大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成13年(行ウ)176号 判決 2005年7月15日

原告

X1

X2

同訴訟代理人弁護士

伊藤和夫

高橋融

梓澤和幸

岩重佳治

打越さく良

近藤博徳

鈴木雅子

田島浩

樋渡俊一

福地直樹

毛受久

山﨑健

山口元一

山本健一

渡邉彰悟

渡邉彰悟訴訟復代理人弁護士

原啓一郎

猿田佐世

濱野泰嘉

伊藤敬史

両事件被告

法務大臣 南野知惠子

(以下、単に「被告」という。)

第二事件被告

東京入国管理局主任審査官

(以下、単に「被告」という。)

大和田髙道

被告両名指定代理人

別所卓郎<他7名>

被告法務大臣指定代理人(第一事件)

玉村幸雄

主文

一  被告法務大臣が原告に対し平成一三年二月一三日付け(告知は同年四月四日)でした出入国管理及び難民認定法四九条一項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。

二  被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成一三年四月四日付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用のうち、原告に生じた費用は三分し、その一を原告、その余を被告らの各負担とし、被告法務大臣に生じた費用は二分し、その一を原告、その余を被告法務大臣の負担とし、被告東京入国管理局主任審査官に生じた費用は被告東京入国管理局主任審査官の負担とする。

事実及び理由

第一請求

(第一事件)

被告法務大臣が原告に対し平成一三年二月七日付け(告知は同年四月四日)でした難民の認定をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)を取り消す。

(第二事件)

主文第一項及び第二項と同旨(以下、主文第一項記載の裁決を「本件裁決」、第二項記載の処分を「本件退令発付処分」という。)。

第二事案の概要

本件は、ミャンマー連邦(以下「ミャンマー」という。)国籍を有する原告が、被告法務大臣に対して難民の認定の申請をしたところ、同被告から申請期間の徒過を理由に本件不認定処分を受け(第一事件)、さらに、原告に対する不法残留容疑での退去強制手続において、同被告から原告の異議の申出には理由がない旨の裁決(本件裁決)を受け、被告東京入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)から本件退令発付処分を受けたこと(第二事件)について、これらの各処分及び裁決には原告が難民であることを看過した違法があるなどと主張して、その各取消しを求める事案である。

一  法令等の定め

(1)  難民の意義

出入国管理及び難民認定法(平成一三年法律一三六号による改正前のもの。以下「法」という。)において、「難民」とは、難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)一条の規定又は難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)一条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいう(法二条三号の二)。

難民条約一条及び難民議定書一条の各規定によれば、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」などが難民条約の適用を受ける難民とされている。

(2)  難民認定手続

法は、難民認定手続について、次のように定めている。

ア 法務大臣は、本邦にある外国人から法務省令で定める手続により申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定(以下「難民の認定」という。)を行うことができる(六一条の二第一項)。

イ 難民の認定の申請は、その者が本邦に上陸した日(本邦にある間に難民となる事由が生じた者にあっては、その事実を知った日)から六〇日以内に行わなければならない(六一条の二第二項本文)。ただし、やむを得ない事情があるときは、この限りでない(同項ただし書)。

ウ 法務大臣は、難民の認定をしたときは、法務省令で定める手続により、当該外国人に対し、難民認定証明書を交付し、難民の認定をしないときは、当該外国人に対し、理由を付した書面をもって、その旨を通知する(六一条の二第三項)。

エ 法務大臣は、四九条一項の規定による異議の申出(後記(3)エ)をした者が難民の認定を受けている者であるときは、五〇条一項に規定する場合(後記(3)カ)のほか、四九条三項の裁決に当たって、異議の申出が理由がないと認める場合でも、その者の在留を特別に許可することができる(六一条の二の八)。

(3)  退去強制手続

法は、退去強制手続について、次のように定めている。

ア 在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本邦に残留する者(二四条四号ロ)その他の法に規定する事由(以下「退去強制事由」という。)に該当する外国人については、法に規定する手続により、本邦からの退去を強制することができる(同条)。

イ 外国人が退去強制事由に該当すると疑うに足りる相当の理由があるときは、入国警備官は、主任審査官が発付する収容令書により、当該外国人を収容することができ(三九条)、収容した外国人は入国審査官に引き渡さなければならず(四四条)、引渡しを受けた入国審査官は、審査の結果、当該外国人が退去強制事由に該当すると認定したときは、主任審査官及び当該外国人にその旨を知らせなければならない(四七条二項)。

ウ 入国審査官の認定に対し、当該外国人から口頭審理の請求(四八条一項)があったときは、特別審理官は、口頭審理を行い(同条三項)、その結果、入国審査官の認定が誤りがないと判定したときは、主任審査官及び当該外国人にその旨を知らせなければならない(同条七項)。

エ 特別審理官の判定に対し、当該外国人から異議の申出(四九条一項)があったときは、法務大臣は、当該異議の申出が理由があるかどうかを裁決し、その結果を主任審査官に通知しなければならない(同条三項)。

オ 主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、当該外国人に対し、その旨を知らせるとともに、退去強制令書を発付しなければならない(四九条五項)。

カ 法務大臣は、裁決に当たって、異議の申出が理由がないと認める場合でも、当該外国人が永住許可を受けているとき(五〇条一項一号)、かつて日本国民として本邦に本籍を有したことがあるとき(同項二号)、その他法務大臣が特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき(同項三号)は、当該外国人の在留を特別に許可することができる(同項。以下、この許可を「在留特別許可」という。)。

二  前提となる事実(証拠の付記のない部分は当事者間に争いがない。)

(1)  原告

原告は、○○○○(昭和○)年○月○日、ビルマ連邦(現ミャンマー)で出生したミャンマー国籍を有する男性である。

(2)  入国及び在留等の状況

ア 原告は、一九九二(平成四)年七月一三日付けミャンマー内務省発行の原告名義の旅券を所持し、一九九三(平成五)年一月六日、ミャンマーを出国してタイに入国し、同国に滞在した後、同年一月一五日、新東京国際空港に到着し、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田支局入国審査官に対して、渡航目的「TOURIST(観光)」、日本滞在予定期間「七DAYS(七日間)」とそれぞれ外国人入国記録に記入して上陸申請し、同日、在留資格「短期滞在」、在留期間九〇日の上陸許可を受け、本邦に上陸した。

イ 原告は、一九九三(平成五)年一月二七日、東京都豊島区<以下省略>を居住地として、同区長に対し、外国人登録の新規登録申請をした。

ウ 原告は、在留資格の変更又は在留期間の更新の許可申請をすることなく、在留期限である一九九三(平成五)年四月一五日を超えて、本邦に残留している。

エ 前記アの旅券には、一九九五(平成七)年七月一〇日付けで、在東京ミャンマー大使館員が、有効期間を一九九六(平成八)年七月一二日まで延長した旨の記載がある。

オ 原告は、一九九九(平成一一)年一〇月八日、東京都新宿区<以下省略>を居住地として、同区長に対し、二〇〇〇(平成一二)年一月二四日、同区高田馬場《番地省略》を居住地として、同区長に対し、二〇〇一(平成一三)年三月二六日、同都豊島区<以下省略>を居住地として、同区長に対し、それぞれ居住地変更登録申請をした。

(3)  本件不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分に至る経緯

ア 原告は、一九九九(平成一一)年一〇月八日、被告法務大臣に対し、難民の認定の申請(以下「本件認定申請」という。)をした。

イ 東京入管難民調査官は、二〇〇〇(平成一二)年一月二八日及び同年二月一七日、原告から事情を聴取するなどの調査をした。

ウ 東京入管入国警備官は、二〇〇〇(平成一二)年三月二二日に違反調査を実施した結果、原告が法二四条四号ロに該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、同年四月二八日、被告主任審査官から収容令書の発付を受け、同年五月二日、同令書を執行して、原告を法二四条四号ロ該当容疑者として東京入管入国審査官に引き渡した。

エ 被告主任審査官は、二〇〇〇(平成一二)年五月二日、原告の仮放免を許可した。

オ 東京入管入国審査官は、二〇〇〇(平成一二)年五月二日及び同年六月二一日、原告について違反審査をし、その結果、同年六月二一日、原告が法二四条四号ロに該当すると認定し、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、口頭審理を請求した。

カ 東京入管特別審理官は、二〇〇〇(平成一二)年一一月二二日、口頭審理を実施し、その結果、同日、前記オの認定に誤りがないと判定し、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、被告法務大臣に対し、法四九条一項の異議の申出(以下「本件異議申出」という。)をした。

キ 被告法務大臣は、二〇〇一(平成一三)年二月七日、本件認定申請について、本件不認定処分をし、同年四月四日、原告に対し、「あなたからの難民認定申請は、出入国管理及び難民認定法第六一条の二第二項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、あなたの申請遅延の申立ては、同項但書の規定を適用すべき事情とは認められません。」との理由を付した書面により、これを通知した。

ク 被告法務大臣は、二〇〇一(平成一三)年二月一三日、本件異議申出は理由がない旨の本件裁決をし、その通知を受けた被告主任審査官は、同年四月四日、原告にこれを通知するとともに、本件退令発付処分をした。

ケ 東京入管入国警備官は、二〇〇一(平成一三)年四月四日、原告を東京入管収容場に収容し、同年四月二〇日、原告を入国者収容所東日本入国管理センターに移収した。

(4)  本件訴訟の提起等

ア 原告は、二〇〇一(平成一三)年六月二九日に第一事件、同年七月三日に第二事件をそれぞれ提起した。

イ 原告は、その後、仮放免された。

三  本件の争点の概要

本件の争点は、本件不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分の各取消原因の存否であり、その前提として、原告の難民該当性(原告が、法二条三号の二に規定する「難民」、すなわち、難民条約の適用を受ける難民に当たるかどうか。)が争われている。原告の難民該当性に関する当事者の主張の要旨は、後記四及び五のとおりであり、その他の点(前記各処分及び裁決に固有の問題)に関する当事者の主張の要旨は、次の(1)及び(2)のとおりである。

(1)  本件不認定処分の取消原因について

(第一事件)

ア 原告の主張

本件不認定処分は、本件認定申請が法六一条の二第二項(いわゆる六〇日条項)の要件を欠くことを理由とするものであるところ、このような処分には、次の取消原因がある。

(ア) 法六一条の二第二項本文の難民条約違反性等

難民条約によれば、その締約国は、その国内法において、難民の認定の申請を一定期間内に行うよう求めることはできるが、難民を保護すべきことを要請している難民条約の趣旨からすれば、申請がこの期間を徒過しても、難民該当性の実体判断をする義務を負うと解すべきである。本件不認定処分は、これと異なる見解に立ち、原告の難民該当性の実体判断をしなかったものであり、難民条約に違反する違法がある。

(イ) 法六一条の二第二項ただし書の目的論的解釈

仮に、前記(ア)のように解することができないとしても、法六一条の二第二項ただし書を目的論的に解釈し、ここにいう「やむを得ない事情」には、具体的な状況の下において、無知や恐怖、申請の準備の必要など、申請者の様々な主観的・客観的事情が含まれると解すべきである。

本件において、原告は、第一に、入国時においては日本の難民認定制度の存在自体を知らず、第二に、難民認定制度が自己にも門戸を開いているものとは思えなかったために自らも難民の認定の申請をするという行動に出ることができず、第三に、難民の認定が受けられなかった場合に予想される本国への強制送還の危険を冒してまで難民の認定の申請をすることに踏み切れなかったものである。このような事情は、前記のとおり目的論的に解釈した法六一条の二第二項ただし書の「やむを得ない事情」に当たるというべきである。

(ウ) 理由付記の不備

本件不認定処分に付記された理由は、形式的なものであり、原告が難民と認定されなかった実体的な理由や、原告が難民と認定されるために求められている立証の程度は明らかにされていない。これでは、原告が本件訴訟において適切な反論をするために必要不可欠な事項が明らかになっておらず、本件訴訟も実効的なものとなり得ないのであって、理由付記の不備があるというべきである。

イ 被告法務大臣の主張

(ア) 法六一条の二第二項本文について

難民条約その他の関係条約は、難民認定手続については何ら定めておらず、どのような手続を定めるかは、各締約国の立法裁量に委ねられているから、我が国が難民認定手続において申請期間の制限を設けたとしても、そのこと自体が難民条約に違反するものではない。また、そうである以上、申請期間の要件を満たしていない難民の認定の申請について、難民該当性についての実体審査をすることなく難民の認定をしない処分をしたとしても、それが違法でないことも明らかである。

なお、法六一条の二第二項が設けられた理由は、難民となる事実が生じてから長期間経過後に難民の認定の申請がされると、その当時の事実関係を把握するのが著しく困難となり、適正かつ公正な難民の認定ができなくなること、迫害を受けるおそれがあるとして本邦に庇護を求める者は、速やかにその旨を申し出るべきであること、我が国の実情からすれば、六〇日は申請に十分な期間と考えられることなどにあり、この規定には合理性がある。

(イ) 法六一条の二第二項ただし書について

前記のような法六一条の二第二項が設けられた趣旨からすれば、同項ただし書の「やむを得ない事情」とは、同項本文の期間内に難民の認定の申請をする意思を有していた者が、病気、交通の途絶等の客観的事情により物理的に入国管理官署に出向くことができなかった場合のほか、第三国での保護を求めて入国申請等具体的な手続を行っているうちに同項本文の期間が経過し、第三国への入国も認められなかったなど、本邦において難民の認定の申請をするか否かの意思を決定するのが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合をいうものと解すべきである。

本件はこのような場合に該当せず、原告に法六一条の二第二項ただし書の「やむを得ない事情」があったとはいえない。

(ウ) 理由付記について

原告の主張は、難民の認定の申請が法六一条の二第二項の申請期間経過後にされたとしても、難民該当性の実体判断をすべきであるという主張を前提とするものであるが、その前提とする主張が誤りであることは前記(ア)のとおりであるから、原告の理由不備の違法の主張に理由がないことは明らかである。

(エ) 難民不認定処分の取消原因について

難民不認定処分は、法六一条の二第二項に違反することを理由とする場合であっても、難民非該当を理由とする場合であっても、「難民の認定をしない処分」という一つの同じ処分と解すべきであるから、本件不認定処分の取消しを求める原告は、請求原因として、①本件認定申請が法六一条の二第二項の要件を満たすものであることと、②原告が難民であることの両方を主張立証しなければならず、裁判所は、その両方が認められない限り、本件不認定処分を取り消すことができない。

(2)  本件裁決及び本件退令発付処分の取消原因について(第二事件)

ア 原告の主張

後記四のとおり、原告は、その政治的意見のために国籍国の政府から迫害を受けるおそれのある難民であり、原告を本国に送還することは、人道上許容し得ない処分であり、また、拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(以下「拷問等禁止条約」という。)三条が禁止する拷問が行われるおそれがあると信ずるに足りる実質的な根拠がある他の国への送還行為に該当する。

したがって、原告に在留特別許可を与えることなく本件裁決をした被告法務大臣の行為は裁量権を逸脱・濫用した違法なものであり、被告主任審査官の本件退令発付処分も違法である。

イ 被告法務大臣の主張

在留特別許可における法務大臣の裁量の範囲は、非常に広範なものであるから、その判断が違法と評価されるのは、法務大臣がその付与された権限の趣旨に明らかに背いて裁量権を行使したものと認め得るような特別の事情がある場合など極めて例外的な場合に限られる。

原告は、法二四条四号ロ所定の退去強制事由に明らかに該当し、来日するまで我が国と何らのかかわりもなく、当初から我が国での不法就労を意図していたものであって、入国審査官に対し観光目的であるとの虚偽の上陸申請をし、外国人登録の新規登録申請の際に虚偽の居住地を申告するなど、その素行は著しく悪質であり、出入国管理上看過できるものではない。また、原告は稼働能力を有する成年男子であって、本国での生活に特段の支障は見当たらない。さらに、後記五のとおり、原告は難民に該当せず、原告が帰国したとしても迫害を受けるおそれはなく、原告の本国への送還が拷問等禁止条約に違反する余地もない。

したがって、原告に在留を認めるべき積極的な理由があるとはいえず、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量権を逸脱・濫用した違法があるとはいえない。

ウ 被告主任審査官の主張

主任審査官は、法務大臣から法四九条一項の異議の申出は理由がない旨の裁決をした旨の通知を受けたときは、同条五項の規定により退去強制令書を発付しなければならず、退去強制令書を発付するにつき全く裁量の余地はない。

また、後記五のとおり、原告は難民に該当せず、原告が帰国したとしても迫害を受けるおそれはないから、本件退令発付処分が拷問等禁止条約に違反する余地はない。

したがって、本件退令発付処分は適法である。

四  難民該当性に関する原告の主張

(1)  留意点

難民該当性の判断に当たっては、当該申請者の受けた個別的な迫害の状況、出身国の人権状況、同様の状況に置かれている者の事情等を勘案する必要があるが、迫害から逃走してくる者が、難民該当性に関する十分な証拠をもって出国することはほとんど期待できないことからすれば、難民該当性に関する十分な証拠の提出を要求するのは酷である一方、誤った難民不認定処分が当該申請者に対して極めて深刻な結果をもたらすことを考慮すると、たとえ難民該当性に関する証拠に一部欠ける点があったとしても、当該申請人に「灰色の利益」を与え、反対の十分の理由がない限り、難民該当性を肯定すべきである。

また、難民該当性の判断に当たって重要となる、当該難民認定申請者の供述の信憑性を判断するに当たっては、①当該難民認定申請者はもちろん、難民該当性の調査判断をする行政庁においても、当該難民認定申請者の出身国における人権状況等に関する情報を十分に入手することは困難であること、②難民認定申請者は、強烈な迫害体験を有していればいるほど心的な傷害を負い、記憶の障害等を来し、不正確な供述をする場合があり、また、「当局者」である出入国管理関係職員や難民認定関係職員、通訳人等に対する不信感や、出身国に残してきた親族、知人等に危険が及ぶことを避けようとする意識から、真実を隠し、虚偽の供述をする傾向が見られること、③言語や文化的背景の違いなどから、当該難民認定申請者の供述が誤って評価されるおそれがあることなどを考慮し、表面的な判断によって当該難民認定申請者の供述の信憑性を否定してしまうことなく慎重な評価が必要となる。

(2)  原告の難民該当性を基礎付ける背景事情

ア 本国の情勢

原告の本国ミャンマーでは、一九八八(昭和六三)年に大規模な民主化要求闘争が行われたが、同年九月一八日に軍事クーデターが起こり、国家法秩序回復評議会(SLORC)が全権を掌握して以来、強権的な支配が続いており、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)の関係者など民主化活動家に対する迫害が続いている。

イ 在日反政府組織に所属する活動家に対する迫害のおそれ

一九九七(平成九)年四月六日にSLORC第二書記のティンウー中将の自宅に小包が届き、これが爆発して同書記の長女が死亡するという事件が起きたときには、SLORCは、「今回の犯行は在日のいくつかの反政府組織が企てたものであり、それらの組織がテロリズムに訴える方向へと路線を転換し、実行したものである。」と発表し、同年六月二七日には、在日ビルマ人協会所属のティングエ及びトーマス・ゴンアウンを犯人として特定した。

在日ビルマ人協会は、一九八八(昭和六三)年九月に民主化運動に対するミャンマー政府の軍事弾圧による死者を弔う会に集まった当時の在日ミャンマー人たちによって結成されたものであるが、その後、ミャンマー軍事政権に反対し、ビルマ民主化運動への支援活動を行う団体として旗色を鮮明にして活動してきたものである。

そして、その後一九九五(平成七)年に結成された国民民主連盟解放地域日本支部(以下「NLD―LA日本支部」という。)も、元在日ビルマ人協会のメンバーを中心として結成されたもので、ミャンマー政府によって反政府組織として位置付けられている。

(3)  原告の難民該当事由

ア 本国における政治活動及び来日の経緯

一九八三(昭和五八)年、原告はマンダレー大学に入学した。

一九八七(昭和六二)年九月、マンダレー大学学内で、当時の政権党が発した廃貨令に対する反対デモが行われ、原告もこれに参加した。

一九八八(昭和六三)年七月、ビルマの民主化と国に学生自治会の結成を認めさせることを目的として、マンダレー大学学生連合が組織された。原告も、友人で同大学の学生であったアウンチョーモーに誘われて、同月、同学生連合に参加した。同月から同年九月一八日のクーデター前までは、マンダレー大学構内や周辺でほぼ毎日のように民主化及び学生自治を求めるデモが行われた。大学構内のデモは大がかりなもので、週三、四回あり、原告は大学が閉鎖する土日以外は毎日大学へ行き、ほぼ毎回デモに参加した。マンダレー大学及びマンダレー市全体の民主化運動の推進役であったマンダレー大学学生連合には、クーデター前まで、一一〇〇人以上の学生及び助手が加わっていた。同学生連合は、中心の一五人で中央執行委員会を構成し、そのうちのゾーモーチョーとアウンチョーウーの二人が代表を務めた。原告も、中央執行委員会の一員として、勧誘と情報収集を担当し、民主化を求めるビラを配布したり、人が集まる喫茶店等のテーブルの上にビラを置いたりした。

一九八八(昭和六三)年九月一八日、クーデターが起こり、同日夜、軍がマンダレー大学を閉鎖し、同月二五日ころには、寮も閉鎖された。原告は、マンダレー市内に住んでいたが、危険を感じて友人のところに宿泊しつつ、民主化を求めるビラを配り続けた。

一九八八(昭和六三)年一〇月ころ、原告は、友人から紹介された弁護士ティンエイチューから、地下で民主化活動を一緒にやろうと誘われた。この呼びかけに対して、当初三〇人くらいが応じたが、実際に活動したのは、ティンエイチュー、原告、アウンチョーモー、ゾーモーチョー、アウンチョーウーの五人であった。ティンエイチューがビラを執筆し、他の四人がこれを若者が集まりそうな場所に配布したり、貼付したりした。クーデター後は、ビラを配布したことが発覚すれば逮捕されることが確実であったので、原告は、ビラを貼り終えるとすぐに自転車に乗って逃げる等の用心をした。また、原告は、民主化活動に関心のない人のところに宿泊したり、街の周辺地域に泊まったりして、逮捕されないように気を付けた。

一九八九(平成元)年二月、アウンチョーモーが、ビラを配布中に軍情報局に逮捕され、一か月後に釈放された。同人は同年内に国境へ逃亡したが、原告は、その後同人が死亡したと聞いた。また、同年三月には、ゾーモーチョーとアウンチョーウーが、それぞれビラを配布中に逮捕された。原告は、その後の二人の消息を知らない。

原告は、その後も、ティンエイチューと、新たに加わったセインジーの三人で民主化活動を続けたが、一九九一(平成三)年にリーダー格のティンエイチューが逮捕され、刑務所に収容されてしまい、残された二人だけで民主化活動を進めていくことは困難となった。

マンダレー大学は、開講してもすぐ閉鎖し、講義がない状態が続いた。また、ミャンマー軍事政権の下では、民主化運動を続けてきた原告にとって、学位を取得したとしても、将来がないことは明らかであった。そこで、原告は、学業を続ける意欲を失い、一九九二(平成四)年ころ、同大学を中退した。

原告は、大学に籍を置いていた一九九一(平成三)年から兄のレンタルビデオ店の手伝いをしていたが、一九九二(平成四)年三月ころ、原告の民主化運動ゆえに将来の見通しがつかないことを心配した原告の父から、日本へ行くことを勧められた。原告は、日本には、叔父が一人いるほかは、家族も親戚も知人もいなかったが、ミャンマーでは政治活動の自由もなく、将来の見通しもつかないことから、父の勧めを受け、日本へ行くことを決意した。民主化が実現されない限り、ミャンマーに帰るつもりはなかった。

イ 来日後の活動

原告は、一九九三(平成五)年一月に来日し、横浜市内のかに料理店で働きはじめたところ、同店で働くビルマ人の中にトーマス・ゴンアウンの知り合いがいた。そこで、その人からトーマス・ゴンアウンの電話番号を教えてもらい、同人に電話をかけ、原告が本国で民主化運動を行ってきたこと、日本でもビルマ民主化運動に参加したいことを伝えた。すると、トーマス・ゴンアウンは、在日ビルマ人協会主催のデモの日程を教えてくれた。そこで、原告は、一九九四(平成六)年ころから、ミャンマー大使館前でのデモに参加するようになった。

原告は、その後も大使館前等でのデモに参加し、一九九五(平成七)年のNLD―LA日本支部の結成以前にも、一〇回程度、ビルマ民主化を掲げたデモに参加した。原告は、デモに参加するうちに、日本国内でビルマ民主化運動に取り組む仲間たちに出会った。Cは、そのうちの一人で、同人は、当時原告が住んでいた横浜まで来て、NLD―LA日本支部の創設の必要を説明してくれた。

一九九五(平成七)年五月二一日、NLD―LA日本支部が創設された。原告は、NLD―LA日本支部の創設時に、実行委員会の役員になり、その後も、二〇〇〇(平成一二)年に収容されるまで、同委員会の役員を務めた。原告は、デモを事前に宣伝したり、NLD―LA日本支部の機関誌「シュエイヤドゥー」の製本作業に従事したり、忙しい議長らのサポートをしたりして、NLD―LA日本支部の活動の一端を担った。

「シュエイヤドゥー」にはNLD―LA日本支部の役員リストが掲載されており、大使館員が「シュエイヤドゥー」を入手するのは簡単である。また、原告は、マウンエイ中将や、チョーウィン、フラミン、ウィンアウンらミャンマー軍事政権の要人が来日した際、軍事政権に抗議するデモに参加してきたが、ミャンマーの大使館員は、その様子を写真に撮るなどしている。

一九九九(平成一一)年五月二三日、ミャンマー大使館の主催で開かれていた日本ミャンマー伝統文化友好コンサートの会場で、ミャンマー人民主化活動家が大使館職員等から暴行を受け負傷するという事件が起き、この事件を機会に、原告ら在日ミャンマー人民主化活動家の間で切迫感が高まり、集団での難民の認定の申請が相次いだ。原告も、NLD―LA日本支部の友人Dらに難民の認定の申請を勧められ、同年一〇月八日、他のビルマ人二四人とともに難民の認定の申請をした。

(4)  まとめ

以上より、ミャンマーの現軍事政権側には、原告は、反政府活動を進める者の一人として確実に認識されており、原告が本国に戻れば、投獄、拷問などの迫害を受ける危険性が非常に高く、生命の保証さえないというべきである。したがって、原告は、その政治的意見のため、国籍国の政府から迫害を受けるおそれがあり、国籍国の保護を受けることができないのであって、まさに難民に該当する。

五  難民該当性に関する被告らの主張

(1)  留意点

難民の意義は、前記第二の一(1)のとおりであり、ここでいう「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要である。

難民であることの立証責任は、申請者が負い、申請者は、まず、自ら、難民条約に列挙された事由を理由として迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情があり、かつ、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることを認めるに足りる資料を提出しなければならない。

難民該当性が問題となる訴訟においては、難民性をめぐる主観的証拠が偽装されやすく、偽装を厭わない風潮も存するので、迫害のおそれに関する供述や証言等主観的な証拠の信憑性を吟味するに当たっては、通常の事実認定と同様に、客観的な証拠や事実が重視されるべきであり、客観的な証拠や事実と矛盾し、整合しない供述等に信用性を認めるについては、その矛盾や不整合について、通常人が疑いを差し挟まない程度の合理的な理由を要するものというべきである。

(2)  ミャンマー人が海外で難民認定制度を濫用することが半ば公知の事実となっていること

現在、ミャンマーにおいては、我が国や欧米諸国等へ入国し、高収入を得ようとする動きが活発になっており、その前提として、難民認定制度を濫用し、隣国等の第三国で難民として認定を受け、目的地の国へ入国しようとしている傾向がある。原告についても、後記(3)以下のような事情や、原告が上記難民認定濫用先として人気の高い、我が国、タイ、シンガポール、香港、マレーシア、及び米国を訪問するとして旅券の発給を受けていることをみれば、その一例であると考えるのが相当である。

(3)  原告が本国において迫害の対象となっていたとは考えられないこと

原告が問題なく旅券の発給を受けた上で、合法的に出国したり、隣国タイで難民性を主張していないこと等をみれば、原告が仮に本国において何らかの政治運動等に参加したことが事実であるとしても、そのことについて本国政府が迫害の対象とするほど問題視していたとは認め難い。

確かに、ミャンマーにおいては、海外で就労しようとする者から多額の金員を取って手続を指南する者が存在するが、それらの内容は、大使館への提出書類の偽造であり、また、官吏への賄賂についていえば、せいぜい早期処理をすることの報酬という程度のものにすぎない。ミャンマーにおいては厳格な出国審査が実施され、反政府活動に関与した程度によって出国の許否等が決定されており、正規に出国が認められた者は、少なくともその時点において反政府活動に深く関わっているとミャンマー政府が考えない者であったことが強く推認される。

(4)  原告が本邦において高い政治意識をもって反政府活動をしていたとは考えられないこと

原告は、NLD―LA日本支部の幹部といっても運営委員会の会員にすぎず、組織における具体的役割や権限も明らかでなく、NLD―LA日本支部という組織自体の活動実体も明らかではない。

原告の本邦における反政府運動の具体的内容は、ミャンマー大使館前での抗議デモ程度のことでしかなく、デモを行う時間も短時間で、原告は、掲げられている横断幕の記載内容も理解せず、本国での過去の重要な政治情勢や行っている抗議行動の意味も理解しないままデモに参加していた。

原告は、原告がした大使館前でのデモ活動等を大使館員が写真に撮影しているというが、これをもって難民と認めることはできない。そもそも、ミャンマー国外で民主化運動を行っているミャンマー人は一説には一〇〇万人ともいわれており、そのすべてを本国政府が敵対視しているとは考え難い。

原告は、一九九五(平成七)年七月一〇日、アウンサンスーチーが軟禁から解放されたその日に、自らの不法残留対策のためミャンマー大使館から旅券の有効期間の延長許可を受けており、高い政治的意識をもって本国の政治に興味を抱いているとは認め難い。また、仮に、ミャンマー政府からの迫害をおそれているのなら、大使館の敷地に立ち入ること自体しないはずである。

なお、原告は、旅券の有効期間の延長は、ブローカーを通じて偽造した旨供述するが、原告の旅券に記載されている大使館員の署名が真正なものであることなどからすると、偽造した旨の供述に信憑性はない。

(5)  原告の真の在留目的は本邦での不法就労であると推測されること

原告は、本邦に入国した後、直ちに銀行で原告名義の口座を開設し、横浜市内の料理店で稼働を始め、その後、東京都内及び埼玉県内の飲食店等で不法就労を続け、本国の家族に生活費等のため地下銀行を通じて合計で少なくとも一〇〇万円(ミャンマーの一般的年収の三〇年分以上にも及ぶ金額)程度の送金をしている。そして、原告の三人の弟は、それぞれシンガポール、台湾及びマレーシアに滞在し、これらの国及び我が国がいずれも海外で高収入を得ようとするミャンマー人の間で人気の国・地域であることなどからすると、結局、原告は、弟らと共に高収入を得ることを目的に海外に滞在し、難民の認定の申請を在留資格を得るための口実に使用したにすぎず、その真の目的は、本邦における不法就労にあるものと考えられる。

(6)  原告の供述は場当たり的で信憑性がないこと

原告は、難民調査及び違反調査において本邦入国の目的を稼働と供述したのは虚偽であり、いずれの日も体調が悪かったためであると弁解しているが、入国目的という重要な内容について、体調が悪いからといって虚偽の供述を繰り返すということはあり得ない。

原告は、本邦入国当時には本邦に知人がいなかったとしているが、原告が上陸許可申請の際提出した申請書には本邦における連絡先としてミャンマー人の氏名及び居住地を記載していること、原告は出国の際本邦に入国するための査証を取得しており、通常、査証を取得する際には本邦における滞在先を明示した上で発給を受けるものであることからすると、信用性に乏しい。

原告は、本国で一緒に地下活動をしていた同志四名が身柄を拘束されたとしているが、その後これらの者の安否の確認や獄中にいる者の解放を求めるような行動を行っていないことなどからすると、原告の同志が身柄を拘束された旨の供述に信憑性はない。

原告は、マンダレー大学が最初に閉鎖された時期について、一九八八(昭和六三)年に軍が政権を掌握した直後の九月一八日であるとしているが、実際に同校が閉鎖されたのは同年六月二三日であり、当時学生運動をしていた者なら当然知っているはずのことを承知していない。

原告は、後記(7)の人違い事件のことを一九九六(平成八)年又は一九九七(平成九)年ころ証人Eから聞かされたとしているが、難民認定手続及び退去強制手続においてはその旨を訴えておらず、同証人の証言に対する評価も併せみれば、人違い事件に関する供述に信憑性はない。

(7)  証人Eの証言には信憑性がないこと

証人Eは、自身が原告と同時にした難民の認定の申請の手続の最中のころにFなるミャンマー人不法残留者から、A・Bという原告に似た名のミャンマー人が帰国した際にNLD―LA日本支部の活動家であると疑われて長い時間事情聴取を受けたという話を聞き、原告にこれを伝え、「これからも政治活動をしっかりやれよな。健康に気をつけてやれよ。」とアドバイスした旨を証言している。

しかしながら、同証人はこのような話を入国管理局での事情聴取等においては全くしておらず、同証人の所属するNLD―LA日本支部の機関誌等にも掲載されておらず、上記のような一般的抽象的なアドバイスをするのは不自然であり、事情聴取を受けた人物の名を当初は「A1・B1」と述べていたのに証人尋問では「A・B」であったと供述を変遷させており、該当する人物の出入国歴もないことなどからすると、同証人の証言には信憑性が認められない。

(8)  まとめ

以上のことにかんがみれば、原告が本国に帰国した場合に政府により迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するとは認め難く、原告が難民に該当しないことは明らかである。

第三当裁判所の判断

一  原告の難民該当性について

(1)  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

ア ミャンマーでは、一九八八(昭和六三)年三月に起こった学生を主体とする反政府運動が次第に激しくなり、同年八月八日には学生組織などの呼びかけにより大規模なゼネストが展開されたが、同年九月一八日に軍事クーデターが起こり、国家法秩序回復評議会(SLORC)が全権を掌握した。一九九〇(平成二)年五月には総選挙が施行され、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)が八割の議席を占めて勝利したが、SLORCは、NLDに政権を委譲しなかった。

一九九六(平成八)年一二月二五日にはガバーエーパゴダで政府要人をねらった爆弾事件(以下「パゴダ爆弾事件」という。)があり、一九九七(平成九)年四月六日にはSLORC第二書記のティンウー中将の自宅に小包が届き、これが爆発して同書記の長女が死亡するという事件(以下「小包爆弾事件」という。)が起きた。SLORCは、同月八日、小包爆弾事件について、在日反政府組織がテロリズム路線へ転換し実行したものである旨を発表し、同年六月二七日、在日ビルマ人協会所属のティングエ及びトーマス・ゴンアウンが同事件の犯人として特定されたと発表した。

SLORCは、一九九七(平成九)年一一月に国家平和発展評議会(SPDC)と改名した。

イ ミャンマーにおけるNLD関係者や政治的理由による身柄拘束者に対する処遇については、次のような報告がある。

(ア) アムネスティ・インターナショナル年次報告書一九九七年版

一九九六(平成八)年五月、NLDが党大会を招集した後、軍政府は三〇〇人以上の活動家を逮捕した。

同年九月、NLDの党大会の参加を要求する何百人かの国会議員当選者とNLD支持者は短期間拘禁された。逮捕者数は当局の発表では五七三人だったが、反対派によれば八〇〇人であった。

(イ) ヒューマンライツウォッチ世界報告書一九九八年版

一九九七(平成九)年の間もミャンマーにおける人権の尊重は、容赦なく悪化し続けた。反対勢力であるNLDは、政府の抑圧の標的となり続けた。この年の間、NLDの指導者らは、いかなる公の演説を行うことも禁止され、五月に党議会を開こうとした三〇〇人以上の党員が拘留された。

SLORCは、パゴダ爆弾事件及び小包爆弾事件を、追放されている全ビルマ学生民主戦線及びカレン民族同盟の武装反対勢力によるものであるとし、NLDはこれらのグループと連絡を取り合っている「公然とした破壊的因子」であるとした。

(ウ) 国連人権委員会決議に従って提出された特別報告官ラジスーマー・ララの報告(二〇〇〇年一月二四日)

特別報告官は、特にNLDの幹部及び一般の会員に対して、NLDをやめさせるためのいやがらせと脅迫がなされているとの報告を、継続して受けている。アウンサンスーチーが他のNLDリーダーに会うことは可能であるが、常に制限を受け監視されている。

公の集会は許されない。脱退強制の結果、特に執行委員会のメンバー、及び数多くのNLD支部が閉鎖又は解散に追い込まれた。一九九九(平成一一)年三月までに五〇以上の支部が閉鎖を強要されている。さらに、同年九月に受け取った多数の情報によれば、NLDの、選出議員を含む多くのメンバーと他の活動家が、数百人単位で、逮捕あるいはその他の形で刑務所などに留置されており、他のメンバーは、集会及び活動の自由が制限され、組織的な監視を受けている。

(エ) 米国国務省各国人権情報二〇〇〇年版

一九九五(平成七)年にNLD書記長であるアウンサンスーチーをその自宅での軟禁から表面上は解放して以来、軍事政権は彼女に対して、首都の外への旅行を、修道院訪問の一度しか許可していない。二〇〇〇(平成一二)年八月二四日、ヤンゴン郊外で彼女はNLDの党会議へ行くことを阻止され、九日間道ばたで孤立することとなり、その間彼女は党員に連絡することを拒否された。この孤立状態は、警察がアウンサンスーチーとその仲間の身柄を拘束し、アウンサンスーチーのヤンゴンでの自宅で外部との音信を不通にした状態で拘留した同年九月二日に終了し、これは同月一四日まで続いた。同月二一日、軍事政権は再び彼女の電車でのマンダレーへの旅行を阻止し、自宅で外部との連絡を絶った状態で拘留した。SPDCも同様に、これら両方のできごとにおいて、NLDの他の指導者を拘留した。その中にはNLD副議長のティンウーも含まれていた。一九九六(平成八)年以来、保安部隊はアウンサンスーチーの自宅前の通りの公衆の通行も制限している。

二〇〇〇(平成一二)年九月二一日、NLD党員は、ヤンゴン鉄道駅にて予定されていたマンダレーへの遊説へ出発するアウンサンスーチーを見送りに集まっていたが、警察は彼らを逮捕し、年末の時点で彼らは勾留中である。その際、約一〇〇名のNLD党員が逮捕された。

(オ) アムネスティ・インターナショナル報告書「ビルマ(ミャンマー):制度化された拷問」(二〇〇〇年一二月一三日発行)

ミャンマーでは拷問や虐待が制度化されてきた。軍の情報員、刑務所の看守や警察官は、政治的理由による拘留者を尋問するときに、また、反乱を牽制するための手段として拷問や虐待を用いている。時と場所は異なっても、拷問のパターンは同じだ。拷問が国中で行われてきたことは、四〇年以上にもわたって報告されている。治安部隊は、情報を引き出し、政治囚や少数民族の人々を罰し、軍事政権に批判的な人々に恐怖を植え付ける手段として、拷問を用い続けている。

一九九〇(平成二)年五月の総選挙でNLDが八〇パーセント以上の議席を獲得して以来、過去一〇余年、軍政は一連のNLDへの取締りを展開してきた。NLDは政権を担うことを許されず、何百人もの党員は平和的な政治活動のために投獄され、何千人もの党員が離党を迫られてきた。さらにSPDCは嫌がらせや監視、党の事務所の閉鎖など様々なコントロールを、反対勢力の牽制や人々に恐怖を与え続けるために行っている。今日ミャンマーでは表現や結社の自由はほとんど完全に否定されている。二〇〇〇(平成一二)年には平和的な反政府勢力にさらなる弾圧が加えられた。現在も、アウンサンスーチーと八人のNLD中央執行委員会のメンバーは、首都ヤンゴンの郊外を訪れようとした同年九月以来、軟禁状態におかれている。NLDの副議長ティンウーも、反政府行動のために捕らわれた何百もの人々とともに、現在も軍の拘置所に拘留されている。

一七〇〇人に及ぶとされる政治囚は、拘禁の初期段階において、軍の情報員が入れ替わり立ち代わり行う尋問中に、すでに拷問の危険にさらされている。尋問は何時間も、時には何日間も続く。また政治囚は判決後も、便箋の保持などのような、刑務所の恣意的なルールを破ったとして罰せられる場合に、拷問や虐待をうけやすい。さらに、刑事囚は当局によって労働キャンプでの砕石、道路建設などの労働に従事させられている。労働キャンプの状況は非常に厳しく、何百人、何千人もの囚人が虐待や過度の労働、また食糧や医療の欠如が原因で命を落としてきた。

拷問被害者は、軍の情報員が初期の尋問で一貫して用いてきた特有の拷問方法を報告している。その方法には、皮がむけるまで向こう臑に鉄を当てて上下させる「鉄の道」、「窒息状態」、身体のあらゆる部分への「電気ショック」などがある。軍情報部センターは広範囲に国中に張りめぐらされ、こうした拷問が一般的になっている。政治的な理由によって拘置されている人々が逮捕されると、彼らは通常、まずこうしたセンターに連れて行かれる。判決を受けた後、彼らは普通、ミャンマーにある四三刑務所の中の、二〇のうちのいずれかに移される。状態は異なるが、いずれの刑務所においても囚人は残酷で非人道的、品位を落とすような処遇を受けている。刑務所の看守は、ほとんど換気のない、また光も届かない小さなレンガ房に、数週間か数か月間も拘留する「タイクペイク」や、様々な困難な姿勢を長時間強いる「ポンサン」(ビルマ語でモデルを意味する。)を、囚人を処罰する方法として用いている。

ウ NLD―LA日本支部は、東京都内に事務所を置き、議長以下一六名の執行委員と一六ないし二二名程度の運営委員を幹部とする、在日ミャンマー人の組織である。

原告は、一九九五(平成七)年発行の会員証の交付を受けてNLD―LA日本支部の会員となり、一九九七(平成九)年から一九九九(平成一一)年まで運営委員を務めた後、二〇〇〇(平成一二)年及び二〇〇一(平成一三)年の年次総会(五月)で運営委員に再選され、二〇〇四(平成一六)年には社会福祉部長を務めた。

エ 在日ミャンマー人が行った本国政府に対する抗議行動の状況は、数例を挙げると、次のとおりである。

(ア) 一九九六(平成八)年九月一八日、一一月一八日及び一二月四日に、ミャンマー大使館前において、ミャンマー軍事政権に抗議するデモが行われた。

九月一八日及び一一月一八日のデモでは、ミャンマー大使館敷地内から、同大使館員が、デモ参加者らを写真撮影した。

(イ) 一九九九(平成一一)年五月二二日、ミャンマー大使館主催の「日本ミャンマー伝統文化友好コンサート」(以下「文化コンサート」という。)が開催された日本教育会館前で、文化コンサートに抗議するデモが行われた。

このとき、翌二三日のコンサート(二日目)が終了した同日午後四時ころ、NLD―LA日本支部のキンマウンウーとビルマ青年ボランティア協会のマイケル・コリンズが、客席から「民主化闘争は勝利するぞ。」などと叫んだところ、主催者側ミャンマー人五、六人に囲まれ、メタル製のライトなどで顔や頭などを殴られ、キンマウンウーが全治一〇日間の頭部挫創、マイケル・コリンズが全治七日間の顔面・頭部・肩甲部打撲の各傷害を負うという事件が起きた。

(ウ) 一九九九(平成一一)年七月七日、ミャンマー大使館前において、三七年前にミャンマーで起きた流血事件を記念したデモが行われた。

(エ) 一九九九(平成一一)年九月九日、ミャンマー大使館付近において、一九八八(昭和六三)年八月八日のゼネストを記念したデモが行われた(甲二。なお、甲二の写真の日付は「88'98」と読めるが、被告らはこれが一九九九(平成一一)年九月九日に撮影されたものであることを明らかに争わない。)。

このときのデモでは、ミャンマー大使館敷地内から、同大使館員が、デモ参加者らを写真撮影した。

(オ) 一九九九(平成一一)年一一月二三日、ミャンマー大使館前において、学生運動の指導者ミンコーナインの釈放を要求するデモが行われた。

オ 一九九七(平成九)年二月三日、NLD―LA日本支部、在日ビルマ人協会など在日ミャンマー人組織に所属するミャンマー人三六名が集団で難民の認定の申請を行った。

(2)  原告は、本件訴訟において、本国における政治活動及び来日の経緯について、前記第二の四(3)アのとおり主張し、これに沿う供述(甲七に録取された供述を含む。)をする。そして、前判示のとおり、ミャンマーにおいては、一九八八(昭和六三)年に学生運動が激化して軍事クーデターが起こったという事実があるほか、NLD党員のアウンチョーモーという人物が、一九八九(平成元)年七月にインセイン刑務所に投獄され、一九九一(平成三)年にタラワディ刑務所に移されて、一九九八(平成一〇)年五月に同刑務所で死亡したとの報告があり、また、弁護士のティンエイチューという人物が、一九八九(平成元)年に逮捕され、同年一〇月三一日に刑の宣告を受けて、マンダレー刑務所に在監中である、との記録があるなど、原告の本件訴訟における主張及び供述に一部符合するような客観的な状況の存在も認められる。

しかしながら、原告は、難民調査及び違反調査の際には、難民調査官、入国警備官、入国審査官及び特別審理官に対し、本国では、マンダレー大学在学中に大学で集会を開いたりデモに三、四回参加したことがあるが、来日するまでは原告自身はそれほど民主化を積極的に求めようという意思はなく、特にグループにも所属せず、それほど表立った運動もしたことがなく、逮捕される危険性もなかったから、NLD―LA日本支部に入っていなかった来日当初は、ミャンマーに帰国しようと思えばいつでも帰国できたが、日本へは仕事をするために来たので、一〇年間働いて金を稼いだら帰国するつもりであった、と供述していたものであり、本件訴訟における主張及び供述と著しく食い違っている。本件認定申請の申請書には、原告が一九八八(昭和六三)年から一九九二(平成四)年までマンダレー大学学生連盟の民主化運動に参加するなどして軍事政権に対する反政府運動をしたために逮捕される可能性があったので日本に来た旨の記載があり、原告が二〇〇〇(平成一二)年一月二八日の第一回難民調査の際に難民調査官に提出した英文の陳述書にも、同趣旨の記載があるが、これらの申請書及び英文の陳述書はいずれも原告の友人が代書したものであり、原告自身がビルマ語で書いたという陳述書の原文は現存しないというのであるから、原告の上記供述内容に照らし、これらが原告の記憶に忠実に記載されたものかどうかは疑わしい。そして、原告は、調査時の供述と本件訴訟における供述とが食い違っていることの理由として、調査時には体調が良くなかったことなどを挙げて弁解するけれども、原告の調査時における上記供述内容は、二〇〇〇(平成一二)年一月から同年一一月までのおよそ一〇か月間に前後五回にわたって行われた面前聴取の際に繰り返し供述していた内容であって、しかも、同年六月二一日の調査の際には、入国審査官に対し、自己の健康状態について、結核を患って一九九八(平成一〇)年八月ころに入院したことがあるが、現在は完治し、風邪を引いているくらいで特に悪いところはないと述べているのであるから、体調不良を理由とする原告の弁解は採用できない。さらに、原告は、来日後の状況については、後記(3)のとおり、NLD―LA日本支部に加入して反政府活動を行ったために逮捕される危険があるとし、調査時においても本件訴訟での主張及び供述とほぼ同趣旨の内容を供述していたのであるから、本国における政治活動の状況が本件訴訟で主張及び供述するとおりであったのならば、これを調査時にあえて隠さなければならない理由はない。

したがって、原告が本件訴訟においてにわかに主張及び供述を始めた本国における政治活動及び来日の経緯の状況を、そのまま認めることは困難であり、原告の本国における政治活動歴は、たとえそれがあったとしても、当局の注目を引くほどのものではなかった可能性が高いものといわざるを得ない。

(3)  これに対し、原告の来日後の活動に関して原告が本件訴訟で主張及び供述する内容(前記第二の四(3)イ)は、要するに、NLD―LA日本支部に参加してその役員となり、ミャンマー大使館前等でのデモに参加するなどしていたところ、NLD―LA日本支部の機関誌に役員名簿が掲載され、また、ミャンマー大使館員がデモの様子を写真に撮っていることから、原告が反政府活動家であることが本国政府に認識されており、帰国すれば逮捕される危険があるというものであり、難民調査及び違反調査の際における原告の供述内容もほぼこれと同趣旨のものであって、供述内容に一貫性が認められる。

そして、原告がNLD―LA日本支部に加入してその運営委員になったこと、在日ミャンマー人がミャンマー大使館前で行ったデモについて同大使館員がデモ参加者らを写真撮影していた状況があることは前記認定のとおりであり、これらの点で原告の供述は客観的事実と符合している。

また、原告のデモへの参加状況について、原告は第一回難民調査の際に多数の写真を提出して次の①ないし⑧のデモに参加したとしているところ、これらのうち⑤、⑦及び⑧は前記認定のデモの実施状況(前記(1)エの(イ)ないし(エ))と符合するうえ、原告は、提出した写真に写されているすべてのデモに自分が関与したと主張するのではなく、これらの中から自分の参加したものと自分には分からないものとを分けて説明するなど真摯な態度がうかがわれることからすれば、原告は少なくとも次の①ないし⑧のデモについてはこれに参加したものと認めることができる。

① 一九九八(平成一〇)年六月四日に本国政府要人が出席した会議の議場前で行われたデモ

② 同年六月一六日に本国政府要人が宿泊したホテルの前で行われたデモ

③ 同年七月二八日にミャンマー大使館前で行われたデモ

④ 一九九九(平成一一)年一月二〇日に本国政府要人に対して品川で行われたデモ

⑤ 同年五月二二日に文化コンサートの会場前で行われたデモ

⑥ 同年六月二日に本国政府要人が宿泊したホテルの前で行われたデモ

⑦ 同年七月七日にミャンマー大使館前で行われたデモ

⑧ 同年九月九日にミャンマー大使館前で行われたデモ

さらに、原告は、役員名簿が掲載されたNLD―LA日本支部の機関誌がいつもビルマ雑貨店に置いてあり、ミャンマー大使館員がこれを買っていく旨を供述しているところ、本件訴訟においてNLD―LA日本支部の役員名簿が証拠として提出されており、これによれば、原告は、本件不認定処分前に限っても、一九九七―一九九八(平成九―一〇)、一九九八―一九九九(平成一〇―一一)、二〇〇〇―二〇〇一(平成一二―一三)の各年における運営委員として、その実名が掲載されていることが認められることなどからすると、上記供述のとおりの事実を認めることができる。

(4)  以上の事実によれば、原告は、ミャンマー出身で、現在我が国に在留し出身国の外にあるものであるところ、本邦上陸の後である一九九五(平成七)年にNLD―LA日本支部の会員となり、一九九七(平成九)年からは運営委員を務め、遅くとも一九九八(平成一〇)年六月ころからは公然と反政府デモに参加しているものであって(なお、原告がその後社会福祉部長という役職に就いていることなどからすると、この間における原告の活動は、仲間からも一定の評価を受けるほどの積極的なものであったことが推認できる。)、このような事情はミャンマー政府においても十分に把握することが可能な状況にあったものと認められる。そして、ミャンマー国内においては、NLDの活動家等に対する迫害が行われているという一般的状況に加え、一九九七(平成九)年に起きた小包爆弾事件について、軍事政権側が、同事件は在日反政府組織がテロリズム路線へ転換し実行したものであり、在日ビルマ人協会所属の者を犯人と特定したという状況もあり(なお、このころの事情として、証人Eが、一九九七(平成九)年ころにミャンマーに帰国した者が空港でNLD―LA日本支部の活動家であると疑われて長い時間事情聴取を受けたことを友人から聞いた旨を証言し、原告も、特別審理官の口頭審理の際に同趣旨のことを述べているところであるが、これなどは、当時のミャンマー軍事政権による在日反政府活動家に対する警戒感が強まっていたことの表れとみることも可能である。)、これらのことからすると、NLDの日本支部を標榜する組織の幹部の一員であり、反政府デモにも多数回参加している原告が、反政府活動家として、政府当局の忌避の対象となり得ることは否定し難く、仮に原告が帰国した場合には、我が国における活動を理由に、身柄を拘束され、不当な処遇や不当な処罰を受ける可能性があることもまた否定し難いものというべきであるから、原告が、その政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという恐怖を有することには、十分な理由がある。

したがって、原告は法二条三号の二に規定する難民に該当するというべきである。

(5)  被告は、①原告の本国における政治活動に関する供述には信憑性がなく、かえって、厳格な旅券発給審査や出国審査を行っているミャンマーにおいて、原告が問題なく旅券を取得し、出国することができたのは、原告が反政府活動家とは認識されていなかったことを裏付けるものであること、②本邦に入国した後も、在東京ミャンマー大使館において旅券の有効期間の延長手続を行っているが、これも、原告が反政府活動家であったという主張とは矛盾する事実であること、③本邦における原告の活動内容も、高い意識で反政府活動を行ったと評価できるようなものとはほど遠いこと、④原告は、本邦に入国後直ちに預金口座を開設して不法就労を始め、本国の家族に対して少なくとも一〇〇万円前後の送金をしている上、原告の三人の弟も海外(シンガポール、台湾及びマレーシア)で就労しており、これらの事実は、原告が本邦に入国した真の意図は不法就労にあったことを裏付けるものであること、⑤ミャンマー人が、海外で不法就労等をするために難民を装う例が極めて多いことは、国際的な常識にもなっていること、⑥原告の供述は全般的に場当たり的で信憑性に乏しいこと、⑦いわゆる人違い事件に関する証人Eの供述も信憑性に乏しいものであることなどを指摘し、原告の難民該当性を争っているが、これらの主張事実は、原告の難民該当性を否定するに足りるものであるとはいい難い。その理由は、次のとおりである。

まず、原告は、本国における活動によってではなく、本邦に入国した後の活動によって難民該当性が認められるべきであることは既に説示したとおりなのであるから、①の事情は、原告の難民該当性を否定するに足りる事情であるということはできない。この点は、④の点についても同様であり、たとえ、当初の主たる入国目的は就労にあったとしても、その後の活動によって難民に該当するに至ったことを否定することはできないものというべきである。また、②の旅券の有効期限の延長の点について、原告は、友人に勧められて行ったものであって、その手続も友人が行ったため、自らは在東京ミャンマー大使館に出頭していないと説明しており、被告の主張をそのまま採用することができるかどうかは疑問であるのみならず、この手続が行われたのは、原告が公然と反政府活動を開始した一九九八(平成一〇)年以前なのであるから、この時点においては、未だ危険を感じてはいなかったということも十分にあり得る事柄なのであって、いずれにせよ被告の主張を採用することはできない。

③の点についてみると、原告の本邦における反政府活動の内容は、既に認定したとおりであって、原告は、多数の反政府デモに参加したほか、何年度にもわたってNLD―LA日本支部の運営委員に任命され、その機関誌に実名が掲載されるなどしているものである。そして、本件不認定処分後の事情ではあるものの、原告が二〇〇四(平成一六)年に、NLD―LA日本支部の社会福祉部長に選任されていることは、このような原告の活動が、同支部の中でも評価され、信頼されていることを裏付けるものということができるのであるから、これらの事情を併せ考えると、原告の行動を単なる付和雷同的なものにすぎないとか、難民を偽装するためのものにすぎないと評価することはできず、むしろ、真正な政治意識に基づくものと評価すべきであって、被告の主張を採用することはできない。

⑤の点は、一般論にすぎず、個別的な事情を検討することによって、原告が難民であると認定することを何ら妨げるものではない。

更に、⑥の点についてみると、原告の供述中、少なくとも、本国での政治活動に関するものをそのまま採用することはできないことは既に指摘したとおりであって、難民に該当することを印象づけるためにことさら針小棒大な供述をしたと受け取られてもやむを得ない側面があるものといわざるを得ず、このことが原告の供述の全般的な信用性にも影響を及ぼす事柄であることも否定できないところである。しかしながら、自己の反政治活動の内容を過大に表現しようとすることは、難民の認定を受けようとする者の心理として理解し得る事柄なのであるから、上記の点から直ちに、原告の供述全体が信用できないものと決めつけるのは早計にすぎるのであって、それぞれの供述の内容を、その一貫性や客観的証拠と符合するかどうかという観点から検討すべきものであるところ、本邦における反政府活動の内容に関する原告の供述は、一貫しており、かつ、客観的証拠とも符合するものであることは既に指摘したとおりなのであるから、先の事情を考慮したとしても、この点に関する供述は十分に信用に値するものということができる。したがって、この点に関する被告の主張も採用することはできない。

最後に、⑦の点についてみると、証人Eの証言内容は、「『A・Bなる人物が、本邦からミャンマーに帰国した際、原告と間違われて官憲の取り調べを受けた』という話を、Fという人物から聞いた。」というものである。証拠として提出されている同証人の入管担当者に対する供述調書等にはこの話が記録されていないが、同証人は、この話を入管担当者に話した記憶があると証言し、原告の二〇〇〇(平成一二)年一一月二二日付け口頭審理調書にもこれに類する供述が記録されており(ただし、同調書では、原告と間違われたのは、「A1・B1」という人物であったとされている。)、原告が何の根拠もなくこのような話をしたとは考えられないことからすれば、本邦に在住するミャンマー人に、証人Eが証言したような内容の情報が伝わっていた可能性は十分にあるものと考えられる。もっとも、同証人の証言は、再伝聞というべきものであることに加え、人違いされた人物の名前も正確には明らかではないことからすれば、同証人の証言から、直ちに、原告がミャンマー政府当局から把握され、警戒されているとまで認定することはできないが、ミャンマー政府当局が、在日ミャンマー人反政府活動家に注目をし、警戒をしていることをうかがわせる事実と評価することは可能であるというべきである。

以上の次第で、被告の主張は、いずれも原告の難民該当性を否定するに十分なものということはできず、他に、これを否定するに足りる証拠を見出すこともできない。

二  本件不認定処分の取消請求について(第一事件)

(1)  前記一に説示したところによると、原告は本邦にある間の遅くとも一九九八(平成一〇)年末ころまでには難民となる事由が生じたものと認められ、反証のない本件においては、原告が当該事由の生じた事実を知ったのもまた遅くとも同じころであったものと推定される。

したがって、原告の本件認定申請は、法六一条の二第二項本文に定める期間の経過後にされたものに当たる。

(2)  法六一条の二第二項の規定の難民条約適合性について

原告は、難民の認定の申請が法六一条の二第二項本文所定の期間を徒過しているというだけで難民該当性の実体判断をしないのは、難民条約に違反する違法な行為である旨主張する。

しかしながら、難民条約及び難民議定書は、難民の意義及び締結国が採るべき保護措置の概要についての規定を設けているものの、難民認定手続については特段の定めを設けていないから、難民認定手続については各締約国の立法裁量にゆだねられているものと解される。そうすると、難民条約の締約国は、各国の実情に応じた難民認定手続を定めることができると解されるのであり、難民の認定の申請に期間制限を設け、この期間制限を遵守しなかった申請者に対し難民の認定を拒否することとしても、それが難民条約の趣旨に反しない限りにおいて、各国の立法裁量の範囲内にとどまるものと解される。なお、期間の長短はあるが、難民の認定の申請に期間制限を設けることについては、日本のみならず、米国、ベルギー、スペイン、韓国などにもその例がみられるところである。

そして、法六一条の二第二項の立法趣旨は、申請者が真に難民条約上の難民であるなら、迫害の恐怖から逃れるために一刻も早く他国の庇護を求めようとすることが一般的な経験則に合致し、また、認定者の側にとっても、本邦に上陸し、又は難民となる事由が生じた時から長期間経過後に難民の認定の申請がされると、本邦上陸当時ないし難民となる事由が生じた当時の事実関係を把握することが困難となり、適正かつ公正な認定を行うことができなくなるおそれが生じることにあるものと解されるところ、このこと自体は相応の合理性を有するものということができる。そして、同項の規定は、申請期間を経過した後の申請をすべて拒絶するものではなく、申請者側にやむを得ない事情が存する場合には個別に救済を図ることができることや、仮に期間徒過を理由として難民不認定処分がされたとしても、真に難民該当性が認められるのであれば、退去強制手続等の中で難民該当性が改めて考慮されることになるなど、難民としての庇護が完全に否定されるものではないことなどをも考慮すると、同項において申請期間が定められていることが直ちに難民条約に違反することになると解することは困難である。

もっとも、本国における迫害から逃れるために本邦に上陸し、又は本邦滞在中に本国からの迫害の対象となるに至ったという難民の特殊性を考慮すれば、難民の中には、我が国に庇護を求めた場合そのことを本国に通報されるのではないかと考え、国籍国の親族等に不利益が及ぶことを懸念する者もいるであろうし、また、言語や社会制度の相違が障害となって我が国の難民制度について正確な知識を得ることができないまま滞在を続けたり、難民申請を行ったことによって収容等の不利益な処分を受けるのではないかと考えて難民の認定の申請を行うことをためらう者がいても不自然とはいえない。そうすると、原告が指摘するように、法六一条の二第二項が存在することによって、真実難民該当性を有する者であっても、以上のような事情が障害となって申請期間を徒過して申請を行うこととなり、難民不認定処分を受けるという事態の生じてしまうおそれがないとはいえないから、そのような事態をできるだけ避けるために、同項の「やむを得ない事情」の解釈は、被告法務大臣が主張するような限定的な解釈によるのではなく、より緩やかに解釈し、当該難民認定申請者の個別的な事情に即応して、難民の認定の申請が遅れたことについて無理もないといえるような事情が存するかどうかを実質的に判断すべきであり、それが難民条約の趣旨にも沿うものというべきである(なお、本件については適用されないが、平成一七年五月一六日に施行された平成一六年法律七三号による改正後の出入国管理及び難民認定法においては、法六一条の二第二項が削除されていることにも留意すべきである。)。

(3)  法六一条の二第二項ただし書の「やむを得ない事情」について

以上のような見地から、本件における「やむを得ない事情」の存否を検討する。

まず、この点に関する原告の供述をみてみると、原告は、原告が我が国の難民認定制度を知った時期について、難民調査官に対しては、一九九六(平成八)年か一九九七(平成九)年ころ仲間がグループで難民の認定の申請をしたとき(前記一(1)オの一九九七(平成九)年における集団での難民の認定の申請の事実を指すものと思われる。)に難民の認定の申請ができることを知ったと言い、入国審査官に対しては、一九九五(平成七)年ころ難民の認定の申請の六〇日条項のことを友人から聞いて知ったと述べ、本件訴訟においては、一九九七(平成九)年に知人が難民認定制度があることを教えてくれたが、六〇日条項について聞いたのは一九九八(平成一〇)年ころであると供述し、供述内容が定まらないが、これらの供述によっても、原告は遅くとも一九九八(平成一〇)年末ころまでには我が国の六〇日条項を含めた難民認定制度を知っていたことが認められる。そして、原告も自認するように、一九九七(平成九)年には仲間が集団で難民の認定の申請をし、原告もそのことを知っていたのであるから、原告に難民となる事由が生じたことが明らかな一九九八(平成一〇)年末ころには速やかに原告自身も難民の認定の申請をすることができたものと考えられる。原告は、この点についても弁解をしているが、その内容は、原告自身は難民の認定の申請をする必要がなかったと思っていたということであったり、仕事が忙しくて休みが取れなかったということであったり、難民の認定の申請には費用がかかるといううわさがあったので躊躇したということであったりと、この点でも供述の変遷が著しい。以上のように供述が変遷している理由については合理的な説明が一切されておらず、原告の供述からは「やむを得ない事情」に該当し得るような具体的な事情を看取することはできない。

次に、原告の供述以外の関係証拠を精査しても、本件認定申請が遅れたことについて無理もないといえるような事情は認められない。

そうすると、前記のような緩やかな解釈を採用したとしても、原告の本件認定申請について、法定の申請期間を遵守できない「やむを得ない事情」があったものと認めることはできない。

(4)  理由付記の不備の有無について

原告は、本件不認定処分は、原告が難民と認定されなかった実体的な理由や、原告が難民と認定されるために求められている立証の程度は明らかにしていないから、理由付記不備の違法があると主張する。

しかしながら、前記(2)のとおり、難民の認定の申請が法六一条の二第二項に違反する場合には、そのことのみを理由として、難民の認定をしないことが許容されると解すべきであるから、本件不認定処分が、本件認定申請が同項に違反することのみを理由とし、原告の難民該当性についての判断等を示さなかったことについて、原告の主張するような違法はない。

(5)  以上によれば、本件認定申請が法六一条の二第二項に違反するとした本件不認定処分について、原告の主張するような取消原因を認めることはできず、本件不認定処分の取消しを求める原告の請求は、理由がない。

三  本件裁決及び本件退令発付処分の取消請求について(第二事件)

(1)  本件裁決の取消原因について

前判示のとおり、原告は、在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本邦に残留していたものであり、法二四条四号ロに該当することが明らかであるから、原告が被告法務大臣に対してした本件異議申出は理由がないものというべきである。

しかしながら、法四九条一項の異議の申出に理由がない場合であっても、被告法務大臣は、難民の認定を受けている者その他在留特別許可を与えるべき事情があると認める者に対しては、その裁量によって在留特別許可を与えることができることとされている(法六一条の二の八、五〇条一項)。

被告法務大臣は、前記のとおり、原告が難民に該当するにもかかわらず、本件訴訟においてこれを争っているのであるから、本件裁決をするに当たっても、原告が難民に該当する者であることを考慮せずに本件裁決をしたものと認められる。そうすると、本件裁決は、原告が難民に該当するという当然に考慮すべき重要な要素を一切考慮せずに行われたものといわざるを得ないから、その裁量の範囲を逸脱する違法な裁決というべきであって、取り消されるべきである。

(2)  本件退令発付処分の取消原因について

退去強制令書は、異議の申出に理由がない旨の法務大臣の裁決が適正に行われたことを前提として発付されるものであるところ、前提となる裁決が取り消されるべきものであることは前記(1)のとおりであって、退去強制令書の発付もその根拠を欠くものであるから、その余の点について判断するまでもなく、本件退令発付処分は違法なものとして取消しを免れない。

第四結論

以上の次第で、本件裁決及び本件退令発付処分の各取消しを求める原告の請求(第二事件)はいずれも理由があるから認容し、本件不認定処分の取消しを求める原告の請求(第一事件)は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 鶴岡稔彦 裁判官 古田孝夫 潮海二郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例