大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成15年(行ウ)393号 判決 2005年12月26日

主文

一  甲・乙事件被告法務大臣が甲・乙事件原告に対して平成15年3月12日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。

二  甲事件被告東京入国管理局主任審査官が甲・乙事件原告に対して平成15年6月19日付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。

三  甲・乙事件原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、全事件を通じて、甲・乙事件原告と甲・乙事件被告法務大臣との間においては、甲・乙事件原告に生じた費用の3分の1を甲・乙事件被告法務大臣の負担とし、その余は各自の負担とし、甲・乙事件原告と甲事件被告東京入国管理局主任審査官との間においては、甲・乙事件原告に生じた費用の3分の1を甲事件被告東京入国管理局主任審査官の負担とし、その余は各自の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  甲事件

主文第一項及び第二項と同旨(なお、甲事件訴状の請求の趣旨第一項の「平成15年6月19日付けで」とあるのは「平成15年3月12日付けで」の誤記と認める。)。

二  乙事件

甲・乙事件被告法務大臣が甲・乙事件原告に対して平成14年4月9日付けでした難民の認定をしない旨の処分を取り消す。

第二事案の概要

一  略語の一部

・ 甲・乙事件原告を「原告」という。

・ 甲・乙事件被告法務大臣を「被告法務大臣」という。

・ 甲事件被告東京入国管理局主任審査官を「被告主任審査官」という。

・ 東京入国管理局を「東京入管」という。

・ ミャンマー連邦は、平成元年(1989年)に名称をビルマ連邦社会主義共和国から改称したものであるが、改称の前後を区別することなく、同国を「ミャンマー」という。

・ 平成16年法律第73号による改正前の出入国管理及び難民認定法を「出入国法」という。

・ 原告が平成12年11月17日付けでした出入国法61条の2に規定する難民の認定の申請を「本件難民認定申請」という。

・ 被告法務大臣が原告に対して平成14年4月9日付けでした難民の認定をしない旨の処分を「本件難民不認定処分」という。

・ 被告法務大臣が原告に対して平成15年3月12日付けでした出入国法49条1項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を「本件裁決」という。

・ 被告主任審査官が原告に対して平成15年6月19日付けでした退去強制令書の発付処分を「本件退令処分」といい、当該退去強制令書を「本件退令」という。

・ 難民の地位に関する条約を「難民条約」という。

・ 難民の地位に関する議定書を「難民議定書」という。

・ 拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約を「拷問等禁止条約」という。

二  事案の骨子

甲事件は、ミャンマーの国籍を有する男性である原告(本件難民認定申請当時40歳)が、被告法務大臣から本件裁決を受け、被告主任審査官から本件退令処分を受けたため、原告がミャンマーに送還されれば迫害を受けるおそれがあり、出入国法等に規定する「難民」に該当するにもかかわらず在留特別許可を認めなかった本件裁決は違法であり、それを前提とする本件退令処分も違法であるなどと主張して、被告法務大臣に対しては本件裁決の取消しを、被告主任審査官に対しては本件退令処分の取消しを、それぞれ求める事案である。

乙事件は、原告が、出入国法61条の2第1項に基づき難民の認定を申請したところ、被告法務大臣から本件難民不認定処分を受け、さらに、出入国法61条の2の4の規定に基づく異議の申出についても、被告法務大臣から理由がない旨の決定を受けたため、本件難民不認定処分が違法であると主張して、被告法務大臣に対し本件難民不認定処分の取消しを求める事案である。

三  関係法令の定め等

1  難民の定義について

(一) 出入国法2条3号の2は、出入国法における「難民」の意義を、「難民の地位に関する条約(…略…)第1条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいう。」と規定している。

(二) 難民条約1条A(2)は、「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であつて、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」は、難民条約の適用上、「難民」という旨規定している。

(三) 難民議定書1条2は、難民議定書の適用上、「難民」とは、難民条約1条A(2)の規定にある「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、」及び「これらの事件の結果として」という文言が除かれているものとみなした場合に同条の定義に該当するすべての者をいう旨規定している。

(四) したがって、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」は、出入国法にいう「難民」に該当することとなる。

2  難民である旨の認定を行う処分について

(一) 出入国法61条の2第1項は、「法務大臣は、本邦にある外国人から法務省令で定める手続により申請があつたときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定(以下「難民の認定」という。)を行うことができる。」と規定している。

(二) 出入国法61条の2第2項は、「前項の申請は、その者が本邦に上陸した日(本邦にある間に難民となる事由が生じた者にあつては、その事実を知つた日)から60日以内に行わなければならない。ただし、やむを得ない事情があるときは、この限りでない。」と規定している(以下、同条項に規定する要件を「60日要件」ということがある。)。

3  退去強制令書の発付と在留特別許可等について

(一) 出入国法24条は、「次の各号のいずれかに該当する外国人については、次章に規定する手続により、本邦からの退去を強制することができる。」とし、その6号において、「寄港地上陸の許可、通過上陸の許可、乗員上陸の許可、緊急上陸の許可、遭難による上陸の許可又は一時庇護のための上陸の許可を受けた者で、旅券又は当該許可書に記載された期間を経過して本邦に残留するもの」と定めている。

(二) 出入国法47条2項は、「入国審査官は、審査の結果、容疑者が第24条各号の1に該当すると認定したときは、すみやかに理由を附した書面をもつて、主任審査官及びその者にその旨を知らせなければならない。」と規定している。

(三) 出入国法48条1項は、「前条第2項の通知を受けた容疑者は、同項の認定に異議があるときは、その通知を受けた日から3日以内に、口頭をもつて、特別審理官に対し口頭審理の請求をすることができる。」とし、同条3項は、「特別審理官は、第1項の口頭審理の請求があつたときは、容疑者に対し、時及び場所を通知して速やかに口頭審理を行わなければならない。」とし、同条7項は、「特別審理官は、口頭審理の結果、前条第2項の認定が誤りがないと判定したときは、すみやかに主任審査官及び当該容疑者にその旨を知らせるとともに、当該容疑者に対し、第49条の規定により異議を申し出ることができる旨を知らせなければならない。」と規定している。

(四) 出入国法49条3項は、「法務大臣は、第1項の規定による異議の申出を受理したときは、異議の申出が理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければならない。」と規定している。

(五) 出入国法49条5項は、「主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、すみやかに当該容疑者に対し、その旨を知らせるとともに、第51条の規定による退去強制令書を発付しなければならない。」と規定している。

(六) 出入国法50条1項は、「法務大臣は、前条第3項の裁決に当つて、異議の申出が理由がないと認める場合でも、当該容疑者が左の各号の1に該当するときは、その者の在留を特別に許可することができる。」とし、その3号において、「その他法務大臣が特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき。」と定めている。

4  難民の追放及び送還の禁止について

(一) 難民条約32条1項は、「締約国は、国の安全又は公の秩序を理由とする場合を除くほか、合法的にその領域内にいる難民を追放してはならない。」と規定している。

(二) 難民条約33条1項は、「締約国は、難民を、いかなる方法によつても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない。」と規定している。

5  拷問を受けるおそれのある者の追放及び送還の禁止について

(一) 拷問等禁止条約3条1項は、「締約国は、いずれの者をも、その者に対する拷問が行われるおそれがあると信ずるに足りる実質的な根拠がある他の国へ追放し、送還し又は引き渡してはならない。」と規定している。

(二) 拷問等禁止条約1条1項は、「この条約の適用上、『拷問』とは、身体的なものであるか精神的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える行為であって、本人若しくは第三者から情報若しくは自白を得ること、本人若しくは第三者が行ったか若しくはその疑いがある行為について本人を罰すること、本人若しくは第三者を脅迫し若しくは強要することその他これらに類することを目的として又は何らかの差別に基づく理由によって、かつ、公務員その他の公的資格で行動する者により又はその扇動により若しくはその同意若しくは黙認の下に行われるものをいう。『拷問』には、合法的な制裁の限りで苦痛が生ずること又は合法的な制裁に固有の若しくは付随する苦痛を与えることを含まない。」と規定している。

四  前提事実

本件の前提となる事実は、次のとおりである。なお、証拠及び弁論の全趣旨等により容易に認めることのできる事実は、その旨付記しており、それ以外の事実は、当事者間に争いのない事実である。

1  原告の国籍等について

原告は、昭和35年(1960年)▲月▲日、ミャンマーにおいて出生したミャンマー国籍を有する男性の外国人である(乙1)。

2  原告の入国・在留状況について

(一) 原告は、千葉港に入港したベリーズ船籍「α」号の乗員として、平成10年7月21日、東京入管千葉港出張所入国審査官から、上陸期間を同日から同月28日までとする乗員上陸許可を受けて、本邦に上陸した(乙2から5まで、8)。

(二) 前記船舶は、予定どおり、平成10年7月22日に千葉港から出港したが、原告は、同船に戻らず、そのまま所在不明となり、上陸許可期限である同月28日を超えて不法残留を続けた(乙5から7まで)。

(三) 原告は、平成12年11月20日、東京入管に出頭して、前記上陸許可期限を超えて不法残留しているとの違反事実を申告した(乙7)。

(四) 原告は、東京都練馬区長に対し、平成12年11月20日、新規に外国人登録法に基づく外国人登録申請を行い、同年12月5日、外国人登録証明書の交付を受けた(乙23)。

3  原告の本件難民認定申請について

(一) 原告は、被告法務大臣に対し、平成12年11月17日、本件難民認定申請をした(乙38)。

(二) 東京入管難民調査官は、平成12年12月19日及び平成13年2月28日に、原告から事情を聴取するなどの調査をした(乙64、65)。

(三) 被告法務大臣は、平成14年4月9日付けで、本件難民認定申請について、本件難民不認定処分をし、同月16日、これを原告に通知した。原告は、被告法務大臣に対し、出入国法61条の2の4所定の期間内である同月19日に、本件難民不認定処分について異議の申出をした。

なお、本件難民不認定処分の通知書に付記された理由は、「あなたからの難民認定申請は、出入国管理及び難民認定法第61条の2第2項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、あなたの申請遅延の申立ては、同項但書の規定を適用すべき事情とは認められません。」というものであった。(甲1、乙24、66)

(四) 東京入管難民調査官は、平成15年1月24日、原告から事情を聴取するなどの調査をした(乙68)。

(五) 被告法務大臣は、平成15年3月11日付けで、原告の前記(三)の異議の申出につき理由がない旨の決定をし、同年4月18日、これを原告に通知した。

なお、上記決定の通知書に付記された理由は、「あなたからの難民認定の申請は、出入国管理及び難民認定法第61条の2第2項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情も認められないので、原処分に誤りはない。」というものであった。(甲2、乙25)

(六) 原告は、平成15年6月30日、本件難民不認定処分の取消しを求めて、乙事件に係る訴えを提起した(当裁判所に顕著な事実)。

4  原告の退去強制手続について

(一) 東京入管入国警備官は、平成12年12月6日、東京入管において、原告から事情を聴取した(乙9)。

(二) 東京入管入国警備官は、平成12年12月22日、被告主任審査官から収容令書の発付を受け、同月26日、これを執行して、原告を東京入管収容場に収容し、同日、原告を東京入管入国審査官に引き渡した(乙10、11)。

原告は、同日、請求により仮放免を許可された(乙12)。

(三) 東京入管入国審査官は、平成12年12月26日及び平成13年2月6日、原告に対する違反審査を行い、その結果、同日、原告が出入国法24条6号(不法残留)に該当する旨の認定を行い、原告に通知した。原告は、東京入管特別審理官に対し、同日、口頭審理を請求した。(乙13から15まで)

(四) 東京入管特別審理官は、平成14年8月12日、原告について口頭審理を実施し、同日、上記認定に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知した。原告は、被告法務大臣に対し、同日、異議の申出をした。(乙16から18まで)

(五) 被告法務大臣は、平成15年3月12日付けで、原告の前記(四)の異議の申出につき本件裁決をした。本件裁決の通知を受けた被告主任審査官は、同年6月19日、原告に本件裁決を通知するとともに、本件退令処分をし、本件退令を執行して原告を東京入管収容場に収容した。(乙19の1、19の2、20、21、28)

(六) 原告は、平成15年6月30日、本件裁決及び本件退令処分の各取消しを求めて、甲事件に係る訴えを提起した(当裁判所に顕著な事実)。

(七) 東京入管入国警備官は、平成15年10月22日、原告を入国者収容所東日本入国管理センター(以下「東日本センター」という。)へ移収した(乙28)。

(八) 東日本センター所長は、平成16年8月4日、原告を仮放免した(乙36)。

5  原告の2回目の難民認定申請手続について

(一) 原告は、被告法務大臣に対し、平成15年8月8日、出入国法61条の2に規定する難民の認定を申請した(以下、この申請を「2回目の難民認定申請」という。)(乙72)。

(二) 東京入管難民調査官は、平成15年10月21日、東京入管において、原告から事情を聴取するなどの調査をした(乙73)。

(三) 被告法務大臣は、平成15年12月10日付けで、2回目の難民認定申請について、難民の認定をしない旨の処分をし、同月25日、これを原告に通知した。原告は、被告法務大臣に対し、出入国法61条の2の4所定の期間内である同月30日に、上記難民の認定をしない旨の処分について異議の申出をした。

なお、上記難民の認定をしない旨の処分の通知書に付記された理由は、「あなたは、『特定の社会的集団の構成員であること』及び『政治的意見』を理由とした迫害を受けるおそれがあると申し立てています。しかしながら、あなたの提出資料及び供述からは、あなたが本邦での活動により反政府活動家であるとして個別に把握されているとは認められないこと等からすると、申立てを裏付けるに足りる十分な証拠があるとは認め難く、あなたは、難民の地位に関する条約第1条A(2)及び難民の地位に関する議定書第1条2に規定する難民とは認められません。また、あなたの難民認定申請は、出入国管理及び難民認定法第61条の2第2項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情も認められません。」というものであった。(乙74、75)

(四) 東京入管難民調査官は、平成16年4月19日、東日本センターにおいて、原告から事情を聴取するなどの調査をした(乙76)。

(五) 被告法務大臣は、平成17年1月5日付けで、前記(三)の異議の申出について、異議の申出に理由がない旨の決定をし、同年2月7日、原告にこれを通知した。

なお、上記決定の通知書に付記された理由は、「あなたの原処分に対する異議申出における申立ては、原処分において申し立てた内容とほぼ同旨を申し立てるものであって、新たに提出のあった資料を含め全記録により検討しても原処分に誤りはなく、平成15年12月10日付け『通知書』の理由のとおり、あなたが難民の地位に関する条約第1条A(2)及び難民の地位に関する議定書第1条2に規定する難民とは認められません。また、あなたの難民認定申請は、出入国管理及び難民認定法第61条の2第2項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情も認められません。」というものであった。(乙77)

五  争点

本件の主な争点は、次のとおりである。

1  難民該当性の有無

具体的には、本件難民不認定処分のされた平成14年4月9日当時及び本件裁決のされた平成15年3月12日当時、原告がミャンマーの民主化を目指す政治的意見を有していることを理由として、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有しているために、国籍国の外にいる者ということができるか。

2  60日条項違反の有無

具体的には、原告の本件難民認定申請が出入国法61条の2第2項本文かっこ書き所定の「その事実を知つた日」から60日以内にされたか。また、仮に60日以内にされなかった場合には、そのことについて、同項ただし書所定の「やむを得ない事情」があるということができるか。

3  本件難民不認定処分の手続上の適法性

具体的には、本件難民不認定処分に相当の理由付記がされていたということができるか。

4  本件裁決の適法性

具体的には、本件裁決のされた平成15年3月12日当時、原告は、ミャンマーに送還されれば迫害を受けるおそれがあったので、在留特別許可を付与されるべきであったのに、これを付与せずにされた本件裁決は、被告法務大臣の有する裁量権を逸脱するなどしてされた違法なものであるということができるか。

5  本件退令処分の適法性

具体的には、本件裁決が違法であるから、これを前提とする本件退令処分も違法であるか。

六  争点に関する当事者の主張の要旨

争点に関する当事者の主張の要旨は、別紙「当事者の主張の要旨」のとおりである。

第三争点に関する当裁判所の判断

一  争点1(難民該当性の有無)について

1  難民の意義

出入国法にいう「難民」とは、出入国法2条3号の2、難民条約1条A(2)、難民議定書1条2を合わせ読むと、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないものをいうこととなる。そして、上記の「迫害」とは、通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味するものと解するのが相当であり、また、上記にいう「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要であると解するのが相当である。

そこで、以下、本件難民不認定処分がされた平成14年4月9日当時及び本件裁決がされた平成15年3月12日当時において、原告が「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」と認めることができるか否かについて、検討する。

2  認定事実

前記前提事実に加え、証拠(甲3、5、6、7の1及び2、8、9の1及び2、10の1及び2、11から34まで、36から50まで、乙7、9、14、16、35、38、42、46から65まで、67、68、証人P1、原告本人)、弁論の全趣旨及び公知の事実を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(一) ミャンマーにおける一般情勢等

(1) ミャンマーは、昭和23年(1948年)1月4日、イギリス連邦から独立した。

(2) 軍は、昭和37年(1962年)、政治権力を奪取し、意思決定を中央集権化するシステムを形成した。

(3) 昭和63年(1988年)8月、26年間続いた軍事政権に対して、大規模な民主化運動が起こった。しかし、民主化運動は、軍によって弾圧され、同年9月18日、軍事クーデターにより、国家法秩序回復評議会(以下「スローク」という。)が全権を掌握した。

(4) 平成2年(1990年)5月、総選挙が施行され、アウン・サン・スーチー率いるNLD(国民民主同盟)が約8割の議席を占めて勝利したにもかかわらず、スロークは政権を移譲しなかった。

(5) スロークは、平成8年(1996年)5月及び同年9月にNLD主催の議員総会や党員総会が開催されることを妨害し、同年5月に256名、同年9月に559名のNLD関係者を拘束し、同年6月7日に新治安維持法を制定した。また、同年12月、大規模な学生示威運動が展開されたが、武装警察隊の投入等によって強権的に押さえ込まれた。

(6) 平成8年(1996年)12月25日、ガバーエーパゴダにおいて政府要人を狙った爆弾事件があり、スロークは同事件に全ビルマ学生民主戦線が関与している疑いがあると発表した。

また、平成9年(1997年)4月6日、スロークの第二書記であるP2中将の自宅に小包が届き、これが爆発して同人の長女が死亡するという事件が起こった。

スローク側は、同月8日、同事件について、在日反政府組織がテロリズム路線へ転換して実行したものであると発表し、同年6月27日、a所属のP3及びP4が同事件の犯人として特定されたと発表した。なお、P3及びP4は、難民の認定を受けている。

(7) スロークは、平成9年(1997年)11月、国家平和発展評議会に改組された(なお、以下では、改組の前後を区別することなく、「スローク」という。)。しかし、ミャンマーでは、平成10年(1998年)には、500人以上のNLDメンバーが拘束され、アウン・サン・スーチーも首都ヤンゴンから出ることを妨害されて連れ戻され、民主化を訴えるビラを配布した外国人18人が警察に拘束されるなどした。

(8) 平成11年(1999年)には、昭和63年(1988年)8月の民主化運動の11周年記念で大規模な民主化運動が起きることを警戒した政府が、多くの民主化活動家を拘束した。

治安当局は、平成12年(2000年)8月、アウン・サン・スーチーほかNLD幹部がヤンゴンを離れたところを強制的に連れ戻し、12日間自宅に軟禁し、NLD本部を家宅捜索し、書類を押収した。

また、同年9月、アウン・サン・スーチーとP5NLD副議長等は、マンダレーを訪れようとした際、ヤンゴン駅から強制退去させられ、P5副議長は、イェーモン軍情報部基地に連行されて拘留され、アウン・サン・スーチーとNLD中央執行委員は、年末まで自宅軟禁となり、NLD支援者を含む100人近くが逮捕された。

平成15年(2003年)5月30日には、アウン・サン・スーチーが、地方遊説に出かけていた際、それを妨害しようとした政府系の反NLD組織によって襲撃され、軍事政権により拘束されるというディペイン事件が起きた。

(9) スローク政権は、現在においても、国民の政治的自由を認めずに人権抑圧の状態を継続している。ミャンマー政府は、言論、出版、集会、移動、政治活動、結社の自由を制限しているほか、労働者の権利も制限し、労働組合を非合法化し、強制労働者も使用している。

(10) ミャンマー政府は、政治活動家に対する嫌がらせ、脅迫、逮捕、拘禁及び身体的虐待によって管理を強化している。政治活動を抑圧するために、監視の手段として、電話の盗聴、郵便物の検閲、尾行等の恣意的な干渉をされることがある。また、非常事態法、国家保護法等の法律が、平和的な政治活動を行った市民を逮捕するためにも用いられている。そして、特にNLDのメンバーに焦点を絞った民主派への迫害が、脅迫、嫌がらせや長期刑等の形で続いている。

(11) ミャンマーにおいては、人権尊重の理念が浸透しているとはいい難く、超法規的死刑執行、即決死刑執行、恣意的死刑執行、強制労働、強制移住、強制失踪、恣意的逮捕、財産の破壊、強姦等があったことが報告されている。

(12) 近時においても、穏健派である首相が解任されるなど、民主化への動きが後退するのではないかと危ぐされている状況にある。

(二) 原告のミャンマーにおける政治活動等

(1) 原告は、高校を卒業後、通信制で大学に就学しながら、鉱業省の下部にあるミャンマー宝石公社において公務員として稼働した。

(2) 昭和63年8月に、ミャンマーで大規模な民主化闘争が起きたことから、原告は、鉱業省の他の公社の労働者たちと共に、デモ活動に参加した。しかし、同年9月には、前述した軍事クーデターが起き、民主化活動が押さえ込まれた。

(3) 原告は、昭和63年9月末ころ、職場の上司から、政治活動についての質問事項と今後二度と政治活動をしないという宣誓が記載された書面に記入するように求められた。原告は、デモ活動については10回位参加したなどと少な目に回答し、政治活動をしないという宣誓の書面に署名した。

原告は、ミャンマー当局により民主化活動が制限されたことや今後二度と政治活動をしないという宣誓書に署名したことなどから、その後、ミャンマーにおいて、政治活動を行わなかった。

(三) 日本における反政府活動家による活動等

(1) aは、昭和63年9月に、ミャンマー政府の民主化運動に対する弾圧による死者を弔う会に集まった在日ミャンマー人たちによって結成された団体である。aは、その後も、ミャンマーの軍事政権に反対し、ミャンマーの民主化運動への支援を行う団体として活動してきた。

(2) 平成2年12月には、タイ・ミャンマー国境で民主化運動を行う学生グループを支援する目的でbが設立された。

(3) 平成12年12月、aやbなど在日のミャンマーの民主化を訴える4団体が統合して、cが設立され、現在も活動を行っている。なお、cの正式な会員は、現在約120名である。また、平成17年1月現在のcの中央執行委員会のメンバー19人のうち、13人が難民の認定又は在留特別許可を受けている。

(4) c等の反ミャンマー政府の立場を採る在日ミャンマー人の団体は、頻繁に在日ミャンマー大使館前で、デモ等の抗議活動を行っている。

(5) 日本から帰国したミャンマー人の中には、ヤンゴン空港で、政治活動へのかかわりの有無や政治活動にかかわっている者について、日本でのデモを撮影した写真を見せられるなどしながら、取調べを受けた者がいる。

(四) 原告が日本に入国するに至る経緯と日本における生活状況等

(1) 原告は、平成4年から香港の船会社において、船員として稼働し、その後、勤務する船会社を変えながら、来日する平成10年7月21日まで、アジア各国の船会社で船員として勤務した。

(2) 原告は、平成9年10月に、幼なじみのミャンマー人女性と婚姻した。なお、原告の妻は、現在、ミャンマーにおいて、政府機関で事務員として働いている。平成11年▲月▲日には、原告の娘が出生し、現在、ミャンマーにおいて生活している。

(3) 平成7年から、原告が乗船していた船がミャンマー以外の国に寄港した際に、日本で発行されている反ミャンマー政府の立場の週刊誌であるβが、送られてくるようになった。そこで、原告は、βを読むようになり、自分も日本において反政府活動をしてみたいと考えるようになった。

(4) なお、βは、平成7年に日本において創刊された反ミャンマー政府の立場の週刊誌である。現在、βは、毎週約260部印刷して発行されている。βは、上記のように印刷されたもののほか、インターネットや電子メールを通じても配信されている。また、韓国やマレーシアでは、日本で印刷して発行されたものを、現地で複写して、それが配布されている。

βは、平成▲年▲月▲日に発行されたミャンマー国営新聞「ミャンマーアリン」において、反政府組織が発行している雑誌として掲載された。

βの編集長は、現在、原告のいとこであるP1が務めている。P1は、現在までに、b及びcの議長を歴任し、現在も、cの副議長を務めている。なお、P1は、平成10年10月27日に、日本において、難民の認定を受けた。

(5) 原告は、平成10年7月21日に、「α」号の船員として本邦の千葉港に上陸した際に、P1に連絡をとり、東京都北区のアパートの一室にあるP1の自宅に案内してもらった。なお、当時のP1の自宅は、bの事務所及びβの作業所を兼ねていた。

(6) 原告は、本邦に上陸した平成10年7月21日の夜、案内してもらったP1の自宅において、スタッフらがβの作成や発送などの作業をしているのを見て、船に戻ることなく、日本において、反政府活動をすることを決意した。

(7) 原告は、平成10年8月末に、P1の友人から、仕事を紹介してもらい、建設作業員として稼働し、その後、飲食店で皿洗いの仕事をした。原告は、平成12年12月ころには、月額23万円の収入を得ており、そのころまでに、ミャンマーにいる原告の家族に合計約150万円を送金していた。

(五) 原告の日本における活動状況等

(1) 原告は、本邦に上陸した直後から、βの作成作業を手伝うようになった。原告は、βの編集スタッフではないものの、入国管理局に収容された期間を除いて現在に至るまで、βの校正、コンピュータでの写植、編てつ、発送などを行い、βの発行作業を手伝っている。

(2) 原告は、平成10年8月ころから、在日ミャンマー大使館前等で行われるデモに一般の参加者として何度も参加し、シュプレヒコールを叫ぶなどした。原告が参加したデモの中には、平成12年6月に、ミャンマーの軍事政権の指導者の一人であるキン・ニョン第一書記(キン・ニョン中将)が小渕恵三元総理大臣の葬儀の参列のために来日することに反対したものもあった。

なお、原告は、平成17年3月以降は、在日ミャンマー大使館において定期的に行うデモのうちの金曜日分について、参加者に指示を出したり、シュプレヒコールの指揮を執る担当者二人のうちの一人となった。

在日ミャンマー大使館前におけるデモの様子については、同大使館員にビデオで撮影されることもあった。

また、原告は、bやcの集会や話し合いにも何度となく参加した。

なお、原告は、平成16年5月30日、他の収容者とともに、東日本センターにおいて、ディペイン事件に抗議するハンガーストライキを行った。

(3)ア 原告は、本邦上陸後平成12年4月に至るまで、在日の反政府組織には加入しなかったが、同月に、bに加入した。さらに、原告は、同年12月に、bやa等が統合してcが設立されると、cにも加入した。

イ 原告は、平成14年2月24日に、cの中央執行委員会の執行委員の補佐として、cの中央執行委員会の18人のメンバーの一人に選出された。なお、cの2001/2002年度第1回年次総会報告(甲19)には、それぞれ実名で、原告ほか17名が中央執行委員会のメンバーに選出された事実が記載されている。

原告は、同年12月22日に、cの副書記長を選出する選挙にきん差で敗れたため、cの規定により、中央執行委員会のメンバーから外れることとなった。

なお、原告は、平成16年12月12日、cの会議において、cの調査研究担当の中央執行委員に選任された。cの機関誌である「γ」の▲年▲月号(甲33)には、原告を含むcの平成▲年の中央執行委員の氏名及び同委員らの集合写真が掲載された。

(4)ア 原告は、平成11年ころから、反政府の詩や評論などを執筆し、日本で発行された反政府の雑誌である「β」、「δ」、「ε」や、韓国で発行された反ミャンマー政府の雑誌「ζ」などにおいて、発表した。なお、上記各雑誌は、日本にあるミャンマー人向けの雑貨店でだれでも買い求めることができるほか、日本にあるミャンマー人向けの図書館においても閲読及び借受けをすることができるものである。

イ 原告が発表したものの中には、①平成11年▲月▲日付けβに発表された、軍事政権に対して懐柔策を採ってはならないことを訴える評論(甲6)、②平成12年▲月▲日付け同誌に発表された、ミャンマーの軍事政権を批判する「η」という題の詩(甲20)、③平成12年▲月▲日付け同誌に発表された、軍事政権と戦うためには武力に訴えて報復するのがふさわしいなどとする評論(甲8)、④平成14年▲月▲日付け同誌に発表された、国民のリーダーであるアウン・サン・スーチー女史は国外に出て、闘争に参加すべきであるとする評論(甲22)、⑤平成14年▲月▲日付け同誌に発表された、ミャンマーの軍事政権を批判し、ミャンマーを憂う「θ」と題する詩(甲23)等があり、これらはいずれもP6のペンネームで発表されたものである。

また、原告は、P6のペンネームで、比ゆを用いて、アウン・サン・スーチーを賞賛し、軍事政権を批判する内容の「ι」と題する詩(甲21)を発表した。

なお、平成16年▲月▲日付けδ誌(甲36)には、原告の実名で、軍部のP7へあてた公開書簡「P7先生への手紙」が掲載された。

上記の詩や評論も含めて、現在までに発表された原告の作成した詩は、10本程度であり、現在までに発表された原告の執筆した評論は15本程度である。

原告の執筆したものは、表現がストレートであり、かつ、ミャンマーの軍事政権に対して武力も辞さないことやアウン・サン・スーチーはミャンマーから出て外国で闘争すべきであるなど内容が過激で、独特のものが多かったことが特徴である。

ウ 原告は、詩や評論を執筆する際には、「P6」というペンネームを多く用いた。なお、原告は、東日本センターに収容されていたときには「P8」(「P9」の意味である。)のペンネームを、また、平成16年ころからは「P10」というペンネームを用いたが、それ以外の機会には、P6のペンネームを用いていた。

エ 原告自身は、P6というペンネームを使用していることをP1以外のほかの人にあえて言うことはなかったが、日本在住の民主化活動家の間では、次第に、P6が原告のペンネームであることが知られるようになった。

(5)ア 原告は、ミャンマーの軍事政権の指導者の一人であるキン・ニョン第一書記が小渕元総理大臣の葬儀に参加したことに対して、多数の友人とともに、平成12年6月7日付けで、小渕元総理大臣の葬儀に参加した主要国首脳あてに、「抑圧されたビルマ国民」の名で、ミャンマー国民はミャンマーの軍事政権の正当性を認めておらず、小渕元総理大臣の葬儀において、葬儀に参加した主要国首脳はキン・ニョン第一書記と肩を並べて歩くべきではない旨主張する内容の書簡(甲7の1)を作成し、同日、各国の在日大使館にファクシミリで送信した。

イ また、原告は、友人とともに、平成12年7月17日付けで、沖縄サミットに参加した日本を含む主要国首脳あてに、「日本での反軍制・民主化グループ」の名で、書簡(甲9の1)を作成し、同日、各国の在日大使館等に送付した。上記書簡は、友人が草稿し、原告が加筆訂正したもので、ミャンマーの民主化への支援と違法な軍事政権に対する行動の要請を記載したものであった。

ウ また、原告は、平成12年9月24日付けで、一人で、ビル・クリントンアメリカ合衆国大統領、アル・ゴア同副大統領、トニー・ブレア英国首相あてに、ミャンマーの軍事政権を批判した上で、「貴国の影響力で政権の座を引き渡し、国際司法裁判所によってとるべき行動の判断を下していただくよう強くお願いいたします。」と記載した書簡(甲10の1)を作成した。

原告は、同月25日、差出人を「独裁政治と戦う民主化グループ」とし、当時原告が居住していた住所とマンションの部屋番号を記載して、上記書簡をアメリカ合衆国及び英国に書留郵便で送付した。

エ さらに、原告は、平成13年3月に、ブッシュアメリカ合衆国大統領及びトニー・ブレア英国首相あてに、ミャンマーの軍事政権に対して直ちに必要な行動をとるように要請する書簡を送付した。

(6)ア 原告は、平成14年11月に、在日ミャンマー人の工場労働者の組合であるdに加入した。なお、同組合は、その後、改組し、eとなったが、原告はこの組合にも加入した。これらの組合は、ミャンマーとタイの国境地帯で労働問題を通じてミャンマーの民主化を実現すべく活動しているfの下部組織である。しかし、dやeは、本邦における在日ミャンマー人の人権保護を目的とするものであり、反ミャンマー政府の政治活動は行っていない。

イ 平成▲年▲月▲日には、dについて、NHKの「おはよう日本」の番組中で、「κ」という特集が5分程度放映された。上記特集では、P11という人物が日本で働くミャンマー人のための労働組合を組織した経緯について紹介された。また、上記特集では、組合員らが今後の活動方針について話し合っている様子や、同組合が開催しているパソコン教室の様子も放映されたが、個人が政治的意見を表明する様子は含まれず、また、各部分は数秒程度であった。

3  事実認定の補足説明

(一)(1) 原告が、本邦上陸後、反政府活動を決意して、残留することになったのか争いがあるので検討する。

(2) 証拠(甲5、31、48、乙14、16、38、65、68、証人P1)によると、①原告は、難民審査の段階や、陳述書等において、平成7年から、原告が乗船していた船がミャンマー以外の国に寄港した際に、日本で発行されている反ミャンマー政府の立場の週刊誌であるβが、送られてくるようになったことから、それを読むようになり、自分も日本において反政府活動をしてみたいと考えるようになったところ、本邦上陸後、案内してもらったP1の自宅において、スタッフらがβの作成や発送などの作業をしているのを見て、船に戻ることなく、日本において、反政府活動をすることを決意した旨一貫して供述ないし陳述していること、②P1も、陳述書や証言において、原告が来日してから、原告を自宅に案内し、その後、原告は、βの作成や発送などの作業を手伝ってくれた旨供述ないし陳述していることを認めることができる。

さらに、上記原告及びP1の供述等の信用性について検討すると、証拠(甲3、5、31、46、48、乙9、14、76)によると、③原告は、ミャンマーにおいて、公務員として稼働しながらも、通信制の大学で就学しており、いわゆる知識階層に属する者であること、④原告は、ミャンマーにおいても、昭和63年8月に、民主化を求めたデモに参加したことがあったこと、⑤ミャンマー政府は、現在に至るまで、政治活動家に対する嫌がらせ、脅迫、逮捕、拘禁及び身体的虐待によって管理を強化していること、⑥原告自身も、二度とデモに政治活動を行わないと宣誓する書面に署名することを求められ、それに応じたことをそれぞれ認めることができる。

以上の事実に加え、⑦原告及びP1が一貫して供述する原告の本邦入国後の活動歴や、⑧原告の執筆した評論や詩の内容からすると、原告が、来日後間もなく、反政府活動を決意したとする原告の供述は、信用性が高いというべきである。

(3) これに対して、被告法務大臣は、①原告がβの編集スタッフの一員となっていたのではないこと、②原告が、本邦に上陸直後に政治活動をしようと考えたにもかかわらず、来日後約1年9か月を経過した平成12年4月までの間、特定の組織に所属することがなかったこと、③原告は、特定の組織に所属しなかった理由について、原告本人尋問では、bのだれからもメンバーに入るように言われなかったことを挙げ、また、東京入管難民調査官に対して、「どこの組織からも勧誘されなかったので、おもしろく思っていませんでした。それで入会しませんでした。」と供述していること、④原告は、東京入管特別審理官に対して、日本における民主化活動について、「活動の仕方がよく分からなかったので、デモがあれば参加し、会議があれば参加するという感じでした。」と供述していること等から、原告の活動内容は補助的、消極的なものであるにとどまり、原告にとって、民主化活動を行うことが、本邦で不法残留となることをいとわなかったというほどの強い残留の動機であったとは考え難く、原告は、高い政治的意識を有していなかったのであって、日本で反政府活動を決意したとは認められない旨主張する。

しかし、①の点については、原告は、βの編集スタッフにはならなかったものの、βの発行・作成を手伝い、βを始めとした雑誌において、反政府の立場から詩や評論を発表していたのであるから、βの編集スタッフにならなかったことを理由として、原告の活動内容が補助的、消極的なものにとどまるとか、原告が高い政治的意識を有していなかったとかいうことはできないというべきである。

また、②及び③の点については、原告は、本人尋問において、当時、自分としては、民主化の活動をするのに必ず組織に加入しなければならないという気持ちはなかったこと、組織に入る前には自分の好きなことができる立場でいたのが、組織に入った後には、その組織のメンバーの一員としての責任があるので、組織の方針に従って行動をするということになったこと、本邦に入国してからすぐに組織に所属しなかったのは、自分としては、日本における組織の活動というのを冷静に見つめ、研究をする時期があったからであることを供述している。これらの原告の供述に特に不合理な点はなく、このような原告の供述や、現にその後原告がc等で活動していることを考慮すると、来日後1年9か月が経過するまで、特定の反政府の組織に入らなかった点も不合理とはいえない。

さらに、④の点については、原告が日本において反政府活動を始めたばかりのころの原告の活動状況について原告が説明したものにすぎないとも考えられ、原告の上記④の供述をもって、原告の活動が消極的であったと認めるのは相当ではない。

このように検討すると、被告法務大臣の前記主張は、採用することができない。

(4) 以上からすると、原告は、来日後間もなく、ミャンマーの軍事政権に反対する政治的意思を固め、反政府活動を決意して、これを開始したものと認めるのが相当である。

(二)(1) また、原告のP6というペンネームが原告及びP1以外の者に露見したか否かについても争いがあるので、この点について検討する。

(2) まず、証拠(原告本人、証人P1)によると、原告及びP1は、ほかの者に原告のペンネームを話したことはなかったことが認められる。なお、P1は、その陳述書(甲48)において、原告が自分の考えを述べるためにペンネームのP6は原告自身であることを明らかにするようになったと陳述しているが、原告本人の供述に照らして、信用することができない。

しかし、証拠(甲5、31、証人P1、原告本人)によると、①原告は、β、δ、ε等の反ミャンマー政府の雑誌に、現在までに、10本程度の詩及び15本程度の評論を発表していること、②その多くについてP6のペンネームを使って発表しているが、各雑誌の編集者等は、P6が原告のことであることを知っているはずであること、③原告の執筆したものは、表現がストレートであり、かつ、ミャンマーの軍事政権に対して武力も辞さないことやアウン・サン・スーチーはミャンマーから出て外国で活動すべきであるなど内容が過激で、独自のものが多かったこと、④原告は、日本で反政府活動をしているミャンマー人との間で、反政府活動等について意見交換をするときにも、自己の意見を述べていること、⑤原告自身、日本で反政府活動をしているほかのミャンマー人と話をする中で、このペンネームを使っているのはこの人ではないかと分かるようになったこともあったことを認めることができる(なお、原告本人尋問によると、原告は、cのメンバーであるP12という人物が原告のペンネームを知っていた旨供述するが、P12という人物が原告のペンネームを知っているという供述は、原告本人尋問において、突然されたものであって、にわかに採用することができない。)。

以上を総合すると、原告本人及びP1が、P6が原告のペンネームであることをほかの者に積極的に明らかにすることがなかったとしても、原告が原稿を渡した編集者等からの情報によって、あるいは、原告が反政府活動をしているほかのミャンマー人と話をする過程などで、反政府活動をしているミャンマー人に、P6が原告のペンネームであることが徐々に知られるようになっていったものと推認することができる。

(3) これに対して、被告法務大臣は、原告は、P6というペンネームについて、①平成13年2月28日に、東京入管難民調査官に対して、「βの責任者である従弟が知っています。他の人は知りません。」と供述していたが、②平成14年8月12日には、東京入管特別審理官に対して、「人づてに伝わりながら私であることはミャンマー政府にはわかっているはずです。」と供述し、③平成15年7月22日付け陳述書では、「私の『β』などでの執筆活動はよく知られていますし、『P6』が私のペンネームであることも広く知られています。」と記載し、④平成17年1月27日付け陳述書では、「ペンネームを使ったといっても、実名で発表したのと変わらない危険があるのです。私のペンネームが、どこからか軍事政権に伝わっていてもおかしくありません。」と記載しているのであり、合理的な根拠や証拠を示すことなく、次第に、P6が原告であることが公知のものであるとする供述に変遷したと主張する。

しかし、原告の上記各供述は、それぞれ時間をおいてされているのであるから、原告が原稿を渡した編集者等からの情報によって、あるいは、原告がほかの反政府活動をしているミャンマー人と話をする過程などで、反政府活動をしているミャンマー人に、P6が原告のペンネームであることが知られていったとする前記(2)の推認と矛盾するものではなく、むしろ、それと合致するものであるということができる。

以上からすると、被告法務大臣の前記主張は、採用することができない。

4(一)  原告は、政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有している旨主張するので、この点について検討する。

(二)(1)  前記認定事実によると、①原告は、日本に入国して早々から、反ミャンマー政府の雑誌であるとミャンマー国営新聞からも指弾されている週刊誌であるβの発行・作成を手伝っていたこと、②原告は、b及びcの議長を歴任したP1のいとこであり、来日後すぐにP1を訪ね、それ以降、P1が編集長を務める上記βの刊行に協力したり、その後、bやcに参加するなど、行動を共にしてきていること、③原告は、日本において、平成11年ころから、ミャンマー政府を批判、非難し、反政府活動を鼓舞するような詩及び評論を執筆し、前記βを始めとした、反ミャンマー政府の立場の雑誌に、主にP6のペンネームで発表し、発表した詩の数は現在までに10本程度、評論は15本程度に及ぶこと、④原告の執筆したものは、表現がストレートであり、かつ、ミャンマーの軍事政権に対して武力も辞さないことやアウン・サン・スーチーはミャンマーから出て外国で活動すべきであるなど内容が過激で、独自のものが多かったこと、⑤P6が原告のペンネームであることは、次第に、日本で反政府活動をしているミャンマー人の間で知られるようになっていったこと、⑥原告は、平成12年12月に、ミャンマーの民主化を求め、軍事政権に反対する団体であるcが設立されると、当初からこれに加入し、本件難民不認定処分のされた14年4月9日当時は、補佐的ではあるものの、cの中央執行委員会のメンバーを務めていたこと、⑦cの2001/2002年度第1回年次総会報告書には、中央執行委員会のメンバーの一人として原告の実名が掲載されたこと、⑧原告は、平成13年6月から、何度も、主要国首脳あてに、本名は名乗っていないものの、ミャンマーの民主化への支援と違法な軍事政権に対する行動の要請等を内容とする書簡等を送付していること、⑨原告は、本邦へ上陸以降、多くのデモや集会に参加し、また、前記βの発行・作成を手伝うなど、積極的に政治活動をしてきたこと、⑩原告はミャンマーにおいては、デモに参加した程度しか政治活動をしていなかったが、二度と政治活動をしないように宣誓書を書かされていること、⑪ミャンマー政府当局は、在日ミャンマー人の団体が反政府活動や政府要人への攻撃を企図しているものと疑っており、在日ミャンマー人の活動にも関心を有していること、⑫ミャンマーのスローク政権は、本件難民不認定処分当時においても、政治的自由を認めず、政治活動家に対する嫌がらせ、逮捕、拘禁、身体的虐待等を続けており、ミャンマーにおいては人権抑圧の状況があることを認めることができる。

(2)  ところで、政治活動といっても、ミャンマー政府が特段注目しているとは思われないものから、不快に感ずるもの、あるいは脅威に感ずるようなものまで、様々な程度、種類のものを想定することができるところ、前記認定事実によると、原告は、反ミャンマー政府の立場の詩及び評論を執筆し、反政府の立場の雑誌に発表しているのであって、これらの詩や評論は相当数の者に閲読されているものと推測されること、原告は、本件難民不認定処分の当時、ミャンマーの軍事政権に反対しているcの中央執行委員会のメンバーを務めていたこと、原告は、主要国首脳あてに、ミャンマーの民主化への支援と違法な軍事政権に対する行動の要請等を内容とする書簡等を送付するなどしていたことが認められる。そうすると、原告の活動の内容は、ミャンマー政府にとって、極めて不快な種類のものであるということができる。

(3)  もっとも、国外にいるミャンマー人の数は、多数に上る上、国内での活動とは異なり、国外における政治活動が必ずしもミャンマー政府にとって危険ないし脅威となるものではないことに照らすと、ミャンマー国籍を有する者が、ミャンマー国外において、反政府政治活動を行ったというのみでは、ミャンマー政府が、その者の活動に格別注目しており、帰国時に迫害される可能性が高いということはできない。

しかし、前述したように、原告は、ミャンマー政府を批判、非難する詩及び評論を執筆し、反政府の立場の雑誌に発表しているのであって、これらの詩や評論は相当数の者に閲読されているものと推測され、また、デモやビラ配りへの参加とは異なり、出版物という形になって、残っていくものである。そして、ミャンマー政府当局は、在日ミャンマー人の団体が反政府活動を企図しているものと疑っており、原告は、そのような中で、上記のような出版物の形で、反政府活動を鼓舞するような評論等を残し、ミャンマーの軍事政権に反対している主要な組織であるcの中央執行委員会のメンバーも務めたのである。さらに、原告は、ミャンマーにおいて、二度と政治活動を行わない旨の宣誓をさせられていたのである。そのほか前記(1)のような原告の活動等を総合勘案すると、原告としては、ミャンマー政府が、原告の活動に注目する蓋然性が高く、かつ、これを不快に感じているものと推測していたものと認めることができ、かつ、原告がそのように推測していたことについては合理的理由があるというべきである。

(三)  以上によれば、本件難民不認定処分のされた平成14年4月9日当時及び本件裁決のされた平成15年3月12日当時、原告は、原告本人が供述ないし陳述するように、ミャンマー政府を批判、非難する政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有していると認めるのが相当である。

(四)(1)  以上の点に関し、被告法務大臣は、原告が執筆活動を行っていることをもって本国から迫害を受けるおそれがあるとは認められない旨主張する。そして、その根拠として、被告法務大臣は、①原告は、本人尋問において、平成12年9月25日に英米首脳あてに送った書簡の内容が特に激しかったことから自己が難民であると認識した旨供述しながら、同様の内容の評論をβに掲載したこともあるが、そのときは、間接的な表現を使っていたこともあって、それほど危険であるとは考えなかった旨供述しており、原告自身が、自己の執筆活動について、それほどミャンマー政府が関心を寄せていなかったと考えていたこと、及び②βの発行数からすると、βに占める原告の詩や評論の割合はわずかであり、また、原告が執筆を開始してから6年半の間に、活字化したものの数が少ないことを挙げる。

しかし、まず、①の点については、上記原告の供述は、βへの掲載と英米首脳あての書簡の送付との関係で、どちらがより恐怖を感じたかということについてのものであるから、原告が、βへの掲載によって恐怖を感じなかったと供述しているものと理解すべきではない。したがって、この点に関する被告法務大臣の主張は、前提を欠き、採用することができない。

また、②の点については、確かに、原告の詩や評論の数は極めて多いとまでいうことはできない。しかし、他方で、前記認定事実によると、原告は、反ミャンマー政府の立場の雑誌に合計25点程度の詩や評論を発表していること、原告の執筆したものは、表現がストレートであり、かつ、ミャンマーの軍事政権に対して武力も辞さないことやアウン・サン・スーチーはミャンマーから出て外国で闘争すべきであるとするなど内容が過激で、独自のものが多かったこと、原告はP6というペンネームを用いていたが、P6が原告のペンネームであることは、次第に、日本で反政府活動をしているミャンマー人の間で知られるようになってきたことが認められる。

そうすると、原告がこのような執筆活動を行っていることをもって原告が本国政府から極めて不快に思われ、帰国すれば迫害を受けるおそれがあると信じたことの合理的理由の一つと解することは、十分可能である。

したがって、被告法務大臣のこの点に関する主張も、採用することができない。

(2)  また、被告法務大臣は、原告が、平成14年2月にcの中央執行委員会のメンバーに選出された事実があったとしても、この段階では、執行委員を補助する仕事を行っていたにすぎず、指導的な役割を担っていたものではない上、このような事実や実名が公表されることもなかったというのであるから、このことから、本国政府から迫害を受けるおそれがあるとは認められない旨主張する。

しかし、まず、原告が、平成14年2月にcの中央執行委員会のメンバーに選出された事実は、雑誌等には掲載されなかったものの、既に認定したとおり、cの2001/2002年度第1回年次総会報告(甲19)に実名で掲載されたものである。

そして、前記認定事実によると、①cは、日本における反ミャンマー政府の立場の四つの団体が統合して設立された団体であり、約120名の正式な会員がいること、②ミャンマー政府当局は、在日ミャンマー人の団体が反政府活動や政府要人への攻撃を企図しているものと疑っており、在日ミャンマー人の活動にも関心を有していること、③補佐的な立場のものも含めた平成17年1月現在のcの中央執行委員会のメンバー19人のうち、13人が難民認定又は在留特別許可を受けていることを認めることができる。

以上からすると、原告が、平成14年2月にcの中央執行委員会のメンバーに選出された事実も、原告が本国から迫害を受けるおそれを増大させる主たる要素の一つになり得るというべきである。

したがって、被告法務大臣の前記主張は、採用することができない。

(3)  また、被告法務大臣は、原告が日本においてデモに参加していた事実があったとしても、このことをもって本国政府から迫害を受けるおそれがあるとは認められない旨主張する。

確かに、前記認定事実のとおり、原告は、平成17年に、在日ミャンマー大使館前で定期的に行われるデモの金曜日における担当者になるまでは、単なる一般参加者としてデモに参加していたにすぎないということができる。

しかし、前記認定事実によると、原告は、在日ミャンマー大使館前で定期的に行われるデモを主催、あるいは指導していたとまでいうことはできないものの、何度もデモに参加し、シュプレヒコールを叫ぶなどしていたのであって、このようなデモの数は多く、かつ、在日ミャンマー大使館員がデモの様子をビデオで撮影していたこともあるというのであるから、原告のこのようなデモへの関与を理由として、原告がミャンマー当局が原告を個別に把握していると信じたとしても、不合理ということはできない。また、既に述べたところからすると、原告は、このデモへの関与の点よりも、日本での執筆活動を中心として、β刊行の手伝い、cにおける役職、P1との関係等複合的な理由で、迫害を受けるおそれがあると信じたことに合理的理由があると認められるのであって、単にデモに参加していたというのみで、難民性を認めるものではない。

したがって、被告法務大臣の前記主張は、採用することができない。

(4)  また、被告法務大臣は、原告が主要国首脳等に書簡を送付したことを理由に、迫害を受けるおそれがあるとは認めることができない旨主張する。

確かに、前記認定事実によると、前記各書簡はミャンマー政府や在日ミャンマー大使館に対して送付したものではない上、原告は実名を明かさずに、主要国首脳に前記各書簡を送付しているのであるから、ミャンマー政府が原告が前記各書簡を送付したことを把握することは難しいということができる。

しかし、他方で、前記認定事実によると、ミャンマー政府当局は、在日ミャンマー人の団体が反政府活動や政府要人への攻撃を企図しているものと疑っており、在日ミャンマー人の活動にも関心を有しているのである。また、原告が供述するように、主要国首脳に書簡を送付した場合、その書簡は名あて人本人以外の相当数の者の目に触れるであろうことが予想されるのであって、特に、原告が平成12年9月25日に英米首脳あてに送付した書簡については原告の当時の住所も記載していたというのであるから、実際に、ミャンマー政府当局によって原告が前記書簡を出したことを把握されたか否かは別として、原告がこのことによって危険を感じること自体は、不合理ということはできない。

そうすると、原告が主要国首脳等に書簡を送付した事実については、それのみを理由に、原告が迫害を受けるおそれがあるということはできないものの、原告が迫害のおそれがあると信じていることの合理性を検討する上で、一つの積極方向の事由になるということができる。

したがって、被告法務大臣の前記主張は、採用することができない。

(5)  さらに、被告法務大臣は、原告のミャンマーにおける活動をもって本国から迫害を受けるおそれがあるとは認められない旨主張する。

確かに、前記認定事実によると、原告のミャンマーにおける活動は、昭和63年8月に職場の仲間と一緒に何度もデモに参加したというもののみであり、原告は、二度と政治活動をしないという宣誓書に署名させられたこともあって、その後は、ミャンマー国内では政治活動をしなかったというのである。そうすると、原告が日本において反政府活動を始める前には、ミャンマー政府から原告について個別的に把握されていたとは必ずしも考えられず、被告法務大臣の主張のとおり、原告のミャンマーにおける活動をもって本国から迫害を受けるおそれがあるとまで認めることは困難である。

しかし、前述したとおり、原告は、主として日本における活動を理由に、本国政府から迫害を受けるおそれがあると信じることに合理的理由があると認められるのであって、上記のデモへの参加や宣誓書への署名は、従たる事由と評すべきものである。

したがって、被告法務大臣の前記主張は、前記(三)の認定判断を覆すものということはできない。

(6)  さらに、被告法務大臣は、原告は、本邦上陸後間もなく建設作業員として稼働を開始し、その後は飲食店店員として勤務するなどして月収23万円を得、平成12年12月までの約2年半の間に約150万円を本国の家族に送金し、日本で約100万円の貯金を有するに至った旨供述しており、このような供述からすれば、原告は、来日当初から継続的に不法就労を行い、蓄財及び本国への送金に専念していたことがうかがわれるのであって、専ら不法就労目的で来日したことが強く推認される旨主張する。

確かに、外国人が、本邦上陸後間もなく稼働を開始し、相当額の収入を得て、本国の家族に送金するとともに、日本において相当の貯金を有するという事情は、一般的には、当該外国人の来日が不法就労目的であったのではないかと推認させる要素となり得るものである。

しかし、前記認定事実のとおり、他方で、原告は、日本において、反政府の立場の詩や評論を発表したほか、反政府の立場を採る週刊誌の発行・作成を手伝い、主要国首脳にミャンマーの軍事政権に対する圧力を要請する書簡を送付したり、デモや集会に参加するなどしており、民主化運動のために相当の時間を割いていることが推測される。また、ミャンマーにおける人権状況が相当に良くないことは原告自身が認識しているにもかかわらず、日本において、前記のような民主化活動を行い、bやcという反政府組織に参加し、平成14年には、補佐的な立場ではあるものの、cの中央執行委員会のメンバーに選任され、さらに、平成16年2月には、再びcの中央執行委員会の委員に選任されているのである。

以上を総合すると、原告について、本邦への上陸の目的が不法就労目的であったと認めることはできないのであって、被告法務大臣の前記主張は採用することができない。

(7)  被告法務大臣は、原告の家族は本国で何ら問題なく生活していること及び原告自身が妻子を本邦に呼び寄せようと考えていないことからすると、原告が迫害を受けるおそれを認識していたとはいえないのではないかと主張する。

確かに、本件の全証拠によっても、原告は、原告の家族が本国で身の危険にさらされていることについて何も言及していないことが認められ、かえって、証拠(乙9、14)によると、原告の兄及び妻は公務員として現在も公職に就いていることが認められる。そうすると、原告の家族は本国で格別の問題なく生活していると推認することができる。

しかし、原告の家族が本国で格別の問題なく生活していることは、原告が現在のところ、ミャンマー政府に個別に把握されていないのではないかと推認させる資料の一つになり得るものの、既に認定した本件の事実関係を前提とすると、上記のような家族の事情から、原告が迫害を受けるおそれがないとまでいうことはできないというべきである。

また、証拠(乙14、16)によると、原告は、難民認定を受けたとしても、妻子を本邦に呼び寄せることは考えておらず、その理由として、子供が幼少であるために本邦での生活に不安があることを供述していることが認められる。この点も、確かに、原告の上記供述は、現に迫害のおそれが高まっている者の供述としては若干不自然であるように思われる。

しかし、ミャンマーにおいて、同居したり、一緒に異動しているわけではない場合であっても、迫害を受けるおそれのある者の親族は、必ず同様の迫害を受けるおそれがあると認めるに足りる証拠はない。そうすると、原告の上記供述がおよそ不合理であって、迫害を受けるおそれのある者の供述としては考えられないとまでいうことはできないというべきである。

そして、前記のとおり、原告のミャンマーにおける活動ではなく、日本における活動の方を主たる事由として原告について本国政府から迫害を受けるおそれを認めることができることからすると、結局、被告法務大臣の前記主張は、採用することができないというべきである。

(8)  被告法務大臣は、原告とP1の政治活動は同列に論じられるものではない旨主張する。

確かに、P1は、bやcの議長を歴任し、現在もβの編集長とcの副議長を務めているのであって、P1の政治活動は、原告の政治活動に比較して、より積極的であり、P1は反政府組織において、より指導的な役割を果たしてきたものということができる。

しかし、前記認定事実のとおり、原告においても、前記のような執筆活動やβの発行・作成の手伝いを行っているとともに、cにおいても中央執行委員会のメンバーに選任されるなどしており、その政治活動が、消極的かつ従属的なものにとどまるということはできない。そして、前記認定事実のとおり、ミャンマーのスローク政権は、本件難民不認定処分や本件裁決の当時においても、政治的自由を認めず、政治的活動家に対する嫌がらせ、逮捕、拘禁、身体的虐待等を続けており、ミャンマーにおいては人権抑圧の状況があり、また、ミャンマー政府当局は、在日ミャンマー人の活動にも関心を有しているのである。

そうすると、原告が日本においてしてきた政治活動がP1の行ってきた政治活動に比較すれば、消極的、従属的なものにとどまるとしても、原告が迫害を受けるおそれを認識していたことに十分な根拠がないということはできないというべきである。

被告法務大臣の前記主張は、採用することができない。

5  以上によると、原告については、本件難民不認定処分及び本件裁決の当時、本国に帰国すれば、政治的意見等を理由として、身柄を拘束され、拷問を受け、生命又は身体に危害を加えられるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有していたものと認めることができる。したがって、原告は、本件難民不認定処分及び本件裁決の当時、出入国法に規定する難民に該当していたものであるということができる。

二  争点2(60日条項違反の有無)について

1(一)  出入国法61条の2第2項は、難民認定の申請について、申請者が「本邦に上陸した日(本邦にある間に難民となる事由が生じた者にあつては、その事実を知つた日)から60日以内に行わなければならない」と定め、その例外として、「やむを得ない事情があるときは、この限りでない」旨規定している。

(二)  この出入国法61条の2第2項の趣旨は、難民となる事由が生じてから長期間経過後に難民認定の申請がされると、事実の把握が困難となり、適正な難民認定ができなくなるおそれがあるため、我が国の庇護を受けるため難民認定の申請をしようとする者は、速やかにその申請をしなければならないことを定め、申請者が申請期間内に申請をすることを難民認定を受けるための手続的要件としたものと解することができる。また、これは、迫害から逃れて他国に移動した難民は、他国に入国後速やかに庇護を求めるのが一般的であるという経験則を背景としており、さらに、難民認定申請制度の濫用者が増加すると行政側の負担が過大となり、適正な難民認定が遅延し、誠実な難民認定申請者にとっても不利益となることから、このような濫用者の申請を可及的に排除することをも併せて目的としたものと解することができる。

もっとも、同項本文による60日の期間制限を一律に機械的に適用して取り扱うことは、具体的な事情の下において妥当でない場合があり得ることから、このことを考慮して、同項ただし書を設け、申請期間の例外として、申請期間の経過に「やむを得ない事情」があるときは、期間内にされた申請と同様に難民性の有無を判断することとして、個別に救済を図っているものと解すべきである。

(三)  これに対し、原告は、出入国法61条の2第2項の規定について、申請期間をわずか60日とするのは不合理であり、60日条項は単なる努力規定又は訓示的規定と解するのでなければ、難民条約に違反する旨主張する。

(四)  しかし、難民認定の申請と難民条約との関係を論ずるためには、まず、出入国法62条の2第1項にいう「難民の認定」とは何かということを検討すべきである。

出入国法及び難民条約の各規定からすると、「難民の認定」手続とは、難民の庇護をするため、すなわち、我が国が領土主権に基づき各種行政機関により難民に対して特別の取扱いや保護を行うため、個別の処遇局面ごとに難民条約上の難民か否かを判断するよりも、あらかじめ、一律に行政手続上難民であると認定する手続を設けておいた方が適切かつ円滑な処遇を期待しやすいので、このように難民条約上の難民に該当することを認定する手続が設けられているものと解すべきである。したがって、難民の認定手続とは、行政手続上我が国が当該難民の庇護の責務を負うことをあらかじめ明確にしておくことを目的とする外国人の管理行政上の特別な手続であり、難民の認定をしない旨の処分は、このような一律の行政手続上の認定を受けられなかったものにとどまり、難民条約における難民の定義に当たらないことを実体法上確定してしまうものではないと考えるべきである。

そうすると、このような外国人の管理行政上の手続である難民認定手続における「難民」と難民条約上の「難民」とは、要件は同じであるが、実際には食い違いが生ずることがある。例えば、本邦に入国前に申請した場合や申請後に出国した場合は、難民条約上の難民であっても、我が国の難民認定手続の対象には含まれないことになる。また、難民の認定を申請していない者、さらには、申請後に難民の認定をしない旨の処分を受けた者であっても、難民条約上の「難民」に該当しないことが確定しているわけではないのであるから、実体法上、難民条約上の「難民」の定義に該当する者であれば、これを迫害国に送還することは難民条約違反になる可能性があるということになる。

このように考えると、出入国法61条の2第2項は、前記のような特別な難民認定制度に乗せる対象を限定する規定であって、その性質上、難民要件とかかわりのある規定ではなく、難民条約上の難民要件に変更を加えるものではないと解すべきである。

(五)  以上を前提に、難民条約及び難民議定書をみると、このような難民認定手続の要否やその要件、手続について言及する規定はない。したがって、難民条約の締約国が前述したような難民認定制度を設け、かつ、その手続を定めて、この手続に乗せる期間を限定しても、それだけで難民条約等に違反しないことは明らかである。もっとも、当該手続が難民の認定を受けることを著しく困難にするものであって、そのため結果的に、制度上難民に対する庇護を適切に行うことができなくなっているなどといった極端な場合には、手続規定自体が難民条約の趣旨に反すると解する余地も考えられなくはないので、以下、このような観点から、主に検討を進めることとする。

(六)  まず、原則として、どのような難民認定手続を定めるかについては、各締約国の主権国家としての立法裁量にゆだねられており、各締約国が、その実情等を勘案して合理的に定めることができると解すべきである。そして、難民認定手続につき、国際法上一般条約があるわけではなく、諸外国においても、各国ごとに独自の立法により難民認定制度を定めている。

また、行政手続上、一定の認定申請につき期間制限を設けることにより早期の申請を促し、かつ、適正な行政を期することはごく一般的な手法である。そして、迫害の危険から逃れるために他国の保護を求めるという難民認定申請の性質からすると、一般論としては、前記経験則のとおり、実際に迫害の危険があるならば、本邦に入国後、速やかな申請があるはずであるという予測が働くことは明らかである。

また、出入国法61条の2第2項が申請期間に制限を設けているのは、前記(二)で述べたとおり、上記予測を前提とした上、入国後長期間経過後に難民認定申請がされると、入国当時の事実関係を把握することが困難となり、適正かつ公正な認定を行うことができなくなるおそれもあるため、難民認定行政の公正かつ円滑な実施を確保しようとするものであり、このような立法趣旨自体は不合理ということはできない。

さらに、60日という期間については、我が国の地理的、社会的実情や交通事情等に照らすと、申請者が、難民認定申請をするかどうかを一定期間考慮したり、本国の情勢を把握する必要がある場合であっても、そのための期間として必ずしも不十分であるとまでいうことはできず、その他、60日という期間が不十分であるというような一般的な事情は見当たらない。加えるに、具体的な事情の下においては、この期間制限を適用することが妥当でない場合があり得ることから、このことを考慮して、同項ただし書を設け、申請期間の経過に「やむを得ない事情」があるときは、期間内にされた申請と同様に難民性の有無を判断することとして、個別に救済を図っているのである。

(七)  そうすると、このような救済規定の存在も考え合わせると、60日という期間が、事実上難民認定の申請を著しく困難にするような短きに失する期間であると断定することはできず、出入国法61条の2第2項の規定が、実質的に難民の庇護を適切に行うことをできなくするものであるとまでいうことはできない。

2  以上によれば、60日間の申請期間の制限を設けている出入国法61条の2第2項の規定は、立法裁量の枠内にあるものであって、難民条約に違反するものではなく、難民条約と出入国法との効力関係等について検討するまでもなく、有効というべきである。

なお、国連難民高等弁務官事務所執行委員会において採択された結論第15号においては、「庇護希望者に対し一定の期限内に庇護申請を提出するよう求めることはできるが、当該期限を徒過したことまたは他の形式的要件が満たされなかったことによって庇護申請を審査の対象から除外すべきでない。」旨の指針が示されている。しかし、同指針は、国際法上の法的拘束力を有しないものであり、かつ、難民条約の解釈を有権的に示したものとまではいうことはできない。

3  そこで、さらに、出入国法61条の2第2項本文かっこ書き所定の「その事実を知つた日」の意義及び原告についてそれがいつであるかについて検討する。

(一) 出入国法61条の2第2項は、本邦にある間に難民となる事由が生じた者にあっては、その事実を知った日から60日以内に難民の認定の申請をしなければならないとしている。そして、申請期間の始期を「その事実を知つた日」からとしているのは、難民となる事由が生じたことを知らない者について、申請期間の進行を開始することはできないとする当然の理を明らかにしたものということができる。

ところで、前記のとおり、出入国法の「難民」とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」をいうから、出入国法61条の2第2項の「本邦にある間に難民となる事由が生じた者」とは、本邦にある間に、人種、宗教、政治的意見等を理由に本国において迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖が生じた者ということになる。

以上のような申請期間の設置及び申請期間の起算日の定めの趣旨及び「本邦にある間に難民となる事由が生じた者」の意味を総合すると、出入国法61条の2第2項にいう「その事実を知つた日」とは、自己が迫害を受けるおそれがあり、かつ、それにより難民認定を受け得るという認識を有するに至った日と解するのが相当である。

(二) そこで、このような観点から、原告について、出入国法61条の2第2項本文かっこ書きにいう「その事実を知つた日」がいつかを検討する。

(1) 前記一2の認定事実に証拠(甲7の1、乙39、64、65、68、原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実を認めることができる。

ア 原告は、平成10年7月21日に来日した直後から、反政府の立場の雑誌であるβの発行の手伝いやデモへの参加などの反政府活動を始めた。また、平成12年4月にはbに加入し、同年12月からはcに加入した。

また、原告は、平成11年ころから、ミャンマー政府を批判・非難し、反政府活動を鼓舞するような詩や評論を執筆し、βを始めとした反政府の立場の雑誌に発表するようになった。そして、原告のペンネームであるP6は、在日反政府活動家に、次第に知られるようになっていった。

イ また、原告は、平成12年6月以前においては、自己の活動について、ミャンマー政府当局に逮捕されるなど迫害を受けるおそれがあるとは考えておらず、難民認定申請をしても難民と認められることは難しいと考えて、難民認定申請をしなかった。

ウ 原告は、ミャンマーの軍事政権の指導者の一人であるキン・ニョン第一書記が小渕元総理大臣の葬儀に参加したことに憤慨し、平成12年6月7日、多数の友人とともに、小渕元総理大臣の葬儀に参加した主要国首脳あてに、「抑圧されたビルマ国民」の名で、ミャンマー国民はミャンマーの軍事政権の正当性を認めておらず、小渕元総理大臣の葬儀において、葬儀に参加した主要国首脳はキン・ニョン第一書記と肩を並べて歩くべきではない旨主張する内容の書簡(甲7の1)を作成し、各国大使館にファクシミリで送信した。また、原告は、同月ころ、キン・ニョン第一書記が小渕元総理大臣の葬儀の参列のために来日することに反対するデモにも参加した。

エ 原告は、主要国首脳に対して、上記書簡を送付したことから、これをミャンマー政府の情報局員に知られてしまった場合、帰国すれば逮捕される危険があると考え、迫害の危険を具体的に感じ、難民認定を申請しようと考えた。

オ そこで、原告は、平成12年7月ころ、難民認定の申請をするため、P1に弁護士に連絡してもらった。原告は、同年8月中旬ころに弁護士と会って相談することができたものの、弁護士からは、ほかにも難民認定の申請予定者が4、5人いるので待つようにと言われた。

しかし、弁護士からは、同年9月になっても、10月になっても、原告に連絡がなかった。

カ 他方、原告は、平成12年6月以降も反政府活動を継続し、むしろその活動を活発化させた。

原告は、同年9月25日には、英米首脳あてに、自身で執筆した書簡(甲10の1)を送付した。原告は、上記書簡の内容が過激であった上に、当時原告が居住していた住所とマンションの部屋番号を記載していたため、住所から自分が軍事政権から認識されるのではないかと考え、より迫害の危険を感じるようになった。

キ 原告は、一人で難民認定申請をするつもりで、平成12年10月30日に、弁護士事務所を訪ね、難民認定申請手続について聞いた。そして、同年11月8日に、再び弁護士事務所を訪ね、難民認定申請書を渡した。その後、原告は、同年11月17日に、弁護士とともに、東京入管を訪ね、難民認定申請を行った。

ク 原告は、平成12年12月1日に、難民高等弁務官事務所(UNHCR)へ難民認定申請のために訪れたところ、係員の調査を受けたものの、係員から、入国管理局で難民として認定されなければ話を聞くように言われて、何も手続を行わなかった。

ケ 原告は、平成12年12月19日及び平成13年2月28日、に、東京入管において、難民調査官のインタビューを受け、自身がミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあると考える旨を述べた。

(2)ア 上記の事実認定のうち原告が、初めて自らの迫害の危険が差し迫ったものと感じた時期については、争いがあるおで、検討することとする。

イ 証拠(乙64)によると、原告は、平成12年12月19日に、難民調査官からインタビューを受けた際、キン・ニョン第一書記が日本政府に招かれて小渕恵三元総理大臣の葬儀に参列することに対して反対し、各国の首脳に対して書簡を送ったが、その書簡がミャンマー政府の情報局員に知られてしまった場合、ミャンマーに帰国すれば逮捕される危険があると考え、自分の難民性を認識し、同年7月にいとこを通じて弁護士に連絡してもらい、同年8月に弁護士と実際に会って相談したが、弁護士からはほかにも申請者が4、5人いるので待つように言われ、その後、弁護士から連絡がなかったこと等から、難民認定申請が同年11月17日に行われるようになった旨供述したことが認められる。

ウ そこで、原告の上記供述の信用性について検討すると、原告の上記供述は、原告が迫害を受けるおそれを抱いたきっかけや理由、迫害を受けるおそれを抱いた後の原告の行動について、不自然な点がないということができる。また、証拠(甲7の1)によると、平成12年6月7日に原告が各国首脳あてにファクシミリで送信した書簡には、ミャンマー国民はミャンマーの軍事政権の正当性を認めておらず、キン・ニョン第一書記は小渕恵三元総理大臣の葬儀に各国首脳とともに参列すべきではない旨記載されていることが認められ、ミャンマー政府にとって、極めて不快な内容であることが明らかなものである。したがって、ミャンマー政府に原告が上記書簡を送付したことを知られると原告にとって迫害を受けるのではないかと考えるのは不自然ではない。さらに、証拠(乙40)によると、本件難民認定申請の際に原告が提出した難民認定申請書添付の「60日以内に申請できなかった理由に関する陳述書」には、「2000年にビルマ軍事政権の首相級キンニョン中将が来日した後は、さらに活動に拍車がかかりました。ビルマの窮状を伝えるため主要国首脳に書簡を送りました。このため、軍事政権がこの書簡を知れば、私は迫害を受け、殺されることになるでしょう。私は軍事政権の打倒を決意しました。」との記載があることが認められるところ、上記記載は、難民調査官に対する原告の前記供述と符合するということができる。

以上を勘案すると、前記イの原告の供述は、相当程度の信用性があるというべきである。

エ もっとも、原告は、既に認定したとおり、来日して間もないころから、ミャンマー政府に反対する立場のβの発行・作成に協力しており、平成11年からは、ペンネームを使用して、ミャンマーの軍事政権を批判、非難する詩や評論を発表していたというのである。しかし、このような出版活動への協力や創作活動が、原告の名を公にして行われていたとは認めるに足りず、ペンネームが原告を意味することが知られるようになっていったのも、徐々にそうなっていったものと認められる。

オ さらに、前記認定事実のとおり、原告は、前記平成12年6月7日付け書簡をファクシミリで送信した後、日本において難民認定申請をしようと考え、同年7月には、P1を通じて弁護士と連絡を取り、同年8月半ばに難民認定申請について弁護士と相談したことが認められる。

カ 以上によると、原告について、自己が迫害を受けるおそれがあり、かつ、それにより難民認定を受け得るという認識を有するに至った時期は、必ずしも、明確ではないが、原告の来日直後、あるいは平成11年ころと認めることは困難であり、結局、原告本人が元々自認していたところに基づき、遅くとも、原告が、各国首脳あてに、キン・ニョン第一書記が小渕恵三元総理大臣の葬儀に参列することに反対する内容の書簡を送付し、弁護士とも連絡を取った平成12年6月ないし7月ころと認めるのが相当である。

キ(ア) これに対し、原告は、平成12年9月25日に書簡を送付した後、これを読んだ原告が、自分の活動もここまで来たかと怖くなり、初めて、自らの迫害の危険が差し迫ったものと感じた旨主張する。

(イ) 確かに、証拠(甲5、31、乙67、68、原告本人)によると、①原告は、本件難民不認定処分に対する異議の申立ての際に異議申出書に添付した異議申立て理由書に、平成12年9月25日に、アメリカ合衆国大統領らに対し、書簡を送ったところ、差出人として当時の自分の住所を記載したことから、この書簡を送ったことによって、自分は帰国すれば迫害を受ける旨記載していること、②原告は、平成15年12月24日の難民調査官のインタビューの際に、平成12年9月25日にアメリカ合衆国首脳や英国首脳に上記書簡を送った際に自分が難民であると認識した旨供述したこと、③原告は、2通の陳述書(甲5、31)においても、アメリカ合衆国首脳や英国首脳に対し、上記書簡を送付した後、改めてその書簡を読み返してみると、内容が過激であり、かつ、自分の住所を記載してしまったことから、恐怖を感じた旨記載していることが認められる。また、④原告本人尋問においても、原告はこの点についての陳述書の記載と同旨の供述をしている。

(ウ) しかし、原告の上記①から④までの供述ないし陳述は、いずれも、なぜ、原告が迫害を受けるおそれを感じた時期が、平成12年12月19日に難民調査官に対して話した内容から変わったのかについて、合理的な説明をしていない。そして、原告の前記①から④までの供述ないし陳述は、いずれも、法務大臣が本件難民認定申請について出入国法61条の2第2項所定の期間を徒過していることを理由として本件難民不認定処分をした後にされたものであることからすると、同項の期間制限を免れるための便法のためにされたものであることが疑われるものといわざるを得ない。

(エ) そうすると、原告の前記(イ)の①から④までの供述ないし陳述は、いずれも採用することができず、他に原告の前記(ア)の主張を認めるに足りる証拠はない。

(三) 以上によれば、原告について、出入国法61条の2第2項本文かっこ書きにいう「その事実を知つた日」は、平成12年6月ないし7月ころであるということになる。

そうすると、原告が本件難民認定申請を行ったのは、同年11月17日であるから、本件難民認定申請は、「その事実を知つた日」から約3か月ないし5か月以上経過してから行われたものであり、いずれにせよ60日を超えた後に行われたものであるといわざるを得ない。

4  そこで、さらに、出入国法61条の2第2項ただし書所定の「やむを得ない事情」の意義及び原告にこのような事情があったということができるかという点について検討を進める。

(一) 前記のとおり、実際に迫害の危険があるならば、本邦に入国後、速やかな難民の申請があるはずであるというのは、一般論としての経験則にすぎないのであるから、このような経験則が妥当しない場合については、その個別的事情を検討すべきである。たとえば、申請者にとって難民の認定を申請することは重大な決断を要するものである上、我が国の難民認定手続が国際的に周知されているとは考え難いところである。したがって、難民の中には、難民に対する取扱いについての知識がないか、あるいは難民認定申請手続に関する誤解等の下に、自ら難民である旨を明らかにした場合には、入国を拒否されたり、拘禁施設に収容されてしまうのではないかとの危惧を抱く者もあり得るであろうから、直ちに難民認定申請をするのではなく、まず平穏に日本に入国あるいは滞在することを望み、難民に対する取扱いについての知識を得てから、難民認定申請をしようとする者や、あるいは日本への入国後に難民該当性が生じたため、いつから難民認定申請をし得るのか迷う者など前記の経験則によらない者もいると推測される。そうすると、このような場合にも、出入国法61条の2第2項本文による申請期間の制限を一律に機械的に適用することが妥当でないときがあり得るものと考えられる。

そこで、同項ただし書は、このような例外的な場合があり得ることを考慮して、期間を経過した申請についても、個別に具体的な事情を検討して、期間を経過したことに合理的理由がある場合には「やむを得ない事情」があるものとして救済を図り、期間内にされた申請と同様に難民性の有無を判断することとしたものというべきであって、同項ただし書の「やむを得ない事情」の意義も、こうした救済規定としての趣旨に適合するように解釈されなければならない。また、先に触れた国連難民高等弁務官事務所執行委員会において採択された結論第15号の指針も、申請期間の徒過を一律の形式的要件として解釈運用してはならないことを示している限度では、上記解釈と符合するものということができる。

このような救済規定としての趣旨に照らせば、同項ただし書にいう「やむを得ない事情」とは、本邦に上陸した日又は本邦にある間に難民となる事由が生じた場合にあってはその事実を知った日から60日以内に難民認定の申請をする意思を有していた者が、病気、交通の途絶等の客観的な事情により物理的に入国管理官署に出向くことができなかった場合に限らず、本邦において難民認定の申請をするか否かの意思を決定することが、出国の経緯、我が国の難民認定制度に対する情報面や心理面における障害の内容と程度、証明書類等の所持の有無、申請者にとっての言語上の障害や申請を援助してくれる者の有無、申請までの期間等を総合的に検討し、当該期間を経過したことに合理的理由があり、入国後又は難民該当性が生じた後速やかに難民としての庇護を求めなかったことが必ずしも難民でないことを事実上推認させるものではない場合をいうと解するのが相当である。

(二) そこで、このような観点から、本件難民認定申請申請について、原告に出入国法61条の2第2項ただし書にいう「やむを得ない事情」があるか否かを検討する。

(1) 証拠(乙40、68)によると、原告は、平成10年7月21日に本邦に入国後間もなく、日本において難民認定申請は60日以内にしなければならないことを知ったこと及び原告が本件難民認定申請の際に「60日以内に申請できなかった理由に関する陳述書」を提出したことが認められる。

もっとも、出入国法61条の2第2項本文所定の「本邦に上陸した日」については、一般の外国人にとってその意味が明らかなのに対して、同項本文かっこ書きの「その事実を知つた日」については、一般の外国人にとって、それがいつであるのかを必ずしも簡単に理解し得るものとはいい難いと考えられる。

しかし、前記一2の認定事実及び前記3(二)(1)の認定事実によると、①原告は、本邦上陸後間もなく、60日の申請期間制限があることについては知っていたこと、②原告は、本邦入国後すぐに後にcの議長となったP1と会い、ミャンマー政府に反対する立場を採るβの発行・作成を手伝うようになっていること、③P1は原告のいとこであること、④原告は、平成12年4月に、後に他の組織と合流してcとなったbに加入したこと、⑤また、平成11年ころからは、ミャンマーの軍事政権を批判、非難し、反政府活動を鼓舞する内容の詩や評論を雑誌で発表するようになったこと、⑥その後、平成12年6月7日には、各国首脳あてに、ミャンマーの軍事政権を批判する内容の書簡を各国大使館にファクシミリで送信したこと、⑦原告は、その後も、各国首脳に書簡を送付するなどの反政府活動を継続し、その活動を活発化させたこと、⑧原告は、難民認定申請をしようと考えて、同年7月には、P1を通じて、弁護士と連絡を取り、同年8月中旬には弁護士と面会していること、⑨原告は、同年11月には、自身で難民認定申請をするため、その手続を聞きに、弁護士事務所を訪ねたこと、⑩本件難民認定申請後ではあるが、平成14年2月及び平成16年12月には、cの中央執行委員会のメンバーに選ばれていることを認めることができる。

そのほか前記認定事実も加えて総合勘案すると、原告は、日本への入国以降、継続的に反政府活動を行ってきたものであり、その活動も単にデモに参加したり、ビラを配るなどといったものではなく、反政府の立場を採る週刊誌の発行・作成を手伝ったり、ミャンマー軍事政権を批判、非難する言論活動を行うものであり、cの幹部であるP1との親交や、後のcへの加入や役員への選任等を考え合わせると、いわゆる知識人の立場で、反政府活動に深く関与し続けていたものということができる。そして、原告のこのような活動や立場からすると、原告は、難民制度一般や、日本における難民認定制度、あるいは難民認定申請を助けてもらうための組織や弁護士等についても、一般のミャンマー人よりはるかに知識を有していた者と推認するのが相当であり、また、だからこそ、現に難民認定申請のために2回も弁護士と面会をしていると見るべきである。

(2) そうすると、このような原告としては、出入国法61条の2第2項本文かっこ書きにいう「その事実を知つた日」から速やかに難民認定申請をすることもできたはずであり、3か月ないし5か月間以上難民認定申請をしなかったことに合理的理由があると認めることはできないというべきである。

(3) したがって、原告には出入国法61条の2第2項ただし書の「やむを得ない事情」が存在すると認めることはできない。

三  本件難民認定申請の適法性について

以上によれば、原告には難民該当性を認めることができるものの、「その事実を知つた日」から60日以内に本件難民認定申請をしておらず、申請の遅延について、「やむを得ない事情」が存在したものと認めることもできないから、本件難民認定申請は、出入国法61条の2第2項本文により不適法なものといわざるを得ない。

四  争点3(本件難民不認定処分の手続上の違法性)について

1  前記前提事実のとおり、本件難民不認定処分に付記された理由は、「あなたからの難民認定申請は、出入国管理及び難民認定法第61条の2第2項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、あなたの申請遅延の申立ては、同項但書の規定を適用すべき事情とは認められません。」というものである。

2  そして、既に判示したとおり、本件難民認定申請については、原告が「その事実を知つた日」から60日以内に本件難民認定申請をしておらず、申請の遅延について、「やむを得ない事情」が存在したものと認めることはできないのであって、本件難民不認定処分もその旨の理由を付して行われたものである。したがって、これと同じ理由により本件難民不認定処分が行われている以上、本件難民不認定処分には、上記のような理由を付記すれば足りるというべきであって、個々の提出資料につき、逐一、証拠判断等を示すまでの必要はないというべきである。

3  よって、本件難民不認定処分の理由の付記に不備があるということはできず、そのほかの違法事由があるともうかがわれないので、本件難民不認定処分に手続上の違法はないというべきである。

五  本件難民不認定処分の適法性について

以上によると、本件難民不認定処分は、適法というべきである。

六  争点4(本件裁決の適法性)について

1  まず、法務大臣の裁量権について検討する。

(一) 憲法22条1項は、日本国内における居住・移転の自由を保障するにとどまっており、憲法は、外国人の日本へ入国する権利や在留する権利等について何ら規定しておらず、日本への入国又は在留を許容すべきことを義務付けている条項は存在しない。このことは、国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、特別な条約がない限り、外国人を受け入れるかどうか、受け入れる場合にいかなる条件を付するかについては、当該国家が自由に決定することができるとされていることと考えを同じくするものと解される。したがって、憲法上、外国人は、日本に入国する自由が保障されていないことはもとより、在留する権利ないし引き続き在留することを要求する権利を保障されているということはできない。このように外国人の入国及び在留の許否は国家が自由に決定することができるのであるから、我が国に在留する外国人は、出入国法に基づく外国人在留制度の枠内においてのみ憲法に規定される基本的人権の保障が与えられているものと解するのが相当である(最高裁判所昭和50年(行ツ)第120号同53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁、最高裁判所昭和29年(あ)第3594号同32年6月19日大法廷判決・刑集11巻6号1663頁参照)。

(二) 出入国法2条の2、7条等は、憲法の上記の趣旨を前提として、外国人に対し原則として一定の期間を限り特定の資格により我が国への上陸、在留を許すものとしている。したがって、上陸を許された外国人は、その在留期間が経過した場合は当然我が国から退去しなければならないことになる。そして、出入国法21条は、当該外国人が在留期間の更新を申請することができることとしているが、この申請に対しては法務大臣が「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるときに限り、これを許可することができる。」ものと定められている。これらによると、出入国法においても、在留期間の更新が当該外国人の権利として保障されていないことは明らかであり、法務大臣は、更新事由の有無の判断につき広範な裁量権を有するというべきである(前掲昭和53年最高裁判決参照)。

(三) また、出入国法50条1項3号は、49条1項所定の異議の申出を受理したときにおける同条3項所定の裁決に当たって、異議の申出が理由がないと認める場合でも、法務大臣は在留を特別に許可することができるとし、出入国法50条3項は、上記の許可をもって異議の申出が理由がある旨の裁決とみなす旨定めている。

しかし、①前記のように外国人には我が国における在留を要求する権利が当然にあるわけではないこと、②出入国法50条1項柱書及び同項3号は、「特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき」に在留を特別に許可することができると規定するだけであって、この在留特別許可の判断の要件、基準等については何ら定められていないこと、③出入国法には、そのほか、上記在留特別許可の許否の判断に当たって考慮しなければならない事項の定めなど上記の判断をき束するような規定は何も存在しないこと、④在留特別許可の判断の対象となる者は、在留期間更新の場合のように適法に在留している外国人とは異なり、既に出入国法24条各号の規定する退去強制事由に該当し、本来的には退去強制の対象となる外国人であること、⑤外国人の出入国管理は、国内の治安と善良な風俗の維持、保健・衛生の確保、外交関係の安定、労働市場の安定等、種々の国益の保持を目的として行われるものであって、このような国益の保持の判断については、広く情報を収集し、時宜に応じた専門的・政策的考慮を行うことが必要であり、時には高度な政治的判断を要することもあり、特に、既に退去強制されるべき地位にある者に対してされる在留特別許可の許否の判断に当たっては、このような考慮が必要であることを総合勘案すると、上記在留特別許可を付与するか否かの判断は、法務大臣の極めて広範な裁量にゆだねられていると解すべきである。そして、その裁量権の範囲は、在留期間更新許可の場合よりも更に広範であると解するのが相当である。

したがって、これらの点からすれば、在留特別許可を付与するか否かについての法務大臣の判断が違法とされるのは、その判断が全く事実の基礎を欠き又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであるなど、法務大臣が裁量権の範囲を逸脱し又は濫用した場合に限られるというべきである。

2  そこで、以上の判断の枠組みに従って、原告に在留特別許可を付与しないとした被告法務大臣の判断に裁量権の逸脱又は濫用があるといえるか否かについて検討する必要があるところ、原告は、出入国法2条3号の2、難民条約1条に規定する「難民」に該当するというべきであるから、これを前提として、本件裁決の取消原因について検討する。

3(一)  原告は、前記前提事実のとおり、乗員上陸の許可を受けた者で、当該許可書に記載された在留期限である平成10年7月28日(乙3、8)を経過して本邦に不法に残留していた者であるから、出入国法24条6号所定の退去強制事由に該当するというべきである。

(二)  しかしながら、出入国法61条の2の8によれば、法務大臣は、難民の認定を受けている者に対しては、異議の申出に理由がない場合であっても、その裁量によって在留を特別に許可することができる旨定められている。このような同条の規定ぶり及び出入国法上の難民の意義、性質からすると、当該外国人が出入国法上の難民に当たるか否かは、法務大臣が在留を特別に許可することをせずに出入国法49条1項に基づく異議の申出に理由がない旨の裁決をするか否かについて判断する場合に当然に考慮すべき極めて重要な考慮要素であるというべきである。

ところが、被告法務大臣の本訴における主張からすれば、被告法務大臣が原告が出入国法上の難民に該当する者であることを考慮せずに本件裁決を行ったことは明らかである。すなわち、本件裁決は、原告が出入国法上の難民に該当するという当然に考慮すべき極めて重要な要素を一切考慮せずに行われたものといわざるを得ない。

したがって、本件裁決は、その裁量権の範囲を逸脱する違法な処分というべきである。

(三)  さらに、前記のとおり、難民条約32条1項は、「締約国は、国の安全又は公の秩序を理由とする場合を除くほか、合法的にその領域内にいる難民を追放してはならない。」と規定し、難民条約33条1項は、「締約国は、難民を、いかなる方法によつても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない。」と規定している。

被告法務大臣は、原告が出入国法上の難民に該当するのであるから、本件裁決が上記規定に反する結果とならないかについても吟味する必要があったところ、このような吟味をしたことをうかがわせる事情はない。

したがって、この点においても、本件裁決は、被告法務大臣の裁量権の範囲を逸脱する違法な処分というべきである。

4  以上によれば、本件裁決は、被告法務大臣の裁量権の範囲を逸脱する違法な処分であるから、取消しを免れないというべきである。

六  争点5(本件退令処分の適法性)について

法務大臣は、出入国法49条1項による異議の申出を受理したときには、異議の申出が理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければならず(同条3項)、主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときには、速やかに当該容疑者に対し、その旨を知らせるとともに、出入国法51条の規定する退去強制令書を発付しなければならない(出入国法49条5項)。

そうすると、本件裁決が違法である以上、これに従ってされた本件退令処分も違法であり、取消しを免れないといわざるを得ない。

第四結論

よって、原告の本訴請求のうち、本件裁決及び本件退令処分の各取消しを求める請求は、いずれも理由があるからこれらを認容し、本件難民不認定処分の取消しを求める請求は、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条、64条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 菅野博之 裁判官 市原義孝 裁判官 近道暁郎)

別紙当事者の主張の要旨

1 争点1(難民該当性の有無)について

(一) 原告の主張

(1) ミャンマーの一般情勢及び在日の活動家に対する迫害のおそれ等について

ア ミャンマーにおいては、昭和63年(1988年)9月18日の軍事クーデターにより国家法秩序回復評議会(以下「スローク」という。)が全権を把握して以降、強権的な支配が続いており、現在に至っても政治的自由は認められずに、人権抑圧の状態が継続している。

イ 平成2年(1990年)5月に、総選挙が行われ、アウン・サン・スーチーが率いる国民民主同盟(以下「NLD」という。)が約8割の議席を占めて勝利したにもかかわらず、スロークは政権を委譲しなかった。

ウ スロークは、平成8年(1996年)5月及び同年9月に、NLD主催の議員総会や党員総会の開催を妨害し、それぞれ多数のNLDの関係者を拘束した。また、スロークは、平成8年(1996年)6月、NLDを非合法団体とし、その活動を妨害する法律を制定したほか、同年12月には、大規模な学生による示威活動に対して、武装警察隊等を動員して強権的に押さえ込み、多くの参加者を逮捕、拘留した。

エ 平成8年(1996年)12月25日には、ガバーエーパゴタで政府要人を狙った爆弾事件があったが、その際、スロークは、この事件は学生により実行されたと指弾し、背景に全ビルマ学生民主戦線がいるとして、同月の示威活動にかかわった学生を捜査した。

平成9年(1997年)4月には、P2中将の自宅に届けられた小包が爆発し、P2中将の長女が死亡するという事件が起きた。スロークは、上記爆弾事件について、在日の幾つかの反政府組織がこの犯行を企てたと発表し、a所属のP3及びP4を爆弾事件の犯人として特定した。

オ スロークは、平成9年(1997年)11月15日に、国家平和発展評議会(SPDC。なお、以下では、改組の前後を区別することなく、「スローク」という。)に名称を変更した。

スロークは、平成10年(1998年)にも、500人以上のNLDのメンバーを拘束し、民主化運動の指導者のアウン・サン・スーチーが首都ヤンゴンから離れることを妨害し、アウン・サン・スーチーを強制的に連れ戻すなどした。また、外国人18人が、民主化を訴えるビラを配ったという理由で、警察官に拘束された。

カ ミャンマー政府は、平成11年(1999年)にも、民主化運動が起こることを警戒し、多くの民主化活動家・元活動家を拘束した。

治安当局は、平成12年(2000年)8月に、アウン・サン・スーチーほかNLD幹部が他のメンバーを訪ねるためヤンゴンを離れると、強制的に連れ戻し、アウン・サン・スーチーを12日間自宅に軟禁し、ヤンゴンにあるNLDの党本部を家宅捜索した。

また、同年9月、アウン・サン・スーチーとNLD副議長のP5がマンダレーを訪れようとした際、ヤンゴン駅から退去強制させられ、P5は、軍情報部基地に連行されて拘留され、他方、アウン・サン・スーチーとNLD中央執行委員は自宅軟禁となった。また、NLD支援者を含む100人近くが逮捕された。

キ ミャンマーにおける基本的人権の抑圧状況について、国連特別報告官P13氏による「ミャンマーの人権状況」と題する報告(甲3)には、「司法当局は軍によって統制されており、基本的な表現の自由、結社と集会の自由が法律に基づいて違法とされている。1950年の非常事態法や1975年の国家保護法のような漠然とした言葉によって表現された法律が、平和的な政治活動を行った市民を逮捕するために使われ続けている。」などと記載されている。

ク また、ミャンマーにおける拷問の実態について、アムネスティ・インターナショナル発行の「ビルマ(ミャンマー):制度化された拷問」においては、ミャンマーでは、政治囚や少数民族が拷問や虐待を受けることが日常化しており、アムネスティ・インターナショナルは12年以上にもわたってその事実を報告してきたこと、ミャンマー政府は、拷問は国内法に反していると主張し、一貫して拷問の事実を否定しており、ミャンマーには尋問中の拷問や虐待を禁じる刑法の条文もあるが、アムネスティ・インターナショナルの知る限り、これらの条文に違反しているとして罰せられた者はいないこと等が報告されている。

ケ 前記エの事件以降、在日の反政府組織に所属している活動家は、スロークから、大きな迫害の危険にさらされることになった。

なお、aは、昭和63年9月に、ミャンマー政府の民主化運動に対する弾圧による死者を弔う会に集まった在日ミャンマー人たちによって結成されたが、その後、ミャンマーの軍事政権に反対し、ミャンマー民主化運動への支援を行う団体として活動してきた。平成7年には、aの構成員を中心として、gが結成された。

(2) 原告の個別事情について

ア 原告のミャンマーにおける活動状況

原告は、ミャンマーで大規模な民主化闘争が起きた昭和63年8月当時、通信制の大学で就学しながら、鉱業省の下にあるミャンマー宝石公社で働いていたが、鉱業省の他の公社のメンバーとも連携して、デモに参加した。

軍事クーデターにより原告らの運動も押さえられてしまった昭和63年9月末ころ、上司から、政治活動についての質問事項と今後二度と政治活動をしないという宣誓が記載された書面に記載するように求められた。原告は、デモ活動については10回位参加したなどと少なめに回答し、政治活動をしないという宣誓書に署名した。

イ 原告の日本における活動状況

(ア) 原告は、平成4年から香港の船会社で船員として稼働していたが、平成7年から、外国において、日本におけるミャンマーの軍事政権に対する反政府活動の中心的機関誌であるβが送られてくるようになり、原告は、それを読み、日本での民主化運動の内容を知り、日本に渡って民主化運動にかかわりたいと思うようになった。

(イ) 原告は、平成10年7月21日に、船員として来日した際に、すぐにβの編集長であり、原告のいとこでもあるP1に連絡し、P1の居宅に連れていってもらったが、そこは、bの事務所とβの事務所を兼ねていた。原告は、βの作成作業を見て、P1と共に、日本で反政府活動に従事しようと決意し、以後、ミャンマーの民主化活動に従事した。

(ウ) 原告は、来日後、βについて、出版スタッフに近い存在として、P1と共に、出版を続けた。なお、βは、ミャンマー政府から反政府の機関誌として敵視されており、平成▲年▲月▲日付けミャンマー国営新聞「ミャンマーアリン」誌上でも、反政府の雑誌と指摘されている。

(エ) 原告は、平成11年7月か8月ころから、反政府の評論や詩などを執筆し、日本で発行された雑誌である「β」、「δ」、「ε」や、韓国で発行された反ミャンマー政府の雑誌「ζ」等において、発表した。原告の執筆した文章は、内容がラディカルであるのが特徴である。原告の執筆した文章や詩は、次第に、βなどの反政府の雑誌に頻繁に掲載されるようになり、執筆活動が原告の反政府活動の重要な部分を占めた。

原告はP6というペンネームを用いたが、そのペンネームは広く知られている。

(オ) 原告は、平成12年6月、軍事政権の指導者の一人であるキン・ニョン第一書記(キン・ニョン中将)が小渕元首相の葬儀に来日した際に、「抑圧されたビルマ国民」の名で、ミャンマーの軍事政権を批判し、葬儀に参加した主要国首脳がキン・ニョン第一書記が肩を並べて歩くべきではないと主張する内容の書簡を各国大使館にファクシミリで送信した。原告は、同年▲月▲日には、βに評論を執筆、掲載し、軍事政権を批判して、この機を生かして行動を起こそうと呼びかけた。原告は、同年7月17日には、沖縄サミットに参加した主要国首脳や日本の首相官邸に対し、友人の一人が草稿を書き、原告が加筆訂正した、違法な軍事政権に対して行動を起こすよう要請する書簡を、「日本での反軍事・民主化グループ」の名で、メールにより送付した。

原告は、同年9月25日、ビル・クリントンアメリカ合衆国大統領、アル・ゴア同副大統領、トニー・ブレア英国首相に対し、武力でミャンマー軍事政権を排除し、国際司法裁判所の決定によって必要な行動を起こすように要請する書簡を送付した。この書簡の差出人は、「独裁政治と戦う民主化グループ」としたが、当時原告が居住していた住所とマンションの部屋番号を記載して書留で送付した。

原告は、平成13年3月に、ブッシュアメリカ合衆国大統領とトニー・ブレア英国首相に対して、ミャンマーの軍事政権に対して直ちに必要な行動を取るように要請する書簡を送付した。

(カ) 原告は、来日後、在日ミャンマー大使館前のデモや集会を含めて、多くのデモや集会に参加した。

なお、デモ参加者の間では、デモの様子を在日ミャンマー大使館関係者が撮影していることは公知の事実となっている。

原告も、平成12年1月に、現在は在日ミャンマー大使館に勤務している原告のかつての同僚と他の2名と共に食事をした際、その在日ミャンマー大使館員から3枚ほど写真を撮られた。

(キ) 原告は、平成12年からはbに加入し、同年12月に、bやaなど4団体が統合して、cが設立されると、cに加入して反政府活動を続けた。

原告は、平成14年2月24日には、それまでの活動が認められて、cの中央執行委員会のメンバーに抜擢され、副書記長を選出する選挙に僅差で敗れた同年12月22日まで、その職務に従事した。

原告は、東日本センターから仮放免された後の平成16年12月12日に開かれたcの会議で、15人の中央執行委員の一人に選任され、調査研究担当となった。このとき、選任されたメンバーは、cの発行する月刊誌「γ」の平成▲年▲月号でも紹介され、原告の写真も掲載された。

(ク) 原告は、在日のミャンマー人工場労働者の人権保護組織であるd及び同組合が改称したe(以下、改称の前後を問わず「d」という。)のメンバーである。この組合は、ミャンマーとタイの国境地帯で労働問題を通じてミャンマーの民主化を実現すべく活動しているfの下部組織であり、ミャンマー政府から認められていない団体である。

平成▲年▲月▲日には、dがNHKの「おはよう日本」の番組の「κ」という特集で放映され、原告の姿が映し出された。

(ケ) 原告は、東日本センターに収容されている間も活動を行った。平成16年5月30日には、ミャンマーの軍事政権に抗議する24時間のハンガーストライキを行い、原告が声明文を書き、収容中の仲間に署名をしてもらった。また、原告は、7月19日の殉職者の日(アウン・サン将軍が暗殺された日)に向けて、平成16年7月5日には、祖国の英雄であるアウン・サン将軍たちの成果を軍事政権がだめにしたことを強く避難する声明文を書き、在日の民主化活動団体に送った。

ウ 原告の難民認定申請について

原告が平成12年9月25日にビル・クリントンアメリカ合衆国大統領、アル・ゴア同副大統領及びトニー・ブレア英国首相に対して送付した書簡の内容は、軍事行動を求めるものであって、これまでになく過激なものであり、かつ、この書簡は当時原告が居住していた住所とマンションの部屋番号を記載して送付されたものである。原告は、上記書簡を改めて読み返してみて、国家反逆罪が適用される過激な内容のものであり、自分の住所も記載したことから、恐怖を感じた。

また、原告は、当初、難民認定申請をするために来日したわけではなく、また、来日後、反政府活動に従事した期間が短いうちは、難民の認定を申請しても認められるかどうか分からないという気持ちがあったが、次第にその活動は激しいものになり、自分の活動が知られれば命がないと思うようになった。

そこで、原告は、同年11月17日に、難民の認定を申請した。

(3) 原告の供述・主張の信用性について

ア 原告の主張及び供述の基本的内容は、ほぼ一貫しており、細部において多少の矛盾等は見られるが、この程度の矛盾等は、原告の主張、供述の根幹部分における信用性を何ら否定するようなものではない。

イ 被告法務大臣は、原告のc内での活動について、原告が、中央執行委員会のメンバーに選出されたのは平成14年2月24日であるとする一方、平成13年2月6日付けの入国調査官の審査調書(乙14)には、「今年の1月14日から、c内の広報委員をつとめています。」との記載があるから、原告の供述には信用性がない旨主張する。

しかし、上記審査については、通訳を介して作成されたものであり、審査調書が、原告の供述のすべてを正確に記載しているかどうかは不明であり、たとえば、原告が組織の中で行った広報活動について供述したところ、通訳を介して「広報委員」という言葉で記載されたという可能性も考えられるのである。また、仮にcの「広報委員」を務めているという発言があったとしても、それが当然にcの執行委員を務めていることと一致するとは限らないというべきである。

また、被告法務大臣は、平成14年にcの中央執行委員会のメンバーになったときの原告の役割について、原告本人尋問における供述が、原告の陳述書(甲19)の記載及びP1の証人尋問における供述と異なる旨主張する。

しかし、これらの原告やP1の供述は、原告が、平成14年の時点で、c内で、情報の収集、流通にかかわる仕事をしていた点において大筋で一貫しているというべきである。被告法務大臣の前記主張は、失当である。

ウ 被告法務大臣は、原告がP6というペンネームについて、当初、他の人は知らないと供述していたにもかかわらず、次第に、広く知られていると供述するようになったことをとらえて、供述に変遷が見られる旨主張する。

しかし、原告は、その意見や活動について、他の者と議論したりする中で、次第に自分の考えが知られ、また、編集者からの情報によって、次第にペンネームが知られるようになったと認識しているのであって、時間がたてばたつほど、自己のペンネームが知られている可能性が高いものとして認識し、そのように供述することは、むしろ不自然なことではない。

被告法務大臣は、原告がペンネームを自ら明らかにしたことは一度もない旨供述している一方、P1の陳述書(甲48)には、原告がペンネームを自ら明かすようになったと記載されており、この点で両者の供述に矛盾がある旨主張する。

しかし、聴取者と供述者との間に通訳や翻訳が入ることによって、表現に微妙な違いが生じることは少なくない。また、「明らかにする」の意味についても、原告が直接P6は自分のことであると供述するだけでなく、P6が原告のことであることが自然と分かるような言動をすることも含まれていると考えるのが自然である。

そうすると、被告法務大臣の前記主張は、失当である。

エ 被告法務大臣は、原告がとりわけ平成12年9月25日に英米首脳あての書簡(甲10の1)を送付した直後に原告が迫害の危険を差し迫ったものと感じたと主張している点について、それ以前の書簡でも、同様の過激な内容と受け取れる記載がされていること、当初は平成12年6月に難民性を認識した旨述べており、原告の主張は出入国法61条の2第2項違反を理由とする本件難民不認定処分に対抗するための方便である旨主張する。

しかし、平成12年9月25日送付の書簡の表現は、国連の決議、又はアメリカ合衆国及び英国による軍事力の早急な行使を求めているものであり、それまでの表現から一歩踏み込んだものとなっている上、そもそも、重要なのは、原告が上記書簡によって迫害の危険を感じたという主観的な事情である。

しかも、迫害の危険を現実的なものとして感じたのがいつかということは、必ずしも日時をもって特定することができない事柄である。次第に、自らの危険の高まりを感じたような場合には、いつ難民性を認識したかという質問には意味がなく、迫害の危険を感じて、遅滞なく、速やかに難民認定申請をしたかが重要である。そして、原告は、平成12年9月25日に送付した書簡を読み返した後、恐怖を感じた旨供述しているのであって、それまでの活動が危険性のあるものではないとは供述していないのである。

オ 被告法務大臣は、δ誌に原告の書簡が実名入りで掲載された経緯について、実名を使用することを許したとする原告の陳述書(甲31)の記載と、編集者が勝手に実名を使ったとする原告本人尋問における供述との間に矛盾がある旨主張する。

しかし、原告の上記供述ないし陳述は、δ誌の編集者が勝手に実名を使おうとしているのを知ったが、原告はそのまま黙認し、出版後、実際にδ誌上に実名が掲載されたのを確認したという意味であって、一貫しており、上記供述ないし陳述に矛盾はない。

カ 被告法務大臣は、P14が原告を写真撮影したことについて、客観的証拠はない旨主張するが、原告のこの点に関する供述は、当初から一貫しており、詳細かつ具体的で、迫真性があるのであって、その信ぴょう性は認められるべきである。

キ 被告法務大臣は、原告はP15が迫害を受けた事実を主張しているのに対し、原告がP1にあてた手紙(甲39)において、投獄されたとされるP15の姉が、P15が投獄されたのは政治活動と関係がない旨話していると記載しているのであるから、P15が迫害を受けたとする事実すら定かでなく、そのような情報それ自体の信ぴょう性に疑問がある旨主張する。

しかし、この点については、帰国したP16という人物が、λにあるミャンマー人経営のhに手紙を送ってきており、その中で、当局は、デモに参加したP15の写真を見せてP15を投獄した旨伝えてきたとの情報がある。

さらに、重要なのは、原告が、複数の情報筋から、日本から帰国したミャンマー人が、日本で反政府活動をしていたか、反政府活動をしている者を知っているかについて、写真を見せられるなどして詳細に取調べを受けている情報を得ているということである。そのような情報は、情報の入手過程が特定されていることからすると、その信ぴょう性は、極めて高い。

(4) 原告の難民該当性

ア 反政府雑誌への執筆活動による迫害のおそれ

(ア) 原告は、これまで、本国政府を批判し、その打倒を求める詩や評論を書き続け、βその他の反政府雑誌に、その執筆物が掲載されるようになったのであり、原告に対する迫害の危険は明らかである。

(イ) 特に、βは、反政府、民主化情報誌の中心であり、当局からも名指しで公然と批判されている。また、γ、δ及びεも、公然と政府批判を行っている月刊誌である。このような、本国政府から敵視されている雑誌に、公然と政府を批判する詩や評論を掲載し続けたのであるから、迫害の危険は明らかである。

(ウ) さらに、原告の発表する詩や評論は、その内容がストレートで過激である。

(エ) 原告は、執筆物の発表に、P6というペンネームを用いてきたが、これは、原告の父がくれた名前で、通称名のように使われてきた名称である。原告自身は、P6がペンネームであることを公然と発表した覚えはないが、意見交換や話し合いを通じて、次第に、P6が原告のペンネームであることを知る人が多くなったのである。

たとえば、P1は、自己が経営するミャンマー料理店に来るミャンマー人の客との話の中で、会話をした者の半数くらいが、P6のことを知っているようであると話している。

また、原告は、cの月例の会議でカンパをする際、自分のペンネームについて話したことのないP12から、原告が本名でカンパをするか、それとも、ペンネームでカンパをするかを聞かれている。なお、被告法務大臣は、P12なる名前は、尋問において唐突に述べられたものであると主張して、その信ぴょう性を疑うが、過去に適切な質問がされなかったから、本人尋問において初めて供述されただけである。

(オ) 被告法務大臣は、掲載された原告の執筆物が少ないから、原告がミャンマー政府から反政府活動家として把握されているとは認められないとも主張する。しかし、たとえ1本であっても、反政府の雑誌に当局を批判する記事を掲載することがいかに危険なことかは多言を要しない。

イ cのメンバー及び執行委員としての活動による迫害のおそれ

(ア) 原告は、平成14年2月24日、cの第1回年次総会で、cの執行委員会のメンバーに選任された。原告が選出されたのは、正確には、執行委員の補佐的なメンバーであったが、軍事政権は、cの執行委員会のメンバーとその補佐者として選任したものを区別していない。

そもそも、軍事政権は、cを抵抗勢力の筆頭として敵視しているのであるから、cのメンバーであること自体において、既に大きな迫害の危険がある。その上、執行委員あるいはその補佐に選任され、重要な仕事を任されたということになれば、迫害の危険は更に顕著である。

平成▲年▲月にγ誌に、cの中央執行委員会のメンバーあるいはその補佐者に選任された者として名前が掲載された19名のうち、既に難民認定又は在留特別許可を受けた者は13名に上る。執行委員会のメンバーないしその補佐者に選任される者は、それまでの活動が評価されて、推薦により候補者になり、メンバーの投票によって選任されるような人物であるから、迫害の危険は明白である。

(イ) 被告法務大臣は、原告が、cの執行委員会のメンバーになった事実や実名が公表されることはなかったから、平成16年12月に中央執行委員会のメンバーになる以前の時点で、同委員会のメンバーになったことを理由に、原告が本国政府から積極的反政府指導者として把握されていたとは到底認められないなどと主張する。

しかし、cの年次総会報告に、原告は、執行委員会のメンバーに選出されたとして、実名で掲載されているから、被告法務大臣の主張には理由がない。

ウ βの発行に従事していたことによる迫害のおそれ

原告は、来日直後から、βの発行に従事してきた。

被告法務大臣は、原告がβのスタッフではなかったことを指摘するが、そもそもβは、原告を含め、わずか6人で出版を行っているのであり(甲31)、原告は、そのメンバーの一人である。また、当局からすれば、原告も、スタッフと同じく、敵視と監視の対象である反政府の雑誌の出版に常に従事してきたことに変わりはない。

エ デモや集会の参加による迫害のおそれ

(ア) 原告は、来日以来、できる限りのデモや集会に積極的に参加してきた。

(イ) 被告法務大臣は、原告が格別主導的な役割を果たしたとは認められない以上、ミャンマー政府から個別に把握されているとは考え難い旨主張する。

しかし、原告らのデモや抗議行動は、たまに行うものではなく、定期的なものだけで、月曜日から金曜日までの毎日、16時から17時まで、在日ミャンマー大使館と国会の前で実施しており、その都度、大使館内部から、その様子がカメラやビデオに撮影されているのである(原告本人、甲41から44まで)。そうすると、ミャンマー大使館の前で反政府デモを行うことは、それ自体、高い危険を伴うのである。

(ウ) 被告法務大臣は、警備の必要上、大使館員が、常日ごろから監視活動を行っているという見方が可能である旨主張する。

しかし、撮影の目的が、デモ参加者の把握、迫害ではないという根拠はない。さらに、甲第43及び第44号証の写真は、キン・ニョン第一書記(中将)が来日した際、新宿の公園と日比谷公園でデモを行ったとき、中将の同行の人物がデモの様子を撮影している様子を写真に撮ったものであり、警備の必要から行われた撮影ではないことは明らかである。

さらに、原告が東日本センターに収容中に得た情報によれば、日本から帰国した者が、空港で取り調べを受けており、日本のデモ活動等の写真を見せられて、参加者を知らないかと聞かれているとのことであり、日本で撮影された写真が利用されている可能性が極めて高い。

オ 主要国首脳に送付した書簡について

これらの書簡を当局が知る可能性があるか否か以上に、原告の活動がこれらの書簡を各国首脳に頻繁に送付するほど、活発なものであったということができる。

カ P1との関係による迫害のおそれ

原告は、当局から名指しで敵視されている民主化活動運動のリーダーであるいとこのP1と来日以来、活動を共にしてきた。P1には、確実に当局の監視が及んでいることからすると、原告にも当局の監視の目が及んでいると考えるのが自然である。

キ dへの所属による迫害のおそれ

dは、労働問題を通じてミャンマーの民主化を実現すべく活動しているfの下部組織であり、fは、本国政府から認められない団体として指摘されている。また、dの規約でも、ミャンマーの民主化をうたっている。そうすると、少なくとも、dに所属することによって、そうでない場合に比して、迫害の危険が高まることは明らかである。

ク 本国での活動と本国政府による保護を拒否したことによる迫害のおそれ

原告は、本国で反政府デモを行い、その後、反政府活動をしないという書類にサインしただけでなく、その後、何年間も本国へ戻らず、本国政府の保護を拒否し続けたのである。これらは、迫害の危険を更に高めているものである。

ケ 原告の稼働と本国への送金について

原告の本邦における稼働、本国の家族への送金や預金は、原告の難民性とは関係がない。原告は、来日直後から、真しに民主化運動に従事しており、就労目的で来日した者の行動とは相いれない。

コ 原告の家族の状況

原告が、本国の妻に電話をする際、話が政治のことに移ろうとすると、妻が話を変えるという不自然な事実からすると、家族が何らかの嫌がらせを受けている可能性がある。

サ 難民認定申請の時期

原告は、来日後、何年もたってから難民認定申請をしているが、それは、原告が来日後、執筆活動を活発化させ、cの執行委員会のメンバーに選任されるなど、次第に、その活動を活発化させていったからにすぎない。

シ 以上からすると、原告は、本国及び本邦において反政府政治活動をしていたことを理由として、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する者であるということができる。

(二) 被告法務大臣の主張

(1) 原告の本国における活動をもって本国から迫害を受けるおそれがあるとは認められないこと

原告は、本国での活動内容として、昭和63年8月8日にミャンマー国内でデモが起こった際、公務員として職場の仲間と一緒にデモに参加した旨主張ないし供述するが、このような主張ないし供述を裏付けるに足る客観的な証拠はない。

また、原告自身、上記デモに関して、今後政治にはかかわらないという宣誓書を書かされた以降は、公務員を辞めた後も含めて一切政治活動をしておらず、そのためミャンマーで逮捕されたこともないと供述する(乙14、甲31)上、上記デモの参加によって迫害を受ける理由にはならないなどとも供述している(乙14、64)。したがって、本国での活動を理由として迫害を受けるおそれがないことは明らかである。

原告は、平成10年2月20日にミャンマーにおいて真正な旅券の発給を受けて、正規の手続により出国しているのであり(乙1)、また、平成3年にも自ら旅券を申請してこれを取得した旨供述するとともに(乙65)、その後に船員として正規の手続により出国している(乙2)。これらからすると、原告が、当時、積極的な反政府活動家としてミャンマー政府に把握されていなかったこと及びそのように把握されるような人物ではなかったことは明らかである。

(2) 原告の来日目的が本邦での不法就労であったと推認されること

ア 原告が高い政治的意識を有しているとは認められないこと

原告は、来日直後からP1の自宅兼b事務所でβの校正、コンピュータでの写植、編てつ、発送などを行うようになったとしながらも、編集スタッフの一員となっていたものではない。また、来日後約1年9か月を経過した平成12年4月までの間、特定の組織に所属することもなく、その理由も、だれからもメンバーに入れようと勧誘されなかった(原告本人、乙65)などというものにすぎない。

さらに、原告の来日直後の活動も、活動の仕方がよく分からなかったので、デモがあれば参加するという感じであったというものであった(乙16)。

よって、仮に、原告主張の事実が存在したとしても、原告の活動内容は、補助的、消極的なものであるにとどまり、このような活動を行うことが本邦で不法残留となることをいとわなかったほどの強い残留動機であったとは考え難く、高い政治的意識を有して日本での反政府活動を決意したとは到底認められない。

イ 原告が来日直後から不法就労に専念していたこと

他方で、原告は、本邦上陸後間もなく建設作業員として稼働を開始し、その後は飲食店店員として勤務するなどして月収23万円を得、日本で約100万円の預金を有するに至ったと述べている(乙9、14、65、68)。このような供述内容からすれば、原告は、来日当初から継続的に不法就労を行い、蓄財及び本国への送金に専念していたことがうかがわれるのであって、単に、生活のために働いていたとか、政治的活動とは無関係に本国の家族に送金していたというようなものとは認められず、専ら不法就労目的で来日したことが強く推認される。

(3) 原告が本邦でデモに参加していたなどの事実から、本国政府から迫害を受けるおそれがあるとは認められないこと

ア 原告は、平成12年6月に、キン・ニョン第一書記の来日に抗議するデモに先頭に立って参加していたことから、ミャンマーに帰国すれば逮捕されるおそれがあった旨主張する。

しかし、原告がデモにおいて先頭に立っていたとする具体的内容は明らかでない上、原告の供述によれば、原告は、当時、一般党員としてデモに参加していたにすぎない(乙9)のであるから、格別主導的な役割を果たしていたと認められない原告が、ミャンマー政府から個別に把握されているとは考え難い。

なお、ミャンマーの在外公館は、バンコクの大使館が反政府武装集団に占拠されたり、日本やシンガポール等の大使館に爆発物が送付されたり(乙79の1)、クアラルンプールの大使館が火炎瓶で炎上された上、侵入してきた反政府組織の者に、斧で切りつけられて大使館員が負傷するという事件が発生していること(乙79の2及び3)により、警備の必要上、大使館員が、常日頃から監視活動を行っているという見方も可能である。したがって、大使館員によるビデオ撮影の主たる目的が、デモ参加者の把握、迫害であるとまでいうことはできない。

現に、a等に所属し、デモに参加するなどして反政府活動を行い、帰国すれば迫害を受ける旨申し立てていたミャンマー人男性は、不法残留中の妻の体調不良等を理由に自ら早期帰国を希望し、その際、帰国した場合の自身の危険について、何ら心配はない旨明言しているところである(乙80)。

また、オーストラリアや英国の裁判所でも、指導者ではない反政府活動をしたミャンマー人の難民認定申請を認めていない(乙81)。

ミャンマーにおいて民主化運動が展開されてきた期間等を考慮すると、国外でデモ活動等に参加する者は極めて多数に及ぶものと認められるところ、これらの者のすべてが、政府から個別的な迫害の対象とされるような政治活動家であるとは考えられない。

イ 原告は、本人尋問において、平成17年3月以降、在日ミャンマー大使館前で定期的に行われるデモの金曜日の担当者になった旨供述するが、このような供述は処分後の事情を述べるものである上、その供述内容からすれば、裏方的な仕事を行ったにすぎない。したがって、仮にそのような事実があったとしても、デモを主導する立場にない原告が、ミャンマー政府から積極的な反政府活動指導者として把握されているとは考え難い。

(4) 原告が本邦でc中央執行委員会のメンバーに選出された事実があったとしても、このことをもって本国政府から迫害を受けるおそれがあるとは認められないこと

ア 原告は、平成13年2月6日付け調書(乙14)において、「今年の1月14日から、cで広報委員をつとめています。」と供述している一方、原告本人尋問では、この供述について覚えていない旨供述する。

原告がcの組織の構成や執行委員の選出方法等について知悉した上で事実を述べているのであれば、メンバーに選出される1年前に間違った供述をするはずがないのであるから、原告の平成13年2月6日付けの供述調書の供述は、虚偽のものか、組織の構成や執行委員等に関する知識がないことによる誤った供述を行ったか、いずれかである。

イ 原告は、中央執行委員会のメンバーになった際の具体的な活動内容について、「情報宣伝の副情報宣伝担当」(原告本人調書16頁)と供述する一方、「調査する統計の副責任者」(乙16)とも供述する。また、P1は、「原告は補助的なメンバーの一人で、本国国内の状況について分析をしたり、世界各国におけるミャンマーをめぐる動きについて調査、研究を行う執行委員の仕事を補助する仕事をしていた。」(証人P1)と供述している。上記原告の供述には一貫性がないように思われる上、いずれにしても、平成14年に中央執行委員会のメンバーになった段階では、執行委員を補助する仕事を行っていたにすぎず、指導的な役割を担っていたものではない。さらに、原告本人尋問によると、このような事実や実名が公表されることもなかったというのであるから、平成16年12月に中央執行委員会のメンバーになる以前の時点で、原告が、同委員会のメンバーになったことを理由として、本国政府から、反政府活動指導者として把握されたことは到底認められない。

また、原告が平成16年12月に、再度中央執行委員会のメンバーに選任された旨及びそれによって実名等が雑誌に掲載された旨の主張は、処分後の事情を述べるものにすぎず、それ自体失当である。しかも、執行委員とはいえ、その序列は補助員を除く16人のメンバーの中の下から2番目である(甲33)。したがって、原告が本国政府から積極的な反政府活動指導者として把握されていたとは認められない。

(5) 原告が執筆活動等を行っていることをもって本国から迫害を受けるおそれがあるとは認められないこと

ア 原告自身、自らが執筆した詩や随筆等の内容がそれ自体危険であったとは認識していなかった旨を供述していること

原告は、平成12年9月25日に英米首脳あてに送付した書簡の内容が特に激しいものであったことから、自身が難民であることを認識した旨供述する(甲5、乙68)。

また、原告は、本人尋問において、平成12年9月25日に英米首脳あてに送付した書簡に記載した内容と同じような内容の評論をβに掲載したこともあるが、そのときには、英米首脳に書簡を送付したほどの危険は感じなかった旨供述している。

そうすると、原告自身、βに掲載した詩等について、それ自体、ミャンマー政府から反政府活動家として関心を寄せられ、本国に帰国した際に迫害を受けるほどのものとは認識していなかったと認められる。

また、平成11年ころから執筆活動を行っていた原告の詩や評論がβにおいて占める比率は極めてわずかなものとなる上、執筆を開始してから現在までの約6年半の間において、その他に活字化したものは10本程度しかないというのであるから、執筆活動により、原告がミャンマー政府から積極的な反政府活動家として把握されているとはおよそ認められない。

イ 原告のペンネームが露見したとしても、そのことによって迫害のおそれがあるとは認められず、また、露見したという供述自体に疑義がもたれること

原告自身、βに掲載した評論等の内容それ自体について、ミャンマー政府から反政府活動家として関心を寄せられていると認識していなかったこと、及び原告の評論等の雑誌等への掲載頻度が極めてわずかなものであることなどからすれば、仮に、その執筆者が原告であることが露見したとしても、そのことを理由として、原告がミャンマー政府から積極的な反政府活動家として把握されるとは認め難い。

また、原告は、ペンネームが露見したか否かについて、自身の供述を安易に変遷させ、最終的には、自身がペンネームを使っていることは広く知られているなどと供述しているが、このような供述の変遷は、合理的な根拠や客観的な証拠が伴わないものであり、また、P1の供述とも食い違い、かつ、不自然不合理なものである。したがって、実際に原告のペンネームを知っていた者が多数あったとする供述は、信用することができない。

ウ 主要国首脳等に送付したとされる書簡について

原告は、平成12年9月25日に送付した英米首脳あての書簡の内容が過激であったことから、書簡送付直後に自身が難民であると認識した旨供述する。しかし、上記の書簡の内容は、以前に主要国首脳にあてた書簡(甲7の1、9の1)とほぼ同じ内容の記載がされているから、同日に送付した書簡が他の書簡に比して、殊更に過激な内容であるとするのは、妥当でない。

また、原告は、平成12年9月25日送付の書簡のみ、自己の住所を記載して差し出した旨供述するが、原告は上記書簡を本国政府には送っておらず、本邦内から国際郵便で英国及びアメリカ合衆国あてに送付したというのであるから、郵送の過程においてミャンマー政府等が介在する余地はない。

また、原告が前記書簡の存在等が本国政府に知られる危険性がある理由として挙げるのは、いずれも原告の憶測にすぎず、書簡の送付によって、差し迫った危険が生じたとは認められない。

さらに、原告は、前記書簡に記載した過激な内容と同じような内容の評論をβに掲載したこともあるが、原告によると、その内容は、上記書簡の内容とさほど異なるものではないはずであるが、原告は、これについてはさほど危険とは感じなかった旨述べている。

そうすると、前記書簡を根拠に、本国に帰国した際に迫害を受けるおそれがあるとの原告の主張には理由がない。

エ 実名が明かされたとする供述について

原告は、平成▲年▲月▲日付けの韓国において発行された反政府情報誌の「ζ」、同年▲月▲日付けの「δ」誌、及びcの機関誌「γ」の平成▲年▲月号に実名が掲載された旨供述するが、仮に、これらの事実があったとしても、前記各事情は処分後の事情にすぎない。

また、原告は、「δ」誌に実名が掲載された経緯について供述を変遷させており、原告の供述は信用することができない。

(6) 原告とP1の政治活動を同列に論じられるものではないこと

P1は、平成7年ころから既に本邦でβの編集長として活動し、その後、bの会計局長、b議長、c議長を経て、現在もβの編集長とc副議長を兼任しているのである。これに対して、原告の本邦での活動内容は、組織内で積極的、指導的な役割を果たしていないことは明らかである。したがって、原告とP1の活動内容は実質において全く異なることが明らかであって、P1の存在や、P1と行動を共にしたからといって、原告の難民該当性が理由付けられるものではない。

(7) 大使館員に写真を撮影されたとする供述は客観的な裏付けを欠く上、このことをもって本国から迫害を受けるおそれがあるとは認められないことについて

原告は、本国での勤務先の同僚であるP14が、現在ミャンマー大使館に勤務し、この人物と平成12年1月に食事をした際、写真を撮られた旨供述する。しかし、この供述内容を裏付けるに足る証拠はない。むしろ、積極的に反政府活動を行っていることを理由に本国政府当局からの迫害を恐れている立場にあるような者は、本国の政府関係機関ないし政府関係者との接触を避けようとするはずであるから、原告が大使館職員と食事を共にしていたということは、原告が難民ではないことの証左である。

また、原告の本邦での活動内容等からすると、写真を撮られた事実があったとしても、このことによって、ミャンマー政府が原告を積極的な反政府活動家として敵視し、把握したとは考えられない。

(8) 原告がdに所属していることをもって本国から迫害を受けるおそれがあるとは認められないこと

原告の供述によれば、dは、単なる労働組合であって、それ自体、ミャンマー政府から反政府組織として把握されているとは認められない。また、原告の姿が映し出されたとするテレビ番組は、同組合が正式に認められて発足したことなどを伝えるものであって、それ自体、何らの政治目的を表明するものではない。しかも、原告の供述によっても、原告は、コンピュータを操作しているところが映し出されたにすぎないのであり、かつ、原告が映し出されたという事実の立証もないのであるから、これらによって、ミャンマー政府が原告を積極的な反政府活動家として把握したとは認められない。

(9) 帰国後に投獄された者があるとする供述について

日本から帰国したミャンマー人が、ヤンゴン空港において、政治活動へのかかわりの有無やかかわっている者についての取調べを受けているとの原告の供述は、いずれも処分後の事情を述べるものであるから、失当である。また、原告がP1にあてた手紙(甲39)の内容中、投獄されたのはP15という人物だけであるところ、P15の姉に当たる東京都在住のP17は、P15は政治活動と無関係に投獄されたと供述しているのである(甲39)から、P15が迫害を受けたとする事実すら定かでなく、このような情報それ自体信ぴょう性が疑問である。

さらに、原告本人尋問によれば、取調べを受けただけで、逮捕や投獄まではされていない人物もいるほか、原告の活動について取調べを受けた人物がいるとの事実も認められない。そうすると、帰国者の取調べの事実をもって、原告が迫害を受けるおそれがあると認ることはできない。

(10) 原告の本国にいる家族に対する危険が一切ないことについて

仮に、原告の主張するとおり、本国政府が原告のことを迫害すべき中心的な反政府活動家として把握しているのであれば、通常、本国に居住する原告の家族に対し本国政府当局によって何らかの圧力が加えられていることが考えられる。ところが、原告は、本国の家族が自らの反政府活動事実によって身の危険にさらされているといった供述は一切行っておらず、原告の兄及び妻は公務員として現在も公職に就いているとさえ供述している。そうすると、原告の家族は本国で何ら問題なく生活していることがうかがわれ、原告が反政府的な記事を投稿したり、主要国首脳あてに個人的に書簡を書いた事実が本国政府に認識されているとする申立てには信ぴょう性がおよそ認められない。

なお、本国に居住する家族に関し、原告は、仮に自らの難民性が認められて本邦に居住することができることになったとしても、妻子を本邦に呼び寄せることは考えていない旨供述し(乙14)、その理由として、子供が幼少であるために本邦での生活に不安があることを挙げている(乙16)。しかしながら、難民として真に庇護を求めようとするものであれば、本国で危険にさらされている自分の家族を一刻も早く救い出すために自らの下へ呼び寄せようと考えるのが自然であると考えられるところであり、上記のような供述をしていること自体、本国政府当局が原告を迫害すべき中心的な反政府活動家として認識していないことの証左といえる。

(11) 原告の難民該当性について

以上からすると、原告の主張ないし供述は、原告の本国における政治活動に関する部分においても、原告の本邦における政治活動に関する部分においても、迫害のおそれに関する核心部分において信用性を欠いているといわざるを得ない。そうすると、原告について、迫害のおそれがあるという恐怖を抱くような個別、具体的で客観的な事情が合理的疑いをいれない程度に主張立証されているとはいえず、原告が難民であると認めることはできない。

2 争点2(60日条項違反の有無)について

(一) 原告の主張

(1) 出入国法61条の2第2項は、難民認定申請者らに向けられた努力条項であって訓示的な意味しかないこと

ア 難民認定という手続は、裁量によって難民の保護を図るという類のものではなく、き束行為である。そして、き束行為である以上は、難民条約を批准した政府は、難民該当性という要件に更に要件を付加するようなことがあってはならない。

そうすると、60日以内に申請すれば難民であった者が、60日間を超えた瞬間から難民ではなくなるということはあり得ないというべきである。

したがって、期間制限を設けた出入国法61条の2第2項はあくまでも努力条項であり訓示的な規定と考えるべきである。

イ 被告法務大臣は、60日要件が合理的であることの理由として、難民条約等は難民認定手続について具体的な規定を置いていないことから、締約国はいかなる認定手続をも自由に決めることができることを挙げる。

しかし、難民条約等は、締約国が定める認定制度のいかんにかかわらず、条約等が難民と定める者を難民と認定することを締約国に要求しているのであるから、被告法務大臣の前記主張は誤りである。

ウ 被告法務大臣は、60日要件が合理的であることの理由として、時間の経過により、難民の認定が困難になることを挙げる。

しかし、①時間の経過による難民認定の困難化はあくまで一般論として言いうる程度の蓋然性にすぎないこと、②日本に入国した後の期間のみをもって事実証明の難易を論じるのは不適切であること、③被告法務大臣は、申請期間を徒過して難民認定申請を行った者に対しても難民認定を行ったことがあること、及び④出入国法が改正され、難民認定申請の期間制限は撤廃されるに至ったことからすると、被告法務大臣の前記主張は、難民条約等に照らし、許容されない。

エ 被告法務大臣は、60日要件が合理的であることの理由として、庇護を求める者は、速やかにその旨を申し出るべきことを挙げる。

しかし、①被告法務大臣は、速やかに申請すべきであるとして申請を義務付ける理由を示していないこと、②申請者が難民と認定されなければ、本国に送還される危険のある実情を理解していないこと、及び③被告法務大臣の主張は、難民条約の規定する難民の「権利」と矛盾する考え方であることからすると、被告法務大臣の前記主張は、理由とならない。

オ 被告法務大臣は、60日要件が合理的であることの理由として、60日が申請に十分な期間であることを挙げる。

しかし、①上記のような許容性を論じる前提として、60日要件が必要性を有する必要があるが、60日要件には必要性がないこと、②被告法務大臣の前提認識は、難民の置かれた立場やその心理状況についての理解を欠くものであることからすると、被告法務大臣の前記主張は、理由とならない。

(2) 本件難民認定申請は、60日以内の申請であることについて

原告は、平成12年9月25日に送付した英米首脳あての書簡を読み返して、その内容が過激であり、かつ、自己の住所を記載していることから、これがミャンマー政府に知られれば、間違いなく自分は本国で迫害を受けるとの恐怖を感じたものである。すなわち、原告は、上記書簡を送付した直後である、平成12年9月25日に迫害の恐怖を現実のものとして認識するに至ったのである。

そして、出入国法61条の2第2項の60日の起算点は、難民認定申請をする本人が客観的な迫害の危険性を認識した時点から起算すべきである。

そうすると、本件では、難民認定申請は、60日の制限期間内に行われていると認めることができる。

(3) 出入国法61条の2第2項ただし書の「やむを得ない事情」があること

ア 出入国法61条の2第2項ただし書の「やむを得ない事情」については、日本において平穏に生活を送っている等、難民認定申請をした者の生活状況や心理状況等も考慮し、申請期間内に難民認定申請を決意することができなかったとしてもやむを得ない状況が存在した場合にも、これを認めるべきである。

イ 原告は、難民認定制度を知っていても、その制度が自己にも門戸を開いているものとは思えなかったために、難民認定申請をするという行動に出ることができなかったものである。

また、難民認定申請をしても難民認定を受けることができなかった場合、本国に強制送還される結果になる可能性が相当程度予想されるが、本国に帰れば身柄拘束されて拷問を受け、さらには殺害される危険性を感じている原告からすれば、そのような危険を冒してまで難民認定申請をすることにちゅうちょを感じ、中々申請に踏み切ることができなかったのである。ところが、平成12年9月25日に書簡を発送した後、非常な迫害の恐怖を感じたのである。

そうすると、原告には「やむを得ない事情」が認められる。

(二) 被告法務大臣の主張

(1) 60日要件が遵守されただけでは、本件難民不認定処分を取り消すことはできないことについて

ア 東京高裁平成14年(行コ)第42号同15年2月18日判決・判例時報1833号41頁は、難民認定手続において、難民該当性について実質的に調査して審査してもらう難民認定申請者の利益が侵害されたことを前提として、そのような利益を追求するための訴えとしても法律上の利益を認めるのが相当であるとして、当該事案においては、申請期間制限違反の判断の適否のみを取消事由として主張立証すれば足りると判断したものである。そうすると、60日条項違反を理由とする難民不認定処分の取消訴訟における請求原因としては、①60日要件が遵守されたこと、②それにもかかわらず、法務大臣は難民該当性について実質的に調査して審査することを怠ったことも主張することができると解すべきである。そうであるならば、上記の取消訴訟においては、60日要件が遵守されたことが明らかになれば、直ちに、それを理由とする難民不認定処分を取り消すことができるというものではなく、原告である難民認定申請者は、法務大臣において、難民該当性について実質的に調査して審査すべきことに怠りがあったことを主張立証しなければならないと解すべきである。

イ 実際の難民認定実務においては、60日要件の遵守の判断のための資料収集と難民該当性判断のための資料収集は区別されて行われておらず、難民調査官は、難民該当性の有無について実体審理を進めるとともに、60日要件の遵守についても併せて審理している。しかしながら、本件難民不認定処分がされた平成14年4月9日当時、調査及び審査の結果、当該難民認定申請が60日要件に違反するとともに、実体的に見ても、難民に該当しないと判断された場合でも、処分理由としては60日要件違反のみとされることが実務上の慣行とされていた。

ウ 本件についても、難民調査官は、ミャンマー語の通訳を介し、原告の事情聴取を行っており、本件難民不認定処分は、その実質的な調査を踏まえた上で適切に判断されたものであることは難民認定手続において難民調査官が作成した供述録取書(乙64、65、68)の内容からしても明らかである。

エ そうすると、本件難民認定申請の手続においても、被告法務大臣は、原告の難民該当性について、実質的な調査及び審査をしていると認められるものであるから、60日要件が遵守されたことが主張立証されただけでは、本件難民不認定処分を取り消すことはできず、難民該当性について主張立証されなければならないというべきである。

(2) 出入国法61条の2第2項は難民条約に反しないことについて

ア 原告は、出入国法61条の2第2項の申請期限を超えたことのみをもって不認定とすることは、合理的な理由もなく、難民としての保護を求める者が難民かどうかの判断をしないものであって、難民条約に違反する旨主張する。

イ しかし、難民条約及び難民議定書は、難民の定義及び締約国が採るべき保護措置の概要についての規定を設けているものの、難民認定手続については特段の定めを設けておらず、各締約国の立法裁量にゆだねられ、難民条約の締約国は各国の実情に応じた難民認定手続を定めることができる。そして、出入国法61条の2第2項が申請期間の制限を設けているのは、申請者が真に難民条約上の難民であるならば、迫害の恐怖から逃れるために一刻も早く他国の庇護を求めようとするのが通常である上に、認定者の側にとっても、入国後長期間経過後に難民認定申請がされると、入国当時の事実関係を把握することが困難となり、適正かつ公正な認定を行うことができなくなるおそれもあることが考慮されたものである。このような趣旨に照らすと、出入国法が定める上記期間制限には合理的な理由があるというべきである。また、出入国法が定める60日という期間についても、我が国の国土面積、交通、通信機関、入国管理官署の所在地等の地理的、社会的実情に照らして十分な期間というべきであり、その上で申請期間の経過に「やむを得ない事情」がある場合には期間制限を適用せずに難民性の有無を判断することとして個別に救済を図っているのである。

ウ したがって、難民認定申請について原則として60日の期間制限を設けた出入国法61条の2第2項は、合理的な立法裁量に基づいて設けられたものであり、難民条約に反するということはできない。

(3) 本件難民認定申請が申請期間経過後の難民認定申請であることについて

本件難民認定申請は、上陸後2年以上が経過した平成12年11月17日になってされたものであって、出入国法61条の2第2項本文所定の申請期間経過後の難民認定申請であることは明らかである。

(4) 本件難民認定申請に出入国法61条の2第2項かっこ書きの事由が認められないことについて

原告は、平成12年9月25日に英米首脳あてに書簡を送付した後、本国政府から迫害を受けるおそれがあると感じるようになり、同時点において難民となる事由が生じた旨主張する。

しかし、原告によると、上記書簡は実名でされたものでなかった上、各国の反応もなかったのであり、また、上記書簡が実際にアメリカ合衆国大統領らの下に送付されるとはおよそ考えられず、また、原告がそのような書簡をアメリカ合衆国大統領らに送付したことをなぜ本国政府が把握したのか、あるいは把握する可能性があったのかについては何ら明らかでない。

加えて、原告は、本件難民認定申請の当初、平成12年6月にキン・ニョン第一書記が来日したときに難民性を認識し、同年7月にはいとこが弁護士に連絡してくれたが、同年8月半ばに、弁護士から、他にも申請者がいるので待つように言われたので、同年6月には難民認定申請をしなかった旨供述しており(乙64)、また、原告は、原告本人尋問においても、同年6月と同年9月の事実を区別していないようにも思われ、原告は、いつ難民性を認識したのか不明である。

原告が平成12年9月25日に送付した書簡を根拠として60日以内に難民の申請をしたという原告の供述は、出入国法61条の2第2項違反を理由としてされた本件難民不認定処分に対抗するための方便であると強く推認される。

そうすると、同日に上記書簡を送付したことによって、本国政府から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖が原告に生じたとは、考え難い。

(5) 本件難民認定申請に「やむを得ない事情」がないことについて

ア 出入国法61条の2第2項が、本邦において難民の認定申請をする者に対し、上陸した日から原則として60日以内に認定申請を行うことを義務付けたのは、申請者が真に難民条約上の難民であるなら、迫害の恐怖から逃れるために一刻も早く他国の庇護を求めようとするのが通常であるというべきであり、また、認定者の側にとっても、入国後長期間経過後に難民認定申請がされると、入国当時の事実関係を把握することが困難となり、適正かつ公正な認定を行うことができなくなるおそれもあるからである。

このような60日条項の趣旨にかんがみると、その例外を定めた出入国法61条の2第2項ただし書の「やむを得ない事情」とは、病気、交通の途絶等の客観的、物理的事情により、本邦に上陸した日又は本邦にある間に難民となる事由が生じた場合にあってはその事実を知った日から、60日以内に入国管理官署に出向くことができなかった場合や、申請者が、第三国において難民としての保護を求めることを希望し、その目的で当該第三国への入国申請等具体的な手続を行っていたものの、結果的にこれが認められず、その時点では既に申請期間が経過していた場合のように、本邦において難民認定の申請をするか否かの意思を決定するのが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合をいうものと解すべきである。

イ 原告は、平成10年7月21日に上陸期間を1週間とする乗員上陸許可を受けて上陸したものの、我が国に対して庇護を求めることも、難民認定申請をすることもなく、不法残留をして不法就労を続け、上陸後2年以上が経過した平成12年11月17日になってようやく本件難民認定申請をしたものである。原告自身、本邦入国前から、本邦に在住していたいとこを通じて本邦で難民認定申請ができることや60日要件の存在についても承知していた旨を供述しているが(乙32)、原告は、本邦入国後、公の機関に対して何ら庇護を求めることも、難民として保護を求めるための方策や手続についての情報を収集しようと努めた形跡もない。

その一方で、原告は、在留期間の更新、在留資格の変更等の在留するに際し必要な手続を一切行うこともなく、漫然と不法残留を継続し、約2年にわたって不法就労に専心し、本国に居住する原告の家族に対して、少なくとも約150万円の送金をするなどしていた。

このような事実からすれば、原告は、病気、交通の途絶等の客観的、物理的事情により、本邦に上陸した日から60日以内に入国管理官署に出向くことができなかったわけでも、本邦に上陸後、最近になって難民となる事由が生じたわけでもなく、また、原告が第三国において難民としての保護を求めることを希望し、その目的で当該第三国への入国申請等具体的な手続を行っていたこともないのであり、本邦において難民認定の申請をするか否かの意思を決定することが客観的にも困難と認められる特段の事情が原告にあると認めることはできない。

そうすると、原告が出入国法61条の2第2項本文所定の期間経過後に本件難民認定申請をしたことに、同項ただし書所定の「やむを得ない事情」があったとは到底認めることはできない。

3 争点3(本件難民不認定処分の手続上の適法性)について

(一) 原告の主張

(1) 本件難民不認定処分は、原告がなぜ難民として不認定となるのかについて何らの実体的な理由が示されていない。また、本件難民不認定処分によっては、求められている立証がどの程度のものであるのかも不明である。

行政処分をするに際しては、処分の取消訴訟を実効的なものとするための配慮をすべきであるのが当然であり、その意味からも不認定処分をするに当たっては、具体的な理由を明示すべきである。

特に、本件では、60日の起算点をいつであると判断したのかすら不明である。

(2) 申請者が入国後60日を経過した後に申請した事案について、被告法務大臣が、難民かどうかを判断して結論を出している例が幾つもあるのであるから、理由の付し方を変えるのは恣意的である。

(二) 被告法務大臣の主張

(1) 一般的に、法律が行政処分に理由の付記を要求している趣旨は、処分庁の判断の慎重・合理性を担保してその恣意を抑制するとともに、処分の理由を相手方に知らせて不服の申立てに便宜を与える趣旨に出たものであり、理由附記に当たりどの程度の記載をすべきかは、処分の性質と理由附記を命じた各法律の趣旨・目的に照らしてこれらを決定すべきものであるとされている。

難民認定の判断は、申請者が提出した資料に基づいて行われるのであるから、難民であることの立証責任は、申請者が負うべきものであり、また、申請者が出入国法61条の2第2項に規定する60日以内に難民認定申請をしたことや、申請者に同項ただし書の「やむを得ない事情」があることについても、申請者が主張し資料を提出することを求められている。なぜなら、これらのことは、専ら申請者の主張し提出された資料によって判断するほかないからである。

したがって、申請者が主張する事実関係やそれを裏付ける資料によっても、出入国法61条の2第2項に規定する60日以内に難民認定申請をしたこと及び同項ただし書に規定する「やむを得ない事情」があることが認め難い場合には、処分庁である法務大臣としては、その旨の記載をするほかないのであって、その心証形成過程まで記載することを、行政処分の理由付記として法律が要求しているとは解されない。特に、上記「やむを得ない事情」の解釈については、前記2(二)(5)アのとおりであり、行政庁の恣意性が問題となる余地はない。

(2) 本件難民不認定処分は、原告からの難民認定申請は、出入国法61条の2第2項所定の期間を経過してされたものであり、かつ、申請遅延の申立てに「やむを得ない事情」も認められないという理由でされたものであるところ、原告に交付された通知書の理由欄の記載を見れば、その旨が明らかにされており、本件難民不認定処分の理由は明白であって、何ら違法はない。

(3) そうすると、本件難民不認定処分の理由附記に違法はない。

4 争点4(本件裁決の適法性)について

(一) 原告の主張

(1) 出入国法50条1項3号によって在留特別許可を与えるか否かの判断については、被告法務大臣に一定の裁量権が与えられているが、その裁量権はもとより無制限のものではない。他の法条や、人道的見地など一般的価値原則、国際法規等に基づく制約があり、そのような裁量権の限界を超えた処分は裁量権の濫用・逸脱として違法な処分となるというべきである。

すなわち、在留特別許可については、難民条約、拷問等禁止条約、市民的及び政治的権利に関する国際規約、児童の権利に関する条約の諸規定が比例原則を厳格に適用することを求めており、これらは在留特別許可に係る法務大臣の裁量を制約している。

このような在留特別許可の対象となる者としては、本国から迫害を受けている者がこれに該当する。このような者に対し、退去強制令書を発付、執行し、本国に送還することは非人道的扱いであり、当該外国人に対しては在留特別許可により在留資格を与えるべきである。

(2) 前記のとおりのミャンマーの一般情勢等及び原告の個別事情からすると、原告がミャンマーに送還された場合には、これまでの日本における原告の反政府活動に対し、拷問が待ち受けていることは容易に推測される。

そして、前記のとおり、原告は難民と認められるべきであるから、被告法務大臣は、原告の難民性の判断を誤ったものである。

そうすると、本件裁決は、難民条約等の「難民」である原告について、難民条約33条2項に該当する者ではないにもかかわらず、同条1項のいわゆるノン・ルフールマン原則に違反して、本国へ送還しようとするものであることが明らかであるから、法務大臣の裁量権を逸脱ないし濫用するものというほかない。したがって、本件裁決は違法である。

さらに、本件裁決は、拷問等禁止条約3条にも違反するので、取り消されるべきである。

(3) 被告法務大臣は、出入国法61条の2の8の規定は、難民認定を受けている者についても、出入国法24条1項各号の1に該当する者と認定し、退去強制手続を進め得ることを前提としている旨主張する。

しかし、出入国法50条1項が法務大臣の在留特別許可を規定しているにもかかわらず、あえて出入国法61条の2の8が設けられたのは、我が国が難民条約に加入するに際し、その趣旨を我が国の退去強制手続に反映させる必要があったからである。

したがって、出入国法61条の2の8は、在留特別許可について定める出入国法50条1項の特別規定であり、退去強制事由がある者において、「特別に在留を許可すべき事情」がなくても、難民認定を受けている者の場合には、法務大臣は、原則として、特別在留許可を出さなければならない旨を規定したものと解すべきである。

(4) 被告法務大臣は、難民と認定されたことのみをもってその者が当然に在留が認められるものではない旨主張する。

しかし、これは、難民条約の各締約国の難民保護の実務とも、日本政府が内外に宣言している立場にも合致しないものである。

(二) 被告法務大臣の主張

(1)ア 在留特別許可は、出入国法上、退去強制事由が認められ、退去されるべき外国人に恩恵的に与えられ得るものにすぎず、当該外国人に申請権も認められていないものである。在留期間の更新については、出入国法21条3項において「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるとき」に許可することができると規定され、「相当性」という要件が問題となるのに対し、在留特別許可については、出入国法50条1項3号で、「特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき」と規定され、その付与すべき要件が何ら具体的に規定されていないことに加えて、許可するか否かという効果についても裁量が認められている。これらを勘案すれば、法務大臣の在留特別許可の許否に関する裁量の範囲は、在留期間更新の拒否に関する裁量の範囲よりも質的に格段に広範なものであることは明らかである。

イ また、在留特別許可の許否を的確に判断するには、外国人に対する出入国の管理及び在留の規制目的である国内の治安と善良な風俗の維持、保健・衛生の確保、労働事情の安定など国益の保持の見地に立って、当該外国人の在留中の一切の行状等の個人的な事情のみならず、国内の政治・経済・社会等の諸事情、国際情勢、外交関係、国際礼譲など諸般の事情が総合的に考慮されなければならないのであり、このような見地から出入国法は、在留特別許可の付与を国内及び国外の情勢について通暁する法務大臣等の裁量にゆだねたものであり、この点からも、その裁量の範囲は極めて広範なものであることが明らかというべきである。

ウ 以上のとおり、在留特別許可は、在留期間更新における法務大臣等の裁量の範囲よりも質的に格段に広範なものであるから、違法となる事態は容易には考え難く、極めて例外的にその判断が違法となり得る場合があるとしても、それは、在留特別許可の制度を設けた法の趣旨に明らかに反するなど極めて特別な事情が認められる場合に限られると解すべきである。

(2) 出入国法は、難民認定手続と退去強制手続の関係について何ら規定していない。むしろ、出入国法61条の2の8の規定は、難民認定を受けている者についても出入国法24条1項各号の1に該当する者と認定し、退去強制手続を進め得ることを前提としていることからすれば、難民認定申請をしていること又は難民認定を受けていること自体は、退去強制手続を当然停止せしめるものではない。外国人が難民であると認定されたとしても、難民と認定されたことをもって当然に在留が認められるものではない。

さらに、難民の認定に関する不服申立手続と退去強制事由の認定に関する不服申立手続は、全く別個の手続が設けられている上、時間的に見ても、退去強制手続中又は退去強制令書発付後に難民認定申請することも可能であって、難民認定手続が常に退去強制手続に先行するものではないことからすれば、退去強制手続と難民認定手続は全く別個独立の手続である。

この理は、難民条約は、難民条約に定義する難民を締約国が受け入れるか否かについては何も規定しておらず、他の外国人の入国一般の場合と同様にその主権に関することであり、自由に決定し得るものであると解されていることからも首肯しうる。

(3) 本件について見ると、原告は、乗員上陸許可を受けた後に所在不明となり、その後、在留期限である平成10年7月28日を超えて本邦に不法に残留したものであるから、出入国法24条6号所定の退去強制事由に該当する。

また、在留特別許可の制度を設けた法の趣旨に明らかに反するような特別な事情が認められ、在留特別許可を与えないで法務大臣等が出入国法49条5項所定の異議の申出に理由がない旨の裁決をしたことが違法になる場合があるとしても、前記のとおり、原告は、本国に送還された場合にも迫害されるおそれがあるとはいえず、他に、在留特別許可を認めるべき特別の事情があるとは認められない。

したがって、法務大臣に対する異議の申出には理由がなく、本件裁決には何らの違法はない。

(4) なお、原告は、原告に在留特別許可を付与せず、ミャンマーに送還することは拷問等禁止条約3条に違反する旨主張する。

しかし、原告が「拷問が行われるおそれがあると信ずるに足りる実質的な根拠」と主張するところは、難民該当性に係る主張と同じであるところ、原告について、帰国した場合に迫害を受けるおそれがあるとは認められないことは既に主張したとおりである。

5 争点5(本件退令処分の適法性)について

(一) 原告の主張

(1) 前記のとおり、本件裁決は違法であって、取り消されるべきものである以上、本件裁決を手段として退去強制という同一の目的を達成する関係にあり、本件裁決と結合してその効果を完成する一連の行為を構成する本件退令処分も、その前提要件を欠くものとして違法である。

(2) また、法務大臣が在留特別許可をせず、異議に理由がない旨判断する裁決がなされた場合にも、主任審査官には、退去強制令書を発付するかどうか、いつの時点で発付するかについて裁量があると解すべきである。

なぜなら、出入国法24条は、同条各号の定める退去強制事由に該当する外国人について、出入国法第5章に規定する手続により「本邦から退去を強制することができる」と規定しているからである。すなわち、このような法律の文言からすると、行政に効果裁量を認める趣旨であるといえるし、そのことが、権力発動要件が充足されている場合にも行政庁はこれを行使しないことができるとの考え方(行政便宜主義)とも合致する。また、外国人の出入国管理を含む警察法の分野においては、一般に行政庁の権限行使の目的は公共の安全と秩序を維持することにあるから、その権限行使はこれを維持するための必要最小限度にとどまると考えられている(警察比例の原則)からも、上記のように解釈すべきである。

(二) 被告主任審査官の主張

(1) 退去強制手続において、法務大臣から異議の申出には理由がないとの裁決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、出入国法49条5項により、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであるから、退去強制令書を発付するにつき裁量の余地は全く存在しない。また、本件においては、主任審査官の送還先に関する判断にも誤りはない。

したがって、被告主任審査官が原告に対してした本件退令処分は適法である。

(2) 原告は、主任審査官に裁量権を認める根拠として、行政便宜主義及び警察比例の原則を挙げる。

しかし、主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由があると裁決した旨の通知を受けたときは、出入国法49条4項により、直ちに、当該容疑者を放免しなければならず、その一方、法務大臣から、異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、同条5項により、「すみやかに」当該容疑者に対し、その旨を知らせるとともに、退去強制令書を発付しなければならないのであるから、退去強制令書発付につき主任審査官に対し行政便宜主義が適用される余地はない。

また、比例原則は、裁量権の限界を画するものとされているが、前記のとおり、主任審査官に退去強制令書発付に関する裁量はないから、比例原則が、退去強制令書発付の裁量を限界付ける法理として働くことはあり得ない。また、在留資格のない外国人の退去強制手続において、警察法の分野における警察比例の原則が適用されるとの原告の主張は、採用することができない。

-以上-

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例