東京地方裁判所 平成16年(ヨ)1832号 決定 2004年9月22日
主文
1 債務者は、平成17年12月31日までの間、債権者の既存の顧客に対し、当該顧客の医療用医薬品の周知・販促に向けられた
<1> 媒体を利用した宣伝広告活動の企画・実行
<2> 販促資材等の企画・制作
<3> シンポジウム等のイベント企画・運営及び学会等の取材、配信
<4> 医学情報出版物の企画・制作
<5> 一般生活者や患者に対する教育・啓発プログラムの企画・実行
の各業務を行ってはならない。
2 債権者のその余の申立てを却下する。
理由の要旨
第1申立て
申立ての趣旨は、「仮処分命令申立書」及び債権者の「準備書面」(2)中「第3 申立の趣旨の訂正」記載のとおりであり、申立ての理由は、「仮処分命令申立書」及び債権者の「準備書面」(1)ないし(4)に記載のとおりであるから、これを引用する。
第2事案の概要
本件は、債権者が債務者に対し、債権者と債務者との間に成立した競業避止等の合意に基づき、債権者の既存の顧客に対し、当該顧客の医療用医薬品の周知・販促に向けられた、主文第1項記載の各業務等の差止めを求める事案である。
第3当事者間に争いのない基本的事実関係
1 債権者は、商業登記簿上、広告宣伝事業等を目的に掲げ、医療広告・媒体戦略、医薬品の販売資材の企画・制作、医学学術サポート等の業務を行う株式会社である。
債権者は、株式会社トーレラザールマッキャンヘルスケアワールドワイド(以下、「ワールドワイド」という。)の下に、株式会社ティ・エル・エム・ジャパン(以下、「ティ・エル・エム・ジャパン」という。)及び株式会社マッキャン・ヘルスケアとともにグループ会社を形成している。
2 債務者は、昭和57年3月薬剤師免許の登録をし、また、同58年3月東京薬科大学大学院(修士課程)を卒業して、製薬会社の開発部員等を経て、平成6年3月債権者(当時の商号は、株式会社スタンダード・マッキンタイヤ)にコピー・ライターとして入社したが、一旦退社後、同9年10月、債権者に再入社し、メディカルプランナーとして企画・制作業務に携わるようになった。その後、メディカルディレクター、ワールドワイドの東京におけるカンパニーたる「トーレラザール・マッキャン」社における制作局長兼バイスプレジデントに就任し、平成13年10月にはワールドワイドにおける執行役員制の導入に伴い、執行役員に就任した。
3 債権者は、前項の執行役員制の導入に当たり、債権者の執行役員規程(以下、「執行役員規程」という。)を定めたが、同規程13条、14条は、次のとおり規定している。
(1)13条(守秘義務)
執行役員は、会社在職中及び会社との雇用契約が終了した後を問わず、業務上知り得た秘密を、理由の如何を問わず会社の内外に漏洩してはならない。
(2)14条(競業避止義務)
ア 執行役員は、会社在職中及び会社との雇用契約が終了した後2年間は、直接的又は間接的に(競業会社の株式取得を含むが、これに限らない。)取締役会又は代表取締役の事前の書面による承諾なく、会社と競業する業務を行ってはならない。
イ 執行役員は、会社在職中及び会社との雇用契約が終了した後2年間は、取締役会又は代表取締役の事前の書面による承諾なく、会社と競業する業務を営む会社、組織、団体等の従業員その他の被用者もしくは代理人、コンサルタント、顧問等となり、または取締役、監査役、理事その他の役員に就任してはならない。
ウ 執行役員は、会社在職中及び会社との雇用契約が終了した後2年間は、前2項に定める取締役会又は代表取締役の事前の書面による承諾の有無に拘わらず、会社の他の従業員又は役員、取引先その他の関係者に対し、直接的か間接的かを問わず、会社との関係を終了させ、又は会社との取引を減少させる可能性のある行為(営業勧誘、離職・転職勧誘行為を含むがそれに限られない。)を行ってはならない。
4 債務者は、平成15年9月30日付で、債権者に対し退職願を提出したが、債権者はその後債務者に対し、執行役員規程の遵守等を内容とする誓約書の提出を求め、債務者は、同年12月2日付で執行役員規程の遵守、秘密保持の確認等を内容とする誓約書(以下、「誓約書」という。)を債権者に提出し、執行役員規程13条、14条に定める事項等を遵守する旨の合意(以下、「本件競業避止の合意」という。)が成立した。
5 債務者は、同年12月31日付で債権者を退職すると、平成16年1月1日付で株式会社医薬情報ネット(以下、「医薬情報ネット」という。)の代表取締役に就任した。
6 医薬情報ネットは、商業登記簿上、医学及び医薬に関する研究会、学会、シンポジュウムの企画及び運営等を目的に掲げ、学会等の会議運営やその参加者管理、インターネット配信、会議内容の取材や内容を取りまとめた要録集や学会手帳の作成等の業務を主に行っている。
第4主要な争点及び当事者の主張
1 被保全権利について
(1)債権者は、債務者が医薬情報ネットへ転職することを承諾しており、債務者が競業行為を行うことを了承していたといえるかどうか(争点(1))
ア 債務者の主張
債務者は、債権者代表者に対し、平成15年12月1日ころには、医薬情報ネットへ代表取締役として転職すること、医薬情報ネットにおいても広告代理店業務を行うことを説明したうえ承諾を得ており、債権者は医薬情報ネットにおいて競業行為を行うことを了承している。
イ 債権者の主張
債務者は、債権者代表者に対し、薬局開設のため転職する旨説明しているのであって、医薬情報ネットの代表取締役に就任すると述べていない。そもそも、医薬情報ネットは、広告代理店業務を行っておらず、当該業務は債務者が代表者に就任した後着手、展開するようになったのであって、債権者が、医薬情報ネットで債務者が競業行為を行うことを了承したことはない。
(2)本件競業避止の合意は、債務者の心裡留保ないし錯誤に基づくものであって、この合意ないし債務者の意思表示は無効といえるか否か(争点(2))
ア 債務者の主張
債務者は、債権者における継続中の案件についての競業が避止されるものとの真意で誓約書を提出したのであり、債権者は、債務者が医薬情報ネットにおいて広告代理店業務を行うことの説明を受けていたのであるから、債務者のこの真意を知っており、仮に知らなかったとしても重大な過失により知らなかった。
また、債務者は、債権者における継続中の案件についての競業が避止されるものの、これ以外の競業については避止義務を免除されているものと誤信して誓約書を提出した。債権者は、債務者が医薬情報ネットにおいて広告代理店業務を行うことの説明を受けていたのであるから、誓約書の受領にあたり、債務者が誤信のもと誓約書を作成したことを知っており、仮に知らなかったとしても重大な過失により知らなかったものである。
イ 債権者の主張
債務者は、債権者代表者に対し、薬局開設のため転職する旨説明しているのであって、医薬情報ネットの代表取締役に就任すると述べていない。そもそも、医薬情報ネットは、広告代理店業務を行っておらず、当該業務は債務者が代表者に就任した後着手、展開するようになったのであって、債務者に誤信などなく、また債権者において債務者の真意なるものを認識できる余地もない。
(3)本件競業避止の合意は、公序良俗に反し無効か否か(争点(3))
ア 債務者の主張
(ア)執行役員規程14条は、競業会社の株式取得も禁止しているが、債権者の代表者は、医薬情報ネットの親会社である株式会社ゴールデンチャイルド(以下、「ゴールデンチャイルド」という。)の株式を取得しており、この事実は執行役員規程が不合理なものであることを示している。
(イ)労働者には職業選択の自由が保障されているから、本件就業避止の合意は、<1>給与は労働の対価であるうえ、その水準は債務者の年齢・経歴からみて平均的なものであるから、格別代償措置が講じられているとはいえないこと、<2>医療情報ネットが従前から行っていた業務を含んでいるばかりでなく、競業関係の範囲が不明確であるうえ場所的範囲も特定されていないなど避止の対象が広範であること、<3>債権者の顧客はかねてより医薬情報ネットの顧客でもあるし、価格体系や企画内容も独自のものであって、債務者が債権者の営業秘密を侵害した事実もまた侵害のおそれもないことから、公序良俗に反し無効である。
イ 債権者の主張
(ア)ゴールデンチャイルドは、少なくとも債権者代表者がこの株式を取得した当時には債権者の競業会社ではなく下請会社であったものであり、同社からの要請に応え、同社の株式を保有することによって相互の交流を深め、取引を円滑ならしめる目的でこの株式を取得したのであって、これが執行役員規程に定める競業禁止規定に抵触する余地はなく、またこの事実が競業禁止規定の有無効に影響を及ぼすことはあり得ない。
(イ)広告代理店業務は、営業部門と企画・制作部門とで構成され、債権者においては、営業部門は代表取締役であるcが責任者を務め、債務者は企画・制作部門の責任者であって、過去に実施した顧客の製品情報及び製品戦略プランを掌握しているばかりか、価格体系や下請業者、協力関係を有する専門医とのコネクション等の営業秘密を手中に収めており、債務者に対し競業避止義務を課する必要性は極めて高いものがあった。また、この義務は執行役員に対してのみにその合意に基づき課せられるものであって、期間も2年間と比較的短期間であるうえ、その内容も必要かつ相当な限度に留まるものである。債務者に対し、固有かつ独立した代償措置を講じてはいないが、債権者が再入社した平成10年以降、その給与額は常に債権者代表者に次ぐ高給であって格別の代償措置がないからといって本件競業避止の合意が無効となるものではない。
債権者のターゲット顧客とプランニング及び価格体系を知る債務者にとっては、債権者と当該顧客との交渉中の案件に容喙して、類似のプランニングを提案し価格競争を展開することによって当該取引を奪うことはいとも容易であり、現に債権者とともにワールドワイドの傘下にあるティ・エル・エム・ジャパンは、取引等を奪われている。
(4)債権者において、債務者の競業行為等によって営業上の利益が現に侵害され、また具体的に侵害されるおそれがあるか否か(争点(4))
ア 債権者の主張
(ア)債務者は、平成15年12月16日に開かれた債務者の送別会の三次会において、「医薬情報ネット代表取締役社長」の肩書きが付いた名刺をその場に居合わせた者全員に配布し、また債権者従業員の一人に対しては医薬情報ネットへの転職を勧誘した。また、債務者は、債権者従業員であるaに対し医薬情報ネットへの転職を勧誘した結果、同女は平成15年10月17日付けで債務者と同じ同年12月31日をもって退職する旨の願いを出し、その後平成16年1月末日債権者を退職して医薬情報ネットに転職した。
(イ)債権者とともにワールドワイドの傘下にあるティ・エル・エム・ジャパンは、その顧客であるファイザー株式会社発注の業務につき、医薬情報ネットの代表者としての営業活動により競合コンペに変更されて同取引を奪われた。また、債務者は、平成16年4月21日、aを伴い債権者の既存顧客である中外製薬株式会社を訪問し売り込みを図ったほか、ファイザー株式会社の報道関係者向けセミナーを債権者の取引先であるPRエージェンシーとともに同年4月15日に開催するなど債権者と競合する業務に関する営業活動や競合行為を活発に遂行している。これらは債権者のノウハウや債権者について知り得た情報を使用して既存顧客に対して営業活動を行い、また債権者の見積額を下回る見積提示をして取引を奪っているものである。
また、転職先における企画・制作に当たって同一のノウハウが用いられ、共通の下請け先が使用され、あるいは同じ専門医が登用される場合には、債権者の企業としての特徴、独自性やプランニングにおける優位性、他社との差別化等の要素が希薄化され、企業イメージが劣化する危険もある。
更に医薬情報ネットの新ホームページに、医療用医薬品の販売促進プロモーション業務を主体に新規業務を展開することを明示するなど競業行為の意思を明確に示しているのであって、更なる侵害のおそれも具体的なものとなっている。
イ 債務者の主張
現に侵害されたとする営業は、債権者自身のものではなく、別会社に対するものである。中外製薬株式会社への訪問は医薬情報ネットのために営業活動を行っているにすぎない。また、債権者の顧客はかねてより医薬情報ネットの顧客でもあるし、価格体系や企画内容も独自のものであって、債務者の債務者が債権者の営業秘密を侵害した事実もまた侵害のおそれもない。
医薬情報ネットはホームページを改訂しているが、加えられた業務については医薬情報ネットとしての実績はなく、医薬情報ネットが平成17年12月31日でにこのような業務を獲得することは事実上難しく、具体的な危険性は存在しない。
2 保全の必要性(争点(5))について
ア 債権者の主張
債権者の顧客に対する債務者の営業行為が継続される可能性は高く、そうなれば債権者において従前の取引先の喪失等によって計り知れない損害を被ることになる。債務者が債権者のグループ会社につき競業行為に及んでいる事実は、債務者が今後債権者に対し直接競業行為を行うことを強く示唆するものといえる。また、医薬情報ネットの新ホームページに、医療用医薬品の販売促進プロモーション業務を主体に新規業務を展開することを明示するなど競業行為の意思を明確に示しているのであって、保全の必要性は高いものがある。
イ 債務者の主張
債務者に広範かつ抽象的な競業行為の禁止を求めるだけの保全の必要性はない。医薬情報ネットのホームページにおいて加えられた業務については、医薬情報ネットとしての実績はなく、平成17年12月31日までにこのような業務を獲得することは事実上難しく、保全の必要性は存在しない。
第5当裁判所の判断
1 後記認定事実中に掲げた疎明資料によれば、次の事実を一応認めることができる。
(1)債務者は、平成9年10月債権者に再入社した後、メディカルディレクター(課長級)、「トーレラザール・マッキャン」社における制作局長兼バイスプレジデント(部長級)、更には平成13年10月、制作局長兼バイスプレジデントを兼任したまま執行役員に就任し、またグループ経営会議の構成員にも名を連ねるに至ったが、この間の債務者の年間給与額(税込)は次のとおりであった(甲19、乙4の1ないし6、乙9)。
平成10年(債務者41歳)1039万円
同 11年(債務者42歳)1089万円
同 12年(債務者43歳)1221万4000円
同 13年(債務者44歳)1354万円
同 14年(債務者45歳)1448万4000円
同 15年(債務者46歳)1495万5000円
(2)債務者は、平成15年9月30日付で債権者に対し退職願を提出したが、その理由として、個人で薬局を開設したいが、年齢的にも準備にかからないと間に合わない旨を述べた(甲19)。
(3)債務者は、同年11月27日ころ、ティ・エル・エム・ジャパンの代表取締役であるbに対し、医薬情報ネットに入社予定であり、薬局開設には法人として取り組んだ方が有利である旨を話し、またその翌日頃、債権者代表者であるcに対し、医薬情報ネットへ転職する旨を述べその承諾を得た(甲13、19、乙9)。
(4)債権者は、医薬情報ネットの業務が債権者の業務と一部競業するものと認識していたことから、念のため、執行役員規程の遵守と秘密保持等を内容とする誓約書の提出を求め、債務者は、同年12月2日付でこれらを内容とする誓約書を債権者に提出した(甲8、19)。
(5)債務者は、平成15年12月16日に開かれた債務者の送別会の三次会において、「医薬情報ネット代表取締役社長」の肩書きが付いた名刺をその場に居合わせた者全員に配布し、また債権者従業員であるdに対しては医薬情報ネットへの転職を勧誘したが、dはこれを断った(甲19)。
(6)債務者は、有給休暇中の平成15年12月26日、医薬情報ネット代表者就任予定者として、債権者の顧客であり、医薬情報ネットの顧客でもあるプリストル・マイヤーズ社を訪問した。これは医薬情報ネットへのクレーム対応のためであったが、不適切であったとして後に謝罪した(甲15、19)。
(7)債務者は、平成15年12月31日付で債権者を退職したが、退職金は債権者の退職金規程における一般社員と同様に算定され、支給額は152万1900円であった(乙5、9)。
(8)aは、平成15年10月17日付けで債務者と同じ同年12月31日をもって退職する旨の願いを出したが、債権者の要請を受け退職時期を1ヶ月延長し、平成16年1月末日債権者を退職して医薬情報ネットに転職した。同女は、平成14年6月頃債権者の経営方針に不満があり、いったんは退職の申し出があったが、債務者がこれを慰留したという経緯があったため、債務者が自己の退職予定を話したところ、同女も転職することになった(甲19、乙9)。
(9)債務者は、平成16年1月の年明け後すぐに医薬情報ネットの代表取締役社長に就任した旨の挨拶状を顧客等に送付し、また医薬情報ネットは、同月27日受付をもって、債務者が同月1日付で代表取締役に就任した旨の登記をした(甲10の1、甲19)。
(10)債務者は、平成16年2月10日夜、債務者が開拓して債権者の顧客となったファイザー株式会社の大学の1年後輩である担当部長から呼び出され、乳癌治療薬のプロモーションの再展開をしたいとの意向を示され、結局コンペを行い広告代理店を選ぶことになった。債権者には参加が認められなかったため、代わりに同じワールドワイドの傘下にあるティ・エル・エム・ジャパンが参加することになったが、コンペの結果、医薬情報ネットの見積もりの方が高額であったものの企画内容が良いとの判断で、これが採用された(乙9)。
また、債務者は、平成16年4月21日、aを伴い債権者の既存顧客でもある中外製薬株式会社を訪問し個別的に追加説明を行った(乙9)ほか、ファイザー株式会社の報道関係者向けセミナーを債権者の取引先であるPRエージェンシーとともに企画し同年4月15日に開催するなどした(甲19)。
2 ところで、債務者は、<1>従前から医薬情報ネットは広告代理店業務を行っていたこと、そしてこれを前提に、<2>債権者代表者に対し、平成15年12月1日ころには、医薬情報ネットへ代表取締役として転職すること、医薬情報ネットにおいても広告代理店業務を行うことを説明したうえ承諾を得ていたこと(争点(1))、更に<3>債務者が誓約書を提出するにあたっては、債権者における継続中の案件についての競業が避止される合意であるという真意であったものであり、これ以外の競業については避止義務が免除される旨の認識をもっていた(争点(2)の一部)旨主張し、これに沿う疎明資料を提出するので、これらの事実関係につきここで検討する。
(1)まず、第3、6に示したとおり、医薬情報ネットが、商業登記簿上、医学及び医薬に関する研究会、学会、シンポジュウムの企画及び運営等を目的に掲げ、学会等の会議運営やその参加者管理、インターネット配信、会議内容の取材や内容を取りまとめた要録集(プロシーデイングス)や学会手帳の作成等の業務を主に行っていることは当事者間に争いがない(なお、商業登記簿上、医学及び医薬に関する広告代理店業務も目的に掲げられている。)。
そして、医薬情報ネットの旧ホームページには、業務内容として、<1>プロシーディングス及び学会手帳の制作、<2>医薬系会議のホームページの作成、<3>医薬系会議の参加者のオンライン管理、<4>講演会のライブCDの作成、<5>会議運営、<6>展示ブースのデザインや装飾の手配等を掲げていた(甲11)。ところが、債務者が医薬情報ネットの代表取締役に就任した後のホームページには、「プランニングは医療系広告代理店 講演会運営はコンベンション運営会社 これまでは、業務内容に応じて別々に依頼するしかありませんでした。これを全部トータルでできる会社はないの?」との問いと、これに対する「私たちの日本初”ワンストップサービス”が解決します。」などの回答を記載し、次いで、ゴールデンチャイルドと医薬情報ネットの取扱い業務を併記し、「医薬関連のコンベンション業務」を取扱うゴールデンチャイルドの隣に、医薬情報ネットの取扱業務につき「医療用医薬品の販促プロモーション」とリードを掲げ、具体的には<1>MR教育資材、<2>キービジュアルアンド広告、<3>製品情報概要、<4>”使用上の注意”解説書、<5>インタビューフオーム、<6>患者指導用資材、<7>国内外学会取材、ニューズレター、<8>会議プロシーディングス、ライブCD、<9>ウェブ構築(医療従事者・患者さん)、<10>インターネット放送、を個別に掲載したうえ、「GCCとPINが一体化しコンセプトギャップのないプロモーション活動を実現化! 効果的な結果に結びつけます!」などと謳っている(甲25)。また、医薬情報ネットは、平成16年5月には、「医薬品プロモーションの最終戦略を提案」と銘打つ社員募集を求める広告を出した(甲20)。
更に、1(10)に認定したとおり、医薬情報ネットは医療用医薬品の販促プロモーションを現に行い、あるいはこれを目指す営業活動をしている。現に債務者の報告書(乙9)の冒頭に、「現在同社の社員数は私を含めて7人であり、経験者である私を中心に企画制作部門が構成されているため、私が業務遂行できなくなると、実際に医薬情報ネットの業務ができなくなり」と記載もされている。
このような事実によれば、医薬情報ネットは、平成15年末までは、コンベンション運営を主業務とするゴールデンチャイルドの子会社として、同社の派生的業務を主に遂行していた(乙1においても、「主業 情報提供サービス、従業 出版業」とされていて、広告代理店業務の記載はない。また、乙10は表題上部に表記されているとおり、プロシーディングスであり、乙12もスポンサードシンポジウムの設営・運営に関するものである。)が、債務者が代表取締役に就任して以降は、その業務を、医療用医薬品の販促プロモーションを中心に展開する経営方針をとっており、またこれを社外に積極的に表明しているものと一応認めることができる。
(2)また、債務者は、平成16年1月14日付の債権者代表者宛のメールのなかで、「退社時にお話しした通り、コングレ終了後のプロシーディングス作りと学会手帳(3月末納品分)制作に追われる日々となっております。薬局開設の資金調達のためとは言え、なかなかヘビーな仕事なので苦労しております。」(甲21)と述べているほか、ゴールデンチャイルドの代表者であるeは、同月19日付の債権者代表者に宛ててメールを送っているが、ここでも「GCCならびにPINは御社とは違ったテリトリーの仕事をしており、今後御社に悪影響が出るようなことはございませんのでご安心下さい。」と明示している。
これらによれば、この時点でも医薬情報ネットが広告代理店業務を行っておらず、今後も行う意思のないことを明らかにしたものと一応認めることができる。
(3)そうとすれば、平成15年12月の時点において、従前から医薬情報ネットが広告代理店業務を行っていたものと認めることはできず、これに加え、第3、4に記載したとおり、債権者が債務者に対し競業避止等を内容とする誓約書の提出を求めた事実に照らすと、これ以前に債務者が債権者代表者に対し、医薬情報ネットにおいても広告代理店業務を行うことを説明したうえ承諾を得ていたと認めることは一層できない。
なお、債権者代表者が、債務者において、医薬情報ネットの代表取締役に就任することを了承していたとしても、医薬情報ネットの主業務が、コンベンション運営の派生的業務であるものと認識していた(甲31。なお、医薬情報ネットの商業登記において、広告代理店業務がその目的の一つに掲げられ、債権者代表者がゴールデンチャイルドの株式を取得していることは当事者間に争いないが、だからといって、債権者代表者が、医薬情報ネットの主業務が広告代理店業務であるとの認識を有していたと認めることはできない。)のであるから、医薬情報ネットにおける広告代理店業務を行うことを承諾したことになる余地はない。
(4)更に、債務者の債権者における経験や経歴・地位等に照らすと、債務者は誓約書の趣旨・内容を誤りなく理解していたものと認められ、この誓約書を提出するに当たり、債権者における継続中の案件についての競業が避止されるにとどまり、これ以外の競業については避止義務が免除されるとの認識をもっていたものとは到底考えられず、前記(1)及び(2)に認定した事実や経過に鑑みると、債務者は、むしろ医薬情報ネットにおいて、医療用医薬品の販促プロモーションを中心に業務展開する経営方針を秘匿しようとしていたのではないかとの疑いすらもたざるをえない。
3 以上をふまえ、各争点につき判断する。
(1)被保全権利について
ア 債権者は、債務者が医薬情報ネットへ転職することを承諾しており、債務者が競業行為を行うことを了承していたといえるかどうか(争点(1))
前記2(1)ないし(3)に認定したとおり、債務者が医薬情報ネットにおいて競業行為を行うことを債権者が了承していたものと認めることはできない。
イ 債務者の提出した誓約書は債務者の心裡留保ないし錯誤に基づくものであって本件競業避止の合意ないし債務者の意思表示は無効といえるか否か(争点(2))
前記2(4)に認定したとおり、債務者は、誓約書の趣旨・内容を誤りなく理解していたものと認められ、また、債権者において債務者の真意なるものを認識しうる余地もなかったものと判断されるから、その余の点につき検討するまでもなく、債務者の主張を認めることはできない。
ウ 本件競業避止合意は、公序良俗に反し無効か否か(争点(3))
(ア)一般に労働者には職業選択の自由が保障されている(憲法22条1項)ことから、使用者と労働者の間に、労働者の退職後の競業につきこれを避止すべき義務を定める合意があったとしても、使用者の正当な利益の保護を目的とすること、労働者の退職前の地位、競業が禁止される業務、期間、地域の範囲、使用者による代償措置の有無等の諸事情を考慮して、その合意が合理性を欠き、労働者の職業選択の自由を不当に害するものであると判断される場合には、公序良俗に反するものとして無効なものになると解される。そこでこれらの点につき検討する。
(イ)債権者が債務者との間で本件競業避止の合意をした目的は、営業上の秘密の保持及び取引先や下請業者、協力専門医等を含む人的関係の維持にあるものと認められる。すなわち、債権者において、製薬会社等の顧客との進行中の企画・制作案件はもとより、過去の取引状況や個別取引の価格情報を含む価格体系、使用する下請業者やその取引条件及び協力関係を有する専門医とのコネクション等は、プロモーション業務を行なううえで重要な営業秘密であるとともにノウハウを構成するものであって(なお、債権者が製薬会社から業務委託を受ける場合には、秘密保持条項を含む契約を締結することもある。甲27、28)、医薬情報ネットにおいて同一のノウハウ等が用いられれば、企業としての独自性、プラニングにおける優位性及び他社との差別化等の要素が希薄化されるばかりでなく、債権者のターゲット顧客とプランニング及び価格体系を知る債務者にとっては、債権者と当該顧客との交渉中の案件に容喙して、類似のプランニングを提案し価格競争を展開することによって当該取引を奪うことは容易であるものと考えられ、本件競業避止の合意は債権者の正当な利益の保護を目的とするものと一応認めることができる。
(ウ)1(1)に認定したとおり、債務者は、債権者を退職する前、企画・制作部門の責任者であって(なお、営業部門は代表取締役であるcが責任者であった。)、過去に実施した顧客の製品情報及び製品戦略プランを掌握しているばかりか、価格体系や下請業者、協力関係を有する専門医とのコネクション等の営業秘密・ノウハウにも通じていたことが一応認められる。
なお、債権者において競業を避止すべき義務は執行役員に対してのみ課せられていた(甲3、23)。
(エ)債権者が申立てているもののうち、競業の避止を求める業務は、広告代理店業務等一般ではなく、「医薬品の周知・販促に向けられた」、「媒体を利用した宣伝広告活動の企画・実行」等の主文第1項記載の5業務であって、医療用医薬品の周知・販促に向けられたものであること及び5業務としている点において、一応限定がなされているものといえ、期間も2年間と比較的短期間である。他方、債権者の申立てには確かに地域的制限を欠いているが、債権者が本件競業避止の合意によって保護しようとする利益の主要なものが営業上の秘密にあって、顧客に大手製薬会社を抱えている以上、この地域的制限を設けなくてもやむをえないところであって、これを欠くからといって直ちに合理性がないものとは断じえない。
(オ)債権者が、債務者に対し、固有かつ独立した代償措置を講じていないことは当事者間に争いがない。しかし、代償措置は、競業を避止すべき義務を負っていない債権者における他の労働者との比較において、債務者の不利益の程度に見合った対価が付与されているかどうかという視点からも検討することが必要であって、この視点からみると、1(1)に認定したとおり、債務者が債権者に再入社した後、年間給与額(税込)は1000万円を超え、年々順調に増額され、平成15年には1500万円に迫る金額にまで至っており、これは、どの年も債権者代表者に次ぐ金額である。
他方、平成13年以降、他の労働者の平均が約720万円ないし約810万円、債務者に次ぐ者が同時期1090万円ないし1290万円であったことも一応認められる(甲31。なお給与以外の経費として年間約200万円にものぼる金額が債権者から支出されていた)。
そうとすれば、確かに固有かつ独立した代償措置こそ講じられていないものの、債務者の不利益の程度に見合ったものとまではいえないとしても、債務者は相当の厚遇を受けていたものということができる(なお、債務者は年齢・経歴からみて平均的な支給額であると主張するが、その疎明を欠くうえ、ここで平均的かどうかを論じてもさして意味があるものともいえない)。
(カ)また、その他の事情として、2(4)に認定したとおり、債務者が誓約書を提出する際、医薬情報ネットにおいて医療用医薬品の販促プロモーションを中心に業務展開する経営方針を秘匿しようとしていたのではないかとの疑いを払拭できないこと、また1(6)に認定したところであるが、後に謝罪したとはいえ、退職前に医薬情報ネット代表者就任予定者としてプリストル・マイヤーズ社を訪問したことが認められるのであって、一定の背信性を窺わせている。
(キ)以上の諸事情を勘案すると、債権者と債務者との間で成立した本件競業避止の合意は、債務者が退職した日の翌日から2年間に限り、医薬品の周知・販促に向けられた「媒体を利用した宣伝広告活動の企画・実行」等の主文第1項記載の5業務に関する競業行為を禁ずるものであると解する限りにおいて、その合理性を否定することはできず、債務者の職業選択の自由を不当に害するものとまで断ずることはできないから、公序良俗に反するものと認めることはできない。
(ク)なお、債務者は、公序良俗に反することの理由として、<1>債権者の顧客はかねてより医薬情報ネットの顧客でもあるし、価格体系や企画内容も独自のものであって、債務者が債権者の営業秘密を侵害した事実もまた侵害のおそれもないこと、<2>執行役員規程14条は、競業会社の株式取得も禁止しているが、債権者の代表者は、医薬情報ネットの親会社であるゴールデンチャイルドの株式を取得していて執行役員規程が不合理なものであることを主張している。
しかし、<1>については、医薬情報ネットが独自の価格体系や企画内容に基づき業務を行うこと自体が禁じられるものではないから、根拠とならないし(なお、債務者が債権者の営業秘密を侵害した事実や侵害のおそれがあるかどうかは、次の(4)、(5)において検討する。)、<2>についても、ゴールデンチャイルド株の取得が、執行役員規程14条アに定める規定に抵触するとしても、これが直ちに競業避止に関する規定を無効に導くものと解することはできない。
エ 債権者において、債務者の競業行為等によって営業上の利益が現に侵害され、また具体的に侵害されるおそれがあるか否か(争点(4))
(ア)2(1)に認定したとおり、債務者が医薬情報ネットの代表取締役に就任して以降、医薬情報ネットはその業務を医療用医薬品の販促プロモーションを中心に展開する経営方針をとっており、債務者が企画制作部門において中心の役割を果たしている。そして、1(10)に認定した債務者の行為はこの方針の実行に他ならず、他社であるとはいえ同一グループに属するティ・エル・エム・ジャパンが、ファイザー株式会社発注の取引を奪われる結果となった事実も存するし、また中外製薬株式会社を訪問し売り込みを図ったり、ファイザー株式会社の報道関係者向けセミナーを企画・開催するなどしていることは、債権者と競合する業務に関する営業活動や競合行為を遂行しているものと判断される。また、今後も、債務者においてこれらを遂行していく意向が示されている(審尋の全趣旨)。
債務者は、債権者の顧客はかねてより医薬情報ネットの顧客でもあること、また、価格体系や企画内容も独自のものであって、債権者の営業秘密を侵害した事実もまた侵害のおそれもないと主張する。しかし、前者については債権者の顧客である以上その行為を正当化する根拠とはなりえないし、後者についても、債権者のノウハウや債権者について知り得た情報と無縁であるものとは考えられず、これらを使用して既存顧客に対して営業活動を行っているものと判断される。
したがって、この点については、債権者の営業上の利益が現に侵害され、また具体的に侵害されるおそれがあるものといえる。
(イ)なお、本件競業避止の合意には、離職・転職勧誘行為を禁ずることも含まれており(執行役員規程14条ウ)、債権者は、債務者に対し、これに基づき従業員等に対する離職・転職勧誘行為の禁止をも求めており、その理由として、<1>債務者が、その送別会の三次会において、「医薬情報ネット代表取締役社長」の肩書きが付いた名刺をその場に居合わせた者全員に配布し、また債権者従業員の一人に対しては医薬情報ネットへの転職を勧誘したこと、<2>債務者が、債権者従業員であるaに対し医薬情報ネットへの転職を勧誘した結果、同女は、平成16年1月末日債権者を退職して医薬情報ネットに転職したことを主張する。
しかし、<1>については、容易に察せられる状況から判断して、あえて咎め立てするほどのこととは考えられないし(真剣に転職を勧誘するのであれば、他の従業員も同席する三次会という場では行わないであろう。)、<2>についても1(8)に認定したとおり、債務者の債権者に対する話が契機とはなったものの、債務者による勧誘の結果とはいいがたいから、債権者の営業上の利益が現に侵害され、また具体的に侵害されるおそれがあると認めることはできない。
オ 以上によれば、債務者には、本件競業避止の合意に基づき、平成17年12月31日までの間、債権者の既存の顧客に対し、当該顧客の医療用医薬品の周知・販促に向けられた、媒体を利用した宣伝広告活動の企画・実行等の主文第1項記載の5業務を行うことに対する差止請求権があると認められる。
(2)保全の必要性(争点(5))について
債務者は、今後も債権者と競合する業務に関する営業活動や競合行為を遂行していく意向であり、債権者が競業行為の避止を求める部分について、本案判決が確定するまで放置すると、債権者が更に従前の取引先を喪失するなど回復し難い損害を被るおそれがあると認められるから、保全の必要性が存する(また、転職先における企画・制作に当たって同一のノウハウが用いられ、共通の下請け先が使用され、あるいは同じ専門医が登用される場合には、債権者の企業としての特徴、独自性やプランニングにおける優位性、他社との差別化等の要素が希薄化され、企業イメージが劣化する危険も看過できない)。 債務者は、広範かつ抽象的な競業行為の禁止を求めるだけの保全の必要性はないこと、医薬情報ネットのホームページにおいて加えられた業務については、医薬情報ネットとしての実績はなく、医薬情報ネットが平成17年12月31日までにこのような業務を獲得することは事実上難しく保全の必要性は存在しないことを主張するが、(3)エに認定したとおり、競業避止の対象業務が主文第1項記載の5業務とするかぎり広範かつ抽象的とはいえないし、医薬情報ネットが(4)に認定のとおりの営業活動や競業行為を行っている事実に加え、債務者の経歴・能力等に照らせば、現時点において差止める必要性が認められる。
第6結論
以上のとおりであるから、債権者の申立てのうち競業行為の差止めを求める部分は理由があるのでこれを認容し、その余は被保全権利の疎明がないことになるのでこれを却下することし、主文のとおり決定する。
(裁判官 間部泰)