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東京地方裁判所 平成13年(ワ)26292号 判決 2005年4月26日

原告 X36 ほか1047名

被告 国 ほか3名

国代理人 中井隆司 細野隆司 小澤満寿男 竹内秀昭 佐藤真紀子 山村都晴 石川真紀子 森口英昭 安村和美 ほか3名

主文

1  甲、乙各事件原告らの被告国に対する、被告小泉純一郎が平成13年8月13日に内閣総理大臣として宗教法人靖國神社に参拝したことの違憲確認を求める訴え及び被告国が公人として又は公務として宗教法人靖國神社に参拝することを禁止する法律を制定すべき憲法上の義務に違反して立法を怠ったことの違憲確認を求める訴えをいずれも却下する。

2  甲、乙各事件原告らの被告東京都に対する、被告石原慎太郎が平成12年8月15日及び平成13年8月15日に東京都知事として宗教法人靖國神社に参拝したことの違憲確認を求める訴えを却下する。

3  甲、乙各事件原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

4  訴訟費用は甲、乙各事件原告らの負担とする。

事実及び理由

(以下、甲、乙各事件原告らを「原告ら」と、被告小泉純一郎を「被告小泉」と、被告石原慎太郎を「被告石原」という。)

第1請求

1  原告らと被告国との間で、被告小泉が平成13年8月13日に内閣総理大臣として宗教法人靖國神社に参拝したことが違憲であることを確認する。

2  原告らと被告国との間で、被告国が公人として又は公務として宗教法人靖國神社に参拝することを禁止する法律を制定すべき憲法上の義務に違反して立法を怠ったことが違憲であることを確認する。

3  原告らと被告東京都との間で、被告石原が平成12年8月15日及び平成13年8月15日に東京都知事として宗教法人靖國神社に参拝したことが違憲であることを確認する。

4  被告小泉は内閣総理大臣として、被告石原は東京都知事として、それぞれ宗教法人靖國神社に参拝してはならない。

5  被告らは、連帯して、原告ら(ただし、甲事件原告X27、同X28、同X29及び同X30、乙事件原告X31、同X24及び同X32を除く。)それぞれに対し、3万円及びこれに対する平成13年8月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

本件は、内閣総理大臣被告小泉及び東京都知事被告石原が宗教法人靖國神社(以下「靖國神社」という。)に参拝したことについて、原告らが、原告らの宗教的人格権、平和への思いを巡らせる思想及び信条の自由並びに名誉権等(以下、これらを「人格権」という。)に基づき、<1>被告小泉の参拝については被告国との間で、被告石原の参拝については被告東京都との間で、それぞれ違憲であることの確認を求める(以下「本件参拝違憲確認請求」という。)とともに、<2>被告国に対し、公人として又は公務としての靖國神社参拝を禁止する法律を制定しないことが違憲であることの確認を求め(以下「本件立法不作為違憲確認請求」という。)、また、<3>被告小泉に対しては内閣総理大臣として、被告石原に対しては東京都知事として、それぞれ靖國神社に参拝することの差止めを求め(以下「本件参拝差止請求」という。)、さらに、<4>被告らに対し、被告国及び被告東京都については国家賠償法1条1項により、被告小泉及び被告石原については民法709条により、被告ら全員が連帯して(民法719条1項前段)、原告らそれぞれに対して3万円及びこれに対する不法行為の後の日である平成13年8月15日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた(以下「本件国家賠償等請求」という。)事案である。

1  争いのない事実

(1)  被告小泉は、内閣総理大臣の地位にあり、内閣総理大臣として、憲法72条の職務を負い、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負っている。

被告石原は、東京都知事の地位にあり、被告東京都を代表する機関であり、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負っている。

(2)  被告小泉は、平成13年8月13日、靖國神社に赴き、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳した上、本殿において深く一礼するという方式で参拝した(以下「本件小泉参拝」という。)。

被告石原は、平成12年8月15日及び平成13年8月15日、それぞれ靖國神社に赴き、「東京都知事石原慎太郎」と記帳した上、本殿に昇殿し、戦没者の霊を祀った祭壇に黙祷した後、深く一礼を行った(以下「本件石原参拝」といい、本件小泉参拝と合わせて、「本件両参拝」という。)。

(3)  靖國神社は、宗教法人法に基づき、東京都知事の認証を受けて設立された宗教法人である。

2  争点

(1)  本件参拝違憲確認請求について

(原告らの主張)

ア 法律上の争訟性について

被告国及び被告東京都の法律上の争訟性がないとの主張は、つまるところ、原告らの請求が具体的な権利侵害を言わない一般的、抽象的な内容であるというに帰するが、原告らの権利侵害については、後記(3)、(4)のとおりであるから、被告国及び被告東京都の上記主張は、それ自体失当である。

イ 確認の利益について

(ア) 確認の利益の判断基準

確認の訴えは、判決に執行力がなく、また対象が無限定となり得ることから、確認の利益が必要であり、この確認の利益は、<1>原告の権利又は法律的地位に不安が存し、かつ、<2>その不安を除去する方法として原告と被告との間で、その訴訟物たる権利又は法律関係の存否の判決をすることが有効適切であるという場合に認められる。

(イ) 原告らの権利又は法律的地位の不安の存在について

本件両参拝によって、原告らの人格権が直接侵害され、以下に述べるとおり、今後も被告小泉及び被告石原が、違憲、違法な靖國神社参拝を強行する姿勢を崩していないことからすると、現時点において、今後も靖國神社への参拝が繰り返される蓋然性が高いから、原告らの人格権は不安定な状態におかれている。

a 被告小泉について

被告小泉は、本件小泉参拝後も、平成14年4月21日(靖國神社春季例大祭初日)、平成15年1月14日、平成16年1月1日と、繰り返し靖國神社に内閣総理大臣として参拝していることからしても、今後も靖國神社参拝を繰り返すことは容易に予想され、原告らに損害を加え続けるおそれがある。

また、被告小泉は、平成13年11月1日、大阪地方裁判所及び松山地方裁判所に靖國神社参拝違憲確認訴訟が提起された際、この訴訟の原告らを評して、「話にならんね。世の中おかしい人たちがいるもんだ。」と、原告らに対して敵意を露わにした発言をしており、靖國神社に参拝することがどれほど原告らの人格を傷つけ、精神的な被害を与えるかについて全く思いが至っていない(なお、上記訴訟の原告らは、この被告小泉の暴言によって名誉を傷つけられたとして、名誉毀損による損害賠償請求の裁判を提起したところ、平成15年9月26日に大阪地方裁判所にて判決が下され、「(被告小泉の発言は)必ずしも適切であるとはいい難いものがある。」「本件発言が、靖國参拝違憲訴訟を提起した原告らの感情を害するものであることは理解できる。」「本件発言が記者の質問に対するもので、当然、日本全国に報道されることを前提としたものであることからすると、内閣総理大臣という公的な立場にある者の発言としては、配慮に欠ける点があったことは否定できない。」旨の評価が下されている。)。

さらに、被告小泉は、内閣総理大臣の地位にありながら、日本国憲法を尊重擁護するという憲法上の義務をかなぐり捨て、改憲が必要であるという発言を繰り返している。具体的には、憲法9条を改悪して、軍隊を持てるようにするなどといった日本の平和主義の根幹を突き崩す発言を重ねているのである。このような被告小泉の憲法に対する態度に照らせば、政教分離原則といった憲法上明確な制度、人権を軽視し、憲法上保障された原告らのその他の諸権利を軽んじて、将来にわたって靖國神社への参拝を続けるということは極めて明白である。

b 被告石原について

被告石原も、本件石原参拝後、平成14年及び平成15年の各8月15日にも東京都知事として靖國神社に参拝していることからしても、今後も靖國神社に参拝を繰り返すことは容易に予想され、原告らに損害を加え続けるおそれがある。

また、被告石原は、靖國神社参拝違憲確認訴訟に関わった原告らを評して、「反対派は二割、世の中そんなもんだ。」という趣旨の発言をし、原告らの訴訟活動を侮蔑するとともに、被告小泉同様、靖國神社への参拝によって原告らがどれほど甚大な精神的な被害を被ったかについて全く配慮しておらず、さらに、在日の中国人、朝鮮人等を指して、「第三国人」と蔑称で呼んだり、朝鮮半島植民地化に関して、「朝鮮併合は朝鮮の総意だ。」という趣旨の発言を行って歴史の歪曲を行ったりして、特に、在韓韓国・朝鮮人原告ら(以下「在韓原告ら」という。)に対する蔑視を続けている。

被告石原は、さらに確信的に、憲法蹂躙の発言を行っている。すなわち、衆議院の憲法調査会に参考人として呼ばれた被告石原は、「現憲法を認めない。」「憲法改正手続を経ずして、憲法を改めるべきだ。」などと発言し、憲法尊重擁護義務に真っ向から違反する態度に終始した。

(ウ) 原告らに確認の利益があること

a 給付請求が可能である場合に確認の利益が認められないのは、確認判決に執行力がなく、仮に確定判決を取得しても、相手方が任意に履行しなければ個別に給付訴訟をしなければならなくなり、紛争の解決に資さないという理由による。これを裏返して考えれば、給付訴訟が不可能である場合には、確認の利益が認められるべきであるということがいえる。

そして、被告小泉及び被告石原は、今後も靖國神社への参拝行為を繰り返すことを明言しており、現に、被告小泉及び被告石原は、上記(イ)のとおり靖國神社に参拝をしており、今後も、原告らに対し、不法行為により、損害を与え続け、原告らの権利、自由が侵害される不安、おそれが現に存在していることが明白である。

ところが、給付請求は、過去の権利侵害の回復のための請求であり、将来の不法行為に基づく損害賠償請求権についての給付の訴えはできない。しかし、この場合、最高法規である憲法に違反する行為が行われ、かつ、当該行為により損害を被る人々がいるのに、損害が発生しなければ司法救済が受けられないというのは不当である。

b 内閣総理大臣を含むすべての公務員は、憲法尊重擁護義務を負うことからすると、被告小泉及び被告石原の行為の違憲性を訴訟の場において明確にすることこそが、被告小泉及び被告石原の違憲、違法な靖國神社参拝を中止させるための有効適切な手段であり、本件紛争の根本的な解決に資するものである。

実質的にも、上記のような被告小泉及び被告石原の参拝行為の既成事実化が進行すると、精神的な権利、自由である原告らの信教の自由、宗教的人格権、思想及び信条の自由といったデリケートで傷つきやすく人格形成の核心となっている人格権の救済が、金銭賠償によってのみで、救済自体が不可能又は著しく困難となるが、給付請求である損害賠償だけでは、抜本的な解決にならないことからも、確認の訴えが適切である。

c 法律関係でなく事実関係を確認することも、事実の確認が抜本的ないし包括的な紛争解決をもたらす場合は、確認の利益を肯定してよい。また、現在の権利又は法律関係の個別的な確定が必ずしも紛争の抜本的解決をもたらさず、かえって、それらの権利又は法律関係の基礎にある過去の基本的な法律関係を確定することが、現に存する紛争の直接かつ抜本的な解決のため最も適切かつ必要と認められる場合、過去の法律関係の存否の確認を求める訴えであっても、確認の利益があるものと認めるべきである。そして、この趣旨は、過去の事実関係の確認を求める場合にも妥当する。

これを本件についてみると、本件両参拝の違憲性が確認された場合、被告小泉及び被告石原には憲法尊重擁護義務が課せられているのであるから、被告小泉及び被告石原は、上記義務を遵守するため、今後、靖國神社への参拝行為を行うことができなくなり、本件紛争の抜本的解決をもたらすことになる。また、本件両参拝の違憲性を確認する以外に、本件紛争を解決するための最も適切かつ必要な方法は皆無である。したがって、確認の利益が認められる。

(被告国の主張)

ア 本件参拝違憲確認請求の訴えは争訟性がないことについて

(ア) 「裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。我が裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではな」く、「特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができるのであり、裁判所がかような具体的事件を離れて抽象的に法律命令等の合憲性を判断する権限を有するとの見解には、憲法上及び法令上何等の根拠も存しない。」(最高裁昭和27年10月8日大法廷判決・民集6巻9号783頁。以下「最高裁昭和27年判決」という。)とされ、「裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法3条にいう『法律上の争訟』、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、法令の適用により終局的に解決することができるものに限られ」る(最高裁平成元年9月8日第二小法廷判決・民集43巻8号889頁。以下「最高裁平成元年判決」という。)ものとされている。

このように、「法律上の争訟」といえるためには、<1>当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であること、<2>それが法令の適用により終局的に解決できるものであること、の2つの要件を満たすことが必要であるとするのが確定した判例である。

(イ) 本件参拝違憲確認請求は、被告小泉が内閣総理大臣として靖國神社に参拝したことが違憲であることの確認を求めていることから明らかなとおり、原告らの個別、具体的な権利義務ないし法律関係を問題とすることなく、一般的、抽象的に本件小泉参拝が違憲であることの確認を求めるというものであるから、結局、具体的な紛争を離れて、一般的、抽象的に本件小泉参拝の憲法適合性についての判断を求める訴えに帰する。

したがって、本件参拝違憲確認請求は、上記(ア)記載の当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であることの要件を欠き、裁判所法3条1項にいう「法律上の争訟」に当たらないから不適法といわざるを得ない。

(ウ) 本件小泉参拝によっては、そもそも原告らの法律上保護された具体的権利ないし利益が侵害されたものといえないことは、後記(4)の「被告国及び被告小泉の主張」のとおりである。

イ 本件参拝違憲確認請求は訴えの利益がないことについて

一般に、確認の訴えは、原告の有する法律的地位に危険又は不安が存在し、これを除去するために、被告に対し確認判決を得ることが必要かつ適切な場合に限り許されるとされるのであり(最高裁昭和30年12月26日第三小法廷判決・民集9巻14号2082頁等参照)、何ら法律効果も伴わない単なる事実行為については、その法的効果を確認する法律上の利益はない。

また、過去の事実又は法律関係の確認は原則として許されず(最高裁昭和32年11月1日第二小法廷判決・民集11巻12号1819頁参照)、過去の事実ないし法律関係の存否を確認することが現在の法律上の紛争の直接かつ抜本的な解決のために最も適切かつ必要と認められるときに限って許される(最高裁平成7年3月7日第三小法廷判決・民集49巻3号893頁参照)。

したがって、本件小泉参拝は、被告小泉が靖國神社に参拝したという単なる過去の事実行為にすぎず、しかも、原告らが本件小泉参拝により、自らの人格権が具体的に侵害されていると主張するのであれば、端的にその権利侵害の回復を求める請求をすれば足り、原告らは、実際に被告国に対し、国家賠償請求をしているのであるから、本件小泉参拝を対象としてその違憲確認を求めることが原告らの主張する権利ないし法律上保護された利益の救済手段として、最も有効かつ適切であるとは認められない。

よって、本件参拝違憲確認請求は、訴えの利益がない点でも不適法である。

(被告東京都の主張)

ア 司法審査の対象は、「法律上の争訟」(裁判所法3条1項)すなわち、当事者の具体的な権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であることが必要なところ、本件石原参拝は、後記(4)の「被告東京都の主張」のとおり、そのことによって原告らの法律上保護された具体的権利ないし利益に何らかの影響を及ぼす余地は全くなく、原告らの具体的な権利義務又は法律関係とはおよそ関わりのないものである。したがって、本件参拝違憲確認請求は、「法律上の争訟」に該当せず、不適法な訴えである。

イ また、確認の訴えは、現在の権利又は法律関係を対象とするものであるところ、原告らが違憲であることの確認を求めている対象は、被告石原による靖國神社への参拝という過去の事実行為であって、確認の訴えの審判の対象たるべき適格性を欠くものであるから、かかる訴えは不適法として却下を免れない。

ウ 原告らに法益侵害はないことについては、後記(4)の「被告東京都の主張」のとおりである。

(2)  本件立法不作為違憲確認請求について

(原告らの主張)

ア 被告小泉及び被告石原の本件両参拝は、典型的な宗教行為であり、憲法20条1項後段、同条3項に反する明確な違憲行為である。それとともに被告国は、かように憲法違反の問題を生じる靖國神社参拝について、公務又は公人としての参拝を禁じる立法措置を講じるべき義務があったのに、これを怠った違法がある。

イ 最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁(以下「最高裁昭和60年判決」という。)は、「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない。」と判示している。

確かに、この最高裁昭和60年判決の文言だけを見ると、「憲法の一義的な文言に違反している」場合でなければ立法行為が違法となることはないかのようにも読める。

しかし、熊本地裁平成13年5月11日判決・判例時報1748号30頁(以下「熊本地裁判決」という。)は、違法と評価できるのは容易に想定し難いような極めて特殊で例外的場合に限られるべきであるが、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反していること」という要件は違法性の絶対条件ではないとするのである。そして、その理由として、「隔離規定は、少数者であるハンセン病患者の犠牲の下に、多数者である一般国民の利益を擁護しようとするものであり、その適否を多数決原理にゆだねることには、もともと少数者の人権保障を脅かしかねない危険性が内在されている」からであるとする。

以上からすると、最高裁昭和60年判決を、「憲法の一義的な文言に違反している」場合に限定する趣旨ととらえる被告国の解釈は、誤っているといわなければならない。

ウ 立法不作為の違法性判断

そして、立法不作為の違法性判断にあたっては、立法行為は議会制民主主義の下での多数決原理によって行われるものであるから、少数者の人権侵害が問題となる場面での憲法保障という司法の役割、すなわち「憲法の番人」としての役割が重視されるべきである。他方で、立法者が具体的な立法を行う際には、立法事実の調査活動を行い、国会内で分析、討論する合理的な期間も必要とされよう。

したがって、立法不作為の違法性の判断基準としては、<1>少数者に対する人権侵害の重大性、<2>その救済の現実の必要性、<3>国会による立法の必要性の認識、<4>立法の可能性及び容易性、<5>具体的な立法定立に要する合理的期間の経過、という要件が充たされる場合には、当該立法不作為は国家賠償法上違法ということができると解される。

エ 本件立法不作為の違法性について

(ア) 少数者に対する人権侵害の重大性

日本国憲法は、戦前の極端なまでに進行した人権抑圧的な政治への反省に立って制定されたものである。そのため、日本国憲法の原理は、基本的人権尊重の思想にあり、この原理を守るものとして、平和主義をおいている。そして、基本的人権の尊重は、議会制民主主義に立つ国会及び内閣をも拘束しているのである。日本国憲法は、基本的人権の尊重と確立のために、議会制民主主義の政治制度を採用し、これを十全に保障するために裁判所に違憲立法審査権を付与したのである。

したがって、少なくとも憲法秩序の根幹的価値に関わる人権侵害が現に個別の国民ないし個人に生じている場合には、その是正を図るのは国会及び内閣を構成する公務員の憲法上の義務であり、同時に裁判所の憲法上固有の権限と義務でもあるとする基本的立場をとっている。

そして、信教の自由(憲法20条1項前段)は、軍国主義と密接に結びついた国家神道こそが、日本国民の精神を支配し、日本を誤った道に進めたとの認識の下に、政治と国家神道の徹底分離を図った連合国(GHQ)の「神道指令」の趣旨が、憲法に反映されているのである。また、宗教とは、宗教を持つことも持たないとすることも含めて、人の人格の根幹をなすものであるから、この根幹を揺るがすようなことがあっては、再び暗黒社会に逆戻りするからこそ、政治と宗教の分離までも定めたのである(憲法20条1項後段、同条3項)。

このような憲法の立場からすると、「国及びその機関」が宗教に関わることは、少数者の人権を侵害することにほかならない。

(イ) 救済の現実の必要性

原告らの損害は、後記(4)の「原告らの主張」のように著しいものであり、救済の現実の必要性がある。

原告らの人権の救済が必要であることは、裁判所の認めるところでもある。すなわち、内閣総理大臣の靖國神社への参拝については、昭和58年の中曽根康弘の参拝(以下、この参拝を「中曽根参拝」という。)に関して、大阪高裁平成4年7月30日判決・判例時報1434号38頁は、「違憲の疑いがある」と判断している。また、福岡高裁平成4年2月28日判決・判例時報1426号85頁は、「宗教団体であることの明らかな靖國神社に対し、『援助、助長、促進』の効果をもたらすことなく、内閣総理大臣の公式参拝が制度的に継続して行われうるかは疑問」と述べ、継続すれば違憲との判断を示した。さらに、仙台高裁平成3年1月10日判決・判例時報1370号3頁では「内閣総理大臣等が公的資格において靖國神社に赴いて参拝するということになれば、その行為の態様からして、国又はその機関が靖國神社を公的に特別視し、あるいは他の宗教団体に比して優越的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ、・・・(戦没者の追悼という名のもとであれ)国の非宗教性ないし宗教的中立性を没却するおそれが極めて大きいといわざるをえない。」「したがって、右公式参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為」とし、確定している。

このように、靖國神社参拝は、司法消極主義の我が国裁判所の判断の下でも、「参拝を継続すれば違憲」と判断されている。本件では、今までの判例を無視して参拝を継続しているのだから、さらに、判断をもう一歩進めて、「公人として又は公務として靖國神社に参拝することを禁止する立法をしなかったという立法不作為は違憲である」との明確な判断が示されることによる司法的救済が必要不可欠である。

(ウ) 国会による立法の必要性の認識

靖國神社参拝については、上記のように、多くの裁判所において、違憲の判断ないし違憲の警告が発せられている。また、靖國神社参拝のたびに、中国、韓国等の諸外国が抗議をしている。この抗議は、外国における一般庶民の日本大使館前デモだけでなく、外交チャンネルを使った正式な抗議が日本政府に寄せられている。もちろん、平和遺族会などの遺族団体や宗教者団体等、日本国内でも大きな反対の声が上がっていたのである。

一方、政府自身も「内閣総理大臣その他の国務大臣が国務大臣としての資格で靖國神社に参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫してきている。」「政府としては違憲とも合憲とも断定していないが、このような参拝が違憲ではないかとの疑いをなお否定できない。」(昭和55年11月17日宮沢喜一官房長官)を政府統一見解としてきており、その違憲性は学会でも問題になった。

このようなことからすれば、国会は違憲性を認識できている。公人の靖國神社参拝を止めるために、何らかの立法措置をとらなければ、外交問題が常に起こり、アジアの中で我が国が孤立してしまうことも容易に認識し得たのであり、遅くとも昭和61年の中曽根康弘内閣総理大臣(当時)の公式参拝中止声明までには、国会は立法の必要性が認識できたということができる。

(エ) 立法の可能性及び容易性

上記のとおり、立法事実が極めて成熟した状態にあったことに加え、公職者の宗教活動を禁止する法律を立法することは極めて容易であったし、その可能性も十分に認められる。

まず、当該法律は、単に公職者の宗教行為(靖國参拝を含む。)を禁止するという不作為を命じることをその内容としており、何ら給付を要求する内容のものではない。つまり、当該法律は予算を伴うものではないし、新たな組織を創設しなければならないものでもない。立法にあたっての最初のハードルである、法案の提出についてのハードルが、極めて低い立法であると評価できるものである。

また、立法内容自体も、既に存在する憲法20条3項の内容を具体化するものに過ぎないのであり(その意味で参拝禁止立法は創設規定ではなく確認規定である。)、立法内容も明確に判断できるものである。憲法の規定を具体化するために、個別の具体的立法をした例は、憲法28条を具体化する労働組合法、憲法26条を具体化した教育基本法等、法制上容易にその例を見いだすことができる。しかも、これらの具体化立法は、憲法25条を具体化した生活保護法のように請求権的側面を具体化する立法にとどまらず、憲法28条を具体化した労働組合法における刑事免責規定(労働組合法1条)のように、自由権的側面についての具体化立法も多数含まれている。

現に、教育基本法は、9条2項において「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」と定めている。同条項は、教育を受ける権利たる憲法26条の具体化立法でもあるが、同時に、政教分離、信教の自由の規定である憲法20条の具体化立法でもある。公教育の分野については、このように、現実の宗教行為禁止立法がなされているのであるから、公職者の分野について靖國神社の参拝禁止立法をなすことは極めて容易であった。

(オ) 具体的な立法定立に要する合理的期間の経過

本件においては、立法課題が明確であり、具体的立法内容も上記のとおり簡単、容易であることからすれば、立法定立に要する合理的期間としては1年もあれば充分である。

したがって、前記政府統一見解が出た昭和55年から1年後の昭和56年には合理的期間を経過していたというべきである。そして、どんなに遅くとも、中曽根参拝違憲訴訟が確定してから1年後の昭和63年ころには、合理的期間を経過して立法不作為が違憲、違法状態にあったことは明白である。

(被告国の主張)

ア 本件立法不作為違憲確認請求は、被告国が公人として又は公務として靖國神社に参拝することを禁止する法律の立法を怠ったことが違憲であることの確認を求めていることから明らかなとおり、原告らの個別、具体的な権利義務ないし法律関係を問題とすることなく、一般的、抽象的に公人として又は公務として靖國神社に参拝することを禁止する立法を怠っている状態が違憲であることの確認を求めるというものであるから、結局、具体的な紛争を離れて、一般的、抽象的に本件立法不作為の憲法適合性についての判断を求める訴えに帰する。

したがって、本件立法不作為違憲確認請求は、前記(1)「被告国の主張」アで述べたとおり、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であることの要件を欠き、裁判所法3条1項にいう「法律上の争訟」に当たらないから、不適法といわざるを得ない。

イ 国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず、国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、違憲の評価を受けるものではない(最高裁昭和60年判決)。

したがって、立法の不作為が違憲の評価を受ける場合とは、憲法の一義的な文言により立法義務が規定されているにもかかわらず、国会があえて当該立法を行わないというごとき例外的な場合、すなわち、憲法上、具体的な法律を立法すべき作為義務が、その内容のみならず、立法の時期をも含めて明文をもって定められているか、又は、憲法解釈上、立法すべき作為義務の存在が一義的に明白であるにもかかわらず、その立法を行わないといった場合をいうものと解すべきである。

これを本件についてみるに、公務員が公務として靖國神社に参拝することを禁止する立法をすべき作為義務が憲法上一義的に明白であるとは到底いえないから、このような立法をしていないことが憲法に反するものでもない。

(3)  本件参拝差止請求について

(原告らの主張)

ア 本件参拝差止請求の根拠

本件参拝差止請求は、後記(4)ア、イで述べた原告らの人格権によって根拠付けられる。人格権が差止請求の根拠となる理由は次のとおりである。

(ア) 人格権は、物権と同様に、絶対権、すなわちその侵害に対して支配を回復し得る対世的、排他的性格を有する権利として保護される。

(イ) 人格権は、「人格的属性を対象とする」という権利としての性質上、ひとたび侵害されると原状に回復することが極めて困難である。本件小泉参拝後も被告小泉が靖國神社参拝を強行し、閣僚らがそれを支持、推奨する言動を繰り返すなど、今後も靖國神社参拝強行が回数と頻度を増していくことが予測されている。かかる現在の状況の下で、事後的な救済しか認めないとするならば、人格権の保護としておよそ不十分であることは明らかである。

(ウ) 条文解釈上も、差止請求権は排除されていない。すなわち、民法722条1項は、金銭賠償原則を採用しているところ、これは、金銭賠償以外を許容しないという趣旨ではない。不法行為法は、損害の救済とともに、将来発生するであろう損害の予防という救済方法も認めているのである(民法147条、216条、234条、商法272条、280条の10、不正競争防止法3条、独占禁止法20条、特許法100条、著作権法112条、実用新案法27条、意匠法37条等)から、一定の要件が満たされる場合には、救済方法としての差止請求は認められると解すべきである。上記各条文は、それぞれの法律の趣旨、目的に応じて規定の仕方も様々であるが、現に重大な侵害行為が行われ、事後的な救済による被害回復では不十分である場合には、被害からの救済方法として、差止請求を認めているのである。

(エ) また、最高裁昭和61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁(以下「最高裁昭和61年判決」という。)は、人格権としての名誉権の侵害に対して、以下のとおり判示し、差止請求を認めている。

「人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償(民法710条)又は名誉回復のための処分(同法723条)を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである。」

その後、生活妨害(騒音、振動、煤煙)による被害に関する救済方法として「不法行為責任の特殊な効果として一定の作為義務が加害者に発生」すると判示した裁判例(大阪地裁昭和43年5月22日判決・判例タイムズ225号120頁)や、公共性の高い施設から公害発生のおそれが高い場合に「多数の被害者が健康にも影響を及ぼす程度の被害を受け、居住地、住居を生活活動の場として利用することが困難となる蓋然性が高い場合には、その被害は金銭的補償によって回復し得る性質のものではないから、たとえ公害発生原因となる施設が公共性の高いものであっても、他に特別の事情のない限り受忍の限度をこえるものとして差止請求が許される」とした裁判例(広島高裁昭和48年2月14日判決・判例時報693号27頁)もあり、これらは、いずれも、重大な侵害行為と事後的な救済の困難性を認定した上で、差止めを認めているのであって、まさしく本件参拝差止請求にも当てはまる考え方を示したものである。

イ 差止めが認められる要件

(ア) 一般的に、不法行為における損害賠償が、既に生じた損害の金銭等による回復を主眼とするのに対し、差止請求権の主眼は、現に進行しているか又は近い将来確実に生じるであろう侵害(妨害)の排除に主眼がある。したがって、<1>侵害の態様(現在するか、差し迫っているかを含む。)、<2>侵害の回数、継続性、間隔、<3>侵害の程度(社会的影響力を含む。)、<4>侵害された人格権の種類、性質、重要性、<5>差止めによってもたらされる不利益の諸点を考慮して判断すべきである。

(イ) 侵害の態様、回数、継続性、程度等について

a 前記(1)の「原告らの主張」イ(イ)で述べたとおりである。

これに、下記bのとおり、参拝される側の靖國神社が被告小泉及び被告石原の参拝を要請したり、歓迎したり、高く評価している事実を考え併せれば、被告小泉及び被告石原は、今後も靖國神社参拝を継続する危険性が極めて高く、参拝差止めの必要性は優に認められる。

b 昭和26年10月、靖國神社秋の例大祭の機会に戦後初めて参拝した内閣総理大臣吉田茂から、昭和60年8月15日に「公式参拝」をした内閣総理大臣中曽根康弘まで、34年間に59回の首相参拝が反復継続され、また、昭和天皇は、靖國神社が宗教法人になった昭和27年から合計7回、参拝を行っているが、このような多数回に及ぶ靖國神社参拝は、天皇や内閣総理大臣が一方的に行ってきたわけではなく、むしろ、靖國神社からの積極的な働きかけがあったことが明らかになっている。

また、本件両参拝によって、靖國神社のホームページへのアクセスが急増したり、平成13年8月15日の参拝者は、前年の2倍強の約12万5000人に上っている。さらに、靖國神社は、平成14年4月21日の朝に行われた被告小泉による例大祭期間中の内閣総理大臣としての参拝を、内閣総理大臣中曽根康弘以来17年ぶりと歓迎し、その「所感」についても高く評価し、平成15年1月14日の被告小泉による内閣総理大臣就任後3度目の靖國神社参拝も高く評価している。

(ウ) 差止めによってもたらされる不利益について

a 差止めが認められた場合の被告小泉及び被告石原の不利益はない。

b 仮に、被告小泉及び被告石原の主張するように、本件両参拝が戦死者の慰霊、追悼のためであるとしても、被告国や被告東京都は、靖國神社とは全く関わりのない方法で、戦没者慰霊式典をとり行っており、靖國神社への参拝がなくとも、被告小泉及び被告石原の目的は達成されている。

(エ) 被告小泉及び被告石原が上記のように靖國神社への参拝を繰り返すたびに、原告らの人格権は踏みにじられてきた。原告らは、被告小泉及び被告石原の違憲の行為に多大な精神的苦痛を受けたが故に、本件訴訟を提起して争ってきた。ところが、被告小泉及び被告石原は、かかる原告らをあざ笑うかのように、毎年参拝を繰り返しているのであり、もはや、原告らの精神的損害を償う方法として、金銭賠償を認めるだけでは到底償いきれない状態に達している。金銭賠償が認められたとしても、被告小泉及び被告石原は金を払えばそれで済むとばかりに、今後も参拝を続ける可能性が極めて高く、紛争の抜本的解決の方法は、被告小泉及び被告石原の違憲、違法な靖國神社参拝の差止めを行うことであり、参拝の差止めの必要性は明らかである。

(被告小泉の主張)

ア 被告小泉に対する本件訴訟の提起は、被告小泉の基本的人権を侵害するもので、不適法な訴えである。

すなわち、被告小泉は、一個の自然人として、日本国憲法に保障された思想、信条及び信教の自由を享受する立場にあり、靖國神社への参拝は、その自然人である被告小泉の憲法上保障された自由の実現にほかならない。被告小泉は、現在、内閣総理大臣の地位にあるところ、原告らの請求に従うと、自然人たる被告小泉は、内閣総理大臣の地位にある限り靖國神社に参拝することができなくなってしまうが、これはすなわち、被告小泉の基本的人権を侵害することにほかならない。

また、もし、原告らが、国の機関たる内閣総理大臣の靖國神社参拝禁止を請求するというのであれば、自然人たる被告小泉に対する訴えは、明らかに当事者を誤っているものといわざるを得ない。

したがって、本件訴訟は、被告小泉の憲法上保障された人権を侵害しようという意図のもとになされ、かつ、訴訟の当事者を誤っているというほかなく、その違法性の程度は極めて著しいものがあるといわざるを得ないから、その訴え提起自体が不適法と評価されるので、却下を免れない。

イ 被告小泉は、「内閣総理大臣として」靖國神社に参拝した事実はなく、「内閣総理大臣である」被告小泉が靖國神社に参拝しているだけであるから、この点からも、本件において、原告らが被告小泉に対して参拝差止めを求める理由はない。

ウ 原告らの権利ないし法的利益は、被告小泉参拝によって何ら侵害されていない上、そもそも原告らが宗教的人格権と主張するものについては、被告小泉に対して法的に参拝差止めを請求する権利として認められていない。したがって、そもそも本件参拝差止請求には根拠のないことが明らかであるから、失当として棄却を免れない。

人格権に基づく差止請求については、人格権としての名誉権に関しては、最高裁昭和61年判決によって認められているが、生命、身体、名誉のほかに、いかなる人格的利益につきかかる差止請求権が認められるかは、今後の問題であろうとされている。原告らの主張する被侵害利益は、損害賠償を求める上での被侵害利益と認められるか否かという観点からみても、いずれも被侵害利益たり得ないものであり、ましてや、それが物権と同様に排他性を有する絶対権ないし支配権でないことは一層明白であるから、原告らの主張する差止請求は、主張自体失当である。

なお、原告らの主張する宗教的人格権については、最高裁昭和63年6月1日大法廷判決・民集42巻5号277頁(以下「最高裁昭和63年判決」という。)によって、差止請求や損害賠償請求が否定されている。

(被告石原の主張)

後記(4)の「被告石原の主張」のとおり、原告らの法的保護に値する利益は何ら侵害されていない。

(4)  本件国家賠償等請求について

ア 原告らは、本件両参拝ないし本件立法不作為によって、権利ないし法的利益を侵害されたか。

(原告らの主張)

(ア) 被侵害利益としての人格権

原告らは、それぞれの思想、信条、宗教的信仰(無宗教を含む。)等に基づき、戦没した自分の親族や先人に対して、また、平和な未来に対して、静かに思いを巡らせつつ、日々を過ごしている。このような営みは、原告が一生にわたってそれぞれの人格を形成、統合していく上で、重要な意味を有している。

加えて、遺族原告においては、誤った戦争にやむなく従事し、無念の死を遂げた肉親に対し、遺族が考えるとおりにその死を追悼していきたいという強い願いを持っている。

原告らは、かかる諸利益を、国家であれ私人であれ、他者により侵害されることなく享受していくことを切実に望んでいる。かかる諸利益は、人間が生活を送る上で最も尊重されなければならない自己の尊厳に直接結びついた利益であり、人格権(宗教的人格権、平和に対する思いを巡らす権利、名誉権等)として捉えられるべきである。

一般に、人格権は、「主として身体、健康、自由、名誉など人格的属性を対象とし、その自由な発展のために、第三者による侵害に対し保護されなければならない諸利益の総体」(五十嵐清・人格権論7頁)と定義される。人格権を明文で承認した規定はないが、不法行為において身体、自由、名誉についての侵害も権利侵害であると認めていること(民法710条)から、民法も人格権を前提として認めていると解されるし、最高裁昭和61年判決が北方ジャーナル差止め国家賠償事件において、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対して侵害行為の差止めを認めて以来、人格権は私法上の権利として認められるようになった。そして現在では、人間の尊厳に対する社会的価値認識が日々高まっていること、憲法13条が生命、自由及び幸福追求権を定めていることから、人格権は、憲法により保障された基本的人権であるという見解が通説である。

ところで、人格権は、人格的属性が第三者により侵害された場合に成立するものといえるが、侵害の対象となる人格的属性の内容は、一般的に考えられているだけでも、身体、健康、自由、氏名、肖像、名誉、プライバシー等が含まれるものであるから、人格権の内容は極めて多様性に富んでいるものといえる。そこで、以下、宗教的人格権、平和への思いを巡らす自由、名誉権の侵害を論じ、最後に身体への傷害としてPTSDについて述べる。

(イ) 宗教的人格権

a 宗教的人格権の内容

宗教的人格権とは、個人が国家によって一定の宗教的意味付けをされない権利である。そもそも、宗教は、高度に個々人の評価と判断に委ねられる事柄であるから、国家が個人の「生」「死」「魂」のあり方に対して宗教的意味付けをしたり、国家が特定の宗教に優劣などの評価を加えたりすることは許されないというべきである。かかる自由は、宗教者ばかりだけではなく、非宗教者にも認められる。そして、宗教的人格権は、憲法20条1項前段の信教の自由、同条3項の政教分離原則、13条の幸福追求権(プライバシー権)などによって、三重に根拠づけられる人権であり、法的利益である。

信教の自由を、強制、禁止からの自由であり、不利益取扱いからの自由である(以下「狭義の信教の自由」と呼ぶ。)とする理解は、今日、世界中で承認され、既に確立された原則である。しかし、個人がある信仰を持ちつつ(また持たずに)、個人の尊厳を確保するためには、国家によってある宗教を強制される、宗教儀式への参加を強制されるなどの強制から免れるだけで十分とはいえない。これらを超えて、国家に対して、信仰を個々人の私的、個人的事柄として尊重させなければならない。その一つとして、国家によって一定の宗教的意味付けをされない権利も、宗教的人格権として保障されなければならないのである。

そして、「宗教的意味付けがなされる」場合というのは、国家元首が特定の宗教施設に参拝したり、地方公共団体の長が特定の宗教儀式をことさらに重要視するような言動を繰り返すなど、「国家ないし地方公共団体が、個人の『魂』『生』『死』等の宗教的事項について一定の評価を加えること」と具体的かつ明確に観念できるから、宗教的人格権は、権利内容があいまいでも抽象的でもない。

また、これらの行為によって侵害されるのは、宗教心、信仰心という「魂」のもっとも奥深い部分であり、その人の人格の核心そのものであって、これを傷付けられたことによって生じる心的現象を単なる「宗教上の感情」と切って捨てることの許されない性質のものである。仮に百歩譲って、宗教的人格権を「主観的」な概念と呼ぶことを認めたとしても、それが故に、その法的権利性が否定されるものではない。なぜなら、「主観的」であるが故に法的保護に値しないという理論は自明ではなく、「主観的」であるといってもそれは「客観的」にとらえられないものではないからである。すなわち、信仰とはそもそも個々人の私的、個人的事柄であり、名誉権のように社会的な評価という「客観的」価値に関わるものではないから、信仰の自由やプライバシー権等が法的権利である以上、これに連なる宗教的人格権もまた、法的保護に十分値するといえるのである。また、主観的な利益であっても、一般人の感受性を基準に損害が生じるか否かを判断することは可能である。

b 宗教的人格権が保障されなければならない理由

上記のような権利が宗教的人格権として保障されなければならない理由は次のとおりである。

宗教とは、超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する信条と行為であり、これを信仰する者にとって、畏敬崇拝する対象は自己の存在意義を裏付ける絶対者であり、その教義は単なる規則ではなく、人生のあらゆる場面で尊重しなければならない行動指針である。すなわち、信仰する者にとって、宗教は、自己の人格の核心を貫く一本の芯であり、かけがえのないものといえる。仮に、国家の元首や地方公共団体の長が、特定の宗教儀式に関与したり、これを重んじるような言動を繰り返すことによって、人の死に対して宗教的意味付けをしたり、特定の宗教とその他の宗教とを比較して優劣の評価を加えるようなことがあったとすれば、それ以外の全ての宗教に対して優劣の評価を加えた上でこれを否定し、これを信仰する者に対してその信仰と人格を侮蔑する行為にあたる。これによって、他の宗教を人格の核心とする宗教者の人格は否定され、蹂躙されるのである。

また、このように、宗教が人格と魂の核心に係わる事柄であること、故に一種の激しさを伴うものであるがために、これを有さない非宗教者にとっては、国家によって意味付けされ、押し付けられることに強い嫌悪感を抱かせるものである。

このように、宗教的な事柄(どのようなものに絶対的な価値観を置き、どのような信条に従って生き、自分の魂はどこに行きつくのかなど)は、個人の人格と魂の根元に関わる問題であるが故に、本来個々人が意味付けをし、個々人がその価値を判断すべき事柄といえる。よって、宗教は、高度に個々人の評価と判断に委ねられる事柄であるから、国家が個人の「生」「死」「魂」のあり方に対して宗教的意味付けをしたり、国家が特定の宗教に優劣などの評価を加えたりすることは許されない。

故に、宗教者にとっても、非宗教者にとっても、国家によって一定の宗教的意味付けをされない権利を、宗教的人格権として保障されなければならない。

c 宗教的人格権の法的根拠

(a) 信教の自由(憲法20条1項前段)

日本国憲法が規定する信教の自由は、上記の「狭義の信教の自由」だけを内容とするものではなく、前述の「宗教的人格権」も、その信教の自由の一内容として認められると解するべきであることは、上記aのとおりである。

(b) 政教分離原則(憲法20条3項)

憲法20条3項は、国民に対する国の宗教教育、その他の宗教的活動を具体的に禁止しており、その裏返しとして、国による宗教教育、その他の宗教的活動からの自由を人権として保障していると解される。これは、例えば、憲法21条2項が検閲を禁止しており、その裏返しとして検閲をされない自由を保障していると考えられていること、憲法36条が拷問を禁止しており、その裏返しとして、国による拷問からの自由を保障していると考えられていることからも肯定できる。さらに、政教分離原則は、国家の非宗教性、宗教的中立性をうたっている。これは、宗教は私的、個人的事柄であり、国家が宗教的な意味付けや評価をしないということを本質的要素としている。

したがって、憲法20条3項により保障された上記の自由の内容として、個人は、国の宗教的活動(例えば靖國神社への公式参拝)によって、自分自身、肉親又は特定の宗教に対して宗教的意味付けをされない自由、宗教事項に関して干渉されない自由、すなわち、宗教的人格権があると解すべきである。

(c) 宗教的プライバシー権(憲法13条)

宗教的人格権は、プライバシー権の一つとしても位置付けられる。

すなわち、プライバシー権が認められた背後には、私的領域における自己決定を重視するという時代の潮流がある。そして、私的領域の事柄のうち何を重要と考えるかは個人によって異なるが、人間が精神的存在であることを考えると、精神的事項に対する自己決定は極めて重要といえる。そして精神的事項の中でも、宗教、信仰の問題というのは、人格の核心、人間の魂に関わる問題であり、最も重要かつ高度に私的、個人的事柄といえるからである。

さらに、日本国憲法の成立に関わる特殊事情も存在する。すなわち、戦前の天皇制の下では、国家が、戦没者の死を天皇のための死と意義付けて、戦没者を祭神として合祀することを強制して、国家が個人の死を管理していた。換言すると、個人が肉親の死について、国家の管理、宗教的意味付けから自由に生きること、個人が、私事として肉親の死を悲しむ自由が否定されてきたのである。このような歴史を考えれば、戦前の国家神道体制を否定し、個人の尊厳を実現しようとした日本国憲法は、「生」や「死」や「魂」について、個人がそれぞれ意味付けて悲しむ権利を持つことを認めていると解すべきである。そして、宗教的人格権は、他人から干渉されないで宗教行為を行う自由であるというプライバシー権としての側面を有する以上、他者からの強制、禁止以外の侵害からも保護されるべきである。

d 宗教的人格権と最高裁判例

最高裁昭和63年判決は、事案を私人間の問題として考え、その範囲で宗教的人格権について判断を示したものであり、本件訴訟のように国家と国民との間で宗教的人格権の存否が問題となった事案を念頭においたものではないから、国家と私人との間においては、宗教的人格権の侵害が生じ得ることを認めた判例であるとの評価も十分に可能である。

さらに、同判決は、「私人間であっても一定の場合に宗教的人格権の侵害を認めている。すなわち、宗教的人格権の侵害については、死去した配偶者の追慕、慰霊などに関し、他人がした宗教上の行為によって信仰生活の静謐さが害されたとしても、それが信教の自由の侵害に当たり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超える場合でない限り、法的利益が侵害されたとはいえない。よって、死去した配偶者の追慕、慰霊等に関して、私人(県護国神社)がした宗教上の行為により信仰生活の静謐が害されたとしても、それが信教の自由の侵害に当たり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超える場合でない限り、法的利益が侵害されたとはいえない。」旨述べている。つまり、同判決は、宗教的人格権が否定される場合を「その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超える場合でない限り」と限定し、逆に「その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超える場合」には、法的利益の侵害を認め、その前提として宗教的人格権の存在を認めたものと評価できる。

(ウ) 平和への思いを巡らす自由

a 平和への思いを巡らす自由とは、個人が日本国憲法の定めた平和主義を内面化させ、自己の人格の中核に据えた上で、戦争の悲惨さを憎み、平和を真剣に希求する内心の自由である。先のアジア・太平洋戦争でアジア諸国を侵略した日本国民にとって、この平和への思いを巡らす自由は、戦争体験や戦没者への思いと結び付き、広く共有されている権利である。

b 「平和への思いを巡らす自由」の法的根拠

この権利の根拠は、憲法前文第2段、9条、13条及び19条に求められる。そもそも、憲法は、前文第2段や9条において、戦争の放棄を命じ、武力の行使や武力による威嚇を禁止し、一切の戦力の不保持を宣言するという徹底した平和主義を貫いている。この平和憲法の存在によって、戦後日本は、東西冷戦時代にあっても、まがりなりにも他国への侵略に直接的に加担することなく、また、他国からの侵略も受けることなく過ごすことができた。このように平和主義の理念のもとで生活をしてきた戦後の日本人の多くは、平和が人格的生存に不可欠の前提であること、平和に対して自由に思いを巡らせ、戦争や抑圧を回避すべきであることを日々の生活の中で実感し、自己の人格を形成するにあたって大きくこの平和主義を取り入れてきたといえるのである。

ところで、憲法13条は、憲法の究極の理念である「個人の尊厳」を謳うとともに、個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利を包括的に定めていると解されているところ、この13条を上記平和主義(前文第2段、9条)の観点からとらえなければならない。そして、戦後60年近くにわたって憲法の平和主義が日本外交を一定程度規律してきたこと、そしてこの平和主義を多くの日本国民が自己の人格形成の上で根本から取り入れている状況からすると、「平和への思いを巡らす自由」は、この憲法13条で定める自己の人格的生存に不可欠な人権の一つとして確立しているというべきである。そもそも、平和という状態がまず平和を希求する市民の強い思いを契機として実現されることに鑑みれば、これを憲法上の個人の権利として保障することなくして、憲法上の重要な原則とされている平和主義の理念の実現はあり得ない。また、当然ながら、平和への思いを巡らす精神作用は、思想及び信条の一つに含まれていることから、憲法19条においても保障されているということができるのである。

c 「平和への思いを巡らす自由」の性質

戦後の日本は、アジア民衆への侵略戦争であったアジア・太平洋戦争を反省し、二度と侵略戦争を行なわないと誓い、平和主義を標榜してきた。そのような状況下で、前述したとおり、日本国民は、みずからの人格形成の上で、憲法の定める平和主義の理念を取り入れているということができる。特に、平和憲法の理念を生活のうえで実践に移している者、平和憲法を誇りに思い人格の中核部分に据えている人物は、平和の問題が個人の尊厳(憲法13条)に直結しているだけに、平和を危うくする政府の言動には極めて敏感に反応する。必ずしも平和憲法の理念が十分に活かされてはおらず、むしろ徐々になし崩し的に軍国主義化が進んでいるのではないかという危機感もあって、神経は極めて鋭敏となっている。「戦争は絶対に起こしてはならない」「戦争遂行の兆候を見過ごしてはならない」という強い信念の下に生きている人々にとって、平和主義原則に違反する国家機関の言動は、決して容認できるものではなく、常に満腔の怒りをもってとらえられるのである。今回の本件両参拝は、日本を再び戦争国家、軍事国家に仕立て上げていく地ならしとしての意味がある。かつての軍国主義の精神的支柱であった靖國神社をことさらに厚遇し、そこに祀られている「英霊」を称揚することは、平和を真剣に希求する原告らの平和への思いを巡らす自由を踏みにじる行為に他ならない。このような平和を踏みにじるような政府の言動によって、原告らは、個人としての尊厳を著しく傷つけられてしまった。「平和への思いを巡らす自由」はそれぞれの人格に密接に関わり、人生観そのものを構成することから、これを否定されたときの衝撃は非常に大きく、平和への思いを巡らす自由は、壊れやすくもろい自由、権利であるといわねばならない。平和を希求する市民にとっては、靖國神社参拝という行為を通じて、政府が平和をなし崩しにしているさまを見ると、心の奥底から強い憤りを感じるとともに、自らの生きる基盤となっていた平和主義を否定された衝撃を受け、精神的な苦痛を味わうのである。

d 東京地裁平成8年5月10日判決・判例時報1579号62頁は、市民平和訴訟において、「個人の内心的な感情も、それが害されることによる精神的な苦痛が社会通念上受忍すべき限度を超えるような場合には、人格的な利益として法的に保護すべき場合があ(る)」として、内心の感情について法律上保護の対象となることを明確に理論上認めている。これまで見てきたとおり、「平和への思いを巡らす自由」は、戦後の平和主義の理念の下に育った平和を愛する市民にとっては人格に密接に結びついた権利であり、これを公権力の行使によって蹂躙された場合には、著しい精神的苦痛がもたらされることは明らかであり、上記裁判例の内容からしても、人格的な利益として保護されるのである。

また、判例は「平和的生存権」については消極的であるとされているが、本件で請求している「平和への思いを巡らす自由」は、国家に政策や作為を求める性質のものではなく、個人の自由権の保障を求めているに過ぎないから、平和的生存権についての判例の射程は及ばないと解すべきである。

(エ) 名誉権の侵害

a 原告らの被侵害利益の内容として、名誉権といえるものがある。すなわち、原告らの中には、人格権の内容として把握することが可能な、名誉の権利という法益を有し、本件両参拝によって、それが侵害された者がいる。

b 名誉権の内容と法的根拠

名誉とは、人の品性、名声、信用その他の人格的価値について社会から受ける客観的評価をいう。法の世界では、不特定多数人の間でこの人の社会的評価を社会的、一般的にいって低下させる行為を、名誉毀損と呼んでいる。名誉を毀損することは、犯罪として取り扱われているところであり(刑法230条)、また、私法上も不法行為を構成することに争いはない。民法723条によれば、名誉毀損の場合にのみ、通常の不法行為の場合と異なり、損害賠償のほか、原状回復のための「適当ナル処分」を裁判所が判決することもできるとされているのである。このように、名誉が不法行為法上の利益となることは全く問題がない。このように、名誉が保護に値する法益とされるのは、社会における人の人格的価値の客観的評価が、人間が社会生活を営むにあたって、人格的生存に不可欠であるからである。したがって、名誉権は、人格権の一内容として、憲法13条によって保障されている。このことは、判例上も認められるところである。

c 名誉権の侵害行為について

いかなる行為が名誉を毀損する行為となるかは、社会一般的にいって人の社会的評価を下げさせる行為をいうとされるが、原告らにとっては、本件両参拝が、この社会的評価の低下をもたらす場合がある。具体的には、遺族原告である。

遺族原告にとっては、自らの親族は、誤った第二次世界大戦において、やむなくこれに従事し、無念の死を遂げた。これは、本人の望まぬ無念の死であった。遺族原告としては、自らの親族の死は、遺族が考えるとおりに、その死を追悼していきたいところである。しかるに、戦没者は、天皇の軍隊の軍人であって戦死を遂げた場合、靖國神社の神となるとの扱いを受けて、靖國神社に合祀されている場合がある。この合祀自体、遺族原告にとっては、不名誉極まりないことである。戦没者が合祀されるということは、第二次世界大戦に従事したことから、そのことが讃えられて祀られていることになるが、戦没者遺族にとって、これほど本意に沿わないことはない。自らの親族は、間違った戦争に必要もなく駆り立てられ、死ぬ必要がないのに無念にも死を遂げたのに、「よく戦争に参加した。感謝をする。」との扱いを受けるのであり、これは、間違った戦争の共犯と社会に流布されるに等しいことである。遺族にとって、自らの親族が間違った戦争の加担者として扱われ、そのことが社会に喧伝されるのであり、これほど不名誉なことはない。

このことを不名誉に思う気持ちは、在韓の遺族原告にとっては、ひとしおである。在韓の原告にとっては、もともと日韓併合によって、民族の自立を奪われ、自らの国や家族の利益のためではなく、日本のために、無理矢理戦争に駆り立てられた。韓国人軍人・軍属の従軍は、まさに、日本の侵略、他国の民族自決権を踏みにじった結果としてあらわれたことであり、韓国人軍属の多くが、戦死を遂げたことは、まさに無念の極みであった。それが戦争を讃える立場の神社に合祀をされれば、これは、韓国国内に対しても、アジアの諸外国に対しても、その軍人が戦争に参加したことを讃えられて祀られることになるから、民族の自決の観点からも、誤った戦争に参加を強要された立場からも、これは不名誉極まりない事態である。

d このような立場からすれば、内閣総理大臣や東京都知事が靖國神社に参拝するということは、戦没者遺族原告にとって、自らの親族についての誤ったレッテルを改めて確認し、そのことを称揚することを意味する。これは、社会に対し、その戦没者を、「正しい戦争への従事者として褒め称えられるべき人」との評価を与えるものであり、戦没者遺族にとっては、「何だ、おまえの親族は、あの戦争に参加をして死に、そのことで褒められているのか。」と社会に印象付けられることになるのである。しかし、遺族にとってそのような評価は、社会に対して顔向けできないくらいの、不名誉極まりない事態にほかならない。参拝によって、名誉を侵害された原告らの人格権の損傷は、極めて著しいものがある。

(オ) PTSDと人格権侵害

a 人格権概念において、生命・身体の侵害は典型的な人格権侵害とされる。生命・身体は最も重要な保護法益であり、その侵害に不法行為が成立することは疑いがない。ところでPTSDは、「外傷後ストレス障害」という名称から明らかなとおり、傷害の一種である。PTSDは、刑事司法における被害者保護の思想の高まりに軌を一にして、従来は精神的な損害としてしか把握されていなかった被害者の心の苦しみについて、これを傷害の一種として身体的な損害として構成することにより損害の正当な評価をもたらした。現在、PTSDが傷害の一種であるということについては、疑いの余地がないほど確立した概念となっている。

PTSDをもたらす精神的打撃は、もちろん人格の核心を傷つけ、尊厳を踏みにじることによって人格権侵害を構成する。そして、PTSDに至った場合は、被侵害利益は被害者の精神面にとどまらず、身体への侵襲に至るのであり、その打撃により被害者に対して後遺的な損害を与え続けるのである。つまり、PTSDに至った場合の人格権侵害は、その侵害の程度が極めて大きく、被侵害利益として非常に明確であるということができる。人格権侵害について指摘されることがある「被侵害利益として明確でない」という指摘は、PTSDについては、全く当てはまらないといってよい。

b 原告らの被った損害については、宗教的人格権、平和への思いを巡らす自由、名誉権などの侵害として把握されるべきことは先に述べたとおりである。そして、原告らの中には一部PTSD的症状を訴える者が存在しており、かかる者との関係では身体的損害の側面としての人格権侵害が成立することは自明の理であり、精神的損害の側面としての人格権侵害が存在したかどうかを改めて検討するまでもないことは明白である。

(カ) 在韓原告らの権利ないし法的に保護された利益の侵害

本件訴訟においては、在韓の韓国・朝鮮人が多数原告に加わっている。以下、在韓原告らの被った侵害について特に付言する。

a 本件訴訟において、韓国に在住する原告らは、いずれも社団法人B(第1次提訴原告)に所属する者である。原告らは、先の大戦において日本軍としてアジアへの侵略戦争に強制的に加担させられた軍人、軍属、労務者らの遺族及び日本軍元慰安婦である。

b 在韓原告らの甚大な精神的被害

本件両参拝による在韓原告らの精神的な被害は極めて甚大である。

なぜなら、在韓原告らの最愛の肉親は、軍人、軍属らとしてその意に反して日本軍に組織化され、植民地支配の犠牲者、被害者となったにもかかわらず、その肉親は数千万人の命を奪ったアジアへの侵略戦争の加害者にさせられており、しかも死して数十年経過した今もなお靖國神社が「魂」を強制的に祀り、こともあろうに「英霊」として慰霊顕彰し続けているからである。いまもなお、在韓原告らの最愛の肉親は、その名誉を回復する機会を与えられていないままである。

日本軍においては、軍人、軍属らとして天皇に忠誠を尽くさせるために、韓国・朝鮮人に対して特に皇民化政策が徹底されたが、その中心にあったのは常に朝鮮神宮であり、靖國神社であった。このような経緯に鑑みるならば、在韓原告らにとって、靖國神社は肉親の「魂」を縛り付けている精神の牢獄に他ならない。日本の公人が靖國神社に参拝することは、韓国・朝鮮人軍人、軍属らにとっては耐えがたい屈辱に他ならない。それと同時に、その肉親である在韓原告らも、肉親を愛するがゆえに同様の侵害を被るのである。

加えて、戦後日本政府は、日本人の軍人、軍属やその遺族には、莫大な費用を投じて手厚い援助(恩給等)を行う一方で、朝鮮半島など旧植民地出身者には「日本人ではなくなった」という理由から、生死の確認や遺骨の収集すら行わず、しかも被害補償をほとんどしてこなかった。この事実が、さらに在韓原告らの屈辱感を大きなものにしている。

本件両参拝は、以上のとおり、在韓原告らの静かに祖先を弔う思想及び信条並びに民族としての人格権を踏みにじるものであって、決して許されるべきものではない。

c 在韓原告の宗教的人格権

個人がある信仰を持ちつつ(また持たずに)、個人の尊厳を確保するためには、国家によってある宗教を強制される、宗教儀式への参加を強制されるなどの強制から免れるだけでは十分とはいえない。これらを超えて、国家に対して、信仰を個々人の私的・個人的事柄として尊重させなければならない。その一つとして、国家によって宗教的に静謐な環境を乱されない権利及び一定の宗教的意味付けをされない権利も、宗教的人格権として保障されなければならないことは前記のとおりである。

そして、ここでいう国家とは、現在の自国政府のみを意味しない。なぜなら、信仰は人間にとって、最も私的・個人的事柄であり、故に個人に対して強い影響力を及ぼし得るすべての権威、権力から干渉を受けてはならない性質のものだからである。とりわけ、その権威、権力が、かつて過去に自国を植民地化し、自分を管理、支配していた国家であった場合には、自国政府に匹敵する、ないしそれ以上に、干渉を受けないことが要請されるのである。そして、戦前日本が行った皇民化政策によって文化を奪われ、神社に強制的参拝をさせられ、強制徴兵・徴用によって肉親を奪われ戦死させられた韓国・朝鮮人からみれば、まさに日本という国家は、「自分たちを管理、支配していた国家」に当たるから、在韓原告らの宗教的人格権も憲法によって保障されるのである。

d 宗教的人格権の侵害

本件両参拝は、在韓原告らの宗教的人格権を侵害するものである。

第1に、在韓原告らは、戦時中の旧日本帝国の皇民化政策の精神的支柱となった靖國神社に対して、特有の嫌悪感を抱いている。すなわち、靖國神社は、皇民化政策のシンボルであり、在韓原告らにとっては屈辱的な植民地支配の象徴そのものである。したがって、本件両参拝は、過去の宗教弾圧、強制参拝の忌まわしい記憶を喚起させ、在韓原告らの宗教的に静謐な環境を乱されない権利を侵害するのである。

第2に、在韓原告らは、韓国人特有の宗教観、霊魂観を有しており、これが故に肉親が合祀されていることに対して許し難い感情を持っている。ましてや、これを戦争加害者である日本の内閣総理大臣と日本の首都である東京都の知事が参拝することによって積極的なお意味付けをすることは、宗教観、霊魂観から絶対に容認できないものである。このように、本件両参拝は、在韓原告らの一定の宗教的意味付けをされない権利を侵害するものである。

e 「平和への思いを巡らす自由」の侵害

本件両参拝によって、在韓原告らは、日本人原告らと同様に、あるいはそれ以上に、「平和への思いを巡らす自由」を侵害された。

この平和への思いを巡らす自由に関して、とりわけ、韓国国民にとっては、日本による36年に及ぶ植民地支配と悲惨なアジア・太平洋戦争の記憶に深く結び付いて、あまねく共有されており、韓国国民の人格の形成、人格的生存にとって不可欠のものとなっている。韓国国内においては、戦前にあっては軍国主義の精神的支柱としての役割を果たし、戦後も天皇を現人神として称え、侵略戦争を賛美してきた靖國神社を拒絶する感情は極めて強い。それにもかかわらず、被告小泉及び被告石原は、韓国国民への配慮を全くすることなく、靖國神社への公式参拝を強行してきており、韓国国民は怒りの極みに達している。

アジア・太平洋戦争の反省から生まれた日本国憲法は、米英中によるポツダム宣言が下敷きにされており、二度と他国を侵略しない、武力と戦争を放棄するということを宣言した箇所は、対外的条約といえる要素を持っている。このことからすると、日本国憲法に定めている憲法前文、9条等の平和主義、国際協調主義の規定は、単に新しい日本国建設のために定められたと限定的に捉えるべきではなく、侵略戦争の犠牲となったアジア民衆のために、日本国政府の過ちを繰り返させないよう宣言されたものであると捉えるべきなのである。

したがって、内閣総理大臣や東京都知事が、侵略の道具や軍国主義と密接に結び付いていた靖國神社に公式参拝するということは、平和主義、国際協調主義に真っ向から反する行為であり、アジア民衆への裏切り、挑発行為にほかならない。本件両参拝によって、在韓原告らは、平和への思いを打ち砕かれ、また、苦しみを味わった。

f 名誉権の侵害

遺族である在韓原告らにとっては、日本人遺族と同様の名誉の侵害になる場合がある。自らの親族は、間違った戦争に必要もなく駆り立てられ、死ぬ必要がないのに無念にも死を遂げたのに、「よく戦争に参加した。感謝をする。」との扱いを受けるのは、間違った戦争の共犯者と社会に流布されるに等しいことである。遺族にとって、自らの親族が間違った戦争の加担者として扱われ、そのことが社会に喧伝されることほど不名誉なことはない。

このことを不名誉に思う気持ちは、在韓の遺族原告らにとってはひとしおである。在韓原告らにとっては、もともと日韓併合によって、民族の自立を奪われ、自らの国や家族の利益のためではなく、旧日本帝国のために、無理矢理戦争に駆り立てられた。韓国人軍人、軍属の従軍は、まさに旧日本帝国の侵略、他国の民族自決権を踏みにじった結果としてあらわれたことであった。韓国人軍属の多くが戦死を遂げたことは、まさに無念の極みであった。それは、まさに日本の侵略の犠牲としてあらわれたことであった。それが戦争を讃える立場の靖國神社に合祀をされれば、これは、韓国国内に対しても、アジアの諸外国に対しても、その軍人が、戦争に参加したことを讃えられて祀られることになるから、民族の自決の観点からも、誤った戦争に参加を強要された立場からも、不名誉極まりない事態である。

(被告国及び被告小泉の主張)

(ア) 本件小泉参拝によっては、そもそも原告らの法律上保護された具体的権利ないし法的利益が侵害されたものとはいえない。

a 政教分離規定について

判例上、憲法の政教分離規定が制度的保障であり、人権保障規定でないことは明確にされている。

すなわち、最高裁昭和52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁(以下「最高裁昭和52年判決」という。)は、「元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。」と判示し、政教分離規定が、いわゆる制度的保障の規定であることを明らかにしている。また、最高裁昭和63年判決も、「憲法20条3項の政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、私人に対して信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由を確保しようとするものである。」とし、被上告人の憲法20条3項の規定が私人に対し法的利益を保障しているとの主張に対して、「右規定は前記のとおりいわゆる制度的保障の規定であって、私人の法的利益を直接保障するものではないから、このような法的利益もまたこれを認めることができない。」と判示している。

b 「宗教的人格権」について

最高裁昭和63年判決は、原告らの主張するいわゆる宗教的人格権につき、「人が自己の信仰生活の静護を他者の宗教上の行為によって害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである。原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。」と判示して、いわゆる宗教的人格権が法的利益であることを否定した。

以上の最高裁昭和63年判決からも明らかなように、原告らの主張する「宗教的人格権」(静謐な宗教的あるいは非宗教的環境下で思いを巡らせる自由を含む。)は、国家賠償法上保護された法益とは認められないのであり、原告らの主張には理由がない。

c 「民族としての人格権」について

在韓原告らが「民族としての人格権」を主張しているとしても、原告らのその主張内容からは、その概念、具体的な権利内容、根拠規定、主体、成立要件、法律効果等のどの点をとってみても何ら明確なものではなく、その外延を画することさえできない極めてあいまいなものである。したがって、現行法上、原告らの主張するような「民族としての人格権」は、国家賠償法上保護された法益とはいえないから、この点に関する原告らの主張は失当である。

d 信教の自由を侵害するとの主張について

(a) 信教の自由の保障は、国家から公権力によってその自由を制限されることなく、また、不利益を課せられないとの意味を有するものであり、国家によって信教の自由が侵害されたといい得るためには、少なくとも国家による信教を理由とする不利益な取扱い又は強制、制止の存在することが必要と解されている。

最高裁昭和63年判決は、「信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。」とし、「被上告人が県護国神社の宗教行事への参加を強制されたことのないことは、原審の確定するところであり、またその不参加により不利益を受けた事実、そのキリスト教信仰及びその信仰に基づき孝文を記念し追悼することに対し、禁止又は制限はもちろんのこと、圧迫又は干渉が加えられた事実については、被上告人において何ら主張するところがない。・・・してみれば、被上告人の法的利益は何ら侵害されていないというべきである。」旨判示した。

したがって、信教の自由の保障が、国家による信教を理由とする不利益な取扱い又は強制・制止を禁止するものであることからすれば、そのような要素を含まない「国家によって宗教的に静謐な環境を乱されない権利及び一定の宗教的意味付けをされない権利」なるものを憲法20条1項前段から導くことはできないというべきである。

(b) 本件小泉参拝は、原告らの信教を理由に、原告らを不利益に取り扱ったり、原告らに特定の宗教の信仰を強要したり、あるいは原告らの信仰する宗教を妨げたりするものではないから、本件小泉参拝等により、原告らの信教の自由が侵害された旨の原告らの主張は理由がない。

e 「平和への思いを巡らす自由」を侵害するとの主張について

原告らの主張する「平和への思いを巡らす自由」について、宗教的人格権や思想及び信条の自由の一内容として位置付けるものであれば、原告らの主張する立法措置を講じないことや本件小泉参拝は、原告ら個人の思想及び信条を理由として、原告らを不利に取り扱ったり、原告らに特定の思想・良心を持つことを強要したり、あるいは原告らが特定の思想・良心を持つことを妨げたりするものではないから、原告らの思想及び信条の自由を侵害するものではない。したがって、本件小泉参拝により、原告らの「平和への思いを巡らす自由」が侵害された旨の原告らの主張には理由がない。

また、原告らは、宗教的人格権や思想及び信条の自由と並列する権利として「平和への思いを巡らす自由」があり、本件小泉参拝により原告らの「平和への思いを巡らす自由」が侵害された旨をも主張する。しかし、そもそも原告らの主張する「平和への思いを巡らす自由」なるものは、その概念そのものが抽象的かつ不明確であるばかりでなく、具体的な権利内容、根拠規定、主体、成立要件、法的効果等のどの点をとってみても一義性に欠け、その外延を画することさえできない極めてあいまいなものであり、このような「平和への思いを巡らす自由」をもって国家賠償法上保護された権利ないし法的利益と認めることはできない。

f 名誉権の侵害の主張について

本件小泉参拝に限らず、一般に参拝行為は、その性質上、ある人に関する情報の伝達をその内容とするものではないから、ある人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を低下させることも、名誉感情を侵害することもあり得ないから、本件小泉参拝が原告らの名誉権や名誉感情を侵害したという原告らの主張は失当である。

(被告東京都の主張)

(ア) 憲法上の政教分離規定は、制度的保障の規定であり、国民個人に具体的権利として政教分離原則が保障されたものではない。

(イ) また、憲法は、我が国の主権の及ばない外国に居住する外国人に対し、信仰の自由をはじめとする精神的自由権を保障しているものとは到底解せられない。その意味で、国外に居住する外国人原告らとの関係において、憲法上の信教の自由の侵害の問題が生じる余地はそもそもない。そして、原告らが、被告石原の行った不法行為としてあげている本件石原参拝は、我が国内の一地方公共団体の長にあるにすぎない被告石原が、日本国内にある靖國神社において戦没者に向けて慰霊、追悼の意を表したという行為であり、何ら原告らに向けて行った行為ではなく、原告らの内心に直接の干渉を及ぼすものではない。このことからしても、かかる行為により、外国に居住する外国人である原告らに対し、具体的な法益侵害の結果をもたらすべき行為と評価することなど不可能といえるのであり、在韓原告らの関係では、法益侵害のないことは明らかである。

(ウ) また、原告ら一般についても、本件石原参拝との間に相当因果関係を認めるべき保護法益の侵害を認めることはできない。本件石原参拝は、その性質からして原告らの内心に何ら干渉を行うものではなく、この行為によって、原告らが不快の念を抱き悲憤の感情に駆られたということが仮にあったとしても、そのことで原告らの信仰の自由が具体的に侵害されたという評価は全く当たらないのであり、また、原告らのいう宗教的人格権や静謐な環境の下で死者を想う権利ないし平和への想いを巡らす自由は、法的利益としてこれをとらえるには、余りに抽象的であるか、ないしは内容が不明確に失するものであり、法的保護に値するとは到底いえない。

(被告石原の主張)

(ア) 「信教の自由」の侵害が成立するためには、信教を理由とする不利益な取扱い若しくは宗教上の強制が具体的に存することが必要であるが、原告らが被告石原参拝により具体的に信教を理由とする不利益な取扱い又は宗教上の強制を受けたものでないことは明らかであり、「信教の自由」の侵害は存在しない。

(イ) 政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものでないことは、確立した判例である。

(ウ) 「宗教的人格権」は国家賠償法上の法的利益ではない。なぜなら、宗教上の感情を被侵害利益として直ちに損害賠償を請求し又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえって、相手方の信教の自由を妨げる結果となるからである。

(エ) 「民俗としての人格権」は、その権利の具体的な内容が明らかでないばかりか、その根拠や効果も明らかでなく、概念はあいまいなものといわざるをえない。したがって、国家賠償法上の保護された法的利益とはいえない。

(オ) 「平和への思いを巡らす自由」の内容も、「民俗としての人格権」と同様、その具体的内容、根拠、効果が明らかとはいえない。仮にこれを思想及び信条の自由と位置付けたとしても、被告石原参拝によって原告らの思想及び信条の自由が害されないことは明らかである。本件石原参拝は、原告らの思想及び信条を理由として原告らを不利益に取り扱うものではないし、特定の思想・良心をもつことを強制するものではないからである。

イ 本件両参拝の職務行為性

(原告らの主張)

本件両参拝が、いずれも公式参拝であることは、以下の事実から認められる。

(ア) 被告小泉参拝について

a 本件小泉参拝に際し、被告小泉は、同参拝が純粋に私的なものであることを明確にしたことは一度もなく、かえって、靖國神社への往復に公用車を用いるなど、被告国の公務として行動した。

b さらに、被告小泉は、靖國神社本殿昇殿に先立ち、同神社拝殿において「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳したほか、祭壇に備えさせていた「内閣総理大臣小泉純一郎」という名入りの一対の供花に対して3万円を靖國神社に支払った。

c また、被告小泉は、本件小泉参拝前から、「靖國神社の公式参拝は日本人の原点だ。(内閣総理大臣就任後は)日本のために犠牲になった人のために参拝する。」(自民党総裁選中の公約)、「戦争の犠牲者への敬意と感謝をささげるために、靖國神社にも内閣総理大臣として参拝するつもりだ。」(平成13年5月14日衆院予算委員会での答弁)等の発言を繰り返し、内閣総理大臣として参拝する姿勢を終始明確にしてきた。

d 本件小泉参拝後、被告小泉は、報道陣の質問に対して、「公的とか、私的とか、私はこだわりません。」と語った。

(イ) 被告石原参拝について

a 被告石原は、平成12年8月15日、東京都知事として靖國神社に参拝し、また、平成13年7月末ころから、東京都知事として参拝する姿勢を表明してきた。

b そして、被告石原は、平成13年8月15日、「東京都知事石原慎太郎」と記帳の上、靖國神社本殿に昇殿し、戦没者の霊を祀った祭壇に黙祷した後、深く一礼を行った。

c 本件石原参拝後の記者会見において、公式参拝かとの記者の問いに対し、被告石原は、「そういうくだらんことは聞かないの!」「当たり前だろう。都庁から来たんだから。」「東京都知事と言ってるだろう。」などと回答し、東京都知事としての公式参拝であることを明確にした。

(被告国及び被告小泉の主張)

本件小泉参拝は、内閣総理大臣としての資格で行われたものではなく、公務員の職務として行われたものではない。

(ア) 内閣総理大臣としての資格で行われたか否かの区別

「内閣総理大臣その他の国務大臣の地位にある者であっても、私人として憲法上信教の自由が保障されていることはいうまでもないから、これらの者が、私人の立場で神社、仏閣等に参拝することはもとより自由であって、このような立場で靖國神社に参拝することは、これまでもしばしば行われているところである。閣僚の地位にある者は、その地位の重さから、およそ公人と私人との立場の使い分けは困難であるとの主張があるが、神社、仏閣等への参拝は、宗教心のあらわれとして、すぐれて私的な性格を有するものであり、特に、政府の行事として参拝を実施することが決定されるとか、玉ぐし料等の経費を公費で支出するなどの事情がない限り、それは私人の立場での行動と見るべきものと考えられる。・・・靖國神社参拝に関しては、公用車を利用したこと等をもって私人の立場を超えたものとする主張もあるが、閣僚の場合、警備上の都合、緊急時の連絡の必要等から、私人としての行動の際にも、必要に応じて公用車を使用しており、公用車を利用したからといって、私人の立場を離れたものとは言えない」し、「記帳に当たり、その地位を示す肩書きを付すことも、その地位にある個人をあらわす場合に、慣例としてしばしば用いられており、肩書きを付したからといって、私人の立場を離れたものと考えることはできない。」

以上は、政府の統一見解であり、これまで重ねて明らかにされているところである。

(イ) 本件小泉参拝について

以下の諸般の事情を総合的に考慮すれば、本件小泉参拝は、内閣総理大臣としての資格で行われたものではなく、被告小泉が私人の立場で行ったものであることは明らかであるから、国家賠償法1条の要件を具備しない。

a 本件小泉参拝は、閣議決定などによりこれを政府の行事として実施することが決定されたものではなく、また、献花代は被告小泉の私費により賄われており、玉串料等の経費が公費で支出された事実はない。

b 本件小泉参拝において、被告小泉は、他の閣僚を伴わないで参拝している。

c 被告小泉は、本件小泉参拝後、「総理大臣である小泉純一郎が心をこめて参拝した。」と答えたのであり、内閣総理大臣としての資格での行為を示す「内閣総理大臣として」の表現を用いていない。「内閣総理大臣である」という部分は、私人である「小泉純一郎」が内閣総理大臣の地位にあることを述べているにすぎないから、このように述べたからといって、内閣総理大臣としての資格で参拝したことを示すものとはいえない。そして、被告小泉は、本件参拝以後現在に至るまで、本件参拝に関して、「内閣総理大臣として」の資格で参拝したことを示すような発言を一切していない。

d 本件小泉参拝において、被告小泉が、靖國神社参集所において「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し、献花に付された名札に「内閣総理大臣小泉純一郎」と記載されていたことは事実であるが、上記政府統一見解のとおり、これらはその地位を示す肩書きとして付記されたもので、その地位にある個人をあらわす場合に、慣例としてしばしば用いられているものであって、肩書きを付したからといって、私人の立場を離れたものと考えることはできない。

e 本件小泉参拝に際して、被告小泉は、公用車を利用しているが、上記政府統一見解のとおり、内閣総理大臣を含む閣僚の場合、警備上の都合、緊急時の連絡の必要等から、私人としての行動の際にも、必要に応じて公用車を使用しており、秘書官とともに靖國神社に赴いたことについても、同様に緊急時の連絡の必要等があるからであり、公用車を利用したことや秘書官とともに同神社に赴いたことによって、被告小泉の行動が、私人の立場を離れたものとなるわけではない。

f さらに、本件小泉参拝については、政府の見解としても、私人の立場での参拝と理解されている。

(被告東京都及び被告石原の主張)

(ア) 被告石原は、参拝に関しては、「公式」「私的」の区別を意味あるものとは認めていない。

そもそも、一般的にいって、東京都知事の職にある者は、一千二百万余りの都民の日常生活の様々な側面を常時支え続ける行政の長という職に就いていることから、四六時中その職務を完全に離れることはあり得ないのであり、その行為は、いかなる場合であれ、常に東京都知事である者がなした行為であるという性格を否定できないのである。それは、問題となる東京都知事の行為が、被告石原の場合がそうであるように、個人的に関わりのある者が合祀されている靖國神社への参拝という行為であっても、やはり同様である。

一方、神社という場所は、靖國神社もそうであるように、一般に必ずしも私的に完全に閉じられた空間ではなく、一定程度公衆に開かれた場所という性格を有している。かかる開かれた場所において、常時東京都知事という公職にある者が参拝を行うことについては、いかなる態様であっても、これを全く私的な行為であると言い切ることには、躊躇を覚えざるを得ないものである。

もちろん、知事の職にある者といっても、私的生活はあるわけであるから、例えばわざわざ通常は公務を行わないと見られるような日時を選び、さらに私邸から直接神社に赴いて、かつ、もっぱら自己の親族、知人等私的な繋がりのある者の霊を弔う目的であることを標榜して参拝するとすれば、それを全くプライベートな参拝であるということも考えられる。しかし、あえてそのようなことをしてまで、公私の別にこだわり、公的色彩を払拭することに汲々としながらこれを行うようなことは、全く無意味であるという趣旨が、被告石原の発言には込められているものである。

そうすると、被告石原が「公式参拝か。」という記者の定型的な質問に対し、これをことさら否定しなかったことのみをもって、その参拝行為に関係して被告東京都が靖國神社とどのように関わったかという具体的状況についての検討を省略し、知事である被告石原の参拝行為が「公式」であるということは、すなわち被告東京都が靖國神社を特別なものと認め、特別の関わりを持ったものであると断定する思考方法は、一般人の感覚に照らしても了解し難いところであり、原告らの主張は失当であるといわざるを得ない。

(イ) 本件参拝行為が宗教的行為に当たるか否かは、最高裁判決が示す「目的・効果基準」にこれをあてはめて判断すべきである。

一般的にいって、公職にある者のその地位に何らかの関連を有する行為であるとはいっても、単に神社において参拝し死者を追悼し慰霊するという事実行為で第三者とは直接の関わりを何ら生じないものについてまで、第三者に対する権利侵害を認めることは常識的に見て困難である。このように侵害行為としての性格を持たないと認められる行為についてまで、国家賠償法の職務行為該当性の有無を議論すること自体余り意味がない。

ウ 本件両参拝及び立法不作為の違憲性、違法性

(原告らの主張)

(ア) 靖國神社の宗教団体性

靖國神社は、宗教法人法に基づき、東京都知事の認証を受けて設立された宗教法人であって、宗教上の教義、施設を備え、神道儀式に則った祭祀を行う宗教団体(宗教法人法2条、憲法20条1項)であり、神道の教義をひろめ、儀式行事を行い、また、信者を教化育成することを主たる目的とする神社である。

(イ) 本件両参拝の宗教行為性

a 靖國神社の本殿には礼拝の対象である祭神が奉斎されている。同神社の祭神は、一部原告らの肉親を含む戦没者等の霊である。

b 被告小泉及び被告石原は、前記「争いのない事実」のとおり、靖國神社本殿に昇殿、戦没者等の霊を祀った祭壇に黙祷した後、深く一礼を行ったが、宗教法人の宗教施設において、その祭神に拝礼することは、典型的な宗教行為である。

(ウ) 宗教的活動該当性

a 戦没者等の追悼、あるいは「戦没者に敬意と感謝をささげる」こと、さらにまた「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体」は、「特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができる」(最高裁平成9年4月2日大法廷判決・民集51巻4号1673頁。以下「最高裁平成9年判決」という。)にもかかわらず、被告小泉は、終戦記念日に靖國神社に被告国を代表する内閣総理大臣として参拝することに強くこだわり、その後参拝日を2日間前倒ししたものの、本件小泉参拝を行い、また、被告石原も、東京都知事として参拝することに強くこだわり、本件石原参拝を行った。

b ところで、このような靖國神社への特別のこだわりないし関わり合いをどう評価するかに関連して、最高裁平成9年判決は、次のように判示し、玉串料の支出という現場に出向かない行為ですら、県が靖國神社との間にのみ意識的に特別の関わり合いを持ったことを否定することができないと断定している。

「(愛媛県知事が靖國神社の例大祭、慰霊大祭に際し、毎年玉串料を支出してきたという)本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。これらのことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別の関わり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。」

玉串料支出との比較からすれば、国民及び東京都民と世界が注視している中で、被告小泉が内閣総理大臣として、被告石原が東京都知事として靖國神社参拝を行った本件ではなおのこと、被告国及び被告東京都が靖國神社との間にのみ、極めて意識的に特別の関わり合いを持ったことを否定することができない。

c また、最高裁平成9年判決は、県が特定の宗教団体である靖國神社に対してのみ、本件のような形で特別の関わり合いを持つことは、一般人に対して、県が靖國神社を特別に支援しており、靖國神社が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、靖國神社という特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ないと判断している。

玉串料の支出ですらそうであるなら、被告小泉が被告国を代表して内閣総理大臣として、被告石原が被告東京都を代表して東京都知事として、それぞれ靖國神社に本件両参拝をするという形で特別の関わり合いを持つことは、一般人に対して、被告国や被告東京都が靖國神社を特別に支援しており、靖國神社が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、靖國神社という特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。

d さらに、最高裁平成9年判決は「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられる」と指摘しているところ、政府主催の全国戦没者追悼式及び東京都主催の東京都戦没者追悼式が毎年実施されており、被告小泉は被告国を代表して全国戦没者追悼式に、被告石原は被告東京都を代表して東京都戦没者追悼式にそれぞれ出席したように、戦没者等を追悼することは、宗教行為によることなく可能であり、それにもかかわらず、屋上屋を架すかのように、あえて内閣総理大臣や東京都知事としての靖國神社参拝という形を加えなければならない理由は何もない。

e 以上の事情から判断すれば、被告小泉が被告国を代表して内閣総理大臣として、被告石原が被告東京都を代表して東京都知事として、それぞれ靖國神社に本件両参拝をしたことは、最高裁平成9年判決が愛媛県の玉串料支出を宗教的活動と判断したよりさらに明確に、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる被告国及び被告東京都と靖國神社の関わり合いが我が国の社会的、文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たるというべきである。

(エ) 立法不作為の違法性については、前記(2)の「原告らの主張」のとおりであり、上述したとおり、被告小泉及び被告石原の本件両参拝は典型的な宗教行為であり、憲法20条1項後段、同条3項に反する明確な違憲行為であるところ、被告国は、かように憲法違反の問題を生じる靖國参拝について、公務、公人としての参拝を禁じる立法措置を講じるべき義務があったのにこれを怠った違法がある。

そして、国会議員も「公務員」であり、立法するしないというまさに国会議員の「職務を行うについて」原告らに損害を与えているから、国はこれによって原告らが被った損害を賠償しなければならない。

(被告国の主張)

(ア) 国家賠償法1条1項の「その職務を行うについて」に該当しないこと

最高裁昭和31年11月30日第二小法廷判決・民集10巻11号1502頁は、国家賠償法1条1項にいう職務行為につき、いわゆる外形標準説を採用したが、外形標準説が、本来職務行為でないのに外形を重視して責任を負わせるものであるとすれば、国家賠償法においては、相手方が適法な職務遂行であると思った場合のみ責任が生ずる余地があることになるところ、原告ら自身、内閣総理大臣がその職務行為として靖国神社に参拝することは適法ではあり得ないと主張し、適法なその職務行為に信頼を置いているわけではないのであるから、そもそも外形標準説を用いて「その職務を行うについて」の要件を判断することはできない。

また、本件小泉参拝の行為の外形を構成する事実を政府統一見解で示された基準に従って判断すれば、外形標準説の立場からも、客観的外形的に国の機関としての内閣総理大臣の行為として判断することはできない。

(イ) 立法不作為について

前記(2)の「被告国の主張」イのとおり、最高裁昭和60年判決によれば、憲法上、原告らの主張する立法を行うことを定めた規定は存在せず、立法しなかったことが憲法の一義的な文言に違反しているものとはいえないから、「国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背した」とはいえず、原告らの主張する立法不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法となる余地はない。

(被告東京都及び被告石原の主張)

(ア) 被告石原参拝が憲法20条3項により禁じられている宗教的活動に該当しないことは、以下の点を総合考慮すると、明らかである。

a 本件石原参拝は、近親者を含む戦没者への敬意を表し、慰霊、追悼、その遺族を慰謝するための行為である。

b 文京シビックセンターから靖國神社までの移動及びその後同神社から都庁本庁舎までの移動のためには公用車を用いているが、これは被告東京都の公式行事である東京都文京区内の「文京シビックセンター」内の「シビックホール大ホール」において行われた「東京都戦没者追悼式」に出席した後、東京都新宿区内の都庁本庁舎への帰途、東京都千代田区内の靖國神社に立ち寄ったためである。

c 被告東京都は、玉串料、献花料等の参拝行為に伴う公費の支出は一切していない。

d 本件石原参拝については、戦没者追悼式と異なり、被告東京都の公式行事日程に上がっているものではなく、歳出に伴う行為以外にも参拝を行うことについて組織的な意思決定を行っていない。

e 当日、被告石原の警護のために神社の境内に同行した被告東京都の職員はいるものの、常時警護の必要のある東京都知事という立場にあるという理由から、もともと公式スケジュール以外でもこれらの職員は同行しているのであるから、これまた当然の行為である一方、参拝目的で境内に立ち入った随行職員は全くいない。

f 本件石原参拝当日は、終戦の日であるが、靖國神社の宗教的行事が行われる日ではなく、被告石原が実際に神道の宗教的行事に参列、列席したものではない。

(イ) 以上のとおり、上記(ア)の行為をもって、一般に、被告東京都と靖國神社との間に特別な関わりを持ったものとの認識が生じるおそれが大きいとは到底いいがたく、当該行為が地方公共団体である被告東京都が靖國神社の宗教活動に対し特別に援助、助長を行うものととらえられるべきではないことは明らかである。また、社会通念に照らして、被告石原が本件石原参拝を行うことによって、知事という被告東京都の機関として、靖國神社の宗教活動を特別援助、助長したものと多くの者が評価するということもできない。

エ 被告小泉の不法行為責任の有無

(被告小泉の主張)

公権力の行使に当たる公務員の職務行為について、公務員個人は賠償責任を負わない(最高裁第二小法廷昭和53年10月20日判決・民集32巻7号1367頁。以下「最高裁昭和53年判決」という。)ものとされているから、これにより、請求の趣旨3項の被告小泉に対する各請求は主張自体失当である。

(原告らの主張)

国家賠償法1条1項に基づく国や地方公共団体の賠償責任は、「国家無問責」として従来認められなかった国又は地方公共団体の不法行為責任を新しく規定したところに意味があり、公務員個人に対する賠償責任を規定していないことをもって公務員個人の責任までを否定したものと断定すべきではない。国家賠償法に基づく国や地方公共団体の賠償責任は、国や地方公共団体の自己責任であり、もともと公務員個人の責任とは無関係なものであって、国や地方公共団体が責任を負担するからといって、公務員の個人責任が排除されるべき根拠は存在しない。一般的にいっても、使用者責任の法理からすれば、使用監督すべき立場にある者が負う責任は、自らの監督責任を懈怠したことに根本があるのだから、直接手を下した公務員自らの行為責任として負う責任とは別個のものであって、特に公務員個人の責任を規定するまでの必要がなかったからと解される。

最高裁昭和53年判決によるも、公務員個人の損害賠償責任を否定する理由は、個人責任を問われることによる行政の遅延防止及び公務員の職務遂行の萎縮防止にあり、本件小泉参拝のように、政教分離原則という日本国憲法の基本原則に違反するような憲法行為にまでかかる趣旨が及ぶものではない。少なくとも、公務員の憲法違反行為のように何ら公務としての特段の保護を必要としないほど違法性が明白な場合には、当該公務員個人も直接の賠償責任を負うと解すべきである(そもそも、最高裁昭和53年判決は、公務負に違法行為はなかったとして、国に対する国家賠償法上の責任を否定した上で、傍論として、公務負の個人責任について言及するものにすぎないのであって、国に国家賠償法上の責任が認められる場合に、同時に公務員個人にも責任を追及できるか否かについて、真正面から判断を加えたものではない。)。

オ 被告ら全員の共同不法行為責任

(原告らの主張)

本件両参拝は、いずれも被告小泉と被告石原が公人として宗教施設である靖國神社に参拝したという点で共通している。また、被告石原は、平成12年及び平成13年の各8月15日(終戦記念日)という靖國神社に関わる重要な社会的意味合いのある日時を選んで連続して本件石原参拝をし、被告小泉参拝は、平成13年8月15日ではなく同月13日にずらしてはいるものの、参拝の日は8月15日に近接している。

以上のことから、本件両参拝には、客観的に強い関連共同性があるということができ、民法719条1項前段の要件を満たしている。

(被告国及び被告小泉の主張)

本件両参拝は、原告らの主張する権利ないし利益を何ら侵害するものではない上、原告らの主張する事実を前提としても、被告小泉参拝と被告石原参拝とは、「強い客観的関連共同性」を認めることができるような緊密な一体性はおろか、社会通念上全体として一個の行為として評価できる程度の一体性を有するものとは認められないのであるから、原告らの主張するような共同不法行為が成立する余地はない。

カ 損害額

(原告らの主張)

(ア) 原告らグループごとの損害

a 宗教者(原告番号:原告目録1<略>の49、84、90、113、144、168、原告目録2<略>の758、773、781、789、801、832)

本件両参拝によって原告らのうち宗教者が受けた精神的損害は、宗派によって、また、個人によって様々であるが、それを概観すれば、政教分離原則に伴う一般的な精神的損害と靖國神社参拝に固有の精神的損害とに分類できる。また、宗教者も宗派固有の精神的損害も観念できる。

b 平和を希求する市民(原告番号:原告目録1<略>の7、8(代表者)、35、67、117、203、原告目録2の624、747、749、750、751、752、753、755、759、760、761、762、763、766、767、768、770、775、777、778、779、782、783、784、785、786、788、791、793、794、795、796、797、799、800、802、804、805、806、807、809、811、812、813、815、816、818、820、821、822、823、826、827、828、830、833)

本件両参拝は、平和への思いを人格の中核に構成している原告らにとっては、平和を希求する心情をまさに逆なでする行為であり、具体的損害を与えるものである。

c 戦没者遺族(原告番号:原告目録1<略>の47、163、原告目録2の764、775、815、819、821)

戦没者遺族である原告らは、肉親の死を、戦争の悲惨さ、残酷さと結び付け、同時に他の家族の悲しみや苦痛とも結び付けて克明に配慮し意味付けている。これら原告にとって、当然のこととして、戦死者を英霊として顕彰するという「靖國思想」と、それが再び国家によって推進されることへの断固たる拒絶の意思が生じることになる。本件両参拝は、これら戦没者遺族である原告らに対して多大な精神的苦痛を与えた。

d 東京都民(原告番号:原告目録1<略>35、154、231、原告目録2<略>の746、748、754、756、757、765、769、772、774、776、780、787、790、792、798、803、808、810、814、817、825、829、831、835)

東京都民たる原告らは、被告石原による一方的なアジアに対するむき出しの敵意の発言が相まった憲法違反の本件石原参拝により、人格権、平和に思いを巡らす自由が侵害され続けている。

e 若者(原告番号:原告目録1<略>の7、121、233、原告目録2の824)

若者たちの損害の中心的な部分は、「これから戦争となった際に、自分たちが戦場行かされ、人を殺すかも知れない。あるいは殺されるかも知れない。」という切迫した危機感を本件両参拝によって押し付けられた点にある。このような若者たちの危機感は、十分法的保護に値するものである。

(イ) そして、本件両参拝は被告小泉及び被告石原の明白な故意行為であり、以上の侵害による損害額は、原告らそれぞれによって違いはあるものの、どんなに低く検討しても原告1人につき3万円は下らない。

被告小泉及び被告石原の朝鮮半島支配に対する認識の程度、被告小泉及び被告石原が靖國神社参拝に対する韓国政府や市民らの抗議や憂慮等を十分に認識していたことを考え合わせると、在韓原告らに対する侵害行為の悪質性の程度は極めて強度なものであるから、最高裁判例の趣旨からしても、在韓原告らの損害の発生も明らかであり、その額を金銭に換算すると3万円を下ることはない。

(ウ) 在韓原告らにおける損害の特色

在韓の原告らの精神的損害については、日本人原告らについての人格権の侵害であるという点は何ら変わるところがないが、在韓の原告らの人格権の侵害を検討するにあたっては、朝鮮半島が旧日本帝国により苛烈な植民地支配を受けていたという事情を踏まえた上で具体的な検討を行う必要がある。その意味で、在韓原告の人格権侵害の特徴的事実を挙げるならば、以下のとおりである。

a 日本の植民地支配がなければ戦争被害は発生しなかったこと

在韓原告らは、いずれも天皇を支配の頂点とする旧日本帝国によって展開された、朝鮮半島の植民地支配を経験した者ないしその遺族である。旧日本帝国は、1875年(明治8年)の江華島事件を皮切りに朝鮮半島への内政干渉を続け、日清・日露戦争を経て1910年(明治43年)に日韓併合条約を押しつけ、朝鮮半島を完全に日本の植民地に組み込んだ。その上で、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の敗戦に至るまで徹底した植民地支配を行った。在韓原告らを含む朝鮮人民は、かかる植民地支配の過程で、その生計の途である農地を取り上げられ、日本本土に強制的に移住させられ、家族と引き離され、強制労働に従事させられ、従軍慰安婦として日本人から性的暴行を受け続け、日本兵として戦場でその生命を抹殺されるなど、まさに塗炭の苦しみを受け続けてきた。

在韓原告らが被告小泉及び被告石原の本件両参拝によって被った損害は、かかる旧日本帝国による残酷な植民地支配によって、在韓原告ら及びその家族らが過去において1度完全に人格の尊厳を踏みにじられているという点を踏まえなければ、その正確な評価は不可能である。

日本の植民地支配がなければ在韓原告ら及びその家族らの戦争被害は発生しなかった。在韓原告らが旧日本帝国によって遺族・戦争被害者にさせられた点は客観的事実である。かかる客観的事実を踏まえて在韓原告らの損害について検討を行わねばならないのである。

b 植民地支配の犠牲者でありながら植民地支配をした側の「神」として奉られる理不尽さ

在韓原告らの中には、その肉親が靖國神社に合祀され、「神」として奉られているという者が存在する。これらの者にとっては、天皇を支配の頂点とする旧日本帝国によって自らの肉親の生命を奪われたにもかかわらず、その肉親が天皇制と戦争を賛美する靖國神社に合祀されたことにより、逆にあたかも旧日本帝国の協力者であるかのような外観を付与されてしまったのである。

c 合祀により戦争協力者という社会的な不名誉を受けたこと

靖國神社に合祀されたということは、旧日本帝国における天皇制と戦争を賛美する神社に合祀されたということであるから、社会的には旧日本帝国の植民地支配に対する協力者であるという評価を受けることになる。肉親が合祀されている在韓原告らは、真実は植民地支配の犠牲者であるにもかかわらず、社会的には対日協力者であるとの評価を受けることになり、日本が戦後補償問題などにおいて誠実な戦後処理をしないことに対する怒りが社会的に共有されている韓国において、非常に不名誉な地位におかれることになった。

d 植民地支配と靖國神社への合祀により宗教的祭祀を絶やすという非常に不道徳な扱いを強制したこと

韓国では儒教的な価値観が色濃く存在し、社会的な通念として、家の条祀を絶やすことは非常に不道徳な行為とされている。

ところで、在韓原告らの中には、日本の植民地支配を受けたことによってその家族の生命を抹殺され、家の祭祀が途絶えてしまったという経験を有する者がいる。その場合、遺族らは「家の条祀を絶やした不道徳な人間」というレッテルのもと生きなければならない。

また、在韓原告らの中には、その家族が靖國神社によって「神」として奉られてしまっている者もいる。その場合、在韓原告らにとって、靖國に合祀された肉親の魂は靖國神社に縛り付けられたまま祖国に帰ってくることはできないと観念されることになり、やはり、祭祀を絶やしたのと同様の扱いを受けることになる。

このように、日本の植民地支配や靖國への合祀によって、家の祭祀を絶やしたという不道徳な社会的評価を受けることを余儀なくされる結果が生じているのである。

e 在韓原告らが上記のような事情を有するがゆえに、被告小泉及び被告石原の本件両参拝は、在韓原告らに対して甚大な精神的損害をもたらした。在韓原告らは、自己及びその肉親が日本の植民地支配によって苛烈な被害を被ったが、その後の日本の敗戦により日本は民主化され、平和憲法のもとでアジアの一員として再び侵略を行うことはないであろうと考えていたのである。ところが、被告小泉及び被告石原は、天皇制と戦争を賛美する靖國神社に1度ならず繰り返し参拝したのである。日本の内閣総理大臣と東京都という日本の首都の首長が靖國神社に参拝したということは、日本が国として靖國神社をあがめ、賞賛しているということであり、将来再び韓国に対して残虐な植民地支配をしようと試みるのではないか、という強烈な不安を在韓原告らに与える行為であった。

また、日本の内閣総理大臣と日本の首都の首長が靖國神社をあがめ、賞賛したということにより、自己の肉親が靖國神社に合祀されている在韓原告らは、社会的に不名誉な扱いを受け、名誉感情を害され、宗教的な祭祀を行えないという苦痛がよみがえった。肉親が靖國神社に合祀されている在韓原告らにとっては、合祀されているというだけでも心理的に苦痛であるのに、被告小泉及び被告石原は、靖國神社に参拝し、靖國神社を賞賛することによって、肉親が靖國神社に合祀されている在韓原告らに対し、苦痛を何倍にもして味あわせることを強制したのである。

第3当裁判所の判断

1  本件参拝違憲確認請求について

(1)  被告国及び被告東京都は、本件参拝違憲確認請求が、原告らの個別具体的な権利義務ないし法律関係を離れて、一般的、抽象的に被告小泉及び被告石原の本件両参拝が違憲であることの確認を求めているものであるから、裁判所法3条1項にいう「法律上の争訟」には当たらず、不適法である旨主張する。

確かに、原告らは、いずれも、本件両参拝によって、原告ら各自の人格権が侵害された旨主張し、その具体的内容としては、宗教的人格権の侵害、平和への思いを巡らす思想及び信条の自由の侵害、名誉権の侵害、PTSD的損害の発生等の権利侵害の態様がある旨主張するが、戦没者遺族、宗教者、平和を希求する市民及びPTSD的被害を被ったという原告ら56人並びに在韓原告ら14人を除いては、原告ら各自が上記のどのような人格権の侵害を受けたかについての具体的な主張及び立証はなく、上記70人の原告らについても、証拠として提出した陳述書等をもってしては、その記載内容が抽象的であったり、極めて漠然としていて、その主張する権利侵害の有無自体が明確でない者も少なくないことなどに照らすと、原告らにおいては、いずれも個別具体的な権利義務ないし法律関係を離れて、一般的、抽象的に、被告小泉及び被告石原の本件両参拝が違憲であることの確認を求めているとの見方も成り立ち得ないわけではない。

しかしながら、原告らは、抽象的であるにせよ、原告ら各自が有する「人格権」という権利が侵害されたと主張して本訴を提起し、上記人格権侵害の除去ないし予防のために本件両参拝が違憲であることを確認する必要性があることを主張しているから、その主張自体からは、原告らがその個別具体的な権利義務ないし法律関係を離れて本件両参拝の違憲確認を求めているということはできないというべきである。

したがって、本件参拝違憲確認請求が「法律上の争訟」に当たらないとの被告国及び被告東京都の上記主張は採用できない。

(2)  しかしながら、本件参拝違憲確認請求は、現在の権利又は法律関係をその対象とするものではなく、「被告小泉が平成13年8月13日に内閣総理大臣として靖國神社に参拝したこと並びに被告石原が東京都知事として平成12年8月15日及び平成13年8月15日に靖國神社に参拝したこと」という、いずれも過去の事実行為について、違憲であることの確認を求めているものであるところ、このような過去の事実関係について違憲であることの確認を求める訴えは、法律に特別の規定がなければ、原則として許されないものである(最高裁昭和32年11月1日第二小法廷判決・民集11巻12号1819頁参照)。

もっとも、過去の事実であっても、その事実関係が複数の権利関係の前提となっており、その事実関係を確認の対象とする方が、権利関係全体に関する現在の法律関係を巡る紛争の抜本的解決にとって、適切かつ不可欠である場合には、過去の事実についても確認訴訟の対象とすることができるものと解すべきである(最高裁昭和32年7月20日大法廷判決・民集11巻7号1314頁参照)。

これを本件についてみると、本件参拝違憲確認請求において原告らが主張する本件両参拝が違憲であることの確認判決をする必要性とは、被告小泉は内閣総理大臣として、被告石原は東京都知事として、いずれも本件両参拝後も靖國神社への参拝を繰り返しているから、今後も靖國神社参拝を繰り返し、原告らの人格権を侵害し続けるおそれがあるが、違憲であることの確認判決がなされれば、両被告が公務員として憲法尊重擁護義務を負うことから、今後靖國神社への参拝をしないことが期待できるというものであって、現在の複数の権利関係の解決のために必要であるというものではないのみならず、原告らは、本件訴訟において、本件両参拝を原因行為とする現在の法律関係に基づく請求として、被告ら全員に対し、原告らの権利(人格権)が侵害されたことに対する損害賠償を求めているだけでなく、被告小泉及び被告石原に対しては、被告小泉及び被告石原の将来の靖國神社参拝を禁止させるために、靖國神社に参拝することの差止めも求めているのであるから、原告らと被告らとの現在の法的紛争の解決方法としても、将来の法的紛争の予防という観点からしても、本件両参拝という過去の事実行為の違憲性の確認をすることが適切かつ不可欠であるということはできない。

(3)  そうすると、本件参拝違憲確認請求に係る訴えは、その余の点について判断するまでもなく、訴えの利益を欠く不適法な訴えであるといわざるを得ない。

2  本件立法不作為違憲確認請求について

(1)  本件立法不作為違憲確認請求は、原告らにおいて、被告国との間で、靖國神社参拝について、被告国が公人として又は公務としての参拝を禁ずる内容の法律を制定しないことが違憲であることの確認を求めているものであるが、もとより、裁判所の司法権の行使は、具体的な争訟事件、すなわち、具体的な権利又は法律関係についてなされるものであるから、原告らにおいては、被告国が在韓原告らを含む原告ら各自に対し、どのような法的根拠ないし権利発生原因事実に基づいて、原告らの主張する内容の法律(しかも、その法律は原告らの具体的な権利ないし法的利益に直接変動を生じさせるものではない。)を制定すべき義務を負担しているかということについて主張、立証すべきところ、原告らは、憲法違反の問題を生じる靖國神社参拝について、公務又は公人としての参拝を禁じる立法措置を講じるべき義務があったとか、裁判所において違憲確認判決をすべき状況にあると主張するのみで、上記主張、立証をしない(少数者の人権侵害の重大性、憲法の平和主義や国際協調主義等から、原告らに対する被告国の個別具体的な立法義務が直ちに導き出せるものではない。)。

しかも、最高裁昭和60年判決によれば、そもそも、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではなく、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の適用上、違法の評価を受けないものであるから、法律を制定するか否かという判断作用については、より国会議員の政治的判断に委ねられているというべきである(なお、原告らは、熊本地裁判決によれば、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反していること」という要件は、違法性の絶対条件ではない旨主張するが、同判決によっても、立法行為が国家賠償法上違法と評価されるのが極めて特殊例外的な場合に限られるべきであること自体は認めているところ、上記のとおり、原告らの具体的な権利ないし法的利益に直接変動を生じさせるものではない内容の法律を制定しないことが、そのような極めて特殊例外的な場合に当たるとは認められない。)。

そして、本件立法不作為違憲確認請求が、民事訴訟としての確認の訴えであり、裁判所が判決をもって立法義務の不作為の違憲性を宣言したとしても、これにより立法府に対して法律の制定を義務付けることはできないことや、立法の不作為自体によって、個人に対して何らかの権利侵害が生じているのならば、その権利侵害を理由として国家賠償法に基づく損害賠償の請求をすることができ、現に原告らは、本件立法不作為によって原告らの人格権が侵害されたということを、本件国家賠償等請求の請求原因事実の一つとして主張していることを考え併せれば、立法不作為について確認判決を得ることが、法律関係に関する法律上の紛争を直接的かつ抜本的に解決するため、適切かつ必要な場合に当たるということもできない。

(2)  そうすると、本件立法不作為違憲確認請求に係る訴えは、原告らの具体的な権利義務を離れて立法不作為が違憲であることの確認を求めるか、少なくとも確認の利益を欠くものといわざるを得ないから、その余の点について判断するまでもなく、訴えの利益を欠く不適法なものといわざるを得ない。

3  本件参拝差止請求について

(1)  被告小泉は、本件参拝差止請求に係る訴えは、被告小泉の基本的人権を侵害するものであるから、不適法な訴えである旨主張する。

しかしながら、被告小泉に対して靖國神社への参拝の差止めを求める本件参拝差止請求は、被告小泉の一切の靖國神社参拝の差止めを求めるものではなく、「内閣総理大臣」として参拝することの差止めを求めている趣旨であることは明らかであり、また、被告小泉個人の人権を侵害しようとの意図の下になされたものと認めるに足る準拠もないから、被告小泉の靖國神社参拝の差止めを求める本件参拝差止請求が、その訴え自体において、訴権の濫用として不適法であるということはできない(なお、被告小泉に対する本件国家賠償等請求についても、被告小泉において訴えの却下を求めるものであるとすれば、同様の理由により、その主張は採用できない。)。

(2)  被告小泉及び被告石原は、原告らが人格権の内容として主張する権利ないし法的利益が、法律上保護された権利ないし利益に当たらず、原告らに対する権利侵害はない旨主張するので、この点について検討を加える。

ア 宗教的人格権について

(ア) 原告らは、本件両参拝によって、個人が国家によって宗教的意味付けをされない権利としての宗教的人格権を侵害された旨主張するが、原告らがその権利の内容として主張する「宗教者ばかりでなく、非宗教者にも認められる」ところの「国家又は地方公共団体によって個人の『魂』『生』『死』等の宗教的事項について一定の評価を加えられない法的権利」は、実定法上の根拠を欠くものである上、その内容は、保護の対象面においても、侵害の態様及び結果の面においても、主張それ自体においてきわめて漠然としたものであり、神社への参拝という、もともと第三者に対する直接的・物理的な強制や干渉を伴わない行為による侵害行為に対して法的保護の対象とし、第三者の行為の差止めや、賠償責任を負わせるには、余りにも抽象的かつ主観的にすぎるものといわざるを得ないから、上記原告らの主張する内容の宗教的人格権は、実定法上の人権として保障されているとはいえないというべきである(なお、原告らにおいて、宗教的人格権の内容として、「信仰生活上の宗教的静謐さ」や、「韓国人特有の宗教観、霊魂観」を主張しているとしても、同様に法的保護に値する権利とは認めることはできない。)。

(イ) 原告らは、上記宗教的人格権は、憲法における信教の自由(20条1項前段)、政教分離原則(20条3項)及び幸福追求権(プライバシー権、13条)を根拠として認められる旨主張する。

しかしながら、憲法における信教の自由の保障は、国や地方自治体の公権力によって、信教の自由を制限したり、又は、それらを理由としてどのような不利益も課せられないことを意味するものと解すべきであるから、国や地方自治体によって信教の自由が侵害されたといい得るためには、少なくとも、国や地方自治体ないしその機関によって信教を理由とする不利益な取扱い又は宗教上の規制、制止等の強制の要素が存在することが必要と解するのが相当であるところ、本件全証拠によるも、本件両参拝は、原告らに対して信教を理由として不利益な取扱いをしたり、(心理的な強制を含めても)宗教上の規制、制止等をしたりするものとは認められない。そうすると、信教の自由を根拠とした宗教的人格権という概念を認めるとしても、原告らにおいては、このような宗教的人格権が侵害されたものとはいえない。

また、憲法の政教分離原則の規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものであると解される(最高裁昭和52年判決)から、政教分離原則の規定を根拠とした原告らの宗教的人格権が侵害されたと認めることもできない。原告らは、憲法の政教分離原則は人権規定であり、原告らの宗教的人格権は、間接的な侵害行為においても保護される旨主張するが、人権としての政教分離の具体的内容は明らかではなく、政教分離原則から原告らが主張するような主観的かつ抽象的な権利内容が導き出せるともいえない上、信教の自由との関係も不明確であるから、原告らの上記主張は採用できない。そうすると、政教分離原則を根拠とする宗教的人格権が侵害されたものということもできない。

さらに、原告らが主張する幸福追求権(プライバシー権)についても、精神的事項に関する自己決定権という内容自体が主観的、抽象的であり、上記宗教的人格権の内容の主観性、抽象性を補う実体法上の根拠となるものとはいえない。

(ウ) そうすると、本件両参拝に対し、宗教的事柄について原告らが不安感、圧迫感、不快感、強い憤り等の感情を抱いたとしても、宗教的人格権の侵害として、被告小泉及び被告石原の靖國神社への参拝の差止めを求めることができるとはいえないから、本件両参拝が、国家による宗教的事項の意味付けに当たり、原告らの宗教的な自己決定権を侵害する違法な行為であるとの原告らの上記主張は採用できない。

イ 平和への思いを巡らす自由について

原告らは、本件両参拝が、個人が日本国憲法の定めた平和主義を内面化させ、自己の人格の中核に据えた上で、戦争の悲惨さを憎み、平和を真剣に希求する内心の自由である「平和への思いを巡らす自由」という権利を侵害した旨主張する。

そして、証拠(<証拠略>、原告X33、原告X34、原告X35、原告X36、原告X37、原告X38、原告X39)によれば、原告らの中には、第二次世界大戦前における靖國神社と国家との関わり合いや同大戦において靖國神社が果たした役割、公私の区別をあいまいにしたまま靖國神社への参拝にこだわる被告小泉及び被告石原の日頃の言動、海外派遣などの自衛隊を取り巻く諸状況等から、本件両参拝は、被告小泉及び被告石原が戦争犯罪者を讃え、過去の侵略戦争を肯定するメッセージを日本国民に送っているものと受け止め、両被告が軍国主義を合理化し、日本が再び軍国主義の道を進み出したのではないかという危惧の念や憤りを抱いたり、過去の悲惨な戦争体験を思い起こさせられたとして精神的な苦痛を被った者が多数いることが認められ、そのような感情や感慨を原告らが抱いたことは理解できないことではない。しかしながら、原告らのいう上記「平和への思いを巡らす自由」という権利も、「思いを巡らす」というその内容自体、極めて個別的、主観的、抽象的なもので、その侵害の成否を画することは極めて困難であり、また、実定法上の根拠を欠くものでもある(原告ら自身、当初、宗教的人格権や思想信条の一内容として位置付けながら、その後、これらと並列する権利と主張するに至っている。)から、上記「平和への思いを巡らす自由」は、法によって保護され、特段の事情のない限り、その権利侵害に対して差止めや損害賠償をもって訴求することができる具体的な権利ないし法的利益に当たるということはできない。

したがって、本件両参拝が、原告らの「平和への思いを巡らす自由」という人格権を侵害したという主張は採用できない。

ウ 名誉権

原告らは、本件両参拝によって、人格権の内容として把握することが可能な名誉の権利という法益が侵害された旨主張する。

そして、証拠(<証拠略>、原告X39)によれば、とりわけ在韓原告らにおいて、第二次世界大戦で戦死したり、戦病死した肉親らが、日本のことを恨んで死んだのに、日本のために死ぬことを英雄視する靖國神社に合祀されることは不名誉で屈辱的であるにもかかわらず、それが、本件両参拝によって戦争に参加したことを誉め称えられているようであるとの憤りや悪感情を抱いたり、靖國神社に合祀されることは、天皇のために戦死したことを意味するが、もし自分の肉親が天皇のために死んだということになれば、親日派のレッテルを貼られるという屈辱的なことであるなどとの感情を抱いていることが認められ、その心情は理解できないではない。しかしながら、原告らも主張するように、法的保護の対象となる名誉権とは、「人の人格的価値について社会から受ける客観的評価」をいうものと解せられるところ、神社に対する参拝行為は、その性質上、ある人に関する知識、情報の伝達や表現をその内容とするものではないから、本件両参拝が、被告小泉及び被告石原において、過去の戦争を肯定するメッセージを日本国民に送っているものと原告らにおいて受け止めたとしても、ある人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を低下させることはなく、したがって、その人格的価値に対する主観的な評価である名誉感情を害することもないというべきであるから、韓国人特有の宗教観や霊魂観から靖國神社における在韓原告らの肉親の合祀が不名誉なことであり、本件両参拝を許すことができないものであるとしても、本件両参拝が原告らの名誉権を侵害したとの主張は採用できないというべきである。

エ PTSD的症状について

原告らは、原告らの中には一部PTSD的症状を訴える者が存在しており、かかる原告との関係では、身体的損害としての側面としての人格権侵害が生じている旨主張するが、原告らがPTSPとしての症状(損害)を受けていると主張する原告X34、同X40及び同X39については、証拠(原告X34本人、X39本人、<証拠略>)によっても、本件参拝によって被った精神的ストレス等の範囲を超え、PTSDとしての身体的損害を被ったものとは認め難く、そもそもPTSD「的」症状という主張自体が不明確であるからことしても、原告らの上記主張は採用できない。

オ よって、原告らの主張するところの人格権は、上記認定、判断のとおり、いずれも侵害行為の差止めや侵害に対する損害賠償を求め得るものとして法律上保護される権利ないし利益とはいえないし、本件両参拝によって、原告らの権利ないし法的利益が侵害されたともいえないから、本件参拝差止請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。

4  本件国家賠償等請求について

(1)  前記3のとおり、本件両参拝によって、その侵害に対して損害賠償をもって訴求することができる原告らの法律上保護された権利ないし利益が侵害された事実は認められない。

(2)  なお、公権力の行使に当たる国ないし地方公共団体の公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国がその被害者に対して賠償の責に任じ、公務員個人は直接被害者に対してその責任を負わないものと解すべきであるところ(最高裁昭和30年4月19日第三小法廷判決・民集9巻5号534頁、最高裁昭和53年10月20日第二小法廷判決・民集32巻7号1367頁等)、原告らは、内閣総理大臣である被告小泉及び東京都知事である被告石原が、その職務を行うについて、原告らの人格権を侵害したとしてその損害賠償を求めているものであるから、この点においても、原告らの被告小泉及び被告石原に対する損害賠償請求は理由がない。

(3)  よって、原告らの被告らに対する本件国家賠償等請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。

第4結論

以上のとおり、原告らの被告国に対する本件参拝違憲確認請求及び本件立法不作為違憲確認請求並びに被告東京都に対する本件参拝違憲確認請求に係る各訴えは、いずれも不適法な訴えであるから、これらを却下することとし、被告小泉及び被告石原に対する本件参拝差止請求及び損害賠償請求並びに被告国及び被告東京都に対する国家賠償請求は、いずれも理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 柴田寛之 飯塚圭一 荒井章光)

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