東京地方裁判所 平成16年(ワ)27028号 判決 2006年3月09日
原告A
同補佐人弁理士 越智俊郎
被告 株式会社豊田中央研究所
同訴訟代理人弁護士 黒田健二
同笹倉興基
同吉村誠
同野本健太郎
同補佐人弁理士 松本孝
主文
1 被告は、原告に対し、54万9333円及び内金36万3957円に対する平成17年1月7日から、内金18万5376円に対する平成17年4月2日から各支払済みまで、年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用はこれを5000分し、その1を被告の負担とし、その余は原告の負担とする。
4 この判決は、第1項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求の趣旨
被告は、原告に対し、50億円及びこれに対する平成17年1月7日から支払済みまで、年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は、原告が、被告に対し、平成16年法律第79号による改正前の特許法35条(以下、同条について「特許法」という場合、特に断らない限り、平成16年法律第79号による改正前の特許法をいう。)に基づき、原告が被告に承継させた職務発明に係る特許権について、相当対価50億円の支払を求めた事案である。被告は、原告が発明者であることを争い、仮に発明者であるとしても、相当対価を支払済みであると主張している。
1 前提となる事実(当事者間に争いがないか後掲各証拠によって認められる。)
(1) 当事者
原告は、昭和55年4月に被告に入社し、平成5年2月28日付けで被告を退職した者である。
被告は、昭和35年11月9日に設立された株式会社である。
(2) 被告の有する特許権(甲1の1・2)
被告は、下記の特許権を有している(甲1の1・2。以下「本件特許権」といい、その発明を「本件特許発明」という。)。
特許番号 第2609929号
登録日 平成9年2月13日
出願番号 特願平1-214621号
出願日 平成1年8月21日
公開番号 特開平3-78562号
公開日 平成3年4月3日
発明の名称 燃料噴射弁
(3) 本件特許発明に係る明細書(以下「本件明細書」という。)の特許請求の範囲の記載本件明細書(本判決末尾添付の特許公報(甲1の1。以下「本件公報」という。)参照)の特許請求の範囲の記載は次のとおりである。
「弁体に設けた弁孔に摺嵌された針弁と、該針弁の先端分が当接する前記弁孔の弁座部と、該弁座部に連通するサック部と、該サック部に連通し且つ弁体先端に開口すると共に噴射弁外周壁側に外端を有し噴射弁内周壁側に内端を有するスリット状噴孔とから成り、前記内端の幅W、該内端の長手方向に沿った長さL1がL1≧4.5・Wであることを特徴とする燃料噴射弁」
(4) 構成要件の分説
本件特許発明を構成要件に分説すると、次のとおりである(以下、それぞれを「構成要件A」のようにいう。)。
A 弁体に設けた弁孔に摺嵌された針弁と、
B 該針弁の先端分が当接する前記弁孔の弁座部と、
C 該弁座部に連通するサック部と、
D 該サック部に連通し且つ弁体先端に開口すると共に噴射弁外周壁側に外端を有し噴射弁内周壁側に内端を有するスリット状噴孔とから成り、
E 前記内端の幅W、該内端の長手方向に沿った長さL1がL1≧4.5・W(以下「4.5×W」と表記する。)である。
F ことを特徴とする燃料噴射弁
(5) 被告における職務発明規程(乙31、32の1ないし3、33)
ア 被告の「発明考案取扱規則」(昭和37年4月1日制定。昭和51年12月1日、平成元年4月1日、平成8年7月1日改訂)には、次の趣旨の定めがある(以下、断りのない限り、平成元年4月1日改訂版に基づく)。
研究所員で発明をなした者は、その内容について、上位責任者を経て、遅滞なく会社に届け出なければならない。(3条)
前条の発明が研究所員の職務に関する発明である場合には、その発明に関し国内及び国外において特許を受ける権利、特許権等及び諸権利は、会社がこれを承継する。(4条1項)
この規則により特許を受ける権利又は諸権利を会社に承継した後に退職した研究所員については、この規則を準用する。(6条1項)
第4条及び第5条により特許を受ける権利を承継して特許権等について出願をおこなったとき、又は出願に代るノウハウ扱いあるいは公開技報扱いとしたときは、当該出願又はノウハウ扱いあるいは公開技報扱いに係る発明の発明者に対し、出願補償金を支給する。(12条)
第4条及び第5条により特許を受ける権利を承継して特許権等を取得したとき、又は特許権等もしくは諸権利を承継したときは、発明者に対し登録補償金を支給する。(13条。なお、平成8年7月1日改訂における12条1項も同旨)
第4条及び第5条により承継した特許権等又は諸権利に係わる発明の実施により成果を上げたときは、発明者に対し、さらに実績補償金を支給することができる。(14条。なお、平成8年7月1日改訂における13条も同旨)
第12条ないし第14条の出願補償金、登録補償金及び実績補償金の金額は、別表に定めるところによる。(15条1項)
発明者が複数人であるときには、出願補償金、登録補償金及び実績補償金は、これを発明者らに分与する。(16条)
出願補償金は特許出願1件につき2000円(なお、平成元年4月1日付けで3000円に改訂)。登録補償金は特許登録1件につき8000円(なお、平成元年4月1日付けで1万円に改訂)、実績補償金は(イ)発明を会社において実施したときは、利益評価額の10%以下の金員、(ロ)特許権等又は諸権利の実施許諾により会社に実施料収入があったときは、収入額より当該収入を得るのに必要とした経費を差引いた金額の10%以下の金員、(ハ)特許権等又は諸権利を第三者に譲渡したときは、譲渡対価より当該対価を得るに必要とした経費を差引いた金員の%以下の金員(別表)
イ 被告の「発明考案実績補償」実施細則(昭和54年9月5日作成、昭和58年10月13日、昭和61年9月30日、平成2年8月22日、平成9年7月改訂)には、次のとおり定められている(以下。この実施細則と前記発明考案取扱規則とをまとめて「被告規程」という。)。
この実施細則は、発明考案取扱規則第14条(実績補償金)に基づき、発明考案実績補償(以下、実績補償という)を実施するに当り、その対象、補償金額等を定める(1条)。
実績補償の対象は、次のものとする。
(1) 特許権等又は認定ノウハウ(以下、本件特許権等という。)を会社において実施し、利益があがったもの。
(2) 本件特許権等の技術開示又は実施許諾により、一時金又は/及び継続実施料の収入があったもの。
(3) 特許権等又は特許等を受ける権利、あるいは認定ノウハウを第三者に譲渡し、収入があったもの。(2条1項)
前項にかかわらず、技術開示された無償扱いの本件特許権等については、相手先での実績がある場合には、実績補償の対象とする。(2条2項)
特許出願中の発明にかかる実施許諾により一時金収入があった場合は、特許出願中の発明が特許権として成立した後に実績補償の対象とする。(2条3項)
本条1項2号の実績成果は、契約毎に別の実績補償の対象とする。(2条4項)
<中略>
補償金支給対象者は、本件特許権等の発明考案者とする(6条。)
補償金の支給対象者への分配割合は、本件特許権等に対する発明考案者の貢献度により定める。(7条)
補償金支給時期は、第3条に定める補償対象期間の各年度経過後とする。(8条)
<中略>
(6) 本件特許権に係る補償金の支払(乙7の2)
本件公報の発明者欄には、原告及びBが記載されている。
原告は、出願補償として1500円、登録補償として5000円の支払を受けた。そして、実績補償<中略>支払を受けた。これらの合計額は、71万8800円である。
2 本件における争点
(1) 本件特許発明の発明者(争点1)
(2) 本件特許発明承継の相当の対価の額(争点2)
3 争点に関する当事者の主張
(1) 争点1(本件特許発明の発明者)について
(原告の主張)
原告は、本件特許発明を実質的には一人で完成させた。
ア 原告の技術的知見について
原告は、静岡大学において、被告と関係の深い豊田工業大学の元学長のCに師事していた。Cは、従来型噴射弁であるスワールノズル(渦巻噴射弁)の学問的研究を初めて行った者であり、原告は、静岡大学において、Cの下で液滴の蒸発及び燃焼の研究に従事していた。さらに、Cが師事したDは、噴射弁等の噴霧粒生成メカニズム等の学問としての「微粒化」の分野を切り開いた世界的権威である。原告が本件特許発明の発明に至ったのは、前記液滴及び噴射弁、さらには入社後の数年に及ぶエンジン関連部品研究の基礎的知見があったからである。
原告は、被告に就職した際のトヨタ自動車における研修において、車室内のエアコンによる空気流れの可視化を任され、数か月という短期間の研究成果が第1回流れの可視化学会誌に取り上げられるという成果をなした。また、原告自身での明細書の作成は本件が初めてではあるものの、被告入社後1、2年の間に実質3名の発明者による特許出願(燃料蒸発に関するもの)1件と、その後2年程度の間に実質的に原告1人の発明に係る特許出願(ターボチャージャーの過熱対策に関するもの)1件とを海外をも含めて出願している。さらに、被告退職後に就職した会社においても、入社後2年間において、5件の特許出願を行っている。
イ 本件特許発明の本質について
本件特許発明の本質は、<1>大きな角度で外端に向かって広がる扇形状のスリットノズル、<2>細長い矩形状の内端側開口、<3>噴射量Qに依存するものの、扇形スリットノズルの溝厚さ(溝幅)Wが概ね200μm以下であること(本件公報の第17図)の3点であり、これによる作用効果は、噴霧が扁平で大きな角度の安定した扇形に広がりつつ粒子が極小となることである。従来型のホールノズル噴射弁によるものは、紐状分裂に支配され、本件特許発明の膜状分裂の支配する現象とは根本的に異なり、全く異質のものであって、性能が大きく劣る。
現実にエンジン内で燃焼状態が良くなる直接の因子は、噴霧角が大きいことと液滴粒が極小になることである。液滴粒が極小になるには、大きな角度の扁平な扇形に広がる噴霧とする必要があった一般の燃焼技術者は、噴霧をガスとして捉え、マクロ的見地からアプローチをしていたため、本件特許発明のような高性能の噴射弁を開発できなかった。しかし、原告はミクロ的見地から研究したため、本件特許発明に至った。すなわち、原告が、<1>内端側開口をより細長くすると、それに従ってより大きな噴霧角となること(本件公報の第15図、原告作成の発明考案届出書(乙3。以下「本件届出書」という。)の第21図参照)、<2>同じく液滴粒が従来のものに比べて極小になること(本件公報の第16図、本件届出書の第22図参照)、<3>小さな噴霧粒径を得るには溝厚さWに臨界的上限があること及びWを所定以上小さくしても噴霧粒径はほぼ一定になること(本件公報の第17図参照)を確認したことにより、本件特許発明は完成した。本件特許発明の特許性は、前記<1>ないし<3>(本件公報の第15図ないし第17図)にあるのであって、スリット状噴孔の内端のL1とWの縦横比4.5そのものは細長い矩形の下限を定めたにすぎず、原告がE弁理士と相談し、性能(微粒化を含む空気との混合)を考慮しつつ、権利を広くとることを考えて選定したものである。
ウ スリット状噴孔の内端のL1とWの縦横比4.5を定めた経緯について原告は、噴霧粒の微粒化を推し進めつつ噴霧自体を広げることができるように、燃料がスリットノズルの細長い矩形状内端開口から噴射されたときの広がりをスリットノズルの途中壁で邪魔されて狭められないように、外端に向かって大きく広がる扇形状のスリットノズルの噴射弁とし、これによって大きな噴霧角範囲の実験を行った。
実用域として考えていたのは概ね90度から180度の範囲の噴霧角であったものの、実際には90度よりも幾分小さな噴霧角(せいぜい70度近く)までの実験結果を得ていた。
一方、担当弁理士のEが、権利の下限をどの辺りにしようかと原告に相談し、権利を広くするよう助言したことから、原告も実験結果から幾分範囲を広げても権利化できるのであれば、それで良いと考えた。原告がその当時に認識していた従来型噴射弁での単なる巨視的な意味での噴霧角は40度から50度であったため、巨視的な意味でも噴霧角が従来型のものと区別できていた方がよいであろうと考え、E弁理士と相談の結果、実験結果を外挿して、噴霧角60度を下限にすることを了承した。本件届出書の第21図のグラフを滑らかに外挿すると、噴霧角δの60度はθが50度程度に対応する。この内端開口の細長い長さに対応するθを、より一般的で分かりやすい縦横比で表すことにした。θを縦横比L1/Wにするのは、実際に使った噴射弁の諸元で換算すればよく、噴射弁のサック部の直径dと扇形スリットノズルの溝厚さ(溝幅)Wを使用した以下の式で換算できる。なお、噴霧角60度は縦横比L1/Wが概ね4.5に対応する。L1/W=(d/2)×(π/180)×(θ/W)
また、E弁理士とは、扇形スリットノズルの溝厚さ(溝幅)Wを請求項において200μm以下に限定することに関し、適切なWの値は噴射量Qに依存するものであるため、権利範囲を広くする観点から必ずしも得策ではなく、本件届出書の第23図に他のデータ曲線を追加して本件公報の第17図とし、明細書全体や図面から、Wには臨界的な上限のあることが審査官に理解できるようにしておけば、特許性の裏付けになるとのアドバイスを受け、原告はこれを了承した。
エ Bの貢献について
形式的にはもう一人の発明者とされているBは、当時、他の研究室に属していたものの、原告と年齢的に近いため実験装置の使用方法を尋ねやすく、尋ねると快く教えてもらえ、また、時には実験の若干の手伝いをしてもらえた。そのため、Bも共同発明者とされている。しかし、本件特許発明の実質的な真の発明者は原告のみである。
(被告の主張)
ア 本件特許発明の発明者は、被告特許課における本件特許発明についての特許技術担当者であったFである。
a) 発明者の認定基準について
発明者とは、発明において特許性を有する部分について着想を得て、これを具体化した者であり、単なる補助者、助言者、資金の提供者あるいは単に命令を下した者及び着想により当業者にとって自明程度のことを具体化したにすぎない者は、発明者ではない。したがって、まず、発明における特許性を有する部分を特定し、かかる部分について着想を得て、これを具体化した者を特定し、かかる具体化を行った者をもって発明者と認定するのが妥当である。
b) 本件特許発明において特許性を有する部分について
構成要件AないしCについては、燃料噴射弁が一般的に有する部位とその構成を記載したものであり、特開昭58-143163に係る公開特許公報(乙2の1)の第1図及び第4図、並びに内燃機関学習用のテキストの図5.14(乙11)において開示されているとおり、公知の内容である。
構成要件Dすなわち燃料噴射弁においてスリット状噴孔を有する構成については、実開昭61-118969、実開昭61-118968及び実開昭63-26769に係る公開実用新案公報(乙2の2ないし4)並びに特開昭58-143163(乙2の1)及び特開昭53-82907に係る公開特許公報(乙12。以下「刊行物1」という。)に、いずれもスリット状噴孔を有する燃料噴射弁に関する発明ないし考案が開示されており、公知となっている。
構成要件Fも、実開昭61-118969及び実開昭61-118968に係る公開実用新案公報(乙2の2、3)並びに特開昭58-143163に係る公開特許公報(乙2の1)の「発明の名称」欄ないし「考案の名称」欄において、「燃料噴射ノズル」ないし「エンジン用燃料噴射ノズル」と記載され、また、実開昭63-26769に係る公開実用新案公報(乙2の4)の「実用新案登録請求の範囲」欄において「燃料噴射弁」と記載されているとおり、公知の内容となっている。
以上のとおり、本件特許発明の構成要件AないしD及びFは公知であることから、それ自体何ら特許性を有するものではなく、本件特許発明において特許性を有する部分は、構成要件Eの「前記内端の幅W、該内端の長手方向に沿った長さL1がL1≧4.5×Wである」との数値限定に存することは明らかであり、本件特許発明は、いわゆる数値限定発明に該当するものである。
c) 本件特許発明において特許性を有する部分を具体化したのはFであること
原告の作成した本件届出書には、本件特許発明において特許性を有する部分である「L1≧4.5×W」との数値限定について何らの開示も示唆もない。Fは、出願明細書の作成段階において、本件届出書に記載されている技術内容が公知技術の単なる組合せであり、また、その数値限定が無意味であり、あるいは設計事項にすぎず、特許性を有しないことが判明したことから、F自身の研究により培ったディーゼルエンジンに関する豊富な技術的知見に基づき、本件届出書に記載の技術的課題を解決するための手段として、噴孔形状に関する新規性・進歩性を備えた発明を考案することができないか鋭意検討を重ね、出願明細書の原稿(乙4を作成する過程において「L1≧4.5×W」との数値限定を行ったものである。したがって、本件特許発明において特許性を有する部分を具体化し発明として完成させたのはFにほかならない。
<1> 本件届出書には本件特許発明において特許性を有する部分の開示も示唆もないこと
本件届出書の「2.特許請求の範囲」欄には、「内燃機関用の間欠燃料噴射ノズルにおいて、噴射ノズル先端内部基穴に交錯するように外側よりスリット状平行溝を切りこみするノズルである。切りこみ溝を第1、2図に示す諸元においてW・d≦0.4、W≦0.2(単位mm)に従ってワイヤカットなどの製法で薄スリット状平行溝構造とすることで、広く広がり分裂した薄膜をつくり微粒化を促進して扁平で広角な扇形の噴霧となる。この結果、高微粒化で安定した大噴霧角及び従来ノズルに比べ低く程よい貫徹力を達成したことを特徴とする内燃機関用燃料噴射ノズル。」と記載されている。
上記記載は、細いスリット状噴孔を備えた噴射弁により、微粒化された扁平で広角な扇形の噴霧を形成し、高微粒化の噴霧により低い貫徹力となるという公知の作用効果を表現したものにすぎず、具体的に「L1≧4.5×W」との数値限定に導く技術情報を開示又は示唆するものではない。
上記記載中「切りこみ溝を第1、2図に示す諸元においてW・d≦0.4、W≦0.2(単位mm)に従って」との部分は、本件届出書の第1図及び第2図によれば、Wはスリット状噴孔の幅を指し、dはサック部直径を指していることが明らかなとおり、いずれもスリット状噴孔の内端の寸法諸元(L1とWとの比)に着目したものではなく、スリット状噴孔の内端の長手方向に沿った長さを指すL1というパラメータの記載すら存在しないものであり「L1≧4.5×W」との、数値限定を導く技術情報を開示又は示唆するものではない。
そもそも、「W・d≦0.4」との数値限定については、dの値は燃料の流量を左右するものであり、かつ、サック部内への燃料流入量はエンジンの大きさ等の要因により決定されるのが一般であることから、噴霧形状を規定する目的でdを使用することはないものであり、「W・d≦0.4」との数値限定は趣旨不明で、無意味な数値限定にすぎない。また、「W≦0.2」との数値限定については、本件特許発明の出願当時、ノズルの直径(スリットノズルであればWの値)が小さくなると、噴霧粒径が小さくなることは公知の内容であり、さらに、円形噴孔において直径0.2~0.4mmの燃料噴射ノズルが公知例として存在していたことから「W≦0.2」との数値限定には、臨界的意義はなく、単なる設計事項として特許性が認められないものである。
噴霧角δが60度以上であれば、スワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼が可能となるとの技術情報は、本件届出書の第21図には何ら開示されておらず、「L1≧4.5×W」との数値限定を導く技術情報の開示も示唆もない。
本件特許発明において特許性を有する部分である「L1≧4.5×W」との数値限定及び本件公報の第15図は、本件届出書に記載されている法線角θのみから導き出されるものではなく、法線角θと直接的には関連しないL1と法線角θとは全く関連のないWとの比が噴霧角δを決めるということを示すものである。なお、噴射方向が本件届出書の第2図のようにニードル1の軸方向に一致している場合は法線角θとL1は関連するが(L1=d×π×θ÷360)、実施品の噴射方向はニードル1の軸方向に一致しておらず、さらにサック部中心からも偏心しているため法線角θとL1は直接的には関連しない。
このように、「L1≧4.5×W」との数値限定と本件公報の第15図は、本件届出書の第21図に示されるような「法線角θが噴霧角δに影響する」という単純な内容ではなく、「噴霧角δに影響を与えるL1とWという2つのパラメータが相互にどのように噴霧角δに影響を与えるか、及び、噴霧分散についてスワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼が可能となる噴霧角δは60度以上であり、噴霧角δが60度以上となるようなスリット状噴孔の内端の寸法諸元(L1とWとの比)が4.5以上であること」を示すものであり、両者は内容において全く異なるものである。
以上のとおり、本件届出書に記載された内容は、本件特許発明において特許性を有する部分である「L1≧4.5×W」を開示又は示唆するものではない。
<2> 本件届出書に記載した内容では特許性を有しないことが判明したため、Fにおいて本件特許発明において特許性を有する部分を具体化したこと
本件届出書に記載された技術内容は、燃料噴射弁というエンジンに関するものであったことから、当時、被告特許課においてエンジン関係の発明考案を担当していたFが、原告からの先行技術調査依頼、本件届出書の審査等において特許技術担当者となった。そして、知財部門及び発明考案委員会において、内製(特許出願に必要な願書及び添付書類の作成を、社外の特許事務所に外注することなく、社内の従業員が作成し、特許出願を行うこと)により特許出願することが決定された後、Fは、特許技術担当者として本件特許発明の特許出願に必要な願書及び添付書類を作成することになった。
Fは、本件届出書に記載されている技術内容を詳細に検討した結果、かかる技術内容には特許性が認められないと判断し、長年のディーゼルエンジンの研究により培った経験及び知識を導入して、特許性を有する数値限定を鋭意検討し、出願明細書の原稿として乙4を、査読用出願明細書の原稿として乙5を、出願書類として乙6を、それぞれ作成した。また、査読においては、査読に関与したF以外の者、すなわち、発明者として記載された原告及びB、特許技術担当者の責任者であるG及びE弁理士からの修正はなかった。
すなわち、Fが作成・修正した出願明細書の原稿(乙4)の1頁「2.特許請求の範囲」欄における「前記スリット状連通孔の幅W及び前記スリット状連通孔の長手方向の長さL1が0.06mm≦W≦0.2mm、L1≧0.9mm」との記載は、「前記スリット状噴孔の内端の幅W1、該内端の長手方向に沿う長さL1及び前記スリット状噴孔の外端の長手方向に沿う長さL2がL1≧4.5W1、L1>L2」と手書きにより修正されている。このことから明らかなとおり、Fは、出願明細書の原稿の作成過程において、初めて、スワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼が可能な噴射角の下限値が60度であると判断し、噴霧角に影響を与える部分として、スリット状噴孔の内端の寸法諸元(L1とWの比)に着目し、噴霧角が60度以上となる内端の寸法諸元として、「L1≧4.5×W」という数値限定を具体化したのである。
<3> 本件特許発明において特許性を有する部分である「L1≧4.5×W」を具体化するに際して、Fが、スワール等の空気流動の補助を必要とすることなく良好な燃焼が可能となるのは噴射角が60度以上であると技術的推論を行った経緯について Fは、昭和54年に行った小型直噴ディーゼルエンジンの研究開始当初の実験において、昭和54年当時実用化されていた中型直噴ディーゼルエンジン(いすゞ4BB-1型)が4孔ホールノズルを扁平な燃焼室の中心付近に配置してスワール等の空気流動の補助で噴霧を燃焼室内に分散させるものであり、ホールノズルの1孔当たりの一般的な噴射角が15度程度であったことから、4孔合わせると全体の噴霧角が60度程度になるとの公知事実に基づき、噴霧角60度の改造ホールノズルを燃料室の端に装着して燃焼室に扁平で扇状の噴霧を噴射してエンジン実験を行ったところ、単筒エンジンにおいてスワール等の空気流動の補助なしで良好に燃焼することを確認していた。
また、Fは、昭和57年に行った実験において、スワールノズルにより噴霧角40度の噴霧を噴射した場合、当該噴霧を空気流動の強い燃焼室周辺に噴射した場合と、空気流動の弱い燃焼室中心寄りに噴射した場合を比較すると、空気流動の強い燃焼室周辺に噴射したほうが燃焼が良好であったことから、噴霧角40度において良好な燃焼を得るためにはスワール等の空気流動の補助が必要であるとの技術的知見を得ていた。
Fは、長年の直噴ディーゼルエンジンの研究により培った経験と知識を導入して、スリット状噴孔から噴射される扁平で扇形の噴霧についても、スワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼を実現するためには、噴霧全体の噴霧角を少なくとも60度程度以上とする必要があるとの技術的推論を行ったものである。この推論については、昭和60年に東京で開催されたシンポジウムのCOMODIA(内燃機関のコンピュータシュミレーションの国際会議)において発表された技術論文(乙16)において、その妥当性が裏付けられた。
以上の次第により、Fは、「噴霧角40度では良好な燃焼のために空気流動の補助が必要であり、噴霧角60度では空気流動の補助なしで良好な燃焼が可能である」という長年のディーゼルエンジンの研究で培った技術的知見に基づいて、「スリット状噴孔から噴射される扁平で扇形の噴霧において、スワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼を可能にするためには噴霧角60度以上が必要である」との技術的推論を行い、噴霧角の下限値は60度が適切であると判断したのである。
<4> Fが「L1≧4.5×W」との数値限定を具体化し、発明として完成させた経緯について
Fは、長年のディーゼルエンジンの研究で培った技術的知見に基づき、噴霧角及び噴霧粒径に影響する箇所は、針弁と弁座部によって構成される弁開閉手段とスリット状噴孔の外周壁側の外端とを連絡する燃料流路のうち流路断面積が一番絞られている部分であるスリット状噴孔の内周壁側の内端であることを直感し、内端の寸法諸元(L1とWの比)により数値限定を行うべきと考えた。
次に、Fは、噴霧角60度を可能とする内端の寸法諸元を求めるために、本件届出書の第21図より噴霧角δが90度の時のθが70度であることを確認し、小型直噴エンジンの一般的なサック部直径dが1.5mm程度であることから、L1=0.9mmを算出した。
さらに、Fは、本件届出書の第23図より、W=0.12mmで噴霧粒径が充分微小化されており、その径から一定幅の許容範囲を考慮すれば、W=0.14mmが噴霧粒径の粗大化の許容限界値であることを確認し、次に、本件届出書の第21図が噴孔内端の流路断面積が一定の条件における実験結果であると解釈するのが妥当であると判断し、W=0.14mm、つまりWが噴霧粒径の粗大化の許容限界値であるときに、θが最小になり、噴霧角が90度となると解釈して、噴霧角が90度のときの寸法諸元としてL1=0.9mm、W=0.14mm、L1/W=6.4を導き出した。
その上で、Fは、噴霧角60度を可能とする寸法諸元を小型直噴ディーゼルエンジンの研究で培った技術的知見に基づいて独自に予測した。すなわち、Fは、L1/Wの値が6.4のときに噴霧角が90度であり、L1/Wの値を約1にしてスリット状噴孔の内端の寸法諸元をホールノズル類似の形状としても、噴霧角はホールノズルの一般的な噴霧角である15度程度は確保されるという技術的知見をもとに、噴霧角が60度となる点を求め、この点における内端の寸法諸元であるL1/Wの値である4.5を限界値として導き出した。
以上の経緯により、Fは、本件特許発明において特許性を有する部分である「L1≧4.5×W」との数値限定を具体化し、発明として完成させた。
d) Fと原告との業務上の交流について
Fと原告は、本件特許発明の出願関連業務における交流を除き、業務上の交流はなかった。
e) 本件特許発明の出願関連業務におけるFと原告との交流について
<1> 原告とFが昭和63年7月27日と同年8月26日に実施した先行技術調査の結果、噴孔がスリット状のノズルを内燃機関に適用したものが公知であることが判明し、Fは原告に対し、特許出願し権利化するためには噴孔のスリットの形状を数値限定により明確にする必要があると助言した。
<2> Fは、原告が本件届出書を作成するに際し、原告に対し、特許性主張のポイントは数値限定の根拠を示すデータであることを伝え、本件届出書を作成する際に必ず「噴孔のスリットの形状が公知例よりも縦横比が大きい(扁平である)こと」によって得られる効果の図を添付するように指示した。
また、Fは、原告が発明考案届出書の作成経験がなかったため、あらかじめ特許課で用意してある発明考案届出書の記載見本を原告に提供するとともに、公知技術の特許公報を参考にして記載するように助言した。
<3> Fは、出願明細書の作成過程における「L1≧4.5×W」との数値限定の具体化に際して、原告とブレインストーミング等を行ったことはなく、また、原告より情報提供を受けることも一切なかった。
f) Fが本件特許発明において特許性を有する部分を具体化できた理由について
<1> Fはディーゼルエンジンの専門家であり、豊富な技術的知見を有していた。
<2> 直噴ディーゼルエンジンと直噴ガソリンエンジンとは混合気形成過程において共通する部分が多く、Fの有するディーゼルエンジンに関する豊富な経験及び知識が、本件特許発明において特許性を有する部分の具体化に利用可能であった。
<3> Fは、本件特許発明のみならず、特許技術担当者として積極的な発明創作活動を行い、特許技術担当者の中でもより多くのアイデアを提供する傾向があり、いわゆる発明家としての資質を有していた。
g) 平成元年当時、被告が原告を発明者として認定した理由、Fが自己が発明者であると主張しなかった理由、及び原告に対し実績補償金の支払を行った理由について
<1> 平成元年当時、被告が原告を発明者として認定した理由について
被告は、本件届出書が提出された平成元年当時、発明考案届出書の1頁の「1.社内発明考案者」欄及び「2.他社共同発明考案者」欄に記載された者をもって発明者と認定していた。そして、発明考案委員会において発明者が認定された場合、補償金の支払等に関して、一旦なされた発明者の認定を変更することは、原則として行っていなかった。
被告は、以上のような平成元年当時の発明者認定のポリシーに基づき、発明考案委員会において、原告が作成した本件届出書の1頁の「1.社内発明考案者」欄に記載された原告及びBをもって、発明者と認定した。
しかし、本件では、発明考案委員会において発明者の認定がなされた後に、特許出願に必要な願書及び添付資料の作成過程において、特許技術担当者であるFにより、発明性のある実質的なアイディアが提案され、本件特許発明において特許性を有する部分である「L1≧4.5×W」との数値限定が具体化され、発明として完成したものであることから、発明考案委員会が認定した発明者と特許法35条3項に基づき「相当の対価」の支払を受ける「発明者」が乖離するという特殊な事情が存在している。
<2> Fが、自己が発明者であると主張しなかった理由について
Fは、平成元年当時、本件特許発明において自己が発明者であるとの認識を有していたものの、以下の理由により、かかる認識を原告及び被告に表明しなかった。
まず、本件では、本件特許発明の完成前に、既に発明考案委員会において発明者が認定されていたことから、未だ入社11年目で被告における影響力や立場が強くなかったFにとって、被告の機関決定を覆すような「自己が発明者である」との表明を行うことができなかった。
また、原告においては、病気により長期休職が続き、長期休職後に配属部署が変更となり専門外の作業を行う必要があったことから大変であったこと等が推測され、Fは、原告の病気に影響を与えないように、原告に対しても、本件特許発明の発明者が原告ではなく自分である旨の主張を行わなかった。
<3> 原告に対し実績補償金の支払を行った理由について
被告において、本件特許発明の発明者がFである旨の認識を有するに至ったのは、本件訴訟提起への対応のために、本件特許発明が創作された経緯について、多数の関係者からの事情聴取を行った後のことである。
被告が原告に対し、平成13年11月から平成16年11月まで、毎年1回実績補償金名目で金員を支払ったのは、平成元年当時の発明考案委員会における発明者認定に従ったものにすぎない。
この実績補償金の支払は、客観的には、特許法35条3項に基づき「相当の対価」の支払を受ける発明者に対して支払われたものではないから、この補償金の支払によって、特許法35条3項に基づき「相当の対価」の支払を受けるべき発明者の認定が左右されるものではない。
h) 原告の主張に対する反論
<1> E弁理士は、本件特許発明に関して、原告と直接面談したことすらない。
<2> 膜状分裂による微粒化のメカニズムは、古くから研究が行われていた。膜状分裂のメカニズムを解説した文献としては、1960年代から70年代のものが多数存在している。また、エンジン技術者において、液体の微粒化に対するミクロ的見地からの研究アプローチは、本件特許発明が創作されるかなり前から行われていた。そして、少なくとも昭和51年当時、<1>長方形(矩形)のノズルから液を噴出させると薄い平板状の液膜が発生すること、<2>液膜からの微粒化(膜状分裂)においては、比較的小さい噴射圧力でも微粒な粒を得ることができることが、公知の内容となっていた。
イ 仮に、Fが本件特許発明の単独の発明者ではないとしても、本件特許発明は、B、F及び原告3名の共同発明であり、そのうち、共同発明者としての原告の寄与度は1%にすぎない。
a) 原告が本件特許発明の特徴として掲げた3点は、原告が本件特許発明の研究開始時と主張する昭和60年より約2年前に、被告従業員のBにより具体化されたものにすぎない。
Bは、昭和58年3月ころ、燃焼効率の高い噴霧を形成する燃料噴射弁として、<1>噴射弁外周壁側に外端を有し、噴射弁内周壁側に内端を有し、かつ断面形状が大きな角度で外端に向かって広がる扇形状のスリット状噴孔を備える燃料噴射弁(以下「ファンスプレーノズル」という。)を設計し、<2>内端の幅Wを0.1mm、0.2mm及び0.3mmとする3種類のファンスプレーノズルをワイヤ放電加工により試作した。そして、試作した3種類のファンスプレーノズルを使用して、各ファンスプレーノズルにおいて噴射量が15mm3/stと30mm3/stとした場合における噴霧形状及び液滴径の観察(以下「B実験」という。)を行った。
B実験の結果から、Bは、<1>扁平で扇形の噴霧が形成されたこと、<2>噴霧の広がり角が約180度となったこと、<3>内端の幅Wが小さいほど良好な微粒化状態を示し、実用的にはW≦0.2mmが妥当であること、<4>噴霧の広がり角は、サック直径(D)とスリットのサック内壁からの切込量(A)で規定できることを確認した。
以上のとおり、原告が開発したとする噴射弁の特徴部<1>ないし<3>のうち、特徴部<1>の「大きな角度で外端に向かって広がる扇形状のスリットノズル」及び特徴部<2>の「細長い矩形状の内端側開口」については、Bの試作したファンスプレーノズルにおいて既に具体化されており、特徴部<3>の「噴射量Qに依存するが、扇形スリットノズルの溝厚さ(溝幅)Wが概ね200μm以下」については、B実験の結果により確認されているものである。また、噴霧が扁平で大きな角度の安定した扇形に広がるという作用効果についても、B実験の結果により確認されている。
b) Bは、昭和61年ころ、Bのもとを訪ねてきた原告に対し、Bが試作したファンスプレーノズルの設計図とB実験の噴霧写真を提示し、<1>ファンスプレーノズルの構造と製造方法(ワイヤ放電加工)、<2>スリットのサック内壁からの切込量(A)により噴霧広がり角が規定でき、噴霧角を小さくするためには切込量(A)を小さくすること、<3>スリット状噴孔の内端の幅Wが狭いほど微粒化がよく、0.2mm以下にするとよいことを教示した。また、Bは原告に対し、噴霧特性評価実験における噴霧形状と噴霧粒径に対する測定方法も指導した。ちなみに、Bが原告に指導した噴霧粒径に対する測定方法は、B自身が開発したものである。
c) 原告は本件特許発明の完成のために様々な実験を行った旨主張する。
しかし、具体的にどのような実験を行ったかは明らかでない。
被告が把握している本件特許発明に関する原告の関与は、上司の勧めに応じて本件届出書を作成したこと及びBから教示を受けた内容を確認するため、Bの開発した画像処理による噴霧粒径測定法・測定装置を使用して、ファンスプレーノズルの噴霧特性評価実験を行い、噴霧形状と噴霧粒径の測定をしたことのみである。
前者については、原告の作成した本件届出書に記載された技術内容は公知のもの又は技術的に趣旨不明のものにすぎず、Fによって大幅に修正され、本件特許発明の完成に至っており、原告の作成した本件届出書が、Fによる本件特許発明の完成において創作的貢献をしているものではない。後者についても、原告の行った実験は、Bから教示された内容を確認したものにすぎず、本件特許発明の創出において創作的貢献をしているものではない。
d) Fは、前記のとおり、被告の特許部に所属する特許技術担当者として、特許出願書類作成の過程において、原告の作成した発明考案届出書の記載内容を大幅に修正し、L1≧4.5×Wという数値限定に特徴を有する本件特許発明を完成させたものであり、その寄与度は大きい。
e) 以上のとおり、Bは、公知技術の範囲を超えるものではないものの、ファンスプレーノズルを設計・試作し、高雰囲気圧下における噴霧形状及び噴霧粒径を観察する実験を行うことにより、扁平で扇形の噴霧を実現する燃料噴射弁を具体化し、ファンスプレーノズルの噴霧特性を明らかにしている。Bがこれにより得た技術的知見を原告に教示し、それに基づいて原告がBの実験結果の再確認を行い、本件届出書の作成に至ったことに鑑みれば、本件特許発明の創出に対するBの寄与度は、原告のそれよりは大と考えられる。
これらに対し、Fは、長年のディーゼルエンジンの研究により培った豊富な技術的知見に基づき、原告の作成した本件届出書の記載内容を大幅に修正し、L1≧4.5×Wという数値限定に特徴部を有する本件特許発明を完成させた者で、本件特許発明の創出における最大の功労者であり、本件特許発明の創出に対する寄与度は極めて大きい。
以上の諸事情に鑑みれば、共同発明者間における本件特許発明の創出に対する原告の寄与度は限りなくゼロに近く、1%を超えることはない。
(2) 争点2(本件特許発明承継の相当の対価の額)について
(原告の主張)
ア 独占による被告の利益の額
a) トヨタ自動車による本件特許発明の実施分(甲3の1ないし3、4)
<1> 平成13年
マークII(6気筒)は、9車種合計9万0484台が販売され、本件特許発明を使用するエンジン(D-4)は内3車種である。したがって、本件特許発明の実施台数は、90,484(台)×3/9=30,161(台)である。
以下、同様に算出する。
ベロッサ(6気筒) 250×2/7=71
ノアとボクシー(4気筒) 19,887
プレミオとアリオン(4気筒) 2,986×2/9=664
したがって、平成13年における本件特許発明を実施する噴射弁の総数は、26万3596個である。
(30,161+71)×6+(19,887+664)×4=263,596
<2> 平成14年
マークII(6気筒) 67,438×3/9=22,479
プログレとプレビス (6気筒)13,837
ベロッサ(6気筒) 674×2/7=193
ノアとボクシー(4気筒) 174,638
ガイア(4気筒) 15,763×1/2=7,882
プレミオとアリオン(4気筒) 107,720×2/9=23,938
したがって、平成14年における本件特許発明を実施する噴射弁の総数は、104万4886個である。
(22,479+13,837+193)×6+(174,638+7,882+23,938)×4=1,044,886
<3> 平成15年
マークII(6気筒) 45,638×3/9=15,213
プログレとプレビス (6気筒)10,334
ベロッサ(6気筒) 1,076×2/7=307
ノアとボクシー(4気筒) 142,863
ガイア(4気筒) 7,822×1/2=3,911
ウイッシュ(4気筒) 156,354×2/5=62,542
プレミオとアリオン(4気筒) 87,497×2/9=19,444
したがって、平成15年における本件特許発明を実施する噴射弁の総数は、107万0164個である。
(15,213+10,334+307)×6+(142,863+3,911+62,542+19,444)×4=1,070,164
<4> 平成16年
クラウン(6気筒)103,006
マークX(6気筒)13,059
マークII(6気筒)29,049×3/9=9,683
プログレとプレビス(6気筒)6,596
ベロッサ(6気筒)588×2/7=168
ノアとボクシー(4気筒)139,199
ガイア(4気筒)3,851×1/2=1,926
ウイッシュ(4気筒)121,942×2/5=48,777
プレミオとアリオン(4気筒)73,785×2/9=16,397
RAV4(4気筒)11,640×3/5=6,984
したがって、平成16年における本件特許発明を実施する噴射弁の総数は、164万8204個である。
(103,006+13,059+9,683+6,596+168)×6+(139,199+1,926+48,777+16,397+6,984)×4=1,648,204
<5> 平成17年1月から同年3月まで
クラウン(6気筒)20,354
マークX(6気筒)24,807
マークII(6気筒)1,212×3/9=404
プログレとプレビス(6気筒)1,184
ベロッサ(6気筒)5×2/7=1
ノアとボクシー(4気筒)41,369
ガイア(4気筒)6×1/2=3
ウイッシュ(4気筒)27,397×2/5=10,959
プレミオとアリオン(4気筒)24,647×2/9=5,477
RAV4(4気筒)3,603×3/5=2,162
したがって、平成17年3月までにおける本件特許発明を実施する噴射弁の総数は、52万0380個である。
(20,354+24,807+404+1,184+1)×6+(41,369+3+10,959+5,477+2,162)×4=520,380
b) トヨタ自動車以外の会社による本件特許発明の実施分(甲3の2・4、5の1・2)
被告は、トヨタ自動車及びデンソーとの間で本件特許発明について実施許諾契約を締結し、実施料の支払を受けている。一方、被告が実施許諾契約を締結していない自動車メーカー等も本件特許発明を実施しているから、被告が実施許諾契約を締結していない自動車メーカー等の売上も、本件特許発明により被告が得た利益に算入すべきである。
<1> トヨタ自動車の乗用車販売総数に対する本件特許発明を実施する噴射弁使用車数の割合は、次のとおりである。
平成13年(30,161+71+19,887+664)/1,204,885=0.0421
平成14年(22,479+13,837+193+174,638+7,882+23,938)/1,325,320=0.1833
平成15年(15,213+10,334+307+142,863+3,911+62,542+19,444)/1,402,417=0.1816
平成16年(103,006+13,059+9,683+6,596+168+139,199+1,926+48,777+16,397+6,984)/1,574,931=0.2196
平成17年1月から3月まで
(20,354+24,807+404+1,184+1+41,369+3+10,959+5,477+2,162)/460,586=0.2317
<2> トヨタ自動車以外の会社による乗用車の総販売台数は、次のとおりである。
平成13年普通車と小型車1,811,600台
軽四輪車 1,273,198台
平成14年普通車と小型車1,808,877台
軽四輪車 1,307,157台
平成15年普通車と小型車1,765,778台
軽四輪車 1,291,819台
平成16年普通車と小型車1,821,117台
軽四輪車 1,372,083台
平成17年1月から3月まで普通車と小型車572,032台
軽四輪車 417,513台
<3> トヨタ自動車以外の会社による本件特許発明を実施する噴射弁を使用する車の台数は、トヨタ自動車における実施割合と同一と考えられることから、次のとおりである。
平成13年普通車と小型車1,811,600×0.0421=76,268台
軽四輪車1,273,198×0.0421=53,602台
平成14年普通車と小型車1,808,877×0.1833=331,567台
軽四輪車1,307,157×0.1833=239,602台
平成15年普通車と小型車1,765,778×0.1816=320,665台
軽四輪車1,291,819×0.1816=234,594台
平成16年普通車と小型車1,821,117×0.2196=399,917台
軽四輪車1,372,083×0.2196=301,309台
平成17年1月から3月まで
普通車と小型車572,032×0.2317=132,540台
軽四輪車417,513×0.2317=96,738台
したがって、普通車と小型車の合計台数は、126万0957台である。
76,268+331,567+320,665+399,917+132,540=1,260,957
軽四輪車の合計台数は、92万5845台である。
53,602+239,602+234,594+301,309+96,738=925,845
なお、軽四輪車の内、富士重工業の分は、次のとおり、4万7245台である。
(88,921×0.0421)+(65,630×0.1833)+(51,583×0.1816)+(77,460×0.2196)+(21,986×0.2317)=47,245
<4> トヨタ自動車以外の会社による本件特許発明を実施する噴射弁の数は、普通車には4気筒と6気筒と8気筒があるところ、すべて4気筒であるとして算定する。小型車はごく一部の例外を除き4気筒であることから、すべて4気筒であるとして算定する。また、軽四輪車は富士重工業が4気筒、その他の会社は3気筒が多いので、富士重工業は4気筒、その他の会社は3気筒として算定する。したがって、トヨタ自動車以外の会社による本件特許発明を実施する噴射弁の総数は786万8608個である。
(1,260,957×4)+(47,245×4)+(878,600×3)=7,868,608
c) 噴射弁の販売単価(甲6、7)
1個当たり2万3000円である。
d) 実施料率(甲16、17)
<1> 被告と許諾の相手方(トヨタ自動車及びデンソー)との間で定められた実施料率について
被告の株式は、トヨタ自動車、株式会社豊田自動織機、デンソー、トヨタ車体株式会社、豊田工機株式会社、アイシン精機株式会社、愛知製鋼株式会社、豊田通商株式会社及びトヨタ紡織株式会社の合計9社によって保有されている。特に、トヨタ自動車は、被告の発行済株式の過半数を保有するとともに、トヨタ紡織株式会社を除く前記各社の筆頭株主となっている。したがって、被告とトヨタ自動車とは、法的には独立した別会社であるものの、経済的には非常に緊密な関係にある。
被告は、株主であるトヨタ自動車等のトヨタグループ各社から日常的に研究委託を受け、研究費等を受領し、成果を提供するという関係にあり、こうした日常業務の中から収入を得ている。したがって、被告の収支は特別な特許発明の実施料に頼ることなく、日常的な研究委託業務の中で成り立っているといえる。このため、特許発明の実施料を特別に安く契約しても、広い目で見れば、こうした研究委託業務の中から本来の実施料相当の対価が有形無形に戻ってくる。一方、発明者、特に実績補償金以外に何も得ることのできない立場の退職発明者である原告にとっては、市場の競争原理ではなく、形式的に定めた極めて安価なライセンス収入を基に実績補償金を支払えば足りるというのは不当である。
したがって、被告がその株主との間で定めた形式的な実施料額ではなく、一般に低率とされているとともに、よく知られている国有特許における実施料率を基準として、本件特許発明の承継の相当対価を算定すべきである。
<2> 国有特許における実施料率
実施料率は、基準率と利用率と増減率と開拓率を掛け合わせることによって算出される。
基準率は、2%、3%及び4%の中から一つを選択するものである。
本件特許発明は、実施価値が高いので、4%が相当である。利用率は、基本額の算出に噴射弁そのものの販売単価を用いるので、100%である。増減率は、実施価値が特に高いため、50%以内で増加できる。
開拓率は、本件明細書にエンジンでの使用形態まで記載しており、それを実際に使用してマークIIの販売を開始したことや、本件明細書中に噴射弁を使用した噴霧平均粒径や噴霧角のデータをも提供している等の理由により、エンジン搭載に際し、あまり苦労はないものと考えられる。こうして、増減率×開拓率は1よりも大きくなるものの、1として算定する。
したがって、実施料率は4%とするのが相当である。
e) 実施料額
平成13年から平成17年3月末までの合計実施料額は、次のとおり、114億2257万0960円である。
23,000×(4,547,230+7,868,608)×4%=11,422,570,960円
イ 本件特許発明における原告の貢献度
原告は、被告において実質一人で本件特許発明を完成させた。すなわち、昭和60年ころから、所属研究室において、会社方針に沿った研究テーマの外に、被告や他社からの指示も依頼もないまま原告自身の独自方針の下に選定した直噴エンジンに関するサブテーマについて、そのエンジンに必要な燃料噴射ポンプの検討、従来の燃料噴射ノズルによる噴霧状態観察による基礎検討、直噴成層エンジン調査、成層エンジンの理論モデルシュミレーションによる基礎検討を順次行い、これらにより本件特許発明を創作するに至った。
原告は、その後、その発明概念に従い、噴射弁のノズル寸法形状と、噴射液滴径や液滴分散状態という霧化特性との関係を調べるために実験を行った。その際、原告の属する研究室の実験装置では実験できない場合があり、他の研究室の実験装置を借りる場合もあった。
また、特許出願に際しても、明細書の文章全体と図面の原稿は原告自身が作り、特許部において一部文章の削除等があるくらいで、ほとんど原告の原稿に従った出願内容となっている。ところで、原告は、原稿作成時に、特許請求の範囲を噴射弁とすべきかエンジンとすべきかについて迷い、特許部に相談した結果、噴射弁にすべきとの助言を受け、本件特許権における特許請求の範囲となった。しかし、エンジンへの応用まで開示している本件明細書の内容に照らせば、噴射弁の外、例えば、当該噴射弁とピストン上面の浅いキャビティー(浅皿キャビティー燃焼室)との組合せを要件とするエンジンに関する請求項も当然に記載しておくべきであったと考えられる。このように、被告は、本件特許発明の出願時において、弁理士又は特許担当部ならば貢献できるはずのことができておらず、マイナスの貢献をしたといわざるを得ない。
被告はトヨタグループの研究所であり、自動車関連の研究所としての設備を有することの外、本件特許発明の完成までに特別な貢献は見られない。原告は被告の設備を使用して実験してはいるものの、一人で自由に選定したテーマについて実質一人で発明を完成させている。一方、被告は、特許法35条1項により無償の通常実施権を得ているのであるから、これにより被告が原告を雇用していたことに対する相当程度の見返りを済ませたことになると考えられ、設備の貢献は、相当対価の額を定めるに際しては、もはや大きくないと考える。したがって、本件特許発明までの原告の貢献度は少なくとも80%以上である。
また、本件特許発明の完成後、その噴射弁をエンジンに搭載する場合を考えても、前記のとおり、本件明細書にはエンジンへの応用が既に開示され、現にマークIIの直噴エンジンには、この浅皿キャビティー方式が採用されているのであるから、原告作成の本件明細書はエンジンへの適用形態をも明確に教示している。したがって、本件特許発明完成後までの諸事情を考慮した場合でも、原告の貢献度は少なくとも80%以上である。
ウ 相当対価の額
a) 過去分
本件特許発明の有効期間は平成21年(2009年)8月21日までであるところ、平成17年3月までの分として、前記ア記載の独占の利益114億2257万0960円に、前記イ記載の原告の貢献度80%を乗じた額を請求する。
11,422,570,960×0.8=9,138,056,768円
したがって、91億3805万6768円から受領済みの71万8800円を控除した91億3733万7968円が、過去分の相当対価として請求できる額となる。
9,138,056,768-718,800=9,137,337,968円
原告は、91億3733万7968円(過去分)の内50億円を請求する。
b)将来分
過去分の相当対価の額が50億円に満たない場合、原告は、将来分も併せて請求する。
確かに、将来の妥当な実績補償金を正確に算出することは困難である。しかし、前記ア記載の平成13年から平成17年までの本件特許発明を実施する噴射弁の使用台数の変遷に照らし、今後も使用台数は増加すると考えられる。また、現に、トヨタ自動車がレクサスシリーズを大々的に展開してきていることを考えれば、現在よりも使用台数が増加することに疑いの余地はない。したがって、少なめに見積もっても、毎年、平成16年の使用台数の実施が見込まれる。
平成16年のトヨタ自動車における本件特許発明を実施する噴射弁の総数は、164万8204個である(前記アのa)の<4>)。
また、トヨタ自動車以外の会社による本件特許発明を実施する噴射弁使用車数は、普通車と小型車が合計39万9917台、軽四輪車が合計30万1309台である。なお、軽四輪車の内、富士重工業の分は、
77,460×0.2196=17,010台である(前記アのb)の<3>)。したがって、トヨタ自動車以外の会社による本件特許発明を実施する噴射弁の総数は、次のとおり252万0605個である。
(399,917×4)+(17,010×4)+(284,299×3)=2,520,605
結局、平成16年における本件特許発明を実施する噴射弁の総数は、416万8809個である。
1,648,204+2,520,605=4,168,809個
本件特許の有効期間は平成21年8月21日までであるから、平成17年4月1日から平成21年8月21日までの期間は、最後の平成21年8月を切り捨てれば、4年4か月間である。したがって、この期間における使用想定数は、1806万4839個である。
4,168,809×(4+4/12)=18,064,839個
よって、将来分の相当対価の額は、132億9572万1504円である。
23,000×18,064,839×0.04×0.8=13,295,721,504円
エ よって、原告は、主位的に過去分の相当対価91億3733万7968円の一部請求として、予備的に過去分及び将来分の相当対価224億3305万9472円の一部請求として、50億円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である平成17年1月7日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
(被告の主張)
ア 本件特許発明における「発明により使用者等が受けるべき利益」について
a) 本件特許発明における独占の利益について
被告は、自社単独で各種研究、試験及び調査を行い、又は、他社とそれぞれ相互に受委託若しくは共同して各種研究、試験及び調査を行う株式会社である。被告は、いわゆる研究所の性質を有する会社であり、自社又は他社が創出した特許権等を実施して、商品を製造販売することは一切行っていない。そのため、被告は、本件特許発明についても自社実施していない。他方、被告は、本件特許発明について第三者に対し実施許諾をしている。したがって、本件特許発明における独占の利益の額は、被告が本件特許発明について実施許諾をしている以上、それにより被告が受領した実施料合計額となる。
b) 被告が得た本件特許発明における実施料収入について
被告は、トヨタ自動車及びデンソーに対して、本件特許発明の実施を許諾し、両社より実施料を受領した。
<1> <中略>
c) 本件特許発明について、さらなる実施料収入は見込まれないこと
本件特許発明は自動車エンジンに使用される燃料噴射弁に関するものである。自動車エンジンの開発・商品化には通常10年の歳月を要する。特に、トヨタ自動車製造の自動車に搭載された直噴ガソリンエンジンを一から開発し、商品化するためには13年以上の歳月を要した。トヨタ自動車以外の自動車メーカーが、本件特許発明を使用した自動車エンジンを開発・商品化するためには、同程度の開発期間を要すると考えられる。
他方、本件特許権の期間満了日は平成21年8月21日である。
そのため、本件特許発明を使用した自動車エンジンを開発・商品化している最中に、本件特許権が期間満了により消滅してしまうため、トヨタ自動車以外の自動車メーカーが、本件特許発明を使用した自動車エンジンを開発・商品化するために、あえて、被告より実施許諾を受けるメリットは存在しない。
被告は、自社の有する特許等のライセンスについて、オープンポリシーを採用しているものの、前記事情から、今後、トヨタ自動車以外の自動車メーカーから、本件特許発明の実施許諾の申入れは見込まれない。
<中略>
d) 原告の主張に対する反論
<1> 原告は、被告がトヨタ自動車その他の日本の自動車メーカーに本件特許発明を実施許諾した場合を想定し、その場合に得られる実施料収入を、独占の利益と主張している。しかし、他社に実施許諾した場合を仮定して、その場合に得られる実施料収入をもって独占の利益とする考え方は、当該他社に実施許諾していない以上、採り得ない考え方である。
<2> 前記原告の主張のアのd)の<1>の「被告と許諾の相手方(トヨタ自動車及びデンソー)との間で定められた実施料率について」欄において原告が主張する事項について、第1段落中、被告の株式が原告主張の9社によって保有され、トヨタ自動車が被告の発行済株式の過半数を所有することは認め、その余は不知ないし争う。第2段落及び第3段落は、否認ないし争う。
原告は、被告の得ているライセンス収入は、形式的に定められた極めて安価なものにすぎないと主張する。しかし、本件特許発明に関する被告のトヨタ自動車及びデンソーに対する実施許諾は、1年以上の歳月をかけた交渉の結果実現したものであり、原告の主張は事実に反する。また、トヨタ自動車の開発したD-4エンジンと呼ばれる直噴ガソリンエンジンには、1000を超える多数の関連特許技術が採用されている。仮に、そのすべての関連特許技術について、原告が主張するように、該当する各修理部品のエンドユーザーに対する販売価格に実施料率4%を乗じた実施料を支払うとすると、製造段階でエンジンを1台製造するのに多額の実施料負担による損失が生じてしまい、およそ事業として成り立たないことは容易に想像することができる。
e)小括
したがって、<中略>
イ 本件特許発明における「従業員の貢献度」について
a) 「使用者等が貢献した程度」の意義について
特許法35条4項は、「その発明がされるについて使用者等が貢献した程度」を考慮すべき旨規定している。特許法35条4項が使用者等と従業者等との利害関係を調整する規定であることからすれば、この「使用者等が貢献した程度」には、特許を受ける権利の承継後に使用者等が現実に得た実施料をもって独占の利益として「相当の対価」を算定する場合は、「その発明がされるについて」貢献した事情のほか、使用者等がその発明により利益を受けるについて貢献した事情及びその他特許発明に関係する一切の事情も含まれるものと解すべきである。
「使用者等が貢献した程度」として考慮すべき事情の具体例としては、以下のものを挙げることができる。
<1> 発明がされるについての事情(従業員の職務内容を含む。)
<2> 発明を出願し権利化し、さらに特許を維持するについての事情
<3> 発明の事業化についての事情
<4> 実施料を受ける原因となった実施許諾契約を締結するについての事情
<5> 実施製品の売上げを得る原因となった販売契約等を締結するについての事情
<6> 発明者への処遇その他諸般の事情
以下、本件特許発明における前記各事情の具体的内容を述べた上で、本件特許発明について被告が貢献した程度を算定する。
b) 被告が貢献した程度について
<1> 発明がされるについての事情
被告は、昭和35年の会社設立当初から継続して自動車用エンジンに関する研究を行い、燃料噴射弁については、昭和56年ころから直噴エンジン用の燃料噴射弁の開発を行っていた。そのため、被告は、本件特許発明が創出された時期において、燃料噴射弁について豊富なノウハウを有しており、後記<2>のとおり、本件特許発明の完成には、被告の有するノウハウが使用されている。
そして、後記<2>のとおり、共同発明者による試作品の製作及び試作品を使用した実験には、被告の有する設備及び人的資源が利用されている。
<2> 共同発明者に対する被告の貢献について
被告が予備的に主張する本件特許発明の共同発明者であるF、B及び原告のいずれも、発明にかかる技術の研究・開発又は特許出願過程における発明創出活動を職務内容としており、本件特許発明の創出は、共同発明者の通常の業務の一環としてなされている。
(i) Bは、昭和49年4月に被告に入社して以来、燃料噴射ノズルの開発等を担当する研究室に所属し、ファンスプレーノズルを始めとする燃料噴射ノズルの開発を職務として行っており、上記の本件特許発明に関する諸行為も、自己の所属する研究室の研究テーマであった直噴ガソリンエンジンにおける成層燃焼及び燃料噴射に関する研究の一環としてなされたものにすぎず、ファンスプレーノズルの試作、同ノズルを使用した実験等においては、被告の有する施設及び被告の有するノウハウを使用している。
また、Bは、被告の支援を受けて名古屋工業大学機械工学科II部を卒業している。Bは、大学での流体弁の研究により得た技術的知見を、本件特許発明に関する諸行為に活用している。
(ii) 原告は、昭和61年3月以降、ガソリンエンジン開発を担当する研究室に所属しており、本件特許発明に関する前記諸行為は、自己の所属する研究室の研究テーマであった直噴ガソリンエンジンにおける燃焼(希薄燃焼、成層燃焼等)に関する研究の一環としてなされたものにすぎない。加えて、原告の行った実験には、被告の有する施設が使用されている。
(iii) Fは、本件特許発明の完成に際して、ディーゼルエンジンの研究により培った技術的知見を用いている。これは、Fが、昭和53年4月から昭和63年2月までの間、被告においてディーゼルエンジンの開発等を担当する研究室に所属し、当該研究室でのディーゼルエンジンの研究等により培ったものであり、Fによる本件特許発明の完成には、被告のノウハウが使用されている。
また、被告は、研究所であり生産活動を行っていないことから、特許を重視する社風を有しており、特許部に属する特許技術担当者にも、職務として発明創出活動を要求している。そして、Fは、特許部に配転された昭和63年2月から間もない同年7月以降、本件特許発明の出願関連業務に関与し、特許出願書類作成の過程において本件特許発明を完成させており、このFによる本件特許発明の完成は、Fに割り当てられた職務の遂行過程でなされたものである。
<3> 発明を出願し権利化し、さらに特許を維持するについての事情被告は、本件特許発明の特許出願に要する費用及び特許を維持するための費用をすべて負担しており、特許庁へ納付した費用だけでも、その合計額は34万1300円となる。
<4> 発明の事業化についての事情
被告は、トヨタ自動車が行ったファンスプレーノズル及び同ノズルを使用した直噴ガソリンエンジンの開発・実用化に関して、被告自身も物的・人的資源を投下しており、少なくとも、平成5年から平成12年にかけて、直接人件費として17億円、大物設備費として8000万円、間接費として11億2000万円の合計29億円以上の費用を支出している。
直噴ガソリンエンジンにおいて、希薄な混合気を燃焼させることにより燃費を向上させるためには、例えば、噴霧(燃料の微粒化、空気の巻込み、燃料の配置、気流の誘起)、燃焼室形状(混合気の配置、分散の抑制、混合気の安定化、気流の制御)及び空気流動(燃料の運搬、乱れ生成、混合気の撹拌)を様々に組み合わせることが必要であり、また、排ガスのクリーン化においては触媒技術等によるところが大きい。そのため、ファンスプレーノズルを使用した直噴ガソリンエンジンの実用化には、本件特許発明のみならず、様々な技術の開発・実用化が必要であり、多額の費用と歳月が必要となる。そして、ある技術の開発・実用化には相応の費用と歳月が必要であり、これらの技術のなかには、実用化に至らずに開発が終了してしまうものや、実用化には至ったものの事業として収益が上がらないものがあることはいうまでもない。
以上のとおり、被告は、トヨタ自動車が行った本件特許発明を使用した直噴ガソリンエンジンの開発・実用化に関して、被告自身も、開発・実用化に付随する様々なリスクを負担して、多額の費用と歳月を費やしたものである。
<5> 実施料を受ける原因となった実施許諾契約を締結するについての事情
本件実施許諾1及び本件実施許諾2は、被告の特許部担当者が、トヨタ自動車ないしデンソーとの間で、いずれも1年以上の歳月をかけて本件特許発明の実施許諾について交渉を行った結果として、実現したものである。被告の特許部担当者によるトヨタ自動車及びデンソーへの実施許諾の実現によって、はじめて本件特許発明について実施料収入を得ることができたものである。
そして、被告は、契約交渉その他本件特許発明の実施許諾実現に要する費用をすべて負担している。
<6> 発明者への処遇その他諸般の事情
被告は、愛知県長久手町に、敷地面積約30万平方メートル、建屋面積約9万8000平方メートルの充実した研究施設を有し、研究事業費として毎年100億円以上を支出し、被告従業員たる研究員ないし技術者の研究環境を整備している。そして、直噴ガソリンエンジン開発のために、3億4000万円をかけて噴霧計測解析システム装置、排ガス分析装置等の開発装置を導入し、同エンジン開発において日本有数の施設となっている。
また、被告は、研究者及び技術者の養成のため、毎年予算を計上し、人材育成の諸プログラムを実施している。この人材育成のプログラムには、修士又は博士号取得の支援、国際学会における論文発表及び学会出席の支援、特許制度、図面の引き方及び発明考案届出書の作成方法の解説ないし教授等が含まれる。
さらに、被告が予備的に主張する本件特許発明の共同発明者は、いずれも被告において発明を創出することを職務とする者であり、その職務遂行の過程で本件特許発明を完成させている。そして、被告は、研究者、特許技術担当者等の行う職務に対して給与・賞与を支払い、また、健康保険、厚生年金保険及び雇用保険の事業者負担分の保険料を支払い、さらに、社宅、独身寮、トヨタ自動車健康保険組合の保養所等の充実した福利厚生制度を採用して、厚く処遇している。
ちなみに、本件特許発明の創出においては、勤務時間外の私的な時間を利用したり、従業員(発明者)自らが研究・実験費用を支出したり、従業員(発明者)の着想が斬新であったり、従業員(発明者)が発明の着想から事業化に至るまで関与したりといった、従業員(発明者)の貢献度を上げる事情は一切存在しない。
c)小括
前記諸事情に鑑みれば、本件特許発明に関する被告の貢献度は95パーセントを下回ることはない。したがって、従業員の貢献度は、5パーセントを上回ることはない。
ウ本件特許発明における相当の対価の額及び被告が支払うべき金額について
本件において「発明により使用者等が受けるべき利益」<中略>平成17年9月20日現在、本件特許発明の特許を受ける権利の承継に対する補償等を名目として、原告に対して合計71万8800円を支払っている。上記算定式から算出された相当の対価から、被告が原告に対して既に支払った金額を控除すると、次のとおり<中略>本件特許発明について、特許法35条3項に基づく相当の対価として被告が原告に支払うべき金額は、既に支払済の金額を考慮した場合には0円となる。
(被告の主張に対する原告の反論)
ア 被告の活動について
被告は、研究開発のみを行っているのではなく、熱線風速計、圧力センサーチップ、単筒エンジン等を製造販売している。
被告が本件特許発明を自己実施しなかったというのは被告自らが選択した結果である。自己実施していないからといって、相当対価の額が減額されるものではない。
イ 今後も実施許諾がされる見込みについて(甲8ないし12、13の1・2、14、15)
トヨタ自動車は、平成17年10月現在、本件特許発明を実施した噴射弁を搭載した車を製造販売している。さらに、本件特許発明を実施した噴射弁を使用したD-4エンジンは、平成17年8月に市場投入された高級自動車レクサスシリーズの内のレクサスIS及び同GSに搭載されている。平成18年9月発表予定のレクサスLS(現名称セルシオ)も、前記D-4エンジン及び同エンジンを使用したハイブリッドシステムエンジンを搭載する。また、現在、セルシオと同じエンジンを搭載しているレクサスSC(現名称ソアラ)も、前記D-4エンジンが使用されるものと思われる。さらに、エスティマは、平成18年1月に、前記D-4エンジンの搭載された車種が発売になる。また、超高級車SFS等も前記D-4エンジンを搭載することが計画されている。また、レクサスISのクーペタイプCシリーズも計画されている。マークIIに代わって平成16年末に発売開始されたばかりのマークXも、全車種が前記D-4エンジン搭載車である。このように、トヨタ自動車は、本件特許発明を実施した噴射弁を使用したD-4エンジン搭載車を今後も大幅に拡大することを目指している。
そもそも、本件特許発明を実施した噴射弁を使用すると、燃費が非常に良くなるのであって、本件特許発明の価値は大きい。トヨタ自動車をはじめとして各自動車会社は、本件特許発明の実施を求めているのである。<中略>被告の締結した本件実施許諾1及び同2が正当なものではなく、形式的なものにすぎないことの証左である。したがって、本件実施許諾1及び同2に基づいて受領した実施料額は、相当対価の算定の基準とならない。
ウ 被告の実施許諾のポリシーについて
被告は実施許諾契約についてオープンポリシーを採用していると主張する。しかし、トヨタ自動車との株式関係やトヨタグループの存在を考えると、少なくとも本件特許発明のような重要技術については、オープンポリシーは採用されていない。<中略>
エ 本件特許発明を実施するのに要する時間について
本件特許発明を実施するにあたっては、本件特許発明を実施した噴射弁を各社のエンジンに組み込んだ際に、その性能を十分に引き出すための調整時間があれば十分である。D-4エンジンを新規に開発する際に要した時間は、4年以内、実態は1年程度であり、10年程度ではない。
トヨタ自動車が平成11年10月から本件特許発明を実施していること、本件特許発明の出願は平成3年4月3日に公開され、競業他社が将来、実施許諾を受けることを想定して発明効果の確認実験やエンジンへの組込調整を行って実施の準備をすることができたこと、エンジンへの調整は1年程度でできることに照らせば、トヨタ自動車以外の会社について、平成13年以降に本件特許発明が実施されたものとして、その実施された噴射弁の台数を相当対価の基礎とすることには合理性がある。
オ 被告の貢献度について
本件特許発明は原告自身の発案計画によって原告一人で行ったものであり、被告に実質的なリスクはない。被告の主張する高額な解析装置等は使用していない。
発明完成後の事業化においても、既にトヨタ自動車独自方式の直噴エンジンが開発されていたのであるから、本件特許発明を実施した噴射弁の開発リスクは小さい。さらに、本件特許発明においては、エンジンへの組込が非常に簡便であるため、従来以上に事業化リスクは小さい。
カ 本件特許発明の重要性について
エンジンにとっては燃焼が最重要であり、直噴エンジンに限れば、燃焼の基本を創出する燃料噴射弁こそが最重要技術である。D-4エンジンを直噴エンジンたらしめているのは、本件特許発明の扇形スリットノズル噴射弁であり、強いて言えば、ピストン上部の浅いキャビティとの組合せである。したがって、D-4エンジンに多数の特許技術が用いられているとしても、本件特許権の貢献度は極めて大きい。
第3争点に対する判断
1 本件特許発明の発明者(争点1)について
(1) 総説
特許法35条の相当の対価を請求し得る、特許出願された発明の発明者については、特許法2条1項、35条、65条、68条及び70条等に照らし、願書に添付した特許請求の範囲の記載を基準としてその発明の技術的思想を把握した上で、当該技術的思想の創作に貢献している者か否かによって判断すべきである。
したがって、特許請求の範囲の記載に基づいて定められる技術的思想の創作自体に関係しない者、すなわち、<1>部下の研究者に対し、具体的着想を示さずに、単に研究テーマを与えたり、一般的な助言や指導を行ったにすぎない者(単なる管理者)、<2>研究者の指示に従い、単にデータをまとめた者や実験を行った者(単なる補助者)、<3>発明者に資金や設備を提供するなどし、発明の完成を援助した者又は委託した者(単なる後援者・委託者)は、発明者たり得ない。
発明者たり得る者、つまり、技術思想の創作に貢献した者とは、新しい着想をした者あるいは同着想を具体化した者の少なくともいずれかに該当する者でなければならない。すなわち、新しい着想をした者は、原則として発明者であるものの、この着想とは、課題とその解決手段ないし方法が具体的に認識され、技術に関する思想として概念化されたものである必要があり、単なる思いつき以上のものでなければならない。また、新しい着想を具体化した者は、その実験やデータの評価などの具体化が当業者にとって自明程度のことに属しない限り、共同発明者たり得る。換言すれば、新しい着想を具体化することが、当業者にとってみれば自明のことである場合は、着想者のみが発明者と認められ、これを単に具体化した者は発明者たり得ない(この場合は、上記の単なる補助者にあたるというべきである。)。
(2) 本件特許発明の発明に至るまでの経緯
証拠(乙1の1・2、3ないし6、13ないし16、19、22、24、25、26の1ないし6、27、28、35、37)によれば、次の事実が認められる。
ア Bの貢献について
a) Bは、昭和54年3月に名古屋工業大学機械工学科II部を卒業し、被告においては、噴射・燃焼研究室に所属し、燃料噴射ノズルの開発、画像処理による噴霧粒径測定法の開発その他の研究開発に従事していた者である。Bは、昭和56年度から昭和60年度にかけて、直噴ディーゼルエンジン開発プロジェクトにおいて、燃料噴射ノズルの開発に携わっていた。
b) Bは、昭和58年ころ、燃焼効率の高い噴霧を形成する燃料噴射弁として、<1>噴射弁外周壁側に外端を有し、噴射弁内周壁側に内端を有し、かつ断面形状が大きな角度で外端に向かって広がる扇形状のスリット状噴孔を備える燃料噴射弁(ファンスプレーノズル)を設計し、<2>内端の幅Wを0.1mm、0.2mm及び0.3mmとする3種類のファンスプレーノズルをワイヤ放電加工により試作した。そして、試作した3種類のファンスプレーノズルを使用して、各ファンスプレーノズルにおいて噴射量が15mm3/stと30mm3/stとした場合における噴霧形状及び液滴径の観察(B実験)を行った。
B実験の結果から、Bは、<1>扁平で扇形の噴霧が形成されたこと、<2>噴霧の広がり角が約180度となったこと、<3>内端の幅Wが小さいほど良好な微粒化状態を示し、実用的にはW≦0.2mmが妥当であること、<4>噴霧の広がり角は、サック直径(D)とスリットのサック内壁からの切込量(A)で規定できる可能性があることを確認した。
c) Bは、昭和61年ころ、上司の指示により、病気による長期休職後職場に復帰した原告に対し、Bが試作したファンスプレーノズルの設計図とB実験の噴霧写真を提示し、<1>ファンスプレーノズルの構造と製造方法(ワイヤ放電加工)、<2>スリットのサック内壁からの切込量(A)により噴霧広がり角が規定でき、噴霧角を小さくするためには切込量(A)を小さくすること、<3>スリット状噴孔の内端の幅Wが狭いほど微粒化がよく、0.2mm以下にするとよいことを教示した。また、Bは、原告に対し、噴霧特性評価実験における噴霧形状と噴霧粒径に対する測定方法も教示した。
イ 原告の貢献について
a) 原告は、昭和55年3月に静岡大学大学院機械工学専攻の修士課程を修了し、被告に入社した後の昭和61年3月以降、直噴ガソリンエンジンにおける燃焼(希薄燃焼、成層燃焼等)等を研究テーマとする研究室に所属し、その研究開発に携わっていた。
b) 原告は、上司の指示により、Bから教示を受けたところに従い、スリット状噴射孔の燃料噴射弁の実験を行い、昭和63年7月21日、その特許出願の準備のため、被告特許課に対し、薄膜型ファンスプレーノズル及び当ノズルを用いた内燃機関に係る先行技術の調査を依頼した。特許課では、Fが担当者になり、昭和63年7月27日と同年8月26日に先行技術調査が行われた。
c) 原告は、平成元年2月6日付け(同年2月23日受付)で、被告特許課に対し、発明考案届出書(本件届出書)を作成し提出した。本件届出書には、次の趣旨の記載がある(乙3)。
<1> 社内発明考案者
原告及びB
<2> 発明考案の名称
「燃料噴射ノズル及び本ノズルを用いた内燃機関」
<3> 発明考案の概要
「高微粒化、大噴霧角および程よい貫てつ力を備えた燃料噴射ノズルを発明した。さらに本ノズルを用い、スワールにたよらなくても空気利用を高められるコンパクトな直噴デーゼル機関、スワールにたよらないで混合気形成を確実に行なわせることができる火花点火直噴機関および十分な予混合気化が可能となり希薄燃焼にも効果を示す吸気管噴射式内燃機関を発明した。」
<4> 本件届出書添付の特許出願書類の草案における「2.特許請求の範囲」欄
「(1) 内燃機関用の間欠燃料噴射ノズルにおいて、噴射ノズル先端内部基穴に交錯するように外側よりスリット状平行溝を切りこみするノズルである。切りこみ溝を第1、2図に示す諸元においてW・d≦0.4、W≦0.2(単位mm)に従ってワイヤカットなどの製法で薄スリット状平行溝構造とすることで、広く広がり分裂した薄膜をつくり微粒化を促進して扁平で広角な扇形の噴霧となる。この結果、高微粒化で安定した大噴霧角および従来ノズルに比べ低く程よい貫徹力を達成したことを特徴とする内燃機関用燃料噴射ノズル」
<5> 同「3.3.1発明の詳細構成」欄
「ただし第23図に示す本発明ノズルのスリット状溝幅Wと平均噴霧粒径dの関係例および噴霧観察から、従来ノズルよりもさらに高微粒化を実現し安定した噴霧状態を得るため次式に従わなければならない。W・d≦0.4、W≦0.2(単位mm)」
<6> 同「3.3.2発明の作用及び効果」欄
「本発明の作用及び効果を図を用いて説明すると次のごとくである。噴霧角δは第1図中の例えば球状基穴ではその曲率と法線角Θに応じ第21図のように噴霧角δは変わり、噴霧角δ=180の大噴霧角まで実現することができる。従来ノズルではこのような大噴霧角は不可能であり、また噴射量及び噴射圧で噴霧角は変化し安定しないが、本発明ノズルでは一定した噴霧角が得られる。」
<7> 同添付図面の第1図及び第2図
「第1、2図は本発明の基本的なノズルの正断面及び側断面を示す。」ものとされ、第1図には、法線角θとサック(基穴)の直径dが示され、第2図には、サックの直径dとスリット状噴孔の幅Wが示されている。
<8> 同添付図面の第21図
「第21図は本発明のノズルにおける法線角θと噴霧角δとの関係を示す。」ものとされ、その左端は法線角約70度と噴霧角約90度の点であり、そこから右肩上がりの曲線がひかれている(すなわち、法線角が大きくなると、噴霧角が大きくなる。)。
<9> 同添付図面の第23図
「第23図は本発明のノズルにおけるスリット状溝厚さWと平均噴霧粒径dとの関係を示す。」ものとされ、そのWの値が100(μm)付近までは粒径はほぼ一定値であるものの、100を超えた付近から徐々に粒径値が大きくなっている。
ウ Fの貢献について
a) Fは、昭和53年3月、岡山大学工学部機械工学科を卒業し、大学時代からディーゼルエンジンの分野で研究を進め、昭和53年に被告に入社した後は、主に直噴ディーゼルエンジンの研究に従事し、昭和63年2月に特許課に配転された。Fは、このように、本件特許発明の対象である直噴ガソリンエンジンと類似の分野である直噴ディーゼルエンジンの分野の研究開発に長く従事していたものである。
b) Fは、特許技術担当者として、原告が作成した本件届出書添付の特許出願書類の草案を手書きで大幅に修正し、さらに、被告の内規に従い、出願書の草案(乙4)を作成した。Fは、この草案の「2.特許請求の範囲」欄を大幅に修正し「スリット状噴孔の内端の幅W1」、「該内端の長手方向に沿う長さL1」、「前記スリット状噴孔の外端の長手方向に沿う長さL2」並びに「L1≧4.5W1」及び「L1>L2」との記載を書き加えた。
c) Fは、平成元年8月、本件特許発明に係る願書(乙5、6)を作成した。同願書においては、原告及びBが発明者として記載され、特許技術担当者のFと特許技術担当者の責任者であるG及びE弁理士の順番で査読をした。Fは、この願書に添付した本件明細書において、「L1≧4.5・W、L2>L1」とされていた数値限定を、さらに「L1≧4.5・W」に変更するなどの修正を行った。一方、F以外の者は、これらの修正を行っていない。
d) Fが本件明細書の特許請求の範囲において、「L1≧4.5×W」との数値限定をするに至った理由は次のとおりである。
<1> Fは、本件届出書に記載された「W・d≦0.4、W≦0.2(単位mm)」における「W・d≦0.4」との数値限定については、そもそもサック部直径dは単に針弁と弁座部によって構成される弁開閉手段とスリット状噴孔とを連絡する燃料流路の断面を規定するものであり、噴霧の形成には関連しないため、噴霧角に影響するパラメータにはなり得ず、趣旨不明で無意味な数値限定であり、「W≦0.2」との数値限定については、単なる設計事項として特許性が認められないものと判断した。そこで、Fは、本件届出書に記載された発明について、新規性・進歩性を備えた発明とすることができないか、鋭意検討することにした。
<2> Fは、「噴霧角40度では良好な燃焼のために空気流動の補助が必要であり、噴霧角60度では空気流動の補助なしで良好な燃焼が可能である。」という長年のディーゼルエンジンの研究で培った技術的知見(乙14ないし16)に基づいて、「スリット状噴孔から噴射される扁平で扇形の噴霧において、スワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼を可能にするためには噴霧角60度以上が必要である」との技術的推論を行い噴霧角の下限値は60度が適切であると判断した。
<3> Fは、ディーゼルエンジンの研究で培った技術的知見に基づき、噴霧角及び噴霧粒径に影響する箇所は、スリット状噴孔の内周壁側の内端であることから、内端の寸法諸元(L1とWの比)により数値限定を行うべきと考え、噴霧角60度を可能とする内端の寸法諸元を求めるために、本件届出書の第21図(ノズルの法線角θと噴霧角δとの関係を示す。)より噴霧角δが90度のときの法線角θが70度であることを確認し、小型直噴エンジンの一般的なサック部直径dが1.5mm程度であることから、L1=0.9mmを算出し、(L1=d×π×θ÷360の数式によって算出し得る。)、さらに、本件届出書の第23図を用いて、W=0.14mmが噴霧粒径の粗大化の許容限界値であることを確認した。
<4> Fは、本件届出書の第21図が噴孔内端の流路断面積が一定の条件における実験結果であると解釈するのが妥当であると判断しW=0.14mm、つまりWが噴霧粒径の粗大化の許容限界値であるときに、θが最小になり、噴霧角が90度となるものと解釈して、噴霧角が90度のときの寸法諸元としてL1=0.9mm、W=0.14mm、L1/W=6.4を導き出した。
<5> Fは、噴霧角60度を可能とする寸法諸元を小型直噴ディーゼルエンジンの研究で培った技術的知見に基づいて独自に予測した。すなわち、L1/Wの値が6.4のときに噴霧角が90度であり、L1/Wの値を約1にしてスリット状噴孔の内端の寸法諸元をホールノズル類似の形状としても、噴霧角はホールノズルの一般的な噴霧角である15度程度は確保されるという技術的知見をもとに、噴霧角が60度となる点を求め、この点における内端の寸法諸元であるL1/Wの値である4.5を限界値として導き出した。
e) 原告において実験結果を得ていたのは、噴霧角90度よりも幾分小さな噴霧角(せいぜい70度近く)までであって、Fは、L1/Wの下限値4.5については、上記のように推論して求めたものであり、その検証のための実験を行っていない。
(3) 本件特許発明の技術的思想とその発明者について
ア 本件特許発明を構成要件に分説すれば、次のとおりである。
A 弁体に設けた弁孔に摺嵌された針弁と、
B 該針弁の先端分が当接する前記弁孔の弁座部と、
C 該弁座部に連通するサック部と、
D 該サック部に連通し且つ弁体先端に開口すると共に噴射弁外周壁側に外端を有し噴射弁内周壁側に内端を有するスリット状噴孔とから成り、
E 前記内端の幅W、該内端の長手方向に沿った長さL1がL1≧4.5×Wである
F ことを特徴とする燃料噴射弁
すなわち、本件特許発明は、構成要件AないしDの弁孔、針弁、弁座部、サック部及びスリット状噴孔を備えた燃料噴射弁であり、そのスリット状噴孔の内端の長手方向に沿った長さL1が内端の幅Wの4.5倍以上との構成(構成要件E所定の関係式)を満たす燃料噴射弁というものである。
イ 本件明細書には、次の記載があり、その図面からは次の内容が認められる(甲1の1)。
「(発明が解決しようとする課題)
本発明は、従来の燃料噴射弁の噴霧角の大きさ、噴霧の分散及び微粒化を改善するとともに、噴霧の貫徹力の適切化を図ることを目的とするものである。
・・・
(作用)
上記のように構成された燃料噴射弁は、前記スリット状噴孔の内端の幅Wに対して内端の長手方向に沿った長さL1が4.5倍以上であるため、噴射された燃料は、スリット状噴孔近くでは非常に扁平で扇形の形状の液膜となり、該液膜は噴孔から遠ざかるにしたがってその厚みを減少するとともに周囲の空気との接触面積を増大するため、周囲の空気によって液膜が引きちぎられ、急速に微細な噴霧へと変化する。
加えて、前記液膜は非常に扁平で扇形の形状の液膜となるため、生じた噴霧は、第3図に示すように噴霧角を大きくすることができる。また第4図に示すように噴射された噴霧は、扁平な形状をしているため、周囲の空気を巻き込みやすい。更に、噴霧に巻き込んだ空気は噴霧の運動量を奪うため、噴霧の飛翔速度の減衰は噴霧に巻き込む空気の量によって大きく影響され、噴霧の到達距離及び貫徹力も噴霧に巻き込む空気の量によって大きく変わる。そのため、前記内端の幅Wと該内端の長手方向に沿った長さL1の比によって噴霧の到達距離及び貫徹力を適切なものに選ぶことができる。
(効果)
本発明の燃料噴射弁は、スリット状噴孔の内端の幅Wに対して内端の長手方向に沿った長さL1が4.5倍以上であるため、扇状で扁平な形状の噴霧が得られ、噴霧を扁平で平面的に分散させることができる。
さらに、本発明の燃料噴射弁は、内端の幅Wに対して内端の長手方向に沿った長さL1が4.5倍以上となっているため、噴射された噴霧が非常に扁平な形状となり、噴霧に周囲の空気を巻き込み易く、噴霧の微粒化が促進されるとともに、燃料噴射量が少ない場合においても、従来の燃料噴射弁に比べ噴霧粒径の増加が少なく、常に微細な噴霧を供給することができる。
加えて、噴霧の到達距離及び貫徹力も噴霧に巻き込む空気の量によって大きく影響される。そのため、前記内端の幅Wと該内端の長手方向に沿った長さL1の比によって噴霧の到達距離及び貫徹力を適切なものに選択することができる。」
本件明細書の第15図は、「本発明の燃料噴射弁の内端の長手方向長さL1と噴霧角の関係を表す線図。」であり、この図によれば、特許請求の範囲に規定されているL1/Wが4.5の場合には噴霧角δは約60度であり、スリット状噴孔の内端の幅Wに対する内端の長手方向に沿った長さL1の比を大きくするほど、噴霧角δが大きくなることが認められる。
また、本件明細書の第17図は、「本発明の燃料噴射弁の内端の幅Wと噴霧平均粒径の関係を表す線図。」であり、この図によれば、燃料噴射量が少ないほど噴霧の平均粒径が大きくなり、燃料噴射弁の内端の幅を小さくするほど噴霧の平均粒径が小さくなることが認められる。
ウ 本件特許発明を公知技術と比較した場合の特徴的な技術思想について
本件特許発明の構成要件AないしD及びFは、本件特許発明の対象が構成要件AないしDの構成を有する燃料噴射弁であることを規定するものである。
しかし、刊行物1(公開特許公報・特開昭53-82907、乙12)には、a)弁体に設けられた弁孔に摺嵌されたニードル2(本件特許発明の「針弁」。以下同様である。)と、b)ニードル2の先端分が当接する弁座3と、c)弁座部に連通する空室5(「サック部」)と、d)空室5に連通し且つ弁体先端に開口すると共に噴射弁外周壁側に外端を有し噴射弁内周側に内端を有する開口6(「スリット状噴孔」)とから成る、f)ことを特徴とする燃料噴射弁が記載されており、本件特許発明の構成要件AないしD及びFのスリット状噴孔から成る燃料噴射弁は、出願時に既に公知であった燃料噴射弁とその主要構成部分を記載したにすぎないものであって、何ら特許性を有するものではないことが明らかである。したがって、本件特許発明が、特許性があると認められ、特許登録に至ったのは、その構成要件E(スリット状噴孔の内端の幅W、該内端の長手方向に沿った長さL1がL1≧4.5×Wであること)の構成によるものということができる。そこで、この構成を着想し、具体化した者が誰であるかを次に判断する。
本件特許発明は、前記ア及びイによれば、スリット状噴孔の内端の幅Wを小さくすることによって燃料噴射量が少ない場合であっても噴霧の粒径を小さくし、さらに、幅Wに対して長さL1を大きくすることによって噴霧角を大きくし、その結果、従来の燃料噴射弁の噴霧角の大きさ、噴霧の分散及び微粒化を改善するとともに、噴霧の貫徹力の適切化を図ることを目的とし、L1/Wが4.5であることを下限値とするものと解される。そして、その臨界的意義は、当該下限値において噴霧角δが約60度となることが図示されているにすぎない(本件公報の第15図)。
このような本件特許発明の課題及び作用効果は、Bが昭和58年ころに行ったB実験において既に確認した事項、すなわち、ファンスプレーノズルにおいては、<1>扁平で扇形の噴霧が形成され、<2>噴霧の広がり角が約180度となり、<3>内端の幅Wが小さいほど良好な微粒化状態を示し、実用的にはW≦0.2mmが妥当であり、<4>噴霧の広がり角は、サック直径(D)とスリットのサック内壁からの切込量(A)で規定できる可能性があるということにおいて既に示唆されているのであって、本件特許発明の構成要件Eの構成を備えた発明は、既にBによって考案されていたものというべきである。
次に、原告は、Bから受けた教示を参考にして、噴霧角180度にとどまらず、噴霧角180度から90度付近(70度近く)に至るまで実験を行うなどして、その効果の生じ得る範囲を確認し、発明の範囲を、Bがなしたものからさらに拡張し、これを基にして本件届出書を作成したものである。原告は、Bから開示された発明とその基本的着想を基に、さらに広い範囲にまで検証のための実験を行って、発明の範囲を拡張し、これを本件届出書に記載し、その具体化を行っているのであって、本件特許発明の具体化に貢献したものと認めることができる。
そして、Fは、本件届出書の記載を元に、前記認定のとおり、「L1≧4.5×W」との関係式を想到することにより、本件特許発明の技術思想をより具体化したものである。すなわち、Fは、Bによってなされた扇形状のスリット状噴孔の着想と実験の結果を基になされた原告の実験結果が記載された本件届出書の記載内容を基にして、F自身の直噴ディーゼルエンジンの研究開発の経験に照らし、スワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼を確保するためには噴霧角60度以上が必要であることや、スリット状噴孔の内端の寸法諸元についての技術的知見を併せ考えて、上記数式を想到するに至り、これにより本件特許発明に特徴的な技術思想を具体化し、特定したものである。このFの行為は、Bと原告によってなされた発明について、公知の技術と比べ特許性がある部分を抽出して特許請求の、範囲に記載するという明細書の作成担当者がなす行為以上のものであり、Bの着想と実験結果を基にしてなされた原告の実験結果に基づく発明が記載された本件届出書を基にして、本件届出書に記載されていない事項すなわちF自身のディーゼルエンジンの研究開発経験に裏付けられた技術的知見を加えて、上記発明を発展させ、より具体的に明確にしたものであり、Fのこの貢献も共同発明者としてのものというべきである。
上記のとおり、本件特許発明の構成要件Eにおける「L1≧4.5×W」との関係式を想到することにより本件特許発明の技術思想をさらに発展させ、具体化したのはFである。もとより、かかる数値限定は、原告の作成した本件届出書に記載されているものではないし、本件届出書に記載されたWとdによる数値限定を基に、これをWとL1による数値限定に単に変換したというものでもなく、その思考過程には、Fが培ってきた技術的知見が取り込まれているものである。そして、Fのこの貢献は、Bの着想とその実験結果(噴霧角180度のもの)及びこれに基づいてなされ、その適用範囲を180度から90度ないし70度近くまで拡大した原告の実験結果が記載された本件届出書の記載内容を基にしてなされたものである。したがって、Fは、B及び原告によってなされた発明を、その技術的知見に基づいてより発展させ、具体化したものであるから、本件特許発明は、B、原告及びFの三者による共同発明であるというべきである。
もっとも、本件特許発明は、構成要件Eの「L1≧4.5×W」との数値限定により特許査定されたものであるということはできても、このスリット状の噴孔の内端の長手方向の長さL1が内端の幅Wの4.5倍以上という構成は、扇形状のスリット状噴孔について容易に想到し得る設計的事項の範囲のものを広く包含し、単にその下限値を設定しただけのものであるとの疑いも払拭しえないところである。すなわち、刊行物1に示されているようなスリット状噴孔を設計すれば、内端の長手方向の長さL1が内端の幅Wの4.5倍以上という扁平な構成のものが、通常の設計事項の範囲内のものとして、容易に設計し得るのであり、本件特許発明は、構成要件Eの数値限定によっても、刊行物1に記載された公知の発明から容易に想到し得るものを広く包含すると判断される可能性があることは否定しがたいところである。本訴においては、この点が争点とはなっていないため、この点を突き詰めて判断する必要まではないとしても、この本件特許発明の進歩性について生じる疑念は、本件特許発明の共同発明者間におけるFの貢献度を考慮する際の一つの要素として、また、後記のとおり、本件特許発明における相当の対価を算定する際の消極的な要素の一つとして考慮せざるを得ない。
以上より、本件特許発明に対する三人の上記貢献の内容を検討すれば、B、原告及びFの本件特許発明に対する貢献度は、Bが5、原告が3、Fが2であると認めるのが相当である。
エ 被告は、Fが、本件特許発明の出願書類を作成している際に、スワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼が可能な噴射角の下限値が60度であると判断し、噴霧角に影響を与える部分として、スリット状噴孔の内端の寸法諸元(L1とWの比)に着目し、噴霧角が60度以上となる内端の寸法諸元として、「L1≧4.5×W」という数値限定を具体化したのであって、本件特許発明はFによる単独の発明である旨主張する。
しかし、Fは、本件特許発明における下限値の4.5について、スワール等の空気流動の補助なしで良好な燃焼を可能にするためには噴霧角60度以上が必要であるとの技術的推論を前提として、60度におけるL1/Wを、本件届出書に記載された実験結果に基づいた図、すなわち、Bの着想と実験結果に基づきなされた原告の実験結果を記載した本件届出書に基づいて、計算上、導いたにすぎないものである。すなわち、Fは、本件届出書の各図の実験データとして表示されていないL1やWの値を想定して噴霧角60度の場合の値を導いているとしても、本件届出書の第23図及び第21図を前提とした上で、その値を導いているのであって、このようなFの行った作業は、Bの着想と実験結果に基づいてなされた原告の実験結果に基づき、これにF自身の技術的知見を加えた上でなされたものであるから、その結果得られた本件特許発明は、F単独の発明ということができないことは明らかである。
オ 原告は、本件特許発明の本質は、<1>大きな角度で外端に向かって広がる扇形状のスリットノズル、<2>細長い矩形状の内端側開口、<3>噴射量Qに依存するものの、扇形スリットノズルの溝厚さ(溝幅)Wが概ね200μm以下であること(本件明細書の第17図)の3点であり、これによる作用効果は、噴霧が扁平で大きな角度の安定した扇形に広がりつつ粒子が極小となることであると主張する。
しかし、本件特許発明は、構成要件AないしFから成るものであり、刊行物1に記載された前記認定の公知技術からみても、本件特許発明の技術思想を原告主張のように拡大して解釈することができないことは明らかである。また、<1>「大きな角度で外端に向かって広がる扇形状のスリットノズル」及び<2>「細長い矩形状の内端側開口」については、Bの試作したファンスプレーノズルにおいて既に具体化されているし、<3>「噴射量Qに依存するものの、扇形スリットノズルの溝厚さ(溝幅)Wが概ね200μm以下」については、B実験の結果によって既に確認されていた事項である。したがって、本件特許発明の本質が、原告が主張するとおりであるとすれば、これについて基本的着想を行った者はB一人ということになるのであり、原告の主張を採用し得ないことはこの点からも明らかである。
2 本件特許発明承継の相当の対価の額(争点2)
(1) 本件特許発明により被告が受けるべき利益の額
ア 総説
特許法35条3項4項は、従業者等は、使用者等に特許を受ける権利を承継させたときは、相当の対価の支払を受ける権利を有し、その対価の額は、その発明により使用者等が受けるべき利益の額及びその発明がされるについて使用者等が貢献した程度を考慮して定めるものと規定する。
特許法35条の職務発明についての相当の対価請求においては、<1>特許法35条4項の「その発明により使用者等が受けるべき利益の額」については、特許を受ける権利が、将来特許を受けることができるか否かも不確実な権利であり、その発明により使用者等が将来得ることができる利益をその承継時に算定することも極めて困難であることからすると、その発明により実際に使用者が受けた利益の実績をみた上で、「その発明又は特許発明により使用者等が実際に受けた利益」から同条項にいう「その発明により使用者等が受けるべき利益の額」を事後的に算定することは、同条項の文言解釈として許容し得る解釈であり、同条項の「利益の額」の合理的な算定方法の一つである、<2>使用者等は職務発明について特許を受ける権利又は特許権を承継することがなくとも、当該発明について同条1項が規定する通常実施権を有することに鑑みれば、同条4項にいう「その発明により・・・受けるべき利益の額」は、単なる通常実施権を超えたものの承継により得た利益、すなわち、特許権による法的独占権又は特許を受ける権利については補償金請求権ないしはその登録後に生じる法的独占権に由来する独占的実施の利益あるいは第三者に対する実施許諾による実施料収入等の利益であると解すべきである。
イ 被告が得た実施料収入について(乙7の1・2、29、30、39、40及び弁論の全趣旨)
被告は、<中略>トヨタ自動車からその実施料の支払を受ける旨の実施許諾契約を締結した(本件実施許諾1)<中略>
ウ 被告が原告に支払った実績補償について(前提となる事実、乙7の2、29、30)被告は、<中略」上記のとおり、トヨタ自動車と、<中略>デンソーと、各実施許諾契約を締結し、相手方から実施料収入を得たため、被告規程に基づき、原告に対し、<中略>
エ 被告の沿革と株主構成及びその活動内容について(乙31、33、36、38、41及び弁論の全趣旨)
被告は昭和35年11月に設立され、平成17年10月現在、資本金30億円、従業員数936名の株式会社である。被告の株主は、株式会社豊田自動織機、トヨタ自動車、愛知製鋼株式会社、豊田工機株式会社、トヨタ車体株式会社、豊田通商株式会社、アイシン精機株式会社、デンソー及びトヨタ紡織株式会社の合計9社であり、中でもトヨタ自動車が被告の過半数の株式を保有する。また、被告には上記株主会社のほかに、合計41社の技術協力契約会社が存する。被告は、自動車関連技術をはじめとした幅広い分野での研究によってトヨタグループの事業展開に貢献している。そして、自社単独での各種研究、試験及び調査のほか、グループ各社からの研究委託を受けるなどして研究・開発活動を行い、研究事業費として毎年100億円以上を支出している。<中略>
オ 適正な実施料率について
原告は、被告が、トヨタ自動車及びデンソーが被告の株主会社であることを考慮して、本件実施許諾1及び同2において、通常ではあり得ないような低額な実施料の定めをしたのであって、かかる低額な実施料を相当対価算定の基準とすることはできず、国有特許の場合に適用される実施料率4%を基準として算定すべきであると主張する。
確かに、前記認定事実によれば、被告の研究開発活動は、トヨタグループ関係にとどまらず広く行われているとはいうものの、その株主構成はトヨタグループ所属の会社から成り、同グループから多額の研究委託事業の依頼があり、高額の委託研究費が支払われていると推認されること、また、<中略>被告がトヨタ自動車をはじめとするトヨタグループのための研究・開発機関であるとの特徴を有していることは否定し難く、経済面において、また、研究開発面において、完全に自主独立した研究開発機関として、トヨタ自動車等とライセンス契約等を締結しているとみることは困難である。すなわち、トヨタ自動車等から被告に対し研究開発の委託がなされ、高額の研究開発費が支払われている状況下において、被告がトヨタ自動車等に対し低額で本件特許発明の実施許諾をしているとの疑いは払拭しきれないところである。
しかし、本件においては、トヨタ自動車が本件特許発明をどの車種のどの直噴式D-4エンジンに実施しているか否かは証拠上明らかではなく、また、本件特許発明の進歩性がその構成要件Eの数値限定に基礎付けられるとしても、同要件において定められた数値限定が本件特許発明の進歩性を基礎付けるものとしてどの程度の意味を有しているのかについては前記1の(3)のウのとおり相当程度の疑問があるため、特許法35条に基づく本件特許発明の相当の対価の算定においては、この点を消極的要素として考慮せざるを得ない。<中略>本件の全証拠によっても、本件に<中略>特許法35条の職務発明の相当の対価の算定の基礎とすべきであることを認めるに足りる証拠もないといわざるを得ない。
そして、昭和35年に設立された被告が、特許法35条所定の職務発明に係る従業者発明者に対する相当の対価の支払をことさら低額にとどめる目的をもって設立され、研究開発活動を継続して行っているなどの特段の事情を認めるに足りる証拠もないことからすれば、特許法35条が、職務発明について使用者に権利を承継させる一方で、発明者である従業者等には相当の対価の支払を行わせることにして両者の利益の調和を図っている趣旨を考慮しても、原告の上記主張を採用することは相当ではない。
カ 被告がライセンス契約を締結していない自動車メーカーについて原告は、被告が本件特許発明についてライセンス契約を締結した相手方から支払われた実施料だけでなく、被告がライセンス契約を締結していない自動車メーカー等についても、本件特許発明を実施しているとして、本件特許発明の実施料相当額を、被告が本件特許発明により得た利益として算定すべきであると主張する。
しかし、被告が本件特許発明についてライセンス契約を締結したトヨタ自動車及びデンソー以外の自動車メーカーあるいは自動車用部品メーカーが本件特許発明を実施していることを認めるに足りる証拠はない。また、被告が、本件特許発明を無断で実施している企業があるとして、これに対し、特許権侵害訴訟を提起する準備をしていることを窺わせるに足りる証拠もない。よって、原告の上記主張は、上記2社以外の企業が本件特許発明を実施していることをその前提とするものであるとするならば、その前提事実についての立証がないから理由がなく、また、上記2社以外の企業が本件特許発明を実施していなくとも、これらの企業から実施料相当額を取得することができるとの主張であるとすればその主張自体失当である。
キ 以上によれば、被告が本件特許発明により得た独占権に基づく利益は、被告がトヨタ自動車とデンソーから得た実施料額<中略>のが相当である。よって、特許法35条4項における、被告が本件特許発明の独占権により得た利益(実施料)<中略>と認められる。
ク 原告は、過去分のみで本訴請求額に達しない場合には、将来分の独占の利益をも請求すると主張する。
しかし、前記認定の本件実施許諾1及び同2によれば、<中略>
また、被告がトヨタ自動車とデンソー以外の第三者に新たに本件特許発明を実施許諾するか否かについては、本件特許権の残存期間が約4年であること、本件特許発明の数値限定にどの程度の意味があるか否かは不明であり、本件特許発明の進歩性に疑念があることなどに照らし、第三者と新たな実施許諾がされる蓋然性が高いということもできない。
したがって、本件特許権存続期間満了時までの将来分を考慮しても、本件特許発明により得るべき利益の額を前記の額から増額すべき理由はないというべきである。
(2) 本件特許発明がされるについて被告が貢献した程度
ア 総説
職務発明の特許を受ける権利の譲渡の相当の対価は、「発明を奨励し」、「産業の発達に寄与する」との特許法1条の目的に沿ったものであるべきであり、従業者への発明へのインセンティブになるのに十分なものであるべきであると同時に、企業等が厳しい経済情勢及び国際的な競争の中で、これに打ち勝ち発展していくことを可能とすべきものであって、さまざまなリスクを負担する企業の共同事業者が好況時に受ける利益の額とは自ずから性質の異なるものと考えるのが相当である(このことは、職務発明の実施により事業損失が生じた場合においても、職務発明をなした従業者が損失を負担することがないことからも明らかである。)。「相当の対価」がこのようなものであるとすれば、特許法35条4項の「その発明により使用者等が受けるべき利益の額」が極めて高額になる場合と、それほど高額にはならない場合とで、同項の「その発明がされるについて使用者等が貢献した程度」の考慮の仕方が自ずから異なるものとなると考えるべきである。すなわち、「相当の対価」についての上記考え方からすれば、「利益の額」が極めて高額になる場合は、特段の事情がない限り、「使用者が貢献した程度」は通常よりも高いものとなり得るのであり、「利益の額」が低額になる場合には、特段の事情がない限り、「使用者が貢献した程度」は、通常よりもやや低くなり得るのである。また、特許法35条4項がこのように使用者等と従業者等との利害関係を調整する規定であることからすれば、この「使用者等が貢献した程度」には、使用者等が「その発明がされるについて」貢献した事情のほか、使用者等がその発明により利益を受けるについて貢献した事情及びその他特許発明に関係する一切の事情も含まれるものと解するのが相当である。
イ 被告が貢献した程度(乙13、14、19、24、25、26の1ないし6、27、28、31、35ないし38、41)被告は、昭和35年の会社設立当初から継続して自動車用エンジンに関する研究を行い、燃料噴射弁については、昭和56年ころから直噴エンジン用の燃料噴射弁の開発を行ってきた。本件特許発明の共同発明者であるB、原告及びFも、次のとおり、直噴ガソリンエンジンやディーゼルエンジンの研究をその職務としていたものであり、本件特許発明の着想及び実験に当たっては、被告の研究設備を使用し、また、被告の研究開発活動において蓄積されてきていた知識・ノウハウを利用している。
a) Bは、昭和49年4月に被告に入社して以来、燃料噴射ノズルの開発等を担当する研究室に所属し、ファンスプレーノズルを始めとする燃料噴射ノズルの開発を職務として行っており、本件特許発明に関する研究開発行為も、自己の所属する研究室の研究テーマであった直噴ガソリンエンジンにおける成層燃焼及び燃料噴射に関する研究の一環としてなされたものであり、ファンスプレーノズルの試作、同ノズルを使用した実験等においては、被告の有する施設及び被告の有するノウハウを使用している。なお、Bは、被告の支援を受けて名古屋工業大学機械工学科II部を卒業しており、大学での流体弁の研究により得た技術的知見を、本件特許発明に関する諸行為に活用している。
b) 原告は、昭和61年3月以降、ガソリンエンジン開発を担当する研究室に所属しており、本件特許発明に関する実験等は、自己の所属する研究室の研究テーマであった直噴ガソリンエンジンにおける燃焼(希薄燃焼、成層燃焼等)に関する研究の一環として、被告の有する施設を使用してなされたものである。
c) Fは、昭和53年4月から昭和63年2月までの間、被告においてディーゼルエンジンの開発等を担当する研究室に所属し、当該研究室でのディーゼルエンジンの研究等をしてきた。Fは、本件特許発明の完成に際して、ディーゼルエンジンの研究により培った技術的知見を用いている。
ウ 発明を出願し権利化し、さらに特許を維持するについての事情(乙3ないし5、弁論の全趣旨)
Fは、原告作成の本件届出書では特許を取得し得ないことが明らかであったため、本件届出書を大幅に書き換え、本件明細書を作成し、本件特許権の取得に貢献した。なお、Fが特許請求の範囲に構成要件Eを書き込むこととしたのは、本件明細書の作成に協力した特許出願担当者の領域を超え、共同発明者としての行為と評価できることは前記のとおりであるものの、Fは、これ以外にも、被告の特許部の担当者として、上記のとおり、本件明細書の作成に多大な尽力をしているものである。本件特許発明の出願に当たっては、被告特許部の果たした役割は大きく、これを被告の貢献として考慮するのが相当である。
エ 小括
本件における上記諸事情及び本件における「利益の額」がそれほど高額ではないことに鑑みれば、本件特許発明に関する被告の貢献度は90パーセントと認めるのが相当である。
(3) 結論
前記認定のとおり、被告が本件特許発明により得た利益(実施料相当額)<中略>
原告は、被告から本件特許発明の承継の相当の対価として、既に71万8800円の支払を受けているのであるから、被告が原告に支払うべき残額は、54万9333円<中略>
3 結論
よって、原告の請求は、54万9333円及び内金36万3957円に対する本訴状送達の日の翌日である平成17年1月7日から、内金18万5376円に対する弁済期の翌日である平成17年4月2日から各支払済みまで、民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないのでこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 設樂隆一 裁判官 古河謙一 裁判官 吉川泉)