大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成14年(合わ)246号 判決 2002年11月21日

主文

被告人両名はいずれも無罪。

理由

第一  本件公訴事実(ただし、訴因変更後のもの)は、次のとおりである。

「被告人両名は、Cと共謀の上、平成一四年四月二七日午前六時ころ、東京都渋谷区《番地省略》A野一〇二号室において、D(当時二五年)に対し、同人の頸部などをカーペット上に押さえつけるなどの暴行を加え、よって同人に後頸部圧迫に起因した鼻口部閉塞による急性呼吸循環不全の傷害を負わせ、同日午前八時一分ころ、同都新宿区《番地省略》東京医科大学病院において、前記傷害による窒息により死亡させたものである。

第二  当事者の主張

一  弁護人は、本件公訴事実につき、被告人両名はいずれも無罪であると主張するところ、その理由は、要するに、(1)被告人両名及びC(なお、この三名を「被告人A子ら三名」と総称する。)の行為はいずれも、飲酒酩酊したDによる暴力から自己又は家族の身体を守るため、やむを得ずに行った必要かつ最小限の有形力の行使にすぎず、その程度も反撃のための相当な手段に限られていたから、正当防衛行為に該当し、(2)仮に、客観的には、防衛のための手段として過剰であったと評価されるとしても、被告人両名は、CとともにDを押さえつけた際、それにより同人の鼻口部を閉塞するほどの力が加わっていることを認識してはおらず、防衛行為の相当性判断の前提事実を認識していたのであるから、誤想防衛に該当し、結局、被告人両名ともに傷害致死罪の刑責は負わない、というものである。

二  これに対し、検察官の主張は、要するに、(1)本件に際してDがCや被告人A子(以下「被告人A子」という。)に対してした行為は、家族間の悪意のない行為にすぎなかった上、被告人A子ら三名は、Dに対する積極的な加害の意思をもってDの体を押さえつけるなどしていたのであるから、急迫不正の侵害そのものが存在せず、仮にそうでないとしても、Dが被告人A子ら三名により押さえつけられて制圧された時点では、既に急迫不正の侵害が止んでおり、かつ、被告人A子ら三名には、防衛の意思もなかったのであるから、その後の被告人A子ら三名によるDに対する有形力の行使については、正当防衛はもとより、過剰防衛も成立する余地はなく、(2)被告人両名においては、Cが、Dの死因となったその後頸部を右手で強く押さえつけて顔面を布団の隙間等に押しつける行為に及んでいることを認識していたのであるから、防衛行為の相当性判断の前提事実にも誤認はなく、誤想防衛が成立する余地はない、というものである。

第三  当裁判所の判断

一  関係各証拠によれば、Dが死亡するに至った経緯、その際の同人の行動、これに対する被告人A子ら三名の行動等について、おおむね次のような事実が認められる(以下の説示で、括弧内の甲乙の番号は証拠等関係カードにおける検察官請求証拠の番号を示し、弁の番号は同カードにおける弁護人請求証拠の番号を示す。)。

(1)  Dの死亡とその死因等について

ア 平成一四年四月二七日(以下「本件当日」という。)午前六時三九分ころ、被告人A子(当時五二歳)は、自宅である東京都渋谷区《番地省略》所在のマンション「A野」一〇二号室(以下「本件居室」という。)で、長男のD(当時二五歳)の異状に気づいて、直ちに一一九番通報をし、同日午前六時五四分ころ、駆けつけた救急隊員らが、Dを東京都新宿区《番地省略》所在の東京医科大学病院に搬送したものの、同日午前八時一分ころ、同人が死亡していることが確認された。もっとも、同人は、救急隊員らが本件居室に駆けつけたときには意識がなく、呼吸停止の状態にあって、蘇生措置を講じても回復せず、既に死亡していたものと考えられる(被告人A子の検察官調書<乙五>、捜査報告書<甲一>、電話聴取捜査報告書<甲二>、検証調書<甲八>、死体検案調書<甲三>、検視調書<甲四>、戸籍謄本<附票添付。甲七>等)。

イ Dの死因は、後頸部圧迫に起因した鼻口部閉塞による急性呼吸循環不全に基づく窒息死であり、同人の鼻口部及びその周辺には、圧迫傷ないし打撲傷(ただし、それ自体は軽傷)があったところ、これは、平面的な鈍体に顔面を押しつけられたことにより生じた可能性があるものであった。また、同人の頸部には、左頭半棘筋下半及び右頭半棘筋下半(いずれも第三頸椎棘突起の高さ)にそれぞれ筋肉内出血(頸部の後ろ側のもので、それ自体は軽傷)があった(村井達哉の検察官調書<甲六>、東京家庭裁判所平成一四年少第一七三三号傷害致死保護事件における村井達哉の証人尋問調書写し<弁五>、鑑定書<甲三五>等)。

ウ なお、本件居室は、玄関を入ると廊下があり、その廊下の左側(東側)におおむね四畳半の広さの部屋(以下「四畳半間」という。)が、正面には六畳の広さの部屋(以下「六畳間」という。)があって、これにバス・トイレや台所が付設されており、各部屋を行き来するためには廊下に出なければならない構造になっていた。そして、平素から、被告人A子とDは、六畳間にそれぞれの布団を並べて敷いて寝ており、被告人A子の長女の被告人B子(当時二二歳。以下「被告人B子」という。)と二男のC(当時一六歳。定時制高校二年生)は、四畳半間にそれぞれの布団を並べて敷いて寝ていた(被告人A子の検察官調書<乙五>及び警察官調書<乙一>、被告人B子の検察官調書<乙一二>及び警察官調書<乙六>、Cの検察官調書謄本<甲三〇>、上記傷害致死保護事件における第一回審判調書<以下、同保護事件の審判調書を、単に「審判調書」という。>中のCの少年供述調書写し<弁一>、検証調書<甲八>等)。

(2)  Dの従前の行状について

Dは、一六歳から一七歳ころにいわゆるシンナー吸引や暴走族に加わるなどといった逸脱行動があって、警察に補導されたり、家庭裁判所で少年審判を受けたりしたこともあったが、高校を中退後、飲食店に勤めるようになってからは、定時に出勤してきちんと帰宅し、貰った給料で家計を助けるようになっていた。もっとも、Dは、二〇歳ころから、外で飲酒して酩酊したあげく、人が変わったような状態になって、帰宅後に大声を出して暴れ、被告人A子をはじめ家族らに対し、殴ったり蹴ったりといった暴力を振るって負傷(その傷害の程度はともかく)させたり、家具などをたたき壊すなどの粗暴な行動に出る一方、朝になって、暴れた際の状況を全く覚えていないということが、何度かあった。このように、腕力の強いDが酒に酔って粗暴な行動に出た場合、被告人A子ら三名は、しばしば三人がかりでDの体を布団の上などに押さえつけ、同人が疲れて暴れるのを止めたり、そのまま眠ってしまうまで押さえ続け、時には暴れる同人の足などにガムテープを巻きつけて緊縛するというようなことまでして、これに対処していたが、途中で押さえつけている力を緩めると同人が再び暴れ出すことから、その体を押さえている時間が相当長時間にわたることもあった(なお、過去に被告人A子ら三名がDの体を押さえていた最長時間の点について、被告人A子は、警察官調書<乙二>中では、一時間半くらい押さえていたこともあった旨述べており、公判供述中でも、二時間くらい押さえていたこともあった旨述べているところ、Dの体を押さえていた最長時間を被告人A子の供述するとおりに認定し得るかどうかはともかく、少なくとも、それが相当長時間にわたる場合もあったということ自体は、否定し難いものと考えられる。)。また、その際、被告人A子ら三名は、Dが、押さえつけられた際にしばしば嘔吐することもあったため、同人をすぐにうつぶせや横向きの状態にした上で、その体を押さえ続けるようにしていた(被告人A子の公判供述、検察官調書<乙五>及び警察官調書<乙二>、被告人B子の公判供述、検察官調書<乙一二>及び警察官調書<乙八>、Cの検察官調書謄本<甲三〇>及び警察官調書謄本<甲二六>、第一回及び第四回各審判調書中のCの各少年供述調書写し<弁一、四>、審判調書中のA子(第二回審判調書。弁二>及びB子<第三回審判調書。弁三>の各証人尋問調書写し等)。

(3)  本件当夜のDの行動について

Dは、勤めていた飲食店での仕事を終えた後、本件当日の午前一時ころから午前四時ころまでの間、仕事仲間と一緒に、東京都渋谷区神宮前《番地省略》所在のビル内にある飲食店で、生ビール中ジョッキ一杯、ウーロンハイ(焼酎のウーロン茶割り)三杯、ウィスキーのロック三杯くらいを飲み、さらに、同じビル内の別のバーに赴いて、ウィスキーのロック(ダブル)三杯くらいを飲んだ後、同日午前五時四五分ころにそのバーを出て、そのまま歩いて帰途に就いたが、そのころには、かなりの酩酊状態に陥っており、そのビルのエレベーターを何度も蹴飛ばして、店員といさかいを起こすなどしていた。なお、Dの死亡後に、同人の酩酊の度合いを検査した結果、血液(心臓血)中から一ミリリットル当たり約一・九ミリグラムのアルコール(エタノール)が検出された(弓座功太郎の警察官調書<甲三一>、前掲村井達哉の証人尋問調書写し<弁五>、鑑定書<甲一五>等)。

(4)  本件当日の明け方ころの状況について

本件当日の明け方ころの、本件居室内における被告人A子ら三名とDの行動は、次のようなものであった(上記(2)掲記の各証拠等)。

ア 被告人A子は、本件当日の午前三時ころに、仕事を終えて帰宅し、午前四時半ころには、六畳間に敷いた布団で就寝した。また、被告人B子とCは、いずれもその前日の夜遅くに帰宅し、本件当日の午前四時ころまでには、それぞれ四畳半間に並べて敷いた布団で就寝した。

イ Dは、本件当日の午前六時過ぎころに帰宅するや、四畳半間に赴いて、眠っていたCに対し、「起きろ、起きろ。」と大声で呼びかけたものの、同人が起きようとしなかったことから、「この野郎。」とか、「ゲームじゃ生きられねえんだ。」などと怒鳴りつけながら、うつぶせに寝ていた同人の体の上に馬乗りになって、一方的に、その後頭部や背中辺りを手拳で何度も殴りつけ始めた。その間、その横で寝ていた被告人B子は、目を覚ましたものの、恐怖心もあって、Dを制止するような行動にまでは出なかった。

ウ そのころ、被告人A子は、騒ぎを聞きつけて起き出し、四畳半間をのぞいて、Dに対し、早く寝るように言ってたしなめるなどした。ところが、同人は、「うるせえ、ばばあ。」などと被告人A子に罵声を浴びせかけるや、直ちに四畳半間を出て、六畳間に戻った同被告人に向かって行った。

エ 一方、Cは、すぐに四畳半間を出てDを追いかけ、廊下辺りで同人の背後から抱きつこうとして、逆に同人に蹴られてその場に尻餅をついた。次いで、Cは、なおも六畳間に入って被告人A子に殴りかかろうとするDを、背後から羽交い締めにしたものの、同人が頭を後方に振ってCに頭突きをしようとしたため、その手を放したところ、そのころ、Dが体勢を崩し、六畳間のカーペット(電気カーペット)の上に並べて敷かれた二組の布団の隙間辺りに顔をつける形で、うつぶせに倒れ込んだ。

オ そこで、被告人A子は、起き上がろうとするDの右腰付近から、同人の臀部辺りを両手で押さえつけ、後には右手で同人の右腕をも押さえつけたりし、また、Cも、Dの左脇付近から、同人の左腕辺り(枕を乗せて)を左手で、首辺りを右手でそれぞれ押さえつけたほか(Cが押さえつけた具体的な部位等については、後に検討する。)、やや遅れて六畳間にやって来た被告人B子も、Dの下半身側から、その足首辺りを両手で押さえつけたりした。

カ これに対し、うつぶせに倒れた状態のDは、被告人A子ら三名に体を押さえつけられるなどしても、しばらくは、両足を激しくばたつかせたり、膝を立てて起き上がろうとするなどした。そのため、被告人A子ら三名は、そのままDを押さえ続け、五分から一〇分くらい経過して、同人がおとなしくなったと見定められるに及んで、ようやく、同人を押さえていた手を放した。なお、そのころ、被告人A子ら三名は、Dの両手を後ろ手にした上、被告人B子においてDの両手首や足にガムテープを巻きつけて緊縛したが、まもなく、同人が動かなくなったことが確かめられるに及んで、同人の両手首や足に巻かれたガムテープをはがした。その後、被告人A子とCは、動かなくなったDの左右の腕をなおも押さえながら、同人を挟んで両側に横臥する形で、そのまま六畳間において就寝し、被告人B子は、四畳半間に戻って就寝した。もっとも、被告人A子は、寝つかれずにいたところ、Dを起こそうとしても反応がなかったことなどから、上記(1)のアのとおり、本件当日の午前六時三九分ころに、一一九番通報をした。

以上のとおり認められる。なお、Cは、本件当日の明け方ころにおける本件居室内での被告人両名の言動等に関して、上記認定とは若干異なった内容の供述をしているが(Cの検察官調書謄本<甲三〇>、前掲各少年供述調書写し<弁一、四>等)、上記の認定を左右するほどのものとはいえない。

ところで、検察官は、CとDとは、廊下で取っ組み合いのけんかをして、そのままもつれるように六畳間に入り、引き続き取っ組み合いのけんかをしていたもので、Dが六畳間で被告人A子に殴りかかろうとしたという事実はなかった旨主張する。この点、被告人A子は、廊下や六畳間におけるCやDの行動に関する記憶があいまいであることがうかがわれるものの、Cは、前掲各少年供述調書写し(弁一、四)の中で、上記(4)のエの認定に沿う内容の供述をしているのであって、同人が、検察官調書謄本(甲三〇)や警察官調書謄本(甲二七)の中でも、一貫して同趣旨の供述をしていることに加え、直前のDの被告人A子に対する粗暴な言動やDの従前の行状等からみて、同人がCの述べるような行動に出るということが、事の成り行きとしてそれほど不自然ではないことなどに照らしても、Cの上記供述は信用し得るものといえる。もっとも、被告人B子は、検察官調書(乙一二)や警察官調書(乙八)の中で、廊下や六畳間におけるCとDとのやり取りにつき、検察官の上記主張に沿うかのような内容の供述をしている。しかしながら、他方で、被告人B子は、その際の目撃状況につき、自分は、四畳半間の入口に掛けてあった服の間から廊下をのぞき、CとDがお互いの服をつかんで引っ張り合っているのが見えたが、怖くなっていったん四畳半間に引っ込んだ後、廊下の方から聞こえてくる物音で、CとDが取っ組み合いのけんかをして、次第に六畳間へと動いているのではないかと思ったとか、その後勇気を出して四畳半間の入口から服をかき分けて顔を出し、六畳間の方をのぞいてみたところ、CとDが取っ組み合いのけんかをしているのが見えたなどとも述べているのであって、被告人B子が、CとDのやり取りの詳細や全体状況を、必ずしも正確に認識し把握していたわけではなかった疑いがある。のみならず、被告人B子は、前掲B子の証人尋問調書写し(弁三)の中では、目撃したCとDとの取っ組み合いの内容自体かなりあいまいなものである旨も述べているのであるから、このような被告人B子の供述により、Cの上記供述の信用性が否定されるものではない。そうすると、DとCの一連のやり取りについては、Dが四胃半間を出て、六畳間にいる被告人A子に殴りかかろうとして同被告人に向かって行き、これをCが制止しようとしていたという状況であったと認められるのであって、検察官の上記主張は、採用することができない。

なお、被告人A子は、公判供述中だけでなく、検察官調書(乙五)や警察官調書(乙二)の中でも、自分は、廊下で、四畳半間から出てきたDに、いきなり口の辺りを手拳で一回殴られた旨述べているところ、被告人A子が、この点について殊更虚偽の供述をしているとは断定し難いものの、捜査段階の当初はそのような内容の供述をしていなかったことなどに照らし、同被告人の上記供述の信用性には疑いを差し挟む余地がないではない。もっとも、上記認定のとおり、Dが、被告人A子にたしなめられるや、同被告人に罵声を浴びせかけ、同被告人に向かって行って殴りかかろうとしたことは認められるのであるから、さしあたりはそのようなDの言動を前提として、正当防衛の成否等について検討を進めることとする。

二  ところで、Cは、前掲各少年供述調書写し(弁一、四)の中で、私はまず両手で、六畳間にうつぶせに倒れ込んだ兄(D)の左手を押さえつけた後、左手で兄の左手を押さえつけたまま、首根っこの辺りに右手を当てて、その右手に体重をかけながら、歯を食いしばって、腕が震えるくらい力一杯押さえ続けた、その間、兄は、実際に嘔吐はしなかったものの、何度も「オエッ」という吐くような声を出していたなどと述べているところ、Cが、検察官調書謄本(甲三〇)や警察官調書謄本(甲二八)の中でも、おおむね同趣旨の供述をしているところからみて、同人が六畳間にうつぶせに倒れ込んだDを押さえつけた部位やその態様は、Cの上記供述のとおりであったと認められる(なお、同人は、前掲少年供述調書写し<弁一>の中で、両手でDの左手を押さえつけた後の自分の行動に関して、最初はDの肩の根元辺りを押さえたとか、だんだん右手を背中の方にずらしていったという趣旨の供述もしているところ、このようなCの一連の動きは、そのような状況に置かれた者の行動として、それなりに自然な流れに沿ったものとみる余地があるから、同人のこの供述も、一概にその信用性を否定し難いものといえる。)。

そうすると、同人の上記供述に、上記一の(1)イで認定したDの死因や負傷の状況、とりわけ、頸部の筋肉内出血の状況のほか、当時のCの体重が八〇キログラムくらいであったと認められること(前掲Cの少年供述調書写し<弁一>)なども併せ考えると、Dは、六畳間にうつぶせに倒れ込んだところを、Cにより、最終的にその右手を後頸部に当てられ、そのまま五分か一〇分くらいもの間力一杯押さえつけられたため、鼻口部が、その場に敷かれていた二組の布団の隙間に挟まるような状態で、その布団かその下のカーペットに押しつけられる形となった結果、急性呼吸循環不全により窒息死するに至ったものと認められるのであり、そのほかに、Dの死亡につながるような原因は見当たらない。

三  そこで、上記一及び二で認定した客観的状況を前提に、正当防衛の成否等について、以下に検討する。

(1)  急迫不正の侵害及び防衛の意思について

ア 本件当日の明け方ころ、Dは、本件居室の四畳半間において、動機は必ずしも明らかではないものの、いきなり、無抵抗のCに対し、一方的に、その後頭部や背中辺りを手拳で何度も殴りつけるなどの暴行を加え、これをたしなめた被告人A子に対しても、罵声を浴びせかけたばかりか、六畳間に戻った同被告人を追いかけて行き、これを制止しようとするCを足蹴にしたり後頭部で頭突きに及ぶなどしながら、その制止を振り切って六畳間にいた被告人A子に殴りかかろうとするという粗暴な行為に及んだものである。そうすると、本件におけるこのようなDの一連の言動をみると、同人による被告人A子やCに対する侵害が現在し、又はこれが差し迫っている状況にあったこと、すなわち、急迫不正の侵害があったことは明らかであり、家族間といえどもこのような度を越した粗暴な振る舞いが許容される筋合いのものではないから、これが家族間の悪意のない行為としてそもそも急迫不正の侵害に該当しないという検察官の主張は、採用することができない。

さらに、その後、Dは、被告人A子ら三名により、うつぶせの状態のままその体を押さえつけられても、しばらくは、両足を激しくばたつかせたり、膝を立てて起き上がろうとするなどしていたというのであるから、上記一の(2)で認定したDの従前の粗暴な行状に加え、上記一の(3)で認定したとおり、本件当夜も、同人がかなり酩酊していて粗暴な行動傾向も現れていたとうかがわれることなどに照らしても、同人が、いったん被告人A子ら三名により、うつぶせの状態のまま押さえつけられたことにより直ちに、Dによる急迫不正の侵害が止んだとみることはできない。そして、上記のとおり押さえつけられた同人の抵抗は、時間の経過とともに徐々に弱まっていったものとうかがえるにしても、その後被告人A子ら三名がDの体から手を放すまでのいずれかの時点で、同人が暴れたり起き上がろうとするのを完全に止めたと認定するに足りる的確な証拠もないのであるから、結局、五分か一〇分くらい後に、被告人A子ら三名が、ようやくDがおとなしくなったと見定めて同人の体から手を放すに至ったときまで、上記急迫不正の侵害は継続していたものと認めるほかはない。

イ そして、被告人A子の公判供述、検察官調書(乙五)及び警察官調書(乙二)並びに前掲A子の証人尋問調書写し(弁二)(以下、これらを「被告人A子の供述」ともいう。)や、被告人B子の公判供述、検察官調書(乙一二)及び警察官調書(乙八)並びに前掲B子の証人尋問調書写し(弁三)(以下、これらを「被告人B子の供述」ともいう。)に、上記一の(4)で認定した被告人両名の一連の言動等をも併せ考えると、被告人両名においては、主としてDの暴行から被告人A子やCの身を守るために、Dの体を押さえつけるなどして同人が粗暴な行動に出るのを制止しようという意思があり、これを動機として、上記一の(4)オ、カで認定したような行為に及んだものと認めることができるのであり、他方、被告人両名について、Dに対する積極的な加害の意思があったことをうかがわせる状況はない。

なお、前掲Cの各少年供述調書写し(弁一、四)のほか、同人の検察官調書謄本(甲三〇)や警察官調書謄本(甲二八)によれば、同人においても、Dの暴行から被告人A子の身を守り、併せて自己の身を守るために、Dの体を押さえつけるなどして同人が粗暴な行動に出るのを制止しようという意思があり、これを動機として、上記一の(4)エないしカで認定したような行為に及んだものと認めることができるのであるが、他方で、先にDから一方的な暴行を受けたことに対する憤激の情をも併せ有していたこともうかがえる。しかしながら、既にみたとおり、Cの一連の行動が、被告人A子に向かって行って同被告人に殴りかかろうとするDを制止しようとするというものであったことなどに照らしても、本件に際し、Cが専らDに対する攻撃の意思に基づいて行動していたとは認め難いというべきであり、結局、CのDに対する憤激の情は、Cの防衛の意思を否定するほどのものではなく、さらにまた、同人につき、侵害の急迫性を否定するほどのDに対する積極的な加害の意思があったことをうかがわせるものでもない。

ウ 以上のとおり、本件では、Dによる上記の急迫不正の侵害に対する反撃行為として、まず、CがDを背後から羽交い締めにし、次いで、同人が体勢を崩して六畳間にうつぶせに倒れ込むや、被告人A子ら三名が、暗黙裡に意思を相通じ、共同して、こもごもDの体を押さえつけるなどといった、上記一の(4)エないしカで認定した同人に対する一連の有形力の行使に及んだものであり、その際被告人A子ら三名に防衛の意思があったことも否定することはできないというべきである。したがって、その際、Dによる急迫不正の侵害が存在しなかったとか、被告人A子ら三名には防衛の意思がなかったという検察官の主張は、いずれも採用することができない。

(2)  防衛行為の相当性について

ア 上記一の(4)オ、カで認定したCの反撃行為のうち、うつぶせに倒れた状態のDの後頸部を、上から右手で上記二で認定したほどに強く押さえつけるという行為は、それにより同人の顔面、とりわけその鼻口部が、その場に敷かれた布団やカーペットに強く押しつけられて、鼻口部閉塞による窒息死や重大な身体の傷害を惹起する危険性が高いものであったと認められる。これに対し、同人においては、もともとかなりの酩酊状態にあり、Cに対する暴行も、凶器を用いたものではなく、素手で殴打したり足蹴にするといった態様にとどまっており、被告人A子にも殴りかかろうとしたとはいえ、さしあたりは、同被告人やCの生命に危険を及ぼしたり、重篤な傷害を負わせるというようなことまで予想されるほどの状況でもなかったと考えられる上、その後被告人A子ら三名に押さえつけられて、一応はその動きを封じられた状態にあったというのである。そうすると、こうした状況に照らせば、Dの後頸部を右手で強く押さえつけるというCの反撃行為は、短時間にとどまるものであればともかく、そのような体勢のまま五分か一〇分くらいもの間押さえ続けたという点で、防衛行為の相当性の範囲を逸脱したものといわざるを得ない。

しかしながら、その余のCの反撃行為はもとより、上記一の(4)オ、カで認定した被告人両名の反撃行為それ自体については、必ずしも、Dの生命を奪い、あるいは、その身体に重大な傷害を負わせる危険性の高い行為であるとはいえない(例えば、同人が、五分から一〇分くらいの間、うつぶせの状態のまま手で体を押さえつけられたとしても、その手の当てられた部位が、後頸部ではなく左肩辺りであったとすれば、同人において、あらがう過程で顔を左右に振るなどすることにより、呼吸し得る状態を維持して窒息死するのを避けるということが困難であるとはいえない。)。のみならず、三人がかりでDを押さえつけたりしたとはいえ、そのうちの被告人両名は女性であったことに加え、上記一の(2)で認定したDの従前の粗暴な行状とこれに対する被告人A子ら三名の対応状況、とりわけ、Dの暴行により負傷した者もいたということや、これまで被告人A子ら三名において、Dをかなり長時間うつぶせにして押さえ続けても、不測の事態なども生じないで、同人をおとなしくさせることができていたことなども総合して検討すると、上記一の(4)イないしエで認定したDのCに対する暴行や、Dを制止しなかった場合に予想される同人の被告人A子らに対する暴行の態様、その手荒さの度合いなどと対比し、上記のような反撃行為、すなわち、Dの後頸部を手で強く押さえつける行為以外の反撃行為そのものは、同人による急迫不正の侵害に対する防衛行為として、その相当性の範囲を逸脱するものであったとは認め難いというべきである。

イ ところで、急迫不正の侵害に対して反撃行為を行った場合、客観的には、それが防衛行為の相当性の範囲を逸脱して過剰防衛とみられる場合であっても、その行為者において、相当性判断の基礎となる事実、すなわち、過剰性を基礎づける事実に関し錯誤があり、その認識に従えば相当性の範囲を逸脱していないときには、誤想防衛の一場合として、行為者に対し、生じた結果についての故意責任を問うことはできない。そして、複数の者が、そのような反撃行為を共同して行った場合、相当性判断の基礎となる事実の認識の有無は、各人について個別に判断すべきものと解されるから、そのうちの一人の反撃行為が、防衛行為の相当性の範囲を逸脱したものであり、そのような反撃行為により生じた結果につき、客観的には、共同して反撃行為を行った他の者の行為との間の因果関係を否定し得ない場合であっても、共同して反撃行為を行った者において、相当性判断の基礎となる事実に関し錯誤があり、その認識に従えば相当性の範囲を逸脱していないときには、誤想防衛の一場合として、その者に対し、生じた結果についての故意責任を問うことはできないものというべきである。

そこで、これを本件についてみると、上記のとおり、Cは、自らDの後頸部を右手で強く押さえつけていたのであるから、自己の反撃行為につき、その相当性判断の基礎となる事実の認識に欠けるところはなかったと認められるのであるが、他方、被告人両名において、反撃行為を行う際に、Cがそのような相当性の範囲を逸脱する行為に及んでいることを認識していたのかどうかについては、必ずしも明らかではない(なお、Dの死亡という結果は、上記二でみたとおり、直接的には、CによるDの後頸部を右手で強く押さえつけるという行為によって生じたものではあるが、その際、被告人両名もDの体を押さえつけるという行為に及んでいなければ、Cにおいて、Dが死亡するに至るまでその後頸部を右手で押さえ続けることは困難であったとみられるという意味において、そのような被告人両名の行為と上記結果との間の因果関係も否定し難いといえる。)。この点、被告人A子の供述によれば、同被告人は、捜査・公判段階を通じ、ほぼ一貫して、自分は、CがDの左肩から左肩こう骨の辺りを右手で押さえていると思っていたとか、その際、同人がうめき声などを発していたことには気がつかなかった旨述べており、また、被告人B子の供述によれば、同被告人も、CがDの首から左肩の辺りを押さえていると思っていたとか(なお、被告人B子は、公判供述中では、Cが右手で押さえていたDの体の部位につき、同人の左肩の付け根辺りと思っていた旨述べている。)、その際、同人がうめき声などを発していたことには気がつかなかった旨述べているのであり、しかも、実況見分調書二通(甲二三、二四)によれば、被告人両名とも、捜査官立会いの下でいわゆる犯行状況の再現を行った際、Cが右手又は右肘をDの左肩辺りに置いて押さえつけている状況を再現し説明していたことも認められる。確かに、当時、被告人A子のいた場所はDの右腰付近であり、被告人B子のいた場所もDの下半身側であって、Cのいた場所とそれほど離れていたわけではなかったことからすると、そのような場所にいた被告人両名においては、CがDの体のどの部位を押さえつけているのかを認識し得たはずであるとも考えられないではない。しかしながら、被告人両名とも、当時のかなり緊迫した状況の中で、それぞれ、Dの体を押さえつけて同人をおとなしくさせようと、いわば必死の思いで行動していたとうかがわれることなどに照らせば、被告人両名において、Cの右手がDの後頸部に置かれていたのを、その左肩辺りに置かれていたものと見誤ったとしても、一概に不自然なことと断定することはできず、また、上記二でみたとおり、Cが、右手でDの後頸部を押さえつける前に、同人の肩の根元辺りを押さえていたとすると、被告人両名とも、この時点のCの行為を目にしただけで、それ以後同人がDの体のどの部位を押さえつけていたのかについては、よく見ていなかったという可能性もあるから、上記の被告人両名の各供述は、いずれも、自己保身のための虚偽供述であるとして排斥することは困難といわざるを得ず、むしろ、自己の認識した当時の状況をありのままに述べたものとみる余地が十分にあると考えられる。したがって、被告人両名については、いずれも、CがDの後頸部を右手で強く押さえつけていることを認識していなかったのではないかという合理的な疑いを払拭することはできないものというべきである。

そうすると、Cについては、その反撃行為が過剰防衛行為に当たると認められるにしても、被告人両名については、いずれも、CがDの後頸部を右手で強く押さえつける行為に及んでいるという、本件における防衛行為の相当性判断の基礎となる事実、すなわち、過剰性を基礎づける事実についての認識に欠けていたとみるほかはないから(なお、上記一の(2)で認定した、従前のDの粗暴な行状に対する被告人A子ら三名の対応状況等を前提に、関係証拠を検討してみても、被告人両名の上記の誤認について、その責めに帰すべき過失があったことも認め難い。)、被告人両名につき、防衛行為の相当性判断の前提事実に誤認はなかった旨の検察官の主張も、採用することはできない。

そして、このような被告人両名の認識に係る当時の状況、すなわち、Cにおいて、右手で、Dの後頸部ではなく左肩辺りを押さえつけ、被告人両名においては、こもごもDの右腕や臀部辺り、あるいは、同人の足首を手で押さえつけるなどといった状況を前提とすると、そのような被告人A子ら三名の一連の反撃行為が、Dによる急迫不正の侵害に対する防衛行為として、その相当性の範囲を逸脱するものであったとは認め難いことについては、上記アでみたとおりである。

ウ 以上のとおり、被告人両名については、防衛行為の相当性判断の基礎となる事実に関し錯誤があったのではないかという合理的な疑いを払拭することができず、したがって、被告人両名の本件行為がいずれも誤想防衛行為に当たることを否定し難いのであるから、被告人両名に対し、Dに対する傷害致死罪の故意責任を問うことはできないものというほかはない。

(3)  以上の次第で、弁護人の主張のうち、被告人両名につき、正当防衛をいう点は採用することができないが、誤想防衛の点については、これを採用し得るものといえる。

第四  結論

よって、本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により、被告人両名に対し、いずれも無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡田雄一 裁判官 市川太志 岸野康隆)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例