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東京地方裁判所 平成13年(合わ)306号 判決 2004年6月25日

主文

被告人を無期懲役に処する。

未決勾留日数中700日をその刑に算入する。

押収してある折り畳み式ナイフ1本(平成13年押第2031号の1),大麻1個(同号の2)及び大麻1袋(同号の3)を没収する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は,

第1平成13年2月1日午前11時ころ,東京都葛飾区内所在のA公園南西側の男子公衆便所内において,

1  金品を強取しようと企て,B(当時76歳)に対し,開刃した所携の折り畳み式ナイフ(平成13年押第2031号の1)を示して脅迫し,「おい,金を出せよ」などと申し向けながら,その胸倉を掴んでコンクリートの床上に押し倒すなどの暴行を加え,その反抗を抑圧した上,同人から現金約1200円及び鍵1個在中の小銭入れ1個を強取し,その際,上記暴行により,同人に加療約1か月半を要する第12胸椎圧迫骨折の傷害を負わせ,

2  業務その他正当な理由による場合でないのに,前記折り畳み式ナイフ(刃体の長さが約7.9センチメートル,刃体の幅が約1.9センチメートル,刃体の厚みが約0.3センチメートルで,かつ,開刃した刃体をさやに固定させる装置を有するもの)1本を携帯し,

第2同日午後7時50分ころ,同都江戸川区内所在のCアパート南西端の屋外避難階段の2階と3階の間の踊り場付近において,

1  金員を強取しようと企て,D(当時64歳)に対し,所携の前記折り畳み式ナイフを示し,「金を出せ」などと言ったところ,同人が悲鳴を上げて逃げようとしたため,その背部等を上記折り畳み式ナイフで突き刺し,さらに,同人が抵抗を続けたため,同人を殺害して金員を強取しようと決意し,多数回にわたって,同人の背部等を上記折り畳み式ナイフで突き刺し,金員を強取しようとしたが,同人が金員を所持していなかったため,金員強取の目的を遂げなかったものの,上記刺突行為により,同日午後8時32分ころ,同都墨田区内所在のE病院において,同人を肺等の刺創に基づく失血により死亡させて殺害し,

2  業務その他正当な理由による場合でないのに,前記折り畳み式ナイフ1本を携帯し,

第3同月11日午後零時10分ころ,同都葛飾区内所在のF水門西側のG川河川敷において,

1  金員を強取しようと企て,H(当時16歳)に対し,前記折り畳み式ナイフを示し,「金を出せ」「Iで人を一人殺しているんだ」「お前を刺し殺すくらい簡単なんだ」「人は,頸動脈を刺せば,簡単に死ぬんだぞ」などと語気鋭く申し向けて脅迫し,その反抗を抑圧した上,同人から現金約700円を強取し,その際,同人の右大腿部を上記折り畳み式ナイフで1回突き刺し,よって,同人に全治約2週間を要する右大腿刺創の傷害を負わせ,

2  業務その他正当な理由による場合でないのに,前記折り畳み式ナイフ1本を携帯し,

第4みだりに,同年4月18日,同都江東区内所在のJ内において,大麻を含有する乾燥植物細片約3.557グラム(ガラス瓶入りのもの1個及びビニール袋入りのもの1袋。同号の2及び3は,いずれも鑑定後の残量)を所持したものである。

(証拠の標目)略

(弁護人の主張に対する判断等)

第1判示第1の1の強盗致傷について

1  弁護人は,判示第1の1の強盗致傷の事実について,①Bが,事件後,折り畳み式ナイフのことを何ら述べていないことからも明らかなように,被告人は,Bに対し,公訴事実にあるような同ナイフを突き付ける行為はしておらず,②Bが,被告人の行為によって,反抗を抑圧されるには至らなかったのであるから,被告人の行為は,強盗致傷罪ではなく,恐喝罪及び傷害罪として評価すべきであり,③被告人がBから取得した現金は,公訴事実にあるような約2000円ではなく,約1200円である旨主張する。

2  そこで,検討すると,関係各証拠によれば,次のような事実が認められる。すなわち,

(1) 被告人は,平成13年2月1日,所持金がほとんどなくなり,寒さのために野宿するのが辛かったので,東京都葛飾区内の公園の公衆便所に入った人を襲い,カプセルホテルの宿泊代等に充てる金品を得ようと考え,同便所付近のベンチに座って,1時間ほど人が来るのを待っていたこと

(2) 被告人は,同日午前11時ころ,B(当時76歳)が一人で上記公衆便所内に入っていくのを認め,同人から金品を得ようと考え,同人の後から同便所内に入り,ジーパンのポケット内から折り畳み式ナイフ(以下「本件ナイフ」という。)を取り出して刃を開いた上,同人に対し,「おい,金を出せよ」などと言ったこと(被告人がBに本件ナイフを突き付けたのかどうかについては,後に検討する。)

(3) Bは,「金なんか,持ってないよ」などと言いながら,被告人の左横から上記公衆便所の外に出ようとしたところ,被告人は,同人の胸倉を掴み,同便所の奥の方に同人を押していき,大便用の個室内のコンクリートの床上に同人を押し倒したこと

(4) 被告人は,押し倒されたBの着衣のポケットをまさぐり,ズボンのポケット内から現金及び鍵1個在中の小銭入れ1個を取り出し,それを持ち去ったこと

(5) Bは,被告人がいなくなった後,「痛いよう」などと叫んで助けを求めたが,誰も来てくれなかったので,自分で上記公衆便所の外に出て,自転車に寄り掛かっていたこと,通行人のKは,ウォーキング中に近くを通り掛かり,Bを認めて声を掛けたところ,同人から,「若い男にやられた。痛くて歩けない」「小銭を取られた」などと告げられたので,110番通報をしたこと

(6) Bは,東京都江戸川区内の病院に救急車で搬送されたが,被告人の前記(3)の暴行により,加療約1か月半を要する第12胸椎圧迫骨折の傷害を負ったこと,Bの家族が,同病院に駆け付けると,Bは,全身ががたがたと震えており,声も震えていたこと

(7) Bは,その後,自宅療養をするために帰宅したものの,寝たきりの状態になり,当初は精神的なショック等による嘔吐を繰り返すなどし,同月13日,左冠状動脈開施枝狭窄による動脈硬化症,腎臓硬化症及び肺水腫により死亡したこと,なお,第12胸椎圧迫骨折は,死因ではなかったこと

などの事実が認められる。

3  そして,被告人は,捜査段階において,「お爺ちゃんの前に立ちはだかり,ナイフを突き出した」「ナイフを右手で取り出して刃を開き,それを爺さんに見えるように示したような覚えがある」旨供述している。また,被告人は,当公判廷においても,「ナイフは,刃を出して右手に持ち,その腕を下ろしていたので,Bに見えるようにはなっていた」旨供述している。

これらの事情によれば,確かに,Bが,被害に遭った後,本件ナイフについて言及したことを示す証拠が存在しないことは,弁護人が主張するとおりであり,その点において,被告人が,Bに対し,本件ナイフを突き付けたとまでは認められないとしても,少なくとも,被告人が,Bに対し,刃を開いた本件ナイフを示したこと自体は十分に認めることができるというべきである。

4  以上認定したように,被告人は,人気のない公園の公衆便所内において,76歳と高齢のBに対し,開刃した本件ナイフを示して脅迫した上で,金を出すように申し向け,その胸倉を掴んでコンクリートの床上に押し倒すなどの暴行を加え,加療約1か月半を要する第12胸椎圧迫骨折の傷害を負わせているのであるから,被告人のBに対するこれらの行為が,同人の反抗を抑圧するに足るものであることは明らかである。

これに対し,弁護人は,Bが,被告人のいなくなった後に自力で上記公衆便所の外に出ており,駆け付けた警察官や救急隊員等に対し,はっきりとした口調で答えていることなど,被害を受けた後のBの言動に強い恐怖感を窺わせるものは存しないのであるから,同人が,被告人の言動によって,反抗を抑圧されるに至ったとは認められない旨主張する。しかしながら,被告人のBに対する一連の行為が,その時刻,場所,Bの年齢,凶器の存在,暴行及び脅迫の態様,傷害の状況等に照らし,客観的に同人の反抗を抑圧するに足りる程度の暴行及び脅迫であったことは明らかであり,弁護人主張のような事件直後のBの言動によって,それが左右されるものではないというべきである。そして,実際にも,Bは,被告人がいなくなるや,直ちに大声で助けを求め,搬送された病院において,家族の前で,全身ががたがたと震え,声も震えた状態にあり,その後も,精神的なショック等による嘔吐を繰り返すなどしているのであるから,Bの受けた恐怖感が大きなものであったことは明らかであり,弁護人の上記主張は,その点においても,前提を欠く失当なものであるといわざるを得ない。

5  したがって,被告人が,Bに対し,金品強取の意思をもって,その反抗を抑圧するに足る暴行及び脅迫を加え,その反抗を抑圧した上,同人から金品を強取し,その際,上記暴行により,同人に傷害を負わせたことは十分に認めることができ,被告人の判示第1の1の行為について,強盗致傷罪が成立することは明らかであるから,恐喝罪と傷害罪が成立するに過ぎない旨の弁護人の前記主張は,理由がない。

6  次に,被告人が強取した現金の金額について検討すると,Bは,被告人に奪われた現金について,千円札1枚と小銭の合計2000円くらいである旨述べていたことが窺われるが,同人が死亡した現在においては,同人から,その金額に関する記憶の根拠について,詳細に事情を聴取することはできない。一方,被告人は,捜査の最終段階の検察官に対する供述調書中では,「小銭入れの中身を確認したところ,折り畳んであった千円札1枚と小銭が百円玉や十円玉などたくさんあり,正確な金額は覚えていないが,小銭については,合計して1000円分くらいはあったと思う」旨供述している。しかしながら,被告人は,公判段階においては,一貫して1200円くらいであった旨供述しているほか,捜査段階においても,当初は,「小銭入れの中身を確認したところ,千円札が四つ折りに畳んだ形で1枚入っており,小銭も百円硬貨が2個ないし3個しか入っていなかったので,1200円か1300円くらいの金額に間違いない」旨供述しているのである。

これらの事情に照らすと,被告人が強取した現金の金額は,公訴事実のように約2000円であると認めるには合理的な疑いが残るといわざるを得ないので,約1200円の限度で認定した次第である。

第2判示第2の1の強盗殺人について

1  殺意の有無について

(1) 弁護人は,判示第2の1の強盗殺人の事実について,被告人は,Dに対し,本件ナイフでその背中と首を刺したという合計2回の刺突行為の記憶しかなく,その刺突行為の動機も立証されておらず,また,Dの個々の刺切創には致命傷というべきものは存しないのであるから,被告人に殺意があったことは立証されていない旨主張する。そして,被告人も,当公判廷において,Dに対し,殺意はなかったのであり,また,本件ナイフで最初に背中を1回刺し,次に首を1回刺したことは覚えているが,それ以外は覚えていない旨述べて,弁護人の主張に沿う供述をしている。

(2) そこで,検討すると,関係各証拠によれば,次のような事実が認められる。すなわち,

ア 被告人は,平成13年1月中旬ころ,数万円の現金や身の回り品を詰めたバッグを持って,それまで生活していた暴力団組員の借りているアパートの一室を抜け出し,L駅近辺のカプセルホテルに寝泊まりしていたが,所持金が少なくなってきたことから,同月28日ころ以降は,スーパーマーケットで弁当等を万引きして食い繋ぎ,東京都江戸川区I付近の公園で野宿する生活を送っていたこと

イ 被告人は,同年2月1日,判示第1の1の犯行により僅かの現金しか得られなかったことから,再び本件ナイフを使って通行人から金員を奪おうと考え,同日午後7時過ぎころから,同区内のCアパート南西端の屋外避難階段(以下「本件階段」という。)の2階踊り場付近において,通行人を待ち伏せていたところ,同日午後7時50分ころ,同棟3階の304号室に住むD(当時64歳)が,同棟1階の101号室に住む知人のM方に卵のパックを届けるために,本件階段を下りてきたこと

ウ Dは,先天性の聾唖者で,耳が聞こえず,言葉を発することができなかったこと

エ 被告人は,Dから金員を奪おうと決意し,本件階段を上り,2階から3階に至る階段踊り場付近において,同人に対し,開刃した本件ナイフを示しながら,「金を出せ」などと言ったところ,同人が,大きな声で,「ウァー」とか「ギャー」というような悲鳴を上げ,自室のある3階の方に逃げようとしたこと,被告人は,Dを追い掛けて,本件ナイフで同人の身体を突き刺したこと(刺突の状況や回数については,後に検討する。)

オ 被告人は,上記刺突行為の後,Dのジャンパーの左ポケットの辺りを触るなどしたが,現金を見付けることができず,そのまま小走りで本件階段を駆け下り,逃走したこと

カ Dは,その後,101号室のM方に助けを求め,聾唖者である同人らに対し,右親指を立てて2回上下に振り,立てた右親指を右脇腹に2回突き当てる動作をして,「男に刺された」旨を手話で伝えたこと,その際,Dは,両足とも靴下だけの状態で,履物を履いていなかったこと

キ Dは,東京都墨田区内の病院に救急車で搬送されたが,同日午後8時32分ころ,同病院において,肺等の刺創に基づく失血により死亡したこと

ク Dは,①後頭部左側に,深さ約7センチメートルの刺切創,②左胸鎖乳突筋部に,深さ約3センチメートの刺切創,③右鎖骨下部に,胸腔内に入り,右肺上葉に約3.5センチメートル刺入する刺創,④左肩甲下部に,胸腔内に入り,左肺下葉を貫通するものなど刺創3個,⑤右肩甲下部に,右肺下葉に約4.3ないし5.3センチメートル刺入する刺創2個並びに右肺下葉及び横隔膜を貫通して肝臓に入るものなど刺創3個,⑥左側胸部に,左肺下葉及び横隔膜を貫通し,胃に損傷を与えるものなど刺創3個,⑦左右大腿部に,大腿二頭筋を貫通するものなど刺創4個を負うなど,全身に合計24か所の刺切創(以下「本件刺切創」という。)を負っていたこと

ケ 本件刺切創のうち背部のものは,左側胸部にあるものを除いて,ほとんどが平行で,創洞の方向もほとんどが前下方に向かっており,Dが俯せになった際に背面から幾度も刺されたような状況を示唆するものであること,個々の刺切創は,1個だけで致命的なものはないが,全身臓器は,明らかに貧血状態で,出血量が多かったことを示しており,これらの刺切創が,総合して同人を失血死させたものであること

コ 本件階段の2階と3階の間の踊り場には,北東隅付近に,東西に約50センチメートル,南北に約50センチメートルの範囲の大きな血痕が付着しており,そのうち,東西に約24センチメートル,南北に約44センチメートルの範囲が血溜まりになっていること,同血溜まりの東側壁面には,飛沫血痕が約32センチメートルの高さにまで付着していること

サ 本件階段の2階と3階の間の踊り場から1階の101号室の玄関ドア前に至るまで滴下血痕が点々と付着しており,また,1階と2階の間の踊り場には,東西に約36センチメートル,南北に約25センチメートルの範囲の血痕が付着しており,その西側は血溜まりになっていること

シ 本件階段の2階と3階の間の踊り場の下り口付近には,裏返しになった左足用サンダルが落ちており,同踊り場から2階に向かう階段の途中には,表向きの右足用サンダルが落ちていること

ス 本件ナイフは,刃体の長さが約7.9センチメートル,刃体の幅が約1.9センチメートル,刃体の厚みが約0.3センチメートルで,開刃した刃体をさやに固定させる装置を有する折り畳み式ナイフであり,被告人が同年1月ころに購入したものであることなどの事実が認められる。

(3) 以上認定の各事実を前提に検討すると,まず,被告人が本件ナイフでDを刺突して立ち去った後に,別の第三者が引き続き刃物でDを刺突したような状況は全く存在せず,Dの24か所の本件刺切創は,すべて被告人の刺突行為により生じたものであることは,明らかというべきである。

そして,前記(2)認定のように,①被告人が犯行に使用した凶器は,開刃した刃体をさやに固定させる装置を有する刃体の長さ約7.9センチメートル鋭利な折り畳み式ナイフであり,その大きさ,形状等に照らし,十分な殺傷能力を有するものであること,②被告人が刺突した部位の多くは,背部や胸部等の生命に対する危険性の極めて高い人体の枢要部であること,③被告人は,Dに対し,深い刺創ができるほどの強い力で,24回にもわたって,執拗に身体の枢要部等を本件ナイフで突き刺し,同人を死亡させていること,④被告人は,Dが蹲る状態になった後にも,その背部等を後ろから幾度も突き刺していることなどの事情を総合すれば,被告人は,確定的な殺意をもって,Dに対する刺突行為に及んだことが,強く窺われるのである。

(4) さらに,被告人は,捜査段階において,次のように,Dに対する殺意があったことや多数回にわたる刺突行為を覚えている旨を供述している。すなわち,

ア 私は,平成13年2月1日午後5時前ころ,かつあげをする相手を見付けようと思ってN公園に行ったが,1時間半から2時間くらい待っても,かつあげができなかったので,苛々していたところ,Cアパートが目に入った。私は,本件階段であれば,暗い場所なので,人目に付かないで大麻が吸えるし,団地に出入りする人がいるだろうから,その人を脅して金を取ることができると考えた。

イ 私は,同日午後7時ころ,Cアパートに行き,本件階段の1階外側でパンを食べていたところ,男性が本件階段を上がっていったが,この時は,パンを食べており,男性がいきなり現れたので,金を脅し取る余裕がなかった。その後,私は,本件階段の2階踊り場で通行人を待つことにした。それは,本件階段の1階外側では,相手が逃げ出しやすく,また,どこから人が現れるのか分からないのに対し,本件階段の2階踊り場であれば,確実に金を脅し取れるし,金を脅し取った後に階段を下りてすぐに逃げることができると思ったからである。

ウ 私は,本件階段の2階踊り場が,Cアパートの各部屋が並んでいる通路と繋がっており,部屋に入る人が通路を通った際に怪しまれると思ったので,同踊り場と通路との境の鉄の扉を閉めた上,パンを食べたり,ペットボトル入りのジュースを飲んだり,大麻や煙草を吸ったりして通行人を待っていた。

エ 私は,人がなかなか通らず,寒かったので,苛々してきたが,同日午後7時50分ころ,本件階段の3階辺りから人が下りてくる足音が聞こえた。私は,2階踊り場から階段を上がっていき,2階と3階の間の踊り場の1段手前の階段の所で立ち止まって待っていたところ,階段から下りてきた人が女性で,しかも婆さんと分かり,簡単に金を脅し取れると考え,しめたと思った。

オ 私は,その女性に対し,開刃した本件ナイフを示し,「金を出せ」と言ったところ,女性が,大きな声で,「ウァー」とか「ギャー」という感じの悲鳴を上げ,私に背中を向けて3階に上がっていこうとした。私は,「やばい。団地に住んでいる奴に聞こえたかも知れない。速攻で決めないと」と思い,2階と3階の間の踊り場に上がって,逃げようとする女性の左肩を左手で掴んで引っ張り,背中の辺りを本件ナイフで突き刺した(もっとも,被告人は,最初にDを刺した部位を右脇腹の辺りと供述したこともある。)。

カ 私は,その女性が身体を揺するなどして暴れたので,更に女性の背中の辺りを何回か本件ナイフで突き刺した。この時,私は,絶対に女性から金を奪い取ってやろうと決めており,女性が死んでも構わないという気持ちであった。私は,女性のどこの部分を何回くらい突き刺したのかは,正確には分からない。ただ,私は,左手で女性の左肩を掴んで引っ張った時に,左脇腹の辺りを突き刺した覚えがある。

キ 私は,その女性が,本件ナイフで刺されているのに,まだ暴れ回って抵抗してくるので,「何だ,このばばあ」と思ってむかつき,「早く婆さんをおとなしくさせないと,団地の奴が来てしまう。この婆さんが,いつまた変な悲鳴を上げるか分からない」と思って焦った。そこで,私は,女性の左斜め後ろ側から,自分の両腕を女性の首辺りに回して,本件ナイフを女性の顔辺りに持っていき,左手で女性の肩辺りを掴んで,女性が暴れるのを押さえ込み,右手に持った本件ナイフで女性の胸辺りを右上から刺した(もっとも,被告人は,Dと正対した時に,Dの首や胸の辺りを刺した旨供述したこともある。)。

ク 私は,その女性がなおもしつこく抵抗するので,このころには,女性を殺して金を奪い取ろうという気持ちになり,女性の動きを止めて逃げられないようにするために,右手に持った本件ナイフで女性の脇腹や太股辺りを何回か突き刺したが,何回くらい刺したのかは,よく覚えていない。私が女性の太股辺りを刺した後,女性は,2階と3階の間の踊り場の隅に蹲り,「ウー,ウー」とうなり声を上げた。私は,今にもまた女性が先ほどのような悲鳴を上げるように思えたので,人が来ないうちに速攻で決めないといけないと考え,女性にとどめを刺そうと思った。私は,女性の後ろから覆い被さるように立って,「ばばあ,死んじまえ」と思いながら,背中等を何回か突き刺した。

ケ その後,私は,本件ナイフを持っていない左手で,俯せになって倒れ込んだその女性のジャンパーの左ポケットの辺りを触ったが,何も見付からなかった。女性は,身体の右側を壁にくっつけた状態で,右ポケットを探るためには女性の身体を持ち上げなければならなかったので,早く逃げないと人が来てしまうと焦っていたこともあり,金を探すことは諦めて,急いで逃げ出した。

コ 私は,本件階段を下りると,右に曲がって1階の通路を通って逃げたが,本件ナイフをポケットにしまった際に右手がぬるぬるしていることに気付き,右手を見ると,真っ赤な血がべっとりと付いていたので,急いで手を洗おうと思った。この時,私は,不思議と冷静になっていた。私は,近くの小さな公園に水飲み場があったことを思い出し,その水飲み場の水道で血の付いた両手と本件ナイフをきれいに洗い,着ていたジャンパーのポケット辺りも濡れた手でさっと拭いておいた。この時,私は,左手の薬指の爪の近くが,1センチメートルほど切れていて,血が出ていることに気付いた。

サ 私は,その公園から道路に出ると,救急車がサイレンを鳴らしながらCアパートの方に向かったので,「婆さんを刺したのがもう見付かったのか。早いな」と思った。私は,商店街に行けば,人が一杯いるので,警察官に声を掛けられることもないだろうと考え,商店街の本屋に入って,30分くらい立読みをして過ごした。私は,パトカーのサイレンが聞こえなかったので,警察にばれているのかが気になり,それを確認するために,再びCアパートの方に行ったところ,本件階段の所からフラッシュが何回も光っているのが見えたので,警察が来たことが分かったが,「婆さんは,あれだけ刺したのだから,死んじゃっただろうし,自分がやったことはばれないだろうな」と思った。

シ 私が,女性を何度も突き刺したのは,何が何でも女性から金を奪い取ってやろうと思ったからであり,母親への復讐だというような思いはなかった(もっとも,被告人は,Dを何度も突き刺した理由について,「逃げようとするお婆ちゃんの姿が,幼いころ自分から逃げていった母さんの姿とだぶり,母さんへの復讐だったと自分なりに思えて仕方がない」旨供述したこともある。)。

被告人は,捜査段階において,以上のような趣旨の自白供述をしている。

(5) 前記(4)掲記の被告人の捜査段階における自白供述は,前記(2)認定の各事実と符合し,事態の自然な流れに沿うものである。すなわち,

ア 被告人の上記自白供述は,前記(2)のク認定のDの創傷の状況と概ね符合しており,また,同人が本件階段の2階と3階の間の踊り場の隅で蹲ったと述べる点は,前記(2)のコ認定の大きな血痕や血溜まりが同所に残っていることと合致している。

イ 被告人は,犯行前の出来事として,男性が本件階段を上がっていったことや,被告人が本件階段の2階踊り場と通路との境の鉄の扉を閉めたことなどを詳細に供述し,また,犯行後の出来事として,被告人が付近の公園の水飲み場で血の付いた両手と本件ナイフを洗ったことや,本屋で時間を潰した後に再びCアパートの方に様子を見に行ったことなどを詳細に供述しているところ,これらの事実は,被告人しか知り得ないものであって,被告人が供述した内容がそのまま供述調書に記載されたものであると考えられる。してみると,被告人のDに対する刺突行為に関する供述も,取調官が創作して一方的に被告人を誘導したようなものではなく,被告人が供述した内容がそのまま供述調書に記載されたものであると考えるのが自然である。

ウ 被告人は,当公判廷においても,上記自白供述で述べたDに対する刺突行為の前後の自らの行動については,被告人がDに本件ナイフを示して「金を出せ」と言ったところ,同人が本件階段の上の方に逃げようとしたことや,被告人が逃走する時にDが金員を持っているかどうかを確認したことを含め,これを認めるほぼ同趣旨の供述をしている。このように,被告人は,Dに対する刺突行為の前後の自らの行動については,その直前及び直後の言動まで明瞭に記憶しているのに,Dに対する多数回にわたる刺突行為については,背中と首を刺した2回以外は全く覚えていないというのは,甚だ考え難いといわなければならない。Dに対する刺突行為の回数,部位及び順序の詳細はともかくとして,同人に対し,多数回にわたって刺突行為に及んだことやその大まかな流れについては,被告人がこれを覚えていると考えるのが自然である。ちなみに,被告人は,当公判廷において,取調官から,Dに対する強盗殺人の被疑事実で最初に事情を聴かれた際に,何回刺したのかと聞かれたので,1回じゃないなと思って,まあ適当に五,六回と答えた旨供述しているのであって,この点も,2回刺したことしか覚えていないとの被告人の当公判廷における供述の信用性に疑問を抱かせるものであるといわざるを得ない。

エ 被告人は,所持金がほとんどなく,寒さのために野宿するのが辛かったので,通行人から金員を奪おうと考え,公園で2時間近く待ち伏せ,本件階段の2階踊り場で50分近くも待ち伏せた末に現れたのがDであり,同人から何が何でも金員を奪い取ろうという強い意欲を有していたこと,同人が,大きな声で悲鳴を上げ,被告人に背部等を刺突されても,予想外に抵抗を続けたこと,犯行場所が,アパートの階段という人が来る可能性が高い場所であったことなどに鑑みると,被告人が,Dを早くおとなしくさせないと,同人が再び大きな声で悲鳴を上げたり,同人の悲鳴を聞いた住民が出てきて発見されることになると考えて,焦りを覚え,Dに対する殺意を抱くに至ったことや,同人を多数回にわたって刺突する行為に出たことも,事態の流れに沿う自然なものということができるのであって,被告人がDに対する殺意を抱くに至った経緯や犯行の動機として述べるところも,合理的なものとして理解することができる。

オ 被告人の上記自白供述は,被告人が,Dに本件ナイフを示して金を出すように脅迫し,逃げようとした同人を後ろから突き刺し,その後も抵抗する同人を幾度も突き刺し,逃げられないようにするために同人の太股等を突き刺し,蹲った同人を背後から幾度も突き刺して,同人が動かなくなったので,同人のジャンパーの左ポケットの辺りを触って金員を探したというものであって,その述べる一連の経緯は,事態の自然な流れに沿う合理的なものということができる。また,被告人は,「女性のどこの部分を何回くらい突き刺したのかは,正確には分からない」「女性の脇腹や太股辺りを何回か突き刺したが,何回くらい刺したのかは,よく覚えていない」などと述べて,Dに対する刺突行為の回数,部位及び順序の詳細については,正確には覚えていない旨も供述しているのであって,その点も,刺突行為の回数の多さや興奮状態下の行動であることなどに鑑みると,自らの記憶に基づく自然な供述として理解することができる。

これらの事情に照らすと,被告人が,Dに対し,殺意を抱き,その背部等を多数回にわたって本件ナイフで突き刺したことを覚えている旨の被告人の上記自白供述は,十分に信用することができ,他方,Dに対し,殺意はなく,2回刺したことしか覚えていない旨の被告人の当公判廷における前記供述は,信用することができないといわざるを得ない。

(6) これに対し,弁護人は,被告人の前記自白供述には任意性がなく,証拠能力が存しない旨主張するが,被告人の上記自白供述に任意性が認められ,証拠能力が存することは,第31回公判期日の証拠採用決定において詳細に説示したとおりである。

(7) また,弁護人は,被告人の前記自白供述について,仮に任意性が認められるとしても,信用性を疑わせる次のような事情がある旨主張している。すなわち,

ア 弁護人は,被告人の上記自白供述には,Dを最初に刺した部位の点,同人を前から刺したかどうかの点,同人を刺した動機の点など犯行の核心部分について著しい変遷が存するが,これは,被告人にはDを2回しか刺した記憶がなかったのに,取調官が,Dの解剖所見等の既知の情報に基づいて推測を重ね,被告人の供述を獲得しようとした結果によるものであるから,被告人の上記自白供述は信用できない旨主張する。

しかしながら,被告人がDを最初に刺した部位については,確かに,被告人は,捜査段階の途中において,右脇腹と述べていたことはあるが,Dの背中の右側にも刺創があることに照らせば,単に同一部位を背中と表現するか右脇腹と表現するかの問題に過ぎないと理解することも可能であり,そのような供述があるからといって,直ちに被告人の上記自白供述の信用性が否定されるものではない。

また,確かに,被告人がDを前から刺したかどうかの点については供述の変遷が存するが,被告人が24回にもわたってDを刺突していることに鑑みると,被告人は,かなりの興奮状態にあったということができるのであって,そのような状態下においては,多数回にわたる刺突行為の回数,部位,順序等についてすべて正確に記憶していることの方がむしろ不自然というべきであり,それらについて記憶が曖昧なために記憶の混乱や供述の変遷が生じたとしても,何ら不合理ではないというべきである。むしろ,被告人の上記自白供述は,若干の変遷はあるものの,一連の事態のおおまかな流れについては一貫しているとすらいうことができるのである。

さらに,Dを刺した動機に関する供述の変遷の点については,被告人は,当公判廷において,警察官の取調べの際にはDが母親と重なったのではないかと言われてそういうこともあると思ったが,検察官の取調べの際に再び尋ねられてちょっと違うと思った旨供述しているのであって,供述の変遷も合理的に理解することができ,不自然なものということはできないのである。

そして,被告人が上記自白供述の中で述べているDを刺突した一連の行動過程や殺意の発生状況は,それなりに複雑な経緯を辿っており,取調官が,推測を重ね,一方的に誘導して作出したとは考え難い内容のものであるといわざるを得ない。

イ また,弁護人は,被告人がDの背中を刺したと述べる場所には血痕が全く残っておらず,客観的状況と不一致が存するが,これは,被告人の記憶がないのに,取調官が被告人の供述を獲得したことによるものであるから,被告人の上記自白供述は信用できない旨主張する。

しかしながら,被告人がDを刺した場所のすべてに血痕が残るとは限らない上,むしろ,被告人は,Dが本件階段の2階と3階の間の踊り場の隅に蹲り,その後ろから同人を本件ナイフで幾度も刺した旨述べているのであるから,被告人の上記自白供述は,前記(2)のコ認定の血痕や血溜まりの状況とよく合致しているというべきである。

ウ その他,弁護人は,被告人の上記自白供述が信用できない理由を縷々主張するけれども,いずれもその自白供述の信用性に疑念を抱かせるものではないといわなければならない。

(8) したがって,前記(2)認定の各事実に加え,前記(4)掲記の被告人の捜査段階における自白供述を合わせ考えると,判示第2の1認定のように,被告人が,Dに対し,金員強取の目的で,確定的な殺意をもって,多数回にわたって,その背部等を本件ナイフで突き刺して同人を殺害したことや,被告人がDに対して多数回にわたる刺突行為に及んだことを覚えていることは,十分に認めることができるのであって,被告人に強盗殺人罪が成立することは明らかであり,弁護人の前記主張は,理由がない。

2  責任能力について

(1) 弁護人は,判示第2の1の強盗殺人の犯行当時,被告人は,その生育過程で両親から被った虐待等のトラウマ(心理的外傷)に起因する侵入性解離状態(その判断に従って行動する能力が著しく妨げられた状態)に陥っており,人を殺してはいけないという自我機能が停止したままの状態で,過去の情動の支配によって行動したのであるから,心神耗弱の状態にあった旨主張する。

(2) 弁護人の上記主張は,主として,O大学大学院人間科学研究科臨床心理学講座助教授であるP作成の意見書,P著の書籍Q及びPの当公判廷における証言(以下「P意見」と総称する。)に依拠するものであるところ,P意見は,次のような趣旨のものである。すなわち,

ア 被告人は,2回にわたって母親から見捨てられた体験がトラウマになっており,聾唖者で女性であるDが,被告人の脅し等の言葉に適切な反応ができず,声を上げて逃げようとしたことから,自分を置いて逃げていった母親が想起され,Dに無視されたという思いが虐待体験を思い起こす刺激になって,母親への怒りや恨みという感情を再生させ,目の前にいるDではなく,過去の母親への怒りや恨みが爆発し,合目的性もなく,怒りが行動を支配する侵入性解離状態に陥って,過去に自分を捨てた母親に対する怒りの下に行動が行われたものと理解できる。

イ 言うならば,本件ナイフを示した時点における現在を生きている被告人から,刺突行為時には突然に過去のコンテクストで行動する過去を生きている被告人になり,それが終わった途端に再び現在を生きている被告人に戻ってきているという不連続性が認められる。

ウ その根拠としては,被告人が2回しかDを刺したことを覚えてないことや,他の2件の男性に対する事件では,大きな逸脱行為に至ることがなかったのに対し,Dに対する事件では,同人を24か所も刺して死に至らしめるという大きな逸脱を生じていることなどを挙げることができる。

P意見は,概ね以上のような趣旨のものである。

(3) そこで,検討すると,確かに,被告人の生育歴等については,次のような事実が認められる。すなわち,

ア 被告人は,2歳の時に,両親が父親の暴力等を原因として離婚したため,それ以後,親権者である母親の下で,1歳年上の兄とともに生活していたこと,被告人は,小学校3年生の時に,母親が被告人と兄を家に置いたまま突然に交際相手の男性と駆け落ちをしてしまったため,兄とともに千葉県内の養護施設に入り,同県内の小学校及び中学校を卒業したこと,被告人は,小中学校時代から,万引きや家出等の問題行動を起こし,中学2年生のころから,自らの腕を刃物で切るリストカットをするようになったこと

イ 被告人は,平成9年3月に中学校を卒業し,兄と別れて,東京都内の機械組立工場に勤めたが,短期間で勝手に辞めてしまったこと,被告人は,同年5月ころ,内妻と暮らしていた父親の所に行き,父親が借りたアパートで一人暮らしを始めたが,被告人が部屋に閉じ籠もって働こうとしなかったため,父親からアパートを出ていくように言われ,同年7月ころ,アパートを出て,再び養護施設に戻ったこと

ウ その後,被告人は,そば屋や自動車整備工場で働くなどしていたが,平成10年9月に毒物及び劇物取締法違反の被疑事実により逮捕され,同年10月にRで保護観察処分を受けたこと,被告人は,同年11月ころから,福岡県内で母親とともに生活を始めたが,就職しても長続きせず,母親やその内縁の夫との関係がうまくいかなかったことなどから,平成12年7月末には母親と別れて上京したこと,被告人は,同年8月初めころ,公園で暴力団組員に声を掛けられ,暴力団組員の借りている東京都江戸川区内のアパートの一室に居住し,のみ行為の手伝い等をして生活していたこと

エ 略

などの事実が認められる。

これらの事実によれば,被告人が,その生育歴等に不遇なものがあり,その結果,トラウマと称するかどうかはともかくとして,自分が見捨てられたという被害感情や母親に対する恨みの感情等を強く抱いていたことは窺うことができる。

(4)ア しかしながら,被告人は,前記1認定のように,Dを突き刺した部位,回数及び順序の詳細についてまではすべて正確に記憶していないものの,同人を多数回突き刺したことや刺突した基本的な経過については十分に記憶を保持していることが認められ,同人を2回突き刺した記憶しかない旨の被告人の当公判廷における供述は信用できないのであるから,その点において,弁護人の前記主張及びP意見は,その前提を欠くものであるといわざるを得ない。さらに,被告人が,Dに対する刺突行為の前後の自らの行動について,明瞭な記憶を有していることは,前記1認定のとおりである。

イ 判示第1の1の強盗致傷や判示第3の1の強盗傷人の際とは異なり,Dが悲鳴を上げるなどしてかなり抵抗したこと,犯行場所がアパートの階段という人が来る可能性が高い場所であったことなどに照らせば,被告人が,住民が来るのではないかと焦って,興奮状態になり,多数回にわたってDの身体を刺突するという行動に出たことも,事態の流れに沿う自然なものとして理解することができるのであって,被告人がDを24か所も刺して殺害していることが,判示第1の1の強盗致傷や判示第3の1の強盗傷人に比較して,直ちに不自然かつ不合理に逸脱した行動ということはできない。

ウ 被告人の犯行前後の行動は,前記1認定のように,いずれも合理的かつ合目的的なものである。また,被告人の犯行当時の行動も,被告人は,所持金に窮してDから金員を強取しようと企て,Dに本件ナイフを示し,「金を出せ」などと言ったところ,同人が大きな声で悲鳴を上げて逃げようとしたため,その背部等を本件ナイフで突き刺したが,同人が予想外にかなりの抵抗を続けたことから,早く同人をおとなしくさせないと,住民が来るかも知れないと思って焦り,Dに対する殺意を抱くに至り,同人の背部等を多数回にわたって本件ナイフで突き刺し,同人が動かなくなったので,同人のジャンパーの左ポケットの辺りを触って金員を探したというものであって,合理的かつ合目的的なものということができ,犯行の動機も十分に了解可能である。

エ 仮に,被告人にとって,Dが女性であったことから,Dが自らを見捨てた母親とだぶり,母親に対する恨みの感情がDに対する殺意や刺突行為に影響を及ぼした面があったとしても,そのこと自体も了解可能な範囲内のものであって,P意見が指摘するような「目の前にいるDではなく,過去の母親への怒りや恨みが爆発し,合目的性もなく,怒りが行動を支配する侵入性解離状態に陥って,過去に自分を捨てた母親に対する怒りの下に行動が行われた」とまでいうことはできない。

(5) このように,①被告人は,犯行当時の記憶を十分に保持していることが認めれ,意識障害状態にあったことを窺わせる事情は,何ら存在しないこと,②犯行における被告人の具体的な行動は,その前後も含め,全体として合理性及び合目的性が認められ,通常人の行動として十分に了解可能なものであること,③犯行の動機も,十分に了解可能なものであり,被告人の平素の人格から解離したような異常な状況は,窺うことができないこと,④被告人に内因性精神病等の発病を窺わせるような状況も存しないことなどに照らすと,被告人が,犯行当時,是非善悪を弁別し,その弁別に従って行動する能力を失った状態になかったことはもとより,その能力が著しく減退した状態にもなく,完全な責任能力を有していたことは,十分に認定することができる。したがって,被告人が,犯行当時,侵入性解離状態に陥っていて,心神耗弱の状態にあった旨の弁護人の前記主張及びP意見は,その前提を欠くものであって失当であり,採用することができない。

第3判示第3の1の強盗傷人について

1  弁護人は,判示第3の1の強盗傷人の事実について,①被告人は,Hに対し,公訴事実にあるような「俺はIで人を刺し殺しているんだ。お前を刺し殺すくらい簡単なんだ。人は頸動脈を切れば簡単に死ぬんだ」という脅迫文言は言っておらず,②Hは,被告人から,G川河川敷の土手の上において,「金を貸してくれ」と何回もしつこく言われ,土手の下に逃げたが,後方から左肩の辺りを掴まれて逃げられなくなったので,財布を出して小銭700円くらいを被告人に渡し,その後,被告人は,本件ナイフを取り出し,Hの右大腿部を1回突き刺して逃げたのであり,被告人が土手の上で本件ナイフを取り出したことはなく,③Hが,被告人の行為によって,反抗を抑圧されるには至らなかったのであるから,被告人の行為は,強盗傷人罪ではなく,恐喝罪及び傷害罪として評価すべきである旨主張する。

2  そこで,検討すると,関係各証拠によれば,次のような事実が認められる。すなわち,

(1) 被告人は,通行人からカプセルホテルの宿泊代等に充てる金員を得ようと考え,平成13年2月11日午後零時10分ころ,東京都葛飾区内のG川河川敷の土手の上において,一人でバードウォッチングに来ていた高校2年生のH(当時16歳)に対し,「俺に金を貸してくれないか」などと言ったこと,Hは,「お金なんか持っていないです」などと言って断ったが,被告人は,Hに対し,幾度も金員の交付を要求したこと

(2) Hは,G川河川敷の土手の下の方に走って逃げたが,被告人に追い付かれて捕まったこと

(3) 被告人は,Hに対し,本件ナイフを示したこと(被告人がいつの時点で本件ナイフを取り出してHに示したのかについては,後に検討する。)

(4) Hは,ジャンパーのポケットから財布を取り出したが,その財布に入っていた現金約700円をすべて地面に落としたこと,被告人は,その現金を拾い集めて,Hから取り上げたこと

(5) 被告人は,その場から逃走する前に,Hの右大腿部を本件ナイフで1回突き刺し,その結果,Hは,全治約2週間を要する右大腿刺創の傷害を負ったこと

(6) 被告人は,Hに対し,「お金を取ったことは人に言ってもいいけれども,刺したことは言うなよ」などと言って,その場を立ち去ったこと

(7) その後,Hは,通り掛かった人に助けを求め,救急車で東京都墨田区内の病院に搬送されたこと

(8) Hは,同日,警視庁S警察署に被害届を提出し,同警察署で事情を聴取され,同日付けで司法警察員に対する供述調書が作成されたこと,Hは,被告人の逮捕後である同年5月19日に,警視庁T警察署で再び事情を聴取され,同日付けで司法警察員に対する供述調書2通が作成されたことなどの事実が認められる。

3(1)  ところで,Hは,当公判廷において証人として尋問を受けた際,次のように証言している。すなわち,

ア 被告人は,G川河川敷の土手の上において,私の肩に手を回してきた上,本件ナイフを取り出して私に見せた。私は,本件ナイフで刺されると思って怖くなり,被告人の腕を振り払い,土手の下の方に逃げた。

イ 私は,土手の下に逃げたが,被告人に追い付かれた。被告人は,再び私の肩に手を回してきて,本件ナイフを私の顔の前でちらつかせ,「人は,頸動脈を刺せば,簡単に死ぬんだぞ」「Iで人を一人殺しているんだ」と言った。私は,それ以外の言葉についてはよく覚えていないが,被告人が,本件ナイフを示しながら,「金を出せ」「おまえを刺し殺すくらい簡単なんだ」と言ったと思う。被告人が,「金を出さないと,どうなるか分かるだろう」と言ったのかどうかについては,よく覚えていない。私は,金を出さないと殺される思い,ポケットから財布を取り出したが,手が引っ掛かり,財布に入っていた金を地面にばらまいてしまったところ,被告人は,その金をすべて拾った。

ウ 被告人は,私の財布に700円くらいしか入っていなかったので,私に対し,「もっと持っているんだろう」と聞いてきた。私が,「もう持っていません」と答えたところ,被告人は,これに納得せず,私のポケットや肩掛け鞄の中を探ってきたが,金を見付けることはできなかった。

エ その後,被告人は,私の斜め後ろの方から,私の右太股を刺してきたので,私は,その場に倒れた。

オ 私は,T警察署において,一通りの事情聴取を受けた後に,私の説明がS警察署での供述調書の内容と異なることを聞かされた。また,私は,T警察署において,供述調書の作成等が終わった後に,Iの強盗殺人事件の犯人が私を刺した犯人であると聞かされた。S警察署で事情を聴かれた時は,事件当日であったので,ちょっと説明不足があったのではないかと思う。

Hは,当公判廷において,以上のような趣旨の証言をしている。

(2)  また,被告人は,捜査段階において,次のように供述している。すなわち,

ア 私は,G川河川敷の土手の上において,自転車から降りて,Hに対し,金を出すように何度も脅したが,金を出す様子がなかったので,こうなったら本件ナイフで脅して金を奪うしかないと思い,本件ナイフを取り出してHの顔に近づけ,「早く金を出せよ」などと言ったところ,Hが,土手の下の方に全速力で走って逃げた。

イ 私は,Hを追い掛けて捕まえ,左手でHの左肩を掴んで肩を組み,本件ナイフをHの顔にくっつくくらいまで近づけ,「俺は,Iで人を刺し殺しているんだ。おめえを刺し殺すくらい簡単なんだ。金を出せよ。人は,頸動脈を切れば,簡単に死ぬんだ」と凄味を利かせて言った。Hは,金を出さないと殺されると観念したらしく,おどおどした様子で,ジャンパーやズボンのポケット内の財布を捜し始めたが,少し時間が掛かったので,苛ついて,「早く出さないと,刺すぞ」などと言った。

ウ そのころ,土手の方を通行人が歩いていたので,私は,Hに声を出されたら困ると思い,友達同士が肩を組んでいるように見せ掛けるために,左手で掴んでいたHの肩をぐっと引き寄せ,「声を出したら,本当に刺すぞ」などと言って,更にHを脅した。Hは,通行人が去った後,ジャンパーの内ポケットの辺りから財布を取り出したが,財布を持つ手が震えていたので,財布に入っていた小銭をすべて地面に落としてしまった。私は,本件ナイフを持ったまま,その小銭を拾い集めた。

エ 私は,拾い集めた小銭が700円くらいしかなかったので,Hに対し,「もっとあるだろう」と言ったところ,Hは,「もうありません」と答えた。私は,Hのポケットや肩掛け鞄の中を捜したが,現金は全く見付からなかった。私は,Hが逃げ出して手間を取らせたのに,現金の額が少なかったので,腹が立つとともに,Hが現金を取られたことを人に言わないようにしようと思い,本件ナイフでHの右足の太股の後ろを1回だけ刺した。

被告人は,捜査段階において,以上のような趣旨の自白供述をしている。

4(1)  これに対し,Hは,被害当日に作成された司法警察員に対する供述調書中では,次のように供述している。すなわち,

ア 私は,G川河川敷の土手の上において,被告人から,「金を貸してくれ」と言われ,何回も断ったが,しつこく迫られたので,隙を見て土手の下の方に逃げた。

イ 私は,被告人に後方から左肩付近を掴まれて捕まったので,もう逃げられないと思い,財布を出し,現金700円くらいを被告人に渡した。

ウ 私が,被告人に金を渡したところ,被告人は,私の右腕側に立って,ジャンパーの右ポケットから本件ナイフを取り出し,「俺は,Iの方で人を刺したことがある」などと言っていた。被告人は,本件ナイフを私の顔の三,四十センチメートル手前に突き出して左右に振り,「金を出したことは言ってもいいが,刺されたことについては人に話すなよ」と言って,土手の上の方に逃げていった。

エ 私は,本件ナイフで太股を刺されるなどとは思っていなかった(なお,同供述調書においては,Hがどの時点で被告人に太股を刺されたのかについての記載はない。)。

Hは,被害当日の司法警察員に対する供述調書中で,以上のような趣旨の供述をしている。

(2)  また,被告人は,当公判廷において,次のように供述している。すなわち,

ア 私が,G川河川敷の土手の上において,自転車に乗ったままの状態で,Hに対し,最初はソフトに迫った後で,今度は凄みを利かせて,「金出せよ」と言ったところ,同人は,土手の下に逃げていった。私は,土手の上では本件ナイフを取り出していない。Hがなぜ逃げ出したのかについては,分からない。

イ 私は,Hを土手の下で捕まえ,しばらくして本件ナイフを取り出し,金を要求したところ,同人が金を出した。私は,Hから,現金700円くらいを取り上げたことは間違いないが,同人を捕まえた際にどこを掴んだのかや,同人がその金を財布に入れていたのかどうかなどについては,覚えていない。

ウ その後,私は,本件ナイフでHの太股の後ろの辺りを刺したが,なぜ刺したのかについては,よく分からない。

エ 私は,Hに対し,「Iで人を刺している」と言ったと思うが,「Iで一人殺しているんだ」とは言っていない。

被告人は,当公判廷において,以上のような趣旨の供述をしている。

5  そこで,前記3の(1)掲記のHの証言及び同(2)掲記の被告人の捜査段階における自白供述と,前記4の(1)掲記のHの被害当日の司法警察員に対する供述調書中の供述及び同(2)掲記の被告人の当公判廷における供述のいずれが信用できるのかについて検討する。

(1) まず,Hの前記証言及び被告人の捜査段階における前記自白供述は,前記2認定の各事実に符合し,事態の自然な流れに沿うものである上,大筋において一致していて,互いに補強し合っている。すなわち,

ア Hの上記証言と被告人の上記自白供述は,被告人がG川河川敷の土手の上で本件ナイフを取り出すに至った経緯,Hが被告人から本件ナイフを示されて土手の下の方に走って逃げた状況,Hが被告人に追い付かれて再び本件ナイフを示された状況,被告人がHに申し向けた脅迫文言の内容,Hが財布を取り出してその中に入っていた現金を被告人に取り上げられた状況等について,その内容が合致している上,その事態の流れも合理的で自然なものである。

イ Hの上記証言は,被害に遭ってから時間が経過しているために記憶が不鮮明で,必ずしも詳細でない部分もあるが,記憶が明確でない点についてははっきり覚えていない旨をきちんと述べており,自らの記憶に従って忠実に証言しようとしている態度が窺われる。また,Hが,敢えて被告人に不利益な虚偽の事実を捏造して被告人を罪に陥れようとする事情は何ら窺うことができず,殊更に虚偽の供述をしているとは考え難い。

ウ Hの上記証言及び被告人の上記自白供述は,Hが被告人の逮捕後にT警察署や検察庁で事情を聴取されて作成された各供述調書との間においても,被告人が本件ナイフを取り出した時期や被告人のHに対する脅迫文言等の点において,内容的によく合致している。

エ Hは,T警察署において,一通りの事情聴取を受けた後に,自分の説明がS警察署での供述調書の内容と異なることを聞かされ,さらに,供述調書の作成等が終わった後に,Iの強盗殺人事件の犯人が自分を刺した犯人であると聞かされた旨述べているところ,Hから事情を聴取したT警察署勤務の警部補Uは,当公判廷において証人として尋問を受けた際,S警察署での供述内容をあらかじめHに知らせることは一切せず,同人からまず事件の全体の流れを聞いた後に,S警察署での供述内容との違いを指摘しており,また,同人の事情聴取が終わった後に,初めてIの強盗殺人事件の話をした旨証言しており,Hの上記証言を補強しているのであって,Hの記憶が同警部補の誘導等により変容されたという事情は,窺うことができない。

オ U警部補は,被告人が本件ナイフを取り出した時期と被告人が一人殺していると言ったのかどうかという点については,Hの説明がS警察署での供述調書の内容と異なっていたので,同人に何度も確認したが,同人が,一貫して,被告人が本件ナイフを最初に取り出したのが土手の上であり,また,被告人が一人殺していると言ったことは間違いない旨を説明していたことや,Hが,S警察署での供述内容と異なることを告げられて,不思議そうな顔をした上,生まれて初めてナイフで足を刺されたので,事件当日は動揺していたのかなと言っていた旨証言しており,Hの上記証言を裏付けている。

カ 被告人の上記自白供述は,被告人が本件ナイフを取り出すに至った心境や,土手の方を通行人が歩いているのを認めた時の自らの行動等について,詳細かつ迫真的に述べるものであり,その経過も自然である。なお,被告人は,捜査段階における犯行再現の実況見分の際には,土手の上では本件ナイフを取り出していないという内容の指示説明をしているが,被告人が,自転車に乗ったままの状態でHに声を掛けたところ,同人が逃げ出したと指示説明をしている点において,明らかにその前後の被告人の供述調書中の供述やHの上記証言と異なっている上,上記実況見分で被告人に指示説明を求める際に,被告人がHに声を掛ける際に自転車から降りたのかどうか,被告人が土手の上でも本件ナイフを取り出したのかどうかなどの点について,被告人に必ずしも十分な確認をしなかったことも考えられるのであり,上記犯行再現の結果をもって,被告人の上記自白供述の信用性が否定されるものではない。

これらの事情に照らすと,Hの上記証言及び被告人の上記自白供述は,十分に信用することができるというべきである。

(2) これに対し,弁護人は,被告人の前記自白供述には任意性がなく,証拠能力が存しない旨主張するが,被告人の上記自白供述に任意性が認められ,証拠能力が存することは,第31回公判期日の証拠採用決定において詳細に説示したとおりである。

(3) また,弁護人は,被告人の前記自白供述について仮に任意性が認めらるとしても,Hの前記証言及び被告人の上記自白供述には信用性を疑わせる次のような事情がある旨主張している。すなわち,

ア 弁護人は,Hが,犯人が捕まったということで以前とは異なる警察署で事情聴取を受けているのであるから,T警察署で供述調書を作成する前か,遅くともその過程において,被告人がIの強盗殺人事件の犯人であることを聞かされたと考えるのが自然であり,Hの認識が歪められた可能性が高いので,同警察署での事情聴取以降のHの供述は,信用できない旨主張する。

しかしながら,Hが,T警察署において,一通りの事情聴取を受けた後に,自分の説明がS警察署での供述調書の内容と異なることを聞かされ,さらに,供述調書の作成等が終わった後に,Iの強盗殺人事件の犯人が自分を刺した犯人であると聞かされたことについては,H及びU警部補が,いずれも明言しているところである。そして,仮に,被告人が本件ナイフを取り出した時期やその脅迫文言の内容が弁護人の主張のとおりであったとしても,被告人の行為は,Hの反抗を抑圧するに足りる脅迫行為に十分に該当するということができるのであるから,それらの点について,取調官がHを強引に誘導してまで被告人に不利益な供述をさせたとも考え難い。したがって,Hの認識が歪められた旨の弁護人の主張は,採用することができない。

イ 弁護人は,Hの上記証言は,記憶が最も鮮明な被害当日の供述と異なっている上,その後に同人の記憶が鮮明になる事情はないのであるから,信用できない旨主張する。

しかしながら,Hの被害当日の司法警察員に対する供述調書は,犯行の経過が極めて不明確で,Hが本件ナイフで刺された時期の記載さえもないという言葉足らずで,説明が不足している内容のものであって,同供述調書中の供述と異なることをもって,Hの上記証言の信用性が否定されるものではない。また,Hに対する強盗傷人事件について,被告人の各供述調書が作成されたのは,HのT警察署における供述調書が作成された後であるから,HのT警察署における供述,延いてはこれに合致する内容のHの上記証言が,被告人の捜査段階における供述に合わせるように,誘導されて作出された状況も存在しないのである。

ウ その他,弁護人は,Hの上記証言及び被告人の上記自白供述が信用できない理由を縷々主張するけれども,いずれもHの上記証言及び被告人の上記自白供述の信用性に疑念を抱かせるものではないというべきである。

(4) 他方,Hの被害当日の前記司法警察員に対する供述調書中の供述は,全般的に説明不足が強く窺われるものであり,また,被告人の当公判廷における前記供述は,不自然さや不合理さが目立つものである。すなわち,

ア Hの上記供述調書中の供述は,同人が本件ナイフで刺されたという結果については不十分ながらも記載があるものの,どの時点で刺されたのかについては全く記載がない上,同人が土手の上から逃げ出した経緯や財布を取り出して被告人に現金を渡した経緯等が明確ではなく,全体的に言葉足らずで,事情聴取の不十分さを感じさせるものである。また,Hは,当公判廷において,被害当日の事情聴取について,「事件当日であったので,ちょっと説明不足があったのではないかと思う」旨証言しており,同人自身も,被害に遭った直後で動揺していて,被害状況の説明が言葉足らずに終わったことも窺うことができる。

これらの事情に照らすと,Hの上記供述調書は,同人が認識した状況が十分に記載されておらず,全体として説明不足に終わったものであって,同調書中に記載されていないからといって,直ちにその事柄が実際にも存在しなかったということにはならないというべきである。

イ 被告人の当公判廷における上記供述は,被告人がHに声を掛けた状況やその言葉,その後の同人とのやり取り等の一連の経過が,極めて曖昧なものである。また,被告人は,Hが逃げ出した理由や同人を刺した理由については分からないと述べるなどしており,内容的にも甚だ不合理なものであるといわざるを得ない。さらに,被告人は,全般的に曖昧な供述に終始し,よく覚えていないなどと繰り返し述べているにもかかわらず,本件ナイフを土手の上では取り出していないことや,人を殺したとは言っていないことだけについては,明確に記憶していて,きっぱりと否定していることも,不自然さを否めないところである。

これらの事情に照らすと,被告人の当公判廷における上記供述は,信用することが困難である。

6  したがって,前記2認定の各事実に加え,前記3の(1)掲記のH証言及び同(2)掲記の被告人の捜査段階における自白供述を合わせ考えれば,被告人が,G川河川敷の土手の上において,Hに対し,「金を出せ」と言った際に,本件ナイフを示したことや,土手の下において,同人に対し,本件ナイフをその顔に近づけながら,「Iで人を一人殺しているんだ」「お前を刺し殺すくらい簡単なんだ」「人は,頸動脈を刺せば,簡単に死ぬんだぞ」という脅迫文言を申し向けたことは,十分に認めることができる。そして,これらの被告人のHに対する行為が,同人の反抗を抑圧するに足りるものであることは多言を要しないところである(なお,公訴事実にある「出さないとどうなるか分かるだろう」という文言については,被告人がHにこの文言を言ったと認めるに足りる十分な証拠はないけれども,被告人がこの脅迫文言を言わなかったとしても,上記認定が左右されるものではない。)。実際にも,Hは,当初は被告人の金員交付の要求を拒んでいたが,被告人から上記のような脅迫行為に及ばれ,金を渡さないと殺されると思い,ジャンパーのポケットから財布を取り出し,恐ろしさの余り,手が震えて,財布に入っていた小銭をすべて地面に落としてしまっているのであって,その恐怖感が大きなものであったことは明らかである。

7  以上検討したところによれば,被告人が,Hに対し,金員強取の意思をもって,その反抗を抑圧するに足る脅迫を加え,その反抗を抑圧した上,同人から金員を強取し,その際,同人の右大腿部を本件ナイフで1回突き刺し,同人に傷害を負わせたことは十分に認めることができ,被告人の判示第3の1の行為について,強盗傷人罪が成立することは明らかであるから,恐喝罪と傷害罪が成立するに過ぎない旨の弁護人の前記主張は,理由がない。

(法令の適用)略

(量刑の理由)

1  本件は,76歳の男性に対する強盗致傷(判示第1の1),64歳の女性に対する強盗殺人(判示第2の1),16歳の少年に対する強盗傷人(判示第3の1),折り畳み式ナイフの不法携帯3回(判示第1の2,第2の2及び第3の2)及び大麻の不法所持(判示第4)という事案である

2  まず,判示第2の強盗殺人等の各犯行について見ると,被告人は,Cアパートで通行人から金員を強取しようと企て,人目に付かない屋外避難階段である本件階段の2階踊り場において,通行人を待ち伏せた。やがて,被告人は,被害者が住居のある3階から本件階段を下りてくるのを認め,2階と3階の間の踊り場付近において,被害者に対し,所携の折り畳み式ナイフを示すなどして金員を強取しようとしたところ,被害者が悲鳴を上げて3階の方に逃げようとしたため,その背部等を上記ナイフで突き刺し,さらに,被害者が抵抗を続けたため,被害者を殺害して金員を強取しようと決意するに至り,多数回にわたって,その背部等を上記ナイフで突き刺し,被害者に合計24個の刺切創を負わせるなどした。そして,被告人は,動かなくなった被害者のジャンパーの左ポケットの辺りを探ったが,金員が見付からなかったため,住民が来ると思って,その場から逃走した。被害者は,Cアパート1階の知人方に自力で赴いて助けを求め,同人の通報により直ちに救急車で病院に搬送されたものの,病院に到着後間もなく,肺等の刺創に基づく失血により死亡するに至ったものである。

このように,被告人は,悲鳴を上げて逃げようとする被害者を鋭利な折り畳み式ナイフで執拗に突き刺し,被害者が蹲った後も,その背部等に対する刺突を継続しているのであって,強固な確定的殺意に基づく冷酷かつ残忍な犯行というほかない。そして,その結果は,貴重な人一人の生命を奪うという誠に重大なものである。被害者は,Cアパート3階の自室から1階の知人方に卵のパックを届けるために本件階段を通ったところ,被告人から折り畳み式ナイフを示され,必死に逃げようとしたにもかかわらず,被告人に繰り返し刺突され,被告人が立ち去った後にCアパート1階の知人方に辿り着くや,その場で意識を失い,1時間も経たないうちに絶命するに至っているのであり,被害者が,聾唖者で,被告人の言葉が理解できず,状況把握が一層困難であったことを合わせ考えると,その間の被害者の身体的な苦痛や恐怖感は計り知れないものがあったというべきである。

被害者は,平成11年に夫と死別した後に一人暮らしを始め,特段の病気もなく,Cアパートでの生活にも慣れ,聾唖という障害を有しながらも,積極的に友人等と交流し,幸せな人生を送っていたにもかかわらず,見ず知らずの被告人の凶行により,突然に64歳で非業の死を遂げなければならなかったのであって,その無念さは察するに余りある。また,被害者の遺族は,身体的なハンディキャップを有する被害者を温かく見守っていたところ,その愛する被害者を理不尽にも滅多突きにされて奪われたのであって,その悲しみや憤りの念は甚大である。被害者の妹が,当公判廷において,「身内が殺されたとなると,死刑くらいが当然だと思う」旨証言し,先天的聾唖者である被害者を苦労して育てた89歳の母親が,被告人の死刑の判決を聞いてから死にたい旨述べているなど,被害者の遺族が被告人に厳重な処罰を希望しているのも,当然というべきである。しかるに,被告人は,被害者の遺族に対し,具体的な慰謝の措置を何ら講じていないのである。

3  次に,判示第1の強盗致傷等の各犯行について見ると,被告人は,通行人から金品を強取しようと企て,人目に付かない公園の公衆便所の近くにおいて,人が同便所に入るのを待ち伏せた。やがて,被告人は,被害者が同便所内に一人で入るのを認め,被害者から所持金品を奪おうと考え,被害者に対し,上記折り畳み式ナイフを示して脅迫し,金を出すように言ったところ,被害者がこれに応じなかったため,被害者に対し,その胸倉を掴んでコンクリートの床上に押し倒すなどの暴行を加えてその反抗を抑圧し,被害者から現金約1200円等を強取し,その際,上記暴行により,被害者に加療約1か月半を要する判示の傷害を負わせたものである。

このように,被告人は,面識のない76歳という高齢の被害者に対し,鋭利な刃物を示した上,粗暴な暴行を加えて金品を強取しているのであって,その犯行態様は,計画的かつ悪質である。被害者は,散歩の途中に立ち寄った人気のない公園の公衆便所内において,言われもなく手ひどい暴行を受けたのであって,被害者の年齢を考慮すると,その身体的な苦痛のみならず,精神的な恐怖感も大なるものがあったことは明らかである。しかも,被害者は,上記被害を受けた後,寝たきりの状態になり,その12日後に死亡するに至っているのであって,被告人の行為と被害者の死亡との間に法的な因果関係は認められないものの,被害者の息子が,当公判廷において,被害者の死亡と被告人の行為との間に因果関係がないと言われてもすっきりしない気持ちが残り,被告人には無期懲役あるいは死刑を望む旨証言し,厳重処罰を求めているのも,親族の情としては,誠に無理からぬものであるといわなければならない。しかるに,被告人は,被害者の遺族に対し,何ら慰謝の措置を講じていないのである。

4  また,判示第3の強盗傷人等の各犯行について見ると,被告人は,通行人から金員を強取しようと企て,G川の河川敷に行ったところ,16歳の高校生である被害者が同所に一人でいるのを認めた。そして,被告人は,被害者の容貌等を見て,被害者であれば,容易に金員を奪うことができると考え,被害者に対し,上記折り畳み式ナイフを示し,「金を貸してくれないか」などと幾度も話し掛けた。しかし,被害者がこれに応じようとしないで逃げ出したため,被告人は,被害者を追い掛け,追い付いた被害者に対し,判示の脅迫文言を申し向けてその反抗を抑圧し,被害者から現金約700円を強取した。さらに,被告人は,その場から逃走する際に,被害者の右大腿部を上記ナイフで1回突き刺し,被害者に全治約2週間を要する判示の傷害を負わせたものである。

このように,被告人は,未成年の被害者に対し,鋭利な刃物を示し,今にも突き刺さんばかりの激烈な脅迫文言を浴びせ掛けて現金を強取し,更にはその右大腿部をその刃物で突き刺すという危険な暴行まで加え,上記傷害を負わせているのであって,その犯行態様は,粗暴かつ悪質である。被害者は,高校の宿題であるバードウォッチングをするためにG川の河川敷に一人で来ていたところ,一面識もない被告人から突然に激しい脅迫及び暴行を受けたのであって,その身体的な苦痛のみならず,精神的な恐怖感も大なるものがあったというべきであり,被害者が被告人に対して厳重処罰を望んでいるのも当然である。しかるに,被告人は,被害者に対し,何ら慰謝の措置を講じていないのである。

5  さらに,判示第4の大麻取締法違反の犯行について見ると,被告人の述べるところによれば,被告人は,逮捕されるまでの約8か月間にわたり,大麻との関わりを有する中で,判示の大麻所持の犯行に及んだことが窺われ,所持に係る大麻の量も3.5グラム余りと少なくなく,大麻に対する親和性や依存性も認めることができ,大麻との結び付きも根深いものがある。

6  そして,判示各犯行に至る経緯等を見ると,被告人は,無為徒食の生活を続けているうちに,暴力団組員に声を掛けられ,暴力団組員の借りているアパートの一室に寝泊まりして,のみ行為の手伝い等をするようになったが,これにも嫌気が差し,同室から抜け出した。その後,被告人は,野宿生活をしていたが,寒さ等のためにカプセルホテルの宿泊代等に充てる金員が欲しいと思い,真面目に働いて金員を得るのではなく,安易にも所携の折り畳み式ナイフを使って面識のない通行人から金員を強取することを企てるに至ったのであって,その動機は,身勝手というほかなく,酌量の余地はない。また,被告人は,前述したように約10日間という短期間に,自分より弱い者を相手に,通り魔的に同種の犯行を繰り返し行い,人の死傷という重大な結果を発生させているにもかかわらず,人を刺すなどして負傷させたり,死亡させたりしたことについて,今一つ実感が湧かない旨を繰り返し供述しているのであって,自らの犯した罪の重さの認識が十分ではなく,真摯な反省の態度を窺うことはできない。さらに,判示の強盗殺人等の凶行は,一般の人の住居である団地内等において行われたものであって,社会一般や付近住民に与えた不安感も看過できないものがある。加えて,被告人には,平成10年10月に毒物及び劇物取締法違反の非行事実により保護観察処分を受け,その保護観察中であるにもかかわらず,本件各犯行に及んでいるのである。

7  以上の諸点に照らすと,本件の犯情は極めて悪く,被告人の刑事責任は誠に重大であるといわなければならない。

8  他方において,被告人のために酌むべき事情も存在する。すなわち,被告人が強盗致傷等の各犯行により強取した金品は,必ずしも多額ではない上,強盗殺人の犯行において,殺人の点については必ずしも計画的なものはなく,強盗致傷や強盗傷人の各犯行においても,各被害者を刺したり,押し倒したりして怪我を負わせたことについては偶発的な側面も存在する。また,被告人は,大麻取締法違反や各銃砲刀剣類所持等取締法違反の各犯行については,事実を素直に認めており,その他の強盗殺人等の各犯行についても,否認している部分はあるものの,大筋においては事実を認めている。さらに,被告人は,公判の最終段階に至り,十分とはいえないものの,反省の言葉を述べるようになり,強盗殺人の被害者の遺族にお詫びの手紙を書くなどしており,一応の反省の態度も見受けられる。そして,その遺族の一人が,この被告人の手紙に対し,被告人が十分に反省をしているとまでは思えず,2回しか刺した記憶がないとの被告人の弁解も納得できないが,被告人がこれを切っ掛けとしてその謝罪の気持ちをどのように表すのかを見守りたいなどとも述べ,被告人に対して一定の理解を示すには至っている。加えて,被告人は,本件各犯行当時,未だ19歳の未成年であり,前述したように,2歳の時に両親が離婚し,小学校3年生の時に親権者の母親に置き去りにされたのを始めとして,その後も,被告人が真面目に働こうとしなかったことが原因ではあるものの,2回にわたって,父親と母親から見捨てられたともいうべき体験を有しており,その生育歴において不遇な面が存在する。もとより,この点は,被告人とほぼ一緒に幼少期を過ごしてきた1歳年上の兄が,何ら犯罪を犯すことなく真面目に生活していることなどに照らすと,過大評価することはできないけれども,一定の同情をすべき事情であるということはでき,また,被告人は,公判段階においても,食べ物を食べられなかったり,人を刺す夢を見るなど,精神的に不安定な面も存するのであって,これらの事情が,被告人が本件各犯行に及んだ経緯に影響を与えたことは,否定できないところがある。

9  しかしながら,本件事案の重大性に鑑みると,以上のような被告人に有利な事情を最大限に斟酌しても,被告人に対しては,永く贖罪の途を歩ませるために,主文のとおり無期懲役に処するのが相当であると判断した次第である。

(裁判長裁判官 服部悟 裁判官 大西達夫 裁判官 一場修子)

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