東京地方裁判所 平成13年(特わ)4259号 判決 2002年10月15日
本籍
神戸市須磨区<以下省略>
住居
群馬県碓氷郡<以下省略>F方
職業
無職
X1ことX2こと
X
<生年月日省略>
上記の者に対する旅券法違反,有印私文書偽造,同行使被告事件について,当裁判所は,検察官中田和範,同西谷隆,同島根豪,私選弁護人川口和子(主任),同寒竹里江,同渡邉良平,同高木甫,同金井塚康弘各出席の上審理し,次のとおり判決する。
主文
被告人を懲役2年に処する。
未決勾留日数中180日をその刑に算入する。
この裁判の確定した日から4年間その刑の執行を猶予する。
押収してある履歴書3枚(平成14年押第226号の1,3,5),仮領収書1枚(同号の4)及び身元保証書1枚(同号の6)の各偽造部分を没収する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は,
第1C1株式会社に就職するに当たり,昭和59年3月23日ころ,大阪市内又はその周辺において,行使の目的をもって,ほしいままに,履歴書用紙の氏名欄に「X1」,本籍欄に「長野県」,生年月日欄に「昭和31年9月20日生」などとボールペン様のもので記載し,印欄に「X1′」と刻した丸印を押捺するなどし,もって,X1作成名義の履歴書1枚(平成14年押第226号の1)を偽造した上,昭和59年3月下旬ころ,大阪市大淀区(当時。平成元年2月13日に北区に行政区画変更)<以下省略>所在のC2ビル3階の同会社工場事務所において,同会社社員のW1に対し,前記のとおり偽造した履歴書1枚をあたかも真正に成立したものであるかのように装って,提出して行使し,
第2株式会社C3印刷研究所(当時。平成2年7月24日にC3′株式会社に商号変更)に就職するに当たり,昭和59年5月下旬ころから同年6月上旬ころまでの間,大阪市内又はその周辺において,行使の目的をもって,ほしいままに,履歴書用紙の氏名欄,本籍欄及び生年月日欄に,ボールペン様のものでそれぞれ上記第1と同一の記載をし,印欄に「X1′」と刻した丸印を押捺するなどし,もって,X1作成名義の履歴書1枚(平成14年押第226号の3)を偽造した上,そのころ,大阪市城東区<以下省略>所在の同会社事務所において,同会社代表取締役のW2に対し,前記のとおり偽造した履歴書1枚をあたかも真正に成立したものであるかのように装って,提出して行使し,
第3株式会社C3印刷研究所から自己の給与等を受領するに当たり,昭和59年9月18日ころ,上記第2所在の同会社事務所において,行使の目的をもって,ほしいままに,仮領収書と記載した便せんにボールペン様のもので「X1」などと記載し,その名下に「X1′」と刻した丸印を押捺するなどし,もって,X1作成名義の仮領収書1枚(平成14年押第226号の4)を偽造した上,その場で,同会社総務部長のW3に対し,前記のとおり偽造した仮領収書1枚をあたかも真正に成立したものであるかのように装って,提出して行使し,
第4C4工業株式会社(当時。平成元年4月1日にC4′株式会社に商号変更)に就職するに当たり,昭和59年9月19日ころ,大阪市内又はその周辺において,行使の目的をもって,ほしいままに,履歴書用紙の氏名欄,本籍欄及び生年月日欄に,ボールペン様のものでそれぞれ上記第1と同一の記載をし,印欄に「X1′」と刻した丸印を押捺するなどし,もって,X1作成名義の履歴書1枚(平成14年押第226号の5)を偽造した上,同月下旬ころ,大阪市浪速区<以下省略>所在の同会社事務所において,同会社製造課長のW4に対し,前記のとおり偽造した履歴書1枚をあたかも真正に成立したものであるかのように装って,提出して行使し,
第5P1と共謀の上,同女が株式会社C5大阪工場に就職するに当たり,昭和60年3月15日ころ,大阪府下又はその周辺において,行使の目的をもって,ほしいままに,身元保証書用紙の連帯保証人欄に「X1」,「30年9月20日生」などとボールペン様のもので記載し,その名下に「X1′」と刻した丸印を押捺するなどし,もって,X1作成名義の身元保証書1枚(平成14年押第226号の6)を偽造した上,P1が,昭和60年3月18日ころ,大阪府茨木市<以下省略>所在の同会社大阪工場において,同工場製造部部品課パイプ加工班作業長のW5に対し,前記のとおり偽造した身元保証書1枚をあたかも真正に成立したものであるかのように装って,提出して行使し,
第6昭和63年8月当時国外にいたが,同月6日,外務大臣から,著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由がある者であることが一般旅券を被告人に交付した後に判明したとして,官報第18437号をもって,同月31日までに自己(X2)名義の一般旅券(昭和62年9月1日発行。旅券番号ME9571962)を最寄りの在外公館又は外務大臣に返納するように命じられたにもかかわらず,前記返納期限内に返納しなかった。
(証拠の標目)
<省略>
(補足説明)
第1旅券返納命令の有効性,適法性について
1 弁護人の主張
弁護人は,外務大臣が被告人に対して発出した昭和63年8月6日付け一般旅券の返納命令(以下「本件旅券返納命令」という。)の根拠は事実無根であり,被告人について平成元年法律第23号による改正前の旅券法(以下単に「旅券法」という。)13条1項5号の「外務大臣において,著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」(以下「利益公安条項」という。)に該当するとした外務大臣の認定は,信用性のない資料等に基づくものであって,本件旅券返納命令には裁量権逸脱の違法がある旨主張し,被告人も,公判廷において,利益公安条項に該当するような行為を行ったことはない旨供述しているので,検討する。
2 認定事実
第2回公判調書中の証人W6及び同W7の各供述部分,検察事務官作成の資料複製報告書3通(甲164ないし166。ただし,甲166は非供述証拠)等の関係証拠によれば,以下の事実を認めることができる(国名,都市名等は当時のものであり,かつ,証拠に従った略称を用いることがある。)。
(1) 外務当局の認定及びそれに基づく本件旅券返納命令の発出
外務当局は,昭和60年代に国際テロ対策が先進諸国の政治課題となっていた状況下で,昭和63年夏ころまでの朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」という。),日本赤軍,よど号ハイジャック事件の実行犯(以下「よど号グループ」という。)等をめぐる情報を基に,北朝鮮,日本赤軍及びよど号グループが,同年9月に大韓民国(以下「韓国」という。)のソウルで開催されるオリンピック(以下「ソウルオリンピック」という。)を標的とするテロ事件等を惹き起こす懸念があり,かつ,被告人を含む日本人女性6名が,以前から,種々の工作活動等に従事していたとみられる北朝鮮の情報機関員(以下「北朝鮮の工作員」という。)であるS1と接触しており,その指示の下でテロの実行に向けた支援,連絡等種々の活動を行うおそれがあると判断し,前記6名に対し,日本国外における活動を封ずるため,法務大臣との協議を経た上,利益公安条項に該当する事由があると認定して,旅券返納命令を発することとした。
そして,被告人については,昭和63年6月14日に日本を出国した後帰国しておらず,国内における調査及び在外公館による調査によっても,その所在が不明であったことから,外務大臣は,旅券法19条の2第1項に基づき,旅券返納命令の通知に代えて,被告人に対し同年8月31日までに旅券を最寄りの在外公館又は外務大臣に返納することを命じる旨の旅券返納命令の内容を同月6日付け官報第18437号(以下「本件官報」という。)に掲載した上,そのころ,在ユーゴスラビア連邦共和国(以下「ユーゴスラビア」という。)日本国大使館を含む165の在外公館の領事官に対しその旨通報し,領事官に旅券返納命令の内容を掲示させた。
(2) 外務当局が上記認定に当たって基礎とした資料
ア 本件旅券返納命令に先立ち,外務省が警察庁から通知を受けた情報
外務大臣官房領事移住部旅券課長は,昭和63年7月下旬までに,警察庁警備局外事課長から,警察庁が某国(西欧の一国家。国名は警察庁から外務省へ通知されたが,関係証人が某国との信頼関係を害するとして国名を明らかにしないため,以下「A国」という。)から入手していた情報や国内において捜査した結果等に基づく通知を公式及び非公式に受けた。その概要は,以下のとおりである。
(ア) 上記通知のうち総括的部分
昭和59年及び昭和62年の2回にわたりA国治安当局から警察庁に提供された情報(以下「A国情報」という。)や,国内における捜査結果等により,被告人,P2,P3,P4,P5及びP1の6名(以下「日本人女性グループ」という。)は,いずれも日本政府発行の一般旅券の発給を受けて海外渡航を頻繁に繰り返し,北朝鮮の工作員であるS1らの指示の下で,日本国内及び国外において活動を行っている上,よど号グループ(Q1,Q2,Q3ら)との接点を有し,日本赤軍(R1,R2,R3ら)との関連もあることが判明した。
(イ) 上記通知のうちS1に関する部分
A国情報等を総合した結果,北朝鮮の工作員であるS1は,北朝鮮国外における情報活動,秘密工作活動や韓国に派遣する特殊工作員の養成訓練等を任務とする朝鮮労働党連絡部の欧州地区担当幹部で,昭和53年以降,在デンマーク,在ユーゴスラビア各北朝鮮大使館に勤務し,昭和56年からは,ユーゴスラビアのザグレブ所在の北朝鮮総領事館に副領事として勤務していた者であり,流暢な日本語を用い,自分の支配下にあった日本人女性グループに指示を与えて情報収集活動を行わせ,日本人の工作員候補者を探し出すことなどをさせようとしていたとみられる上,昭和57年3月14日には,偽造された「UTSUNOMIYA OSAMU」名義の日本旅券を所持していたことが判明した。
(ウ) 上記通知のうち日本人女性グループとS1との接触状況等に関する部分
A国情報により,S1は,昭和56年以降,主としてデンマークのコペンハーゲンにおいて,日本人女性グループのそれぞれと秘匿性の高い方法で接触していたことが判明した。
すなわち,S1は,昭和56年11月21日にコペンハーゲンでP2と接触して(これを撮影した写真がある。),ともに東ベルリンへ出国したのをはじめとし,昭和57年2月6日にコペンハーゲンでP3と接触して,東ベルリン経由でモスクワへ出国した上,昭和58年6月25日にコペンハーゲンでP3と接触し,翌日「KIM夫妻」と称して,ともにベオグラードへ出国し,昭和57年3月15日にP4及びP5がコペンハーゲンからモスクワ経由でピョンヤンへ向かった際,その前日に両名と接触し(その際「UTSUNOMIYA OSAMU」名義の日本旅券を所持してホテルに宿泊した。),同月17日にP1及び「YAMATA Jera」と名乗る男とともにコペンハーゲンから東ベルリンへ出国し(これを撮影した写真がある。),同年11月28日にコペンハーゲンでP4と接触して,ともに東ベルリンへ出国し,同年12月12日にコペンハーゲンでP1と接触して,ともに東ベルリンへ出国し,昭和58年1月にP1と接触していた。
そして,A国情報により,被告人は,昭和57年3月6日にコペンハーゲンでS1と接触し,ともにユーゴスラビアのザグレブへ出国したばかりでなく,その後他国(A国と同様の事情から以下「B国」という。)からもたらされた情報により,昭和63年6月17日には,キム・ヘイジャ(KIM HYEJA)名義の北朝鮮外交官旅券を所持して,在ザグレブ北朝鮮総領事館副領事でS1の後継者となる北朝鮮の工作員と目されるS2とともにオーストリアからユーゴスラビアへ出国したことが判明した。
また,日本人女性グループの身上・経歴を調査したところ,日本人女性グループのうち,被告人を含む5名については,日本において北朝鮮やチュチェ(主体)思想に強い関心を示して活動していた経歴を有し,その余の1名についても,連合赤軍による浅間山荘事件の犯人の子供を預かるなどの経歴を有していることが判明し,日本人女性グループの各出帰国記録を調査したところ,昭和50年以降,何回も海外渡航を繰り返していたことが判明した。
さらに,昭和63年5月25日に神奈川県警察本部がP3を有印私文書偽造,同行使罪(他人名義による借室契約)で逮捕して,取り調べた結果,同女は,海外でS1とみられる男(ただし,P3は「劉」と名乗る中国人と供述。)と少なくとも十数回接触し,同人から横須賀における自衛隊員,米国軍人等の人定,所属等の調査等を依頼され,合計約600万円分の金を受け取っていたことが判明した。
(エ) 上記通知のうちよど号グループとの接点に関する部分
上記(ウ)のとおり,P1は,昭和57年3月17日,S1及び「YAMATA Jera」と名乗る男とともにコペンハーゲンから東ベルリンへ出国したが,その際に撮影された写真を科学捜査研究所において鑑定したところ,「YAMATA Jera」と名乗る男はよど号グループのQ1であることが判明した。
また,P3に対する有印私文書偽造等被疑事件の捜査の結果,同女がよど号グループのQ3やQ2と関連を有していることを示す資料が複数発見された(P3から押収した手帳に,Q3から押収したメモに書かれていた高校生2名に関する記載があったことなど。)。
以上から,被告人を含む日本人女性グループは,よど号グループとの接点を有するものと考えられる。
(オ) 上記通知のうち日本赤軍との関連に関する部分
調査の結果,Q1が使用した「YAMATA Jera」名義の日本旅券は,偽造日本旅券であったが,この旅券の旅券番号(MG2747385)は,日本赤軍のメンバーであるR2が使用した偽造日本旅券(旅券番号MG2747361)及び同メンバーであるR1が所持していた偽造日本旅券(旅券番号MG2747317)の各旅券番号と近接していることが明らかになった。
また,A国情報により,S1が昭和56年12月12日にデンマークで「OGAWEStaio」と名乗る男と接触して,ともに出国したことが判明したところ,調査の結果,「OGAWE Staio」と名乗る男が使用した日本旅券も,偽造日本旅券であり,その旅券番号(MG0209123)は,日本赤軍のメンバーであるR3が使用していたとみられる偽造日本旅券の旅券番号(MG0209115)と近接していることが明らかになった。
以上から,被告人を含む日本人女性グループは,日本赤軍のメンバーとも関連を有するものと考えられる。
(カ) 上記通知のうち北朝鮮の工作員の犯行とみられる韓国に対するテロ事件等に関する部分
警察庁が把握したところでは,北朝鮮によるものとみられる韓国大統領を狙ったテロ事件として,昭和33年1月21日の大統領官邸襲撃未遂事件,昭和45年6月22日の国立墓地顕忠門爆破事件,昭和57年2月25日のカナダ事件があったほか,昭和58年10月9日,3名の北朝鮮の工作員がビルマのラングーンに船員上陸を装って上陸した後,北朝鮮大使館員宅に潜伏し,ビルマを訪問中のチョン・ドファン(全斗煥)韓国大統領が国立墓地を訪れる際に爆発させることを狙って,国立墓地アウンサン廟の天井に爆弾を仕掛けたところ,大統領が到着する前に爆発したため,先に到着していた韓国閣僚等21名が死亡し,47名が負傷したというラングーン事件が発生した。この事件について,ビルマ捜査当局は,犯人3名を逮捕し,北朝鮮の工作員による犯行という公式発表をした。また,北朝鮮によるものとみられるテロ事件として,昭和62年11月29日,バグダッド発アブダビ,バンコク経由ソウル行きの大韓航空機858便が,朝鮮労働党中央委員会調査部に所属し偽造日本旅券を所持していた北朝鮮の特殊工作員2名の仕掛けた時限爆弾によりベンガル湾上空で爆破されて墜落したという大韓航空機爆破事件が発生した。韓国捜査当局が明らかにしたところによれば,犯人の1人Hは,ピョンヤンの工作員訓練所において,Vという日本人女性から日本語や日本の風習,生活様式等の指導を受けていたが,Vは,昭和52年ころから昭和55年ころにかけて日本の沿岸部等で多数発生した北朝鮮の工作員によるものとみられる日本人拉致事件の被害者の1人と考えられる。
また,韓国当局の発表によれば,昭和55年以降に限っても,北朝鮮の工作員による韓国における武装ゲリラ事件が度々発生していた。
イ 外務省が把握した日本赤軍及びよど号グループの動向
外務省が把握したところでは,昭和61年5月,日本赤軍のメンバーとされるR4がオランダの空港で爆発物を所持しているところを逮捕され(同人は,国外退去処分を受けて帰国したものの,まもなく出国して所在不明になった。),このころ,インドネシアでも日本赤軍のメンバーによる爆弾事件が起きた。また,昭和62年春ころ,イタリアでも同様の事件があり,同年秋には,日本赤軍のメンバーであるR1が日本国内で逮捕され,その際,同人がサマランチ会長を暗殺することやソウルオリンピックを血の海にすることを内容とするメモを飲み込もうとしたため,日本赤軍がソウルオリンピックをテロの標的としていたことが明らかになった。さらに,昭和63年4月ころ,再びR4がアメリカ合衆国で爆弾を所持しているところを逮捕され,同じころ,日本赤軍のメンバーであるR2がフィリピンで逮捕され,他方,よど号グループのQ3も,同年5月ころ,日本国内にいるところを逮捕された。
(3) A国情報の信頼性に係る事情
外務当局が警察庁から受けた通知の内容を信頼できると判断した根拠等として,以下の事情を指摘することができる。
ア 上記(2)の主要な情報を提供をしたA国は,以前より日本の警察当局との間で情報交換を行っていた国であり,それまでの情報も十分信頼できるものであった上,A国から提供された情報は,その内容の正確性,信頼性に疑いがある場合にはその旨の留保(クレジット)を付してくるのが通常であったところ,昭和59年及び昭和62年のA国情報は,このような留保なしに提供されたものであったし,そもそもA国は北朝鮮及び韓国のいずれとも国交を有する中立的な国であって,日本に虚偽の情報を提供して判断を誤らせる動機もなく,その内容を見ても,宿泊ホテルや所持していた旅券の番号が特定され,一部には写真が付されているなど相当程度の具体性があった。
イ また,A国情報は,以下のとおり,警察の国内における捜査等の結果や,他の国から警察庁に提供された関連情報,さらには外務省が在外公館を通じるなどして独自に収集した情報によって裏付けられていたか,少なくともこれらと矛盾しないものであった。
(ア) A国情報のうち,S1が北朝鮮の工作員であるという点については,同人が在ザグレブ北朝鮮総領事館副領事でありながら,西欧地域で広範に活動し,日本人女性グループと秘匿性の高い方法で繰り返し接触し,偽造旅券を用いたり,偽造旅券を用いる者を同行したりしていたという内容自体からも信頼性があるばかりでなく,P3が,昭和63年5月に逮捕された後に,警察官の取調べに対し,昭和56年夏にコペンハーゲンで劉と名乗る中国人商人の男と出会い,その後同人と海外で少なくとも十数回接触し,一緒に東ベルリン,モスクワ,ベオグラードへ旅行したこと,同人から,シンガポール,日本等における写真撮影,書籍購入(地図,防衛白書,警察白書等)等の調査活動を行うように依頼され,特に横須賀で自衛隊員等に関する情報収集をするように指示されたばかりでなく,P3の知人の氏名,生年月日,性格,家庭環境等をできるだけ多く調べるように指示されて,これに応じたこと,同人から謝礼として合計約600万円分の金を受け取ったこと,同人から,写真を撮るときはマニアを装い,指示されたメモは用が済んだ後細かく破って捨てろなどと細かく注意されていたことなどを供述した上,P3の住居から自衛隊員に関するメモ等これを裏付ける資料が発見されたところ,劉とP3との関係が供述どおりとすれば,単なる商取引や雇用上の関係ではなく,また,劉はA国情報にいうS1と考えられたことから,A国情報は,P3の警察官の取調べに対する供述等によって裏付けられていた。
(イ) A国情報のうち,S1が海外で日本人女性グループと何回も接触していたという点については,P3の警察官の取調べに対する供述のほか,警察庁が調査した日本人女性グループの各出帰国記録の内容と矛盾がなく,いずれも北朝鮮や極左グループと親和性を有するという日本人女性グループの各経歴とも符合していた。
(ウ) 警察庁によれば,A国以外の国からもA国情報と類似の情報が提供されており,かつ,他の諸国からA国情報に反する情報が寄せられたことはなかった。
(エ) 上記(2)ア(ウ)のとおり,B国からは,昭和63年6月17日に被告人が北朝鮮外交官旅券を所持して,S1の後継者と目されるS2とともにオーストリアからユーゴスラビアへ出国したという情報提供がなされ,外務省は在オーストリア日本国大使館を通じてこれを把握していたところ,この情報はA国情報と符合し,その延長線上にある情報であった。
(オ) また,外務省が在外公館を通じるなどして独自に調査した結果,A国情報にあったホテル滞在の事実のいくつかについては,裏付けが取れ,また,逮捕されたP3を除く日本人女性5名は,在留届(旅券法16条)を提出しないまま海外にいるものと考えられたが,P4については,昭和63年4月末ころオーストリアからハンガリーへ出国した事実が判明し,依然日本人女性グループの海外における活発な活動が見られたこともA国情報と符合する事情であった。
3 当裁判所の判断
外務当局が本件旅券返納命令発出当時にその認定に当たって基礎とした上記2(2)の資料及びA国情報の信頼性に係る上記2(3)の事情を基に検討すると,外務大臣が,A国情報に信頼性があると認めた上,A国情報を中心とする警察庁からの通知及び外務省が把握した情報に基づき,昭和57年以降被告人を含む日本人女性グループが北朝鮮の工作員の指示の下で日本国内及び国外において活動し,よど号グループとの接点ばかりでなく日本赤軍とも関連を有していたと判断するとともに,昭和62年11月に北朝鮮によるものとみられる大韓航空機爆破事件が発生したこと,日本赤軍がソウルオリンピックをテロの標的としていたこと,よど号グループが北朝鮮国外において活動していたことなど,昭和63年9月に開催されるソウルオリンピックを前にした北朝鮮,日本赤軍及びよど号グループの活動状況に鑑み,被告人が北朝鮮の工作員の指示の下で北朝鮮,日本赤軍又はよど号グループのテロの実行に向けた支援,連絡等種々の活動を行うおそれがあると判断して,被告人につき最終旅券発行日の昭和62年9月1日時点から利益公安条項に該当する事由があったと認定したことには,合理性を認めることができる。そうすると,被告人に対する本件旅券返納命令に重大かつ明白な瑕疵がなかったことは勿論,外務大臣の認定に裁量権の逸脱又は濫用の違法もなかったというべきである。
ところで,本件官報には,被告人の旅券申請上の住所について,「群馬県碓氷郡<以下省略>」とすべきところ,「群馬県碓井郡<以下省略>」と記載した誤記があり,氏名について,戸籍上は当時「X2」であるところ,被告人自身が書いた旅券申請上の表記に基づき「X2′」と記載したことが認められるが,群馬県には碓氷郡のほかに碓井郡は存在しない上,被告人の住所の町名以下の記載には誤りがなかったこと,「惠」は「恵」の旧字体にすぎず,戸籍上旧字体であっても日常生活では簡略な新字体を用いることがよくあること,現に被告人自身が旅券申請に当たり新字体を用いていたことのほか,被告人の生年月日の記載に誤りがなく,旅券番号等旅券の特定事項の記載にも誤りがなかったことなどに照らせば,旅券返納命令の名宛人及び返納すべき旅券の特定は十分というべきであるから,名宛人である被告人が自分に対する旅券返納命令であり,かつ,対象旅券が自ら所持している旅券であると認識することは容易であったと認められ,本件旅券返納命令が手続的にも有効かつ適法であったことは明らかである。
第2旅券返納の可能性について
1 弁護人の主張
弁護人は,被告人が昭和63年8月20日過ぎころには本件旅券返納命令が官報に掲載されたことを認識していた点については争わないものの,本件官報には上記のとおりの誤記があって,被告人は本当に自分に対して発出された返納命令であるか否かを確認する必要があると考えていたのであり,この確認が未了のまま返納期限(同月31日)までに旅券を返納することは,海外渡航に必要不可欠な身分証明書を手放すことにほかならず,このことは,当時よど号グループのQ4の妻で,同人との間に娘がいて同人らと一緒に北朝鮮に居住していた被告人が北朝鮮へ再入国できなくなることを意味したのであるから,被告人が本件旅券返納命令に応じて旅券を返納することは不可能であったか極めて困難であって,適法行為の期待可能性がなかった旨主張し,被告人もこれに沿う供述をするので,検討する。
2 認定事実及び当裁判所の判断
被告人の公判廷における供述を含む関係証拠によれば,被告人は,ユーゴスラビア滞在中の昭和63年8月20日過ぎころ,知人から本件旅券返納命令が発出されていることを知らされ,同月27日ないし28日ころ,本件官報の写しを入手し,閲読したこと,本件旅券返納命令に係る記載には上記のとおり住所の記載に誤記があったものの,この旅券返納命令は自分に対するものであると認識したこと,その当時,返納の対象となった旅券を被告人自身が所持していたこと,被告人は,外務大臣に対し,本当に自分に対する返納命令であるか否かの回答を同年10月5日の官報に掲載することを求める同年8月29日付けの手紙を郵送したこと,本件官報には返納先は最寄りの在外公館又は外務大臣である旨が明記されており,当時,ユーゴスラビアのベオグラードには日本国大使館があったことが認められるのであり,これらの各事実によれば,返納の意思さえあれば,被告人が返納期限の同月31日までに旅券を在ベオグラード日本大使館等に返納することは可能であったというべきである。そうすると,被告人に適法行為の期待可能性がなかったとはいうことはできない。
(法令の適用)
被告人の判示第1ないし第4の各所為のうち各有印私文書偽造の点はいずれも平成7年法律第91号附則2条1項本文により同法による改正前の刑法(以下「改正前の刑法」という。)159条1項に,各偽造有印私文書行使の点はいずれも同法161条1項,159条1項に,判示第5の所為のうち有印私文書偽造の点は同法60条,159条1項に,偽造有印私文書行使の点は同法60条,161条1項,159条1項に,判示第6の所為は平成元年法律第23号附則7条により同法による改正前の旅券法24条,23条1項4号,19条1項1号,13条1項5号にそれぞれ該当するところ,判示第1ないし第5の各有印私文書偽造と各偽造有印私文書行使との間にはそれぞれ手段結果の関係があるので,改正前の刑法54条1項後段,10条によりいずれも1罪として犯情の重い偽造有印私文書行使罪の刑で処断することとし,判示第6の罪について所定刑中懲役刑を選択し,以上は同法45条前段の併合罪であるから,同法47条本文,10条により刑及び犯情の最も重い判示第5の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役2年に処し,同法21条を適用して未決勾留日数中180日をその刑に算入し,情状により同法25条1項を適用してこの裁判の確定した日から4年間その刑の執行を猶予し,押収してある履歴書3枚(平成14年押第226号の1,3,5),仮領収書1枚(同号の4)及び保証書1枚(同号の6)の各偽造部分は,それぞれ判示第1,第2,第4,第3,第5の各偽造有印私文書行使の犯罪行為を組成した物で,何人の所有をも許さないものであるから,同法19条1項1号,2項本文を適用してこれらを没収し,訴訟費用については,刑事訴訟法181条1項本文により全部これを被告人に負担させることとする。
(量刑の理由)
1 本件は,北朝鮮から日本に戻っていた被告人が,大阪市所在の3つの会社に就職するに当たり,いずれも他人名義の履歴書を偽造した上,会社の担当者に提出して行使し(判示第1,第2,第4の各事実),その間,2番目の会社から給料等を受領するに当たり,他人名義の仮領収書を偽造した上,会社の担当者に提出して行使し(判示第3の事実),仲間のP1が他人名義で大阪府茨木市所在の会社に就職するに当たり,同女と共謀して,被告人が他人名義の身元保証書を偽造した上,P1が会社の担当者に提出して行使した(判示第5の事実)という一連の有印私文書偽造,同行使の事案のほか,一般旅券を所持して日本国外にいた被告人が,外務大臣から旅券の返納命令を受けたにもかかわらず,期限までに返納しなかったという旅券法違反の事案(判示第6の事実)である。
2 一連の有印私文書偽造,同行使について見ると,被告人は,氏名だけでなく経歴等も偽り,作成名義人どおりの他人になりすまして,約1年の間に連続的に,しかも計画的に犯行に及んだのであり,偽造された文書がいずれも社会生活上重要な機能を有する事実証明文書であることに鑑みると,各文書の社会的信用を害した被告人の行為に対しては,非難を免れない。
旅券法違反について見ると,当時ユーゴスラビアにいた被告人は,旅券返納命令に従うことが可能であったのに,自分の連絡先を明らかにすることもせずに外務大臣宛の手紙を送り付けただけで,返納期限を徒過させ,その後も長期間にわたり,旅券を返納しないまま海外に在留したことからすると,少なからぬ非難に値するというべきである。
3 ところで,被告人自身が公判廷において認めているとおり,被告人は,昭和52年に親族に対し行き先も告げずに出国し,その後,北朝鮮へ入国して,よど号グループのQ4の妻になり,ピョンヤン郊外を本拠として,よど号グループの他のメンバーや日本人女性グループとともに生活を続けながら,昭和63年までの間に,ヨーロッパへ行って,北朝鮮の外交官と接触を持ち,昭和58年から昭和63年にかけて,親族にも知らせずに何度も日本に帰国していたのであり,本件各犯行は,これらの事実と決して無関係ではなく,他の関係証拠をも併せ考えれば,被告人が日本人女性グループの一員として北朝鮮の工作員の指導の下で工作活動に関与し,その一環として本件各犯行を敢行したことは間違いないところであるが,しかし,本件の審理の過程において,被告人が本件各訴因のほかに何らかの犯罪構成要件に該当する行為に及んだという事実が立証されているわけではなく,起訴されていない犯罪事実を実質上処罰する趣旨で重い刑罰を科することが許されないこととの対比からすると,犯罪にすらならない事情を量刑上考慮するには自ずから限度があり,被告人が日本人女性グループの一員として工作活動に関与していたからといって,この点を本件の量刑に当たり重視することはできない。
4 一方,一連の有印私文書偽造,同行使については,これによって各会社に経済的な実害を生じさせたとは認め難く,既に,現時点で17年を超える歳月が経過して,処罰価値も低下していると考えられること,被告人が各有印私文書偽造,同行使を行ったことに対し反省の弁を述べていること,旅券法違反については,当時これに応じれば北朝鮮にいるQ4及び娘と同居できなくなる可能性があったこと,平成13年7月に至り,返納の対象となった旅券を弁護士らを通じて外務大臣に返納したこと,被告人に前科前歴がないことなどの事情が認められる。
5 そこで,これらの諸事情を勘案して,被告人に対しては,主文の刑を科した上,その刑の執行を猶予するのが相当であると判断した。
(求刑 懲役2年,各偽造文書の各偽造部分の没収)
(裁判長裁判官 山室惠 裁判官 田中聖浩 裁判官 坂田正史)