東京地方裁判所 平成14年(ワ)12011号 判決 2002年12月24日
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
被告は、原告に対し、金350万円及び平成14年6月11日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は、原告が、被告発行の原告名義の預金通帳を盗まれ、何者かによって350万円が払い戻された上、何者かの他銀行の口座に同額の金員が振り込まれたことについて、その払戻請求に応じた被告担当者に過失があったと主張し、被告に対し預金契約上の債務不履行ないしは不法行為に基づき、損害賠償を求めた事案である。
1 前提事実
(1) 原告は、旧第一勧業銀行青山支店(現みずほ銀行青山通支店、以下「本件支店」という。)に銀行口座(口座番号 <略>。以下「本件口座」という。)を有し、平成13年9月10日の時点で、本件口座には、370万5273円の預金があった(乙3の8)。
(2) 平成13年9月11日ころ、原告の事務所は窃盗の被害に遭い、本件口座にかかる通帳(以下「本件通帳」という。)が盗まれた(弁論の全趣旨)。
(3) 平成13年9月12日正午ころ、何者か(以下「訴外A」という。)が本件支店に赴き、同店において払戻請求書及び振込依頼書を偽造し、同店窓口に提出して、本件口座から350万円の払戻手続及び、三井住友銀行新宿通支店甲野太郎名義の普通預金口座への350万円の振込手続を窓口担当者に依頼した(甲1の1、甲1の2)。
(4) 本件支店において窓口担当者の後ろの列で後方業務を担当している者(以下「本件後方担当者」という。)は、本件払戻請求書に押捺された原告代表者印の印影(以下「本件印影」という。)が、届出印鑑票に押捺された原告の真正な代表者印によりなされた印影であるかどうかを照合し(以下「本件照合」という。)、本件印影は真正な印章により押捺されたものであると判断した(甲1の1、乙2)。なお、本件照合に用いた印影が、本件通帳に押捺された副印鑑の印影によるのか、それとも原告の届出印鑑票に押捺された印影によるのかについては争いがある。
(5) 同日12時8分ころ、同所において、訴外Aの依頼したとおり、本件口座から350万円が払い戻され(以下「本件払戻」という。)、同金額が三井住友銀行新宿通支店甲野太郎名義の普通預金口座に振り込まれる手続が行われた<証拠略>。
2 争点
本件払戻手続において、被告担当者に過失があったか。
(原告の主張)
ア 本件通帳には、副印鑑が押捺されていた。そして、本件印影は偽造された印章により押捺されたものであるから、本件印影と副印鑑の印影とでは文字の形状や文字同士の接着の状態が微妙に異なっていたはずであり、両者が同一の印章により押捺されたものであると判断した本件後方担当者には過失があった。
イ 本件通帳に副印鑑が押捺されていなかったとしても、本件印影と届出印鑑票の印影とは、文字の形状や文字同士の接着の状態が微妙に異なっており、これを同一の印章による印影であると判断した本件後方担当者には過失があった。
ウ 現在の技術水準からすれば、預金通帳の副印鑑の印影から印鑑を偽造することは容易であるから、金融機関の担当者は、預金の払戻に際し、印鑑照合を行ったのみでは注意義務を尽くしたとはいえず、それに加えて本人確認の方法をとるべき義務があり、また、高額な預金の払戻請求を受けた場合には、担当者には、当然本人確認を行うなどの高度の注意義務が課せられる。したがって、本件においても、被告担当者は、印影照合のみならず本人確認を行うべきであったのであり、実際、同時に提出された振込依頼書には原告の電話番号として<略>との記載があるが、これは届出印鑑票に記載の電話番号である<略>(なおFAX番号は<略>である。)とは異なるのであり、にもかかわらず本件後方担当者が本人確認を怠って安易に払戻に応じた点で、被告担当者には過失があった。
(被告の主張)
ア 本件通帳に、副印鑑は押捺されていなかった。そして、本件払戻は、真正な通帳と真正な届出印が押捺された払戻請求書によってなされているから、本件印影と届出印鑑票の印影とを同一の印章による印影であると判断した被告担当者に過失はない。
イ 仮に、本件払戻請求書に押捺された印影が、偽造された印章による印影であったとしても、同印影は原告代表者印として届け出られた届出印鑑票の印影と酷似しており、これを原告の真正な印章による印影であると判断した被告担当者に過失はない。
ウ 払戻手続は、日常的にかつ大量に行われるものであり、金融機関のみならずその利用者にとっても迅速性が必須であることから、特別な事情が認められない限り、金融機関の担当者は、印鑑照合においてその注意義務を尽くせば足り、その他に氏名のフリガナや電話番号等を照合して本人確認をすることまでの注意義務はない。
第3 判断
1 前記前提事実に加え、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 原告は、平成13年9月11日ころ、窃盗の被害に遭い、その際、本件通帳と共に東都中央信用金庫の通帳(以下「別件通帳」という。)が盗まれた。別件通帳には副印鑑が押捺されており、同副印鑑は、本件口座にかかる届出印鑑票に押捺された印章と同一の印章によって押捺された印影であった(乙2、乙6)。
(2) 同月12日正午ころ、本件通帳を所持した訴外Aが、本件支店を訪れ、窓口担当者に対し、本件通帳、350万円を払い戻す旨記載した払戻請求書及び同金額を三井住友銀行新宿通支店甲野太郎名義の普通預金口座(口座番号 <略>)へ振り込む旨記載した振込依頼書を提示して、本件払戻手続及び本件振込手続を依頼した。
(3) 本件払戻が、本件支店通帳による払戻請求であり、本件通帳に副印鑑が押印されていなかったことから、本件払戻請求書は、本件窓口担当者から本件後方担当者へ回付された。訴外P(以下「訴外P」という。)は、平成13年9月12日当時、窓口担当者の後方で財務処理業務に就き銀行事務における印鑑照合などを担当していた。<証拠略>。
(4) 訴外Pは、本件口座にかかる届出印鑑票をファイルから取り出し、届印鑑票の印影(乙2)と払戻請求書の印影(甲1の1)とを肉眼による平面照合及び重ね合わせによる照合を行った上、両印影が同一の印章によって押捺されたものであると判断し、本件払戻請求書の照合印欄に、「P」の印を押印した(甲1の1、乙2)。
(5) 担当者は、本件払戻請求書を受け取り、照合印欄に押印がなされていることを確認し、払戻を行うために端末に入力するなどして350万円の出金手続きをとった。また、本件は払戻請求と共に振込依頼がなされていたため、350万円の払戻手続きをすると共に、振込依頼書は後方担当者へ回付された。後方担当者は、振込依頼書に、本件支店に付された番号「049」、9月12日62番という意味の「9.12.0062」の印を押し、振込依頼書の写しをとり、第一勧業銀行青山地区センター(以下「本件事務処理センター」という。)にファックス送信した。本件事務処理センターではファクシミリを受信し、振込日、振込金融機関及び支店名、預金種目、口座番号、受取人の名前、依頼人の名前(法人の場合は法人名のみ)、振込金額、取扱店番号を端末に入力し、本件振込手続きを行い、350万円は本件振込依頼書のとおりに三井住友銀行新宿通支店甲野太郎名義の普通預金口座に振り込まれた。
2 以上認定した事実によれば、以下に述べる理由から、本件払戻手続において訴外Pに過失はなかったと認めるのが相当である。
(1) 本件通帳に副印鑑が押捺されていたか否か。
原告は、本件通帳に副印鑑が押捺されていたと主張し、一方被告は、本件通帳には副印鑑が押捺されておらず本件照合においては、届出印鑑票の印影が用いられたと主張する。
しかしながら、たとえ原告の主張するように本件通帳に副印鑑が押捺されていたとしても、結局、副印鑑は原告の真正な代表印により押捺された印影であって届出印鑑票の印影と寸分異なるところはないと認められるから、訴外Pの過失の有無の判断に影響を与えるものではない。
よって、副印鑑が押捺されていたかどうかの点については、被告の過失の判断に影響を与えない。
(2) 本件印影は偽造された印章による印影か。
被告は、本件払戻請求書の印影が真正な印章によって押捺された印影である旨主張する。本件払戻請求書に押捺された印影が真正な印章により押捺されたものであれば、これを同一であると判断した訴外Pに過失がないことは論を待たないから、本件印影が真正な印章によって押捺されたか否かについて先に論ずる。
確かに、真正な印章が通帳と共に盗まれたのかどうかが証拠上不明であり、窃盗事件に関係のある何者かが真正な印章を用いて押捺した可能性がないとはいえない。しかしながら、両印影(甲1の1、乙2))を緻密に比較、対照すると、<1>届出印影の二重の円はわずかに外円の方が内円の線に比べて太いのに、本件印影は両円ともに太くて、違いが見られない、<2>外枠の文字のうち「会」に相当する文字について両印影では文字の形態が異なること、<3>同様に「社」に相当する文字についても「土」に相当する部分の印影が両者では異なること、<4>カタカナの「エ」の文字が届出印影では上の部分の「ー」の方がわずかに長いのに対して、本件印影の「エ」は、上の「ー」の方がわずかに短い上、全体の形もいびつであること等、微妙に異なる部分が数点認められる。また、偽造であるとすると、一体どのようにして印章を偽造したのかということが疑問となるが、本件通帳と共に盗難に遭った別件通帳には副印鑑が押捺されており、かかる副印鑑は本件の届出印鑑票と同一の印章によることからすれば、窃盗に関わる何者かが別件通帳の印影から印章を偽造した上、本件支店に届け出ている印章も東都中央信用金庫と同一の印章であるとの見込みの上で本件払戻及び振込依頼等の犯行に及んだ可能性が高いと認められるのである。よって、本件印影は、真正な印章により押捺されたものではないと認めるのが相当である。
(3) 担当者の負う注意義務の程度。
そこで、訴外Pに過失がなかったかどうかを判断することになるが、ここにおいて、原告は、本件後方担当者には印鑑照合を行うだけでなく、更に電話番号等を照合して本人確認を行うことまで注意義務の内容に含まれると主張する。そこで、払戻請求がなされた場合に銀行の担当者の負うべき相当な注意義務の範囲が問題となるが、払戻請求書に押捺された印影が届出印と酷似し、担当者が相当の注意を用いてもその相違を発見することができず、その他正当な請求であることを疑うに足りる事情のないときは、印鑑照合について相当の注意義務を尽くせばそれで十分であり、格別本人確認などの方法を取るべき注意義務は生じないと解するのが相当である。
確かに、払戻請求書と同時に振込依頼書が提出された場合、振込依頼書には依頼人の電話番号を記入する欄があり、これとの比較対照を行うことで本人確認は正確なものになり、正当な権限を有する者に払い戻すべきであることは当然であるから、印鑑照合以外の本人確認作業を行うことは望ましいともいえる。
しかしながら、振込依頼書に電話番号を記載する欄があるのは、仮に指定された振込先の口座が実際には存在しない等、振込手続が完了しなかった場合に備えて連絡先を確保しておくためであって本人確認の為ではない上、払戻請求書には電話番号を書く欄も設けられていないのに、振込依頼書が同時に提出された場合にだけ本人確認の為の作業が増えるというのでは不均衡であって妥当でない。また法人の口座であれば当該法人が多数の電話番号を使用しているのが通常と思われ、必ずしも電話番号は一致しないであろうから、電話番号の照合を行うこと自体必要性が低い。更に、原告は、払戻請求の金額が多額の場合には特に本人確認の注意義務が増すと主張するが、通常の銀行取引においては金額の多い少ないにかかわらず、全てに相当の注意義務を尽くすのが当然であるといえるし、大部分の払戻請求が正当な払戻請求である中で、わずかに紛れ込んだ不当な払戻請求の発見の為に電話番号等まで照合して本人確認を行うのでは銀行業務の迅速性の要請に応えられず、これでは不正な払戻請求を警戒する余り、却って正当な銀行業務が停滞し、銀行利用者の便宜を損なうことにもなりかねない。よって、払戻請求に応じる場合には、払戻請求書に押捺された印影が届出印と酷似し、担当者が相当の注意を用いてもその相違を発見することができず、その他正当な請求であることを疑うに足りる事情のないときは、印鑑照合について相当の注意義務を尽くせばそれで十分であり、格別本人確認などの方法を取るべき注意義務は生じない。
(4) 訴外Pの過失の有無
以下の理由により、訴外Pに過失はなかったと認めるのが相当である。
本件においては、確かに、両印影を比較、対照すると、前記に詳述したような微妙な違いがあり、時間をかけて丁寧に精査すれば、両印影が別の印章により押捺されたものであると認めることも不可能とまではいえない。
しかしながら、両印影は、文字の形態や文字同士のバランス等、全体的には酷似しており、通常の肉眼による平面照合方式及び重ね合わせる方式による照合では、両者の違いを看破することは著しく困難であると認められる。また、印影照合の特徴として、朱肉のつき具合や押捺した際の力加減などにより微妙な差異が生じるのはやむを得ず、かかる差異を考慮に入れると、本件印影と届出印影との相違を看破するのは困難であり、払戻請求書に押捺された印影が届出印と酷似し、担当者が相当の注意を用いてもその相違を発見することができない場合であると認められる。そして、本件においては、特に訴外Aが不審な行動を取っていた等の事情はなく、訴外Aの払戻請求が正当な請求であることを疑うに足りる事情は証拠上窺われないから、訴外Pに、格別本人確認などの方法をとるべき注意義務はない。よって、本件後方担当者に過失はないと認めるのが相当である。
3 よって、原告の請求は理由がないからこれを棄却し、主文のとおり、判決する。
(裁判官 尾崎智子)