東京地方裁判所 平成13年(行ウ)132号 判決 2004年4月13日
原告 X1 ほか12名
被告 総務省人事・恩給局長
代理人 澁谷勝海 池原桃子 笹野和夫 志村陽子 ほか3名
主文
1 X11の訴えを却下する。
2 その余の原告らの請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1請求
1 原告X1(平成13年(行ウ)第110号)
被告が原告X1に対し平成10年5月12日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
2 原告X2(平成13年(行ウ)第132号)
被告が原告X2に対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
3 原告X3(平成13年(行ウ)第133号)
被告が原告X3に対し平成10年5月12日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
4 原告X4(平成13年(行ウ)第134号)
被告が原告X4に対し平成10年10月16日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
5 原告X5(平成13年(行ウ)第135号)
被告が原告X5に対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
6 原告X6(平成13年(行ウ)第136号)
被告が原告X6に対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
7 原告X7(平成13年(行ウ)第137号)
被告が原告X7に対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
8 原告X8(平成13年(行ウ)第138号)
被告が原告X8に対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
9 原告X9(平成13年(行ウ)第139号)
被告が原告X9に対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
10 原告X10(平成13年(行ウ)第140号)
被告が原告X10に対し平成10年10月12日付けでした普通恩給改定請求棄却処分を取り消す。
11 原告X11(平成13年(行ウ)第141号)
被告が亡aに対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
12 原告X12(平成13年(行ウ)第142号)
被告がX12に対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
13 原告X13(平成13年(行ウ)第143号)
被告がX13に対し平成10年8月20日付けでした恩給請求棄却処分を取り消す。
第2事案の概要
1 事案の要旨
本件は、原告X11を除く原告ら及び原告X11の亡夫a(以下「本件旧軍人ら」という。)が被告に対してした各恩給請求(原告X10については普通恩給改定請求。以下「本件各請求」という。)につき、被告がこれらをいずれも棄却する処分(以下「本件各処分」という)をしたことに対し、本件各処分は、本件旧軍人らが昭和21年3月に現役除隊や召集解除等となったことを前提とした処分であり、本件旧軍人らがそれ以降も日本軍の命令に基づき山西省に残留したことを前提としていない点で誤りがある違法な処分であると主張して、原告らが被告に対し本件各処分の取消しを求める事案である。
なお、原告らは本件各処分は被告がしたものと主張しているところ、本件各処分は総務庁恩給局長(当時)がしたもので、被告は平成13年1月6日にその権限を承継したものにすぎない。もっともこの点につき当事者双方から何らの主張もないので、本判決では原告の主張どおり表示した。
2 法律の定め等
(1) 旧軍人普通恩給の支給要件について
旧軍人普通恩給は、准士官以上の場合は旧軍人(昭和21年法律第31号による改正前の恩給法(以下「旧恩給法」という。)21条に規定する軍人、すなわち、陸軍又は海軍の現役、予備役又は補充兵役にある者をいう。)として13年以上又は下士官以下の場合は旧軍人として12年以上在職し、失格原因がなくて退職し、かつ、退職後恩給法に規定する普通恩給を受ける権利を失うべき事由に該当しなかった場合に給されるものである(昭和28年法律第155号(以下「28年法」という。)附則10条、旧恩給法61条及び61条の2等)。
(2) 在職年について
在職年は、就職の月から起算し、退職又は死亡の月をもって終わることとされているが(法28条)、旧恩給法等においては、在職年につき、加算年(加算事由の生じた月からその事由の止んだ月までの期間である実在職年に従として算入されるもの。旧恩給法40条1項)に関する規定があり(旧恩給法32条ないし39条等)、旧軍人においても、実在職年に加算年を合算した年月数が在職年となる(28年法附則24条4項、旧恩給法40条1項)。
また、2種以上の加算年を付すことができる期間については、最も利益なる加算年を付すこととしている(旧恩給法40条3項)。
旧恩給法に規定されている加算には、いくつかの種類があるが、本件旧軍人らに関係する加算は、「戦時加算」(戦争又は戦争に準ずべき事変に際し、職務をもって戦務に服した場合の加算。旧恩給法32条等)、「外国擾乱地加算」(外国の交戦又は擾乱の地域内において、危険を顧みず職務をもって勤務した場合の加算。なお、支那事変に係る加算はいわゆる事変地勤務加算と呼称している。旧恩給法33条等)及び「外国鎮戍加算」(外国鎮守に服した場合の加算。旧恩給法35条)であり、また、それぞれの加算が付される要件及び加算の程度等は、旧恩給法及び昭和23年政令第359号による廃止前の恩給法施行令等に具体的に定められている。
3 前提事実(認定根拠を掲記しない事実は当事者間に争いがない。)
(1) 当事者等
本件旧軍人らは、いずれも、昭和16年から20年にかけて現役兵として日本軍に入隊ないし入営し、中国山西省で北支派遣軍第一軍に所属している間に終戦を迎えた元軍人である。
(2) 本件旧軍人らの軍歴等
(ア) 原告X1
原告X1は、昭和19年11月1日、現役兵として歩兵第154連隊補充隊に入営し、同月9日下関港を出帆し、同日釜山に上陸し、同月11日当時の鮮満国境(以下単に「鮮満国境」という。)を通過し、同月13日当時の満支国境(以下単に「満支国境」という。)を通過し、以後当時の中華民国(以下単に「中華民国」という。)において軍務に服した。同人は、昭和29年9月27日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X1は、兵籍上、昭和21年3月15日に現役満期除隊となっており、当時、陸軍上等兵であった。
(イ) 原告X2
原告X2は、昭和17年2月20日、現役兵として歩兵第45連隊補充隊に入営し、同年3月3日門司港を出帆し、同月4日釜山に上陸し、同月5日鮮満国境を通過し、同月7日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和18年11月30日に現役満期となり、同年12月1日に予備役に編入され、同日臨時召集により引き続き中華民国において軍務に服した。同人は、昭和31年8月1日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X2は、兵籍上、昭和21年3月15日に召集解除となっており、当時、陸軍中尉であった。
(ウ) 原告X3
原告X3は、昭和19年11月1日、現役兵として歩兵第111連隊補充隊に入営し、同月9日博多港を出帆し、同日釜山港に上陸し、同月11日鮮満国境を通過し、同月12日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和28年7月8日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X3は、兵籍上、昭和21年3月15日、現役満期除隊となっており、当時、陸軍衛生上等兵であった。
(エ) 原告X4
原告X4は、昭和20年3月2日、現役兵として野戦重砲兵第5連隊補充隊に入隊し、同月19日博多港を出港し、同日釜山に上陸し、同月21日鮮満国境を通過し、同月23日山海関(満支国境)を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和29年9月27日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X4は、兵籍上、昭和21年3月21日、現役除隊となっており、当時、陸軍兵長であった。
(オ) 原告X5
原告X5は、昭和17年12月1日、現役兵として歩兵第130連隊に入営し、同月12日門司港を出帆し、同日釜山港に上陸し、同月14日鮮満国境を通過し、同月15日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和29年9月27日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X5は、兵籍上、昭和21年3月20日、現役除隊となっており、当時、陸軍兵長であった。
(カ) 原告X6
原告X6は、昭和19年11月15日、現役兵として第2師団通信隊補充隊に入営し、同月25日博多港を出帆し、同日釜山に上陸し、同月27日鮮満国境を通過し、同月29日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和29年9月27日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X6は、兵籍上、昭和21年3月20日、現役現地除隊となっており、当時、陸軍上等兵であった。
(キ) 原告X7
原告X7は、昭和20年3月23日、現役兵として歩兵第4連隊補充隊に入営し、同月31日博多港を出帆し、同日釜山港に上陸し、同年4月2日鮮満国境を通過し、同月3日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和29年9月27日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X7は、兵籍上、昭和21年3月20日、現地除隊となっており、当時、陸軍衛生一等兵であった。
(ク) 原告X8
原告X8は、昭和17年2月1日、現役兵として歩兵第4連隊補充隊に入営し、同年12月1日門司港を出帆し、同月2日釜山港に上陸し、同月4日鮮満国境を通過し、同月7日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和18年11月30日現役満期となり、同年12月1日予備隊に編入され、同日臨時召集により引き続き中華民国において軍務に服した。同人は、昭和31年8月1日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X8は、現在その兵籍を管理している宮城県知事において、昭和21年3月20日に復員したこととされており、同人は、当時、陸軍中尉であった。
(ケ) 原告X9
原告X9は、昭和19年11月15日、現役兵として歩兵第16連隊補充隊に入営し、同月25日博多港を出帆し、同日釜山港に上陸し、同月27日鮮満国境を通過し、同月28日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和29年9月27日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X9は、兵籍上、昭和21年3月15日、現役現地除隊となっており、当時、陸軍兵長であった。
(コ) 原告X10
原告X10は、昭和16年12月1日、現役兵として歩兵第16連隊に入営し、同月10日宇品港を出帆し、同月12日釜山港に上陸し、同月14日鮮満国境を通過し、同月16日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和18年11月30日現役満期となり、同年12月1日予備隊に編入され、同日臨時召集により引き続き中華民国において軍務に服した。同人は、昭和31年9月5日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X10は、兵籍上、昭和21年3月15日、召集解除となっており、当時、陸軍中尉であった。
(サ) a
亡aは、昭和17年2月20日、現役兵として歩兵第153連隊第13中隊に入営し、同年3月6日宇品港を出帆し、同月8日釜山港に上陸し、同月10日鮮満国境を通過し、同月11日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和23年9月30日佐世保港に上陸し帰国した。
亡aは、兵籍上、昭和21年3月15日、召集解除となっており、当時、陸軍伍長であった。
(シ) 原告X12
原告X12は、昭和18年1月20日、現役兵として野砲兵第14連隊補充隊に入営し、同月31日下関港を出帆し、同日釜山港に上陸し、同年2月3日鮮満国境を通過し、同日山海関(満支国境)を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和19年9月30日現役満期除隊し、同日臨時召集により引き続き中華民国において軍務に服した。
同人は、昭和29年9月27日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X12は、兵籍上、昭和21年3月15日、召集解除となっており、当時、陸軍軍曹であった。
(ス) 原告X13
原告X13は、昭和17年12月1日、現役兵として歩兵第130連隊に入営し、同月12日下関港を出帆し、同日釜山港に上陸し、同月14日鮮満国境を通過し、同月15日満支国境を通過し、以後中華民国において軍務に服した。同人は、昭和29年9月27日舞鶴港に上陸し帰国した。
原告X13は、兵籍上、昭和21年3月23日、現役満期除隊となっており、当時、陸軍兵長であった。
(3) 本件訴訟に至る経緯
(ア) 原告X1
原告X1は、被告に対し、平成10年1月14日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X1の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年5月12日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分A」という。)をした。
原告X1は、被告に対し、本件処分Aを不服として、平成10年8月4日に異議申立てをしたところ、被告は、平成11年8月17日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X1は、総務大臣(平成13年1月5日までは総務庁長官、以下同じ)に対し、上記決定を不服として、平成11年10月6日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(イ) 原告X2
原告X2は、被告に対し、昭和47年7月10日付けで旧軍人一時恩給の請求をしたところ、被告は、昭和47年10月5日、一時恩給を給する旨の裁定をした。
原告X2は、被告に対し、平成10年2月14日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X2の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(准士官以上13年に達しているものとは認められないとして、平成10年8月2日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分B」という。)をした。
原告X2は、被告に対し、本件処分Bを不服として、平成11年8月1日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年9月24日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X2は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成11年10月10日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(ウ) 原告X3
原告X3は、被告に対し、平成10年2月3日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告石原の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年5月12日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分C」という。)をした。
原告X3は、被告に対し、本件処分Cを不服として、平成11年3月25日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年9月9日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X3は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成11年10月13日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(エ) 原告X4
原告X4は、被告に対し、平成10年3月5日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X4の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年10月16日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分D」という。)をした。
原告X4は、被告に対し、本件処分Dを不服として、平成11年10月1日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成12年2月29日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X4は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成12年8月29日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(オ) 原告X5
原告X5は、被告に対し、昭和53年8月17日付けで旧軍人一時恩給の請求をしたところ、被告は、昭和53年10月20日、一時恩給を給する旨の裁定をした。
原告X5は、被告に対し、平成10年1月18日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X5の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年8月20日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分E」という。)をした。
原告X5は、被告に対し、本件処分Eを不服として、平成11年7月2日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年10月1日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X5は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成11年12月3日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(カ) 原告X6
原告X6は、被告に対し、平成9年12月25日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X6の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年8月20日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分F」という。)をした。
原告X6は、被告に対し、本件処分Fを不服として、平成11年7月12日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年9月8日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X6は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成12年1月11日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(キ) 原告X7
原告X7は、被告に対し、平成11年7月30日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X7の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成12年1月18日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分G」という。)をした。
原告X7は、被告に対し、本件処分Gを不服として、平成12年1月28日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成12年3月24日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X7は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成12年7月28日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(ク) 原告X8
原告X8は、被告に対し、昭和56年4月11日付けで旧軍人一時恩給の請求をしたところ、被告は、昭和56年9月9日、一時恩給を給する旨の裁定をした。
原告X8は、被告に対し、平成10年2月19日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X8の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(准士官以上13年)に達しているものとは認められないとして、平成10年8月20日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分H」という。)をした。
原告X8は、被告に対し、本件処分Hを不服として、平成11年6月17日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年9月13日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X8は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成11年10月8日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(ケ) 原告X9
原告X9は、被告に対し、平成9年12月25日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X9の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年8月20日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分I」という。)をした。
原告X9は、被告に対し、本件処分Iを不服として、平成11年7月21日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年9月13日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X9は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成11年11月19日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(コ) 原告X10
原告X10は、被告に対し、昭和45年9月5日付けで28年法(昭和46年法律第81号による改正前のもの)附則24条の10(現28年法附則24条の13)の規定に基づき旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X10の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているとして、昭和46年2月5日、同請求について、給与初月を昭和42年10月とするいわゆる曹長恩給(現28年法附則24条の13第1項により、昭和20年8月15日以降に退職した准士官以上の旧軍人で、旧軍人としての在職年の年月数が12年以上13年未満のため恩給を受ける権利が生じなかった者につき、退職までの下士官以下の最終階級をもって在職していたものとみなして、昭和42年10月から給されることとなった恩給のこと)を給する旨の裁定をした。
原告X10は、被告に対し、28年法(昭和54年法律第54号による改正後のもの)附則14条2項の規定に基づき、平成10年3月23日付けで、旧軍人普通恩給の改定請求(いわゆる加算改定請求)をしたところ、被告は、平成10年10月12日、同請求について、加算改定の裁定(ただし、恩給の金額に変化のないもの。以下「本件処分J」という。)をした。
原告X10は、被告に対し、本件処分Jを不服として、平成10年11月20日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年9月27日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X10は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成11年10月8日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(サ) 亡a
亡aは、被告に対し、昭和47年7月14日付けで旧軍人一時恩給の請求をしたところ、被告は、昭和47年10月23日、一時恩給を給する旨の裁定をした。
亡aは、被告に対し、平成9年11月20日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、亡aの旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年8月20日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分K」という。)をした。
亡aは、被告に対し、本件処分Kを不服として、平成10年8月31日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年8月5日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
亡aは、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成11年10月8日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(シ) 原告X12
原告X12は、被告に対し、平成10年1月30日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X12の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年8月20日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分L」という。)をした。
原告X12は、被告に対し、本件処分Lを不服として、平成10年12月1日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成11年8月17日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X12は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成11年10月8日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
(ス) 原告X13
原告X13は、被告に対し、昭和53年10月30日付けで旧軍人一時恩給の請求をしたところ、被告は、昭和54年4月19日、一時恩給を給する旨の裁定をした。
原告X13は、被告に対し、平成10年1月11日付けで旧軍人普通恩給の請求をしたところ、被告は、原告X13の旧軍人としての在職年は旧軍人普通恩給についての最短恩給年限(下士官以下12年)に達しているものとは認められないとして、平成10年8月20日、同請求を棄却する旨の裁定(以下「本件処分M」という。)をした。
原告X13は、被告に対し、本件処分Mを不服として、平成11年8月6日付けで異議申立てをしたところ、被告は、平成12年3月28日、同異議申立てを棄却する旨の決定をした。
原告X13は、総務大臣に対し、上記決定を不服として、平成12年8月28日付けで審査請求をしたところ、同大臣は、平成13年2月14日、同審査請求を棄却する旨の裁決をした。
4 当事者の主張
(1) 被告
ア 原告X11の訴えの適法性について
(ア) 恩給を受ける権利は、恩給法1条など法令所定の給与事由の発生とともに発生し、法12条に規定する裁定権者に対する恩給請求をし、裁定権者の認容裁定処分によって具体的に確定し、それに基づいて現実に支給され、恩給権者の死亡によって恩給権が消滅した後は、その遺族が扶助料の給付を受けるものとされていることからすると、恩給権は、民法上の相続の対象とはならない一身専属的な権利であると解される。
また、法10条は、恩給権者が死亡した場合、その生存中の恩給で恩給権者が未だ給与を受けていない、いわゆる未給与恩給については、その遺族又は相続人に給付する旨を規定しているが、その場合の未給与恩給の請求は、遺族又は相続人が「自己ノ名ヲ以テ」、すなわち自己の恩給権としてこれを請求することとされている。
このように、恩給法上、恩給権は、恩給権者の死亡による相続されることなく消滅するが、死亡した恩給権者に生存中の未給与恩給があるときは、法10条、10条の2第1項の規定に基づき、遺族又は相続人が自己の恩給権としてこれを請求できることとされているのである。
(イ) ところで、本件処分Kは、原告X11の夫である亡aの旧軍人普通恩給請求に対してされた棄却裁定処分であって、亡a固有の恩給権の有無に関する処分であることは明らかであるが、亡a固有の恩給権は、平成12年9月10日に同人が死亡したことにより消滅しているのであるから、これにより、同人による恩給請求自体の効力も消滅したものと解するほかない。したがって、仮に原告X11が主張するように、本件処分Kが取り消されるべきものであったとしても、既に亡aの恩給権が消滅し、同人の恩給請求自体の効力も消滅している以上、再度被告において亡aの旧軍人恩給請求について裁定処分をする余地がないことは明らかである。
さらに、本件においては、亡aは旧普通恩給請求に対し、棄却裁定処分を受けているから、その恩給権は具体的に確定されておらず、しかも、前記のとおり、亡aの死亡により同人の恩給請求自体の効力も消滅していることからすれば、法10条の2第1項の「死亡シタル恩給権者未タ恩給ノ請求ヲ為ササリシトキ」に該当するということができる。そうすると、原告X11は、別途法10条の2第1項に基づき、自己の恩給権として亡aの未給与恩給を請求し、裁定権者の認容裁定処分を得れば亡aのみ給与恩給の給付を受けることができるのであり、かつ、本件処分Kの存在及びその理由は、原告X11による上記の恩給請求についてされる被告の裁定処分に対し、法律上何ら影響を及ぼすものではないのであるから、本件処分Kが取り消されるか否かは、原告X11自身の恩給権ないし恩給請求に何ら法律的な利害関係を有しないものである。
このように原告X11は、本件処分Kの取消しを求めることの実益を有しないものであるから、本件処分Kの取消しを求めることにつき法律上の利益を有しないものであることが明らかである。
イ 本件旧軍人らの旧軍人普通恩給の受給権
(ア) 原告X1の旧軍人普通恩給受給権について
原告X1の旧軍人退職当時の階級は陸軍上等兵であり、下士官以下であった。
原告X1は、昭和19年11月1日から昭和21年3月15日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は1年5月である。
また、加算年は、昭和19年11月11日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(1年10月)が、同年3月から昭和21年3月15日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は2年4月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される)。
そうすると、原告X1の在職年は、実在職年に加算年を併せても3年9月であるから、原告X1は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(イ) 原告X2の旧軍人普通恩給受給権について
原告X2の旧軍人退職当時の階級は陸軍中尉であり、准士官以上であった。
原告X2は、平成17年2月20日から昭和21年3月15日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は4年2月である。
また、加算年は、昭和17年3月7日から同月31日までの期間については1月につき2月のいわゆる事変地勤務加算(2月)が、同年4月1日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(7年)が、同月3日から昭和21年3月15日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は7年8月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X2の在職年は、実在職年に加算年を併せても11年10月であるから、原告X2は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有していないものである。
(ウ) 原告X3の旧軍人普通恩給受給権について
原告X3の旧軍人退職当時の階級は陸軍衛生上等兵であり、下士官以下であった。
原告X3は、昭和19年11月1日から昭和21年3月15日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は1年5月である。
また、加算年は、昭和19年11月11日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(1年10月)が、同月3日から昭和21年3月15日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は2年4月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X3の在職年は、実在職年に加算年を併せても3年9月であるから、原告X3は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(エ) 原告X4の旧軍人普通恩給受給権について
原告X4の旧軍人退職当時の階級は陸軍兵長であり、下士官以下であった。
原告X4は、昭和20年3月2日から昭和21年3月21日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は1年1月である。
また、加算年は、昭和20年3月21日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(1年10月)が、同月3日から昭和21年3月21日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は1年8月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X4の在職年は、実在職年に加算年を併せても2年9月であるから、原告X4は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(オ) 原告X5の旧軍人普通恩給受給権について
原告X5の旧軍人退職当時の階級は陸軍兵長であり、下士官以下であった。
原告X5は、昭和17年12月1日から昭和21年3月20日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は3年4月である。
また、加算年は、昭和17年12月14日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(5年8月)が、同月3日から昭和21年3月20日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は6年2月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X5の在職年は、実在職年に加算年を併せても9年6月であるから、原告X5は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(カ) 原告X6の旧軍人普通恩給受給権について
原告X6の旧軍人退職当時の階級は陸軍上等兵であり、下士官以下であった。
原告X6は、昭和19年11月15日から昭和21年3月20日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は1年5月である。
また、加算年は、昭和19年11月27日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(1年10月)が、同月3日から昭和21年3月20日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は2年4月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X6の在職年は、実在職年に加算年を併せても3年9月であるから、原告X6は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(キ) 原告X7の旧軍人普通恩給受給権について
原告X7の旧軍人退職当時の階級は陸軍衛生一等兵であり、下士官以下であった。
原告X7は、昭和20年3月23日から昭和21年3月20日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は1年1月である。
また、加算年は、昭和20年3月23日から同年4年1日までの期間については1月につき1月の戦務加算(1年)が、同月2日から同年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(1年)が、同月3日から昭和21年3月20日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は1年7月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X7の在職年は、実在職年に加算年を併せても2年8月であるから、原告X7は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(ク) 原告X8の旧軍人普通恩給受給権について
原告X8の旧軍人退職当時の階級は陸軍中尉であり、准士官以上であった。
原告X8は、平成17年2月1日から昭和21年3月20日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は4年2月である。
また、加算年は、昭和17年12月4日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(5年8月)が、同月3日から昭和21年3月20日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は6年2月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X8の在職年は、実在職年に加算年を併せても10年4月であるから、原告X8は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有していないものである。
(ケ) 原告X9の旧軍人普通恩給受給権について
原告X9の旧軍人退職当時の階級は陸軍兵長であり、下士官以下であった。
原告X9は、昭和19年11月15日から昭和21年3月15日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は1年5月である。
また、加算年は、昭和19年11月27日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(1年10月)が、同月3日から昭和21年3月15日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は2年4月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X9の在職年は、実在職年に加算年を併せても3年9月であるから、原告X9は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(コ) 原告X10の旧軍人普通恩給受給権について
原告X10の旧軍人退職当時の階級は陸軍中尉であり、准士官以上であったが、いわゆる曹長恩給として取り扱うものであるから、下士官としての旧軍人普通恩給を受給するには旧軍人としての在職年が12年以上であることを要する。
原告X10は、平成16年12月1日から昭和21年3月15日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は4年4月である。
また、加算年は、昭和16年12月16日から昭和17年3月31日までの期間については1月につき2月のいわゆる事変地勤務加算(8月)が、同年4月1日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(7年)が、同月3日から昭和21年3月15日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計が8年2月である。(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X10の在職年は、実在職年に加算年を併せると12年6月となるから、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しているものであるが、当該在職年により計算した恩給年額は、本件処分Jがされた当時において現に原告X10が受けている昭和41年法律第121号附則8号の規定による最低保障額を上回らないものである。
(サ) 亡aの旧軍人普通恩給受給権について
亡aの旧軍人退職当時の階級は陸軍伍長であり、下士官以下であった。
亡aは、昭和17年2月20日から昭和21年3月15日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は4年2月である。
また、加算年は、昭和17年3月11日から同年3月31日までの期間については1月につき2月のいわゆる事変地加算(2月)が、昭和17年4月1日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(7年)が、同月3日から昭和21年3月15日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は7年8月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、亡aの在職年は、実在職年に加算年を併せても11年10月であるから、亡aは、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(シ) 原告X12の旧軍人普通恩給受給権について
原告X12の旧軍人退職当時の階級は陸軍軍曹であり、下士官以下であった。
原告X12は、昭和18年1月20日から昭和21年3月15日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は3年3月である。
また、加算年は、昭和18年2月3日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(5年4月)が、同月3日から昭和21年3月15日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は5年10月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X12の在職年は、実在職年に加算年を併せても9年1月であるから、原告X12は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
(ス) 原告X13の旧軍人普通恩給受給権について
原告X13の旧軍人退職当時の階級は陸軍兵長であり、下士官以下であった。
原告X13は、昭和17年12月1日から昭和21年3月23日まで旧軍人として在職していたもので、その実在職年は3年4月である。
また、加算年は、昭和17年12月14日から昭和20年9月2日までの期間については1月につき2月の戦務加算(5年8月)が、同月3日から昭和21年3月23日までの期間については1月につき1月の外国鎮戍加算(6月)がそれぞれ加算され、これらの合計は6年2月である(なお、昭和20年9月に係る加算年は、戦務加算と外国鎮戍加算が重複するが、最も利益なる加算年の一方である戦務加算が付される。)。
そうすると、原告X13の在職年は、実在職年に加算年を併せても9年6月であるから、原告X13は、旧軍人普通恩給を受給できる在職年を有しないものである。
ウ 本件各処分の適法性
(ア) 旧軍人の本属庁であった陸海軍は廃止されたが、終戦後旧軍人の人事に関する履歴書等の管理及び整備の事務は各都道府県ないし厚生労働省において行われているから、旧軍人の履歴は、各都道府県ないし厚生労働省において証明することとなっている。そこで、旧軍人が普通恩給請求手続を行う場合は、恩給請求書類を当該請求者の退職時に本籍地の都道府県知事及び厚生労働大臣を経由した上で、裁定庁である被告に提出することとされている。
そして、本件旧軍人らの退職年月日について、経由庁である都道府県知事は、本件旧軍人らが提出した履歴書とその管理する履歴原簿とを対照し、当該履歴書の記載事項の成否を判定した結果、それぞれ答弁書別紙の退職年月日欄記載の日に退職した旨を証明しているものであった。
以上のとおり、本件各処分は、当該証明された履歴事項に基づいて本件旧軍人らの在職期間等を計算した上で行われたものであるから適法である。
(イ)a 本件各処分に際し、在職期間等の計算の基礎となった履歴事項(経由庁としての都道府県知事が証明した履歴書における記載事項)は、旧軍における残務整理を所管していた厚生省(現厚生労働省、以下同じ。)が昭和28年ないし昭和29年に行ったいわゆる山西軍参加残留兵の実情に関する調査に基づくものであるところ、当該調査結果によれば、山西軍参加残留兵は、旧日本軍による全員帰還との方針に応じず、自己の意思で残留したものであり、復員実施要領細則9条1号に基づき現地除隊(召集解除、解雇)されたものとされている。上記調査結果は、「山西軍参加者の行動の概況について」と題する報告書(厚生省引揚援護局未帰還調査部作成)として、昭和31年12月3日の第25回国会の衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会に提出されたものであり、下記の内容が記載された信用に値するものである。
ア 支那派遣軍のうち終戦当時山西省に駐屯していた旧日本軍(第一軍)は、昭和20年9月9日の停戦協定に基づき、山西軍に降伏手続をとることになっていたが、当時、素質、装備兵ともに劣弱であった山西軍は、中共軍への対抗上第一軍の援助を得るため、第一軍将兵等に対し、山西軍への参加を勧誘した。
イ 山西軍による勧誘ないし宣伝に加えて、当時第一軍の置かれていた状況及び一部将兵等の行動、山西軍が、中国国民政府が公布施行した「日籍人員暫行徴用通則」を援用し、第一軍将兵を技術者として徴用した上で特務団を編成するとの方針を決定したこと等により、第一軍将兵の中には残留希望者が続出した。
これに対し、支那派遣軍の総司令部は、終始第一軍将兵全員の日本帰還との方針を堅持しており、山西軍の要求との間に挟まれて苦境に立ちながらも第一軍司令官等による将兵に対する説得を続けるとともに、将兵に対し、徴用はあくまで本人の意思に基づいて決定すべきこと、徴用を希望するものは除隊(召集解除)した後において応募すべきこと等を重ねて示達した。
ウ その結果、約5万9000名の第一軍将兵のうち当初残留を希望していた約1万名の将兵の大部分が説得に応じ帰隊したが、2563名の将兵は全員の日本帰還との方針に応じず、自己の意思で残留するに至った。
エ 第一軍は、山西省出発後、上記2563名の残留将兵に対し、陸軍部隊の復員に関する規定に従い、現地除隊(召集解除、解雇)の処置をとった。なお、上記残留将兵のうち約1600名は昭和22年ないし昭和23年に帰国したが、その他の者はなお山西省にとどまり、中共軍との戦闘に参加するなどした結果、700名以上が中共軍の捕虜となり抑留された。これら抑留された者については、昭和28年ないし昭和31年9月に692名が帰国した。
(b) 以上によれば、本件旧軍人らにつき経由庁としての都道府県知事において証明された履歴事項は十分信用に値するものと評価すべきであるから、これに基づいて在職期間等を計算した上で行われた本件処分は適法である。
エ 原告の主張に対する反論
(ア) 旧恩給法上の旧軍人の退職事由について
a 恩給制度上の旧軍人の就職及び退職事由の意義及び特殊性
旧軍人普通恩給は、一定の在職年にあった旧軍人に対し、支給されるものであり、在職年は、就職の月に起算し、退職又は死亡の月をもって終わる実在職年に加算年を合算することで求められる。
そして、旧恩給法は、旧軍人の退職事由について「現役軍人ニ在リテハ現役ヲ離ルコト、非現役軍人ニ在リテハ召集セラレタル者ニ付テハ召集解除志願ニ依リ軍人タル勤務ニ服スル者ニ付テハ解職」に該当する場合と定めている。そして、これは兵役法に定められた旧軍人の地位とは異なり、軍人としての地位にあっても、現実に入営、入団、部隊編入するまでは就職したこととならないし、現役を離れたり召集解除となった場合には、予備役等の軍人の地位にあっても退職するものとされた。それは、旧恩給法上の軍人恩給は、現に軍事上の勤務に服することにより、公務員の中でも特に厳格な服務規律に縛られるなど、国家との間に特殊な権力関係が形成される、当該軍人に課せられる特殊の勤務の性格に着目し、このような状態にある旧軍人に対し、恩給を給与しようとするものだからである。
b 旧軍人の旧恩給法上の退職事由としての「除隊」及び「召集解除」
(a) 除隊・召集解除について、その意義を定めた法律上の規定は見当たらないが、除隊・召集解除とは、一般的には、現役兵として入営・入団し、又は部隊に編入されている軍人について、そのような状態を解かれ、当該軍人が帰郷することを意味する。すなわち、「除隊」とは「現役を満期となりて兵営を退き帰郷するとき、疾病その他止むを得ざる事故により現役の服役を免除せらるるか又は兵役を免除せらるる人、以上の人が兵営を辞して故郷へ帰ること」であり、「召集解除」とは「召集せられたる軍人が期満ちて召集を解かれ、再び郷里へ帰ること」と定義され、そのいずれも、当該軍人が所属部隊を離れて帰郷することを指す概念として定義されている。
(b) ポツダム宣言の受諾により、我が国の軍隊は外地にあるものを含む全部隊が復員の対象とされるべきこととなり、これにより地区軍全部隊の復員を実施するための軍令として復員要領が定められ、その実施の細則が復員実施要領細則として定められた。
そして、復員実施細則には、除隊・召集解除の方式について明確に定めていないが、外地にある部隊の復員は、原則として、本土に帰還後完結するとされ、人員の処理については、原則として当該復員の完結の時をもって除隊・召集解除させられたものとするとして、個々の軍人に対する命令を待たずとも、当然に除隊・召集解除となることを定めている。また、同細則が、最高指揮官は状況により本細則に規定せる事項を適宜変更することを得と定めているとおり、最高指揮官は、細則に定められた除隊・召集解除の方法を適宜変更して実施することができたものと解され、具体的には、必ずしもその実施に当たり告知を前提とした命令が存在することを要しないし、また、これを命令により実施するとしても、当該命令は、その告知の要否も含めて、復員の実情に応じて適宜の方法で行われていたものと考えられる。
さらに、除隊及び召集解除は、軍の統帥作用としての性質を有するものであるから、軍隊内部における意思決定さえ存すれば、個々の軍人の諾否や了知を問題とするまでもなくこれが実施されることになるのであって、その方法も必要性応じて適宜の方法で実施すれば足りるものである。
(c) 旧恩給法上の旧軍人の退職事由は、法文上は現役兵は現役を離れることであり、召集された軍人は召集解除とされているが、これらは除隊・召集解除として実施されていたものである。
そして、除隊・召集解除は、復員実施要領細則に基づき、復員の実情に応じて実施されていたものと解され、この適宜の方法としては、命令の形式を取らない場合や、命令の形式を取ったとしても、個々の軍人に告知されない場合も考えられる。
そうすると、いかなる要素が存在するときに、旧恩給法上の旧軍人の退職事由としての除隊・召集解除があったと認められるかが問題となり、その要素とは、旧軍人が部隊から離脱するという事実状態が存在することと軍隊内部において当該軍人が部隊から離脱することを容認する意思決定と解すべきで、その意思決定が当該軍人に告知されることは、旧恩給法上の退職事由の要素にはなり得ない。
(イ) 本件における退職事由の存在
a 本件においては、兵籍、戦時名簿及び留守名簿の記載や本件旧軍人らが、「特務団」に流用されるために残留したものであり、それらの者に除隊・召集解除の措置を取る方針が取られていたことによれば、本件旧軍人らについて、除隊又は召集解除の意思決定がされていたことは明らかというべきであり、また、本件旧軍人らが現に外地に在留しており、それぞれ所属部隊とは別異の行動をとっており(特務団なる部隊は旧日本陸軍には存在しない。)、昭和21年3月15日から同月23日までの間には、所属部隊から離脱していたことも明らかというべきである。
(ウ) 残留命令の不存在
特務団編成やその後の残留部隊の活動内容、本件旧軍人らの残留が任意のものであること、残留後に帰国の機会が存在したこと等によれば、本件旧軍人らに対し残留命令が出されていたとは考えられない。
(2) 原告ら
ア 特務団の実態
特務団においては、司令官・指揮官も旧第一軍の高級将校、中堅将校が占めており、団員も流用された原告らを含む日本軍人である。また、装備・糧秣もそのまま旧第一軍のものを引き継いでいた。
このように、特務団の実態は旧日本軍そのものであった。
イ 本件残留は軍命令によるものであること
本件残留が、軍の必要に基づいて軍命行為として実行されたことは、第一軍参謀長の発信による<証拠略>の電報や<証拠略>の通牒により明らかであり、留用者を決める現場においては、いきなりの指名ではなく、説得等による志願の方法が取られたものの、人員が不足するときは非任意的方法によることが予定されていた。
そして、本件旧軍人らは、組織的に留用者の対象とされ、軍命令の発令、具体的には上官の命令により留用された者であり、原告らが自由意思で特務団に志願したものではない。
そして、本件旧軍人らは、命令を受けた後、特務団への発令を停廃すべき軍命令を受けておらず、また、除隊等の命令を受けたこともない。本件旧軍人らは、中国軍の捕虜となるまでの間は、特務団への出向の前後を通じ、厳正な軍の規律化にあったものであり、軍の指示命令によらずに勝手に所属や身分を異動し、勝手に軍籍を離れることは起こり得ない。現に、原告らには、帰国しようと思っても帰国できなかった事情があった。
仮に、特務団を日本陸軍の組織でないとしても、除隊・召集解除等を受けておらず、軍命令に服し特務団に参加したものであるから、そのことのみにより、原告らが除隊・召集解除になったものとみるのは困難である。
ウ 現地召集解除・現地除隊の効力及びその虚構性
(ア) 除隊や召集解除が有効となるためには、当該本人が除隊・召集解除されたことを認識了知し得べき状態におくことが必要である。
(イ) 原告らは、いずれも昭和21年3月15日から同年3月23日にかけて現地除隊したことになっているが、その時期は、独立歩兵第14旅団において特務団に対し作戦命令が下されており、広範にわたって熾烈な戦闘が行われていた状況であったのであり、この時期に現地除隊した者は誰一人として存在しない。
第一軍参謀長による、昭和21年4月15日付け号外電報(<証拠略>)には、残留者を遡及的に除隊者とし、あるいは、逃亡者として取り扱う旨が記載されているが、本件旧軍人らは、それまでに、正規の軍命令により残留し、任務に就いているのであり、また、前記の電報が正規の軍命令として下達され機能したとは考えられない。本件旧軍人らは、いずれも現地除隊の発令を受けた覚えはなく、そのような記載のある軍籍簿は改ざんされたものといわざるを得ない。
現に被告は、本件旧軍人ら個々について、具体的にどのように除隊・召集解除の手続がとられたかの主張・立証を行っていない。
エ 本件旧軍人らの特務団留用の継続
原告らは、いずれも、特務団に発令されて後、その特務団要因の身分を持続したまま中国軍(八路軍)の捕虜となった。その後、数年にわたる捕虜として抑留された後、ようやく日本に帰国し、上陸日をもって各々軍役を了したものである。
(ア) 原告X1
原告X1は、昭和21年3月12日、軍命により、独立歩兵第14旅団第246大隊第2中隊の残留特務団要員としてb大隊・c中隊へ転属し、昭和23年晋中作戦に従事して負傷し、中共軍の捕虜となった。この間、上司・上官から留用の停廃や現地召集の解除などの措置を受けたことはない。原告本人がそのような措置を得たい旨を上司・上官に申し出て発令を仰いだこともない。
(イ) 原告X2
原告X2は、昭和21年3月、独立歩兵第14旅団第246大隊第3中隊長として、上司であるd大隊長からの42名の残留特務団要員選出の命に基づき、残留を41名の部下に命じ、かつ、自らも命に服して残留した。そしてb大尉を団長とする特務団第6団に所属した。その後、昭和24年4月中国軍捕虜となり武装解除を受けるが、その間、昭和21年中に、特務団第6団の要員のうち約50名につき帰国命令が出され、受命者はいずれも帰国したことがあった。しかし、それ以外の者には帰国命令がなく、もちろん、原告X2において、上司・上官よりの残留の取消し、原隊への復帰、帰国等に係る命令を一切受けたことはない。また、当然ながら、上記残留の停廃、原隊への復帰、帰国等に係る希望を上司・上官に申し出て、その決定を求めたこともない。
(ウ) 原告X3
原告X3は、昭和21年3月中旬、軍命により、独立歩兵第14旅団第246大隊第1中隊からの残留特務団要員として第6特務団に転属した。特務団転属後は医務室勤務となり、昭和23年7月ころ中国軍の捕虜となった。それまでの間に、昭和21年5月ころ、特段の一部に帰国命令があって一部の人が帰国したと聞いた。もちろん、原告X3においては、帰国に係る命令には一切接しないまま、捕虜となるに至ったのである。
(エ) 原告X4
原告X4は、終戦当時、北支派遣第1軍第5独立警備隊第27大隊第2中隊所属の陸軍兵長であり、山西省南同蒲線安邑県に駐屯していたが、昭和21年2月ころ、上官であるe准尉の命令により、特務団に残留することになり、鉄道修理工作隊の任務につき、f中尉指揮のf隊に属した。その後、暫編独立第10総隊指令部付となり、副官処軍需部で糧秣係をした。しかし、太原東山の戦闘が激しくなり、昼夜を分かたず砲弾の雨にさらされることとなり、ついには太原城内に追い込められ、昭和24年4月24日に中共軍の捕虜となった。その間、帰国できる機会は全くなかった。捕虜生活は長く続き、ようやく、昭和29年9月27日に舞鶴港に上陸して復員した。
(オ) 原告X5
原告X5は、終戦当時、北支派遣第1軍独立混成第3旅団第9大隊第2中隊所属の陸軍上等兵であり、山西省に駐屯していた。原告X5は、上官であるg准尉の命令により、特務団に残留することとなり、昭和21年3月ころ、旅団原平鎮兵站に終結した。所属は機槍営の撫槍連であった。その後、暫編独立第10総隊の隊長の専属副官(当番兵)をしたりしたが、昭和23年6月の晋中作戦で激しい戦闘を戦い、多くの戦友を失った。同年10月にはさらに激しい中共軍との戦いがあり、その際中共軍の捕虜となった。その間、帰国できる機会はなかった。捕虜生活は長く続き、ようやく、昭和29年9月27日に舞鶴港に上陸して復員した。
(カ) 原告X6
原告X6は、昭和21年2月ころ、通信員であったが、直属上官の軍命により、独立混成第3旅団の残留特務団要員として、特務団通信班に配属され、各地での転戦・移駐等の中、通信連絡の任務に就いたものであるが、昭和23年11月2日の戦闘で負傷し、共産軍(八路軍)の捕虜となった。この間、上司・上官から留用の停廃・召集解除・帰国命令等の措置を得たことはない。そのような情報さえ得たことはなく、特務団発令後の任務に邁進し、激戦の中で捕虜となったものである。
(キ) 原告X7
原告X7は、終戦時、独立混成第3旅団第9大隊歩兵砲中隊に属していたところ、中隊長から呼び出しを受け、特務団要員としての残留を命ぜられた。その後、特務団の衛生室に配属され、各地での転戦に従事し、負傷者の看護・病室の設管等にあたったが、昭和24年4月太原の攻防戦に敗れて中共軍(八路軍)の捕虜となった。この間、原告X7に対して留用の停廃・現地除隊・帰国等に係る軍命が下されたことは全くなかった。ただ、昭和21年ころ、特務団に出張任務を終えて原隊に帰ってみると、一部の特務団員に帰国命令が出たという話を聞いたことがあった。原告X7においても、帰国が許されるならばと上司に申し出たが、容れられなかった。原告X7は、軍命に服しての留用・特務団勤めを継続して捕虜となり、抑留の後に帰国したものである。
(ク) 原告X8
原告X8は、終戦当時、北支派遣第1軍独立混成第3旅団独立歩兵第6大隊第2中隊長であり、階級は陸軍中尉であった。原告X8は、平成21年1月開催された独立混成第3旅団残留会同終了後、第1軍高級参謀h大佐から、「X8、残ってくれるか。i・j両大尉も残ってくれる。帰国のときは一緒に帰ろう」と残留を求められ、原告X8は、これによって残留せざるを得なくなった。原告X8の中隊では、原告X8以下3名が残留し、昭和21年4月中旬から5月上旬ころ、残留者のうち一部のものが帰国したが、原告X8には上官からの帰国の指示は何ら出されず、帰国の機会は全くなかったものである。結局、原告X8は、当初、暫編独立第10総隊で山西軍の訓練を担当していたが、戦の激化に伴い、戦闘に参加せざるを得なくなり、原告X8も最終的に太原攻防戦で中共軍の捕虜となり、昭和31年8月1日舞鶴港に上陸し復員した。
(ケ) 原告X9
原告X9は、終戦当時、北支派遣第1軍独立混成第3旅団第7大隊第3中隊所属の陸軍兵長であり、原平鎮・大牛店間の鉄道路警備の任務に就いていた。原告X9は、昭和21年2月ころ、第3中隊K人事係曹長から「特務団編成が下命され、中隊も3分の1の要員を出さないといけない。お前にも残ってもらわないといけない。」旨告げられ、残留を命じられた。原告X9はこれによって残留せざるを得なくなり、第3旅団司令部に派遣され、副官部留用室(特務団編成室)助手として任務についた。昭和21年3月ころ、同職の任を解かれ、原隊に復帰し、第1軍高級参謀h大佐の指揮下で特務団に入った。原告X9は、輸送班の炊事班に配属されたが、最終的には太原攻防戦にて中共軍の捕虜となり、昭和29年9月舞鶴港に上陸して復員した。
(コ) 原告X10
原告X10は、軍命により、独立歩兵第14旅団第243大隊第3中隊から残留すべき特務団要員として、第3中隊長である原告自身が軍命に服し、特務団(保安第6大隊)に転属して後、同特務団のX10隊を編成して各地を転戦した。原告X10は、昭和28年3月、太原陥落により中国軍(八路軍)の捕虜となったが、それまでの間の種々の作戦や行動の過程において、特務団の解散や帰国に関する命令は受けておらず、そのことを聞いたこともない。
(サ) 原告X12
原告X12は、終戦当時独立歩兵第14旅団第246大隊歩兵砲中隊(l中隊長)所属の軍曹であった。昭和21年2月、大隊長から直属の上官のl中隊長を通じて、「山西省在留の日本軍民を安全に帰国させるためには相当数の人員が残留する必要がある。若い兵隊が多く残る。君は乙幹で古参だから残留して若い者の面倒を見てやってくれ」と命令を受け、特務団として残留することとなった。そして発令により、特務団第6団(団長b大尉、中隊長X2中尉)に転属した。特務団が編成された当時、各地で八路軍との交戦があり、それらの作戦に参加し、昭和21年5月本部に帰隊したが、そのころ一部の人たちが既に帰国したことに気付いた。事情を聞いてみると、一部に帰国命令が出たとのことであったため、それでは自分も帰国命令を得たいと中隊長に申し出たが、時既に遅く、その時期では帰国命令を得ることができなかった。その後、第6団から第1団に転属となり、山西軍幹訓団の教官(総隊長は第1軍参謀長m少将)として山西軍の幹部候補生の教育を担当などして、第1団に復帰したのは昭和22年7月ころであり、そのころ暫編独立第10総隊という名称に変わっていたものの、実質的には何も変わっていなかった。その後は山西軍との共同作戦も行ったが、最終的には昭和24年4月太原攻防戦で捕虜となり、昭和29年9月27日、舞鶴港に上陸し、復員した。
(シ) 原告X13
原告X13は、終戦当時、独立混成第3旅団司令部の暗号班(終戦後は電報班)に所属する兵長であった。戦争は終わったのだから早く帰国できるだろうと心待ちにしており、昭和21年2月ころ在留日本軍民の帰国を促進するため一部の者が残らねばならないなど、残留の噂が流れ始めたが、原告X13は帰国したい一心であった。しかし、上官のh高級参謀やn主計大尉の2名から呼び出され、「特務団編成に暗号手は不可欠だ」、h参謀からは「命はおれが預かる」と言われ残留を命ぜられた。なお、当時の直属上官は暗号班長o大尉であったが、n主計大尉から目をかけられていたこともあり、n主計大尉とともに直接h高級参謀から命令を受けた。特務団では第2団に所属し、昭和21年3月ころ原平鎮終結し、司令部内で暗号手として、軍司令部、各兵団等との暗号による通信任務に従事した。昭和21年6月原平鎮から忻県に撤退した後、同年8月にもう一人の暗号手渡辺学が病死した後は、暗号電の起案・解読はすべてX13の双肩にかかることとなった。
その後、h第2団長が、改変された暫編独立第10総隊の隊長となることが決まり、昭和23年6月に太原に移駐したが、司令部は、元の軍司令部におかれ、X13は同じく暗号班としての任務に就いており、実態は何ら変わらなかった。
昭和23年7月の晋中作戦等の実戦には参加せず、前線のh総隊長の戦闘状況の報告等を受信していたが、その状況については逐一、そのころ既に帰国していたm参謀長に代わり、表面上は軟禁されていたp軍司令官に報告されていた。
原告X13は、最終的には、昭和24年4月の太原攻防戦で、司令部内で捕虜となり、昭和29年9月27日舞鶴に上陸復員するまで軍人として留用された。その間、特務団に留用された者のうち、一部の者が帰国したことはその当時は全く知らず、帰国できるチャンスがあったことすら知らなかった。
オ 戦死者との間の公平
山西軍に参加中に死亡した者について現地除隊等の措置が取り消されたことは、被告も認めているところ、残留後に捕虜となって塗炭の苦しみを味わった原告らもまた同様の取扱いを受けるべきものであって、異なった取扱いをすることは行政に要求される公平性及び平等性に反する措置であり到底許されるものではない。
第3争点及び争点に関する当裁判所の判断
本件の争点は、<1>原告X11の訴えの適法性(争点1)、<2>本件各処分の適法性(争点2)である。
1 争点1(原告X11の訴えの適法性)
原告X11の訴えは、本件処分Kすなわち、被告が原告X11の夫である亡aの旧軍人普通恩給に対して行った棄却裁定処分の取消請求の訴えであるところ、恩給法9条は、「年金タル恩給ヲ受クルノ権利ヲ有スル者左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ其ノ権利消滅ス」として、その1号には「死亡シタルトキ」と定めている。そして、同法73条は、「公務員左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ其ノ遺族ニハ配偶者、未成年ノ子、父母、成年ノ子、祖父母ノ順位ニ依リ之ニ扶助料ヲ給ス」とし、同条2号として「普通恩給ヲ給セラルル者死亡シタルトキ」と定め、これらによれば、普通恩給を受給する者が死亡した場合、その者が有した恩給権は消滅し、その遺族は、扶助料の給付を受けることとされているものと解される。また、同法10条は、「恩給権者死亡シタルトキハ其ノ生存中ノ恩給ニシテ給与ヲ受ケサリシモノハ之ヲ当該公務員ノ遺族ニ給シ遺族ナキトキハ死亡者ノ相続人ニ給ス」としながら、同法10条の2第1項は「前条ノ場合ニ於テ死亡シタル恩給権者未タ恩給ノ請求ヲ為ササリシトキハ恩給ノ支給ヲ受クヘキ遺族又ハ相続人ハ自己ノ名ヲ以テ死亡者ノ恩給ノ請求ヲ為スコトヲ得」と同条2項は「前条ノ場合ニ於テ死亡シタル恩給権者ノ生存中裁定ヲ経タル恩給ニ付テハ死亡者ノ遺族又ハ相続人ハ自己ノ名ヲ以テ其ノ恩給ノ支給ヲ受クルコトヲ得」として、恩給権を有する者の相続人は被相続人の名ではなく、あくまでも自己の名をもって恩給の請求をし、又は、支払を受けるものとされており、これによれば、法は、恩給権を相続の対象とならない一身専属的な権利と考えているものと解される。そうすると、亡aの死亡により、同人の恩給権は、原告X11に相続されることなく消滅し、原告X11は、自己の有する扶助料の支払請求や自己の名での未払恩給の請求をする主体とはなり得るにすぎないこととなる。
そうすると、原告X11は、本件処分Kにより何ら自己の権利を侵害きれていないのであるから、本件訴えの原告適格を欠くものということになるし、亡aの恩給権は、同人の死亡により消滅しているのであるから、仮に本件処分Kを取り消し、亡aの恩給権を認めたとしても、既にその帰属主体は失われていることになることからすると、本件訴えは訴えの利益を欠くものであり、いずれにしても不適法なものといわざるを得ない。
2 争点2(本件各処分の適法性)
(1) 当時の客観的情勢
ア 各項掲記の証拠によれば以下の事実が認められる。
(ア) 終戦以降の山西省の状況(<証拠略>)
昭和20年8月15日の終戦に伴い、山西省に駐屯していた第一軍(司令官q中将、兵力約5万9000人)は、同年9月9日に南京において支那派遣軍総司令官が降伏文書に調印したことに基づき、山西軍(国府軍第二戦区司令長官rが指揮していた中国軍隊をいう。)に対し降伏の手続をとるよう支那派遣軍の命令を受けたが(<証拠略>)、終戦当時陜西省に位置していた山西軍の主力は、中共軍の妨害を受け、第一軍の集結地たる山西省中心部に進出し得たのは、昭和20年10月末であった。
当時、山西軍は、素質、装備ともに劣悪であり、日本軍の援助がなければ中共軍に敗れ、山西省が中共軍の支配するところとなるおそれがあったので、種々の名目により、第一軍の武装解除及び警備交代を実施せず、かつ、第一軍の通信連絡について極端な制限を加えた。
(イ) 特務団の編成とその中止(<証拠略>)
山西軍は、前記(ア)の状況から、第一軍の援助を得るため、まず、軍の高級幹部に対し、残留して山西軍の指導に当たるよう勧誘するとともに、在留邦人をもって鉄路護路隊を編成して、これを山西軍に編入するため、募集活動を始めた。ついで、11月下旬以降においては、直接日本軍将校に対し山西軍参加を勧誘するに至った。
当時、第一軍は、前記(ア)の通信連絡の制限により、山西省外における日本軍の帰還の状況を全く知り得ず、先に中国国民政府がrに対して日本人の山西軍編入禁止の命令等を発していたことなども知ることができなかったために、内地帰還について見通しを立てて、適切な軍内の指導を行うことが困難であったばかりでなく、降伏者としての行動に制限を加えられていたため、山西軍側の勧誘活動を拒否することができなかった。しかしながら、軍司令部以下軍の首脳部は、終始第一軍全将兵の完全な内地帰還の方針をもって指導していた。
このような状況の下に、塁兵団(独立歩兵第14旅団)長s少将及び第一軍参謀t少佐が山西残留を決意し、その後、rの庇護の元に残留工作を支持するに至り、そのことは、山西残留が軍の内意であるかの如き誤解を与え、第一軍が残留希望者に対して行った説得等に非常な影響を及ぼした。また、rは在留邦人をもって鉄路護路隊を編成し、相当数の者がこれに応じた(<証拠略>)。中国国民政府は、昭和20年10月末には、rに対し在留邦人を省防軍に採用する計画を禁止したものの、昭和20年12月末には、日本人技術者を徴用して中国の復興に協力させるため、その取扱いを定めた「日籍人員暫行徴用通則」を公布施行した。rは、これを援用して第一軍将校を技術者として徴用し、これらの者をもって「特務団」を編成する方針を決定し、特務団に応募する日本軍人等の待遇等を規定した「第二戦区特務団官兵待遇弁法」を公布した。他方、昭和21年1月7日、駐支米軍司令部の斡旋により国共協定が成立した結果、第一軍の武装解除は、昭和21年1月末に完了することができ、米軍将校は、2月以降山西の奥地にも進出し、現地の実状を調査し、中共軍の包囲下にある無武装の日本軍を鉄道沿線に誘導し、あるいは、第一軍帰還のための輸送等についてその促進を図る等現地において活動した。また、中国国民政府は、従前の方針を改め、昭和21年1月20日付けの命令をもって、日本軍民は皆帰国させること、各機関が日本人技術者を徴用する必要があるときは、日籍人員暫行徴用通則の規定により請求すること、残留を希望する者は長期徴用することができるが、希望しない者は最後の輸送で帰国させることなどを布告した(<証拠略>)。
しかし、rは、これを第一軍に秘匿し、依然として残留工作を強化続行した。昭和21年1月25日には、山西地区日本徒手官兵善後連絡部長(第一軍司令官)あてに、日本徒手官兵を徴用し、鉄道修理工作部隊の編成を実施する旨の徴用令を発し(<証拠略>)、これを受けて第一軍司令官は徴用令を隷下部隊に通牒した(<証拠略>)。また、昭和21年1月下旬、山西軍側は、第一軍全部隊の将兵の代表者を太原に集合させ、r自らもこれに出席し、前記待遇弁法の趣旨を説明し、これを各部隊に普及するよう要求した。これと同時に、山西軍側は、第一軍の将兵のうちから1万人を山西に残留させなければ、山西にある日本軍民の内地帰還は実現しないと宣伝することに努めた。
このため、第一軍の将兵の中に動揺を生じ、昭和21年1月下旬には、残留希望者が続出し、その数は約1万人に達した。
第一軍司令官は、昭和20年11月以来、戦犯として軟禁の状態におかれていたが、将兵の動揺を憂慮し、rの特別の認可を受けて12月末から1月末にわたる約1ヶ月間各兵団を巡視し、その機会に第一軍の内地帰還の方針を説明して、これを将兵に徹底することに努めた。一部の部隊においては、上官と部下の間に、又は、戦友相互の間に、残留についての勧誘がしきりに行われ、情宜上自己の真意を曲げて残留を決意する者があり、あるいは、残留希望者とその他の者の間に不和、摩擦を生ずるとの弊害が認められたので、昭和21年2月4日軍は残留希望者とその他の者との起居を区分するよう指令し、これに基づき各兵団では残留希望者を一地に終結起居させ、区分が実施された。この指令には「特務団留用受諾者」の名称が用いられ、この指令による集結を特務団への転属と解釈した者もある。
第一軍は、上述のように、その全員帰還の方針とrの要求との間に挟まれて苦境に立ったが、全員帰還の方針は依然として堅持した。ただ、中国側が技術者徴用について正式にこれを認め、関係規則をも公布しているため、正当の手続によって残留しようとする希望者に対し、残留を禁止することができない状態となったので、隷下兵団に対し、徴用はあくまで本人の意思に基づいて決せられるべきものであること、徴用希望者は除隊(召集解除)した後において応募すべきものであること、及び、所属部隊は本人の決意を十分に確かめた上処理すべきことを重ねて示達した。すなわち、第一軍参謀長は、昭和21年3月4日付けで隷下指揮下兵団部隊宛に、鉄道総隊留用受諾者で既に申請済の者は除隊(召集解除)が認可されたので、各兵団の実情に応じ適宜実施すること、国府軍第二戦区(IIWA)側地方機関留用受諾者に対しては、第二戦区長官に留用命令発令を取付中であり近く除隊の認可がされる予定であること、第1項の人員の除隊(召集解除)を実施した場合は、その都度所属階級氏名を報告することとの電文を送っている(<証拠略>)。
他方、支那派遣軍は、かねて山西における第一軍の状況が把握できないことを憂慮しており、支那派遣軍参謀u中佐を太原に派遣して状況を調査し、総司令官の全員帰還の方針を第一軍に伝達させることとなった。u参謀は、同年3月9日、飛行機により太原に到着し、まず第一軍首脳部及び在留邦人有力者と会談し、従前の諸情報がr側によって歪曲せられていたことを確認した後、直接rと会見し、中国政府が下達した命令の原本を提示し、かつ、帰還のため5月末までに第一軍を平津地区に進出させるべしという中国陸軍総司令官vの命令等を第一軍に秘匿している事実を認めさせた。また南京の支那派遣軍司令部は、第一軍参謀長に対し、昭和21年3月10日及び11日に残留を希望する技術者を除き、中国側に徴用されている日本軍将兵及び居留民を完全に集結の上帰国準備をするように伝えた(<証拠略>)。
第一軍司令部は、これらの状況を知り、直ちに山西軍側に対し徴用者の徴用解除を交渉するとともに、特務団留用受諾者に対し原隊に復帰して部隊とともに内地に帰還すべきことを命じた。これにより、山西軍への参加を希望する軍人は、同月10日の調査時に6000人程度にまで減少した。またs少将及びt参謀は支那派遣軍の命令によってその職を免ぜられた。さらに、第一軍司令官は、支那派遣軍からの命令を受けて、昭和21年3月30日に、山西地区日本官兵善後連絡部長名で国府軍第二戦区司令長官rに対し、中国陸軍総司令部から徴用を解除して帰国させるとの訓令が下達されている旨、特に特務団に編入し再武装させるのは聖旨にもとり、中国訓令に反するだけでなく、国際問題を惹起するとして、残留を希望する一部技術者以外全軍民を帰国するように申し入れた(<証拠略>)。そして、rも、同年4月5日に、「特務団に参加を志願する者を徴集し、示範部隊を作りまた軍官を教練する命令」を直ちに取り消す旨の命令を発し、第一軍が同月6日に支那派遣軍及び北部方面軍に対し、特務団加入を取り消し、支那派遣軍の命令どおりに帰還させることを報告した(<証拠略>)。
国民政府は、先に同年1月20日付けでした命令の趣旨をさらに強化し、同年4月8日付けの命令をもって、台湾における28000名以外の者の徴用は、本人が残留を志願すると否とを問わず、一切これを認めないことに修正し、日本人は、同年5月末ないし6月中旬に全員帰国させることを命じた(<証拠略>)。
各兵団においては、留用受諾者に対し、それぞれの隊長が命令して、留用受諾者の集成部隊を解散させ、なおその命令に従わないで帰隊しない者に対しては、その本属部隊の幹部が、部隊が現地を出発するまで帰還について説得を続けることとされた。
また、支那派遣軍は、第一軍を含む隷下各軍に対し、中国政府による徴用労役留用者は4月末をもって、徴用、留用を解除されることになるため、全員収容して帰国させることを命じ(<証拠略>)、同月25日にも、前記4月8日付けの中国政府の命令は決定事項であって、現地中国側の意見等により絶対に変更されるものではないから、その旨を各地に命じるよう、中国政府から要求があったこと、各軍は同命令に基づき現地中国側に折衝するとともに誠意を尽くして残留希望軍民を指導し、軍民全部の収容・還送に努めるように命じた(<証拠略>)。また、北支方面軍も第一軍を含む隷下各軍に対し、同月13日、前記中国政府の命令に基づき、中国国民政府による徴用者及び残留希望者を収容し帰国させることを、第一軍司令官も、管内の徴用残留希望軍民を全員収容し帰国させることをそれぞれ命じた(<証拠略>)。これに応じて、第一軍司令部は、同年4月15日、隷下の各部隊に対し、先の国民政府の命令により日本軍の残留は許されないこととなったことを伝達するとともに、この命令に従わないで山西側に脱走する者については日付をさかのぼり同年3月16日から同月25日までの間における除隊者として処置することを命じ、同年4月16日には、徴用留用者は、本人の希望の有無にかかわらず4月末までに徴用、留用を解除され、これに伴い、中国国境内の日本人はすべて帰国しなければならないこと、特務団留用受諾者は、至急、原所属部隊に復帰、帰還させることを命じ(<証拠略>)、さらに、部隊が帰還するに当たり、3月15日以降除隊した者で復帰を希望する者があれば、各独立部隊長において部隊の状況その他を勘案した上、各隊において差し支えない場合には除隊を取り消し、原所属に復帰せしめて帰還させることができるよう定めるとの電文(<証拠略>)を送っている。
これらに応じて帰隊する者が続出し、部隊が天津に到着した後にようやくこれに追いついて収容された者も含めて各兵団の残留希望者の50パーセント以上は帰隊したが、2563名の将兵が帰国しないまま残留した。このようにして留用受諾者の集成部隊を解散させた際に、陽泉の山西軍から抗議があったが、交渉の結果、円満に解決し、山西軍側は、留用受諾者の原隊復帰を妨害する行動をしていない。同年4月22日に第一軍司令部が発した電報においても、太原における旧特務団留用受諾者の大部分は帰国しつつあり、特務団は解散している、他地区はまだ確報がないが、陽泉は全員帰還しているなどと報告されている(<証拠略>)。
第一軍は、中国戦区日本官兵善後連絡部太原連絡班を太原に残置し、主力は、5月末に全部の復員を完結し、その山西出発後において、なお山西に残留した約2600名の将兵に対し、陸軍部隊の復員に関する規定に従い、現地除隊(召集解除・解雇)の処置をとった。
(ウ) 残留部隊の活動等
a 残留部隊の変遷(<証拠略>)
残留部隊は、rの要請に基づいて昭和21年2月以降編成に着手された特務団の要員を基幹とし、昭和21年5月に「山西省鉄路航路修復総隊」として組織され(<証拠略>)、昭和21年8月には民間人による日本人部隊を併合し山西省保安総隊となった(保安総司令はw・<証拠略>)。昭和22年5月ころには、陽泉作戦において保安第5大隊と在来の暫編独立第十総隊が潰滅したため、同年7月山西省保安総隊を改編して暫編独立第十総隊が編成された。その際、民間人による日本人部隊である鉄路護路隊も吸収され、また、第一軍に所属していた将兵のほかに、山西省や北支に居住していた一般の日本人や現地応召者で第一軍から現地除隊された日本人も含まれていた(<証拠略>)。昭和22年12月には、暫編独立第十総隊を改編し、作戦参加よりも中国人士兵の教育訓練担任を建前として、太原綏靖公署教導総隊が編成された。第2団と第6団は軍士教育、その他の団は兵の教育担任とされた、そして、翌23年5月には太原綏靖公署野戦軍に統合された。そして、昭和23年9月ころ、晋中作戦により残留部隊がほとんど潰滅したため、砲兵教導総隊を編成したが、翌24年4月24日、太原城が中共軍によって制圧されたため、残留部隊は中共軍に投降した。
b 活動の実態
(a) 戦闘への参加(<証拠略>)
残留部隊は、中国残留後、昭和21年4月の文水攻防戦、同年7月忻県作戦、同年7月から9月の大同攻防戦、昭和22年5月の陽泉、寿陽作戦、昭和23年6月から8月の晋中作戦、昭和23年10月から翌24年4月の太原攻防戦などにおいて、山西軍の中共軍との戦闘に参加した。
(b) 中国軍の教育(<証拠略>、原告X1、原告X2、原告X9)
残留部隊は、太原において、山西軍の幹部訓練団等として、山西軍の幹部兵及び新兵の教育を行っていた。教育を行う部隊は教導総隊と呼ばれ、rを長とする山西省の政府であった太原綏靖公署の組織内におかれていた。
(c) 階級、軍服、給与等(<証拠略>、原告X1、原告X2、原告X9)
残留部隊の兵士たちは、全員が中国名を持ち、国府軍の将校服が支給され、日本軍の軍服を着ていることもあったものの、国府軍の将校服を着用していることもあった。日本政府からの給料は終戦により支給されなくなったが、太原綏靖公署又は国府軍から給料が支給された。また、特務団に入隊した際、日本軍在籍当時と比べ3階級上位の特務団としての階級を付与され、上等兵であった原告X1は少尉に、原告X2は、中尉から中校に、原告X9は兵長から少尉に、それぞれ昇進した。
(d) 徴用解除証明書(<証拠略>)
残留部隊として残留した日本人の中には、昭和22年・昭和23年に帰国している者もいるが、これらの者の中には太原綏靖公署主任r名の徴用解除証明書を交付された者がいる。
イ 以上の認定事実を総合すると、当時の客観的状況としては、昭和20年10月ないし12月ころ、中国政府及び山西軍においては、日本人の軍人や技術者を徴用することを画策したが、日本陸軍、特に支那派遣軍の方針がこれと異なっており、しかも米軍も関与して日本軍の武装解除が進められることとなったことなどから、中国政府が昭和21年1月20日に方針を変更するに至り、また、その後の支那派遣軍司令部のrに対する働きかけなどにより、遅くとも昭和21年4月5日には、rも少なくとも公式には特務団の編成を断念することに方針を転換したものというべきである。それに並行して、支那派遣軍から第一軍に対し、全員帰還の方針が徹底され、第一軍司令部も各部隊に対し、全員帰国の方針を明示して、残留希望者の指導、説得に当たり、最終的には、昭和21年4月15日に、残留をする者は日付をさかのぼり除隊者として処置することを命じ、多くの者が残留希望を撤回するに至ったが、2500名余りの将兵が残留することとなり、その余の者は、同年5月末までに帰国をしたことが認められる。また、特務団の活動内容も、山西軍の戦闘に参加したり、山西軍の教育をしたりし、山西軍の階級や軍服を与えられた上、山西軍からの給与を得ていたものと認められる。
すなわち、客観的に見る限り、残留部隊の活動を日本軍の命令に基づくものであるということはできないし、また、その活動が日本軍の活動であるということもできない。
この点について原告は、特務団及び本件旧軍人らの残留は日本軍の命令に基づくものである旨主張し、その根拠として、<証拠略>の電文を挙げる。
確かに、<証拠略>は、昭和21年2月2日ないし同年2月8日において、第一軍参謀長を発信者として鉄道修理工作部隊の徴用を指示する内容の電文であり、その内容を見る限り、第一軍の参謀長が徴用人員や部隊の任務等について指示をしているものと理解できる。しかし、前記アで認定のとおり、昭和21年2月上旬の時期は、第一軍がrの要求と全員帰還の方針との間で苦境に立っていた時期であり、その直前にrが山西地区日本徒手官兵善後連絡部長宛に徴用令を発していた時期であって、中国側が技術者徴用について正式にこれを認め、関係規則をも公布しているため、正当の手続によって残留しようとする希望者に対し、残留を禁止することができない状態となったので、徴用はあくまで本人の意思に基づいて決せられるべきものであること、徴用希望者は除隊(召集解除)した後において応募すべきものであること、及び、所属部隊は本人の決意を十分に確かめた上処理すべきことを重ねて示達した上で、前記各徴用の指揮を発出したとみるべきものであり、その後の状況として、中国政府ばかりかrにおいても徴用の方針を変更したものであって、第一軍の方針として特務団を編成する方針が最終的に維持されていなかったことは明らかというべきであるから、甲1ないし甲3をもって、日本軍が特務団編成の命令をしていたものと評価することはできない。
また、<証拠略>にも特務団が編成される旨の記載はあるものの、その主体に関してはいずれの電文においても「ⅡWA長官」、すなわち中華民国の第二戦区司令長官である旨が明記されており、また、その時期も昭和21年2月15日から3月5日であるから、前記甲1ないし3と同様、未だ第一軍がその方針を前面に打ち出して活動することが困難な時期のものであって、その後、日本軍が全員帰還の方針を明確に打ち出し活動するに至ったことは前記のとおりであるから、<証拠略>をもって、特務団の編成が日本軍の方針であったと認めるのは困難である。
なお、証人dの供述中には、前記認定にかかる昭和21年3月以降の状況の変化について全く触れておらず、同証人が当時大隊長の地位にあったことからすると不自然な感がないでもないが、同証言によると、同人は、米軍将校による武装解除後まもなく引揚の拠点となる沿岸地域に移動していることが認められ、前記のとおり米軍将校による第一軍の武装解除は昭和21年1月末に完了していることからすると、同証人は、上記の移動のためその後の状況の変化を知り得なかったものと認めるのが相当である。
(2) 原告らの除隊の有無
ア 原告らは、本件旧軍人らに対しては、除隊・召集解除等の手続がされておらず、また、仮に同手続がされていたとしても、本件旧軍人らに告知がされていないとし、本件旧軍人らは、日本に帰国した際まで日本軍人としての地位を有していたものと評価すべきである旨主張する。
イ しかし、前記(1)で認定したとおり、第一軍が昭和21年4月5日にその時点で帰国に応じようとしない者につき日付けをさかのぼらせて(すなわち、それらの者が従来の軍の役職から離れて特務団の一員となった時点をとらえて)除隊したものとして取り扱う旨の決定をしたことが認められ、その決定が残留者全員に個別的に告知されたか否かはともかくとして、それが公に命令として表明されたことは明らかであるから、既にこの時点において、残留者につきその者が特務団に属した時点において除隊したこととするとの手続が採られたことが認められる。そして、本件旧軍人らの陸軍戦時名簿、陸軍兵籍簿、留守名簿(<証拠略>)には、本件旧軍人らが、それぞれ昭和21年3月15日ないし23日に召集解除、除隊(現地除隊、現役満期除隊、現役現地除隊、現地満期除隊等)とされた旨が記載されており、これらの記載は、当時の客観的な状況と一致しているものと評価すべきであって、兵籍を離脱する事由については区々に分かれているものの、少なくともその記載の時点で除隊したものとされたことが認められる(原告らは、本件旧軍人らの兵籍等は、現地除隊等の記載と賞罰に関する記載の日付が逆になっていることや原本に貼紙等がされていたことなどによれば、その記載は正確なものとはいえない旨の主張をするが、前記のとおり、本件各軍人らを含めた残留者に対する除隊や召集解除の手続は、4月15日以降の時点で日付けをさかのぼらせて行われたものと認められるから、4月以降の日付で賞罰等が記載された後に3月中の日付けの除隊・召集解除等の記載がされていても、そのことはむしろ実態に合致したものということもできるし、弁論の全趣旨によれば、原告らの指摘するとおり本件旧軍人らの名簿等の原本に貼紙がされている事実も認められるが、前記のとおり、名簿の記載内容が前記の客観的状況に合致していることにかんがみれば、単に貼紙がされていることから前記記録が偽りのものであると認めるのは困難であり、他に前記記録の信用性を疑わせるに足りる事情は存しないから、原告らの主張は採用し得ない。)。
ウ 次に、除隊の決定がその対象である本件旧軍人らに告知されなかったとの主張については、確かに明示的な告知が全員に対してされたことを認めるに足りる証拠はなく、それがされなかった可能性も低くはないと考えられる。
しかし、仮にそのような告知がない場合においても、既に命令が外部的に公にされ軍の命令として外部的に成立している以上、その効果が対象者に及ぶか否かは別途検討すべき問題である。そして、軍の命令が通常の指揮命令系統に従って伝達されるものであって、その途中の段階の者が上官の指示を部下に伝達しない場合、特にそれが本件のように戦争状態が完全には終結していない地域でされるときには、末端の者に命令を伝達すること自体が困難となるのであって、そのようなときには、命令の伝達を受けなかった者が、それに反する行動をした後に命令の内容を知ったにもかかわらず、従前の行動を改めなかった以上、当初から命令の伝達を受けていたのにそのような行動をとった者と同様に取り扱われることもやむを得ないというべきである。
エ このような観点から本件旧軍人らがどのような考え又は認識に基づいて中国に残留し続けたかを検討するに、自己の立場がどのようなものかを認識した時期等については、各人の階級や所属部隊等により差異があることが予想されるものの、前記の事実経過からすると、一般に将校については、特務団の編成に着手されたことから、それに参加することは軍の命令ではなく、また軍自体の指揮命令系統を離れるものであることを認識していたものと認めるのが相当である。現に、原告X2については、同人の本人尋問の結果を総合すると、上官である大隊長から残留を命じられたことはなく、一定数の残留希望者を確保するには自らも残留すべきであると自ら判断したことが認められるところである。また、下士官以下の者については、当初から以上のような状況を正確に把握するのは困難であるのが通常であるが、少なくとも軍の命令があったか否かの点については、原告X1及び原告X9の各本人尋問の結果によると、特務団への参加については、通常の命令とは異なって各人の個別事情を考慮した打診がされていたことが認められるのであって、これを受ける者としても通常の命令ではないことは理解し得たものと認められる。そして、前記(1)(ウ)で認定した残留部隊の活動内容に照らすと、それは明らかに旧軍隊としてのものではなく、山西軍の一部としてのものであるから、これに参加した者は、将校か否かを問わず、もはや我が国の軍隊の指揮命令系統をはずれた活動を取っていることに気付いたはずであり、しかも昭和21年4月から5月にかけては復員に向けての説得がされ、2000人以上の者がこれに応じて残留を取りやめて復員しており、本件旧軍人らもこれを認識していたことが認められるのである。これらの点については、<証拠略>によれば、特務団は表向きは中国の正規軍としてスタートしたこと、活動としては八路軍(中共軍)掃討作戦の中国軍部隊の後方支援であったこと、第1回目の討伐作戦の後には(昭和21年5月以前であると思われる。)、rの作った兵舎に入っていたこと、そのころ、本隊の引き上げが始まり、第一軍各部隊の本格的送還がピークとなっており、「帰りたい者は帰ってもよいそうだ。どうしても帰りたい者は申し出たらよい」との話があったため、c中隊長に直接相談したとこと、同中隊長が自分は残らなければならないと言ったため、「自分も残ります」と申し出たことが認められること、並びに、<証拠略>によると、同原告は、残留部隊において中国名や中国軍隊の階級が用いられたのは、日本人が残留していることを公にはできないことによるものと考えていたこと(このように認識した時期について、同人はあいまいな供述をしているが、その全趣旨からすると、当初の時点からこれを認識していたものと認めることができる。)、及び、自らはもとより残留部隊もまた終戦により敗北したものとは考えておらず、復仇を念願として行動していたことが認められることからも裏付けられるところである。
すなわち、これらの事実を総合すれば、本件旧軍人らは、遅くとも本隊の帰国がほぼ終了した昭和21年5月ころには、自らの活動は日本軍としての活動ではなく、中国軍との間で新たな関係が生じていることは当然認識していたものであり、それまでに翻意の機会があったにもかかわらず、あえて我が国の敗北を率直に認めたくないなどの意思に基づいて残留を継続したものというべきであるから、特務団に移った時期にさかのぼって除隊として取り扱われてもやむを得ないものであったと認めることができる。
(3) 戦死者との公平を欠くとの主張について
原告らは、特務団に属した後に死亡した者については現地除隊等の措置が取り消されていることとの対比において、本件旧軍人らに対する取扱いは、公平性及び平等性を欠く旨主張する。
しかし、被告は、上記死亡者らの取扱いは遺族の心情を配慮した特別の措置である旨主張しており、我が国においては死者についてその生前の言動を不問に付することが広く行われていることにかんがみると、上記のように死者についてのみ特別の取扱いをすることもやむを得ないことと考えられるのであって、この点をとらえて公平性及び平等性に欠けるとはいい難く、原告の主張は採用できない。
(4) 除隊の時期及び在職年の計算
前記(1)の認定によれば、昭和21年3月15日ないし23日付けの除隊は、期間をさかのぼったものであると認められるところ、前記(2)で説示したとおり、その時点で除隊があったものとして恩給を計算することもやむを得ないというべきであるから、これを前提として在職年を計算すると、本件旧軍人らのうち、最短恩給年限(原告X10については恩給改定に必要な年限)に到達する者はいない。
(5) 小括
そうすると、原告らにつき、最短恩給年限に到達していない、又は、恩給改定に必要な年限に達していないとして原告らの請求を棄却した本件各処分は適法ということになる。
第4結論
以上の次第で原告X11の訴えを却下し、その余の原告の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条、65条1項本文を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 藤山雅行 加藤晴子 廣澤諭)