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東京地方裁判所 平成15年(行ウ)416号 判決 2006年6月13日

原告

A・B

原告訴訟代理人弁護士

渡部典子

渡部典子訴訟復代理人弁護士

児玉晃一

両事件被告(以下、単に「被告」という。)

法務大臣 杉浦正健

第二事件被告(以下、単に「被告」という。)

東京入国管理局主任審査官 大和田髙道

被告両名指定代理人

川島喜弘

他8名

被告法務大臣指定代理人(第一事件)

玉村幸雄

主文

一  被告法務大臣が原告に対し平成一四年五月一三日付け(告知は同年六月七日)でした難民の認定をしない処分を取り消す。

二  被告法務大臣が原告に対し平成一六年三月一日付け(告知は同年五月七日)でした出入国管理及び難民認定法四九条一項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。

三  被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成一六年五月七日付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。

四  原告のその余の請求を棄却する。

五  訴訟費用のうち、原告に生じた費用は四分し、その一を原告の負担とし、その二を被告法務大臣の負担とし、その余を被告東京入国管理局主任審査官の負担とし、被告法務大臣に生じた費用は三分し、その一を原告の負担とし、その余を被告法務大臣の負担とし、被告東京入国管理局主任審査官に生じた費用は被告東京入国管理局主任審査官の負担とする。

事実及び理由

第一請求

(第一事件)

一  主文第一項と同旨(以下同項記載の処分を「本件不認定処分」という。)

二  被告法務大臣が原告に対し平成一五年三月二〇日付け(告知は同年四月八日)でした本件不認定処分に係る原告の異議の申出は理由がない旨の決定(以下「本件決定」という。)を取り消す。

(第二事件)

一  主文第二項と同旨(以下同項記載の裁決を「本件裁決」という。)

二  主文第三項と同旨(以下同項記載の処分を「本件退令発付処分」といい、被告東京入国管理局主任審査官を「被告主任審査官」という。)

第二事案の概要

本件は、アフガニスタン国(以下「アフガニスタン」という。)国籍を有する原告が、出入国管理及び難民認定法(平成一六年法律第七三号による改正前のもの。以下「法」という。)の規定に基づいて、被告法務大臣に対し、難民の認定の申請をしたところ、同被告から、難民不該当を理由に本件不認定処分を受け、これに対する異議の申出についても理由がない旨の本件決定を受けたこと(第一事件)、また、原告に対する退去強制手続において、同被告から、法四九条一項に基づく異議の申出には理由がない旨の本件裁決を受け、被告主任審査官から、本件退令発付処分を受けたこと(第二事件)について、本件不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分には原告が難民であることを看過した違法があり、本件決定には理由不備の違法があると主張して、これらの各処分等の取消しを求める事案である。

一  法令等の定め

(1)  難民の意義等

法において、「難民」とは、難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)一条の規定又は難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)一条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいう(法二条三号の二)。

ア 難民の意義

難民条約一条A(2)及び難民議定書一条二項は、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」は難民条約の適用を受ける難民であると定めている。

イ 事由の消滅に基づく終止条項

難民条約一条Cは、「Aの規定に該当する者についてのこの条約の適用は、当該者が次の場合のいずれかに該当する場合には、終止する。」と定め、「次の場合」として、「(5) 難民であると認められる根拠となった事由が消滅したため、国籍国の保護を受けることを拒むことができなくなった場合」及び「(6) 国籍を有していない場合において、難民であると認められる根拠となった事由が消滅したため、常居所を有していた国に帰ることができるとき。」を掲げている。

ウ 追放及び送還の禁止

難民条約三三条一項は、「締約国は、難民を、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない。」と定めている。

(2)  難民認定手続

法は、難民認定手続について、次のように定めている。

ア 法務大臣は、本邦にある外国人から申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定(以下「難民の認定」という。)を行うことができる(六一条の二第一項)。

イ 難民の認定の申請(以下「難民認定申請」という。)は、その者が本邦に上陸した日(本邦にある間に難民となる事由が生じた者にあっては、その事実を知った日)から六〇日以内に行わなければならない(六一条の二第二項本文)。ただし、やむを得ない事情があるときは、この限りでない(同項ただし書)。

ウ 法務大臣は、難民の認定をしたときは、当該外国人に対し、難民認定証明書を交付し、難民の認定をしないときは、当該外国人に対し、理由を付した書面をもって、その旨を通知する(六一条の二第三項)。

エ 難民の認定をしない処分(以下「難民不認定処分」という。)に不服がある外国人は、その通知を受けた日から七日以内に、法務大臣に対し異議を申し出ることができる(行政不服審査法の規定による不服申立てをすることはできない。六一条の二の四第一号)。

オ 法務大臣は、四九条一項の規定による異議の申出(後記(3)エ)をした者が難民の認定を受けている者であるときは、五〇条一項に規定する場合(後記(3)カ)のほか、四九条三項の裁決に当たって、異議の申出が理由がないと認める場合でも、その者の在留を特別に許可することができる(六一条の二の八)。

(3)  退去強制手続

法は、退去強制手続について、次のように定めている。

ア 在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本邦に残留する者(二四条四号ロ)その他の法に規定する事由に該当する外国人については、法に規定する手続により、本邦からの退去を強制することができる(同条)。

イ 外国人が前記アの事由(以下「退去強制事由」という。)に該当すると疑うに足りる相当の理由があるときは、入国警備官は、主任審査官が発付する収容令書により、当該外国人を収容することができ(三九条)、収容した外国人は入国審査官に引き渡さなければならず(四四条)、引渡しを受けた入国審査官は、審査の結果、当該外国人が退去強制事由に該当すると認定したときは、速やかに、主任審査官及び当該外国人にその旨を知らせなければならない(四七条二項)。

ウ 入国審査官の認定に対し、当該外国人から口頭審理の請求(四八条一項)があったときは、特別審理官は、口頭審理を行い(同条三項)、その結果、入国審査官の認定が誤りがないと判定したときは、速やかに、主任審査官及び当該外国人にその旨を知らせなければならない(同条七項)。

エ 特別審理官の判定に対し、当該外国人から異議の申出(四九条一項)があったときは、法務大臣は、当該異議の申出が理由があるかどうかを裁決し、その結果を主任審査官に通知しなければならない(同条三項)。

オ 主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、速やかに、当該外国人に対し、その旨を知らせるとともに、退去強制令書を発付しなければならない(四九条五項)。

カ 法務大臣は、四九条三項の裁決に当たって、異議の申出が理由がないと認める場合でも、当該外国人が永住許可を受けているとき(五〇条一項一号)、かつて日本国民として本邦に本籍を有したことがあるとき(同項二号)、その他法務大臣が特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき(同項三号)は、当該外国人の在留を特別に許可することができる(同項。以下この許可を「在留特別許可」という。)。

キ 退去強制を受ける者は、原則として、その者の国籍又は市民権の属する国に送還されるものとするが(五三条一項)、法務大臣が日本国の利益又は公安を著しく害すると認める場合を除き、退去強制を受ける者が送還される国には難民条約三三条一項に規定する領域の属する国を含まないものとする(五三条三項)。

二  前提となる事実

(1)  原告の国籍等

原告は、一九七〇(昭和四五)年ころにアフガニスタンで出生したアフガニスタン国籍を有するタジク人男性である。

(2)  アフガニスタンの歴史的沿革

ア タリバンが台頭する以前の経緯

アフガニスタンは、パシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人などの民族が混在する多民族国家である。一九一九(大正八)年に王制の下で英国からの独立を達成し、一九七三(昭和四八)年七月に共和制に移行後、一九七八(昭和五三)年の政変により共産主義の人民民主党(PDPA)政権が成立した。

一九七九(昭和五四)年一二月のソ連軍侵攻後、ソ連の支援下で共産主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義を中心とするムジャヒディン(「イスラム聖戦士達」の意)がソ連及び政権に対する抵抗を開始し、アフガニスタン国内は内戦状態となった。

一九八六(昭和六一)年五月にカルマルからナジブラに政権が引き継がれたが、一九八九(平成元)年二月にソ連軍が撤退すると、一九九二(平成四)年四月にはナジブラ政権は崩壊し、ムジャヒディン各派による連立政権が成立した。

その後、ムジャヒディン各派同士での主導権争いにより内戦が激化した。

イ タリバンによる国土の掌握

一九九四(平成六)年末ころ、イスラム原理主義の新興勢力であるタリバンが台頭し、急速に支配地域を拡大して、一九九六(平成八)年九月には首都カブールを占拠した。タリバンは、ムハマンド・オマル師を最高指導者とする集団であり、パキスタンの「マドラサ」と呼ばれる宗教学校の教師や学生を中心として結成されたといわれ、アフガニスタンの最多民族であるパシュトゥン人を主体とする。

こうしたタリバンの進攻に対し、ムジャヒディン各派は反タリバン勢力として統一戦線(北部同盟)を結成し、両者の間での激しい内戦が継続した。後にタリバン崩壊後の暫定行政機構の中核をなすに至る北部同盟は、タジク人を主体とするラバニ=マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心とする。

タリバンは、一九九八(平成一〇)年に入り、北部の要衝地であるマザリシャリフなどを支配下におさめ、二〇〇一(平成一三)年四月初め現在では、国土の九割を掌握していたといわれている。

ウ タリバン政権の崩壊とその後の状況

二〇〇一(平成一三)年九月一一日に米国で発生した同時多発テロを契機として、米軍を中心とする空爆及び北部同盟等による攻撃が行われ、同年一二月、タリバンがアフガニスタンにおいて統治機能を喪失し、同月二二日に暫定行政機構が成立し、その後、ロヤ・ジルガ(国民大会議)を経てカルザイ大統領を首班とする移行政権が成立した。

(3)  原告の本邦への入国及び在留状況

ア 入国の状況、在留資格及び在留期間

(ア) 原告は、二〇〇〇(平成一二)年一〇月一九日、イラン・テヘランから、イラン航空八〇〇便により、北京を経由し、新東京国際空港(以下「成田空港」という。)に到着し、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田空港支局入国審査官から、在留資格「短期滞在」、在留期間九〇日の上陸許可を受け、本邦に上陸した。

(イ) 原告は、二〇〇一(平成一三)年一月三一日及び同年五月一七日、在留期間更新許可を受け、これにより、原告の最終の在留期限は、二〇〇一(平成一三)年七月一六日までとなった。

(ウ) 原告は、二〇〇〇(平成一二)年一二月一五日及び二〇〇一(平成一三)年一月一七日、被告法務大臣から、活動の内容を「収入を伴う事業を運営する活動又は報酬を受ける活動」とする資格外活動許可を受け、許可の最終の期限は、二〇〇一(平成一三)年四月一七日までであった。

イ 外国人登録の状況

(ア) 原告は、二〇〇〇(平成一二)年一一月一六日、東京都中央区長に対し、同区月島《番地省略》A野館を居住地として外国人登録申請をし、同年一一月二八日、外国人登録証明書の交付を受けた。

(イ) 原告は、二〇〇一(平成一三)年二月一日、静岡県沼津市長に対し、同市千本東町《番地省略》を居住地として居住地変更登録を行った。

(ウ) 原告は、二〇〇一(平成一三)年四月一六日、東京都中央区長に対し、同区月島《番地省略》A野館を居住地として居住地変更登録を行った。

(エ) 原告は、二〇〇一(平成一三)年七月一六日、静岡県裾野市長に対し、同市富沢《番地省略》B山荘二〇一号を居住地として居住地変更登録を行った。

(オ) 原告は、二〇〇一(平成一三)年七月二三日、東京都中央区長に対し、同区月島《番地省略》A野館を居住地として居住地変更登録を行った。

(カ) 原告は、二〇〇一(平成一三)年一一月三〇日、川崎市川崎区長に対し、同区日進町《番地省略》C川マンション三三三を居住地として居住地変更登録を行った。

(キ) 原告は、二〇〇二(平成一四)年六月一一日、東京都あきるの市長に対し、同市野辺《番地省略》を居住地として居住地変更登録を行った。

(ク) 原告は、二〇〇三(平成一五)年八月一五日、静岡県裾野市長に対し、同市富沢《番地省略》を居住地として居住地変更登録を行った。

(4)  難民認定手続、退去強制手続及び刑事手続の経緯

ア 原告は、二〇〇〇(平成一二)年一二月一一日、被告法務大臣に対し、「人種」、「特定の社会的集団の構成員であること」及び「政治的意見」を理由とした迫害を受けるおそれがあるとして、難民認定申請(以下「本件認定申請」という。)をした。

イ 東京入管難民調査官は、二〇〇一(平成一三)年七月二三日及び同年八月二一日、本件認定申請について、原告から事情を聴取した。

ウ 東京入管入国警備官は、二〇〇一(平成一三)年一〇月一二日及び同年一一月一三日、違反調査のため、原告から事情を聴取した。

エ 東京入管入国警備官は、二〇〇一(平成一三)年一一月二八日、被告主任審査官から、原告について法二四条四号ロ(不法残留)容疑での収容令書の発付を受け、同年一一月三〇日、同令書を執行して原告を東京入管収容場に収容し、同日、原告を東京入管入国審査官に引き渡した。被告主任審査官は、同日、原告の仮放免を許可した。

オ 東京入管入国審査官は、二〇〇一(平成一三)年一一月三〇日及び二〇〇二(平成一四)年一月二三日、原告について違反審査をし、その結果、同年一月二三日、原告が法二四条四号ロ(不法残留)に該当する旨の認定をし、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、口頭審理を請求した。

カ 原告は、二〇〇二(平成一四)年四月二八日、法違反(不法残留)の被疑者として、神奈川県川崎警察署員によって逮捕され、同日、釈放された。

キ 被告法務大臣は、二〇〇二(平成一四)年五月一三日、本件認定申請について、本件不認定処分をし、同年六月七日、原告に対し、「あなたの『人種』、『特定の社会的集団の構成員であること』及び『政治的意見』を理由とした迫害を受けるおそれがあるという申立ては証明されず、難民の地位に関する条約第一条A(2)及び難民の地位に関する議定書第一条二に規定する『人種』、『特定の社会的集団の構成員であること』及び『政治的意見』を理由として迫害を受けるおそれは認められないので、同条約及び同議定書にいう難民とは認められません。」との理由を付して、これを通知した。

ク 原告は、二〇〇二(平成一四)年六月一三日、被告法務大臣に対し、本件不認定処分について異議の申出をした。

ケ 原告は、二〇〇二(平成一四)年九月一二日、前記カの法違反(不法残留)被疑事件について、起訴猶予処分となった。

コ 東京入管難民調査官は、二〇〇三(平成一五)年一月二〇日、前記クの異議の申出について、原告から事情を聴取した。

サ 被告法務大臣は、二〇〇三(平成一五)年三月二〇日、前記クの異議の申出に理由がない旨の本件決定をし、同年四月八日、原告に対し、「貴殿の難民認定申請につき再検討しても、難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、他に、貴殿が難民条約上の難民に該当することを認定するに足りるいかなる資料も見出し得なかった。」との理由を付して、これを通知した。

シ 東京入管特別審理官は、二〇〇四(平成一六)年二月一三日、原告について口頭審理をし、その結果、同日、前記オの認定に誤りがない旨の判定をし、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、被告法務大臣に対し、異議の申出をした。

ス 被告法務大臣は、二〇〇四(平成一六)年三月一日、前記シの異議の申出は理由がない旨の本件裁決をし、その通知を受けた被告主任審査官は、同年五月七日、原告にこれを通知するとともに、送還先をアフガニスタンとする本件退令発付処分をした。

セ 東京入管入国警備官は、二〇〇四(平成一六)年五月七日、本件退令発付処分に係る退去強制令書を執行して原告を東京入管収容場に収容した。

(5)  本件訴訟の提起及び仮放免等

ア 本件訴訟の提起

原告は、二〇〇三(平成一五)年七月七日に第一事件を、二〇〇四(平成一六)年七月二日に第二事件をそれぞれ提起した。

イ 仮放免等

(ア) 東京入管入国警備官は、二〇〇四(平成一六)年一一月四日、原告を入国者収容所東日本入国管理センター(以下「東日本センター」という。)に移収した。

(イ) 原告は、二〇〇五(平成一七)年五月一〇日、東日本センター所長から、指定住居を「静岡県裾野市富沢《番地省略》B山荘二〇一」とする仮放免許可を受け、同日、東日本センターから出所した。

三  本件の争点の概要

本件の争点は、本件不認定処分、本件決定、本件裁決及び本件退令発付処分の各取消原因の存否であり、その前提として、原告の難民該当性(原告が、法二条三号の二に規定する「難民」、すなわち、難民条約の適用を受ける難民に当たるかどうか。)が争われている。原告の難民該当性に関する当事者の主張の要旨は、後記四及び五のとおりであり、各処分等の取消原因に関する当事者の主張は、次の(1)ないし(4)のとおりである。

(1)  本件不認定処分の取消原因について(第一事件)

ア 原告の主張

後記四のとおり、原告は難民であるにもかかわらず、この点を看過してなされた本件不認定処分には、難民条約及び法に違反する違法があり、取消しを免れない。

イ 被告法務大臣の主張

後記五のとおり、原告は難民であるとは認められないから、本件不認定処分は適法である。

(2)  本件決定の取消原因について(第一事件)

ア 原告の主張

難民不認定処分に係る異議の申出についての決定にも、行政不服審査法四八条において準用する同法四一条が適用され、理由の付記が要求される。その理由の内容は、いかなる事実関係に基づいていかなる法規を適用して異議の申出を理由がないと判断したのかを、異議申出人においてその通知書自体から了知し得る程度のものでなければならず、いかなる事実関係を認定して異議申出人がこれに該当しないと判断したのかが具体的に記載されなければならない。

このような基準に照らすと、本件決定は、適法な理由付記がなされたとはいえないから、取消しを免れない。

イ 被告法務大臣の主張

本件決定は、処分に対する行政不服審査法上の異議申立てについての決定としての性質を有するものであり、同法四八条において準用する同法四一条一項が適用され、理由の付記を要するものと解されるところ、一般的には、異議の申出を棄却する場合は、原処分の付記理由と相まって原処分を相当として維持する理由が明らかにされれば足りるというべきである。

これを本件についてみると、本件決定には前記のとおりの理由が付されており、本件不認定処分の付記理由(そもそも難民であることの立証責任は申請者が負うものであり、被告法務大臣は、証拠関係を総合しても申請者が難民であることを基礎付ける事実の存在が認められないときは、難民と認定することができないのであるから、難民であると認める具体的根拠がない旨を記載するだけで、法の要求する難民不認定処分の理由付記としても十分である。)をも考慮すれば、それを維持する理由は明らかであるから、本件決定の理由付記は適法というべきである。

(3)  本件裁決の取消原因について(第二事件)

ア 原告の主張

後記四のとおり、原告は難民に該当する。一般には、在留特別許可を付与するか否かは被告法務大臣の裁量に属するものではあるが、他方、日本国は、難民条約の締結国としてその履行義務を負う。したがって、被告法務大臣といえども、難民に対しては、難民条約の趣旨に従って、在留特別許可を付与すべきか否かを判断しなければならない。

原告は、アフガニスタン以外の第三国への入国の許可を得ておらず、アフガニスタン以外に原告の送還を受け入れる国はない。とすれば、被告法務大臣が原告に在留特別許可を付与せずに異議の申出に理由がない旨の裁決を行えば、この裁決を受けて、被告主任審査官が、原告に対して、送還先をアフガニスタンとして退去強制令書を発付することが予定されている。あるいは、アフガニスタンに原告を送還すれば迫害を受けるおそれがあるものとして、被告主任審査官ないし入国警備官が、原告を送還不能と判断するとすれば、結局、退去強制令書の収容部分の効力による無期限の収容という事態を招来することになる。以上によれば、被告法務大臣は、原告に在留特別許可を付与すべきこととなる。

したがって、本件裁決は、原告の難民該当性の判断を誤り、又は法令の解釈を著しく誤ったものであるから、取消しを免れない。

イ 被告法務大臣の主張

在留特別許可に係る被告法務大臣の裁量の範囲は、極めて広範なものであり、その判断が裁量権の逸脱濫用に当たるとして違法と評価されるのは、法律上当然に退去強制されるべき外国人について、なお我が国に在留することを認めなければならない積極的な理由があったにもかかわらずこれが看過されたなど、在留特別許可の制度を設けた法の趣旨に明らかに反するような極めて特別な事情が認められる場合に限られる。

原告は、法二四条四号ロ所定の退去強制事由に該当し、退去強制されるべき者であり、また、後記五のとおり、原告は難民に該当せず、原告が本国に送還されたとしても迫害を受けるおそれはなく、本国への送還が難民条約等に違反することもない。したがって、原告に在留特別許可を認めるべき積極的な理由があるとはいえないから、被告法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に、裁量権を逸脱濫用した違法があるということはできない。

(4)  本件退令発付処分の取消原因について(第二事件)

ア 原告の主張

退去強制令書は、法四九条一項の異議の申出に理由がない旨の被告法務大臣の裁決が適正に行われたことを前提として発付されるものであるところ、本件において前提となる裁決が取り消されるべきものであることは前記(3)のとおりであって、本件退令発付処分もその根拠を欠くものであるから、取消しを免れない。

また、後記四のとおり、原告は難民であり、本件退令発付処分は、原告が迫害を受けるおそれのあるアフガニスタンに対して原告を送還するものであって、難民条約三三条一項及び法五三条三項に違反するから、取消しを免れない。

イ 被告主任審査官の主張

主任審査官は、法務大臣から法四九条一項の異議の申出は理由がない旨の裁決をした旨の通知を受けたときは、同条五項の規定により速やかに退去強制令書を発付しなければならず、裁量の余地はないから、本件裁決が適法である以上、本件退令発付処分も当然に適法である。

なお、容疑者が本邦から退去強制される者に当たるかどうかの判断は、最終的には法四九条に基づく被告法務大臣の裁決によって確定するのに対し、被退去強制者をどこに送還するかについては、主任審査官が法五三条に基づいて判断するものであって、両者には相違があることなどにかんがみると、送還先の記載は、退去強制令書の不可欠の一部ではあるが、法的には他の記載部分とは可分のものと位置付けられるべきものであって、仮に送還先の記載に違法があるとしても、その違法は、退去強制令書全体の効力に直ちに影響を及ぼすものではないと解すべきであるから、裁判所は、取消訴訟において、送還先の記載に違法が認められると判断した場合においても、可分である送還先の記載部分のみを取り消すことが可能であるにとどまり、退去強制令書発付処分自体を取り消すことはできない。もっとも、本件においては、後記五のとおり、そもそも原告は難民に該当せず、原告が本国に送還されたとしても迫害を受けるおそれはないから、本国への送還が難民条約三三条に違反することはない。

四  難民該当性に関する原告の主張

(1)  アフガニスタンにおける表現の自由

ア タリバン政権下における表現の自由

アフガニスタンにおける表現の自由は、タリバン政権以前の共産主義政権及びムジャヒディン政権時代にも既に危機に瀕していたが、タリバン政権下ではそれが全く存在しない状態となった。タリバンは、人物の写真撮影及びテレビ報道を禁止し、アフガニスタンの状況は、アフガニスタン国外に避難したジャーナリスト又は外国人ジャーナリストによって、わずかに伝えられるのみであった。そして、アフガニスタンの状況を撮影するジャーナリストたちには、タリバン政権による迫害が加えられていた。

これらのことは、米国国務省国別人権報告、「国境なき記者団」年次報告、国連人権委員会特別報告者報告などによって明らかである。

イ タリバン政権崩壊後の表現の自由

本件不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分がされた当時のアフガニスタンにおいては、表現の自由を巡る状況はある程度改善したものの、未だ多くの制限が存在していた。

ヒューマンライツウォッチの記事によれば、アフガニスタンにおいて、治安部隊がジャーナリストを脅迫及び逮捕するなど報道に対する攻撃が急増し、ジャーナリストたちが公に指導者を批判する記事を発表することを躊躇するような恐怖の雰囲気を作り出しているということである。また、同記事は、カブールの外にいる軍事司令官も、ジャーナリストを脅迫している事実を指摘している。

米国国務省国別人権報告によれば、移行政権の下で制定された新憲法が言論及び報道の自由を定めているにもかかわらず、高官の一部は、特に地方レベルでは、ジャーナリストを脅迫し、その報道に影響を与えようとしている。外国メディアも、イスラム教について否定的なコメントをすること及び大統領に対する脅迫とみなされる題材を出版することを禁止されている。政府機関の一部がジャーナリストを厳しく取り締まっており、情報局のメンバーによるジャーナリストの脅迫も起きている。

デンマーク移民局事実調査団報告の中で紹介されている、EU特別代表、国際危機グループ(ICG)、ノルウェー代理大使、アフガニスタン独立人権委員会(AIHRC)、アフガニスタン弁護士組合、ジャーナリスト中央協会、アフガニスタン協力センター(CCA)などの多数の情報源は、政権、軍閥、イスラム教を批判した者に対して脅迫、虐待の危険があることを示している。

(2)  原告の難民該当性

ア 原告のジャーナリストとしての活動

(ア) 原告は、一九九三(平成五)年ころ、アフガニスタン・ジャーナリスト協会の一員となった。同協会の中心メンバーの中には、ビジャンプール氏、シナ博士などがいた。

(イ) シナ博士は、カブール大学の医学部の元教授で、多数政党制を前提とした穏健で民主主義的な政治思想を持っており、タリバンなどが過去の文化を清算的に見て、破壊するような考え方に対して反対もしていた。原告は、一九九四(平成六)年ころから、シナ博士らが中心となって発刊した雑誌「ファルハング・アリアナ」に記事を書くようになり、その中で、北部同盟の人権侵害などを批判した。しかし、この雑誌は、当時のムジャヒディン政権から発行を禁止され、雑誌の中心メンバーの一人であったハーレット・タルジョマーン氏は殺された。チーフ・エディターであったシナ博士は、タジキスタンに避難して、「ファルハング・アリアナ」誌の発行を続け、さらに、タジキスタンで新しく「SINA」という雑誌を発行するようになった。

原告は、一九九九(平成一一)年ころ、アフガニスタン北部のタハールというところにいたときに、「アイホナム 歴史の傷」というタイトルの記事を執筆した。この記事の中で、原告は、アイホナムという場所を支配するマスード派の司令官、マスードの親戚であるカブール古文書館長、イスラム統一党のハリリ党首などがアフガニスタンの文化遺産を盗掘していることを批判した。この記事は実名入りで発表され、この記事を載せた「ファルハング・アリアナ」誌(ただし、アフガニスタンではなくタジキスタンで発刊されたもの)は、マスード派の司令官から、「この記事は司令官だけでなくマスード派全体とムジャヒディン勢力全体を侮辱するものである」として脅迫を受けた。原告は、後にイランに避難した後、シナ博士と電話で話をしたときに、マスード派の司令官の配下が事務所に来て上記のような脅迫をしたことを聞いた。

なお、原告は、難民調査官に対し、上記記事に原告の実名の記載があるという本来原告に有利な事実について否定したが、これは、原告は記事を書いた際匿名で掲載するように依頼しており、原告自身は自分の書いた記事が掲載された雑誌そのものは見ていなかったために、自分の名前は掲載されていないものと思い込んでいたためであって、不合理なことではない。

また、原告は、難民調査官に対し、上記記事が掲載された雑誌を一九九五(平成七)年一月一五日発行の「SINA」誌であると説明したが、これは、原告は掲載された記事そのものを見たことがなく、難民調査官による事情聴取の当時においては、資料を受け取って間がなく本文部分を訳すのに集中していたため、同時に受け取った「一九九五年一月一五日」という記載のある「SINA」誌の表紙に引きずられたからに過ぎない。「ファルハング・アリアナ」誌は、アフガニスタンで発禁処分となった後、タジキスタンでも発行されていたのであるから(原告が難民調査官に対して「ファルハング・アリアナ」が最後に発行された日を「一九九四年の終り頃か一九九五年の初め頃」と述べたのは、アフガニスタンにおける最後の発行について述べたものである。)、原告が「SINA」誌に掲載されたのか「ファルハング・アリアナ」誌に掲載されたのかについて混乱したとしても、不自然ではない。

(ウ) さらに、タリバンがアフガニスタンを支配するに至ってからは、原告は、アフガニスタン及びタリバン支配の現状を世界に知らせるため、アフガニスタン各地におけるタリバンの人権侵害の状況をビデオに撮影して海外に持ち出し、また、撮影されたビデオを海外に持ち出した。こうしたビデオは海外において放映され、原告のジャーナリストとしての活動は、「反イスラム」であるとしてタリバンに把握されていた。原告が避難先のイランで再会した知り合いのC・D氏(以下「D」という。)とともにアフガニスタンに潜入して撮影したビデオ、及び、アフガニスタンにおいて他のアフガニスタン・ジャーナリスト協会のメンバーが撮影し原告とDが日本に持ち込んだビデオは、いずれも日本のテレビ局において放映されている。その内容は、タリバンのアフガニスタン北部攻撃のために一般人が犠牲になっていることや、タリバンの公開処刑の様子など、当時のタリバンによるアフガニスタン支配の状況を伝えるものであって、これを視聴した者は、タリバンの残虐さを知ることになる。原告がアフガニスタンの状況についてビデオを撮影し(人物も当然に写っている。)、あるいはビデオを日本に持ち込んでテレビ放送させることは、表現の自由に関するタリバンの政策(前記(1)ア)に真っ向から刃向かうものであって、反タリバン、反イスラムと見なされ、処罰の対象となることは明らかである。現に、原告は、テレビ放映後、見知らぬパキスタン人から、「なぜあのようなビデオを流すのか。あなたのやっていることは反タリバンではなく反イスラムだ。」というような批判を受け、また、アフガニスタン国籍のパシュトゥン人から、「あのビデオはパシュトゥン人を残酷に見せており、パシュトゥン人とイスラム双方に対する侮辱だ。」と言われているのである。

なお、被告らは、テレビ放映を見ても原告が特定できないと主張する。しかしながら、日本人にとっては人種の異なる外国人である原告の顔が見分けにくいとしても、同国人には、原告の顔の識別は容易である。現に原告は、見知らぬパキスタン人から顔を識別され、声をかけられているのである。さらに、米国に対する同時多発テロ及びアフガニスタン空爆後、アフガニスタンに対する日本の世論の関心の高まりを受け、日本にいるアフガニスタン人ジャーナリストとして、原告は、NHK、TBS、フジテレビのニュース番組等に出演し、東京新聞に署名入りの記事を執筆しているところ、当時日本にいたアフガニスタン人ジャーナリストといえば原告とDくらいであって、日本のアフガニスタン人社会において原告が特定されていることは自明である。そして、日本にいたアフガニスタン人やパキスタン人を通じて、原告の活動が本国のタリバンにも知られていたと考えるのが当然である。したがって、被告らの主張には根拠がない。

(エ) そこで、原告は、ジャーナリストとしての活動を理由にタリバンに生命、身体に危害を加えられる可能性が極めて高かったことから、二〇〇〇(平成一二)年一二月、本件認定申請を行ったものである。そして、この可能性は、後記(3)のとおり、各地において軍閥が武力衝突をし、タリバンの残党が復活を目指し、タリバンと同じ思想を持つ者が多数存在している、本件不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分がなされた当時の不安定なアフガニスタンにおいても変わらない。さらに、二〇〇二(平成一四)年一二月七日付けの朝日新聞で、新憲法の基本理念にイスラム法(シャリア)による統治を明文化しようという運動や、宗教警察の復活の動きが目立ってきたことが報道されたこと、二〇〇三(平成一五)六月にアフガニスタン地元紙がラバニ元大統領らを「イスラム教を悪用する指導者」と批判したところ、宗教保守派の影響下にある最高裁判所が、カルザイ大統領の同意を得て編集長、副編集長を逮捕したこと、同年一〇月に予定されていた新憲法制定のためのロヤ・ジルガが、宗教的保守派の要請によって同年一二月まで延期されたこと、起草中の政党法草案において、「反イスラム」と認定された場合には、政党登録拒否や解党命令を出せるなどの条文が盛り込まれていたことなどに表れている宗教保守派の動きは、タリバンを批判してきたジャーナリストにとって、原理主義者であるタリバンや宗教保守派による迫害のおそれを抱かせるに十分な根拠となる。

また、原告の活動は、単にタリバンのみならず、現在のアフガニスタン政権の中心にいる旧ムジャヒディン勢力を批判するものであったから、タリバン政権崩壊後の表現の自由の制限状況(前記(1)イ)に照らすと、原告がジャーナリストとしての活動を理由に迫害を受けるおそれは、現政権下においても極めて高い。この点、被告らは、現政権が盗掘には反対の立場を表明していることをもって原告の迫害のおそれを否定するが、問題は原告が有力者を批判したことにあるのであって、何を理由に批判したかということは問題ではない。

イ 原告が旧ソ連の大学を卒業していること

原告は、旧ソ連の大学を卒業しているため、アフガニスタンにおいては、共産主義者とみなされ(政治的意見)、迫害されるおそれがある。

このおそれは、タリバン政権下であっても、かつてのムジャヒディン勢力を中心とする現在の政権下においても、変わりがない。

(3)  アフガニスタンにおける状況の変化について

ア 本質的な変化について

(ア) ひとたび難民該当性を取得した者が、その後の事情の変化を理由に難民該当性を否定されるためには、その変化は本質的なものでなければならない。難民条約の「事由の消滅に基づく終止条項」(一条C(5)及び(6))の適用については、出身国における状況の変化が本質的なものであること、すなわち変化の性格が根本的、実効的及び永続的なものであることを、関連する専門的機関からの情報などの客観的かつ立証可能な方法によって確かめなければならないものと解されており、難民認定手続中に申請者の出身国の状況に何らかの変化があった場合において、その変化を理由に申請者の迫害の恐怖を否定する際にも、同様に解するべきである。

また、原告が本件認定申請をしたのは、アフガニスタンにおいて暫定政権が成立した二〇〇一(平成一三)年一二月より一年前の二〇〇〇(平成一二)年一二月のことであるにもかかわらず、原告に対し本件不認定処分がなされたのは二〇〇二(平成一四)年五月である。この間、原告より数か月以上遅れて難民認定申請を行った多くのアフガニスタン国籍者が、二〇〇一(平成一三)年一二月より前に処分を受けており、その結果、処分時がタリバン政権崩壊よりも前になっている。このような不公平を回避するためにも、本質的な変化の有無を検討することが必要である。

(イ) 前述したタリバン政権崩壊後のアフガニスタンにおける表現の自由の状況(前記(1)イ)のほか、本件不認定処分がされた二〇〇二(平成一四)年五月の時点では、ロヤ・ジルガすら開催されておらず、その後、同年六月に行われたロヤ・ジルガのための代表者の選任過程と会議も、軍閥司令官及び指揮官による不正や虐待、脅泊によって損なわれており(ヒューマンライツウォッチ世界報告)、本件裁決及び本件退令発付処分がされた二〇〇二(平成一四)年五月の時点では、正式の大統領選挙及び議会選挙は行われておらず、同年六月に予定されていた選挙についても延期の可能性が示唆されていたことからすると、真に自由で民主的な選挙に基づく政権が樹立されたとは到底言えないこと、暫定政権の統治はカブール市内にしか及んでおらず、地方においては軍閥が権力を握っており(ヒューマンライツウォッチ世界報告)、そのカブールですら、安全と尊厳が保たれる本国帰還のための、十分に安全で安定した状況ではないこと(アムネスティ・インターナショナル報告書)、人権を守るべき警察は、有効に機能しておらず、むしろ一部の警察官は人権侵害を行っていること(アムネスティ・インターナショナル報告書)、その他、治安状況の悪化、タリバンなどの過激派武装組織の復権、各地での敵対地域及び地方司令官の派閥抗争の激増などの事実(アムネスティ・インターナショナル報告書)からすれば、本件不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分がなされた当時のアフガニスタンにおいては、本質的な変化は存在しなかったものというべきである。

イ タリバンが復活する可能性について

(ア) アフガニスタンでは、二〇〇三(平成一五)年一月以降、タリバン再結集の動きが広まっており、国連安全保障理事会は、同年一〇月一三日、タリバンによるとみられる襲撃事件が頻発していることを受けて、アフガニスタンに派兵されている多国籍軍「国際治安支援部隊」(ISAF)の展開地域を、首都カブールとその近郊から、アフガニスタン全土に拡大することを決議した。

(イ) タリバン台頭の要因は、以下に述べるように、パキスタンなど外国による支援とパシュトゥン民族主義に求められるが、本件不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分がなされた当時には、これらの要因は全く解消されておらず、今後もタリバンの残党が「タリバン」として、あるいはその名を変えて復活する可能性は極めて高いものといえる。

a パキスタンなど外国による支援

タリバンが短期間に急速な発展を遂げた最大の要因は、パキスタンをはじめとした諸外国による多大な物的、人的な支援があったことが、多くの論者によって指摘されている。パキスタンのタリバンへの援助は、軍事物資の供与や「マドラサ」出身学生のタリバン参加に止まらず、タリバンの作戦の立案や指揮の補助にまで及んでいる。さらに、イスラム原理主義とワッハーブ派を強める政策を持つサウジアラビアからの援助もある。

パキスタンによるタリバン支援の理由としては、①パキスタン政府要人とタリバンとが「デオバンド主義」(一九世紀後半に英領インド北中部の町デオバンドで誕生したスンニ・ハナフィ学派の分派で、シーア派を異端とみなし、歌舞曲や聖者崇拝を厳格に禁止する。)と呼ばれる共通の宗教的な背景を持っていること、②パキスタンとアフガニスタンとの国境のパシュトゥン人居住地域を独立させるパシュトゥニスタン運動への配慮から、パキスタンがアフガニスタンに対してパシュトゥン人優遇政策を継続して採っていること、③パキスタンが、アフガニスタンを対インド戦における武器の備蓄や軍用機の緊急避難などのための後方支援基地(「戦略的深み」)として不可欠であるとの軍事上の考えを持っていることが挙げられる。

これらの要因にはタリバン政権崩壊後も何らの変化もない。

b パシュトゥン民族主義

パシュトゥン人は、かつて三〇〇年にわたりアフガニスタンを支配してきたものであり、パシュトゥン人を主体とするタリバンの勝利は、パシュトゥン民族主義を刺激し、失地回復運動としての意味を持っていた。このことも、タリバンがアフガニスタン国民の四割近くを占めている最多勢力のパシュトゥン人に受け入れられ、大きな勢力を獲得していった理由の一つである。

カルザイ政権においてイニシアチブを握っているのは、タジク人勢力であるとされており、このような状況がパシュトゥン民族主義を刺激し、失地回復運動が起こる土壌があることは、タリバン出現時と何ら変わるところがない。現に、旧タリバン政権でサウジアラビア(タリバンが多大な援助を受けていた国である。)の大使であった者らが二〇〇五(平成一七)年二月にカルザイ大統領の下を訪れ、訴追されない方針を伝えられると、近くカブールで政党を発足させることになった。彼らは、「タリバンがアフガンの大勢力であることに変わりがない。」「政権の中枢を握っているのは、アフガンの現実を知らない外国帰りやタジク人だ。」などと語っている。彼らが仮にオマル師の武装闘争路線を踏襲しないとしても、彼らの教義であるデオバンド主義まで放棄するものとは考えられない。このような勢力が首都カブールにおいて政党を結成し、同じパシュトゥン人であるカルザイの政権基盤を支えていくということは、パシュトゥン民族主義に基づく失地回復運動に再度つながる危険が現実化しようとしていることを意味するものである。

(4)  原告の来日及び難民認定申請の目的

ア 来日の目的

原告はDとともに、NHKの依頼によりアフガニスタンの現状のビデオを撮影し、在イラン日本大使館から渡航証明書の発給を受けて来日したものであって、原告が不法就労のためではなくジャーナリストとして活動をするために来日したことは明らかである。

この点、被告らは、「NHK及び外務省から招聘を受けた」という原告の主張が事実に反し信用できない旨主張する。しかしながら、原告及びDは、外務省の招聘を受けたビジャンプールの通訳、同行者として渡航証明書の発給を受けたのであり、外務省及びNHKのサポートがなければ在イラン日本大使館から渡航証明書の発給を受けることはできなかったのであるから、原告が自らを「NHK及び外務省から招聘されて来日した」と考えるのは当然である。

イ 難民認定申請の目的

原告は、来日当初において難民認定申請を行う意図はなかった。これは、原告が、イランに戻ることができると考えていたためである。しかしながら、来日後に在日本イラン大使館において査証申請を行ったところトランジットのビザしか発給されないことが判明し、難民に対し寛容なカナダへの査証申請もうまくいかなかったため、アフガニスタンへの帰国を避けるためにやむを得ず、コミュニケーションの問題はあるものの、日本において難民認定申請を行ったのである。

すなわち、原告が難民認定申請を行ったのは、不法残留を理由に、迫害のおそれがあるアフガニスタンに帰国させられることを回避するためであるから、その意味において、原告が難民認定申請を行った目的が日本における在留資格を取得することにあったのは当然である。

原告は、アフガニスタンに帰れば自己の生命に危険が及ぶと考えて弁護士に相談したのであり、その上で、入国後六〇日以内に難民認定申請をするようにとの弁護士のアドバイスを受け、これに従ったものであって、原告には迫害を逃れる切迫性がないなどという被告らの主張には根拠がない。

ウ 就労目的と難民該当性

仮に原告が日本において就労する意図を有していたとしても、それが難民該当性を否定することにはならない。

原告のように国籍国を有する者についての難民該当性の判断に当たって検討されるべきは、当該人が当該国籍国に戻ったとすれば迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情の有無及び通常人が当該人の立場に置かれた場合に当該国籍国に戻ったとすれば迫害の恐怖を抱くような客観的事情の存否であって、これら以外の事情は難民該当性の判断にとって単なる事情にすぎないものである。

(5)  まとめ

以上のとおり、原告のジャーナリストとしての活動と、アフガニスタンにおける表現の自由の状況を併せかんがみれば、原告が、国籍国であるアフガニスタンに戻ったとすれば迫害を受けるおそれがあるという主観的な恐怖を有するのみならず、通常人が原告の立場に置かれた場合にも、国籍国であるアフガニスタンに戻ったとすれば迫害の恐怖を抱くものと認められることは明らかであって、このような原告の有する迫害の恐怖については、原告のジャーナリストとしての活動(政治的意見、特定の社会的集団の構成員であること)を理由とするものであることが明らかであるから、原告が旧ソ連の大学を卒業していることをも併せ考慮すると、原告は、難民に該当するものというべきである。

五  難民該当性に関する被告らの主張

(1)  原告がタリバン残党から迫害を受けるおそれがあるとは到底認められないこと

ア アフガニスタンの一般情勢について

(ア) タリバンは組織としても政権としても既に崩壊していること

タリバンは、二〇〇一(平成一三)年一二月六日、本拠地であるカンダハルを明け渡し、同月二二日には、日本政府を始め各国から承認されたアフガニスタン暫定行政機構が成立し、二〇〇二(平成一四)年六月には、アフガニスタンの最高意思決定機関であるロヤ・ジルカが開かれ、暫定政権のカルザイ議長が暫定政権を継ぐ移行政権の大統領に就任して、その後二年間のアフガニスタンの正式国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」とし、国際的にもアフガニスタンの制度、政策に対する支援が行われていること、パキスタンやイランに逃れていたアフガニスタン避難民らが本国への帰還を始め、二〇〇四(平成一六)年五月九日の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表では、二〇〇二(平成一四)年以降のアフガニスタンへの帰還者は三三〇万人を超えていることなどの事実経過をみれば、二〇〇二(平成一四)年五月一三日の本件不認定処分時には、既にタリバンは崩壊した状態とみるのが相当である。

(イ) 原告の主張に対する反論

原告の「本質的な変化」に関する主張は、原告についてタリバン政権下において難民該当性がいったん認められれば、被告法務大臣の処分時においてタリバン政権が崩壊していても難民であると推定されるとの主張とも考えられる。しかしながら、後記イのとおり、そもそもタリバン政権下においても原告に難民該当性が認められるとはいえないのであり、主張の前提を欠くというべきであるが、この点をさておいても、難民条約一条C列挙事由に該当した場合には難民に当たらないことになるので、この事実の主張は難民であることを否認する理由にとどまり、行政側が主張立証責任を負う抗弁にはならず、難民である旨の認定を受けるには認定時において難民該当事実が認められることが必要であり、過去のある時点において難民該当事実が認められただけでは足りないというべきであるから、原告の主張は独自の解釈に基づくもので到底採り得ない。

また、原告は、タリバン残党の復活を強調するが、留意すべきはむしろ、本件不認定処分当時存在していた暫定政権が、タリバン批判活動をしていた者に対する「タリバン残党」からの暴行等の行為があったとしても、そのような行為を容認、放置するものとは想定し難く、原告が、国籍国が通常自国民に与える旅券の発給など各種行政措置を受けられないような状態にあったとは認められず、原告が国籍国の保護を受けられなかったなどということはできないということである。難民条約及び難民議定書の趣旨に照らしても、このような場合に我が国のような第三国が国籍国に代わって原告を保護すべきいわれはない。

本件不認定処分時のアフガニスタンにおいて、暫定政権が特に原告を保護しない又は保護できないような個別的事情は全く認められないから、原告が本国に帰国すれば、タリバン(残党)から迫害を受けるおそれがあるとの主張は抽象的可能性にとどまり、原告について、迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような現実的で個別かつ具体的な事情が存すると認めることは到底困難であるといわざるを得ない。

イ 原告の個別事情について

(ア) 原告はタリバンから迫害の対象として把握されていたとはいえないこと

原告は、タリバン政権下のアフガニスタンの状況を撮影したビデオテープを本邦に持ち込み、そのテープが、①二〇〇〇(平成一二)年一〇月一九日にNHK―BSで放送されたこと(以下この番組を「本件NHKリポート」という。)、②二〇〇一(平成一三)年九月二九日にTBSで放送されたこと(以下この番組を「本件TBS特集」といい、本件NHKリポートと併せて「本件各テレビ番組」という。)により、原告が反タリバン活動をする者として、本国のタリバンが把握したというようである。しかしながら、本件各テレビ番組において放送された各ビデオの内容は、以下のとおり、原告の関与や出演を判別できるものではないから、仮に、本邦で放送された各番組を、本国のタリバンが視聴していたとしても(これを認めるに足りる証拠はない。)、そのことにより、原告個人を迫害の対象として認識するに至ったということはできない。

a 本件NHKリポートの内容について

原告は、番組内で放送されたビデオの収録者を原告及びDとするが、番組内で両名の氏名が表示されたり、アナウンスがされるものでもなく、単に「ジャーナリストの一人が、内戦の最前線を取材しました」と紹介されるのみである。原告は、「インタビュアー」として男性にマイクを差し出しているのが原告であると主張するが、その者の容貌は全く判別できず、原告と特定するのは困難である。したがって、本件NHKリポートを視聴した者が、ビデオの撮影に原告が関与していると認識することはないというべきである。

また、本件NHKリポートは、内戦を逃れた避難民の様子、内戦による負傷者の状況等を放送するものであって、そもそも、ビデオにタリバン兵士は映っていない。タリバンに対抗する勢力である北部同盟の視点からタリバンを批判するというものでもなく、タリバンと北部同盟双方に中立的な内容ともいい得るものであって、一般的な報道番組にすぎない。

そうすると、仮に本件NHKリポートが、タリバンにより視聴されたとしても、タリバンが原告を反タリバン、反イスラムと認識することはないというべきである。

b 本件TBS特集の内容について

本件TBS特集において、原告は、Dとともに、単に「アフガニスタン人ジャーナリスト」としてのみ紹介され、氏名のほか、所属、経歴等についても何ら紹介されない。本件TBS特集では、タリバン政権下のアフガニスタンの現状が、原告が持ち込んだとするビデオのほか、他の映像も交えながら、およそ四分間放送されるが、この間、原告の画面への登場が確認できたのは(航空機内の男性は、原告かどうか判別できない)、計四回であり、併せても一分を超える程度でしかない。原告の発言についても、Dが、タリバンの公開処刑、北部同盟の戦闘状況等の映像に関し、公開処刑は金曜日に行われる旨、北部同盟の兵士が渡っているのはタジキスタンとの国境の川である旨等の短いコメントを計三回行うものの、原告は「もちろんこの映像には、アフガニスタンの北部の様子しか映っていません。しかし、これこそがアフガニスタン全土で起こっていることなのです。」の一回のみである。

このように、本件TBS特集では、原告の身分事項を特定することはできず、また、原告及びDは、特段の政治的意見の表明を行うものでもなく、アフガニスタンの現状を撮影したビデオの内容を紹介しているにすぎない。さらに、本件TBS特集自体、パキスタン、米国の動向等を含め当時のアフガニスタンの国内、国際情勢を解説しようとするものであって、特段、タリバン政権を批判すること自体を目的としているものではない。

したがって、本件TBS特集を視聴したとしても、原告が反タリバン活動を行うものとして理解され得るものではない。

c このように、本件各テレビ番組の内容からすると、仮に、タリバンが両番組を視聴したとしても、そもそも原告を特定できるものでもなく、また、原告が反タリバン活動をしていると認識するものではない。

なお、原告が本邦に持ち込んだビデオが放送されれば、自己の身に危険が生じると考えるのであれば、放送に際し、原告の氏名等の身分事項を明らかにせず、また、容貌も分からないようにするよう申し出るのが自然であるが、原告はそのような申出を全くしておらず、極めて不自然である。原告も同ビデオの内容が身の危険を生じさせるまでのものではないと認識していたのではないかと考えざるを得ない。

(イ) カブール・テレビ局の復興

カブール・テレビ局(アフガニスタン国営のラジオ・テレビ・アフガニスタン(RTA)の本部であるカブール局)は、ソ連軍のアフガニスタン侵入直前に我が国の支援で整備されたものであり、その後の内戦により送信所は破壊されたものの、テレビ放送が禁止されたタリバン政権下においても、放送機材は技師により守られ、タリバン政権崩壊後には、速やかに放送が再開され、また、カブール・テレビ局の技師は、日本人専門家により訓練され、両者の間には緊密な関係が築かれていたこともうかがえる。

(ウ) 小括

以上のとおり、原告は、ジャーナリストとしてタリバンから把握されていたとは認められず、また、タリバン政権崩壊後のカブール・テレビ局の復興状況などからすれば、本件不認定処分当時、原告がジャーナリストとしてタリバン残党から迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような客観的事情が存したとは認められないというべきである。

(2)  原告が暫定政権から迫害を受けるとは認められないこと

ア 原告が盗掘記事を書いたとすることが極めて疑わしいこと

(ア) 原告が書いたと主張する、ムジャヒディン政権時代のムジャヒディンの行ったアフガニスタンの文化遺産盗掘を批判する記事(以下「本件盗掘記事」という。)等の資料は、本件不認定処分後に、原告の供述を裏付ける資料として東京入管に提出されたものであり、それ以前の難民認定手続においては、同記事の存在につき何ら言及されていない。

(イ) 原告は、難民調査官に対し、本件盗掘記事は一九九五(平成七)年一月一五日発行の雑誌「SINA」に掲載されたものであると供述していた。ところが、本人尋問においては、本件盗掘記事が掲載された雑誌は「SINA」誌ではなく「ファルハング・アリアナ」誌である旨供述する。

しかしながら、原告は、第一事件及び第二事件をそれぞれ提起した時点においても、各訴状の中で、本件盗掘記事は一九九五(平成七)年一月一五日発行の「SINA」誌に掲載されたものであると主張していたのであるから、本人尋問に及んで本件盗掘記事が掲載された雑誌を異にするのは極めて不合理な変遷といわざるを得ない。

また、原告の本件訴訟における供述によれば、本件盗掘記事はアフガニスタン北部のタハールにおいて一九九八(平成一〇)年ないし一九九九(平成一一)年ころに執筆したというのであるから、これを一九九五(平成七)年一月一五日発行の「SINA」誌に掲載させることは不可能である。仮に本件盗掘記事が「ファルハング・アリアナ」誌に掲載されたものであったとしても、原告の難民調査官に対する供述によれば、「ファルハング・アリアナ」誌は一九九五(平成七)年一月一五日創刊の「SINA」誌の前身であり、一九九四(平成六)年の終わりころか一九九五(平成七)年の初めころに最後の「ファルハング・アリアナ」誌が発行されたというのであるから、やはり本件盗掘記事の執筆時期に関する原告の供述と矛盾する。

(ウ) 加えて、原告は、難民調査官に対し、本件盗掘記事への自己の実名の掲載を明確に否定したのみならず、同記事にまつわる逸話として「マスード派の司令官は、タジキスタンまで人を派遣して、SINAの事務所に圧力をかけてきました。事務所では、記事の作者が誰であるか答えませんでした。」と供述した。ところが、本件訴訟では、原告は、本件盗掘記事に原告の氏名が表記されている旨供述を変遷させている。原告自身が本件盗掘記事を書き、その身に危険が及ぶことを危惧していたのであれば、本件盗掘記事に実名が掲載されていることを承知していないこと自体極めて不自然であるし、上記マスード派の司令官の行動は、明らかに本件盗掘記事の執筆者が判明せず、これを突き止めようとするものと理解されることからすれば、本件盗掘記事に原告の実名が掲載されていたことと整合しないといわざるを得ない。

(エ) さらに、原告は、本人尋問において、本件盗掘記事が、実際に「ファルハング・アリアナ」誌に掲載されたのかどうか承知していなかった旨供述し、発行の間隔、おおよその発行部数についても承知していない旨も供述する。

(オ) 今回、原告と共に入国したDも当初は、難民調査官に対して、原告につき、「記事を書いたり、撮影をする能力はありません。」、「アフガニスタン・ジャーナリスト協会では、事務を担当していました。」、「何故彼がジャーナリストとして難民申請しているかは私には分かりません。」等と述べていた。

(カ) このような諸事情に加え、原告の経歴は、専ら「エンジニア」であって、文化遺産盗掘の記事を雑誌に執筆すること自体、唐突の感を否めないことなども併せ考慮すると、原告が真に本件盗掘記事を書いたのか極めて疑わしいといわざるを得ない。

イ 仮に原告が盗掘記事を執筆したとしても、アフガニスタン現政権は内戦で散逸等したアフガニスタン文化遺産の修復、復興に努めており、過去の原告の行為が非難されるとは考え難いこと

(ア) 移行政権が成立したのは二〇〇二(平成一四)年六月二四日であるところ、その一か月後の同年七月二八日には、情報文化大臣が来日し、文化復興シンポジウムに出席している。また、同年八月上旬にアフガニスタンを現地取材したNHK職員によれば、国営のRTAのトップニュースで、カルザイ大統領が文化財保護対策を公表し、国立考古学研究所の設立、国内文化遺産の一元的管理強化が詳細に伝えられたことが認められる。

我が国政府も、アフガニスタン文化遺産修復、復興を推進し、アフガニスタン政府から要請を受けた日本ユネスコ協会連盟が「バーミヤン文化教育文化センター」を設立するほか、内戦で破壊されたカブール博物館の修復、破壊された美術品の修復も進められている。

このように、アフガニスタン現政府は、アフガニスタン文化遺産復興に尽くしており、盗掘について否定的な見解を採っているものと解されるところからすると、仮に、原告が本件盗掘記事を執筆したとしても、これを理由として、移行政権はもとより、アフガニスタン現政府が原告を迫害の対象とすることはおよそ考え難い。

(イ) このことは、アフガニスタン現政府下のメディア状況に照らしても明らかである。

すなわち、アフガニスタン現政府は、新憲法の制定に先立ち、二〇〇二(平成一四)年二月、プレス法を導入し、イスラム、中東各国の多くが堅持している検閲制度を廃止している。このように、アフガニスタン現政府は、メディア構築の環境づくりに力を入れている。

また、アフガニスタン現政府下では、女性向けや英字紙などを含め、一〇〇以上の新聞、雑誌等が出版され、中には、現政権を批判する記事を掲載する新聞もある。

さらに、カルザイ大統領の指示により、二〇〇二(平成一四)年七月にはRTAの番組を監視し提言を行う機関としてラジオ・テレビ番組審議会が発足し、同審議会で承認された放送ガイドラインでは、要人の地方遊説は、賛成、反対にかかわらず住民の生の反応を取材する等の注文が放送局側につけられている。

このような状況からしても、アフガニスタン現政府下において、原告の過去の政府批判行為が非難されるとは考え難い。

ウ 小括

以上のとおり、原告が、本件盗掘記事を執筆したこと自体疑わしいことに加え、仮に、旧ムジャヒディンの行った文化遺産盗掘に関し何らかの批判的記事を執筆していたとしても、アフガニスタン現政権が、そのような者に対し、迫害を加えることはもとより、何らかの不利益な取り扱いをするとはおよそ認められない。

原告は、難民調査官に対し、マスード派と同一の党(ジャミアテ・イスラミ)に属するラバニ派から発給された証明をもってアフガニスタン、イランの間を出入りしていたと供述していることや、二〇〇〇(平成一二)年三月二九日にはテヘラン駐在アフガニスタン大使館において、旅券の発給を受けていることなどからすれば、暫定政権から迫害を受けるおそれがあるとする原告の主張に理由がないことは一層明らかである。

(3)  原告が旧ソ連の大学を卒業していることを理由に迫害を受けるとは認められないこと

原告は、旧ソ連の大学を卒業していることから、共産主義者とみなされ、「政治的意見」を理由に迫害を受けると主張するが、旧ソ連の大学を卒業した者が迫害されるとの事例を確認することはできず、そもそも、原告が旧ソ連に留学していた際の専攻は「エンジニアリング」であり、原告が旧ソ連に留学していたことから「政治的意見」を理由に迫害を受けると認めるに足りる証拠は全くない。暫定政権も旧ソ連で教育を受けた者を迫害することを放置ないし容認しているとはおよそ認められないから、結局、原告のこの点の主張は単なる抽象的な不安感を述べるにすぎないものといわざるを得ない。

(4)  原告の本件認定申請の目的は本邦での在留資格の取得にあること

ア 本件認定申請の契機について

原告の入国警備官に対する供述によれば、原告は、我が国に難民認定制度が存することは認識していたものの、来日当初から難民認定申請をしようとしていたのではなく、来日当初はイランに戻ろうとしていたのであり、本件認定申請に至ったのも、本邦入国後約二か月を経過した後のことである。そして、原告は、本件認定申請をした理由につき、難民調査官には「日本で不法残留したくなくて難民申請しようと思ったのです。」と供述し、入国警備官にも「弁護士に難民申請をすれば、在留期限を延ばすことができると言われて難民申請をすることとしたのです。」と供述しており、本人尋問においても同趣旨の供述をしている。しかも、本邦入国から本件認定申請までの間に、「迫害を受けるおそれ」を有するに至る特段の事情が生じたものではないというのであるから、原告が主張するような「迫害のおそれ」から逃れる切迫性は到底認められない。

イ 入国の経緯について

原告は、今回の本邦入国につき、NHKと外務省の招待を受けた旨供述する。しかしながら、外務省は、まず、アフガニスタン・ジャーナリスト協会会長のビジャンプールを招聘しようとし、その招聘することが決まった後、ビジャンプールからD及び原告を同行させたい旨の申出があり、結局、ビジャンプール側の費用で同行させることとなったものである。原告は、単に、ビジャンプールの随行者として来日したものであって、NHKと外務省の招聘を受けたものではないから、原告の上記供述は事実に反し、到底信用できない。

また、原告は、本邦で行った活動について、難民調査官に対し、「日本での要人との面会や会議など重要なことは会長のビジャンプール氏が行っていたことから、私とDの二人は重要なことは行ってなく、入国して三日後にNHKに見学に行った程度の旅行」と供述し、Dもまた、難民調査官に対し、「会長は外務省に交渉したりNHKに行ったりしており、私達はNHKの見学等を行いました。」と供述していることからしても、原告がジャーナリストとしての活動を行うために来日したとはたやすく認められない。

ウ 本国に送金し、それにより家族が生計を維持していること

原告の難民調査官に対する供述によれば、原告は、今回の入国後、イラン在住の家族から「生活に困っているので面倒を見て欲しい」と連絡があり、実際に、「最近四ヶ月程毎月一〇〇〇ドル程をイランの家族に送金し」原告の家族は「その金で家賃や生活費を払っているようで」あるというのである。しかも、原告の入国警備官に対する供述によれば、これまでの送金額は一万二〇〇〇ドルに及ぶこと、本邦とイランとの物価格差、アフガニスタンではなくイランからあえて家族を残して我が国に渡航してきていることを考慮すると、原告の真の目的は、我が国における就労活動にあるというべきである。

(5)  まとめ

以上のとおり、原告が、暫定政権から迫害を受けたり、タリバン残党から迫害を受けるおそれは認められず、かえって、単に難民を偽装して、本邦で稼働しようと画策したことがうかがわれることなどからすると、原告は、難民であるとは認められないことは明らかである。

第三当裁判所の判断

一  前記第二の二の事実のほか、《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(1)  タリバン政権の崩壊とその後のアフガニスタン情勢

ア タリバン政権の崩壊

(ア) 二〇〇一(平成一三)年九月一一日に米国で発生した同時多発テロの後、米英軍は、同年一〇月七日にアフガニスタン空爆を開始し、米英の支援を受けた北部同盟は、同年一一月一〇日にマザリシャリフを、同年一一月一三日にはカブールをそれぞれ制圧し、同年一一月一四日、米国副大統領がタリバン政権崩壊を宣言し、同年一一月一七日には、北部同盟のラバニ大統領がカブール入りして勝利宣言を行った。

(イ) タリバンの最高指導者オマル師は、本拠地であるカンダハルの明渡しに同意し、タリバンは、二〇〇一(平成一三)年一二月七日、カンダハルの明渡しを完了し、同時に、カンダハル州に隣接するヘルマンド、ザブルの両州についても明け渡した。

イ 本件不認定処分(二〇〇二(平成一四)年五月一三日)当時のアフガニスタンの復興状況

(ア) 暫定政権の成立と国際的支援

a 二〇〇一(平成一三)年一一月二七日から、ドイツのボン近郊において、暫定政権協議が開始され、同年一二月五日には、北部同盟、元国王派などアフガニスタン主要四派が、アフガニスタン暫定行政機構の人選に関して合意に達し、合意文書に調印した。その結果、元国王派で最大民族パシュトゥン人の有力指導者ハミド・カルザイを議長とする暫定行政機構が、遅くとも二〇〇二(平成一四)年六月中に開催される緊急国民大会議(ロヤ・ジルガ)まで国政を運営し、同大会議で樹立される暫定政府が、その後の新憲法制定及び総選挙までの移行期(二年以内を予定)の統治に当たることとなった。

b 二〇〇一(平成一三)年一二月二〇日及び二一日、アフガニスタン復興支援運営グループ第一回会合がブリュッセルで開催され、アフガニスタン暫定政権、日本、米国、ヨーロッパ連合(EU)、サウジアラビア等三三か国等の間で、その後六か月の行政経費のために総額二〇〇〇万ドルの基金を創設することを合意した。

c カブールとその周辺の治安維持のため、六か月間、国際治安支援部隊(ISAF)を編成するとの国連安全保障理事会決議に基づき、二〇〇一(平成一三)年一二月二一日、第一陣である英国海兵隊五三人がカブールに入った。

d 二〇〇一(平成一三)年一二月二二日、アフガニスタン暫定行政機構がカブールに設立され、日本、米国、英国、ロシア、パキスタン等が即日これを承認した。議長を含む暫定行政機構の全閣僚三〇人のうち、過半数の一九人を北部同盟が占め、民族構成ではタジク人が最多の一二人を占めた。

e 二〇〇二(平成一四)年一月二一日及び二二日、アフガニスタン復興支援閣僚会合が東京で開催され、アフガニスタン暫定政権関係者、アフガニスタン復興に関心を有する国等が出席して、アフガニスタン復興に対する具体的な貢献等についての協議が行われた。

(イ) 我が国の支援状況

a 日本政府は、アフガニスタン暫定行政機構の承認とともにカブールに外務副大臣を派遣し、二〇〇二(平成一四)年二月一九日には日本大使館を首都カブールに再開した。

b 日本政府は、アフガニスタン暫定政権基金(前記(ア)b)に一〇〇万ドルの拠出を行うこととしたほか、二〇〇二(平成一四)年五月一日、川口外相(当時)が、カブールを訪問してカルザイ議長と会談し、同年六月のロヤ・ジルガの開催経費として二七〇万ドルを緊急援助することを表明した。

(ウ) 国民生活の状況

a 二〇〇一(平成一三)年一二月二〇日、イランの民間航空機がカブールへの運航を再開した。

b 二〇〇二(平成一四)年一月一五日、国連安全保障理事会において、タリバンはもはやアリアナ・アフガン航空を所有、賃借、運航、管理等していないとの判断に基づいて、アフガニスタンに対する制裁措置のうち、アリアナ・アフガン航空機の外国乗入れの禁止を全面解除する旨の決議が全会一致で採択され、同年一月二四日、同航空機がインドへの運航を再開した。

c 二〇〇二(平成一四)年二月には、閉鎖されていた郵便局が次々に再開されることで、二〇年以上の間麻痺していた郵便機能が回復に向かっている旨が報じられた。

(エ) 避難民の帰還状況

a 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、パキスタンなど周辺国から国境を越えてアフガニスタンに帰還した避難民の数は、二〇〇一(平成一三)年一一月が約六九〇〇人、同年一二月(同月二五日現在)が約三万一〇〇〇人であった。

b 二〇〇二(平成一四)年三月には、UNHCRが、アフガニスタン難民と国内避難民の帰還計画を開始した。

ウ その後のアフガニスタンの復興状況

(ア) 暫定政府(移行政権)の成立等

a 二〇〇二(平成一四)年六月一五日、ロヤ・ジルガが開かれ、同年六月一九日、暫定行政機構のカルザイ議長が移行政権の大統領に就任し、国家元首となった。また、その後二年間のアフガニスタンの正式国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」と決定した。同年六月二四日までに民族的バランスに配慮した暫定政府の全閣僚が決定し、大統領を含む全閣僚三一人のうちパシュトゥン人が最多の一三人を占めた。

b 二〇〇二(平成一四)年一二月二二日、カブールにおいて、周辺六か国(パキスタン、中国、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン)とG8諸国、インド、国連、OIC(イスラム諸国会議機構)らの代表が集まり、アフガニスタンとその周辺地域の安定に関する会合が催され、同年一二月二四日には、カブール宣言が採択された。同宣言では、暫定政府及びアフガニスタンの周辺国が、長年の紛争を乗り越えて治安、繁栄、民主主義及び人権を享受すべきであることを決意し、アフガニスタン周辺地域の平和と安定に向けた協調関係、テロリズム・麻薬・イスラム過激主義との闘争、アフガニスタン暫定政府の歓迎、平和確立のための相互信頼・友好・内政不干渉や復興支援などがうたわれ、同宣言を国連安全保障理事会に付託することが決定された。

c 二〇〇三(平成一五)年一月一二日、アフガニスタン政府は、民族配分に配慮しつつ、武装解除と国軍編成の四委員会を創設した。

d 二〇〇三(平成一五)年一〇月二四日、アフガニスタン国防省及び国連支援団による軍閥解体計画「武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)」が始まった。

e 二〇〇三(平成一五)年一二月一四日、憲法制定ロヤ・ジルガが開かれ、二〇〇四(平成一六)年一月四日、新憲法が制定された。

f 二〇〇四(平成一六)年三月三一日及び四月一日、ベルリンで開催された国際会議において、今後三年間で計八二億ドルに及ぶアフガニスタンの復興・開発のための拠出が表明された。

g 二〇〇四(平成一六)年一〇月九日、大統領選挙の投票が行われ、過半数を獲得したカルザイが、同年一〇月二四日、次期大統領に選出された。同年一一月二〇日、暫定政府はカルザイ大統領を首班とする政権への権限移譲を同年一二月七日に行うと発表し、同日付で、国名を「アフガニスタン・イスラム共和国」とすることを発表した。同年一二月七日、カルザイ大統領の就任式典が開催され、大統領に就任したカルザイは、同年一二月二三日、軍閥を含まない新閣僚二七人を任命した。

(イ) 我が国の支援状況等

a 二〇〇二(平成一四)年六月二五日、日本政府は、国連開発計画を通じて三〇〇万ドルの緊急無償支援を決定し、同年八月二〇日、日本政府代表団がアフガニスタン入りして復興支援事業を視察し、同年九月一二日、小泉首相がニューヨークでカルザイ大統領と会談し、カブールとカンダハル間の約五〇〇kmを結ぶ幹線道路の修復作業に日本政府が五〇〇〇万ドルの無償資金協力を実施することを表明した。

b 二〇〇二(平成一四)年一二月一六日、在日本アフガニスタン大使館が業務を再開した。

c 二〇〇三(平成一五)年一月一三日、日本政府は、対人地雷探知・除去技術を開発して二〇〇四(平成一六)年度中に実用機をアフガニスタンに投入し、経済産業省が六億円を補助すると発表し、同年一月二六日、財務省が、世界銀行グループである国際開発協会の要請に応じてアフガニスタンを含む最貧国支援に約二〇億ドルを拠出することを決定した。

d 日本政府は、DDR計画(前記(ア)d)に対し、支援国の中で最大の三五〇〇万ドルの拠出を表明し、計画を主導する立場を表明した。

e 二〇〇四(平成一六)年三月一八日、日本政府は、アフガニスタン暫定政府に対し、カンダハル・ヘラート間幹線道路整備計画等の実施に資するために、総額一〇二億円の無償資金協力を約束した。

(ウ) 国民生活の状況

a 二〇〇三(平成一五)年一月八日、テヘランでアフガニスタン・イラン・インド貿易会議が開催され、その後五年間アフガニスタンのトラックやバスのイランへの乗り入れを認める協定が成立した。

b 二〇〇三(平成一五)年一月一四日、アフガニスタンとイランとの間で、二〇〇四(平成一六)年にヘラートへの電力供給を可能とする合意書が署名された。

c 日米共同事業として、カンダハルを中心に道路整備計画が展開され、二〇〇四(平成一六)年三月には、整備中のカブール・カンダハル道路に続き、カンダハル・ヘラート間の幹線道路の整備等が計画された。

d 二〇〇四(平成一六)年六月一〇日、国際協力銀行主催の講演会において、避難民がアフガニスタンに帰還し、内戦中は十分に従事できなかった農業に従事することで農業自給率が上がり、小麦の生産高は、二〇〇二(平成一四)年度が八三%増、二〇〇三(平成一五)年度が六二%増と著しい伸びで生産されており、今後五年ないし一〇年で国内自給はもちろん、輸出することも可能となることが報告された。

(エ) 避難民の帰還状況

a 二〇〇四(平成一六)年二月二四日、日本政府は、UNHCRに対し、約四一一万ドルの緊急無償資金協力(帰還民の再定住支援のための生活用品支給、帰還民に対する仮設住宅資材供与)を行うことを決定した。

b 二〇〇四(平成一六)年五月、UNHCRは、二〇〇二(平成一四)年以降のアフガニスタンへの帰還者が三三〇万人を超えたと発表し、二〇〇四(平成一六)年の帰還者数の予測を五〇万人に上方修正し、「UNHCR/アフガニスタン政府が促進している帰還プログラムは、きわめて大きな困難にもかかわらず、このような驚くほどの数字を達成している。明らかに、多くのアフガン人が、故郷の多くの地域の状況が改善され帰還が可能になったと判断しているのである。一部には今なお治安の問題に直面している地域もあるが、他の地域では治安の向上と経済機会の拡大が報告されている。」との概況説明を行った。

エ タリバン政権崩壊後のタリバンの動向

(ア) 二〇〇二(平成一四)年六月、南部カンダハル周辺で、オマル師の肉声テープが出回り、反米のための結束が呼びかけられたと報道され、この時期、南部カンダハルの治安が悪化した。

(イ) 二〇〇二(平成一四)年一〇月六日、カルザイ大統領は、米国のテレビインタビューにおいて、オマル師は逮捕を幾度も免れ、現在も生存していると発言した。

(ウ) 二〇〇二(平成一四)年末ころから、タリバンの再編成の動きが活発化し、二〇〇三(平成一五)年一月初旬、パキスタンとの国境に近いアフガニスタンの山岳地域でタリバンの再結集が伝えられ、以来、タリバン再結集の動きはアフガニスタン東部や南部のパシュトゥン人地域全体に広がった。政府軍及び米軍がその都度鎮圧したが、同年八月ころにかけて、結集の規模は拡大する傾向が見られた。

(エ) 二〇〇三(平成一五)年九月二九日、ブラヒミ国連事務総長アフガニスタン特別代表は、国連本部での記者会見において、タリバンなどが再び活発化していると指摘し、同年一二月に予定される新憲法制定のためのロヤ・ジルガ代議員選出や、翌年に見込まれる総選挙に向けた選挙人登録が妨げられるとの懸念を表明した。

(オ) 二〇〇三(平成一五)年一〇月一三日、国連安全保障理事会は、アフガニスタンの地方を中心に最近タリバンによるとみられる襲撃事件が頻発していることを受けて、アフガニスタンに派兵されているISAFの展開地域を、首都カブール及びその近郊から、アフガニスタン全土に拡大することを認める決議案を全会一致で採択した。

(カ) 二〇〇五(平成一七)年五月五日、内戦の長期化の影響で、タリバンから離反し、敵対している政府側に歩み寄る幹部が目立っていることが報じられ、同年二月にカルザイ大統領を訪問し、近く首都カブールで政党を発足させることになった旧タリバン政権の幹部(元サウジアラビア大使)が、「タリバンがアフガンの大勢力であることに変わりがない。統治、戦闘の経験も豊富だ。しかし、国際社会は組織としてのタリバンの復活を認めないだろう。」「オマル師の武力闘争路線に従う者がいるのは確かだが、大多数は平和解決を望んでいる。」などと語ったことが紹介された。

(2)  タリバン政権崩壊前の表現の自由の状況等

タリバン政権崩壊前の表現の自由その他の人権状況及びこれに関連する状況について、次のような報告がされている。

ア 米国国務省一九九九年国別人権報告

(ア) アフガニスタンは、二〇年の長きにわたって内戦と政情不安定に苦しめられている。全国的に認められた憲法、法の支配、及び独立した司法権は存在しない。

(イ) タリバンの部隊は、暗殺、大量殺人、略式処刑及び拘留中の死亡を含む、政治的及び非司法的殺人に関与していると報じられている。タリバンの部隊が市民の蒸発に関与しているとの主張もなされている。監獄の状況は悲惨である。略式裁判が日常的に行われている。タリバンは犯罪に対する過酷な刑罰をもって、自らの支配地域に厳しく抑圧的な統治を行っている。タリバンのイスラム法廷、宗教警察及び、道徳の伸長及び悪徳の弾圧省は極めて保守的に解釈されたイスラム法を適用している。彼らは不貞や殺人に対しては死刑、窃盗に対しては片腕と片足の切除といった刑罰を科している。それほど重大でない法規違反に対しては、タリバンの兵士はしばしばその場で違反者を裁き、殴打のような罰を与えている。タリバンは恣意的な逮捕・監禁を行い、市民のプライヴァシー権を侵害している。

(ウ) マスードの部隊及び北部連合の構成メンバーは、数多くかつ深刻な人権侵害を行っている。北部連合の軍事部隊、その下級指揮官、及び不良分子は、政治的暗殺・誘拐、身代金目的の誘拐、拷問、強姦、恣意的な拘束、戦利品の略奪を行っている。

(エ) 言論の自由及び出版の自由を保障する法律は存在せず、相互に対立する諸勢力の高官たちはジャーナリストに圧力をかけ、彼らの報道を歪曲しようと試みていると言われている。

(オ) 国内の全ての勢力が、アフガン紛争に関するレポートを行っている外国のジャーナリストたちに圧力をかけようと試みてきた。タリバンは当初、カブールに入った外国の報道機関に協力する姿勢を見せていたが、後になってジャーナリストたちの活動を規制し始めた。一九九九(平成一一)年中にも外国のジャーナリストは人物又は動物の撮影、女性へのインタビューを禁止され、こうした規制の実効性を確保するために常にタリバンの構成員がエスコートとして取材に同行した。

イ 「国境なき記者団」二〇〇一年年次報告

(ア) タリバンがカブールを攻撃した一九九六(平成八)年九月二六日以来、民衆の姿のテレビ放送及び写真撮影は禁止された。新たな支配者は、シャーリア(イスラム法)に則った急進主義的改革を導入した。すでにタリバン以前の支配者たちによりすでに危機に瀕していた表現の自由は、タリバンによって壊滅させられた。テレビ放送は停止し、テレビ局の建物は瓦礫と化した。国全体を網羅する唯一のラジオ放送は、音楽さえ流れない宗教プログラムとタリバンの公式政治宣伝のみを放送している。出版は、全部で一〇くらいの新聞と雑誌があるが、それらは政府により制御されている。十数人の国外へ避難したジャーナリストの力によって、外国のメディアだけが、教条主義的学生たちにより操作されているアフガニスタンの人々にニュースをもたらしている。

(イ) 二〇〇〇(平成一二)年四月一七日、軍人が、パキスタンの日刊紙の記者を、彼のカブールのホテルの部屋で逮捕した。彼は、大統領執務場所付近の警察署まで連行され、長時間取り調べられ、米国のスパイの容疑をかけられた。彼は、彼の友人の交渉の結果、三日後に解放されたが、次の日、明らかな理由もないままに、タリバンにより再度逮捕された。彼は、九日間、「さそりやその他のあらゆる虫が這っている」不潔な房に勾留され、殺すと脅迫され、タリバンの主張する米国CIAとの関係について毎日調べられた。彼は、あへんポピーの写真を撮ったことで、タリバンを怒らせてしまったと語っている。

(ウ) 二〇〇〇(平成一二)年八月一一日、三人の外国人ジャーナリストが、カブールのサッカーの試合の写真を撮ろうとしたということで、信仰・反堕落省副大臣の命令により、逮捕された。米国人のフリーランス写真家とブラジル人記者とともにいたパキスタン人は、「宗教警察が私たちを逮捕し、二時間にわたり我々を取り調べた。彼らは、生き物の写真撮影を禁止する彼らの法律に反しているとして写真家が持っていたフィルムを没収した」と語った。

(3)  タリバン政権崩壊後の表現の自由の状況等

タリバン政権崩壊後の表現の自由その他の人権状況及びこれに関連する状況に関しては、次のような報告がされている。

ア ヒューマンライツウォッチ世界報告「ボン合意一年後のアフガニスタン」(二〇〇二年一二月)

(ア) タリバンはほぼ全国に渡って軍事的指導権を握り、アフガニスタンの風土病となっていた軍閥の勢力を弱めたが、米国やその他の国々は、タリバンを打倒するための戦略の一部としてこの制度を再建し、イランを主としたアフガニスタンの隣国はアフガニスタン内部の利益弁護者達への支援を強めた。未だに多くがアメリカや隣国から武器、資金、そして政治的な支援を受け続けているこれらの州レベル、もっと小さいレベルの軍事指導者は、タリバン崩壊によって作られた権力の空域をうめた。この一年間で、これらの軍閥の多くが、弱体化するのではなく、よりいっそう権力を確固たるものとした。

(イ) 軍閥は、この国における平和と安定に対する、一番の脅威となっている。ヒューマンライツウォッチその他の人権グループがボン合意署名後、一年間を通して報告したように、現地的、地域的な軍閥と彼らの軍隊による、地元住人の人権侵害が規則的におこっている。

(ウ) 軍閥支配は、アフガニスタンの暫定内閣が、カブール以外の地域において権限を確立することを不可能にした。それは、また、軍国から本物の民政国への移行のための目に見えるような進歩をさまたげた。このような環境では、ボン合意に基づいて、人権侵害と地元の軍閥の武装解除を監視する国連職員でさえも、任務の遂行において深刻な問題をかかえている。

イ アムネスティ・インターナショナル報告書「アフガニスタン―人権保護には警察再建が不可欠―」(二〇〇三年三月)

(ア) 多くの前向きな変化はあったが、国内の治安は依然として悪く、再建への大きな障害のひとつである。移行政権は、かつてタリバン支配に武力抵抗し、現在も支配を維持しようとする有力な地方軍閥が存在しているカブール以外の地域の支配に失敗している。多くの軍閥指導者は、警察の司令官や他の高官を含めて、移行政権に組み込まれている。このような軍閥指導者は、忠実なムジャヒディンを多く引き連れ、ともに警察や他の治安維持部隊に入り込む形となった。彼らは、高い自律性をもって行動し続けている。

(イ) ほとんどの警察部隊が、元ムジャヒディンで構成され、豊富な軍隊経験があるが警察としての職業訓練や経験がない。彼らの忠誠は有力な地方軍閥指導者に向けられている。元ムジャヒディンの多くは、人生のほとんどを武力紛争に費やしたため、刑罰に問われないことに慣れてしまっている。献身的な警察官も少しはいるが、彼らは少数派で、その存在は警察の改革と専門化を妨げている重大な問題を解決するには十分ではない。

(ウ) 警察は、人権侵害の防止・対処に責任を持つのではなく、人権侵害行為を犯すものであるという認識も広まっている。彼らは、職業意識に欠け、実行力に欠け、ムジャヒディンとしてふるまい続けていると見られている。カブールでのみ展開しているISAFが、アフガニスタンの治安を高め、人々の権利を守るために機能している唯一の治安部隊であると、多くの人々にみなされている。

ウ アムネスティ・インターナショナル報告書「アフガニスタン―見捨てられ、忘れられた人びと:アフガン帰還民の運命―」(二〇〇三年六月)

(ア) アムネスティ・インターナショナルはアフガニスタンは紛争終結後の状態にあるとは言えず、そのために殆どの難民と国内避難民(IDP)の帰還が持続不可能なものになっていると確信する。

(イ) 二〇〇三(平成一五)年、アフガニスタンの治安情勢は確実に悪化している。過去数か月間の治安悪化は国内の三分の二までが国際人道援助機関が救援及び監視活動を遂行する状態ではないことを示している。この不安定な治安状況は地方のみならず、都市部にも蔓延している。復興が遅々として進まず、一般住民の生活状況の改善も見込めないことから、多くの人々が南東部及び東部地方で再び勢力を盛り返したタリバンなどの過激派武装組織に身を投じて、現政権とその外国の支持勢力への失望を表している。また、アフガニスタンのいたるところで敵対地域及び地方司令官間の派閥抗争が激増している。

エ 国連総会における「アフガニスタンの人権状況に関する人権委員会の独立専門官報告」(二〇〇四年九月)

(ア) 今回の調査で明らかになった人権侵害は、司法手続によらない処刑、拷問、恣意的逮捕、拘禁、非人間的拘禁状態など、基本的な人権の深刻な侵害だった。

(イ) 人権侵害のほとんどは、軍閥、地方コマンダー、麻薬取引人その他、武力をふるい、程度はさまざまだが、州、地域で権限を行使している人物によるものである。アフガニスタン政府はほとんどの場合、これらの人物を事実上統制できず、連合軍及びISAFの協力も限られたものにとどまっている。このため、政府の意図にもかかわらず、一万から一万五千人たらずの誕生間もないアフガニスタン国軍(ANA)では、軍閥や地方コマンダーの配下にある一〇万人とも推定される武装した歴戦の勢力に対して事実上対抗できない。連合軍とISAFは、アフガニスタン政府のDDR計画を支持しているが、現段階ではその成果は微々たるものである。

(ウ) 人権に最も重大な影響を与えているものが治安である。二〇〇一(平成一三)年に敗退したタリバン勢力が社会に紛れ込み、強力な反政府勢力となっていることも忘れてはならない。

オ ヒューマンライツウォッチの二〇〇三年五月二日付け記事

(ア) アフガニスタン人ジャーナリストに対する攻撃及び脅迫がここ数週間急増している。アフガンの治安担当職員は、ジャーナリストたちが公に指導者を批判する記事を発表することを躊躇するような恐怖の雰囲気を作り出している。

(イ) 脅迫及び逮捕の多くは、ジャーナリストが防衛大臣モハマド・カジム・ファヒム及び教育大臣ユニス・カヌーニを含む特定のアフガン政府の閣僚メンバー、ラバニ前アフガニスタン大統領などのカブールにおける政治指導者及び強力な前ムジャヒディン指導者のアブドゥル・ラセル・サヤフを批判した後に起きている。多くの脅迫は、アフガン政府の諜報部門であるAm-niat-e Melliによって、Shura-e Nazarという旧ムジャヒディンの緩やかな連合体である政治組織のために伝達されている。Amniat-e Melliのエージェントは、ジャーナリストの家を張り込み、町中で彼らを尾行し、彼らの事務所を訪問している。治安部隊の役人は、「お前が殺される日は遠くない。」「我々はお前を簡単に殺すことができる。」というような警告を伝えることにより、ジャーナリストが批判的な記事を発表することをやめさせようとしている。何人かのジャーナリストは、警察によって逮捕され、カブールの刑務所に拘留された。

(ウ) カブールの外にいる軍事司令官も、ジャーナリストを脅迫している。最近数か月間、ヒューマンライツウォッチは、ジャララバード及びガルデス(アメリカ率いる連合軍が地方の軍事勢力と協力して働いている地域)における軍司令官が、ジャーナリストの地方の治安問題に関する率直なレポートを発表することをいかに死をもって脅迫しているかについて記録している。西部ヘラートの知事であるイスマイル・カーンは、地元のメディアを抑圧し続けている。先月、彼の治安部隊は、アフガン独立人権委員会の新事務所開設祝賀会の間に、一人のラジオ・ジャーナリストを逮捕し殴打した。これによって、ヘラートに基盤を有するラジオ・ジャーナリストは、抗議のために街を去った。

(エ) ヒューマンライツウォッチは、メディア問題に責任があるアフガン情報文化省を、脅迫に対処する助けを求めるジャーナリストたちの請願に効果的に対処しなかったことにより、批判している。いくつかの例では、役人は、ジャーナリストに対し「政府の役人に対し批判的であるべきではない」と述べて脅迫を強化している。あるジャーナリストは、カブールの警察署長に保護を求めに行ったが、署長は、もっと上の地位の役人が援助しないようにと命令していると述べた。署長は、レポーターに対し、Shura-e Nazarのメンバーを批判したことの結果に直面しなければならないと述べた。

カ 米国国務省二〇〇四年国別人権報告

(ア) 憲法三四条は、言論及び報道の自由を定める。しかしながら、高官の一部は、特に地方レベルでは、ジャーナリストを脅迫し、その報道に影響を与えようとしている。

(イ) 一部の地域では、地方当局は、メディアを厳重に管理しており、表現の自由の程度は地方ごとに著しく異なっている。外国メディアに表現の自由は及んでいる。しかしながら、彼らは、イスラム教について否定的なコメントをすること及び大統領に対する脅迫とみなされる題材を出版することを禁止されている。

(ウ) 一年を通じて、政府機関の一部は、ジャーナリストを厳しく取り締まる傾向を有していた。伝えられるところによれば、情報局のメンバーは、ジャーナリストをおびえさせたり脅迫したりしている。

(エ) 二〇〇三(平成一五)年六月、警察はしばらくの間、旧報道法の反イスラム的な内容に対する差止命令に違反した疑いがあるとして、週刊誌の編集長を逮捕し、新聞を閉鎖した。

キ デンマーク移民局事実調査団報告(二〇〇四年)

(ア) 多数の情報源によれば、タリバン政権崩壊後、言論の自由は改善したが、この「自由」が行使できる限度には、未だに制限がある。複数の情報源が、二〇〇三(平成一五)年六月の、本当は宗教とは何の関係もないのに行為の正当化にイスラム教を利用する軍閥を批判する記事を書いたために冒とく罪で逮捕された二人のジャーナリストの事件について言及している。

(イ) EU特別代表は、言論の自由については引き続き問題があると述べた。政権への批判、政権にいる個人又は軍閥に対する批判は、いかなるものであれ、問題を引き起こす。こうした批判を述べた人は、様々な悩みや脅迫、殴打、拷問又は射殺の危険にさらされる。情報源はさらに、有力者を名指しで批判した新聞や雑誌は、問題を抱える可能性があると述べている。

(ウ) 国際危機グループ(ICG)も、公然と人権について報道する者は報復される危険があるとの意見である。この関連で、ICGは、アフガニスタン南部及び中央部の人権状況を批判した報告が二〇〇三(平成一五)年七月に発表された後、ヒューマンライツウォッチのレポーターが国から避難しなければならなかったことについて言及した。

(エ) ノルウェー代理大使は、メディアが困難な状況で仕事をしているとの意見であった。いかなるものであれイスラム教及び政府を批判したと解釈される可能性のあるものを書いたジャーナリストは、攻撃を受けるおそれがある。

(オ) アフガニスタン独立人権委員会(AIHRC)は、カブールでは言論の自由は改善したが、その限界は、批判されているのが誰かによると述べた。

(カ) アフガニスタン弁護士組合は、アフガニスタンの言論の自由について他者が描いた美しい絵は偽りであると考えている。カブールでは、誰もが自分が話したり書いたりすることに慎重であり、地方では、言論の自由は単に存在しない。

(キ) ジャーナリスト中央協会は、時に誰かがファヒム防衛相の政策を批判したことがあるが、そのようなことは頻繁には起きない、なぜなら、このような記事の執筆者は脅迫にさらされるからであると説明した。軍閥を批判した場合でも、結果は同じである。

(ク) アフガニスタン協力センター(CCA)は、批判的なジャーナリズムがジャーナリストへの嫌がらせと新聞の閉鎖につながった様々な事件に言及した。あるヘラートのジャーナリストは、新聞に、権力にある人々と彼らのイスラム教との関係について批判的な記事を書いた。後に、そのジャーナリストと新聞の発行者の双方が殴打された。別のジャーナリストは、ラジオ放送において権力にある人を批判し、後に肉体的虐待を受けた。最後にCCAは、新聞が考古学上の物品を不法に入手したと非難されている知事について批判的な記事を書いたことに言及した。誰も逮捕はされなかったが、新聞は閉鎖された。CCAは、誰かが権力にある人々、政府の政策又は政権にいる人々について書くことは問題となるとの意見であった。CCAは、地方においては言論の自由はより制限されているとの意見であった。誰かが地方の有力者について批判を表明した場合、その人やその人に近い人も報復を受ける危険がある。CCAは、政権にいる、又は政権に近い人から脅迫を受けたと説明した。これは、二〇〇三(平成一五)年にアフガニスタンが国際戦争犯罪裁判所に参加したときに起きた。この当時CCAは、アフガニスタンの加盟について書き、国家は将来、戦争犯罪人に対処するのによい地位を手に入れるだろうと書いた。直後にCCAは、CCAが戦争犯罪人を裁判所に告発すると恐れ、CCAが国家の人権状況について書くことを差し控えるよう要求する人々から脅迫を受けた。

(4)  原告の経歴、出国、来日等に関する状況

ア 原告の経歴、アフガニスタンを出国するまでの経緯等

(ア) 原告は、一九七〇(昭和四五)年ころ、カブールで出生した。原告には、父母と弟一人、妹一人がいる。

(イ) 原告は、カブール工業大学を卒業した後、カブールにある大学に進学し、奨学金を得て旧ソ連のマグニトゴルスク教育産業大学に留学した。専攻は、エンジニアリングであった。一九九〇(平成二)年末ころ、大学を卒業し、兵役の訓練を受け、兵役の代わりに空港の警備員を勤めるなどした後、一九九二(平成四)年ころから、国営テレビ局への就職を希望して、カブールにあるテレビ局に出入りし、仕事の手伝いをしていたが、内戦の影響で多くの機材が失われており、仕事らしい仕事はなかった。

(ウ) 原告は、友人を通じてアフガニスタン人ジャーナリストのビジャンプールと知り合い、ビジャンプールの紹介で、一九九三(平成五)年三月ころ、カブールで元カブール大学医学部教授のシナ博士と知り合った。また、同年ころ、原告は、アフガニスタン・ジャーナリスト協会のメンバーとなった。

(エ) 原告は、一九九六(平成八)年、タリバンがカブールを制圧する数日前に、パルワン州のチャリカールに避難し、そこでラジオ局の仕事を手伝っていた。その後、マザリシャリフ、さらに、タハール州のタロカンに避難し、タロカンでもラジオ局の技術者として働いていたが、ここもタリバンの進攻で危険になってきたため、タジキスタン南部経由でイランのマシャドに避難した。タジキスタンへは軍用ヘリコプターで入り、そこからイランへは軍用機で入った。チャリカール、マザリシャリフ及びタロカンに滞在していた期間は、それぞれ一年前後程度であった。

イ 原告のイランでの活動状況及び来日までの経緯

(ア) 原告は、イランのマシャドのビジャンプールの家で、かつてカブールで近くに住んでいて、シナ博士らと一緒の知り合いであったDに再会した。原告は、後記(ウ)の前にも、Dとともに、アフガニスタン・ジャーナリスト協会の依頼により、タハール州で戦争の撮影をしていたジャーナリストからビデオなどを受け取る目的で、二週間程度イランからアフガニスタンに戻ったことがあった。

(イ) 二〇〇〇(平成一二)年五月、アフガニスタン・ジャーナリスト協会のメンバーであったDは、在イラン日本大使館を訪れて、アフガニスタンの現状の紹介及び日本のジャーナリストとの交流のため同協会の費用負担で日本を訪問したいとして、渡航証明書の発給及び関係者の紹介等に関する支援を要請した。外務省は、在イラン日本大使館において、同協会の会長であったビジャンプールから同協会の活動状況につき聴取したのち、同協会の活動を側面支援することが適当と判断し、ビジャンプールを外務省招聘計画で日本に招聘することとした。在イラン日本大使館は、アフガニスタン・ジャーナリスト協会と調整の結果、同年一〇月一六日から同月二三日までの日程で招聘することを決定した。同協会は、ビジャンプールの通訳、同行者として、原告及びDを自費で同行させる意向を在イラン日本大使館に伝えるとともに、原告及びDに対する渡航証明書発給について申請した。

(ウ) 二〇〇〇(平成一二)年六月ころ、在イラン日本大使館文化センターからアフガニスタン・ジャーナリスト協会に対し、日本のNHKからの取材依頼の話が持ち込まれ、その後、同文化センターにおいて、原告、D及びビジャンプールらがNHKテヘラン支局の担当者と会見した。同担当者は、原告らに対し、NHKはここ数年アフガニスタンの取材に入っていないので、取材フィルムを入手してくれるとありがたいと話した。そこで、原告とDは、イランからタジキスタンを経由してアフガニスタン北部の北部同盟の支配地域に入り、一か月余りの間、各地を撮影した後、再びタジキスタンを経由してイランに戻った(以下このときに撮影されたビデオテープを「ビデオ①」という。)。

(エ) 在イラン日本大使館は、原告及びDからの渡航証明書申請を受けて、両名のイランへの再入国及びイラン滞在が不法滞在になる等の問題が生じないこと、訪日目的は専らアフガニスタンの現状の日本への紹介及び日本のジャーナリストとの交流、意見交換であること、並びに所定の訪問日程を過ぎて日本に滞在する意図はないこと等を確認し、二〇〇〇(平成一二)年一〇月二日、両名に渡航証明書を発給した。

(オ) 二〇〇二(平成一二)年一〇月一六日、ビジャンプールがイランから来日し、原告とDは、ビデオ①と、アフガニスタン・ジャーナリスト協会所属のジャーナリストが撮影してビジャンプールの手元にあったビデオテープ(以下「ビデオ②」といい、ビデオ①と併せて「本件ビデオ」という。)を所持して、同年一〇月一九日、本邦に入国した。ビジャンプールは、同年一〇月二三日、イランに向けて本邦を出国した。

ウ 原告の来日後の状況

(ア) 原告の本邦入国日である二〇〇〇(平成一二)年一〇月一九日の午後一一時からのNHK―BSニュースにおいて、本件NHKリポートが放送され、その中で、ビデオ①の内容の一部が放映された。本件NHKリポートは、翌二〇日にも午後八時から再放映された。

(イ) 原告は、イランへの再入国のために、本邦入国後速やかに、在日本イラン大使館において、イラン査証の申請をしたが、トランジット用の査証しか発給されないことが判明した。また、カナダへの査証も申請したが、認められなかった。そこで、アフガニスタンへの送還を回避するため、二〇〇〇(平成一二)年一二月一一日、本件認定申請を行った。

(ウ) 二〇〇一(平成一三)年九月二九日午後一〇時からのTBSの番組「ブロードキャスター」の中で、本件TBS特集が放送され、その中で、ビデオ①及びビデオ②の内容の各一部が放映された。

(エ) 二〇〇二(平成一四)年六月七日に本件不認定処分が原告に通知され、原告は、同年六月一三日、異議の申出をした。原告が、シナ博士に対し、原告に関する記事、雑誌等の送付を依頼したところ、二〇〇三(平成一五)年一月二日、シナ博士から、Eメールで、本件盗掘記事に関する資料が送られてきた。原告は、同年一月二〇日、異議申出についての事情聴取において、これらの資料を難民調査官に提出した。

(5)  本件ビデオの放映状況

ア 本件NHKリポートの内容

(ア) 本件NHKリポートは、内戦が続くアフガニスタンにおいて、タリバンが首都カブールを制圧した際に多くのジャーナリストがアフガニスタンからイランなどに脱出したが、そうしたジャーナリストの一人が内戦の最前線を取材したものであるとして、ビデオ①の内容の一部を紹介したものである。

(イ) 番組では、ビデオ①の内容であるとして、八月半ば、ビデオ①の撮影者が、タジキスタンとアフガニスタンとの国境の川を筏で渡り、北部同盟の支配地域に入ったときの様子、国境から約八〇kmの町ケシムにおいて、戦闘を逃れてきた避難民が避難生活を送っている様子(番組では、ケシムにおける避難民の数を約三〇〇〇人と報じている。)、北部同盟の集会において、指導者であるラバニ大統領が演説を行っている様子、ケシムから西へ約四〇kmの位置にある最前線の町タロカンにおいて、北部同盟の兵士たちが駐留している様子、町で唯一の病院内に負傷者があふれ、取材を受けた病院長が「救急車が足りないために、負傷者を運ぶことができません。医療品や手術用具もほとんどない状況です。」と述べている様子、マイクを向けられた北部同盟司令官が「タリバンの兵力は弱体化している。奪われた土地は必ず奪還する。」と述べている様子、九月上旬にタリバンがタロカンの市街地を攻撃し、数日間にわたる空爆で、建物が破壊され、多数の死傷者が出た際に、子供が「戦争は早く終わって欲しい。このままでは避難するしかないよ。」と述べている様子などが放映され、最後に「内戦の最前線の町を取材したアフガニスタン人のジャーナリストは、『現地の状況は、予想していた以上に悲惨だった。アフガニスタンの人々のこうした現状を少しでも世界に知ってもらいたい』と話していました。」と報じている。

(ウ) 番組の中で原告やDの氏名、経歴等が明らかにされることはなく、ビデオ①の中に北部同盟司令官にマイクを差し出す人物の姿が映し出されているものの、帽子と頬被りを着用した横顔が見えるだけで、容貌が鮮明に映し出されているものではない。

イ 本件TBS特集の内容

(ア) 本件TBS特集は、二〇〇一(平成一三)年九月一一日の同時テロ後のアフガニスタン国内外の情勢について解説する約二〇分間の特集であり、その構成は、概ね、①欧米系記者によるタリバン外相への電話インタビュー(約四分間)、②タリバン政権下のアフガニスタンの現状の紹介(CM約二分間を含み約六分間)、③パキスタンからの中継映像を交えての今後のアフガニスタン、パキスタン及び米国の関係の紹介(約四分間)、④番組のキャスター、大学助教授らによる総合的解説による取りまとめ(約六分間)である。

(イ) 番組では、前記②タリバン政権下のアフガニスタンの現状の紹介の中で、二人のアフガニスタン人ジャーナリストが日本に持ち込んだビデオであるとして、ビデオ①及びビデオ②の内容の各一部が放映されている。

a まず、ビデオ②の内容として、広場における公開処刑の様子が紹介され、拡声器を持った人物が「彼は人を殺した。亡くなった方の家族に彼を殺す権利を与える。犯人の償いは殺されること。我々はその権利を与える。」と宣言している様子や、息子を殺されたとされる女性が犯人とされる男性の首を刃物で切り裂こうとしている場面などが映し出される。その直後にDと原告が画面に登場し、Dが、「タリバンはこのような公開処刑に誇りを持っていて、毎週金曜日欠かさず行っています。罪人の手を切ったり、首を切ったり。」(ただし、日本語によるナレーション。以下同じ。)とのコメントを行う。

b 次に、ビデオ①の内容(番組内では、「昨年九月」の映像とされている。)として、撮影者が北部同盟の兵士とともに、タジキスタン国境の川を渡り、アフガニスタンに入る様子が映し出される。その直後にDと原告が画面に登場し、Dが、「この川がタジキスタンとの国境なのです。イラン側の国境はタリバンが封鎖しているので、人も物もアフガニスタンにはここから入るしかないのです。」とのコメントを行う。

c さらに、ビデオ①の内容として、「対岸の村ケシム」の様子が「戦闘を逃れてきた難民たち三〇〇〇人があふれていた。」との解説とともに映し出され、続いて「タリバン政権前の大統領ラバニ氏」及び「北部同盟故マスード司令官」(マスード司令官は、番組の中で、同時テロの二日前に自爆テロで暗殺されたと説明されている。)の姿、「最前線の町タロカン」における北部同盟の兵士たちや荒廃した町の様子、北部同盟側の人物と思われる者が大量の大麻を撮影者に見せて「この大麻はタリバンから没収したものだ。タリバンはこれを外国に売って金にしようとしていたのだ。」と述べている様子などが映し出され、最後に、取材中に遭遇したタリバンからの空爆の様子が映し出される。その直後にDと原告が画面に登場し、Dがまず、「私たちもこれを撮影した後すぐに逃げました。もしタリバンにつかまったら即刻処刑されたでしょう。それでも私たちは、世界にアフガニスタンの惨状を伝えるため、カメラを回し続けます。」とのコメントを行い、続いて原告が、「もちろんこの映像には、アフガニスタンの北部の様子しか映っていません。しかし、これこそがアフガニスタン全土で起こっていることなのです。」とのコメントを行う。

(ウ) 原告とDは、番組の中で氏名、経歴等が明らかにされることはないが、ビデオ紹介部分の冒頭と、各コメントを行う際に、計四回画面に登場する。その際の原告らは、テレビ局内の一室と思われる部屋の中に着座して、テレビ局側のインタビューに答えるという姿で映し出されており、各コメントの際には各自の顔がアップになり、その容貌を明瞭に認識することができる。

(6)  本件盗掘記事に関する資料の内容

ア シナ文化財団(代表シナ博士)が発行した二〇〇二(平成一四)年一二月一一日付けの証明書には、次のとおりの記載がある。

(ア) まず、事実経過として、シナ文化財団発行の雑誌が、一九九二(平成四)年以来アフガニスタンを支配しているムジャヒディンについて報道したところ、文化イスラム指導省が、同財団が反政府的及び反イスラム的プロパガンダを行ったとの抗議書を国防省に提出し、これに基づいて、高等裁判所が、同雑誌の編集者に対する逮捕状を発付し、同雑誌を発禁処分にしたこと、そのため、ほとんどすべての執筆員たちが、迫害を逃れるために国外退去を余儀なくされ、また財団創設者で雑誌編集長のハーレット・タルジョマーンが、アフガニスタン北部の都市マザリシャリフで射殺されたこと、一九九五(平成七)年一月一五日、シナ博士によってシナ文化財団の拠点がタジキスタンの首都ドゥシャンベに設立され、シナ博士は同財団の発行する月刊誌「SINA」の編集長に就任したことなどの記載がある。

(イ) 次に、シナ博士の証言及び意見として、原告が活動的な執筆員であり、アフガニスタンの歴史的遺産が「ムジャヒディンの兵士たち、とくにカジムハリリにより支配されカルザイ政権で財務大臣であるワハダット党及びアフガニスタンの北部の広大な地域を支配し、カルザイ政権で最も権力を持つジャミアットイスラミ党の人々」によって破壊され、窃取されることについての原告の記事が雑誌に掲載されたことを証明する旨、アフガニスタンのすべての権力は前ムジャヒディンの手にわたっており、執筆員らにアフガニスタンが武装解除され民主主義と自由が生まれるまでアフガニスタン国外に留まるように強く勧告する旨、及び原告には、現在権力を持ち、かつ、その権力を濫用している者から、迫害を受ける危険性がある旨の記載がある。

イ シナ文化財団がユネスコに対しイスラム歴一三七五年八月二九日(西暦一九九六(平成八)年)付けで提出した抗議書には、アフガニスタンの重要都市を支配しているタリバンが、アフガニスタンの歴史的史跡、古代史物、古代の彫刻や書物等を消失させている旨の事実の指摘と、ユネスコ及び国連がこれを阻止するための必要な手段をとることを求める旨の記載がある。

ウ 本件盗掘記事に係る資料は、雑誌の表紙と記事本文とで構成されている。

(ア) 雑誌の表紙は、一九九五(平成七)年一月一五日発行の「SINA」誌の表紙である。

(イ) 記事本文は、書籍の五一頁ないし五四頁に掲載された体裁の文章である。最初の頁には「アイホネム:悪い歴史の傷」というタイトルのほか、執筆者として「A・B」の名が付されており、各頁の左肩には「アリアナ文化促進出版」、右肩には「(アリアナ文化)ファルハング・アリアナ」の各記載がある。

(ウ) 記事本文の内容は、アイホナム(タハーリスタン)という都市が、紀元前のマケドニアのアレクサンダー大王による征服以来、ギリシャ・ビクトリア文明の首都として繁栄し、多くの歴史的遺産を残していたことなどを紹介した上で、アフガニスタンにおける二〇年にわたる戦争がこのような貴重な歴史的遺産を消失させてしまったことを嘆かわしいこととするものであり、その中に次のような記載がある。

a ムジャヒディンは、ソ連の侵攻と戦って敗北させ、国を解放した。しかし、今日、同じ人々(ガンマン)が、遺産を、史跡から、例えばアイホネムのほかに、Sheberghan地方のTelta Tapa(黄金の丘)、Sorkh Kotal、Jalalabad東部地方のHada、Kapisa Khakrez及びMirza-kaiなどからは勿論、画廊から、カブール市の中心にある国立古文書館から、カブールの南にあるカブール国立博物館から略奪し、冷酷にもこの国の歴史、文化そして尊厳を消滅させた。

b アイホネムの遺跡は悲劇的な状況にある。古代都市の大きさは、一・五km×五kmであり、そこは、最近数年、この地方を支配する石のように冷たい心の人々が、宝石や工芸品を求めて発掘している。触れることができないような固い地面をこの都市の中で見つけることは困難であろう。この地方及び地元のコマンダーが、彼らのために人々に史跡を発掘させているのだ。

c 発見されたものは毎日、この地方のコマンダーによって集められ、闇市場で売られ、その収入の一部はこの地方の最大のコマンダー(……!)の懐に入る。そして発見された工芸品は、本当の価値と比較すれば何もないというような値段で、海外の闇市場で売られると考えられている。非常に芸術的な工芸品と、この地方における支配者達と外国人ブローカーとの間のこうした工芸品についての恥ずべき取引が目撃されている。例えば、二年前、アイホネムの、一〇二cmの高さの純金の彫刻でエメラルドの唇とダイヤモンドの眼を持った高い芸術的価値を有する古代の驚くべき品が、この地方の支配者の面前で、冷血な外国人ブローカーにオークションされた。そして、最高司令官は、このような地方のコマンダーの恥ずべきオークションを中止させるのではなく、彼らがオークションを宣伝するのを助けたのだ。彼らは共犯者であり、同じ利害関係を有していたのである。国を支配しながら、国家遺産には無関心なのである。

二  原告の難民該当性について

(1)  本件ビデオの放映について

ア 本件ビデオの撮影者等がタリバンから迫害を受けるおそれ

本件ビデオの内容は、前記のとおり、内戦下の北部同盟支配地域における避難民及び北部同盟軍兵士などの様子(ビデオ①)、タリバン支配下での公開処刑の様子(ビデオ②)などを撮影したものである。本件各テレビ番組の中では、本件ビデオはアフガニスタンの現状を伝えるものとして紹介されているのであるが、上記のような内容のビデオを撮影し放映する行為は、民衆の姿のテレビ放送及び写真撮影を禁止するタリバンの政策方針に抵触するものである上、ビデオ①は、その内容が、北部同盟の支配地域において、北部同盟の指導者であるラバニ大統領及びマスード司令官の姿を撮影し、さらに現地司令官その他の北部同盟関係者が、タリバンへの強い敵意を表明したり、タリバンの大麻取引を暴露したりする様子を撮影しているものであることからすると、その撮影者ないし提供者はタリバンから見ればタリバンに敵対する北部同盟側に加担する者であるとの疑いを持たれかねないものであり、また、ビデオ②は、犯罪者の処刑を公開するというタリバンの非人道性を視聴者に強く印象付けるものであるから、いずれも、タリバンがその撮影者ないし提供者を攻撃の対象とする契機となり得るものであると認められる。そして、前記のとおりの各種報告からうかがわれるタリバン政権下での人権状況等に照らしてみれば、タリバン政権下のアフガニスタンにおいては、本件ビデオの撮影者ないし提供者は、本件ビデオを撮影し、又はこれを日本のテレビ局に提供したことを理由として、タリバン政権から逮捕、拘禁等の迫害を受ける現実的な危険性があったものというべきである。

この点、被告らは、本件NHKリポートは、タリバンに対抗する勢力である北部同盟の視点からタリバンを批判するものではなく、タリバンと北部同盟双方に中立的な一般的な報道番組にすぎず、本件TBS特集も、パキスタン、米国の動向等を含め当時のアフガニスタンの国内、国際情勢を解説しようとするもので、タリバン政権を批判すること自体を目的としているものではないから、これらの番組の視聴者に、本件ビデオの撮影者ないし提供者が反タリバン活動をしていると認識させるものではないと主張する。しかしながら、番組全体の趣旨がそのようなものであったとしても、本件ビデオ自体の内容は上記のとおりであって、少なくともタリバン関係者がこれを視聴した場合にその撮影者ないし提供者に対して敵意を抱かせる危険性のある内容であることを否定することはできない。

イ 原告が本件ビデオの撮影等を理由にタリバンから迫害を受けるおそれ

前記認定のとおり、本件ビデオは、原告とDがイランから日本に持ち込み、日本のテレビ局に提供したものであり、このうちビデオ①は、原告とDが自ら撮影したものである。そして、前記のとおり、本件NHKリポートにおいては、本件ビデオの提供者を「アフガニスタンから脱出したジャーナリストの一人」としか紹介しておらず、ビデオに映る取材者の容貌等からその人物を特定することも困難であるといわざるを得ないが、本件TBS特集においては、コメントをする原告及びDの顔が画面の中にアップで登場し、その容貌を明瞭に認識することができるのであるから、原告の容貌を知っている者にとっては、本件TBS特集を見れば、少なくとも本件ビデオをテレビ局に提供した者の一人が原告であることを容易に認識することができるはずであり、さらに、ビデオ②を含めた本件ビデオ全部の撮影者も原告及びDであるとの印象を持つであろうことも容易に推認できるところである。

原告は、前記認定のとおり、一九九三(平成五)年ころからアフガニスタン・ジャーナリスト協会のメンバーであったものであり、また、Dとともに、ビデオ①の撮影のために避難先のイランからアフガニスタンに戻り、一か月余り滞在して各地を撮影したことがあるほか、さらに別の機会にも、Dとともに、アフガニスタン・ジャーナリスト協会の依頼を受けて、タハール州で戦争の撮影をしていたジャーナリストからビデオなどを受け取る目的で、二週間程度アフガニスタンに戻ったことがあったというのであるから、このような活動の間に、原告の容貌等がタリバンに把握されていた可能性がないとはいえない。また、仮に原告がアフガニスタンに帰国し、同国で活動を再開した場合には、周囲の者から、「日本から帰国したジャーナリスト」というイメージで認識されることは十分にあり得る事柄であると考えられるところ、このようなイメージと本件TBS特集に関する情報とが結び付いて、原告が同番組へのビデオ提供者であることが特定され、タリバンやそのシンパから、反タリバン派のジャーナリストとして認識されるに至る可能性も考えられるところである。以上のような事情は、原告が本件TBS特集の放映を原因としてタリバンから迫害を受けるのではないかとのおそれを抱く十分な理由になり得るものということができる。

なるほど、被告らも指摘するように、本国にあるタリバンが日本で放送された本件TBS特集を視聴していたことを認めるに足りる明確な証拠はないが、日本に滞在する他のアフガニスタン人等が番組を視聴して本国に伝える可能性が考えられるほか、ある国のテレビ局の放送内容を他の国のテレビ局が紹介するということが日常的に行われており、そのようにして本件TBS特集が日本以外の国でも放送されて視聴された可能性も考えられる(特に本件の場合は、タリバンが報道を禁止していたために、各国ともアフガニスタンの現況に関する情報の入手が困難であったという事情があり、さらに、本件TBS特集が放映されたのが、二〇〇一(平成一三)年九月一一日の同時テロの発生を受けて、犯人と目される武装グループを匿っていたアフガニスタンの情勢に全世界的な注目が集まっていた時期であったという事情もあって、本件TBS特集が他国で紹介された可能性は通常の場合よりも高かったものと考えられる。)ことなどからすると、TBSという日本の主要なテレビ局の番組で本件ビデオが放映された以上、そのことだけでも、原告がタリバンに知られたのではないかとの危惧を抱くことには十分に理由があるものというべきである。

なお、被告らも指摘するとおり、本件TBS特集の放送に際し、原告が自己の容貌を明らかにしたことは、身の危険をおそれる者の行動として不自然であり、ここに原告も本件ビデオを危険なものではないと認識していたのではないかとの疑いを入れる余地がある。また、この点に関連して、本件TBS特集の放送が本件認定申請後であったことから、原告が難民の認定を有利にするために自己の容貌を明らかにしたのではないかとの疑いも残るところである。しかしながら、本件ビデオの放送によって原告に迫害の危険があることはこれまで説示してきたとおりであり、このような危険を原告が認識していなかったとは考え難く、それにもかかわらず自らの容貌を画面にさらす危険をあえて冒したのは、前記のようにアフガニスタン情勢について全世界的な注目が集まっていた時期において、本件ビデオの迫真性を増しニュース価値を一層高めるために、ジャーナリスト精神を鼓舞して行った行動とも解釈できるのであるから、必ずしも不自然な行動であるとか、難民の認定を有利にするためだけの行動であるとはいえないし、これによって原告に対する客観的な迫害の危険性が減殺されるものでもない。

以上のことからすると、原告が本件ビデオの放映を理由にタリバンから迫害を受けるおそれは十分にあるものというべきである。

ウ 本件不認定処分時における迫害のおそれ

前記のとおり、本件ビデオが放映された後、二〇〇一(平成一三)年一二月には、タリバンが政権としての統治能力を喪失して、日本政府を含め国際社会から承認されたアフガニスタン暫定行政機構が成立し、本件不認定処分が行われた二〇〇二(平成一四)年五月一三日のころには、世界各国もアフガニスタンの復興を支援し、アフガニスタン難民の帰還が進み、国内の秩序も徐々に回復している状況にあったことが認められる。

しかしながら、本件不認定処分がされたのはタリバン政権が崩壊してわずか五か月後のことにすぎず、当時の暫定行政機構は米英の支援によって軍事的勝利を収めた北部同盟が中心となって設立されたもので、ロヤ・ジルガに基づく暫定政府の成立にさえ至っていない段階であり、暫定行政機構成立後一年を経過した二〇〇二(平成一四)年一二月のヒューマンライツウォッチ報告においてさえ、首都カブール以外の地域は従来からの軍閥に支配され、暫定政府の支配権が及んでいないことが指摘され、さらに、二〇〇三(平成一五)年六月のアムネスティ・インターナショナル報告によれば、むしろアフガニスタンのいたるところで敵対地域及び地方司令官間の派閥抗争が激増しているとのことであり、同年一〇月に至ってようやく軍閥の解体を目的とするDDR計画が始まったものの、その約一年後の二〇〇四(平成一六)年九月の国連独立専門官報告が行われる時点では同報告の中で「現段階ではその成果は微々たるもの」と酷評される状態であった。この間、政権を離れたタリバンが、組織としても崩壊したことをうかがわせるような証拠は存在せず、かえって、前記のとおり、本件不認定処分直後の二〇〇二(平成一四)年六月には早くもオマル師によって反米のための結束が呼びかけられたことが報道されたほか、二〇〇三(平成一五)年には再結集したタリバンの武装勢力が政府軍や米軍との戦闘を繰り返すようになり、そのため、国連安全保障理事会が、アフガニスタンに派兵されているISAFの展開地域を、首都カブール及びその近郊からアフガニスタン全土に拡大することを認める決議をするほどであったことが認められる。そうすると、本件不認定処分の時点においては、暫定政権がアフガニスタン全土を完全に掌握し治安の安定を実現させていたとは到底いい難く、そのような状況の下においては、タリバンの残党等の活動を暫定政権が実効的に阻止することができない可能性が十分にあったと考えられる。したがって、先に説示した原告がタリバンから迫害を受けるおそれは、本件不認定処分がなされた当時のアフガニスタンにおいても依然として存在していたものというべきである。

(2)  本件盗掘記事の執筆について

ア 本件盗掘記事の執筆者が旧ムジャヒディン(北部同盟)勢力から迫害を受けるおそれ

本件盗掘記事は、前記のとおり、アイホネムという遺跡の所在地を支配する地元武装勢力(ムジャヒディン)の司令官が、歴史的遺産である工芸品等を盗掘し、闇市場で売却して、不当な利益を得ていることを糾弾する内容のものである。そして、弁論の全趣旨によれば、アイホネム遺跡の所在地(タハール州)を支配しているのは、北部同盟のラバニ=マスード派に所属する司令官であることが認められ、しかも、本件盗掘記事には、前記のとおり、「最高司令官」が闇市場でのオークションに便宜を図り、利益の一部を取得している旨を指摘する記載も認められるのであるから、本件盗掘記事は、北部同盟傘下の地元司令官のみならず、その「最高司令官」である故マスード司令官の悪行の事実をも摘示する内容のものであるということができる(この点、原告も、本人尋問において、批判の対象にしていたのは、マスード司令官と地元の司令官であると供述している。)。旧北部同盟勢力の支配下における人権状況等については、前記のとおり、タリバン政権崩壊前からすでに言論の自由に対する権力者の干渉や政治的暗殺等の深刻な人権侵害が指摘されていたほか、タリバン政権崩壊後の暫定政権下においても、少なくとも本件不認定処分がされた当時においては、暫定政権の支配が及ぶのは首都カブールのみで、それ以外の地域は従来からの軍閥に支配されているという状況の下で、暫定政権や軍閥の有力者を批判した者に対しては脅迫、虐待の危険があり、この傾向は地方のみならず、北部同盟主体の暫定政権が支配する首都カブールにおいても同様であったことが認められる。したがって、二〇〇一(平成一三)年一二月二二日の暫定政権発足式典において故マスード司令官の遺影が大きく壇上に掲げられ、暫定政権においても故マスード司令官が最大級に英雄視されていたことがうかがわれることなども考慮すれば、本件盗掘記事の執筆者が旧ムジャヒディン(北部同盟)勢力から迫害を受けるおそれは、本件不認定処分当時においても十分にあったものというべきである。

この点、被告らは、アフガニスタン現政府がアフガニスタン文化遺産復興に尽くしていることやアフガニスタン現政府下におけるメディア状況を根拠として、移行政権やアフガニスタン現政府が本件盗掘記事の執筆者を過去の政府批判行為を理由に迫害の対象とするものとは考え難いと主張する。しかしながら、本件盗掘記事は、単に文化遺産の盗掘、密売行為を非難するだけではなく、軍閥の特定の有力者が不正行為を行っているとして、それを批判するものである上、軍閥が地方の支配権を掌握し、中央暫定政権も軍閥を主体として設立されたものであったという状況の下においては、軍閥の活動を暫定政権が実効的に阻止することができない状態にあったというべきであり、また、暫定政権下における現実の人権状況等も前記摘示のとおりであるから、暫定政権の文化遺産及びメディアに関する政策がいかなるものであるにせよ、本件盗掘記事の執筆者が迫害を受けるおそれがあることを否定することはできない。

イ 原告が本件盗掘記事を執筆したこと

前記のとおりの本件盗掘記事の体裁や、執筆者として原告の名である「A・B」の名が付されていること、原告がシナ文化財団の代表者であるシナ博士に対し原告に関する記事、雑誌等の送付を依頼したところ、シナ博士からEメールで本件盗掘記事に関する資料が送られてきたという事実経過、さらに、シナ博士が、原告が同財団の活動的な執筆員であり、アフガニスタンの歴史的遺産が旧ムジャヒディン勢力によって破壊され、窃取されることについての原告の記事が雑誌に掲載された旨を述べていることなどからすると、本件盗掘記事は原告が執筆し、シナ文化財団発行の雑誌に掲載されたものであることが認められる。なお、本件盗掘記事が掲載された雑誌の名前及び発行日については、シナ博士から送られてきた資料に一九九五(平成七)年一月一五日発行の「SINA」誌の表紙が添付されている反面、記事本文の右肩には「(アリアナ文化)ファルハング・アリアナ」の記載があって、いずれとも決し難い。原告は、本人尋問において、本件盗掘記事の掲載誌を「ファルハング・アリアナ」誌であると供述するが、原告自身は掲載された雑誌を見たことがないというのであるから、結局のところは記事本文右肩の「(アリアナ文化)ファルハング・アリアナ」の記載のみを根拠として述べているにすぎないものと考えられる。

被告らは、原告が真に本件盗掘記事を書いたのかは極めて疑わしいとして、原告が本件盗掘記事の掲載誌について「SINA」誌から「ファルハング・アリアナ」誌に供述を変遷させたことは不合理であり、また掲載誌がいずれであっても一九九八(平成一〇)年ないし一九九九(平成一一)年ころに執筆したという原告の供述とは矛盾すると主張する。しかしながら、上記のとおり、そもそも本件盗掘記事が掲載された雑誌の名前及び発行日はいずれとも決し難いのであって、掲載誌そのものを見たことがない原告が、あるときは資料添付の「SINA」誌の表紙を見て「SINA」誌であるといい、またあるときは記事本文右肩の「(アリアナ文化)ファルハング・アリアナ」の記載を見て「ファルハング・アリアナ」誌であると供述したところで、供述に不合理な変遷があるとはいえないし、シナ文化財団発行の雑誌がアフガニスタンで発禁処分になった後も、一九九五(平成七)年一月一五日以降「SINA」誌がタジキスタンで発行され、「ファルハング・アリアナ」誌もタジキスタンで発行されていたというのであるから、発行日と執筆時期との間に矛盾があるということもできない。

また、被告らは、原告が難民調査官に対し本件盗掘記事への自己の実名の掲載を明確に否定していたことは客観的事実と整合せず不自然であり、原告が本件盗掘記事が実際に雑誌に掲載されたのかどうか、掲載誌の発行の間隔、おおよその発行部数を承知していないことも不合理である旨主張する。しかしながら、本件盗掘記事に原告の実名が掲載されていることは客観的に明らかなことであるから、原告がこれを難民調査官に対して否定したということは単にそのとき原告が記事本文をよく見ていなかったというだけのことにすぎず(実名が掲載されていることを原告が認識していたとすれば、自己に有利な実名掲載の事実をあえて否定する必要はない。)、また、原告は身に危険が生じないように本件盗掘記事を匿名で掲載するよう依頼していたというのであるから、その後原告が記事の掲載の有無や掲載雑誌の発行部数等に関心を示さず、その結果これらを承知していなかったとしても、さほど不合理なこととはいえない。

さらに、被告らは、Dの供述や原告の経歴がエンジニアであることを指摘して、原告が本件盗掘記事を書いたことに疑問を呈するが、Dの原告に関する供述は、「記事を書いたり、撮影をする能力はありません。」という内容から、「技術者でありながら、記事を書く能力に優れておりました。」という内容へと著しく変遷しているのであるから、当初の供述内容のみを採用することは困難であり、また、エンジニアが文化遺産盗掘の記事を雑誌に執筆することがそれほど奇異なことであるともいえない。

ウ 原告が本件盗掘記事の執筆を理由に旧ムジャヒディン(北部同盟)勢力から迫害を受けるおそれ

原告は、難民調査官に対する供述の中で、イランに逃れてからシナ博士から直接聞いた話によると、マスード派の司令官がタジキスタンまで人を派遣してシナ文化財団の事務所に圧力をかけてきたことがあり、その際、その場にいた誰もが本件盗掘記事の執筆者は「自分ではない。」と否定したということであったので、残る原告が記事を書いた本人であると思われる可能性があると供述している。しかしながら、そのような事実があったのであれば、難民認定申請書に北部同盟(反タリバン)の一部の兵士に対して徹底的に対抗した旨を記載し、東京入管に提出した供述録取書でも北部同盟の一部による甚大な人権侵害等に対して抗議する姿勢をとってきた旨を述べ、当初から北部同盟による迫害のおそれを主張していたという原告が、そのようなマスード派の司令官からの圧力の事実を本件認定申請の当初において主張していなかったというのは不自然であり、そのような事実が真実存在したかどうかは疑わしいものといわざるを得ない。また、仮にそのような事実があったとしても、原告の供述によれば、その場にいなかった原告が疑われた可能性があるというにとどまり、本件盗掘記事の執筆者として掲載されている「A・B」が原告であるということまでがマスード派の司令官に知られてしまったということではない(なお、シナ博士の証明書によれば、シナ文化財団所属の執筆員でタジキスタン以外の国にいる者は原告のほかにも五人いることが認められるから、その場にいなかったからといって原告のみが疑われたということもできない。)。その他、本件盗掘記事の執筆者「A・B」が原告であるということを、旧ムジャヒディン(北部同盟)勢力が把握しているものと認めるに足りる明確な証拠はない。

しかしながら、前記のとおり、シナ文化財団は、発行する雑誌がムジャヒディン政権時代に反政府、反イスラムであるとして発禁処分となり、そのためほとんどすべての執筆員らが迫害を逃れるために国外退去を余儀なくされたという経歴を有する団体であり、もともと旧ムジャヒディンからは敵対勢力と見られているものであることからすると、原告の帰国後のシナ文化財団における活動の状況によっては、同財団発行の雑誌に掲載された本件盗掘記事が旧ムジャヒディン(北部同盟)勢力に敵視され、そこに実名で掲載されている「A・B」が原告であることが把握されて、迫害の対象となることも十分に予想されるところである。したがって、原告が本件不認定処分当時において、本件盗掘記事を執筆したために旧ムジャヒディン(北部同盟)勢力から迫害を受けるとのおそれを有していたことには、十分に理由があったものというべきである。

なお、被告らは、原告がマスード派と同一の党に属するラバニ派から発給された証明をもってアフガニスタン、イランの間を出入りし、またテヘラン駐在アフガニスタン大使館(タリバン以前のムジャヒディン政権が設置したもの)において旅券の発給を受けていることからすれば、暫定政権から迫害を受けるおそれがあるとする原告の主張には理由がないと主張するが、上記に説示したところによれば、上記の証明や旅券の発給の当時はまだ原告が本件盗掘記事の執筆者であることを旧ムジャヒディン(北部同盟)勢力に把握されていなかった可能性が高いのであるから、被告らの主張は理由がないものというべきである。

(3)  原告の来日及び難民認定申請の目的について

被告らは、①原告がNHKと外務省の招待を受けて本邦に入国したという供述は事実に反し信用できず、②原告がジャーナリストとしての活動を行うために来日したともたやすくは認められず、③原告がイラン在住の家族に多額の送金をしていることや、アフガニスタンではなくイランからあえて家族を残して我が国に渡航してきていることからすると、原告の真の目的は、我が国における就労活動にあるというべきであると主張する。

しかしながら、まず、①の点は、前記のとおり、原告は、NHKの依頼によって取材したビデオを提供するために、外務省の招聘を受けたビジャンプールに同行して来日したのであるから、このことを称して原告が「NHKと外務省の招待を受けた」と供述したとしても、ことさら虚偽の事実を述べたものということはできず、このことが原告の難民該当性の有無に影響するものではない。次に、②の点は、原告はNHKの依頼によって取材したビデオを提供するために来日し、これをNHK及びTBSの放送に供しているのであるから、これを「ジャーナリストとしての活動」と評価することは十分に可能である上、この点の評価に関する見解の相違が原告の難民該当性の有無に影響を及ぼすものとはいえない。最後に、③の点は、前記認定のとおり、原告は、アフガニスタン国内の内戦のためにイランに避難していたものであるところ、NHKの依頼を受けて取材したビデオを提供するために来日することとなり、来日後はすぐにイランに帰るつもりであったが、イラン査証がトランジット用のものしか得ることができず、そのままでは在留期間が切れてアフガニスタンに送還されるおそれが生じたことから、これを避けるためにやむなく難民認定申請を行ったものであって、原告の来日及び難民認定申請の真の目的が我が国における就労活動にあったとはいえず、その後原告が就労する意図を有するに至ったとしても、原告の難民該当性と相容れない事情ではない。

(4)  まとめ

以上のとおり、本件不認定処分時において、仮に原告が帰国した場合には、本件ビデオの撮影ないしテレビ局への提供及び本件盗掘記事の執筆を行ったことが、特定の社会的集団の構成員(ジャーナリスト)が行う政治的意見の表明であるとして、このことを理由に逮捕、拘禁等の不当な処遇ないし処罰を受ける現実的な危険性が認められ、原告がこのような迫害を受けるおそれがあるという恐怖を有することには十分な理由があったものというべきであるから、原告は法二条三号の二に規定する難民に該当するものというべきである(なお、原告は、旧ソ連の大学を卒業していることから、共産主義者とみなされ、「政治的意見」を理由に迫害を受けるとも主張するが、一般にアフガニスタンにおいて旧ソ連の大学を卒業した者が迫害を受けることを認めるに足りる証拠はなく、原告も旧ソ連の大学を卒業しているということ以上に個別の事情を主張立証するものではないから、この点に関する原告の主張は理由がない。)。

三  本件不認定処分の取消請求について

本件不認定処分時において原告が難民に該当することは前記二のとおりであるから、原告が難民に該当しないことを理由としてした本件不認定処分は違法であり、取り消されるべきである。

四  本件決定の取消請求について

法六一条の二の四は、難民不認定処分に対して行政不服審査法上の不服申立てをすることができない旨を定めており、本件決定に係る原告の異議の申出が同法上の不服申立てそのものでないことは明らかである。しかしながら、本件決定は、実質上は同法上の異議申立てに係る決定と同様の性質を有するものであるから、その性質及び法令上の明文の規定に反しない限り、行政不服審査法上の異議申立てに関する規定が本件決定にも類推適用されるものと解するのが相当である。したがって、本件決定は、行政不服審査法四八条において準用する同法四一条一項の規定の類推適用により、理由を付記しなければならない決定であると解すべきところ、この場合における理由付記の趣旨は、原処分庁である被告法務大臣の再度の判断を慎重ならしめてその恣意を抑制するとともに、異議申出人に対し、原処分である難民不認定処分の取消訴訟の提起に関して判断資料を与えるところにあるものと解される。

前記認定のとおり、本件決定には、「貴殿の難民認定申請につき再検討しても、難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、他に、貴殿が難民条約上の難民に該当することを認定するに足りるいかなる資料も見出し得なかった。」との理由が付記されており、加えて、本件不認定処分にも、「あなたの『人種』、『特定の社会的集団の構成員であること』及び『政治的意見』を理由とした迫害を受けるおそれがあるという申立ては証明されず、難民の地位に関する条約第一条A(2)及び難民の地位に関する議定書第一条二に規定する『人種』、『特定の社会的集団の構成員であること』及び『政治的意見』を理由として迫害を受けるおそれは認められないので、同条約及び同議定書にいう難民とは認められません。」との理由が付記されていることをも考慮すれば、これらの理由の記載により上記の理由付記の目的は達せられているものということができるから、本件決定は、行政不服審査法の求める理由付記に欠けるところはないというべきである。

したがって、原告の主張は理由がなく、本件決定に取消原因となるような瑕疵は認められない。

五  本件裁決の取消請求について

前判示のとおり、原告は、二〇〇〇(平成一二)年一〇月一九日、在留期間九〇日の上陸許可を受けて本邦に上陸し、その後在留期間更新許可を受けて最終の在留期限が二〇〇一(平成一三)年七月一六日までとなったが、それ以後は在留期間の更新又は変更を受けないで、在留期間を経過して本邦に残留したものである。したがって、原告が法二四条四号ロの退去強制事由(不法残留)に該当することは明らかであるから、原告が被告法務大臣に対してした法四九条一項の異議の申出は理由がないものというべきである。

しかしながら、法四九条一項の異議の申出に理由がない場合であっても、被告法務大臣は、難民の認定を受けている者その他在留特別許可を与えるべき事情があると認める者に対しては、その裁量によって在留特別許可を与えることができることとされている(法六一条の二の八、五〇条一項)。

被告法務大臣は、前記二のとおり、原告が難民に該当するにもかかわらず、これを看過して本件不認定処分を行い、これを前提として、本件裁決をしたものであるから、本件裁決は、原告が本件不認定処分時には難民に該当しており、難民の認定を受けるべきであったという当然に考慮すべき重要な要素を考慮せずに行われたものといわざるを得ない。もちろん、本件不認定処分と本件裁決とでは判断の基準時が異なるのであるが、本件不認定処分時に原告が難民の認定を受けるべきであったことを前提とする判断と、そうではなかったことを前提とする判断とでは、その後の難民該当性に関する事情変化の有無を認定判断する際の考慮事項が自ずと異なってくることは明らかであるから、本件裁決は、その前提の認識を誤っているという点で、当然に考慮すべき重要な要素を考慮せずに行われたものといわざるを得ないのである。本件訴訟においても、被告法務大臣は、原告が本件不認定処分時に難民の認定を受けるべきであったことを前提とする主張立証をしていない。したがって、本件裁決は、その裁量の範囲を逸脱する違法な裁決というべきであって、取り消されるべきである。

六  本件退令発付処分の取消請求について

退去強制令書は、法四九条一項の異議の申出に理由がない旨の被告法務大臣の裁決が適正に行われたことを前提として発付されるものであるところ、前提となる裁決が取り消されるべきものであることは前記五のとおりであって、退去強制令書の発付もその根拠を欠くことになるのであるから、本件退令発付処分は違法なものとして取消しを免れない。

第四結論

以上の次第で、本件不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分の各取消しを求める原告の請求はいずれも理由があるから認容し、本件決定の取消しを求める原告の請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条、六四条本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 鶴岡稔彦 裁判官 古田孝夫 潮海二郎)

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