東京地方裁判所 平成15年(わ)1410号 判決 2004年2月12日
主文
被告人を懲役1年2月に処する。
この裁判が確定した日から3年間その刑の執行を猶予する。
押収してあるラッカースプレー2本(平成15年押第1034号の1及び2)を没収する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、平成15年4月17日午後8時30分ころ、東京都杉並区西荻北2丁目9番17号所在の同区立西荻わかば公園内に設置された同区所有の公衆便所の白色外壁に、所携のラッカースプレー2本(平成15年押第1034号の1及び2)を用いて赤色及び黒色のペンキを吹き付けて「反戦」、「戦争反対」及び「スペクタクル社会」と大書し(損害額約7万円相当)、もって他人の建造物を損壊した。
(証拠の標目)省略
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法260条前段に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役1年2月に処し、情状により同法25条1項を適用してこの裁判が確定した日から3年間その刑の執行を猶予し、押収してあるラッカースプレー2本(平成15年押第1034号の1及び2)は、いずれも判示建造物損壊の用に供した物で犯人以外の者に属しないから、同法19条1項2号、2項本文を適用してこれらを没収し、訴訟費用については、刑事訴訟法181条1項本文により全部これを被告人に負担させることとする。
(補足説明)
1 弁護人は、<1>本件では、被告人がした落書きの内容が戦争反対のメッセージであったため、通常あり得ない建造物損壊罪での起訴がされたのであり、このような政治的理由による起訴は無効であるから、本件公訴は棄却されなければならない、<2>被告人は器物損壊の容疑で警察官によって現行犯逮捕されたが、警察官は、被告人が器物損壊の罪を犯したことを何一つ確認せず、また、本件では被告人が公園所有者である杉並区の許可ないし同意を得てメッセージを書いた可能性も否定できず、杉並区の意思を確認しなければ被告人が罪を犯したかどうかも分からないはずなのに、同区の意思を確認することもなく、被告人を現行犯逮捕したのであり、このような逮捕手続は違法であるから、それにつながる本件公訴提起も違法であって、本件公訴はこの理由によっても棄却されなければならない、<3>判示の公衆便所(以下「本件建物」ともいう。)のような公共の公園に設置された公衆便所の効用とは、不特定多数の者が中に入って便所を使用する用に供することを意味するところ、その外壁に落書きがされたからといって、便所の使用ができないと考える人はおらず、また、建造物の効用の一つとしてその美観を含めて考えるとしても、美観を損ねたかどうかは主観的なものであり、被告人が本件建物の外壁に書いた戦争反対のメッセージにより一義的に本件建物の美観が損なわれたとはいえないし、そもそも、本件建物には、被告人が落書きをする前に既に「悪」、「タツ」という字が大きく落書きされていたのであり、これによって美観は既に損なわれていたから、被告人の行為によって美観が損なわれたともいうことができないのであって、被告人の本件落書き行為は建造物損壊罪の構成要件である「損壊」に当たらず、本件について同罪は成立しない、<4>本件建物は、形式的には杉並区の所有に属するが、実質的には杉並区民総体が所有者であり、とりわけ近隣に住み利用する可能性が高い者に、より強い帰属関係があるという性質のものであるところ、被告人は杉並区民でありかつ本件建物が設置された判示公園の近くに住んでいたのであって、本件建物の在り方にある程度意思を反映させることができ、外壁にどのような装飾を施すかについても、意思を反映させられてしかるべき立場にあったということができるから、本件建物は、被告人にとって「他人の」建造物であるといいきることはできず、したがって、本件で被告人が刑法260条前段にいう「他人の」建造物を損壊したということもできない、<5>被告人の本件行為は、「みだりに他人の家屋その他の工作物にはり札をし、…又はこれらの工作物…を汚した者」を処罰する旨定める軽犯罪法1条33号や、区民等がしてはならない事項として「落書きをすること」を規定する杉並区生活安全及び環境美化に関する条例4条2項2号にこそ該当するのであり、これを建造物損壊罪に問うのは、罪刑の均衡の観点に照らしても明らかに不当であって、許されない、<6>被告人の本件落書き行為は憲法21条により強く保護される表現行為であり、刑法35条の正当行為として違法性が阻却されるから、本件について被告人は無罪である旨の各主張をしているので、以下、これらの主張に即して、補足的に説明を加える。
2 前記<1>の主張について
被告人の本件行為が建造物損壊罪を構成し、それ自体軽視し難い犯罪行為に当たることは、後に詳述するとおりであり、また、このことは、被告人が本件建物に判示態様で書き付けた内容が政治的意味を持つかどうかとは特段関わりがないことも、後記説示の趣旨に照らして明らかなところであって、本件で検察官が弁護人主張のような政治的な理由でことさら公訴を提起したことをうかがわせる事情があるとも全く認めることはできない。弁護人は、検察官が政治的理由により訴追裁量を逸脱して本件公訴を提起したから本件公訴提起は違法であると主張するようであるが、以上のとおり、この主張は前提に誤りがあり、その余の点について判断を加えるまでもなく、採用することができない。
3 前記<2>の主張について
関係証拠によると、被告人は、平成15年4月17日午後8時30分ころ、東京都杉並区西荻北2丁目9番17号に所在する判示の杉並区立西荻わかば公園に設置された公衆便所である本件建物の白色外壁に赤色と黒色のラッカースプレーを吹き付けて判示の各文字を大書する本件犯行に及んだこと、同公園付近に住むAは、中学生の息子のBとともに同公園の前を通りかかってその様子を目にし、被告人に「何をやっているんですか。そんなところに書くと法律に触れますよ。」などと声をかけたが、被告人は、書き終わってからAらの方を振り返り、「そんな法律があるんですか。だれが書いたってかまわないじゃないですか。」などと言って、Aと言い合いになったこと、間もなくAの夫のCもその場に通りかかり、本件建物の外壁にペンキで大きな落書きがされて、そのにおいが漂っており、被告人がスプレー缶を持ってその場にいて、どうして落書きをしたのかなどとAと言い合っている様子を認めて、被告人が上記犯行を行って間がないことを確認したこと、そのうち、被告人は、スプレー缶をリュックサックの中に入れて、同公園の北側に接する道路を東方に向かって歩き出し、更に同公園からやや離れた場所に位置する交差点を右折して南方に歩いて行ったが、Cは、被告人に逃げられてしまうと思い、被告人から約10メートルの距離をおきながら、その後を早足で追跡したこと、折から警視庁荻窪警察署のD警部補とE巡査は、パトロールカーに乗車して付近を警らしていたが、Bは、上記交差点付近でこのパトロールカーを認めて呼び止め、Dらに対し、公園のトイレに落書きした男の人を父が追いかけているなどと話したこと、Dは、パトロールカーを降りて南方に早足で歩いて行き、被告人を追跡しているCを発見したこと、そのとき、Cは、Dがやって来るのを見ると、Dに向かって手を振り、前方を進行している被告人の方を指さすなどの合図をしていたこと、DがCに追いつくと、CはDに対し、前方を歩いている被告人を指示し、その男が公園のトイレに落書きをした男だと述べたこと、そこで、Dは被告人を更に追いかけて、同区西荻北2丁目7番7号先路上で被告人に追いつき、その前に立って被告人を停止させ、職務質問を行うべく、公園のトイレに落書きをしたのかと尋ねたところ、被告人は、「おれがやった。表現の自由だ。」と答えたが、氏名や住所等を尋ねるDの質問には答えないで、大声で騒ぎ出したこと、ところで、Dは、上記のようにBから申告を受けた際、西荻わかば公園に赴いて本件建物の状況を確認してくるようE巡査に指示していたが、このようにDと被告人とがやり取りをしていた際に、Eが同公園から戻ってきて、ペンキで塗られていて布などでぬぐい去るのは不可能だなどと、本件建物の状況について報告し、続いてその場にやって来たAも、被告人が同公園のトイレの外壁にスプレーなどで落書きをした、それで注意したら逃げ出したので、その後を夫らが追いかけたなどと事情を話したこと、この間、被告人は、終始その場を離れようとする様子を示し、Dらが前に立って、逃走を阻止しようとする状態が続いていたこと、そこで、Dは、被告人を器物損壊の現行犯人(刑事訴訟法212条2項所定の準現行犯人の意と解される。)として逮捕することとし、午後8時44分ころ、器物損壊の現行犯人として逮捕する旨告げた上、被告人を逮捕したこと、本件建物から被告人が逮捕された地点までは、被告人が歩いた経路に沿って測定しても、約145メートルの距離があるにすぎないことなどの事実関係を認めることができる。
弁護人の主張中には、上記の事実経過自体を争うかの部分もあるが、以上の事実は、Dの証言、C及びAの各検察官面前調書の各同意部分等の関係証拠に照らして、十分認定することができる。
そして、以上で認定した事実関係に照らすと、Dは、Cによって本件犯罪の犯人として追呼されている被告人が(なお、刑事訴訟法212条2項1号参照)、罪を行い終わってから間がないと明らかに認められる準現行犯人に当たると判断して、被告人に対する逮捕を行ったものと認めることができ、もとよりDのこの判断に違法な点がなかったことも明らかであるから、被告人に対する逮捕の違法をいう弁護人の主張は理由がないというほかはない。補足すると、本件建物は、小規模とはいえ、壁によって支えられた屋根を持つ工作物であって、土地に定着し、その内部に人が出入りできる構造を持つから、刑法260条所定の建造物に当たり、同法261条所定の器物損壊罪の対象にはならないことが明らかであり、したがって、Dが建造物損壊罪ではなく器物損壊罪によって被告人を逮捕したのは、誤りであったということにならざるを得ないが、この誤りは、被告人に対する本件逮捕の効力を何ら左右するものではない(なお、被告人の行為が建造物損壊罪の構成要件を充足することは、後に補足して説明するとおりである。)。弁護人は、Dが、本件建物を損壊する犯罪が被告人によって犯されたことを確認しないで被告人を逮捕したと論難するが、この主張に理由がないことは、以上で検討したところに照らして明らかである。弁護人は、被告人が公園所有者である杉並区の許可ないし同意を得て本件行為を行った可能性もあったのだから、Dが同区の意思を確認しないまま被告人を逮捕したのは違法であるとの趣旨も主張する。しかし、本件のように公園内の公衆便所の壁にスプレー式ペンキで文字を大書するというような行為について、杉並区が許可ないし同意を与えていた可能性があるから、その犯人を逮捕する前に同区の意思を確認する必要があったとの主張は、以上で認定したような本件当時の被告人の言動等を考慮するまでもなく、その主張の前提自体におよそ根拠がなく、採用の限りでない。
そうすると、被告人に対する逮捕の違法を理由として本件公訴提起の違法をいう弁護人の<2>の主張は、その前提に誤りがあり、その余の点について検討を加えるまでもなく、理由がないといわなければならない。
4 前記<3>の主張について
(1) 刑法260条前段にいう「損壊」とは、建造物の本来の効用を滅却あるいは減損させる一切の行為をいい、物理的に建造物の全部又は一部を毀損する場合だけではなく、その外観ないし美観を著しく汚損することによっても、建造物の効用を実質的に滅却ないし減損させたと認められる場合があり、このような場合には、たとえその建造物の本質的機能を害するには至らなくても、その行為は「損壊」に当たると解するのが相当である。そして、弁護人指摘の軽犯罪法1条33号等との関係で、建造物の外観ないし美観を汚損する行為が建造物損壊罪所定の損壊にまで当たるといえるか否かについては、建造物の性質、用途ないし機能との関連において、汚損行為の態様、程度、原状回復の難易等、諸般の事情を総合考慮して、社会通念に照らし、その汚損によってその建造物の効用が滅却ないし減損するに至ったか否かを基準として判断し、これが肯定されるときは、このような汚損行為は、軽犯罪法1条33号等に該当するのにとどまらず、建造物損壊罪に該当することになると解すべきである。
(2) そこで、これを本件についてみると、関係証拠によれば、以下の各事実を認めることができる。
ア 本件建物が設置されている杉並区立西荻わかば公園(以下「本件公園」ともいう。)は、住宅街の一角にある、東西約21.3メートル、南北約34メートルの長方形状の土地上に位置する小規模な公園であり、その北側には幅約7メートルの道路が東西方向に走っており、この道路に面した本件公園の北側が(一部に樹木の植栽部分等もあるが)ほぼ全面的に公園の入口となっている。本件公園の北西部分には、公衆便所である本件建物が設置され、本件建物と公園入口との距離は最短で約3.1メートルにすぎない。本件公園には、そのほか、ベンチ、遊具、照明灯等の設備が設置されて、樹木なども植えられ、北側を除き三方の周辺部分は植え込みになって、内部を取り囲んでいる。
イ 本件建物は、ほぼ長方形(北西面と南東面の長さが各約1.28メートル、北東面と南西面の長さが各約3.04メートル)の床面の上にコンクリートとブロックを組み合わせて築造された小規模の建造物であって、高さ約2.9メートルのアーチ型の屋根が壁で支えられており、屋根は黒色又は濃い灰色で、ブロック部分及び後記手洗い場部分(のうち、後記水道蛇口の周囲及びその下の部分)は灰色であるが、それ以外の外壁面は白色である。本件建物の南東側及び北西側は、いずれも高さが約2.9メートル、幅が約1.28メートルで、幅約0.19メートルのブロックによって全体がアーチ状にかたどられている。南東側の壁面には地面からの高さ約1.32メートルの位置に小窓が設けられており、他方、北西側は、上記ブロックによってかたどられた部分がそのまま男子便所へのアーチ状の出入口となっている。本件建物の南西側及び北東側は、いずれも高さが約2.9メートル、幅が約3.04メートルで、その各中央部分が幅約0.19メートルのブロックによってアーチ状にかたどられている(アーチ状の部分の高さは約2.3メートル。)。南西側壁面の中央部分には、女子便所への出入口となるアルミ製のドアが設置されている。北東側壁面の中央部分は、手洗い場となっていて、地面からの高さ約0.8メートルの位置に水道の蛇口が設けられ、この手洗い場部分を挟んだ左右両側(左右の表示は、壁面に向かって左又は右の意。以下同じ。)の外壁には、地面からの高さ約1.32メートルの位置にそれぞれ小窓が設けられている。
ウ 被告人は、判示の日時に、本件建物の北東側壁面のうちの前記右側の外壁部分に、その壁面部分をぼぼ一杯に占めるように黒色スプレー式ペンキで「スペクタクル社会」という文字を、中央の手洗い場部分に、前記水道蛇口の上辺りの白色壁面をほぼ一杯に占めるように赤色スプレー式ペンキで「反戦」という文字を、それぞれ大書し、本件建物の南東側壁面に設置された白色外壁部分には、赤色スプレー式ペンキを用い、前記小窓の上の部分に、左から右にかけて「戦争」と、同小窓の右の部分に、上から下に「反対」という文字を大書した。
なお、本件建物には、被告人による上記落書きの前から、北東側壁面のうちの前記左側外壁部分に設置された小窓の下の部分に、黒色スプレー様のもので「悪」という文字が、南東側壁面に設置された小窓の下の外壁部分に、黒色スプレー様のもので「タツ」という文字が、それぞれ大きく落書きされていたため、被告人の本件落書きにより、本件建物の北東側及び南東側の白色外壁部分はそのほとんどが落書きで埋め尽くされた状態となった。
エ 前記アのとおり、本件建物は、本件公園入口と最短で約3.1メートル隔たっているだけの場所に所在している。そして、本件建物の北東側壁面は、本件公園の入口を出入りし、あるいは本件公園の北側に接する前記道路を通る人たちから、ほとんどさえぎる物なく見通すことができる位置にあり、南東側壁面は、本件公園内部の広い範囲からさえぎる物なく見通すことができる位置にある。このような位置にある上記両壁面の白色外壁部分に、被告人が前記のような態様で赤色と黒色のスプレー式ペンキを用いて大書した本件の落書きは、本件公園を利用し、あるいは本件公園前の上記道路を通る多くの人にとって、極めて目につきやすく、その目を引く状況にあった。
オ 本件落書きについては、平成15年4月24日、杉並区都市整備部公園緑地課の関係者と荻窪警察署の警察官により、水道水、液性洗剤及びラッカーシンナーを用いた消去実験が行われ、その結果、水道水や液性洗剤では本件落書き文字の消去は不可能であり、ラッカーシンナーを用いればその消去が一応可能であるが、落書きのあとを完全に消し去ることはできず、汚れが残る状態になることが判明した。
カ 本件落書きがされた本件建物の外壁は、現段階では証拠保全のために板で覆われてそのまま保存され、修復作業は施されていないが、本件公園及び本件建物を管理する杉並区都市整備部公園緑地課では、本件落書きにより本件建物の美観が損なわれているなどの理由から、本件建物の外壁の修復作業が必要であると判断しており、その修復方法について業者に問い合わせたところ、本件落書きを完全に消去するには上塗りのような形で外壁を再塗装することが必要であり、その費用には約7万円を要することが判明した。
(3) 以上の事実関係をもとに更に検討すると、本件建物は、公衆便所としての用途に供されることをその本質的な機能としていることはいうまでもないが、周辺に住む人たちが休息や安らぎなどを求めて利用する公園の中の施設として、その外観、美観にもそれなりの配慮が求められることは明らかであって、そのことは、前記認定のとおり、本件建物の作り方などにも、公園の施設としてふさわしいよう、相応の工夫が実際にされているようにうかがわれることなどによっても、容易にみてとることができる。
ところが、被告人は、前記のとおり、赤色及び黒色のスプレー式ペンキで、本件建物のうち、人目につきやすい南東側、北東側両壁面の、既に前記「悪」、「タツ」の落書きがされていた部分を除く白色外壁部分のほとんどを埋め尽くすような形で合計14個もの文字を大書したのであって、被告人のこの行為が、その規模や大書された文字の形状、色彩等からしても、社会通念に照らし、本件建物の外観を従前のそれと比べて著しく不体裁かつ異様な状態にさせてその美観を損なわせ、本件建物を見る者に一種異様の感を抱かせて、本件建物の利用についても抵抗感ないし不快感を与えかねない結果をもたらし、そのため、本件公園を管理する杉並区の担当者としても、そのままの状態では本件建物を地域住民らの利用に供するのは困難であると判断せざるを得なかったことが明らかである。
さらに、本件落書きは、水道水や液性洗剤では消去することが不可能であり、ラッカーシンナーで消去しようとしても完全に消去することはできなかったのであるから、その塗料の付着、固定化の程度はかなり強いものであったと認められるとともに、本件落書きを完全に消去するためには再塗装を行う必要があり、しかも、関係証拠に照らすと、再塗装が必要となる面積が大きいため約7万円の費用をかけ専門業者に依頼して行う必要があるというのであって、原状回復には相当の困難を伴うことも認められる。
以上のような本件建物が本来有する効用に、本件落書きによる本件建物の外観の汚損の態様、程度等を併せ考えると、被告人の本件落書きによって、本件建物は、その外観ないし美観が社会通念に照らして著しく汚損され、その効用が減損されたと認めるのが相当である。
補足すると、弁護人は、本件建物の外壁には、被告人による本件落書きの前から、前記「悪」、「タツ」という落書きが書かれていたのであり、この落書きにより本件建物の美観は既に損なわれていたから、被告人による本件落書きが本件建物の美観を損なったということはできないという趣旨の主張もする。しかし、上記「悪」、「タツ」の落書きにより本件建物の美観が既にある程度損なわれていたからといって、直ちに本件建物にはもはや害すべき美観が存在しないなどとは到底いえないのであるし、殊に、関係証拠によると、被告人が本件建物に行った前記14文字の本件落書きは、上記「悪」、「タツ」の落書きと比べても、建物壁面のより広い範囲を占め、その色彩、形状等に照らしても、格段に人の目を引きやすいものであったことが優に認められるのであって、上記「悪」、「タツ」の落書きが既に存在していたかどうかにかかわらず、被告人の本件落書きによって本件建物の外観、美観が著しく損なわれたことは明らかであるから、弁護人のこの主張は採用することができない。
更に補足すると、弁護人は、美観を損ねたかどうかは主観的な問題であって、その文字の存在だけで一義的に美観が損なわれたと万人が理解するものとはいえない旨を主張するが、もとより外観ないし美観が損なわれたかどうか、及びその程度は、社会通念に照らして判断されるべきものであるから、弁護人の上記の主張は採用することができない。さらに、弁護人は、被告人が落書きの消去剤を用いて行った実験によれば、このような消去剤を使用すれば本件落書きは容易に消去できることが分かったから、原状回復は困難であるとはいえないという趣旨の主張をもする。しかし、仮に弁護人主張の消去剤を使用すれば本件落書きを相当程度消去することが可能であったとしても、被告人が当公判で供述している上記消去剤の入手、使用方法等に本件落書きの規模、程度等を考え合わせると、本件落書きを上記消去剤を用いて消去することとした場合にも、それ相応の費用や時間、手間を要すると認められるから、やはり原状回復には相応の困難を伴うといわざるを得ず、弁護人のこの主張もまた採用することができない。
(4) そうすると、被告人の本件行為は建造物損壊罪にいう「損壊」に当たるものといわなければならないから、弁護人の前記<3>の主張は採用することができない。
5 前記<4>の主張について
杉並区都市整備部公園緑地課長Fの証言を始めとする関係証拠によれば、本件建物は杉並区の所有に属し、同区が本件建物の管理処分権を有することが明らかであるから、被告人にとって本件建物が「他人の」建造物に当たることは疑いがない。弁護人は、被告人が当時本件公園の近くに住んでいた杉並区民であったなどの事情を指摘するが、このような事情は上記の結論を何ら左右するものではない。したがって、弁護人の<4>の主張は採用することができない。
6 前記<5>の主張について
被告人の本件行為が、弁護人指摘の軽犯罪法や杉並区条例に該当するのにとどまるものではなく、建造物損壊罪を構成することは、既に説示したとおりであるから、弁護人の<5>の主張も採用することができない。
7 前記<6>の主張について
被告人の本件落書き行為がその主張を外部に発表する意図に出たものであったとしても、公園の公衆便所建物に既に説示したような態様でラッカースプレーを吹き付けて、その外観を著しく損ない、公園設置者の財産所有権、管理権を侵害するような行為が許されないことは、多言を要しないところであり、被告人が自己の主張を外部に表す手段が他にあったこともいうまでもないところであるから、このような行為も憲法21条の保障する表現行為として刑法35条により違法性が阻却される旨をいう弁護人の主張は、採用の限りではない。
(量刑の理由)
本件は、前記のとおり、被告人が、公園の公衆便所建物の白色外壁にラッカースプレーを用い赤色及び黒色のペンキを吹き付けて判示の14文字を大書し、その外観を著しく損ねて建造物を損壊したという事案である。
既に詳細に認定、説示したとおり、被告人の本件犯行の結果、本件建物はその外観を著しく損ね、それを原状に復するには約7万円の費用をかけて外壁の再塗装をせざるを得ないというのであるから、その被害には軽視できないものがある。被告人の公判供述によると、要するに、被告人は、本件当夜、自宅でイラク戦争のことなどを考えるうち、自分の戦争反対のメッセージを落書きしようと思い立ち、本件の犯行に及んだというのであるが、被告人は、その主張を表現する手段が他にあったにもかかわらず、公園の管理者や利用者などに及ぼす影響なども考えることなく、安易に本件のような違法な手段を選択したのであって、その短絡的で思慮の乏しい動機に特段酌むべき点があるとは認められない。被告人は、公判で、もう落書きをしようとは思わないとも述べたが、その後の公判期日では、自分は全然反省していない、これからも落書きをしようと思っていると述べ、また、杉並区から損害賠償を請求されても支払う意思はない旨、一貫して述べるなど、本件について反省しているともうかがい難いところがある。
以上に照らすと、被告人の刑責を軽視することはできない。
他方、落書きによる外壁の汚損という行為の性質上、本件建物の公衆便所としての本質的機能が直接に阻害されたとまではいえないこと、本件は計画的に行われた犯行であるとは認められないこと、被告人には前科がなく、現在25歳とまだ若年であること、被告人の勤務先の上司が当公判に出廷し、被告人のため証言していることなど、被告人のため考慮すべき事情もある。
そこで、以上の諸事情を総合考慮すると、被告人に対しては主文の刑を量定した上、その刑の執行を猶予するのが相当であると判断した。
よって、主文のとおり判決する。