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東京地方裁判所 平成14年(ワ)12150号 判決 2002年12月25日

原告

A

被告

ユーロピアノ株式会社

代表者代表取締役

B

訴訟代理人弁護士

正國彦

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一原告の請求

1  被告は、原告に対し、三六万八九三二円及びこれに対する平成一二年四月一二日から支払済みまで年一四・六パーセントの割合による金員を支払え。

2  被告は、原告に対し、二七万六六九〇円及びこれに対する平成一二年四月一二日から支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。

3  被告は、原告に対し、三八万〇三〇二円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。

4  被告は、原告に対し、一八四万六六四〇円及び一五九万六六四〇円に対する平成一二年四月一二日から平成一四年六月一四日まで年五パーセントの割合による、平成一四年六月一五日から支払済みまで年六パーセントの割合による各金員並びに二五万円に対する平成一二年四月一二日から支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。

5  被告は、原告に対し、三二万円及び二四万円に対する平成一二年四月一二日から、四万円に対する平成一四年二月一日から、四万円に対する同年七月一日から支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。

第二原告の主張(請求原因)

1  賃金請求(時間外労働に対する割増賃金も含む)-原告の請求第一項

(1)  原告は、被告との間で、平成一二年三月一四日(以下、平成一二年については年を記載しない)、研修生(社員)採用規則との契約書(書証略。以下「本件契約書」という)を作成し、本件契約書に基づき、被告の事業所等において同月三日から四月一一日まで就労した。

(2)  本件契約書に基づく就労に際し、原告は、被告との間で、研修のため当初の六か月間は無給であるが見習社員として雇用契約を締結したのであり、原告は労働基準法一一条の「労働者」であった。

(3)  原告は、ピアノの運搬、出荷作業に従事したことから、公共職業安定所発行の「生産工程、労務の職業」における二〇歳の採用時平均賃金の月額一九万九〇〇〇円相当の賃金を得るべきところ、その四〇日分は以下の計算式により二六万五三二〇円となる。

日額賃金 一九九、〇〇〇/三〇=六、六三三

四〇日分の賃金 六、六三三×四〇=二六五、三二〇

(4)ア  原告は、実働二七日間のうち一日当たり二・五時間の時間外労働をした。

イ  この時間外労働手当は、以下の計算式により一〇万三六一二円となる。

時給=四〇日分の賃金額÷所定労働時間=二六五、三二〇÷八×二七=一、二二八

時間外労働手当=割増率×時給×一日当たりの時間外労働×実働日数=一・二五×一、二二八×二・五×二七=一〇三、六一二

(5)  被告は、原告を四月一一日に解雇した。

(6)  よって、原告は、被告に対し、三月三日から四月一一日までの賃金(時間外労働に対する割増賃金を含む)として三六万八九三二円及びこれに対する解雇後の四月一二日から支払済みまで賃金の支払確保等に関する法律六条所定の年一四・六パーセントの割合による遅延損害金の支払を求める。

2  解雇予告手当及び付加金の請求-原告の請求第二項、第三項

(1)  1(1)ないし(5)に同じ

(2)ア  解雇予告手当の計算は、以下の計算式により二七万六六九〇円となる。

平均賃金=(四〇日分の賃金+割増賃金)÷雇入れ日数=(二六五、三二〇+一〇三、六一二)÷四〇=九、二二三

平均賃金×三〇日=九、二二三×三〇=二七六、六九〇

イ  被告は、原告に対し、解雇予告手当を支払わなかった。

ウ  原告は解雇予告手当及び時間外労働手当について、付加金の請求をする。

(3)  よって、原告は、被告に対し、解雇予告手当として二七万六六九〇円及び解雇日の翌日である四月一二日から支払済みまで民法所定の年五パーセントの割合による遅延損害金並びに労働基準法一一四条に基づく付加金として三八万〇三〇二円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払済みまで民法所定の年五パーセントの割合による遅延損害金の支払を求める。

3  債務不履行による損害賠償-原告の請求第四項

(1)  被告は、1(1)の本件契約書に基づく就労に際し、原告に対し、見習社員として採用し、技術習得のための社員研修を六か月間無給で行い、二年以内に正社員として採用する旨約束した。

(2)  被告は、四月に至って、「三月中の研修は事前研修であり、四月から六か月の研修を開始する」、「研修終了後被告で採用はなく、他社を紹介する」と原告に告げ、(1)の約束を実行しなかった。

(3)  損害

ア 通勤のため支出した交通費

(ア) 原告は、被告の(1)の約束がなかったら被告と本件契約書に係る契約を締結せず、就労のため交通費を支出することはなかったから原告が就労のため支出した交通費は被告の債務不履行により生じた損害である。

(イ) 原告の支出した交通費等

合計 四万六六四〇円

電車定期券二か月分(石神井公園~武蔵藤沢) 二万一九二〇円

電車(石神井公園~千歳烏山)五二〇円が六回 三一二〇円

バス定期代二か月分(武蔵藤沢~グリーンヒル) 一万五三〇〇円

自転車駐輪場定期券二か月分(石神井公園駅前駐輪場) 六三〇〇円

イ 精神的苦痛

被告の債務不履行により原告は精神的苦痛を感じ、これを慰謝する金額としては一五五万円が相当である。

(4)  よって、原告は、被告に対し、債務不履行に基づく損害賠償として一五九万六六四〇円とこれに対する訴状送達の日の翌日である平成一四年六月一五日から支払済みまで商事法定利率年六パーセントの割合による遅延損害金の支払を求める。

4  不法行為による損害賠償-原告の請求第四項

(1)  本件契約書作成時の虚偽告知

被告は、1(1)の本件契約書に基づく就労に際し、その意思もないのに、原告に対し、見習社員として採用し、技術習得のための社員研修を六か月間無給で行い、二年以内に正社員として採用する旨約束し、もって原告に交通費相当損害額四万六六四〇円及び慰謝料相当額一五五万円の損害を与えた。

(2)  トイレ掃除等

ア 被告の作業所内責任者であったK(以下「K」という)は、原告に対し、三月二〇日遅刻の罰として一か月間のトイレ掃除を命じたり、原告の足下に物を投げたり、「いつでもやめていい」と発言したりするなど、原告を退職させようとして、原告に精神的苦痛を与えた。

イ その苦痛の慰謝料としては二万円が相当である。

(3)  恩師の亡くなった日の発言

ア Kは、原告の恩師が亡くなった日(三月二九日)、「お前の学校の先生は金取りだ」「お前、先生にかわいがられてなかったろ」と発言し、原告に精神的苦痛を与えた。

イ その苦痛の慰謝料としては二万円が相当である。

(4)  朝礼の席上での痛罵

ア Kは、原告に対し、三月下旬から解雇まで、朝礼の席上で「辞めろ」と何回も痛罵し、原告に精神的苦痛を与えた。

イ その苦痛の慰謝料としては八万円が相当である。

(5)  地位確認要求時の痛罵

ア Kは、三月三一日、原告が労働条件の履行と社内における地位の確認を求めたところ、「貧乏は研修を辞めろ」と痛罵し、原告に精神的苦痛を与えた。

イ その苦痛の慰謝料としては九万円が相当である。

(6)  内容証明郵便での罵倒

ア 被告は、原告の家族に対する内容証明郵便において、原告を「脱落者」と指摘し、原告に精神的苦痛を与えた。

イ その苦痛を慰謝する慰謝料としては四万円が相当である。

(7)  よって、原告は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として一八四万六六四〇円及びこれに対する不法行為後である平成一二年四月一二日から支払済みまで民法所定の年五パーセントの割合による遅延損害金の支払を求める。

5  不法行為による損害賠償-追加分、原告の請求第五項

(1)  在籍期間の証明書の不交付

原告は、解雇された際、Kに対し、在籍期間に関する証明書の交付を求めたが、Kはこれを拒んだ。

(2)  調停での虚偽説明

被告代表者は、調停の際、原告の在籍期間について以下アないしエのとおり「四月一日以降の二週間のみである」旨記載された文書(書証略)を提出し、もって虚偽の申告をした。

ア 「二〇〇〇年四月より第一期研修生」(書証略)

イ 「二週間しか」(書証略)

ウ 「一四日間の作業状況」(書証略)

エ 「たった二週間」(書証略)

(3)  タイムヵードの破棄

被告代表者は、平成一三年七月上旬ころ、労働契約に関する重要な書類である原告のタイムヵードの破棄を被告社員に指示して破棄させた。

(4)  長期の試用期間を定めた公序良俗違反

ア 3の(1)と同じ

イ 試用期間を二年間とするのは長すぎるから、かかる約束は公序良俗に反し、違法であり、原告はこの約束により精神的苦痛を受けた。

(5)  契約書の不当表示、説明義務違反

被告は、本件契約書に「労働契約」、「雇用契約」と記載したが、これが労働契約や雇用契約ではないことを説明しなかったため、その旨誤信して本件契約書の契約をした原告は、精神的苦痛を受けた。

(6)  面接時説明義務違反

ア 被告代表者は、面接時に、本件契約書に基づく契約が労働契約ではないと説明し、かつ、技術研修ではなくピアノの運搬を主に担当させることを告知すべき義務があったのに、これらの措置をとらなかった。

イ 原告は、アの義務違反により、本件契約書による契約は労働契約であり、その内容は技術研修であると誤信し、本件契約書による契約を締結し、精神的苦痛を受けた。

(7)  損害額

(1)ないし(6)の違法行為によって、原告は精神的苦痛を受け、その慰謝料としては、(1)ないし(3)について各四万円、(4)、(5)について各五万円、(6)の行為については一〇万円が相当である。

(8)  よって、原告は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として三二万円及び二四万円に対する(1)、(4)、(5)、(6)の各不法行為後の平成一二年四月一二日から、四万円に対する(2)の不法行為後の平成一四年二月一日から、四万円に対する(3)の不法行為後の同年七月一日から支払済みまで民法所定の年五パーセントの割合による金員の支払を求める。

第三被告の主張(請求原因に対する認否)

1  賃金請求(時間外労働に対する割増賃金も含む)について

(1)  請求原因1(1)のうち、原告と被告が本件契約書を作成し、原告が、被告の事業所等に原告主張の期間通ったことは認め、就労であることは否認する。

(2)  請求原因1(2)は否認する。原告は、被告に営業社員として応募してきたが、営業社員としては不採用になり、技術研修生として採用されたのであって、労働基準法一一条の「労働者」ではない。

(3)  請求原因1(3)のうち、原告がピアノの運搬、出荷作業に従事したことは認め、その余は争う。原告が従事していたのは、前記作業のみではない。原告は、調律技術の研修一般を広く経験、学習している。

(4)  請求原因1(4)アは否認し、同イは争う。

(5)  請求原因1(5)は否認する。原告は研修を自主的に辞めたものである。

2  解雇予告手当及び付加金の請求について

請求原因2(1)は、同1(1)ないし(5)の認否に同じ。請求原因2(2)は争う。

3  債務不履行による損害賠償について

(1)  請求原因3(1)は否認する。被告は、原告を営業社員としては不採用としたが、技術的に成長すれば原告の進路も開けるであろうと考え、本件契約書の技術研修生の制度を原告に丁寧に説明し、研修現場も見せた上、研修生として採用した。研修生制度とは、ドイツのマイスター制度を参考にしたもので、ヨーロッパの輸入手作り高級ピアノの取扱いを体験する中で、高度な調整、調律技能を修得させる制度である。その内容は、「<1>期間は、四月一日からの最長二年、ただし、大学又は専修学校卒業後三月中から予備研修を開始できるときはこれを認める、<2>給与は、六か月間は初級技術修得後はアルバイト料を支給することはあるが原則無給、その後は時給を支給し、一定技術修得後は月給を支払う、<3>研修履修後は優先的に社員採用を考慮する」というものであった。

(2)  請求原因3(2)は否認する。被告の研修生制度では、三月中の研修は事前研修であり、四月一日から六か月の研修を開始することとなっているが、そのことは研修開始前に説明している。

(3)  請求原因3(3)は知らない。

4  不法行為による損害賠償について

(1)  本件契約書作成時の虚偽告知について

請求原因4(1)は否認する。

(2)  トイレ掃除等について

請求原因4(2)アのうち、Kが被告の技術統括部長として原告の指導に当たっていたことは認め、その余は否認する。

(3)  恩師の亡くなった日の発言について

請求原因4(3)アは否認し、同イは争う。

(4)  朝礼の席上での痛罵について

請求原因4(4)アは否認し、同イは争う。

(5)  地位確認要求時の痛罵について

請求原因4(5)アは否認し、同イは争う。

(6)  内容証明郵便での罵倒について

請求原因4(6)アの内容証明郵便を出したことは認める。原告を罵倒したのではなく、事実を開示したにすぎない。同イは争う。

5  不法行為による損害賠償-追加分について

(1)  在籍期間の証明書の不交付について

請求原因5(1)のうち、原告から、Kが、在籍期間に関する証明書の交付を求められたことは否認する。

(2)  調停での虚偽説明について

請求原因5(2)のうち、被告代表者が原告主張のアないしエの各記載のある文書を調停の際に提出したことは認める。その記載は、正規の研修期間について述べたものである。

(3)  タイムヵードの破棄について

請求原因5(3)のうち、被告代表者が、平成一三年七月上旬ころ、原告のタイムヵードの破棄を指示して破棄させたことは認めるが、保存義務については争う。

(4)  長期の試用期間を定めた公序良俗違反について

請求原因5(4)のアは否認し、同イは争う。

(5)  契約書の不当表示、説明義務違反について

請求原因5(5)のうち、本件契約書に「労働契約」、「雇用契約」との記載があることは認めるが、その余は否認する。被告は、研修制度の内容について原告に十分説明を行った上、本件契約書を作成した。

(6)  面接時説明義務違反について

ア 請求原因5(6)アのうち、被告代表者が、面接時に、本件契約書に基づく契約が労働契約ではない旨説明しなかったことは否認する。「技術研修ではなくピアノの運搬を主に担当させる」と告知していないことは認める。被告が原告に主にピアノの運搬を担当させたことはない。

イ 請求原因5(6)イは否認する。

(7)  損害額

請求原因5(7)は争う。

理由

第一賃金請求(原告の請求第一項)について

1  労働者とは、労働の対償として契約に定められた賃金を支払われる者をいうから(労働基準法九条、一一条)、同法にいう労働契約とは、使用者が労働者の労務の提供の対償として報酬を支払うものをいうと解される。また、民法六二三条によれば、雇用契約は、雇用者が被用者に対し、労務に服することに対する報酬を与える約束をするものをいうと解される。

2  前記争いがない事実及び証拠(略)によれば、原告は、被告との間で、三月一日、本件契約書(書証略)のうち、日付、研修生の氏名、身元保証人の住所、氏名等以外の部分を記載した書式を交付され、その後、これに署名押印して提出することで、本件契約書に記載された内容の契約(以下「本件契約」という)を締結したところ、本件契約書には、「当規則は、研修を要するピアノ技術者に適用する。研修期間中は、本人の技術の向上と会社の利益に貢献することのバランスをとる前提で業務に従事する。ピアノ販売に関する総合的な知識・経験の修得も目的とする」とその目的が記載され、当初六か月は無給とされ、研修の期間は最長二年間で、「研修生の採用は研修開始後一か月に一次判断をしその後、三か月毎に試験を実施して進級を判断することを原則とする。正社員として採用する場合は、一通りの課程終了後、試験を実施する。終了後は優先的に、正社員採用を考慮するが、期間中に将来社員としてふさわしくないと考えられる場合は、ただちに当契約を解除できる」旨記載され、労働の対償としての賃金を支払うことやその金額、賃金支払開始の具体的時期についての記載はなく、報酬ないし賃金の支払が当事者の合意の内容となっていないことが認められる。

そうすると、本件契約には労働契約の不可欠の要素である労働の対償として支払われる賃金についての合意がないから、本件契約は労働契約ではないというべきであるし、同様の理由で雇用契約ではないというべきである。

3  本件契約書は、「研修生(社員)採用規則」と表題され、「給与・休暇等の規則は、…この雇用契約を締結する上で、現行の労働基準法に当てはまらない事を了解する」「労働時間」「労働契約書」等との記載があるが、当該契約が労働契約か否かは、契約書の個々の文言に捕らわれることなく、その実質により決せられるべきであるから前記判断を左右しない(なお、本件契約書には、「現行の労働基準法に当てはまらない事を了解する」として、労働基準法の適用を排除する旨の合意をした旨の記載があるが、労働基準法は強行法規であり、労働契約である限り当事者間において適用を排除する旨の合意をしてもその合意は無効であるから(労働基準法一条二項、一三条)、本件契約書にこの文言があることは、本件契約が労働契約ではないことの根拠とはならないというべきである。当裁判所が本件契約を労働契約ではないと認定したのは、この文言を根拠としてではない)。

原告は、被告との間で、研修のため当初の六か月間は無給であるが見習社員とする雇用契約(労働契約)を締結した旨主張するが、賃金の額や賃金支払開始時期について何ら具体的な約束がなされていない契約を、雇用契約ないし労働契約であるということはできないから、採用できない。

4  したがって、その余の点について判断するまでもなく、原告の賃金請求はいずれも理由がない。

第二解雇予告手当及び付加金の請求(原告の請求二、三項)について

前記1のとおり、本件契約は労働契約であるとはいえないから、労働基準法の適用はなく、その余の点について判断するまでもなく、原告の解雇予告手当及び付加金の請求はいずれも理由がない。

第三債務不履行による損害賠償(原告の請求第四項)について

1  証拠(略)及び弁論の全主旨によれば、以下の各事実が認められる。

(1)  被告は、楽器の輸出入卸売、小売等を業とする株式会社であり、ヨーロッパ製の高級鍵盤楽器の代理店としてピアノの販売を主に行っていた。ヨーロッパ製の高級ピアノは、販売後、被告において、調整、調律、修理、塗装等を行う機会が生じ、これらの作業に関与することで新たな商機も生じ得るものであったため、被告の営業社員には、ヨーロッパ製高級ピアノの調整等の技術が必要であった。

(2)  原告は、平成一二年一月、国立音楽大学のピアノ調律科の学生であった。原告は、被告の営業社員の求人に応じて、同大学の卒業生で、ピアノの調整、調律の技術を生かし、被告の取締役兼営業部門の幹部職員として働いていたT(以下「T」という)と面談し、その後、Tらによる被告の採用面接を受けた。

被告は、原告との面接後、原告を営業社員としては不的確であると判断したが、原告の出身大学と今後良好な関係を保つ必要があること等から、被告が導入を検討していたピアノ調律技術者研修生として原告を受け入れることを決定し、原告に対し、Tを通じて、被告において行われる後記(3)の技術研修を受けるよう勧めた。

(3)  被告においては、ドイツの楽器工房におけるマイスター制度を手本にして、ピアノの調整技術を修得した者を自社の社員として採用すること等を目的とし、ピアノ調整、調律の技術を研修費用を徴収せず無料で教育し技術者を養成する制度の導入をかねてから検討していた。

被告は、平成一二年度からこの制度を導入することを決定し、被告代表者は、研修生と被告が締結する契約書の書式として、本件契約書のうち、日付、研修生の氏名、身元保証人の住所、氏名等以外の部分をワープロで記載した書式を作成した。この契約書には、前記第一の2および3のとおり、「研修生(社員)採用規則」、「この雇用契約」「労働契約書」等の記載があるが、他方、研修期間を二年間とし、当初六か月は無給であり、研修を続けるには三か月ごとに試験に合格する必要があるとか、正社員に採用されるとは限らない旨の記載があり、賃金を支給し始める時期や賃金の額等については具体的な定めは記載されていなかった。

(4)  被告は、第一回目の研修生として、原告の外二名を選定した。三月一日、被告の人事担当のY(以下「Y」という)は、この三名を被告の営業所に呼び出し、被告の研修生として採用することにしたことを告げ、本件契約書の前記書式を交付し、本件契約書の書式の前記文言を読み上げる等して確認し、特に当初六か月は無給であることを再三確認した。この三名は、いずれも職業経験がない者であった。Yは、前記三名に対し、「本件契約書の書式を各人の両親等、身元保証人となるべき者に見せた上、それぞれが納得できるなら、署名押印してほしい」旨告げた。Yは、前記三名に対し、本件契約書の「雇用契約」、「労働契約書」の記載が間違いであるとか、本件契約が雇用契約ないし労働契約ではないとか、社員研修ではないとの言葉を使って説明しなかった。原告は、社員として被告に採用されると考えて被告営業所に出向いたところ、Yから本件契約の説明を受けて驚き、無給である旨や正社員として採用されるとは限らない旨の記載が本件契約書にあることに不満を感じたが、Yから、「本件契約には将来被告の正社員となる人材を育てる目的がある」旨説明されたことや本件契約書に「研修生(社員)採用規則」、「雇用契約」、「労働契約書」等の記載があることから、六か月後には被告から賃金が支払われ、かつ、二年以内には被告の正社員になれるに違いないと考えて、本件契約を締結することにした。

(5)  原告は、この書式を自宅に持ち帰って父親に見せ、原告の父親は身元保証人の欄に、原告は研修生の欄にそれぞれ署名押印し、三月上旬ころ被告に提出した。

2  以上の各事実を前提に判断する。

前記1(3)のとおり、本件契約書には、研修を続けるには三か月ごとに試験に合格する必要があるとか、正社員採用を優先的に考慮されるが、正社員に採用されるとは限らない旨記載されていること、賃金の額や賃金支払開始時期についての具体的な定めはないこと、前記1(4)のとおり、本件契約書の説明時にも正社員に採用する旨約束された事実がないことから、二年以内に正社員として採用する旨の合意は、本件契約の内容となっていないというべきである。

原告は、被告の人事担当者のYが、「無給とはどういうことですか」との原告の質問に答えて、三月一日、「会社で人材を育てて社員として採用するため本件契約をするのだから、心配は無用である」旨いったと供述するが、かかる発言がされたと認めるに足りる的確な証拠はなく、これを否定する(人証略)の証言と対比して採用できない。仮に、このような趣旨の発言があったとしても、前記(4)のとおり、本件契約書中の正社員に採用されるとは限らない旨の前記文言について説明した上でなされている以上、この発言をもって原告を正社員として必ず採用する旨の約束をしたということはできないというべきである。

以上から、原告主張(請求原因3(1))の約束を認めるには足りず、その余の点について判断するまでもなく、原告の債務不履行による損害賠償請求は理由がない。

第四不法行為による損害賠償(原告の請求第四項)について

1  本件契約書作成時の虚偽告知について

前記第三の2のとおり、被告が、本件契約に際し、原告に対し、見習社員として採用し、技術習得のための社員研修を六か月間無給で行い、二年以内に正社員として採用する旨約束したとは認めるに足りないというべきである。よって、原告のこの点についての請求は理由がない。

2  トイレ掃除等、恩師の亡くなった日の発言、朝礼の席上での痛罵、地位確認要求時の痛罵について

本件全証拠によっても、原告主張のKの行為があった事実を認めるに足りる的確な証拠はない。原告は、原告主張のKの行為があった旨供述するが(書証略、原告本人)、これを裏付けるに足りる証拠はないことから、これらの行為を否定する(人証略)の供述及び(書証略)の記載と対比して採用できない。

したがって、原告のこの点についての請求は理由がない。

3  内容証明郵便での罵倒について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、平成一四年二月二〇日被告代表者が、原告の家族に対し、「本人は、研修生として脱落者であると認めざるをえません」と記載した内容証明郵便を送付したことが認められる。

証拠(略)によれば、原告は、本件契約に基づいて三月三日から四月一一日まで被告の営業所に通ってピアノの調整等の作業を行っていたが、Kから「営業がやりたいなら、被告で技術研修するのではなく、他社に就職活動した方がいい」旨いわれ、被告の正社員としての採用が確実ではないと理解したことから、四月一一日、研修を辞めたことが認められる。前記「脱落者」との表現は、本件契約による研修を原告が途中で辞めたことについての被告代表者の認識を表現したものであり、原告が本件契約による研修を途中で辞めたことは事実であるから、前記表現が被告代表者からの見方を記載したもので、原告の理解とは食い違っているとしても、そのことのために、違法、不当な表現であるということはできない。

したがって、原告のこの点についての請求は理由がない。

第五不法行為による損害賠償・追加分(原告の請求第五項)について

1  在籍期間証明書の不交付について

四月一一日、原告がKに対し在籍期間に関する証明書の交付を求めた事実は、これを認めるに足りる証拠はない。原告は交付を求めた旨供述するが、これを裏付ける証拠はなく、これを否定する証人Kの供述と対比して採用できない。

また、仮に、在籍期間証明書の交付要求があったとしても、本件契約は労働契約ではないから、被告において在籍期間の証明書を交付すべき義務はないというべきである。

原告のこの点についての請求は理由がない。

2  調停での虚偽説明について

被告代表者が、調停の際、原告主張の各記載のとおり、原告の研修期間について「四月一日以降の二週間のみである」旨記載した文書(書証略)を提出したことは当事者間に争いがない。

被告は、この記載について、正規の研修は四月一日から開始されているとの認識により、正規の研修期間について述べたものである旨主張する。少なくとも、四月上旬ころまでには「正規の研修は四月一日からである」旨原告が説明を受けたことがあったことから((書証略)によって認める)、(書証略)の各記載についての被告の前記説明が虚偽であるとは一概にはいえず、被告代表者が原告の在籍期間について調停で故意に嘘を述べたとはいえないというべきである。

よって、原告のこの点についての請求は理由がない。

3  タイムヵードの破棄について

被告代表者が、平成一三年七月上旬ころ、原告のタイムヵードの破棄を指示して破棄させたことは当事者間に争いがない。

前記第一のとおり、本件契約は労働契約ではないから、被告には労働契約に関する重要な書類として原告のタイムヵードを保存すべき義務はなく、被告がタイムヵードを廃棄したことが違法であるとすべき根拠はない。原告のこの点についての請求は理由がない。

4  長期の試用期間を定めた公序良俗違反について

いわゆる試用期間とは、解除権留保付き雇用契約ないし有期雇用契約であるところ、前記第一のとおり、本件契約は雇用契約とは認められないから、原告のこの点についての請求は理由がない。

5  契約書の不当表示、説明義務違反について

前記第三の1(2)ないし(4)のとおり、被告が本件契約書に「労働契約」「雇用契約」と記載したこと、本件契約締結前、被告代表者ないしその命を受けた人事担当のYは、原告に対し、この記載が間違いである旨の説明や「本件契約は、労働契約ないし雇用契約ではない」「社員研修ではない」との言葉を使って説明しなかったことは、これを認めることができる。本件契約書のかかる記載が間違いであり、特に、原告のように、求人に応募してきた、職業経験がない者に対する説明内容として、極めて望ましくなく、改善を要することは否定できない。

しかし、本件契約書には、研修期間は二年間であり当初六か月は無給であること、正社員採用を優先的に考慮されるだけで、正社員として採用されるとは限らないことがそれぞれ明記され、本件契約前には、Yがその旨原告を含む研修予定者に口頭で説明を行っていることが認められるから、原告が、本件契約が社員研修で、被告の正社員として採用されるのは確実である旨誤信したのは、原告のみの理解の仕方であったというよりほかはなく、本件契約書の前記記載と原告の誤信や精神的苦痛との間には相当因果関係がないというべきである。

したがって、原告のこの点についての請求は理由がない。

6  面接時説明義務違反について

(1)  作業内容についての説明義務

被告代表者は、面接時に、技術研修ではなくピアノの運搬を主に担当させることを告知しなかったことは当事者間に争いがない。

原告は、被告においてピアノの運搬を主に担当させられたと主張するが、原告と同時期に研修を受けていた他の者の研修日誌には、技術研修の内容やその反省が詳細に記載され、ピアノの運搬を主に担当した旨の記載はないこと(書証略)、原告と同時期に研修を受けた(人証略)は、原告がピアノの運搬ばかりさせられていたことを否定していること(証拠略)、原告が被告へ通うのを辞めた後である四月一四日に作成された被告宛て文書には、ピアノの運搬ばかりさせられたことの苦情は記載されていないこと(書証略)が認められ、これらを総合すると、原告が、技術研修ではなく、ピアノの運搬を主に担当させられていたとは認めるには足りないというべきである。

したがって、被告代表者が、面接時に、原告に対し、技術研修ではなくピアノの運搬を主に担当させることを告知すべき義務があるとはいえない。

(2)  労働契約ではない旨の説明義務

被告が、本件契約書に「労働契約」、「雇用契約」と記載し、本件契約締結前、被告代表者ないしその命を受けた人事担当のYが、原告に対し、この記載が間違いである旨の説明はしなかったこと、かかる記載が望ましくないことは前記第五の5のとおりである。

しかし、本件契約書には、研修期間は二年間であり当初六か月は無給であること、正社員採用を優先的に考慮されるだけで、正社員として採用されるとは限らないことがそれぞれ明記され、本件契約前に、Yがその旨原告を含む研修予定者に口頭で説明を行っていることが認められるから、原告が、本件契約が労働契約であり、被告の正社員として採用されるのは確実である旨誤信したのは、原告のみの理解の仕方であったというよりほかはなく、本件契約書の前記記載と原告の誤信や精神的苦痛との間には相当因果関係がない。

(3)  したがって、原告のこの点についての請求は理由がない。

第六まとめ

以上より、原告の請求はいずれも理由がない。

(裁判官 伊藤由紀子)

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