促進センター」という。)が開設された。所沢市の定着促進センターは、被告が施設を建設し、その運営を1983年に設立された財団法人中国残留孤児援護基金に委託している。定着促進センターの支援の対象は、終戦時(1945年)に12歳以下であった長期未帰還者及びその同伴家族に限られた。帰国直後の約4箇月間、宿泊形式の施設に入居させて、教室における多人数講義方式で、日常生活に必要な基礎的な日本語の教育と日本の生活習慣等の指導を行った(乙1、94ないし100)。教室における多人数講義方式の4箇月間の授業で日常生活に必要な基礎的な日本語をマスターさせることが困難であることは、経験則上明らかであって、日本語学習の成果が十分に上がらない者が少なくなかった。
1945年に13歳以上であった長期未帰還者(いわゆる中国残留婦人)は、定着促進センターの支援の対象とはされていなかった。また、自費帰国者も、この支援の対象とはされていない。1993年に至り、ようやく、1945年に13歳以上であった長期未帰還者(いわゆる中国残留婦人)も支援の対象となるようになった。
定着促進センターは、帰国する長期未帰還者の増減に応じて、1987年には5か所(北海道、福島県、愛知県、大阪府、福岡県)が新設され、その後新設、廃止等が繰り返された。最近は、帰国者数が減少したため、3か所(所沢市、大阪府、福岡県)のみが残っている。
原告A(1978年永住帰国・1945年当時16歳)は定着促進センターが開設される前の帰国者であり、原告B(1985年永住帰国・1945年当時13歳)は、定着促進センター開設後の帰国者であるが、永住帰国時には支援対象者ではなかったので、いずれも定着促進センターの支援を受けていない。
原告Cは(1988年永住帰国、1945年当時11歳)は、定着促進センターの支援対象者であったが、定着促進センターの支援を受けていない。
(8) 自立研修センター
1988年に、定着促進センター修了者を対象とする「中国帰国者自立研修センター」(以下「自立研修センター」という。)の設置が開始されるようになった。自立研修センターの運営は、国が都道府県知事に委託して行われ、都道府県は民間に再委託することができる。
定着促進センターにおける4箇月間の研修修了後の8箇月の期間を対象に、通所形式で、昼間、日本語の指導、生活相談、就労の相談等が行われる。定着促進センター修了時(帰国後1年)には、生活保護を受けずに自立できるようになることを目標としている(乙2,114ないし119)。帰国後1年以上経過した者でも例外的に通所できる措置もとられるようになったが、適用例は限定的である。
自立研修センターは、1988年当時は15都道府県に1箇所ずつ(主に県庁所在地)設置され、その後の新設と廃止により、現在は12箇所に設置されている。
1945年に13歳以上であった長期未帰還者(いわゆる中国残留婦人であり、日本語の能力が著しく低下しているのが通常であることは、前記認定のとおりである。)は、長らく定着促進センター及び自立研修センターにおける支援を受けることができなかったものであり、このような者らに対しては、帰国後1年で自立という標準モデルは、実質的にも、形式的にも、画餅に等しいものであった。
自立研修センターが設置されていない県や、設置されていても県庁所在地から遠い地域に居住する帰国者は、自立研修センターを利用することができない。一方で、定住地の適度の分散が叫ばれながら、他方で自立研修センターのない地域への定住を奨励するというのでは、自立支援策相互の有機的連動があるとはいい難いところである。そもそも帰国後1年で自立(生活保護打ち切り)というのが、無理な話である。
原告らは、定着促進センターの修了者ではなく、この支援は受けていない。
(9) 支援・交流センター
従来は、帰国後1年以上を経過した中国からの帰国者向けの国の支援措置としての研修センターは存在しなかった。しかしながら、中国からの帰国者は、帰国後1年を経過しても、日本語の能力レベルが思ったほどには上達せず、就労や社会的自立が困難な者が多いのが実情であった。
2001年11月1日には、自立研修センターにおける研修や引揚者生活指導員による援護を終えた者を対象として、東京都及び大阪府に各1箇所ずつ「中国帰国者支援・交流センター」(以下「支援・交流センター」という。)が開設された。支援・交流センターは、国の委託を受けて、財団法人中国残留孤児援護基金によって運営されている。
支援・交流センターの設立理由は、中国帰国者の平均年齢が60歳代となり、就労はもとより、言葉や生活習慣の相違から、社会的自立が困難な状況にあり、2・3世の世代にも同様な問題があることから、帰国後1年以上経過した者に対しても、日本語学習支援、相談事業等を行う必要があるという点にある。
支援・交流センターは、日本語学習支援事業(通信教育を含む。)、各種相談事業等を行っている(乙3,123ないし127)。
全国に2箇所設置するだけでは、通所できる者も多くはなく、その効果は限定的であるし、日本語学習にしても通信教育という手法では、必ずしも目を見張るような効果があがらないことは、経験則上明らかである。
原告らは、この支援は受けていない。
(10) 身元未判明者の身元引受人制度
帰国者を受け入れる日本国内在住の親族も通称「身元引受人」(又は身元保証人)と呼ばれることが多いが、ここでいう身元引受人とは、これとは異なるものである。
被告は、1985年3月から、身元未判明者の身元引受人制度(乙28、乙102)を実施した。日本国内在住の親族が判明しないため、帰国旅費国庫負担申請をしてくれる者がおらず、事実上日本に帰国することができないという身元未判明孤児一般の状況を少しばかり改善しようとしたものであった。1984年3月17日、日中政府間で、中国残留日本人孤児問題の解決に関する日中間の口上書が交わされ、「日本政府は、孤児が希望する場合には、在日親族の有無にかかわらず、その同伴する中国の家族とともに日本への永住を受け入れる」ことが確認された。また、1982年の中国残留日本人孤児問題懇談会の報告書(乙101)の中でも、身元未判明孤児の受入れについて、「身元引受人」をあっせんする制度の提案がされていた。身元未判明者の身元引受人制度は、これらを反映した政策でもあった。身元引受人の身元引受の期間は定着促進センターを退所してから3年以内とされ、この期間中は月額1万1000円の身元引受手当の支給を受けることとされた。企業等の法人も身元引受人になることができるほか、1989年以降はボランティア団体等の任意団体も身元引受人になることができることとした(乙105、106、112、113)。
身元引受人の役割は、建前上は、身元未判明孤児世帯の日常生活上の諸問題の相談及び自立更生に必要な助言指導とされる。しかしながら、標準的な場合において実際に身元引受人(帰国者を受け入れる日本国内在住の親族も同様である。)が行っている仕事は、次のとおり非常に幅広い分野にわたる大量のものであり、また、3年以上経過して身元引受人手当の支給がなくなっても、実際問題として、身元引受人としての仕事は終わらない(殊に、<4>及び<7>の保証人の民事責任は、転職や転居もあり、簡単には終わらない。)。
<1> 帰国前における中国にいる長期未帰還者との連絡
<2> 上陸時における空港への出迎え
<3> 定着促進センターへの入退所時のつきそい
<4> 住宅探しの手伝い、住宅の確保及び賃借人の保証人となること
<5> 寝具、家具、電化製品、日用品の調達
<6> 市役所、福祉事務所、子供の学校などの諸手続(引揚者生活指導員に同道)
<7> 職探しの手伝い。就職時に身元保証人になること
<8> 子供の学校の保護者代わり
<9> 病者、負傷者の病院付き添いその他各種トラブルの対応全般
<10> 中国に残してきた家族の日本呼び寄せの手続
このように、身元引受人の仕事は並大抵の覚悟で行うことができるものではないのが実情である。また、引揚者生活指導員の担当職務であっても、引揚者生活指導員はいつでも帰国者のところに駆けつけてきてくれるわけではないので、結局身元引受人も引揚者生活指導員に同行してその分野における将来の問題の発生に備えることになる。身元引受人の仕事は、肉体的にも、精神的にも、時間的にも負担が重く、また、法的にも保証責任を負う可能性がある立場に置かれるなど、大変な地位に置かれる。
(11) 身元判明者の身元引受人制度
身元の判明している長期未帰還者については、日本国内に在住する親族が自発的に長期未帰還者の身元引受けを行い、帰国旅費国庫申請手続をとることが、国の長期未帰還者対策における制度設計の前提とされていた。しかしながら、前記5(5)において説示したとおり、日中国交回復当初から、日本国内の親族が、長期未帰還者の受入れに難色を示したり、明確に拒否したりするケースが非常に多いのが実情であった。その原因は、日本国内にいる親族といっても直系の親族がいることは少なく、傍系の親族(兄弟姉妹、甥、姪、伯叔父、伯叔母)しかいないことが多いこと、傍系の親族にも自己固有の家族がいる中で長期未帰還者の扶養・援助をする余裕のある家庭は少なく、受入は即ち受入在日親族とその家族の衣食住の生活面で無理を強いることになり、受入在日親族の配偶者その他の家族の理解を得ることも困難であること、戦後長期間が経過し、その期間中ずっと東西冷戦が継続していたことから、中国から日本に帰国するのは極めて困難であるという認識が広まり、長期未帰還者の帰国はないという前提での生活設計、人生設計が進んでしまったことが多いこと、日本国内においては、長期未帰還者たちが中国に渡ったころと異なり、戦後の復興期及び高度経済成長期を経過して、日本国内全般にわたって都市化が進み、同居家族の形態としては大家族が減って核家族化が進行し、住居の形態や家族の意識もプライバシーを重視したものに変化し、非同居親族の長期間の宿泊が困難になってきたこと、別に独立した住居を求めるにしても第二次世界大戦前とは比べものにならないくらい住居費が高騰し、その援助をする余裕がないことが多いこと、そしてこれが最大の原因であるが、帰国者本人に対しても、受け入れる親族に対しても、受入に伴う公的援助がほとんどないことが挙げられるところである。
被告は、1989年になって、ようやく、身元が判明しながら日本国内の親族に受け入れてもらえないため日本に帰国することができない中国残留孤児(1945年に12歳以下であった者に限り、いわゆる中国残留婦人は制度の対象外とされた。)のために、特別身元引受人をあっせんする制度を開始した(乙103)。
特別身元引受人は、身元判明孤児の身元引受を行う制度であるが、身元判明孤児の本籍地を管轄する都道府県内から候補者を探すことが原則とされた(甲107・厚生省援護局長答弁)。定住希望地を自由に選択させると帰国者が数箇所の大都市に集まり、公営住宅の確保や引揚者生活指導員の確保等の援護措置が講じにくいから、極力本籍地に定住させている(甲167・厚生省審議官答弁)。これにより、多くの長期未帰還者が、本籍地都道府県に居住することを余儀なくされた。
特別身元引受人の役割は、建前上は、日本国内の親族に受け入れてもらえないなどの事情により永住帰国できない身元判明孤児についての帰国手続、帰国後の日常生活上の諸問題の相談および定着自立に必要な助言、指導である(なお、1994年1月以降は、特別身元引受人が行うこととされていた帰国手続を直接被告が行うこととし、その負担軽減を図った結果、特別身元引受人の役割は、未判明孤児に対する身元引受人と同様となった。)。しかしながら、標準的な場合において特別身元引受人が実際に行う仕事の内容は、身元引受人と同様であり、具体的には(10)において認定したとおりである。私法上の保証責任を負わされることがあるのも、同様である。
身元引受の期間は定着促進センターを退所してから3年以内とされ、この期間中は月額1万6000円の特別身元引受手当の支給を受けることとされた。
特別身元引受人制度の適用には、日本国内に親族がいる場合には、その親族が受入れを拒否し、長期にわたり説得したにもかかわらず納得が得られないことを必要とする。すなわち、日本国内在住の親族が、長期の説得を受けたにもかかわらず、受入拒否をした場合である。身元判明孤児からは、「帰国後日本国内の親族とみだりに紛争を起こさないこと、あっせんした特別身元引受人の近隣に定住することに異存ないこと及び特別身元引受人の指導助言を得て早期自立のための努力を継続すること」の確約書をとり、また、自らが孤児を受け入れることを拒否している日本国内の親族からも特別身元引受人の行う帰国手続により永住帰国が実施されることに異存ない旨の確認書を徴求することとされている。
この特別身元引受人制度は、1989年の発足当初は1945年に13歳以上であった中国残留婦人には適用がなかった。
1945年に13歳以上であった中国残留婦人にも適用されるようになったのは、1991年のことである。この場合においても、中国残留婦人の50年も前の居住地である本籍地を管轄する都道府県内から候補者を探すことが原則とされた(甲107・厚生省援護局長答弁)。これにより、多くの中国残留婦人が、50年も前の居住地である本籍地都道府県に居住することを余儀なくされた。日本国内にいる親族が受け入れてくれないからこそ特別身元引受人制度を用いるのに、受入拒否の親族と同じ都道府県に住むことは、帰国者にとっても心理的につらいことであった。都市部に住みたいという残留婦人の希望は、なかなかかなえられなかった。
1995年には、未判明孤児に対する身元引受人制度と身元判明孤児に対する特別身元引受人制度を一本化した新たな身元引受人制度(乙104)が実施された。
(12) 自立支援通訳制度
中国語の通訳ができる民間人を、中国語と日本語の通訳者として、帰国者及びその同伴家族に派遣する制度である。1989年から、国が都道府県に委託して実施されている(乙128、129)。実際に派遣されるのは、都道府県が必要と認める場合に限定されている。
対象者は、定着促進センター修了後(入所しない者については帰国後)3年以内の中国帰国者及びその同伴家族である。
1945年当時13歳以上であった長期未帰還者(いわゆる残留婦人)にも適用されている。しかし、原告Aと原告Bは、それぞれ帰国3年経過した後に制度の運用が開始されたので、この支援を受けていない。原告Cは帰国の翌年に制度の運用が開始されたが、支援を受けたかどうかは判然としない。
自立支援通訳が派遣されるのは、帰国後3年以内の時期であって、次に掲げるような事情が存在し、かつ、都道府県が派遣を必要と認める場合に限定されている。また、帰国後3年経過しても、病気の際の自覚症状の微妙なニュアンスその他の複雑な事項を日本語で伝達する能力が未だ身についていない帰国者も多い。したがって、その効果も限定的である。
<1> 中国帰国者巡回健康相談事業(医療・保健衛生面における生活指導を目的として、定着促進センター修了後1年以内に1回、健康相談医を帰国者世帯に派遣するもの、乙130・131)により、健康相談医の助言、指導を受けるとき
<2> 医療機関を受診するとき(通院の場合は初診時、入院の場合は7日ごとに1回)
<3> 福祉事務所等の関係行政機関から助言、指導又は援助を受けるとき(年2回以内)
<4> 小中学校、高等学校に通学する子等の学校生活上生じた問題について、又は中学校に通学する子等の進路について相談するとき
<5> 介護保険制度による要介護認定の申請、介護サービス計画の利用及び介護サービスの利用を行うとき
(13) 住居支援制度
国は、公営住宅法に基づき財政措置を講じて、公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力して、住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃の住宅を供給するという一般的施策を講じてきたが、中国からの帰国者世帯もその施策対象者としてきた。なお、公営住宅の入居には、中国からの帰国者であっても連帯保証人が必要であることが多く(甲167、168)、上陸の際の身元保証人となった日本国内在住の親族や、身元引受人、特別身元引受人に連帯保証人となる負担がかかってくるのが通常である(甲167・厚生省審議官もそのように認識している)。
(14) 年金
中国からの帰国者のうち長期未帰還者であったものは、一般に、中国に取り残されていた期間は年金に加入することができず、年金加入期間が短い。そのため、年金受給年齢に達しても、年金が全く受けれられなかったり、極めて低額の年金しか受けられないのが実情であった。
1994年11月9日に成立した国民年金法等の一部を改正する法律(平成6年法律第95号)により、後記8の長期未帰還者等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律が改正され、1996年4月1日から、下記の国民年金の特例措置(同法13条、平成8年政令第18号)が講じられることとなった。
ア 中国に取り残されていた期間のうち、国民年金制度が創設された1961年4月1日から永住帰国の前日までの期間については、保険料を納付しなくても、保険料を納付した場合の3分の1相当額(国庫負担相当額)が年金額に反映される。
イ 上記の期間の保険料及び本来の納付時期から追納した時期までの間の保険料納付義務の債務不履行(履行遅滞)による損害賠償(民法所定の年5%の割合)を追納すれば、追納額が年金額に反映される。保険料を追納する場合は、生活福祉資金の貸付制度(償還期限を特別長期にしたもの)を利用できる。
これにより、月額2万円程度の年金給付を受けることができるようになった帰国者が多いが、この額では最低生活も維持できず、結局、不足分は生活保護に頼らざるを得ない(前記年金特例措置が収入増につながらない。)高齢帰国者が多いのが実情である。
(15) 就業状況
中国からの帰国者は、残留者本人についても、その家族についても、帰国後十分な日本語教育、専門教育、職業教育を受ける機会を与えられないまま、福祉事務所から就労圧力を加えられるので、比較的単純な労務作業者として就業している者が圧倒的に多い(甲110)。その収入の額は、日本語能力を十分に高めてから就労する場合よりも、相当程度低くなる。
また、職業安定所等における職業紹介も、中国からの帰国者については、あまりいい実績が上がっていない(甲109)。
就職するに当たっては、民法上の保証責任を伴う身元保証契約の締結が必要になることが通常であり、上陸の際の身元保証人となった日本在住の親族や、身元引受人、特別身元引受人が民法上の保証責任を負う身元保証人になるのが通常である(甲167・厚生省審議官もそのように認識している)。
帰国者本人又はその子らのうちいずれかが、十分な日本語教育を受けて高度な職業につき、それ相応の収入を得られれば、その余の家族もその恩恵を受けて、二世、三世が高等教育を受けられるようになり、家族全体の収入や社会的地位が向上するきっかけが得られるはずである。しかしながら、現状では、そのきっかけを得ることすら困難な状態である。
(16) 生活保護の運用状況
ア 生活保護の適用状況
帰国者やその同伴家族は、帰国後自己又は配偶者が就職するまでの間は全員が無収入であり、帰国後一定期間は、公的機関からの生活費援助が必須であって、この期間の生活保護受給者は非常に多いのが実情である。また、帰国後数年が経過しても、日本語能力不足その他の理由により自己又は配偶者等が就職できない場合には、生活保護を受給し続けるしかないわけである。また、高齢又は病気により働けなくなると、生活保護を受給せざるを得ない。
帰国者やその同伴家族にしてみれば、帰国後、就労までの間に十分な準備期間をとって、しっかりと日本語の能力を身につけ、日本の社会習慣にも慣れ、少しでも高度な仕事につき、収入を上げて生活水準を高めたいと考えているのが通常であろう。
他方、福祉事務所の第一線における中国からの帰国者に対する生活保護の運用の実情は、このような帰国者の期待を打ち砕くものである。前記(3)において認定した帰国後1年で自立という無理なモデルを前提に、生活保護の支給期間を原則として帰国後1年に限定し、その後においては、帰国者に対して、猛烈な就労圧力をかけてくる。
帰国者やその同伴家族が、自らの稼働能力、収入獲得能力を高めるために日本語教室や専門学校に通っていると、帰国後1年モデルを盾に、生活保護の支給の打ち切りを宣告してくるのが通常である。原告Bも、帰国後まもなく、日本語を十分に習得するいとまもなく、社会福祉事務所から就労圧力をかけられたことは、後記7(2)における認定のとおりである。帰国後1年では、日本語も、日本の生活習慣も十分に身に付いていないから、この時点で就職するとすれば、単純労務的な仕事しかないことになる。自立のためにより高度な職業能力を目指して学習している者の学習を妨害し、自立意欲を阻害する運用である。日本語学習、職業訓練と生活保護の各支援策の間に有機的な関連性がないまま、自立支援策が運用されているといわざるを得ない。中国残留日本人孤児問題懇談会の報告書(乙101)の趣旨は、ここでは十分に生かされていないものというほかはない。
イ 生活保護の適用による不自由
ア記載のとおり、生活保護を受けながら日本語学校や専門学校への通学をすることは福祉事務所に認めてもらえず、生活保護を打ち切られても通学するか、通学をあきらめて就労するかの二者択一を迫られる。高度な職業能力の取得が実現できず、生活保護法の運用が、生活水準の向上に向けての自立意欲の妨げとなる結果を招いている。帰国者の二世、三世への生活保護の適用はもっと厳しい状況にあり、二世、三世の生活水準向上に向けての勉学意欲は、もっと妨げられている。
貯金があることが判明すると、生活保護が打ち切られる。なけなしの貯金があっても、これを使い切らないと生活保護が受けられない。生活保護を受けていると、中国への里帰りができない。海外渡航をすると、生活に余裕があるとみられ、生活保護支給額から渡航費用相当額を減額されるからである。中国には養父母その他の世話になった親族や、長期未帰還者の子のうち諸般の事情により帰国しなかった者が残っていたりする。これらの者を訪問したり、物故者については墓参したりしたいという自然な要求があるが、実現が不可能である。
帰国者は、原告らがそうであるように、高齢になると生活保護を受けざるを得ない状況に追い込まれることが多い。
ウ 福祉事務所による引き締め
生活能力のある暴力団関係者等による生活保護不正受給その他の生活保護不正受給事件や、国や地方の財政の逼迫等が理由で、公的部門の冗費削減が叫ばれるなか、福祉行政の現場においても、生活保護受給要件についても細かな制約、縛りが行政の内部通達で示されるようになってきた。そのため、福祉事務所の第一線では、できるだけ生活保護受給者を出さないような厳しい指導が行われる。
福祉行政の現場においては、生活保護受給世帯の地域別比率が調査されるようになり、受給率の高い地域には上級官庁からの支給基準の運用が甘いのではないかとの指摘が入る。特別身元保証人を引き受けようとする善意の民間の篤志家が、地元の市町村役場などから、地域の生活保護受給率を高めるようなことはやめてほしいなどと言われる現象まで生じたりしている。県の福祉部門担当者が、長期未帰還者の帰国支援をするボランティアに対して、他県の出身かもしれない者を引き取って自県の税金で生活保護費を支出するようなことになることを理由に、長期未帰還者の受入をやめるように促すような発言をする例まである。
中国からの帰国者は、多くの者は一応健康であり、帰国時においては単純労務には従事することができるのが通常であるから、帰国後1年の就労猶予期間を経過した後は、猛烈な就労圧力をかけられる。
また、2世、3世は、帰国直後から就労可能者として扱われ、日本語学習の機会を与えられないまま、就労を強いられる。長期未帰還者の帰国に伴い、その家族も日本に生活の本拠を移すことについては、国民保護策を欠いた戦前の政府の移民政策の後始末としてもやむを得ない面があり、長期未帰還者の福祉のためにも、日本に単に出稼ぎにきた外国人労働者とは異なる扱いも必要であると考えられる。しかしながら、現実には、長期未帰還者の家族は、日本語学習の機会を与えられず、単に出稼ぎにきた外国人労働者と同様の扱いを受ける。
7 原告らそれぞれの帰国後の生活状況
(1) 原告A
原告A(1928年生)と末娘は、1978年夏の帰国当初は妹の自宅に居住し、同年9月からは民間アパートに引っ越し、翌1979年に国立市内の都営住宅に優先入居で入ることができ、以来同所に居住している。
帰国当初は無収入で、生活保護を受けた。翌1979年ころから洋裁の仕事をし、1981年からは清掃の仕事をしてきた。60歳を越すころになって、1990年まで清掃の仕事を続けたが、以後は仕事をやめ、年金と生活保護を受けている。
1980年には原告Aの夫と長女家族、長男、二男を自費帰国で日本に呼び寄せた。自費帰国にしたのは、男性長期未帰還者の中国人の妻は国費帰国が可能であるが、女性長期未帰還者の中国人の夫には帰国旅費の国庫負担制度の適用がないからであった(その後の1982年からは中国人夫も国費帰国が可能になった。)。原告Aの夫は、当初は倉庫管理の仕事、1984年から1995年までは自転車置場の管理の仕事をした。
1985年には、原告Aが身元保証人になって、先に一時帰国したが泣く泣く中国に戻った次姉の永住帰国が実現した。次姉は、その1年半後の1987年に死亡した。
1985年には、原告Aの二女家族を、1991年には原告Aの長男家族と二男家族を、自費帰国でそれぞれ日本に呼び寄せた。
原告Aは、1982年に、長期未帰還者であった者及びその家族であって中国から帰国した者のための日本語教室兼生活相談室を東京都三鷹市に開設し、その活動はボランティア等の協力を得て大きくなり、中国帰国者の会の活動となって今日も続いている。中国帰国者の会は、帰国者が交流し、相談し、助け合うための場、ネットワークとして、実質的に機能しており、官の施策が全体として融通のきかないものとなっている現状の下において、貴重な役割を果たしている。
(2) 原告B
原告B(1932年生)は、1985年12月に永住帰国した。1945年当時13歳であり中国残留「孤児」の範疇に属しなかったため、中国帰国孤児定着促進センターの入所資格を有しておらず、入所しなかった。原告Bは、帰国当初は盛岡市内の民間アパートに住み、生活保護を受けていたが、地元の生活保護の担当の地方公務員から「早く仕事を見つけろ。仕事はまだか。」と言われ、怖い思いをした。公民館の掃除の仕事の紹介を受けて、時給450円で、週3日、1日3時間働いて、わずかな収入を得ることができただけであった。
帰国後1年半ほど経過した1987年に、やはり長期未帰還者で日中国交回復後帰国して東京で働いていた弟をたよって東京に転居し、調布市内の民間アパートに住むようになった。仕事は見つからず、生活保護を受け続けた。
1989年には原告Bの夫と長男が、1992年には原告Bのその余の3人の娘が、それぞれ、日本に移住した。いずれも自費帰国であった。
原告Bは、被告の主張する中国からの帰国者に対する帰国後の国の援護措置のうち、帰還手当及び年金の特別措置のみその支援を受け、他の措置からは全く恩恵を受けていない。生活保護は受給しているが、これは、日本人なら誰でも受けることのできる措置にすぎない。
原告Bは、日本語学習に関しては、日本語教材の支給を受けたこともなく、全く公的な指導を受ける機会を得られなかった。帰国直後に岩手県内のボランティアから他の帰国者20人ほどといっしょに週2回1日3時間の講習を受けただけであった。原告Bは、未だ成人の日本人の通常の会話能力、読み書き能力には達していない。帰国当時は日本語をほとんど忘れており、現在は会話は不自由ながらもある程度できるようになったが、読み書きはほとんどできない。中国語は、家庭内の日常会話はできるが、読み書きはほとんどできない。
原告Bは、夫と2人で調布市内の民間アパートに居住し、生活保護を受けてきた。2000年には、ようやく抽選に当たって、府中市内の都営住宅に入居することができた。2003年には夫が死亡し、現在は、年齢70歳を超え、1人暮らしである。
(3) 原告C
原告C(1934年生)と子2名は、1988年7月に永住帰国した。帰国当初は、東京都の常盤寮に入り、5箇月後に東京都府中市所在の都営住宅に転居した。原告Cは、知人の紹介で中華料理店に雇われて働くことになり、夫や残りの子らの日本への呼び寄せのための資金の貯蓄に励んだ。その結果、1990年から1994年にかけて、順次夫や子を日本に呼び寄せることができた。
原告Cは、被告の主張する中国からの帰国者に対する国の援護措置のうち、帰還手当及び年金の特別措置のみその支援を受け、他の措置からは全く恩恵を受けていない。生活保護は受給しているが、これは、日本人なら誰でも受けることのできる措置にすぎない。
原告Cは、日本語学習に関しては、日本語教材の支給を受けておらず、東京都の常盤寮で指導訓練を受けたが、通常の会話ができるまでには日本語の能力が回復しなかった。その後、原告Aらの中国帰国者の会がボランティア運営する日本語教室やYWCAが運営する日本語教室に通うことにより徐々に会話の能力の向上がみられるようになったが、未だ成人の日本人の通常の会話能力には達しておらず、読み取り能力は未だ低い水準にあり、書く能力は非常に低いままである。
それでも、原告Cは、自分より日本語能力が低い中国からの帰国者やその家族のために、ボランティアとして、役所、病院、就業先等に行って、日本語と中国語の通訳をしている。
原告Cの一番下の子(1974年生まれ)は、帰国直後は中国帰国者の子の多い中学校に入学したが、府中市に転居した後は中国帰国者の子がおらず、いじめ、差別にあい、不登校になってしまった。
原告Cは、現在は年齢70歳を超え、夫は日本入国後の1997年に死亡し、子らも独立し、現在は1人で都営住宅に住んでいる。収入は、月額2万円の年金と生活保護だけであるが、生活保護担当の公務員からは、子供がたくさんいるのだから、子らから援助を受けるようにと無理を言われている。子供らも日本語能力のハンディ等から決して生活は楽ではなく、子供に原告Cの生活まで面倒をみてもらうのは無理であると感じている。また、生活保護家庭では、中国への訪問もかなわず、この点においても、生活保護の支援を受けることの矛盾を感じている。
8 自立支援法
平成6年4月6日、「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」(平成6年法律第30号)が公布され、同年10月1日施行された。
同法は、「今次の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情にかんがみ、これらの者の円滑な帰国を促進するとともに、永住帰国した者の自立の支援を行うことを目的」とする旨を定め(1条)、「国は、本邦への帰国を希望する中国残留邦人等の円滑な帰国を促進するため、必要な施策を講ずるもの」とし(3条)、「国及び地方公共団体は、永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため、必要な措置を講ずるもの」とし(4条1項)、「国及び地方公共団体は、中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援のための施策を有機的連携の下に総合的に、策定し、及び実施するもの」と規定している(5条)。
同法は、その施策として、長期未帰還者等が永住帰国する場合における国の永住帰国旅費の支給等(6条)、永住帰国した長期未帰還者等及びその親族等の生活基盤の確立に資するために必要な資金(旧帰還手当)の支給(7条)、生活相談等(8条)、公営住宅の供給の促進(9条)、雇用の機会の確保(10条)、教育の機会の確保(11条)、就籍等の手続に係る便宜の供与(12条)、国民年金の特例(13条)、一時帰国旅費の支給等(14条)について規定している。
第2早期帰国義務違反に関する当裁判所の判断
1 早期帰国義務の法的根拠としての法令、条約等(条理を除く)
原告らは、被告が長期未帰還者を早期に帰国させる義務の根拠として、次の(1)から(5)までに掲げる法令、条約等を主張する。後記説示のとおり、被告が原告らを始めとする長期未帰還者を早期に日本に帰国させるべき政治的責務を負っていたことは明らかである。しかしながら、国家賠償法の適用による損害賠償の観点からすると、当該法令、条約等の性質からみて、これらが直接個人の権利(金銭による損害賠償請求)の根拠になるものとみるのは困難であるというほかない。次の(1)から(5)までに掲げる法令等に基づく原告らの請求は、理由がない。
(1) ポツダム宣言の受諾
(2) 日本国憲法11条、13条、22条
(3) 国際人権条約(国際人権B規約12条4項)
(4) ジュネーブ条約24条、26条
(5) 日本国との平和条約
2 先行行為に基づく条理上の作為義務
(1) 原告らは、被告が原告らを始めとする長期未帰還者を早期に帰国させる義務の根拠として、先行行為に基づく条理上の作為義務を主張する。
国家には自国民を保護すべき政治的責務がある。
第1の1から3までの認定事実におけるような経緯の下で中国に取り残され、中国にとどまることを余儀なくされた原告らについては、その保護をすべき政治的責務が日本政府にあることは明らかである。中国に取り残されている期間中に中国国籍を取得した者についても、中国に取り残された経緯が第1の1から3までに説示するような経緯である以上は、その国籍取得が真意に基づかないものである可能性もあることは経験則上明らかであるから、保護をすべき必要性の有無について積極的に調査すべき政治的責務が、日本政府にあるものというべきである。
原告らは、日本国憲法施行の時期においては、その全員が、日本国民として、移転の自由(日本国憲法22条1項)を有しており、帰国の自由も有していた。政府の負う自国民保護の政治的責務は、このような憲法的価値を有する原告らの自由権の実質的な保障にも資することになるものであって、極めて重要な責務であったものというべきである。
条理上の作為義務の検討に当たっては、国家がこのような政治的責務を負い、それは憲法的価値を有する原告らの自由権の保障に資するものであることも、十分に考慮すべきである。
(2) 第1の1から3までの認定事実によれば、次のようにいうことができる。
ア 中国東北地方は、歴史的には日本人が定住してきた地域ではなく、伝統的に満州民族、蒙古民族、漢民族などが定住してきた地域であった。日本人の中国東北地方への移民が実施されていた時期においても、現地の住民の圧倒的多数は中国人であり、日本人移民は、人口的には少数派にとどまった。北米地域や中南米地域への日本人移民が、移住先の民族出身者と婚姻する者もあり、随時移住先の国籍を取得し、移住先の国家に忠誠を誓い、その兵役にも応じ、現地と同化していったものであって、現地の脅威とはならなかったのと異なり、中国東北地方への日本人移民は、現地と同化せず、日本人同志で婚姻して日本民族の純血を守り、満州国の国籍は取得せずに、満州国から国防を委任された日本の兵役に応じ、満州国において指導的地位を占めるものとされた。このような日本人移民は、現地人からみれば、異分子であり、脅威であった。
このような情勢の下で、将来、現地の満州民族、蒙古民族、漢民族などの勢力が政治的に優勢になったときは、日本人移民は、現地人から攻撃を受け、農地を奪われ、家や職を失う危険性があった。また、現地人勢力との間で武力紛争が発生して、現地軍又はこれを庇護する第三国軍が優勢となるときは、戦乱に巻き込まれて難民化する危険性があった。
他国と陸続きで接し、外国人が周囲の多数を占める外地において日本人居留民が軍事的劣勢の戦乱に巻き込まれる場合の危険性は、日本本土において軍事的劣勢の戦乱に巻き込まれる場合の危険性よりも、格段に高いものであった。四囲を大海に囲まれ、住民のほとんど全部が単一の日本民族であるという日本本土の環境の下においては、多数の日本人が家と職を失って難民化するというような事態が発生する危険性はさほど高くないと考えられた。軍事的に制圧されても、外国人が日本人の土地を取り上げて日本国内に移住してくるような事態まで発生する可能性は、それほど高くはなかった。それに比べて、他国と陸続きで接し、外国人が周囲の圧倒的多数を占める外地において戦乱に巻き込まれ、現地軍や第三国軍が優勢となる場合には、現地と同化していない日本人居留民は、家と土地を取り上げられ、職を失って難民化し、生命、身体、財産等に発生する損害も甚大なものとなることが予想された。
イ 中国東北地方は、ロシア(ソ連)と陸続きで接しており、かつてはロシアがその権益を確保してきた地域でもあり、ロシアは日露戦争後に南満州鉄道の利権を日本に譲り渡したものの、満州国建国後も、ロシア革命後のソ連と日本との間の軍事的緊張関係が続いていた。
このような情勢の下で、将来、ソ連軍が西、北、東の三方向の全部または一部から中国東北地方に進攻し、日本軍が劣勢に陥ったときは、日本人居留民が家と土地を取り上げられ、職を失って難民化する危険を招き、戦乱に巻き込まれた日本人居留民は、生命、身体、財産等に甚大な損害を受ける可能性があった。殊に、ソ連との国境に近い地域に定住する開拓団員の被害は、大きなものとなることが予想された。このような危険性が日本本土において軍事的劣勢の戦乱に巻き込まれる場合の危険性よりも格段に高いものであることは、アにおいて説示したとおりである。
ウ 日本人移民の送出開始から第2次世界大戦の終了までの間は、日本国内や日本の支配下地域においては、日本軍は強い、関東軍は強いという広報、宣伝、教育が当時の日本政府から徹底して行われ、前記ア及びイのような危険性があることは日本人移民には知らされなかった。
移民送出開始時から太平洋戦争開戦までの時点において、開拓団の入植地が戦場となった場合又はなるおそれがある場合における国民保護策(開拓団居留民の避難計画等)も、講じられることはなかった。当時は、第2次世界大戦の中盤以降と異なり、アメリカ合衆国軍が日本にとっての最大の脅威であったわけではなく、ソ連軍が最大の脅威であり、中国東北地方は最も軍事的に危険な地帯であったが、緊急時において十万人単位の開拓団民をソ連国境から遠い場所に避難させ、人数分の最低限の衣食住を避難先に確保するという計画はなく、かといって戦場において開拓団が軍と共に行動するための訓練が行われていたわけでもなかった(老人や子供のいる集団が戦闘中の軍と共に行動することは不可能である。)。また、移民の人口を、国民保護策(避難計画等)を講じることが現実的に可能な数に抑制するという対策も講じられなかった。
エ 第2次世界大戦の戦況が日本に不利になって関東軍の兵力が他の地域に転用され、極東のソ連軍と比較して明らかに関東軍の戦力が弱体化した1943年以降の時期や、関東軍が対ソ攻勢作戦を放棄して開拓団の入植地をソ連進攻時における持久戦のための戦場とする作戦に変更した時期に至っても、ソ連軍進攻時の危険性を開拓団居留民に伝えることもなければ、危機到来時における国民保護策(避難計画等)を検討することもなかった。
オ さらに、1945年に入り、欧州戦線におけるドイツ軍の劣勢とソ連軍による兵力の極東への大量移送の開始が明らかになり、ソ連軍進攻の危機が切迫してきた時期においても、開拓団居留民の全部又は一部に避難命令を出すこともせず、開拓団居留民にソ連軍進攻の危機が切迫してきたことも伝えず、関東軍において開拓団居留民を対象とする国民保護策(避難計画等)を講じることもなかった。(3) (2)記載のとおり、日本政府は、開拓団を外地の危険地帯に送出しながら、現地の軍事的危険性を開拓民に知らせず、軍事的危険が到来した場合の国民保護策(現実的な避難計画等)を立てることもなく、ソ連軍進攻により開拓団の居住地が戦場と化す危機が切迫してもなお、開拓団の被害を軽減するための策を講じないまま、1945年8月9日にその潜在的危険を現実化させてしまったものである。
関東軍の戦力の弱体化に対応させて移民計画を縮小又は中止し、開拓団の人口を抑制したり、開拓団の全部又は一部をソ連国境から遠い地域に避難させるなど何らかの避難策、国民保護策があらかじめ立案され、かつ、危機の切迫時にこれを実行に移していれば、原告らのような長期未帰還者の発生も、かなり抑制できたものと推認される。
(4) 第1の1から3までに認定したような国策による外地の危険地帯への移民の送出と危機発生時の有効な国民保護策の立案実行の懈怠という先行行為があり、これが長期未帰還者が大量に発生した原因となっている以上は、日本政府としては、条理上、可能な限り、長期未帰還者について、その中国に取り残された事情並びに中国における生活史及び家族関係を直接調査し、また、日本への帰国意思を直接確認し、帰国希望者については、中国において新たに形成された家族、親族の関係も含めてどのようにすれば円滑な帰国ができるかを総合的に調査検討すべき政治的責務があったものというべきである。そのような政治的責務は、1945年に日本国籍を有していたすべての者に対して負うものであって、その後に中国国籍取得という形式的な事実があったかどうかを問わない。そして、その政治的責務の懈怠が、ただちに国家賠償法上の(損害賠償義務を発生させる)職務上の義務違反となるものではないが、その懈怠が看過することのできないほど甚だしいものである場合には、国家賠償法上も違法の評価を受けることもあるものというべきである。
なお、被告は、原告の主張は、公務員を個別に特定した上でその職務上の義務内容及び法律上の根拠を明示していないから、国家賠償法上の違法の主張としては、主張自体失当であると主張する。しかしながら、所管省庁も義務の根拠となる制定法も一義的に明らかでないが、なお国に条理上の作為義務が認められる可能性がある場合には、公務員の個別の特定や義務の制定法上の根拠を特定しないと主張自体失当となる旨の被告の主張は、被告内部の消極的権限争いの解決を相手方当事者に転嫁するかの結果を招来するものでもあり、相手方当事者に不可能を強いるものであって、採用することができないことは、論をまたないところである。引揚援護事務や入国管理事務を所管する公務員が自己の所管と関連する国の政策全体に改善の余地はないか問題提起し、他省庁や内閣がこれに呼応して行政府全体として適切な措置をとるべきであったという趣旨の主張があれば、主張としては足りており、原告の主張がこのような趣旨を含むものであることも、また、明白である。
(5) (2)のエ及びオの時期、すなわち第2次世界大戦の戦況が日本に不利になった時期以降においては、ソ連を含む連合国側からの進攻を受ける危険のある地域が中国東北地方に限られず、日本本土、朝鮮半島、中国各地、台湾など多数の地域への上陸攻撃が予想され、日本国内における空襲も激しく、避難民の海上輸送にも敵からの攻撃の危険が伴うなど、避難適地や避難のための交通路の安全性の確保が困難であったなどの問題があった。また、この時期においては、日本国内や日本の支配下地域における物資の不足から、何万人もの、あるいは十何万人もの避難民の避難先での衣食住の確保も困難であった。したがって、この時期においては、本格的避難計画は作りようがなく、開拓団全体を避難させることは不可能であったのが実情であろう。しかしながら、危機の到来した場合の国民保護策を立案せずに、何万人もの、あるいは十何万人もの日本人を、日本人定住の歴史のない外地の戦乱危険地帯に移民として送り込んだことが問題とされるべきなのであって、問題とされるべき先行行為があったことには変わりのないところである。
被告は、原告らが中国に取り残された原因は、日ソ中立条約締結時の声明に違反して中国東北地方(満州帝国の領土)を侵犯したソ連軍の行動にあると主張する。しかしながら、遺憾ながら、国際的な条約や協定は遵守されないことも珍しくなく、遵守を強制するための平和的手法も確立していなかったのが当時の状況なのである。したがって、当時の日本政府としては、前記声明に違反してソ連軍が進攻してくる可能性があることを前提に、各種の国民保護措置を講ずるべき政治的責務を負っていたものである。また、ソ連軍が1945年の越冬時に日本人難民救援策をとらず、日本への引揚船を出すことを許可するなどの引揚のための措置をとら
なかったとが、原告らが中国に取り残された原因の一つになっているとしても、他国と陸続きの外地における悲惨な陸戦とその後の被占領状態に巻き込まれないようにするための国民保護策を立案すべく当時の日本政府が努力を尽くしていたとはいえない以上は、日本政府が先行行為に基づく条理上の作為義務を問われるべき地にあることに変わりはないものというべきである。
また、日ソ中立条約が期限満了により失効する翌1946年にはソ連軍が進攻してくることが確実に予測できたにもかかわらず、これを知らされないまま1945年に国策移民として中国東北地方に入植した原告Cのような者については、1945年に入っても移民政策を中止しなかったという先行行為も問題とされるべきところであろう。
3 終戦直後から日中国交回復まで
(1) 被告が長期未帰還者の早期帰国の実現という政治的責務を果たすためには、長期未帰還者について積極的に調査し、その存在を具体的に把握し、その帰国意思を確認する必要がある。しかしながら、原告ら長期未帰還者は、日本の主権が及ばない中国に取り残されていた。したがって、被告は、中国政府の了承なしに長期未帰還者の積極的な調査、その存在及び帰国意思の把握をすることは困難であった。また、帰国を希望する長期未帰還者が日本に帰国するために中国から出国をするにも、中国政府の協力が必要である。そうすると、中国政府との円滑な協力関係を築くことができない場合には、被告は、長期未帰還者の帰国という政治的責務を果たすことができない。
(2) 日中国交正常化前の時代には、厚生省の担当部局に個別的な未帰還者調査の依頼、長期未帰還者からの帰国希望の表明があっても、身元等の調査、帰国意思の確認及び実際の中国出国手続について、中国政府から協力を得ることは困難であった。したがって、日中国交回復前においては、被告が、原告らを始めとする長期未帰還者に対し、先行行為に基づく条理上の作為義務としての早期帰国実現義務を負っていたものとはいえない。
(3) 未帰還者に関する特別措置法は、未帰還者に係る失踪宣告の請求権を厚生大臣に付与するものであるが、前記認定事実によれば、これが、原告らを始めとする長期未帰還者の帰国を妨害するなどの違法、不当な目的を含むものとまではいい難い。また、戦時死亡宣告は、厚生大臣から委任を受けた都道府県知事の申立てに基づいて(14条、未帰還者に関する特別措置法施行令1条の2)、家庭裁判所の審判官(裁判官)による審判手続によって宣告され、戦時死亡宣告の要件の有無については個別的な司法審査を経るものである。また、仮に原告ら以外の長期未帰還者について不適切な調査(日本国内在住の親族の意向調査)等に基づく戦時死亡宣告の申立て及び審判がされたとしても、それが原告らに対する違法行為を構成するものでもない。その他、戦時死亡宣告制度の関係で、被告の公務員による未帰還者調査の放棄等の違法な措置により、原告らの帰国を妨害したことを認めるに足りる証拠はない。
(4) 第1の4(2)において説示したとおり、1950年ころには、中国に取り残され、中国人社会の中で散在的に生活している日本人婦人、孤児が多数いることも、日本政府の認識するところとなっていたものである。これを、国際結婚した人や中国人にもらわれていった子供と表現したり、実質的に中国人になった人と表現したりして、裏付けもなしに帰国希望者は少数であろうと結論付けた1958年の政府委員答弁(第1の4(3)参照)は、非常に問題のあるところである。しかしながら、当時の日中国交断絶という客観的情勢の下においては、これを国家賠償法上違法であるとまで断ずることも、また困難である。
(5) 以上に説示してきたところを総合すると、日中国交回復前の被告の担当公務員に、原告らの帰国の遅延につき看過することのできないほど甚だしい懈怠があったとまでいうにはいささか無理があるのであって、これを国家賠償法上違法と評価することはできない。
4 日中国交回復後
(1) 厚生省の担当部局の職員が、日中国交回復前から、1945年以降、身元の判明している原告ら多数の長期未帰還者が中国社会の中に埋もれるような形で取り残されていることを認識していたことは、前記第1の4の(2)及び(3)における認定事実から明らかである。そして、厚生省の担当部局の職員は、日中国交回復時(1972年9月29日)以後においては、身元の判明している長期未帰還者のうち帰国を希望するものの早期帰国の実現に向けた具体的な施策を企画、実施することができるようになったものというべきである。
また、厚生省の担当部局の職員は、日中国交回復前から(遅くとも日中国交回復後まもなく)、日本国内にいる長期未帰還者の親族には傍系親族が多く、終戦後長年の期間が経過したこともあり、長期未帰還者を丸抱え的に受け入れること(第1の6(10)において説示した身元引受人の実際の業務を全部行い、かつ、現実の経済的負担や民事上の保証責任を負うこと)が困難な傍系の親族が多いことも、また、容易に認識することができたものというべきである。
国家が自国民保護の義務を負うものである以上は、厚生省の担当部局の職員は、中国との外交関係が回復した後においては、身元の判明している長期未帰還者(1945年以降いったん中国の国籍を取得した者を含む。)について、その中国に取り残された事情、中国における生活史、家族関係及び帰国の意向確認等の調査の実施並びに帰国のための環境整備等の企画立案を自ら積極的に行うべき政治的責務を負っていた。また、日本国内における調査によっても生存が確認されていない行方不明者(戦時死亡宣告を受けた者を含む。)についても、可能な限り捜し出していくべき政治的責務を負っていた。
(2) しかしながら、1972年の日中国交回復後においても、日本政府において、長期未帰還者、殊に原告らのような身元の判明している日本人に対して、積極的かつ直接的な調査、意向確認を実施しようとした努力の形跡が、目にみえてはうかがわれないところである。もちろん、中国国内に現在する者に対する調査、意向確認であるから、中国政府の理解の下に進めなければならないものではあるが、積極的かつ直接的な調査の実施につき中国政府の理解を得ようとした努力の形跡も、目にみえてはうかがわれないことは、人道主義的観点からも、自国民保護の観点からも、遺憾なことである。
長期未帰還者のうち原告らのように終戦時に10歳以上であった者は、日本国内において過ごした幼少時の具体的な記憶があるのが通常であり、そのような具体的な記憶が強い望郷の念を引き起こすのであって、日本国内における生活の記憶がない孤児とは別の意味で、帰国できないことが苛酷なものである。いわゆる中国残留婦人を積極的に捜し出し、日本国内に帰国できる条件を早期に整えるという国家としての気概がみえなかったことは、人道主義的観点から、誠に残念なことであり、戦争被害者の帰国に消極的であることは、国家危急存亡の時における国民の国家、政府への信頼感の醸成や愛国心の涵養を阻害するのではないかと危惧されるところである。
(3) このように、1972年に直ちに着手可能であった原告らを始めとするいわゆる残留婦人に対する帰国のための環境整備作業が何年たっても本格的に開始されないうちに、1975年から新聞紙上で身元の判明しない中国残留孤児の親族探しが始まっていった。殊に1981年に孤児の訪日調査が開始された後は、一方において孤児の親族探しに社会の注目が集まっていきながら、他方において長期未帰還者のうち終戦当時13歳以上であった者(残留婦人)の問題は社会に広く認知されるに至らなかった。孤児の親族判明が明るい話題として大きく報道されていくという事態の進行につれて、孤児の親族探しが終われば中国に取り残された長期未帰還者の問題は全て解決すると理解する向きが世の中に増えてきたことも否定できない。
これに引き続く中国残留日本人孤児問題懇談会の報告書(乙101)が、要旨、孤児がその家族とともにに帰国することを望む場合には、政府が帰国した孤児の定着のために根幹的な対策を進め、地方公共団体やボランティア団体が孤児たちのために援助を行うことが必要であるとするものの、「それは側面的な援助であって、最終的には孤児自らが努力して困難を克服していかなければならず、日本に帰国した方が幸せか、中国に留まった方が幸せかは、日本社会の実情をよく知った上で、孤児自身がよく考えて判断すべきもの」という記載があるが、読みようによっては長期未帰還者の帰国に非常に消極的な姿勢がうかがわれるのであって、人道主義的観点からも、自国民保護の観点からも、問題なしとしないところである。
(4) 集団引揚の旅費(船賃等)は無料であったし、1953年以降個別引揚者の帰国旅費の国庫負担制度が実施されている。ところで、被告は、中国に取り残された長期未帰還者に対する帰国旅費国庫負担制度の周知方法としては、日本国内の親族を経由した方法を採用しており、それは未帰還者調査の際に築かれていた連絡経路を活用でき、帰国希望者が日本人の長期未帰還者であることを確認できるという点で、必要かつ合理的な方法であったと主張する。また、帰国旅費の国庫負担申請につき長期未帰還者が行うべきことは、日本国内の親族に帰国希望を伝えることだけ(1985年以降は中国に残る親族の同意があることを明らかにする書面の送付も必要)であり、身元保証人の確保等は必要なかったから、身元保証人制度等が帰国の障害になったという原告らの主張は理由がないと主張する。
原告らのような日本国内に親族がいることが判明している長期未帰還者については、帰国旅費国庫負担手続の申請者は当該親族に限られており、長期未帰還者本人が申請しても国庫負担をしてもらうことはできない。
長期未帰還者から帰国の希望を伝えられた日本国内の親族には、長期未帰還者のために帰国旅費国庫負担申請をすべき義務が課せられていない。したがって、日本国内の親族が帰国旅費国庫負担申請手続を行わない場合には、長期未帰還者は国庫負担の恩恵を受けることができない。長期未帰還者は、帰国旅費やその後の日本国内での当面の生活費を用意するほどの経済力がないのが通常である(中国国内の物価水準は日本より低く、中国では相応の所得のある者でも日本の貨幣価値に置き換えるとその経済力は高くない。)から、帰国旅費の国庫負担を受けられない場合には、事実上帰国することができないというのが、通常の事態である。
そうすると、帰国旅費国庫負担申請者を日本国内の親族に限定するという被告の運用は、実質的には、長期未帰還者の帰国許可の権限を日本国内の親族に委ねるものに等しく、第1の5(5)において説示したとおり、長期未帰還者の帰国後の丸抱え的な世話を行う余裕のない親族が多いという実情の下においては、多くの長期未帰還者の帰国を妨げ、又は遅延させるという機能を果たしてしまったことは覆い隠しようのないところである。
厚生省の担当者も、身元の判明していない中国残留孤児の身元調査、親族捜しの過程で、身元が判明しても日本国内に引き取りたがらない親族が多いことは認識していたものと推認される。そうすると、帰国旅費国庫負担申請者を日本国内の親族に限定するという被告の運用は、相当問題をはらむものであったということができる。
また、長期未帰還者の帰国許可の権限を日本国内の親族に実質的に委ねてしまったために、日本国内や中国国内の官公署の現場の第一線においては、担当公務員の意識レベルにおいて、長期未帰還者は日本国内の親族が身元保証人にならなければ帰国することができないという共通認識、事実上のルールが確立してしまったものと推認される。厚生省の担当者も、そのような認識を有していたものと推認される。
5 検討
以上に説示してきたところを総合すると、被告の帰還事務、援護事務担当公務員には、原告らの帰国を促進するという観点からこれをみるとき、少なくとも日中国交回復後においては、極めて消極的な施策しか実施していなかったということができ、そのため、原告らは永住帰国の時期が遅れ、また、永住帰国実現のための障害とこれらの障害を乗り越えるための労苦もいたずらに多かったということができるのであって、これを国家の政治的責務の懈怠と評価することもできるところである。そして、その懈怠の程度は、決して小さいものではなかったというべきである。
政治的責務は、国家が個々の国民に対して負うものではなく、主権の存する国民全体に対して負うものである。ここで問題とされているのは、国家の政策の企画、立案及び実施の当否であって、財政、経済、社会政策等に基づく総合的政策判断によるところが大きく、基本的には行政府の裁量的判断に委ねられた事項である。その国家賠償法上の違法をいうために越えなければならないハードルは高い。国家の所為に政治的責務の懈怠がみられるとしても、それが個々の国民に対する関係で看過できないほどの著しい懈怠を構成するものでない限り、直ちに個々の国民に対する国家賠償法上の義務の懈怠となり、賠償責任を負うとまではいえない。
原告らの上陸手続においていかなる手続がとられたのかは本件全証拠によっても必ずしも明らかではなく、親族が身元保証を行うものであることが確認できる通信文その他の書類の提出を求められたかどうかも判然としない。また、中国籍の同伴家族の上陸手続について通常の外国人並みの手続がとられること自体も、長期未帰還者の帰国の円滑化のためにより簡素な手続がとられることが望ましいところではあるが、この点を国家賠償法上違法とまでいうことは困難である。
帰国旅費国庫負担申請権者を日本国内在住の親族に限定して長期未帰還者本人などにはこれを認めなかったことは、合理性を甚しく欠く措置であり、政治的責務の著しい懈怠としてこれを国家賠償法上違法とみる余地もあるところである。ところで、原告らとの関係でこれをみるとき、国家の政策は、財政、経済、社会政策等の国政全般にわたる総合的政策判断によるところも大きいこと、原告らが1988年までには永住帰国を果たすことができたことをも併せて考えると、これを看過することのできないほどの甚だしい政治的責務の懈怠があるものとして国家賠償法上も違法であると評価するには、今一歩足りないところである。
原告らの主張するその他の早期帰国義務違反も、これを国家賠償法上違法と断ずるにはやや足りないものというべきであって、原告らの早期帰国義務違反の主張に基づき損害賠償請求を認容するまでには至らない。
第3自立支援義務違反に関する当裁判所の判断
1 一般の戦争被害者と異なる自立支援措置の必要性
(1) 戦争被害の国政上の扱い一般
第二次世界大戦によりほとんどすべての日本人が様々な被害を受けたこと、その態様は多種、多様であって、その程度において極めて深刻なものが少なくないことは、公知のところである。戦争中から戦後にかけての日本国の存亡にかかわる非常事態にあっては、日本人のすべてが、多かれ少なかれ、その生命、身体、財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたのであって、これらの犠牲は、いずれも戦争犠牲ないし戦争損害として、日本人の等しく受忍しなければならなかったところであり、これらの犠牲に対する対策の性質を有する政策立案は、事柄の性質上、財政、経済、社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって、国家財政、社会経済、戦争によって国民が被った被害の内容、程度等に関する資料を基礎とする行政府及び立法府の裁量的判断に委ねられたものと解するのが相当である(なお、最高裁昭和40年(オ)第417号同43年11月27日大法廷判決・民集22巻12号2808頁及び最高裁平成5年(オ)第1751号同9年3月13第1小法廷判決・民集51巻3号1233頁参照)。
(2) いわゆる中国残留婦人・中国残留孤児の戦争被害
中国に取り残された長期未帰還者も第二次世界大戦により被害を受けた日本人であるが、他の戦争被害者と異なる特性がある。それは、青年期又は少年期に日本社会、日本国の支配地域から切り離され、周囲に日本人がおらず、日本語の文字情報も音声情報も入ってこない環境下に置かれたことである。また、日本語教育を受けることができず、中国語により周囲とのコミュニケーションをとらざるを得ず、次第に日本語の能力も低下し、日本文化や日本社会における習慣など、日本国内において大人の仲間入りをするための訓練を受けることができない状態に置かれたことである。そして、このような状態に置かれたまま、20年も30年も放置され、結果的に、日本社会における自立能力、生活能力、労働能力(収入獲得能力)を失ってしまったことである。
1946年から1949年ころまでに中国東北地方から日本国内に引き揚げてきた者も、生活の基盤を日本国内に有しないまま、中国にあった資産を持ち帰ることも許されずに無一文に近い状態で帰国したのであって、国内における職探し、生活基盤の再構築は、極めて苦労の多いものであった。
また、第2次世界大戦終結時に中国東北地方にいた多くの日本人の軍人・軍属が、ソ連軍の捕虜となり、シベリア地域の収容所等に送られ、捕虜の取り扱いに関する国際法規に反して、その後長期間にわたり、満足な食糧も与えられず、劣悪な環境の中で抑留された上、過酷な強制労働を課され、その結果、多くの人命が失われ、あるいは身体に重い障害を残すなど、筆舌に尽くし難い辛苦を味わわされ、肉体的、精神的、経済的に多大な損害を被ったこと、シベリア抑留者の中には、このような環境の中で10年程度も抑留された後にようやく日本に帰国したものもいることは公知の事実であり、このような者も、生活の基盤を日本国内に有しないまま無一文に近い状態で引き揚げた後、日本国内における職探し、生活基盤の再構築は、極めて苦労の多いものであった。
これら引揚者は、祖国日本で一から生活基盤を造り直すという困難な状況に置かれていた。ところで、これら引揚者は、本件における長期未帰還者と異なり、戦争終結前に日本国内で既に社会人となり、成人として完成した日本語の能力と日本の生活習慣、社会習慣等を身につけていた。外地抑留中も日本人集団の中にいた者が多く、日本語を忘れることはなかった。したがって、帰国時には、日本語の能力や日本の習慣への適応という点については、格別の問題を抱えていなかった。
他方、中国に取り残された長期未帰還者は、成人として完成した日本語の能力と日本の生活習慣、社会習慣等を身につける前に中国に取り残され、日本語の文字情報も音声情報もない環境に置かれたまま、中国人の社会の中で中国語を用いて長期間生活するほかなかったのである。その結果、帰国時には、深刻な言語的問題や文化的問題(日本語の能力の低さ、日本の社会習慣への不慣れ等)に直面せざるを得なかったものである。
(3) 長期未帰還者の被害回復に当たっての視点
原告らを始めとする長期未帰還者は、日本国憲法施行時以降も、日本国憲法26条の教育を受ける権利を奪われ、ひいては日本国憲法13条の精神に沿って幸福を追求しながら自己の人生を切り開いていく機会を、自らの責任によらずに、奪われた境遇にあった。そして、日本語能力及び日本の社会習慣を身につけることができなかった。
その結果、長期未帰還者は、帰国しても、日本語教育等の支援がなければ、職探し、生活の維持が不可能であるのが通常である。さらに、日本語能力が低くても就職できる職種は、主に単純労務作業であって、その賃金水準は非常に低いのが通常である。日本語能力が高ければ、もう少し高度な技術職、事務職についたり、起業して自営したりすることもでき、職業訓練を受けた場合でもその訓練の効果が非常に上がり、特殊技能を身につけたりすることもできたものと考えられる。そして、これに伴い、収入水準、生活水準も上がっていったものと考えられる。
このことを別の面からとらえると、長期未帰還者らは、一般に、日本語能力の水準や日本の社会習慣への適応能力の水準が原因で、同世代の標準的な日本人よりも日本国内における労働能力を喪失した状態に置かれており、したがって、逸失利益のようなものがその損害として発生しているということができる。交通事故の後遺症により労働能力を喪失した者の逸失利益は、金銭賠償されるのが通常である。この長期未帰還者らの損害をてん補するための方策としては、日本語教育や日本の社会習慣に適応するための教育、研修を徹底して行って本人の収入獲得能力を回復させる方法(日本国内における労働能力を回復させる方法)又は直接その逸失利益を補填する方法(逸失利益を金銭により補填する方法)が考えられるところである。後者の直接逸失利益を補填する方法は、帰国後日本語・専門知識等の学習中又は職業訓練中であるなど収入獲得能力を高める努力中の者、病気等により就労できない者、高齢のため退職後の者、何らかの事情により日本語教育の効果が見込めない者に対して、実施することが考えられる。
長期未帰還者らは、自らの怠慢により日本国内における労働能力を喪失したものではなく、長期未帰還者らを外地の危険地帯(中国東北地方)に国策により送出した上、危険が生じた場合の国民保護策を講じておかなかった第2次世界大戦前の日本政府の施策が原因で、戦後も中国国内に取り残され、その結果日本国内における労働能力を喪失したものであるから、このような補償措置を強力に政策立案していくべき政治的責務が日本政府にはあったものと考えられる。
なお、高度な日本語能力や職業能力を身につけるのが、長期未帰還者本人ではなく、その同伴家族であっても、帰国者家族の生活水準は上がるのであるから、同伴家族に援護措置を講じることが帰国者への援助になることも、考慮されてよい問題であろう。
2 生活保護制度の帰国者に対する運用状況
第1の6(16)において説示したとおり、本来は病気、高齢その他の理由により稼働能力を欠く世帯に適用されるべき生活保護制度を、1において説示したような状況に置かれた長期未帰還者やその家族、子弟にそのまま適用することは、長期未帰還者本人には1年の日本語学習猶予期間を与えるという点を考慮に入れても、彼らの日本語能力修得や職業能力修得の十分な機会を奪うという点において、無茶な措置であることは否めないところである。
したがって、単純労務には就労可能な長期未帰還者及びその家族、子弟であっても余裕をもってこれに接し、意欲のある者に対しては、日本語学習その他の逸失利益回復に資する高度な学習・職業訓練の機会を与え、帰国後1年経過後であってもその間の生活保護受給を許容するのが相当である。長期未帰還者の家族に対しても、上記のような運命をたどった長期未帰還者の生活水準の向上のためには、長期未帰還者と同様に余裕をもってこれに接し、意欲のある者に対しては、高度な学習、職業訓練の機会を与えるのが相当である。
生活保護法の運用上、このような中国からの帰国者を特別扱いすることには十分な理由がある。また、中国からの帰国者に対する制度を、通常の生活保護とは別建てにすることも、十分に考慮に値するところであり、原告らの主張には傾聴すべきものがあるとみられる。
長期未帰還者は、第2次世界大戦前に、高度な危険地帯であることを告知されないまま国策により外地の危険地帯(中国東北地方)に移民し、危急時の国民保護策(避難計画等)も講じられないまま推移し、関東軍が極東ソ連軍と比較して明らかに劣勢になった後には大量の移民の避難先確保策を講じることも不可能となり、その挙げ句、第2次世界大戦の終盤において予期せぬ戦乱に巻き込まれ、その結果、中国に取り残され、日本語の能力が低下し、日本の社会習慣に慣れる機会を失ったのである。そのことを考慮するとき、日本人の日本語習得のための義務教育年限が9年であることをみれば、帰国後数年程度の就労猶予と学習や職業訓練への支援が与えられることも、それほどおかしなことではないはずである。帰国者らが中国に取り残された経緯が、危険性の事前告知も危険が具体化した場合の国民保護策の策定もないまま、国策により外地の危険地帯に移民したということにあることを思うとき、もっと血の通った生活保護行政(または、これに代わる制度の構築)ができないかと思われるところである。
3 日本語教育等
(1) 日本語教育の必要性
成人の日本人であっても、日本人のいない場所に放り出されて現地語を使用せざるをえなくなり、日本語の音声情報にも文字情報にも触れる機会がほとんどない環境に置かれたまま長年経過すると、その者の日本語の能力が著しく衰えることは、経験則上明らかである。
長期未帰還者たちは、成人する前にそのような環境に放り出されたまま、30年以上も放置されていたものであって、原告らも同様であり、原告B及び同Cは、日本語の能力がかなり衰えた状態で帰国したものである。原告Aは、そのような環境下で日本語を忘れないように、日本語の歌を1人で歌うことを続ける努力などをして、日本語能力の衰えを防いでいたものであるが、通常人なら誰でもできる努力ではなかったものというべきである。
そうすると、中国からの帰国者に対しては、日本語教育の機会を与えることが必要である。
1945年当時13歳以上であった長期未帰還者(中国残留婦人)は、1945年までの青少年期に、相応の日本語能力を身につけていたものであるが、だからといって、これらの者への日本語教育施策が不要であるということはできないことは、前記説示に照らし、いうまでもないところである。
(2) 日本語教育施策の不十分さ
被告は、1972年の日中国交回復以降長期未帰還者の永住帰国が増加していったにもかかわらず、1977年までは日本語教育施策を何ら実施しなかった。
1977年以降は、必要と認めたものに限りテキストと録音テープから成る教材を配布したというのである。しかしながら、施策の内容自体から、その日本語教育の効果はさほどあがっていないものと推認される。また、原告らは、この教材配布施策を受けていないのではないかとも想像される。
1984年に始まった定着促進センターにおける日本語教育も、わずか4箇月の期間の教室における多人数講義方式では、たいした成果も上げられなかったものと推認される。殊に、原告A及び同Cのような1945年の時点で13歳以上であった者については、定着促進センターの入所資格を与えられておらず(帰国のピークを過ぎようとしている1993年にようやく入所資格が与えられている。)、いわゆる中国残留婦人に対する日本語教育施策は、ほとんど実施されていないといってもよいほどである。
原告B及び同Cは、民間のボランティア的活動による日本語教室に通っただけであり、現在も会話能力の水準は高度なところまでは届かず、読み書き能力は低いままである。
(3) 職業訓練、就職指導
長期未帰還者やその2世、3世に対する日本語教育施策が不十分であるから、職業訓練校などの入校者選抜に合格する帰国者やその2世、3世は少ない。帰国者又はその2世、3世の入校特別枠なども、設けられていないのが一般である。
高度な職業訓練の機会に恵まれる帰国者はわずかであり、帰国者のための職業訓練施策は、不十分である。
日本語の能力が不十分な帰国者やその2世、3世に対しても職業訓練校入校を認める特例、日本語教育と職業教育を同時に受けられるシステムの構築などが望まれるところである。
(4) 引揚者生活指導員・自立支援通訳
引揚者生活指導員制度及び自立支援通訳制度は、帰国後1年で自立できるという無理な標準モデルの下に、帰国後1年、せいぜい2、3年の間、帰国者の手助けを行い、帰国者の日本語能力の不足を他人の能力をもって補うというものにすぎない。帰国者の日本語能力の向上に資するものではない。帰国後数年経過したら、日本語が上達していなくても、支援が受けられない。派遣日数も十分とはいえず、使い勝手もよくない。
日本語教育施策も不十分であり、引揚者生活指導員制度及び自立支援通訳制度も不十分である中で、帰国後2、3年以上を経過した長期未帰還者は、孤立無援の状態に陥ってしまいがちである。日本語教育施策を充実させる必要性は、非常に高いものであるということができる。
4 特別身元引受人等
原告らは何とか日本国内の親族にいわゆる身元引受をしてもらった(原告B及び原告Cは、先に永住帰国した長期未帰還者にいわゆる身元引受をしてもらったにすぎない。)が、身元が判明しない長期未帰還者や、日本国内の親族が受入困難な長期未帰還者に対しては、民間の篤志家による身元引受が行われるようになった。
しかしながら、第1の6(10)において認定、説示したとおり、身元引受人がやらなければならない事項はあまりにも多く、その負担は過重である。民間の篤志家の善意にのみ頼って、やっと制度が成り立っている。引揚者生活指導員や自立支援通訳も、民間の篤志家が努力をしてその業務を行ってはいるが、身元引受人からみるとこのような派遣期間、回数に制限のある制度はあてにならず、最終責任はすべて身元引受人が負わなければならない。
また、中には問題のある身元引受人もいないわけではない。
5 老後施策
(1) 老後施策の必要性
日中国交回復まで戦後30年近くを要したことからも明らかなように、長期未帰還者たちは、日中国交回復時に既に壮年の域に達し、老年期に入りかけた者もいるところである。そして、時の経過とともに、長期未帰還者たちの加齢も進んでいく。日中国交回復後の長期未帰還者たちの帰国がさほど迅速には実現しなかったことから、帰国時に既に老年期に入っている長期未帰還者もみられるところである。
そして、帰国後の壮年期を日本国内で就労して過ごすことができた長期未帰還者たちも、やがて引退の時を迎えることになる。
ところで、わが国の現在の年金制度によれば、帰国者は、中国に残留を余儀なくされていた期間中は、年金の掛け金を支払うことができず、したがって、年齢の割には年金加入期間が非常に短く、わずかな年金しか受給することができないのが実情である。
そのため、第1の6(14)において認定したとおり、国民年金が創設された1961年から永住帰国の前日までの期間については、保険料を納付していなくても、保険料を納付された場合の3分の1相当額が年金額に反映され、帰国者も、標準的な場合において1人1箇月当たり2万2000円程度の年金が受給できるようになったところである。
(2) 老後施策の貧困
今日の日本において、1人1箇月当たり2万2000円程度の収入で生活が成り立つはずもなく、既に老年期に入った原告らがそうであるように、年金を受給しても生活保護を受けないと生活が成り立たないのが通常である。
先に説示したとおり、これを避けるために壮年期にいっぱい働いて老後のための貯蓄をしようと思っても、生活保護の制限的運用のため、日本語学習等が不十分なまま収入の低い単純労務的な職業につかざるを得ないことが多いため、貯蓄もままならないのが帰国した長期未帰還者の通常の状態であると思われる。
長期未帰還者たちが過去分の保険料の納入により自己の受け取る年金額を増加させようとしても、被告は、保険料支払義務の債務不履行(履行遅滞)による損害賠償金も併せて納付しなければ、過去分の保険料の納付を受け付けないという扱いをしている。しかしながら、長期未帰還者らは、帰国までの期間は、中国に取り残されていたことから、社会通念に照らして考えると、保険料支払義務の履行が可能であったとみるには無理がある。また、帰国までの期間は、中国に取り残されていたという不可抗力により保険料の納入ができなかったのであって、このような不可抗力は民法419条2項に規定する不可抗力という用語の想定するところではないとみられる。長期未帰還者らには、債務不履行(履行遅滞)の要件のうち、履行が可能であったという要件を満たさないし、そうでないとしても債務者(長期未帰還者)の帰責事由の存在という要件を満たさないものというべきである。そうすると、長期未帰還者らに債務不履行責任があるかのように扱い、過去分の保険料の納付の際に債務不履行による損害賠償金の納付もさせることは、問題なしとしないところである。まして、長期未帰還者たちが中国に取り残されたこと(履行可能性の不存在、不可抗力の存在)は、外地の危険地帯であるということを告知せずに中国東北地方に大量の移民を送り込み、危機到来時の国民保護策も講じていなかったというかつての日本政府の先行行為に起因するものであるから、いまさら日本政府が債務不履行による損害賠償請求権を有するという前提で行政を執行することは、公法、私法を通じての法の一般原則としての信義誠実の原則に反するともいえるところである。
帰国者らが中国に取り残された経緯が、危険性の事前告知も危険が具体化した場合の国民保護策の策定もないまま国策により外地の危険地帯に移民したということにあることを思うとき、もっと血の通った年金行政(または、これに代わる制度の構築)ができないかとも考えられるところである。
6 検討
(1) 法律を伴うことが予想される施策について
長期未帰還者であった中国からの帰国者たちに、生活保護制度とは別の援助金支給制度(年金制度の特例を含む。)を構築するとすれば、それは立法が必要となる事項ではないかと考えられる。
国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであつて、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的には許されないものといわざるをえず、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであつて、国会議員の立法行為は、立法の内容が日本国憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けないものと解される(最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁参照)。
このような見地からすると、国会議員の立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるのは、特定の具体的な内容の立法を行わないことが、日本国憲法の一義的な文言に違反している場合、すなわち、特定の具体的な内容の立法を行うべき立法義務が、日本国憲法の明文をもって定められているか、又は日本国憲法の文言の解釈上、その立法義務の存在が一義的に明白であるにもかかわらず、国会があえて当該立法を行わないというような例外的場合に限られるというべきである。
これを本件についてみるに、原告らが危険性の事前告知も危険が生じた場合の国民保護策の策定もないまま国策として外地の危険地帯に移民し、具体的な国民保護策の立案がされないで推移するうちに日ソ開戦となり、その後の混乱の中で中国に取り残されたこと、その結果、原告らが教育を受ける権利や幸福追求権を実質的に享受することができず、日本国内における労働能力を喪失し、逸失利益のような損害を受けるなど、著しい不利益を受けたことは前記説示のとおりである。これが、原告らを始めとする長期未帰還者たちの憲法的価値を有する権利、利益の侵害であることを考慮すると、生活保護とは別の援助金支給制度(年金制度の特例を含む。)を構築する立法をせずに長期未帰還者に生じた逸失利益損害を放置することは、看過できない立法の懈怠として、これを国家賠償法上も違法とすることも考えられるところである。
しかしながら、長期未帰還者たちの生活保障のための特別法を制定すべきことを一義的に命じているような日本国憲法の文言を捜し出すこともなかなか困難なことである。長期未帰還者たちの置かれた状況が日本国憲法の趣旨、精神に照らしても非常に問題のあるところであることは、既にいろいろと説示してきたところからも明らかであるが、本件においては、国会の立法不作為が国家賠償法上も違法であるとまで断定するには至らない。
(2) 法律を伴わないで実施できる施策について
帰国者並びにその家族及び子弟に対する生活保護の運用を柔軟に改めること、帰国者並びにその家族及び子弟のための日本語教育機関を充実させること、帰国者並びにその家族及び子弟のための職業訓練機関の充実など就労を容易にするための施策を充実させることなど、法律を伴わないで実施できる施策も多いところである。これらの施策の実施が十分であるとは言い難いことも、また、前記説示のとおりである。
そして、原告らが危険性の事前告知も危険が生じた場合の国民保護策の策定もないまま国策として外地の危険地帯に移民し、具体的な国民保護策の立案がされないで推移するうちに日ソ開戦となり、その後の混乱の中で中国に取り残されたこと、これらの当時の日本政府の先行行為に起因して、原告らは、教育を受ける権利や幸福追求権を実質的に享受することができず、日本国内における労働能力を喪失し、逸失利益のような損害を受けるなど、著しい不利益を受けたことは前記説示のとおりである。これが、原告らの憲法的価値を有する権利、利益の侵害であることを考慮すると、前記説示のような自立支援策の不十分さは国家の政治的責務の懈怠であるとも評価できるところであり、看過することのできない行政の執行の懈怠であるとして国家賠償法上も違法とすることも考えられるところである。
第2の5において説示したとおり、政治的責務は、国家が個々の国民に対して負うものではなく、主権の存する国民全体に対して負うものである。ここで問題とされているのは、国家の政策の企画、立案及び実施の当否であって、財政、経済、社会政策等に基づく総合的政策判断によるところが大きく、基本的には行政府の裁量的判断に委ねられた事項である。その国家賠償法上の違法をいうために越えなければならないハードルは高い。国家の所為に政治的責務の懈怠がみられるとしても、それが個々の国民に対する関係で看過できないほどの著しい懈怠を構成するものでない限り、直ちに個々の国民に対する国家賠償法上の義務の懈怠となり、賠償責任を負うこととなるとまではいえない。
原告らに対する日本語教育の貧困は目をおおうばかりであり、逸失利益の回復措置もはなはだ不十分であるし、中国からの帰国者及びその家族に対する生活保護法の硬直的運用も、政府の先行行為に起因して長期未帰還者となった帰国者の境遇を考えるとき、非常に問題があるものといわざるを得ない。生活保護法の合理的・弾力的運用としての就労猶予期間の大幅増加、中国への一時帰国の容認などは、人道的見地からも是非実現されるべきであるとも考えられる。ところで、陸地で国境を接する他国との陸戦の経験に乏しく、劣勢になった場合や外地で他国軍の占領にあった場合の悲惨さを国家・国民的経験として有しておらず、その結果戦乱により外地で生き別れになった者の捜索、処遇のノウハウにも乏しかったというわが国の経験の乏しさ、日本語を知らない成人に対する日本語教育のノウハウのわが国における伝統的な不足という背景事情に加え、原告らとの関係でこれをみるとき、原告らに対しては都営住宅が提供され、不十分ながらも生活保護の支給がされており、年金特例措置も不十分ながら実施されていることなどに照らすと、前記説示の行政府の責務の懈怠を、看過することのできないほどの甚しいものとして国家賠償法上も違法であると評価するには、今一歩足りないところである。
原告らの主張するその他の自立支援義務違反も、これを国家賠償法上違法と断ずるには至らないものというべきであって、原告らの自立支援義務違反の主張に基づき損害賠償請求を認容するまでには至らない。
第4結論
本件は、国家がどのような政策を実施すべきであったのか、すなわち政策の立案形成の当否が問われる訴訟である。国家の行政施策の企画立案実施(不作為を含む。)の当否又は立法若しくは立法不作為の当否が国家賠償請求の形で問われる訴訟である。通常の内政問題であれば、政策形成について行政府及び立法府に幅広い裁量権が認められ、判決理由中において問題点の微細な点まで説示をしなくても、本件と同様の請求棄却の結論に至ることも多いのであろう。
本件は、危険性の事前告知も危急時の国民保護策の立案もないまま外地の危険地帯へ国策により大量に移民を送出したという過去の政府の先行行為に起因して、生死の危険をさまよう極寒の地での苛酷な難民体験を経て、異国に長期間取り残されるという、通常では考えられないような苦難の人生を歩まされた原告らに対し、政府がどのような手をさしのべたか、それが十分であったか、ということが問われる事案である。その事案の性質、ことに原告らが受けた被害の甚大さを考え、また、原告らが帰国をするのに様々な事実上の障害があって容易に早期の帰国が実現しなかったことや、帰国後も逸失利益の補償がされることなく、国民一般の収入水準を下回る生活保護水準の生活を余儀なくされる者が多いことをみるとき、裁量権行使の逸脱の可能性を、当裁判所としては検討していかざるを得なかった。政策形成の前提として、事実関係をどのように把握し、問題点をどのように整理すべきであったか、どのような政策形成が考えられるべきであったかという、本来行政権に専属する問題をも、当裁判所としては検討していかざるを得なかったものである。そして、過去及び現在の事実関係の把握やその評価の点においていろいろと政策形成上の問題点があり、これらを積み上げていくと国家賠償法上の違法をいわざるを得なくなる可能性も十分にあるものとして検討を進めていかざるを得なかったところである。最終的には、政策形成の当否の国家賠償法上の違法をいうためのハードルは非常に高く、検討した問題点を積み上げても、違法のハードルの高さには今一歩届かなかったため、国家賠償請求訴訟としては、請求棄却の結論となったものである。
(裁判長裁判官 野山宏 裁判官 野村高弘 裁判官 出口亜衣子)