東京地方裁判所 平成13年(ワ)5150号 判決 2002年9月11日
原告
北宣夫
原告
上遠野恭平
原告
荒川竹男
前記三名訴訟代理人弁護士
鴨田哲郎
被告
株式会社総合労働研究所
代表者代表取締役
小巻一生
訴訟代理人弁護士
鳥海哲郎
同
上床竜司
主文
一 被告は、原告北宣夫に対し、三〇万円及びこれに対する平成一三年二月二七日から支払済みまで年六パーセントの割合による金員を支払え。
二 被告は、原告荒川竹男に対し、一五〇万円及びこれに対する平成一三年二月二七日から支払済みまで年六パーセントの割合による金員を支払え。
三 原告北宣夫及び原告荒川竹男のその余の請求並びに原告上遠野恭平の請求をいずれも棄却する。
四 訴訟費用は、原告北宣夫に生じた費用の四〇分の一、原告荒川竹男に生じた費用の二分の一及び被告に生じた費用の一〇〇分の六を被告の負担とし、原告北宣夫に生じたその余の費用及び被告に生じた一〇〇分の三九の費用を原告北宣夫の負担とし、原告荒川竹男に生じたその余の費用と被告に生じた費用の一〇〇分の五を原告荒川竹男の負担とし、原告上遠野恭平に生じた費用全部と被告に生じた費用の一〇〇分の五〇を原告上遠野恭平の負担とする。
五 この判決は、原告北宣夫及び原告荒川竹男勝訴部分に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
1 被告は、原告北宣夫(以下「原告北」という)に対し、一二五四万〇八六一円及び九六四万八二八五円に対する平成一〇年八月二日から、二八九万二五七六円に対する平成一三年二月二七日から各支払済みまで年六パーセントの割合による金員を支払え。
2 被告は、原告上遠野恭平(以下「原告上遠野」という)に対し、一六三六万九五一〇円及び一二六九万三四五〇円に対する平成八年四月八日から、三六七万六〇六〇円に対する平成一三年二月二七日から各支払済みまで年六パーセントの割合による金員を支払え。
3 被告は、原告荒川竹男(以下「原告荒川」という)に対し、三一八万一一九一円及びこれに対する平成一三年二月二七日から支払済みまで年六パーセントの割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、(1)原告北及び原告上遠野が、被告に対し、<1>退職金及び<2>貸付金返還請求、並びに、<1>に対する支払期の翌日から<2>に対する請求の日の翌日から各支払済みまで商事法定利率による遅延損害金の支払を、(2)原告荒川が、被告に対し、貸付金返還請求及びこれに対する請求の日の翌日から支払済みまで商事法定利率による遅延損害金の支払を、それぞれ求めた事案である。
1 争いがない事実(参照の便宜のため、証拠番号を摘示したものもある)
(1) 当事者及び雇用契約
被告は、労働法学研究会の開催、労働法に関する雑誌等の出版等を業とする株式会社である。
原告北は、昭和四四年八月に被告に雇用され、平成一〇年七月二五日定年により退職し、その間の勤続年数は二九年であった。
原告上遠野は、昭和三四年四月に被告に雇用され、平成八年三月三一日定年により退職し、その間の勤続年数は三五年であった。
原告荒川は、昭和四七年四月に被告に雇用され、平成七年九月から平成一二年四月まで被告の取締役であった。
(2) 退職金についての就業規則の定め
被告の就業規則は、「所員が満一年以上勤務し退職するときは退職金を支給する」(五五条)、「退職金は退職時の基本給に勤続年数を乗じて得た額に〇・七を乗じた額とする」(五六条一項)、「勤続期間の算出は採用の日から起算し、一年未満の端数を生じたときは月割とし、一ケ月未満は一ケ月として計算する」(五六条二項)、「次の各号の一に該当する解雇又は退職の場合は基準額の一二割とする。…三 第一六条第三号(雇用期間満了)」(五七条)、「退職金は発令の日より一週間以内に支給する」(六〇条)、「所員が定年退職したときの退職金給付は、本章と退職年金制度との併用により支給する」(六一条一項)、「退職年金の運用は、別に定める諸規程による」(六一条二項)と定めている(以下、被告の退職金についての前記就業規則の各定めを「本件規定」という。書証略)。
(3) 原告北及び原告上遠野の退職時基本給
退職時基本給は原告北は四七万五二八五円、原告上遠野は五一万八一〇〇円であった。
(4) 平成八年の原告北及び原告荒川の被告に対する貸付金
ア 原告北
平成八年一〇月一一日、原告北は、被告に対し、一〇〇万円を期限の定めなく貸し付けた。被告は、原告北に対し、平成一〇年一二月二五日に三〇万円、平成一一年四月一日に四〇万円をそれぞれ弁済した。
イ 原告荒川
平成八年一〇月一一日、原告荒川は、被告に対し、一五〇万円を期限の定めなく貸し付けた。
(5) 原告らの被告に対する一時払退職年金ないし解約返戻金相当額の交付
ア 平成八年、被保険者を原告上遠野とする住友生命保険相互会社(以下「住友生命」という)との一時払退職年金(以下「退職年金」という)が満期となり、住友生命は原告上遠野に対し退職年金として四一七万六〇六〇円を送金した。
原告上遠野は、同年三月二八日、退職年金と同額の金員を被告に交付した(書証略)。被告は、平成一〇年八月七日、五〇万円を原告上遠野に交付した。
イ 平成一〇年七月一六日、被告は、被保険者を原告北とする住友生命との新企業年金保険(適格年金保険。以下、「適格年金保険」という)を解約し、住友生命は原告北に対し、解約返戻金三二四万〇七二一円を振り込み送金した。(書証略)
原告北は、同月二七日、解約返戻金と同額の金員を被告に交付した(書証略)。被告は、同年八月七日、その約二割に当たる六四万八一四五円を原告北に交付した。
ウ 平成一〇年七月一六日、被告は、被保険者を原告荒川とする住友生命との適格年金保険を解約し、住友生命は、原告荒川に対し、解約返戻金二一〇万一四八九円を振り込み送金した。(書証略)
原告荒川は、同月二七日、解約返戻金と同額の金員を被告に振り込み交付した。被告は、同年八月七日、その約二割に当たる四二万〇二九八円を原告荒川に交付した。(書証略)
(6) 原告らの被告に対する貸付金返還請求
原告らは、被告に対し、(4)のア及びイの貸付金並びに(5)アの退職年金相当額及びイ、ウの解約返戻金相当額の貸付金の各返還を請求する旨の書面を送付し、同書面は平成一三年二月二六日被告に到達した。(書証略)
(7) 田中舘喬及び小巻一生の地位等
田中舘喬(以下「田中舘」という)は、平成七年九月二九日から平成一二年四月二一日まで被告代表者であった。小巻一生(現被告代表者。以下「小巻」という)は、平成一〇年七月当時被告の常務取締役であった。
2 争点
(1) 退職金請求について
ア 本件規定の廃止
(ア) 平成七年一〇月、本件規定は、労働組合及び非組合員従業員らと被告との合意により廃止(変更)されたか。
(イ) 本件規定の廃止の効力
(ウ) 本件規定の廃止は、新しい退職金規定が制定されることを条件とするか。
イ 退職金の免除
(ア) 平成七年九月一四日、原告北及び原告上遠野は、被告に対し、退職金を免除する旨の意思表示(以下「本件各免除」という)をしたか。
(イ) 本件各免除の効力
(ウ) 本件各免除は、新しい退職金規定が制定されることを条件とするか。
(2) 貸付金請求について
ア 原告上遠野は、田中舘との間で、平成八年三月後半、原告上遠野の退職年金相当額四一七万六〇六〇円を原告上遠野が被告に期限の定めなく貸し付ける旨合意したか。1(5)アの同額の金員の交付はこの合意に基づくか。
イ 原告北は、小巻との間で、平成一〇年七月下旬、原告北の適格年金保険の解約返戻金相当額三二四万〇七二一円を原告北が被告に期限の定めなく貸し付ける旨合意したか。1(5)イの同額の金員の交付はこの合意に基づくか。
ウ 原告荒川は、田中舘との間で、平成一〇年七月後半、原告荒川の適格年金保険の解約返戻金相当額二一〇万一四八九円を原告荒川が被告に期限の定めなく貸し付ける旨合意したか。1(5)ウの同額の金員の交付はこの合意に基づくか。
エ 被告は、小巻に対し、イの借入れに先立ち、イの借入れをする代理権を授与したか。
3 争点についての当事者の主張の要旨
(1) 退職金請求について
ア 本件規定の廃止
(ア) 平成七年一〇月、本件規定は、労働組合及び非組合員従業員らと被告との合意により廃止(変更)されたか。
(被告)
a 平成七年一〇月までに、被告は総合労働研究所労働組合(以下「労働組合」という)及び非組合員従業員らとの間で「就業規則改訂の合意書」(以下「改訂合意書」という)を作成し、本件規定はこの合意に基づき廃止された。
b 被告は、平成七年秋以降に退職した従業員に対し、退職金を支払ったことがあるが、いずれも本件規定の金額には充たない水準であり、本件規定に基づき支払ったものではない。
(原告ら)
a 原告らが改訂合意書を作成したことは認め、原告以外の従業員や労働組合との合意は知らない。本件規定は、平成七年一〇月以降も就業規則から削除されておらず、改訂合意書の内容は就業規則として書面化されていない。
b 平成九年六月被告が公共職業安定所に出した求人票には「退職金あり」と記載されていたし、平成七年秋以降に被告を退職した者の相当数が本件規定に基づく退職金の全部又は一部を受領しているから、本件規定が廃止されたとはいえない。
支払義務がないのに退職者に被告から退職金が支払われたとすれば、低い給与に甘んじている現役従業員らが黙っているはずがない。
被告は、退職金の一部を事前に積み立てる制度である適格年金保険を平成一〇年七月まで解約していない。このことは、本件規定を廃止していないことを示している。
(イ) 本件廃止の効力
(被告)
a 本件規定の廃止について、被告は所管の労働基準監督署への届出をしていないが、労働基準法八九条は取締規定であって、効力規定ではないから、これにより就業規則の変更が無効となるものではない。
b 田中舘は、平成七年五月ころ、当時の被告代表者本郷健爾から被告の代表者就任を要請された。田中舘は、被告の経営が苦しく、定年前に退職者が出た場合に退職債務引当金が計上されておらず支払が困難と見られたこと、代表者就任により自身が約三億円の被告の債務につき保証する必要があったことなどから、平成七年七月一七日、被告取締役会において、本件規定の廃止を条件に代表取締役就任を了承する旨説明し、役員らの同意を得た。
そこで、田中舘は、同年八月二一日、全従業員を召集した経営再建会議において、集った従業員に対し、被告の経営状況と田中舘の代表者就任にあたって本件規定の廃止が必要なこと等を説明し、従業員の承諾を得た。
被告は、同年九月七日、全従業員に対し、本件規定の廃止について改訂合意書を作成する予定であることを通知した。
同年九月一四日ころ、一八名の従業員との間で、同年一〇月一一日、労働組合執行委員長との間で、それぞれ改訂合意書を作成し、同年九月一四日に本社事務所及び各地方事務所の掲示板に本件規定の廃止について告知書を掲載し、全従業員に周知した。
(原告ら)
a 本件規定の廃止は労働基準監督署への届出、従業員に対する周知をしておらず無効である。
b 被告主張の経営再建会議という会議は開催されたことはない。また、被告において開催されていた経営システム会議(田中舘が議長となり、原告らを含む役員及び各部門の責任者が出席する会議)においても、平成七年七月から同年一〇月までの間、本件規定の廃止が議題になったことはない。経営危機に陥った企業の経費削減案として退職金規定の廃止は即効性がある案とはいえず、田中舘による平成七年秋以降の支出をいとわない積極的な経営姿勢からしても、本件規定の廃止が必要であったとはいえない。
c 本件規定の廃止は、個別合意の形を取っているが、集団的画一的な労働条件の引下げであるから、使用者と労働者との力関係の隔絶を考慮し、労働協約改訂の効力の司法審査において合理性が要求されていることと対比して、合意内容に合理性がない場合は無効となる。退職金を完全廃止することは、いかに経営が苦しいとはいえ、内容に合理性がない。
(ウ) 本件規定の廃止は、新しい退職金規定が制定されることを条件とするか。
(原告ら)
本件規定の廃止は、新しい退職金規定が制定されることを条件とするものである。
被告は、平成七年一〇月一一日以前に、労働組合との間で、「新たな退職金規定を協議するが、合意までは本件規定が廃止されず適用になる」旨の念書を作成した。いかに被告の経営が苦しくとも、退職金を完全に放棄することを無条件で労働者が承知するはずがない。
前記(ア)原告らの主張bのとおり、新しい退職金規定の制定が条件となっていなかったら、退職金制度があることを前提としたこれらの事実はあり得なかったはずである。
被告は、平成七年の春闘で賃上げをし、賞与を支給し、七名を新規採用しており、このような状況下で、退職金を無条件で廃止することはあり得ない。
(被告)
本件規定の廃止には条件はない。改訂合意書には何らの条件も記載されていない。
イ 退職金の免除
(ア) 平成七年九月一四日、原告北及び原告上遠野は、被告に対し、退職金を免除する旨の意思表示(以下「本件各免除」という)をしたか。
(被告)
平成七年九月一四日、原告北及び原告上遠野は、被告及び田中舘との間で、本件規定に基づく被告の退職金支払債務を免除する旨の改訂合意書を作成し、その旨合意した。
改定合意書は、本件規定を廃止すると同時に、各人に発生する個別的な退職金請求権を放棄する旨の意思表示である。
(原告ら)
原告北及び原告上遠野が改訂合意書をそれぞれ作成したことは認めるが、その余は否認する。
(イ) 本件各免除の効力
(原告ら)
改訂合意書があっても、本件規定は就業規則から削除されておらず、労働基準監督署への変更の届出もなく、就業規則が変更されたことはないのであるから、就業規則を下回る個別合意として労働基準法九三条により無効である。
ア(イ)の原告らの主張aのとおり、本件規定の廃止について社内で論議されたことはない。
(被告)
就業規則に基づいて発生した権利を免除する場合、免除が自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは有効である。
ア(イ)被告の主張bのとおり、被告は、改訂合意書作成に先だって、原告らを含む従業員に対し、退職金免除の必要性について十分説明し、納得を得ている。原告北及び原告上遠野が自由な意思に基づき本件各免除をしたことは明らかである。
(ウ) 本件各免除は、新しい退職金規定が制定されることを条件とするか。
(原告ら)
本件各免除は、新しい退職金規定が制定されることを条件とするものである。
(被告)
否認する。
(2) 貸付金請求について
ア 原告上遠野は、田中舘との間で、平成八年三月後半、原告上遠野の退職年金相当額四一七万六〇六〇円を原告上遠野が被告に期限の定めなく貸し付ける旨合意したか。1(5)アの同額の金員の交付はこの合意に基づくか。
(原告ら)
原告上遠野は、平成八年三月後半、田中舘から、「原告上遠野の一時払退職年金を被告の運営資金として貸してほしい。三年間で再建を目標としているので三年程度で返す」等と説明され、期限の定めなく被告に貸し付けることに合意した。
田中舘が被告の代表者であったときは、被告の経理処理は実態と合致していないものがあったから、被告における経理上の取扱いは重視できない。
(被告)
被告は、当時経営が苦しかったため、取締役であった原告上遠野は、満期を迎えた退職年金を被告に贈与したものである。平成八年二月五日の取締役会でもその旨議題とし、原告上遠野はこれに参加して決議をしている。
また、第四四期決算書には、原告上遠野が住友生命から支給された金員を被告の雑収入として計上することが記載されており、原告上遠野はこの決算書を取締役として承認していた。
イ 原告北は、小巻との間で、平成一〇年七月下旬、原告北の適格年金保険の解約返戻金相当額三二四万〇七二一円を原告北が被告に期限の定めなく貸し付ける旨合意したか。1(5)イの同額の金員の交付はこの合意に基づくか。
(原告ら)
平成一〇年七月前半の朝礼において、小巻から、「被告の経営が苦しいので適格年金保険を解約する。解約返戻金相当額を被告に拠出してほしい。個別に話合いをさせてほしい」旨の説明があった。
同月後半、小巻から、原告北に対し、適格年金保険の解約返戻金相当額三二四万〇七二一円を原告北が被告に期限の定めなく貸し付けてほしい旨要請があり、原告北は同意した。
住友生命は、被告に対し、解約返戻金の扱いについて、「被告が預り、退職時、いったん被告に贈与した後、被告が退職金を従業員に支給する」という方法を指導したが、これに基づき、被告が解約返戻金を預かる旨の覚書を作成し、従業員らに交付した。しかし、原告北を含む従業員の同意が得られず、貸付金とされたものである。
(被告)
被告は、当時経営が苦しかったため、住友生命の適格年金保険を解約した。その被保険者一二名のうち、原告北、原告荒川、小巻、覚前勝、松上惇一、酒井健の六名と協議し、解約返戻金の全部又は一部を、被告に贈与することを同人らと合意した。平成一〇年六月二九日の取締役会でその旨議題とし、原告荒川はこれに参加して決議もしている。また、同年七月九日、小巻は、原告北に対し、原告北の適格年金保険の解約返戻金を被告の再建資金として贈与してほしい旨要請したところ、原告北は同意した。
ウ 原告荒川は、田中舘との間で、平成一〇年七月後半、原告荒川の適格年金保険の解約返戻金相当額二一〇万一四八九円を原告荒川が被告に期限の定めなく貸し付ける旨合意したか。1(5)ウの同額の金員の交付はこの合意に基づくか。
(原告ら)
被告は経営が苦しかったため、適格年金保険を解約し、被保険者の従業員に対し、解約返戻金を被告に拠出するよう求めた。
原告荒川は、取締役という立場上、原告荒川の適格年金保険の解約返戻金を被告に期限の定めなく貸し付ける旨合意した。
被告の当時の経理処理が信用できないことは、前記ア原告らの主張のとおりである。
(被告)
イの被告の主張と同旨
第四七期決算書には、適格年金保険の解約返戻金を被告の雑収入として計上することが記載されており、原告荒川はこれを取締役として承認していた。
エ 被告は、小巻に対し、イの借入れに先立ち、イの借入れをする代理権を授与したか。
(原告ら)
授権した。
(被告)
否認する。
第三当裁判所の判断
1 争点(1)ア(本件規定の廃止)について
(1) 争点(1)ア(ア)-平成七年一〇月、本件規定は、労働組合及び非組合員従業員らとの合意により廃止(変更)されたか。
労働基準法八九条が、常時一〇人以上の労働者を使用する使用者に対し就業規則の作成を義務づけているのは、多数の労働者を協働させる事業において、就業規則により労働条件を統一的、画一的に確定することが、効率的な事業運営に資するとともに、労働者の権利義務を明確化し労働者を保護することになるからである。したがって、就業規則が廃止ないし変更されたというためには、その変更ないし廃止後の内容が書面化され、当該事業所の労働者の大半がその内容を知り、又は、知ることのできる状態に置かれていたことを要するというべきである。
証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、平成七年九月末ころまでに、被告の正社員(有期雇用契約以外の従業員。当時の全従業員三六名中二五名。以下、「正社員」という)のうち労働組合に加入していなかった者(一九名)のうち一八名は、被告及び被告取締役であった田中舘との間で、本件規定の廃止に同意する旨の文書(改訂合意書)をそれぞれ個別に作成し、同年九月一四日、上記同意書面を作成していない有期雇用契約の社員(契約社員及びアルバイト社員。当時の全従業員三六名中一一名。以下、「契約社員及びアルバイト社員」という)及び非組合員の正社員一名に対しては本社事業所(当時は東京都渋谷区代々木一丁目所在)に文書を貼付することにより本件規定の廃止を周知し、同年一〇月、労働組合は、被告及び田中舘取締役との間で、本件規定の廃止に同意する旨の文書を作成したが、その後現在に至るまで、本件規定の廃止は所管の労働基準監督署長に届出されていないのみならず、被告の事業所に備え付けられていた就業規則から本件規定は削除されず、本件規定を廃止した旨の文書が添付されたこともなく、同年一〇月以降に被告に採用された者に対しては、本件規定の廃止が周知されていなかったことが認められる。
そうすると、本件規定の廃止が就業規則として書面化され、当該事業所の大半が知ることのできる状態に置かれていたとはいえないから、被告の就業規則が変更されたとはいえないというべきである。
(2) そうすると、その余の点について判断するまでもなく、この点についての被告の主張は理由がない。
2 争点(1)イ(退職金の免除)について
(1) 前提とした事実
後掲各証拠及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、この認定に反する証拠は採用できない。
ア 被告は、昭和二七年、初代の代表取締役となった本郷富士子らにより設立され、<1>労働法学研究会等の主催、<2>季刊労働法等の労働法関連の刊行物の発行、<3>企業管理者向け教材等の開発販売の三部門を主たる事業としている株式会社である。
被告においては、平成六年初めころ、本郷富士子及びその長男本郷健爾(以下、両名を「本郷親子ら」という)が代表取締役を務め、本郷健爾が被告の経営を主導していたところ、同人は、同年六月、被告の業績不振や労使対立を理由として本郷富士子とともに被告の取締役を退任した。本郷親子らは、同年一〇月から被告の代表取締役にそれぞれ就任し、本郷健爾が再び被告を経営するようになったが、同人の対外的信用や従業員に対する求心力は低下することになった。本郷富士子が同年一二月に退任すると、同月田中舘及び原告上遠野が、平成七年九月原告荒川がそれぞれ取締役に就任し、被告の経営に参画するようになった。
(書証略)
イ 田中舘は、心理学に基づくとする能力開発法を提唱し、経営コンサルタント、メンタルヘルスカウンセラーを自称していた者であったところ、平成六年八月ころ、知人であった本郷親子らから要請され、被告に約一〇〇〇万円を出資するとともに、同年一二月前記アのとおり被告の取締役に就任し、被告の経営に参画するようになった。
(証拠略)
ウ 原告上遠野は、昭和三四年に被告に雇用され、被告の出版事業部門の業務等に携わり、平成六年一二月前記アのとおり被告の取締役に就任し、出版部長として被告の出版事業部門の責任者に就いた。原告上遠野は、平成七年九月、田中舘が代表者を務める会社と被告とが共同出資して設立した株式会社日本生涯教育協会の取締役に就任し、同年一一月出版部長を退いた。平成八年六月に被告取締役を退任し、同月から平成一〇年六月まで被告監査役に就き、その後も平成一二年四月まで被告の出版事業部門等の業務について助言を行うなどしていた。
原告荒川は、昭和四七年四月被告に雇用され、被告の労働法学研究会等の主催等の業務に携わり、平成七年九月、前記アのとおり被告の取締役に就任し、被告の労働法学研究会の主催を行う部門の責任者となったが、平成一二年四月に取締役を退任し、後記のとおり労働契約上の地位の存否等をめぐって被告と紛争を生じた。
原告北は、平成三年、被告教育推進部部長に、平成九年、同LD企画室部長にそれぞれ就任し、平成一〇年七月の定年まで被告の企業管理者向け教育研修部門の責任者を務め、定年後は再雇用され、平成一二年四月まで、被告の企業内教育研修部門の業務等に携わっていたが、同月解雇され、後記のとおり労働契約上の地位の存否等をめぐって被告と紛争を生じた。
被告は、原告荒川及び原告北に対し、平成一二年四月、取締役退任通知ないし解雇通知をそれぞれ行い、労働契約上の地位不存在確認を求める訴訟を提起した(当庁平成一三年(ワ)第一二〇五〇号)。原告荒川及び原告北は、被告を債務者として、地位保全及び賃金仮払を求める仮処分を数回申し立てたほか(同平成一二年(ヨ)第二一一一五号、同一三年(ヨ)第二一〇五四号、同第二一二一五号)、被告に対し、労働契約上の地位確認等を求める訴訟(同(ワ)第一二五八七号)を提起し、両訴訟事件は当庁に係属中である。
(証拠略)
エ 被告は、平成五年四月一日から平成六年三月三一日までの決算期において、純売上げが約五億円であったのに対し、その約二倍に当たる営業損失(約一億円)を計上し、最終損益は約一億二五九三億円の損失(当期未処理損失約一億二三九二万円)、負債総額は約五億二九二六万円であった。
また、被告は、次年度の決算期において、営業利益約五一八七万円、最終損益は約五四六八万円の利益を計上したが、未処理損失は約六九二三万円であり、負債総額はなお四億五〇〇〇万円を超えていた。
(書証略)
オ 平成七年五月ころ、田中舘は、本郷健爾から、被告の経営再建のため、代表者に就任し、被告を財政的に支援することを要請された。田中舘は、被告の代表者就任には被告の債務について約三億円の保証を行う必要があったこと、被告において、近々定年を迎えたり、定年前に退職する可能性がある長期勤続の従業員に対する退職金の支払が被告の経営再建を妨げると見られたこと等から、代表取締役就任の条件として、全従業員が田中舘への協力と本件規定の廃止につき同意書を作成することを提案し、同年七月ころ、本郷健爾の承認を得た。
(証拠略。なお、取締役会議事録(書証略)には、原告上遠野が出席した取締役会において田中舘から前記提案がされ、原告上遠野らを含む役員全員が承認した旨の記載があり、同議事録には原告上遠野の印章によって顕出された印影があるが、同印章は当時被告総務課に預けられ、原告上遠野以外の者が押印することもできたから(証拠略)、書証略のみによっては、取締役会での原告上遠野の承認を認めるには足りないというべきである)
カ 原告荒川は、平成七年夏ころ、田中舘から命じられて、本件規定の廃止について経営者側の交渉窓口として従業員らの意見を聴取するなどした。原告荒川は、本件規定の全廃は困難であるとの自らの考えに従い、代替案を検討するなどしていたが、平成七年八月ころには被告側の交渉窓口からはずれ、田中舘が、直接、従業員らに対し、本件規定の廃止の必要性を説き協力を求めるようになった。なお、原告荒川は、平成七年一〇月ころ、自分が作成した退職金規定の改定案を従業員に示すなどしていたが、自分の考えに基づいて行っていたもので、他の被告役員や幹部従業員と協議の上作成したり、示したりしたのではなかった。
(証拠略)
キ 本郷健爾は、平成七年八月一一日、被告従業員に対し、「経営再建の具体的方針と、就業規則の見直しに関し、同月二一日本社事業所において話し合いの場を設定する」旨本社従業員に通告した。
同日、田中舘は、前記話合いの場に出席した労働組合組合員以外の本社従業員や役員に対し、被告の経営が苦しいこと、銀行から支援の条件として、田中舘が代表者となり、被告の債務につき保証することを求められていること、田中舘としては、本件規定の廃止が被告の経営再建に必要で、代表者就任の条件であると考えていることを説明し、代表者に就任した際は、被告の債務の保証を始め、被告の再建に努力すること、解雇は行わず雇用は確保すること、再建が実現したら新たな退職金規定を労使間で協議することを約束し、本件規定の廃止に同意するよう協力を求めた。
同年九月七日、被告は、代表取締役本郷健爾名にかかる、「八月二一日に行われた経営再建会議において、就業規則を改廃し、本件規定を廃止することの承認を得たので、近日中に改訂合意書を作成する」旨の文書を組合員以外の本社従業員に配布し、本社以外の従業員には電話等により通知した。
(書証略)
ク 平成七年九月一四日、原告らは、被告及び田中舘との間で「本件規定を廃止し、現に有する退職金請求権が消滅することに同意する」旨の改訂合意書を各一通づつ作成した。
改訂合意書は、概略、以下のとおり印刷された文書の下線部分と末尾の署名押印部分に、原告らの氏名が手書きで記名ないし記名押印され、被告及び田中舘の押印がされ、日付が記入された文書である。
「被告(甲)、田中舘取締役(乙)及び従業員 (丙)は、被告が経営不振の状況を改善し、会社再建して従業員の雇用を確保するために、雇用条件を規定する就業規則を改廃することについて、協議の上、以下のとおり合意した。
第一条 甲には累積債務の問題の解決、会社再建による業績向上によって経営の建て直しを必要とする事態にあり、かつ、丙ら従業員の雇用を確保すべき事情にあるところ、丙は乙によって甲の再建をすることを承諾し、乙に協力することを表明する。
第二条 甲は、乙の代表取締役の就任に先立って、雇用条件を定めた就業規則のうち、退職金についての第五五条ないし第六一条の規程を廃止することとし、これに伴って丙が現に有する退職金請求権が消滅することに、丙は同意するものとする。
第三条 乙は、甲の代表取締役に就任し、会社の再建計画を実施し丙らの雇用を確保するものとするが、すみやかに雇用条件を定めた就業規則を改訂し退職金規程を定めるものとし、丙はこれに同意し、あらかじめ乙に対し規程の変更を一任し、その決定に異議ないものとする。
第四条 乙及び丙は、今後、会社の健全な発展を成し遂げ円滑な雇用関係を創設することに誠意をもって処するものとする。
平成七年九月 日
甲 総合労働研究所印
乙 総合労働研究所
取締役田中舘喬印
丙印」
(書証略)
ケ 被告に平成七年九月当時雇用されていた従業員は三六名であり、一一名は本件規定を適用しない取扱いであった契約社員及びアルバイト社員、六名は労働組合の組合員(正社員)、一九名が組合員以外の正社員(原告らを含む)であった。非組合員の正社員一九名のうち、すでに退職金を受領していた取締役の徳永直茂を除く一八名は、同月ころ、クと同旨の改訂合意書を作成した。
被告は、同月九月一四日、本社事務所において、「就業規則を改廃し、本件規定を廃止する」旨の通知文を貼付し、田中舘は、同月二九日被告の代表取締役に就任した。
被告は、労働組合に対し、キの会議とは別の日に説明を行い、交渉を続けた結果、同年一〇月一一日、労働組合執行委員長安實俊亮(以下「安實」という)との間で、クの改訂合意書とほぼ同じ体裁の文書を作成し、合意に至った。
(書証略)、平成七年九月当時の従業員の構成につき弁論の全趣旨。なお、原告らは、改訂合意書の作成日付ころは、田中舘は「大道哲生」と名乗っていたから、田中舘喬名にかかる改訂合意書がこのころ作成されたかは疑わしい旨主張する。確かに、田中舘が前記別名を当時使用したことがあることは認められるが(証拠略)、前記別名は雅号であり、田中舘が本名である旨説明すれば足りることであるから、原告らの主張は採用できない)
(2) 争点(1)イ(ア)-平成七年九月一四日、原告北及び原告上遠野は、被告に対し、退職金を免除する旨の意思表示(本件各免除)したか。
(1)クのとおり、原告北及び原告上遠野は、「本件規定の廃止に同意し、従業員として現に有する退職金請求権が消滅することに同意する」旨の書面に署名押印したところ、かかる改訂合意書の記載内容から、原告北及び原告上遠野は、本件規定に基づく退職金を免除する旨被告及び田中舘との間で合意したものと認められる。
(3) 争点(1)イ(イ)-本件各免除の効力
ア 本件規定に基づく退職金は、就業規則に基づいてその支給条件が明確に規定されていて、使用者がその支払義務を負担するものであるから、労働基準法一一条にいう「賃金」に該当し、同法二四条一項本文の賃金全額払原則の適用がある。そして、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の生活を保護する同条項の趣旨によれば、本件規定に基づく退職金を免除する旨の意思表示は、労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、同条項に違反するとはいえないというべきであり、このことは、労働者が使用者に対し退職金を免除する旨の意思表示が、労使間の合意においてなされた場合についても妥当するというべきである(最高裁昭和四八年一月一九日第二小法廷判決・民集二七巻一号二七頁、最高裁平成二年一一月二六日第二小法廷判決・民集四四巻八号一〇八五頁参照)。
イ (1)で認定した各事実によれば、被告は平成六年三月末決算期で営業売上げの約二倍に上る営業損失を出して赤字となり、翌決算期には黒字に転じたものの、なお約四億五〇〇〇万円の負債を抱えていたこと、被告代表者就任と支援を求められていた田中舘取締役は、自らの代表者就任及び被告の債務の個人保証の条件として、本件規定の廃止を提案し、当時の代表者の了承を得た上、平成七年八月、被告本社事業所に本社従業員を集め、「銀行から支援の条件として、田中舘が代表者に就任し、被告の債務につき多額の個人保証を行うよう求められていること、田中舘は、再建を行うには本件規定の廃止が必要で代表者就任の条件であると考えること、被告の再建において雇用は確保すること」等を説明し、従業員らの協力を求めたことが認められる。そして、被告及び田中舘は、被告において本件規定が適用され、今後退職金の支払が必要と考えられていた正社員全員との間で(ただし、労働組合の組合員については労働組合との間で)、「本件規定の廃止に同意し、従業員として現に有する退職金請求権が消滅することに同意する」旨の書面をそれぞれ作成したこと、原告北及び原告上遠野は、当時被告の主な三部門の事業のうち二部門をそれぞれ統括する幹部従業員(原告上遠野は兼取締役)であったところ、他の正社員らとともに、同時期、上記書面に署名押印したことが認められる。そうすると、原告北及び原告上遠野は、経営が苦しい被告の再建に必要である旨田中舘から説明され、被告の再建に協力するため、退職金を免除する旨被告及び田中舘と合意し、その旨の書面を作成したものであり、これらの合意については、原告北及び原告上遠野の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するというべきである。
したがって、原告北及び原告上遠野と、被告及び田中舘との退職金免除の合意は有効であり、本件各免除は有効である。
ウ 原告らは、改訂合意書作成の経緯について、平成七年七月から同年一〇月まで、当時被告において開催されていた経営システム会議(原告らを含む取締役及び各部門の責任者が出席する会議)や取締役会において、本件規定の廃止が議題になったことはなく、従業員らに対する説明会などは開催されなかった旨主張する。しかし、非組合員正社員一八名及び労働組合が、「本件規定の廃止と個々の従業員の退職金の消滅に同意する」旨の改訂合意書を約一か月の間にそれぞれ作成していることに照らすと、これらの従業員らに対し、被告経営者側から何も説明されなかったとは考えにくく、原告らの主張は、(1)のオないしケで掲げた各証拠と対比して採用できない。原告北及び原告上遠野は、特別な説明はなく改訂合意書に押印を求められた旨それぞれ供述し、原告上遠野の手帳(書証略)中の当時の経営システム会議等の内容についての一連の記録には、前記(1)オカキの経緯について記載がないとするが、この手帳の記載方法、綴じ方から、手帳に記載された出来事以外なかったとまではいえないから、前記各証拠と対比して、原告北及び原告上遠野の各供述並びに書証略は採用できない。
エ 原告らは、退職金免除の合意があるとしても、就業規則である本件規定が廃止されたことはないのであるから、退職金免除の合意は就業規則を下回る個別合意として労働基準法九三条により本件各免除は無効である旨主張する。しかし、労働者が就業規則に基づき発生する個別の権利について処分する行為は、労働者の一方的な意思表示によりなされる場合であれ、使用者との合意に基づきなされる場合であれ、これが労働者の自由な意思に基づいてなされたと認められる客観的な状況が存在する場合は、有効となるものであって(前掲最高裁判決参照)、「就業規則に定める基準に達しない労働条件を定める労働契約」には該当せず、労働基準法九三条に反するとはいえない。
原告北及び原告上遠野の改訂合意書による退職金免除の合意につき、原告北及び原告上遠野の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在していたことは前記イのとおりであるから、原告らの主張は採用できない。
(4) 争点(1)イ(ウ)-本件各免除は、新しい退職金規定が制定されることを条件とするか。
ア 原告らは、「平成七年夏当時、田中舘は、三年間で被告の再建を行い、三年後に退職金を支払う旨発言し、再建後の支払を条件に改訂合意書の作成を迫っていた」旨供述し(証拠略)、本件各免除は、新しい退職金規定が制定されることを条件としていた旨主張する。
前記(1)クのとおり、改訂合意書の第三条には、「田中舘は、雇用条件を定めた就業規則を改訂し退職金規程を定めるものとし、従業員はこれに同意し、あらかじめ田中舘に対し規程の変更を一任し、その決定に異議ないものとする」旨の記載があり、当時、田中舘や改訂合意書を作成した従業員らの認識として、本件規定を廃止した後、新しい退職金規定が制定されることを予定していたものと認められるが(書証略にもこれを裏付ける記載がある)、改訂合意書には、そのほかに、退職金の免除が新退職金規定の制定を条件としてなされる旨の記載はなく、新しい退職金規定の内容についていかなる給付水準とするかは田中舘に一任する旨記載されていることから、本件各免除が、新退職金規定が制定されることを条件とするものであるとはいえないというべきである。原告らの供述は、前記改訂合意書の記載内容と対比して採用できない。
イ 証拠(略)によれば、労働組合の組合員を含め、改訂合意書を作成した従業員らが退職した際、退職金が支給されたことが認められるが、いずれも本件規定による退職金には満たない金額が支給されたもので、かつ、退職後に締結された被告との合意に基づいて支給されたものであるから(前掲各証拠により認める)、本件各免除には条件が付されていなかった旨の前記認定を左右するものではない。
ウ 原告荒川は、「平成一一年秋ころ、労働組合の執行委員長であった安實から、『新しい退職金規定ができるまで本件規定の適用があるとの労働組合と被告との念書があり、安實自身は本件規定に基づく退職金満額を被告から支給された』旨聞いた」と供述する(証拠略)が、この念書の存在や安實に支払われた退職金額を裏付けるに足りる証拠はなく、原告荒川の供述は採用できない。また、仮に、労働組合と被告との念書があったとしても、非組合員である原告北及び原告上遠野に対し、何らの効力を及ぼすものではない。
エ また、証拠(略)によれば、被告は、平成一〇年まで、退職金支払の原資となる適格年金保険を解約していないが、前記アのとおり、平成七年九月ころ当時は、新しい退職金規定を制定することを予定していたものと見られるのであり、本件各免除が新しい退職金規定の制定を条件としない前記認定と矛盾しない。
オ 原告荒川は、平成一〇年七月ころ、被告から、被告代表者田中舘名にかかる「原告荒川の適格企業年金保険契約の解約返戻金を被告が預かり、退職時に被告に贈与し、退職金に充当する」旨の「預り及び贈与に関する覚書」(書証略)を交付された旨供述し、同書面にはそれぞれ被告の社印(角印)が押印されているが、これが被告代表者田中舘の印章であることを裏付けるに足りる証拠はなく、従業員が請求書などを作成する際使用されていた社印である旨の被告主張に対比して、原告荒川の供述は採用できない)
カ 原告らは、被告は平成七年春闘で賃上げをし、同年度賞与を支給し、新規採用もしており(証拠略)、このような状況下で、退職金を無条件で免除することはありえない旨主張するが、改訂合意書の記載内容と対比して採用できない。
(5) 以上から、原告北及び原告上遠野は、被告の本件規定に基づく退職金支払債務を免除する旨被告及び田中舘と合意したもので、この合意による免除は有効で、新しい退職金規定の制定を条件とするものではないから、原告北及び原告上遠野の本件規定に基づく退職金請求は理由がない。
3 争点(2)アないしウ(貸付の合意の有無)について
(1) 前記第二の1争いがない事実及び後掲各証拠によれば、以下の各事実が認められる。
ア 被告は、平成七年四月一日以降も経営が苦しく、平成一一年三月末にかけて、決算期の未処理損失が約五〇〇〇万円余から八〇〇〇万円余に増大し、印税や雑誌の原稿料の支払が滞っている状態であった。(証拠略)
イ 被告は、平成八年一〇月一一日、原告北から一〇〇万円を、原告荒川から一五〇万円を期限の定めなくそれぞれ借り入れ、そのころ、その旨記載し、被告の代表者印を押印した借用証を作成し、各人に交付した。(書証略)
ウ 平成八年、原告上遠野を被保険者とする住友生命との退職年金が満期となり、退職年金が原告上遠野に振り込まれたが、原告上遠野は、同年三月二八日、退職年金と同額の四一七万六〇六〇円を被告に送金した。(書証略、一部争いがない。なお、書証略の取締役会議事録には、「平成八年二月五日、原告上遠野が出席した取締役会で、原告上遠野の承認により、退職年金を被告の再建資金とする旨決議した」旨の記載があり、原告上遠野の印章による印影があるが、同印章が被告総務課に保管されており、原告上遠野が押印したものと直ちに認めがたいことは前記2(1)オのとおりであって、書証略のみによって、原告上遠野の承認があった旨認めることはできない)
被告の総勘定元帳では、原告上遠野から振り込まれた四一七万円六〇六〇円の入金は雑収入とされ、平成七年四月一日から平成八年三月三一日までの決算報告書には、前記振込金は、住友生命保険からの保険解約による雑収入として、雑益の内訳書に記載されていた。(書証略)
原告上遠野は、前記決算期末ころ、被告の取締役として前記決算報告書の内容を知りつつ、特に異議を述べることなく承認した。(人証略)
原告上遠野の解約返戻金相当額について、被告に対する貸付金であることを証する借用証等の書面は一切作成されなかった。(人証略)
エ 平成一〇年七月一六日、被告は、前記アのとおり、執筆者に対する印税や原稿料の支払の滞納し、業務に支障が出たことから、原告北及び原告荒川を含む被告の正社員数名を被保険者とする適格年金保険を解約することとした。(証拠略には、同年六月二九日開催の取締役会において、解約返戻金を被告の再建資金とする旨の提案が原告荒川を含む取締役全員により承認された旨の記載があり、原告荒川の印章の印影があるが、当時同印章が被告総務課に保管され(証拠略、原告荒川本人によって認める)、原告荒川以外の者の押印が可能な状態であったから、書証略のみによっては、原告荒川が承認していたと認めることはできない)
原告北及び原告荒川は、同月二七日、解約返戻金と同額の金員を被告に振り込み、小巻、覚前勝、松上惇一及び酒井健も解約返戻金相当額を被告に振り込んだ。
前記六名の従業員の解約返戻金相当額の入金は、被告の総勘定元帳では、いずれも雑収入とされ、後日被告から酒井健を除く従業員五名に交付された二割程度の金員及び同じころ原告上遠野に振り込まれた五〇万円の出金は各人に対する短期貸付金として処理されていた。
(書証略)
平成一〇年四月一日から平成一一年三月三一日までの決算報告書には、前記解約返戻金相当額の振込金は、住友生命保険からの保険解約による雑収入として雑益の内訳書に記載されていた。(書証略)
前記六名の従業員は、解約返戻金相当額について、被告との間で、被告に対する貸付を証する書面をいずれも作成しなかった。(弁論の全趣旨。なお、書証略が、被告作成の文書と認められないことは、前記2(4)オのとおりである)
原告荒川は、前記決算期末ころ、被告の取締役として前記決算報告書を異議なく承認した。(人証略)
オ エの六名の従業員のうち、原告らを除き、松上惇一及び酒井健は被告を退職したが、現在まで、エの解約返戻金相当額について、被告に対し、貸付金返還請求をしていない。(書証略)
(2)ア 以上のとおり、被告は、平成八年一〇月の貸付に関しては借用証を作成交付しているのに対し、原告ら主張の貸付については同時期に被告に送金したその他の従業員分も含めて借用証を一切作成していないこと、原告ら主張の貸付金交付については、決算書及び被告の会計帳簿上は被告の雑収入として処理されているところ、当時被告の取締役であった原告上遠野及び原告荒川両名がそれぞれ決算書を異議なく承認していること、同時期に被告に解約返戻金を送金したその他の従業員が、退職後、被告に対し、貸付金返還請求をしていないことからすれば、原告らが貸付を主張している金員は当時被告の経営再建のため贈与されたものである旨の被告の主張を排斥することはできず、原告ら主張の貸付の合意があったとは認めるに足りないというべきである。
イ 原告らは、田中舘が被告の代表者であったときは、被告の経理処理は実態と合致していないものがあったから、被告における経理上の取扱いは重視できない旨主張する。当時の被告の経理処理において実態と合致しない取扱いがあったことは、証拠略によって認められるところである。しかし、このことから、被告の経理処理がすべて実態と合致しないとは直ちにいえないし、貸付を主張している当の本人(人証略)が雑収入と記載された決算書に異議を述べていないことは重視されるべきであるから、アで指摘したその他の事情と併せ考えれば、原告ら指摘の被告の経理処理の問題が、前記認定を左右するものではない。
ウ なお、書証略によれば、住友生命が、被告に対し、解約返戻金の扱いについて、「被告が預り、退職時、いったん従業員から被告に贈与した後、被告が従業員に退職金を支給する」という方法を説明したことが認められるが、書証略は、会社が解約返戻金を退職金の原資とする場合の経理上の取扱いについて説明をしたものであり、書証略が被告作成の文書とは認められないことは前記2(4)オのとおりである。この点についての原告らの主張は採用できない。
(3) 以上から、その余の点について検討するまでもなく、原告らの争点(2)アからウにかかる貸付金請求は理由がない。
4 以上の次第で、原告北の被告に対する請求は、平成八年一〇月一一日の貸付金三〇万円及びこれに対する請求の日の翌日である平成一三年二月二七日から支払済みまで商事法定利率年六パーセントの割合による遅延損害金の支払を求める限度で、原告荒川の被告に対する請求は、平成八年一〇月一一日の貸付金一五〇万円及びこれに対する請求の日の翌日である平成一三年二月二七日から支払済みまで商事法定利率年六パーセントの割合による遅延損害金の支払を求める限度で、それぞれ理由がある。
(裁判官 伊藤由紀子)