大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成16年(ワ)7107号 判決 2006年2月06日

原告

法定代理人成年後見人

訴訟代理人弁護士

池原毅和

被告

農林漁業金融公庫

代表者総裁

訴訟代理人弁護士

冨田武夫

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告に対し,1051万9756円及びこれに対する平成7年5月27日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要等

1  事案の概要

本件は,被告在職中に低酸素脳症により,高次脳機能障害を負った原告が,意思無能力であるにもかかわらず被告の勧めにより退職したが,この退職は無効であり,原告が発作で倒れた平成5年5月5日以降,休職期間等により,少なくとも平成7年5月26日までは被告に在職できたはずであるとして,その間の賃金(551万9756円)の支払を求めるとともに,原告は無効な退職により,被告に在職することのできた期待利益を失い,精神的損害を被ったとして,損害賠償(500万円)を請求したものである。

2  争いのない事実(証拠により容易に認められる事実を含む。)

(1)  当事者

ア 原告は,昭和○年○月○日生まれの男子であり,昭和63年3月,大学を卒業後,同年4月に被告の職員となった(原告は,昭和62年に大学を卒業,就職と主張するが,被告の認否を明らかに争っていない。)。就職時には,被告の○○支店に配属され,平成5年ころ,同支店業務一課の職員として勤務していた。

イ 被告は,農林漁業金融公庫法に基づき設立された農林水産漁業及び関連産業に対して融資等を行う政策金融機関である。

(2)  原告が被告に退職届を提出するまでの経緯

ア 原告は,平成5年5月5日,自宅で心肺が停止し,△△市内のa病院(以下「a病院」という。<証拠略>)に搬送され蘇生したが,この間の低酸素脳症(以下「本件疾病」という。)により,高次脳機能障害の後遺症が残った。

原告は,平成5年5月5日から6月1日までa病院に,6月14日から8月12日までb病院(以下「b病院」という。<証拠略>)に,8月12日から12月17日までc病院(<証拠略>)に入院治療し(なお,以上の3病院は,いずれも△△市ないしその周辺に所在する。),平成6年1月11日から6月3日まで○○県○○市の実家で自宅療養をしつつ,d病院(以下「d病院」という。<証拠略>)に通院した(平成6年3月8日以降については前掲の各証拠により容易に認められる。なお,(証拠略)では,d病院に入院したとの記載があるが,弁論の全趣旨に照らして,通院であったことに争いはない。)。

イ 原告は,d病院に通院中の平成6年3月8日付け,退職届(以下「本件退職届」といい,この退職を「本件退職」という。)に署名し,被告に提出した。

ウ 平成6年3月時点の原告の給与は,本俸26万600円(2等級32号)であった。

エ なお,被告は,原告の退職と入れ替わりに,被告の元職員であった原告の配偶者Hを再雇用した。

(3)  原告の後見開始決定

原告について,平成15年10月15日,原告の実母Aを後見人として,後見開始決定が確定した。

(4)  被告の就業規程の定め(職員の欠勤,休職,解雇に関する規定)

(取扱いの特例)

第16条 災害,交通事故その他不可抗力により欠勤又は遅参した場合は,それぞれ欠勤又は遅参として取り扱わないことがある。

(2項以下略)

(傷病による休職)

第24条 職員が傷病のため連続して欠勤した場合は,傷病の種類,欠勤の期間及び当該職員の勤続年数に応じ,次に定める期間,休職を命ずる。ただし,特別の事由がある場合は,その期間を延長することがある。

一 普通傷病 欠勤期間が1年(中略)を経過した場合は,その後2年(後略)

二 結核性疾病 欠勤期間が1年6か月(中略)を経過した場合は,その後3年(後略)

(解雇)

第31条 職員が次の各号の一に該当する場合は,解雇することがある。

一 精神又は身体に著しい障害があるため公庫の業務に堪えられない場合

(2号以下略)

第3争点

1  本件退職時に原告は退職の意思表示を有効にし得たか。

2  本件退職が無効である場合に,原告は本件退職届提出以後の賃金請求権を有するか。

(1)  被告は平成6年5月6日以降,原告を休職とすべきであったか。

(2)  原告は危険負担により本件退職時以降の賃金請求権を失うか。

3  被告が本件退職を勧めたことは不法行為となるか(被告は,本件退職時,原告が有効に退職の意思表示をし得ないことを知り,または知り得たか。)。

4  原告の賃金請求権,損害賠償請求権の消滅時効の起算点

第4当事者の主張

1  争点1(本件退職時に原告は退職の意思表示を有効にし得たか。)について

(1)  原告の主張

ア 原告の高次脳機能障害について

原告は,平成5年5月5日,心肺機能停止し,蘇生はしたものの,その間の低酸素脳症のために失見当識,記銘力障害,計算力障害など高次脳機能障害が後遺症として残った(以下「本件障害」という。)。c病院における頭部のMRI検査では,広汎な大脳皮質の萎縮,脳室の拡大が認められており,原告の本件障害は,このような脳器質の障害によるものである。

高次脳機能障害は,短期記憶,記銘力に著しい障害を残すものであり,複数の情報を同時に処理することができず,秩序だった行動の遂行が障害される特徴がある。また,本件後遺症は,進行性のものではなく,障害の回復もはかばかしく進むものではない。

原告は,入院したいずれの病院でも,常時介護が必要な状態であり,トイレに行くため病室を出ると自分の病室が分からなくなり戻ることができないといった症状がみられた。

イ 原告は,Hとの離婚訴訟のため,Hから成年後見を申し立てられ,○○家庭裁判所○○出張所審判官がした後見開始決定が,平成15年10月15日,確定した。

ウ 原告は,現在でも時間の経過を理解できない,2桁の引き算を行うことができない,数時間の間に採った食事のことを覚えていない,両立し得ない二つの質問に対していずれも肯定する回答をするなどの症状がみられ,シャツの前後を間違えたり,ボタンを掛け違える,靴の左右を間違える,自宅を出ると帰り道が分からなくなり俳徊するなどの状況にあり,時には,被告を退職したことを忘れ,出勤して仕事をしなければなどと言うこともある。

エ 以上のような事実に照らせば,本件退職当時,原告は,本件退職願に署名をし(なお,原告が行ったのは,署名のみである。),被告に提出することが自らの被告の職員としての地位にどのような変動をきたすのかを理解できる状況にはなく,また,原告の代わりにHが被告の職員として再度雇用されることの意味を理解することはできない状況にあった。

オ 以上のとおり,原告は,本件退職当時,自己の行為の法的な結果を認識,判断することができる能力がなかったのであるから,本件退職願による退職の意思表示は無効である。

(2)  被告の主張

ア 原告が本件退職当時,自己の行為の法的な結果を認識,判断することができる能力がなかった事実は否認する。

イ 原告の本件疾病後の状況は,c病院の主治医の所見では,脳細胞,血管は死んでおらず,脳の能力は維持されているというものであった。原告が同病院を退院する直前の平成5年12月15日の主治医の所見は,入院加療による効果はこれ以上期待できないが,本人がやる気を起こせば,普通の人と変わらない時もあるというものであった。また,Hによれば,原告は日常生活で新聞や雑誌を読んだり,テレビを観て涙を流したりしており,友人とも電話で会話を交わしているというものであった。

平成6年1月下旬,原告が被告を退職すること,代わってHが被告に再雇用されることなどを原告とHが話し合い,原告が退職に同意したとのことであった。

ウ 被告は,本件退職に際し,当時被告の人事課長であったAらが,原告と直接会い,原告の退職の意思を確認し,本件退職届に原告が署名した本件退職届をA人事課長らが受け取った。原告は,本件退職を主治医に報告しており,また,原告は,被告から支給された退職金を異議を述べることなく受け取り,これを預金した旨をHに手紙で知らせている。

エ これらの事実に照らせば,原告が,自らの意思で退職するか否かを判断していたことは明らかである。

オ また,平成9年2月ころ,Hが原告に対して離婚したい旨を告げた際には,はっきりと拒絶の意思を示しており,このころ,原告が離婚の意味を理解していた。

カ 以上の事実に照らせば,原告は,本件退職当時,退職の意味を理解する意思能力はあったから,本件退職届は有効である。

キ また,平成15年8月に実施された原告の後見開始決定のための鑑定(以下「本件鑑定」という。)では,「意識清明,親しい人とは疎通性あり,複雑な内容でなければ,言葉の認知可能」,理解力,判断力については,「簡単な事柄には理解を示す」としているところ,本件鑑定は,本件疾病の発病から約10年を経過していることから,脳の萎縮が進行していたとみられる。そうであるにもかかわらず,上記の程度の能力があるのであるから,本件退職当時,原告には,退職の意味を理解する程度の精神的能力,意思能力を有していた。

2  争点2(1)(被告は平成6年5月6日以降,原告を休職とすべきであったか。)について

(1)  原告の主張

ア 被告の就業規程には,普通傷病の場合は,「休職を命ずる。」(24条)と規定されており,普通傷病により欠勤している職員に対しては,休職を命ずるか否かの裁量はない。このことは,解雇について「解雇することがある。」(31条)と規定し,解雇するか否かの裁量を認める規定と比較すれば明らかである。

原告は,普通傷病により欠勤していたのであるから,被告は,就業規程24条に基づき,原告に対して,休職を命じなければならなかった。

イ 被告は,本件退職時に原告に意思能力があったと判断しながら,その時点で原告に就労する能力があったか否かについて,被告の産業医の診断も受けさせていい(ママ)ない。また,本件退職時点で被告が判断の基礎とした原告についての診断書(<証拠略>)には,就労が不能であるか否かについての判断は示されておらず,被告のB支店長らがc病院におもむき,同病院のC医師から聴取した意見に基づいて判断したものであり,その意見においても,以後原告が就労能力を回復できない旨は明言されていない。

少なくとも本件退職当時は,「精神又は身体に著しい障害があるため公庫の業務に堪えられない場合」に当たることを示す資料は存在しなかった。

したがって,被告は,原告の意思を確認せず,また,その就労能力について改善の可能性があるか否かを的確に判断していないのだから,この点からも,原告に対して休職を命ずべきであった。

ウ 以上のとおり,被告は原告に休職を命ずべきであったのだから,有給休暇を含めて,平成7年5月26日まで,原告は被告の職員としての地位を有していたこととなる。

したがって,原告は,被告に対して以下の計算式のとおり,551万9750円の賃金の支払を求める。

(計算式:本俸等)

1か月の賃金=(本俸)+(配偶者扶養手当)+(子の扶養手当)=26万0600円+1万6000円+5500円=28万2100円

平成6年4月から平成7年5月26日までの賃金=(1か月の賃金)×(13か月+26日/30日)=391万1786円(1円未満切り捨て)

(計算式:期末手当等)

期末手当等=(1か月の賃金)×(期末手当等支給率)=28万2100円×(5.2か月+0.5か月)=160万7970円

(2)  被告の主張

ア 就業規程は,「精神又は身体に著しい障害があるため公職の業務に堪えられない場合」(31条)には,被告が職員を解雇することができる旨を定めているのであり,傷病により欠勤している職員が当然に休職となるとは定めていない。

イ 仮に,原告が本件退職時に意思無能力であったのであれば,原告が被告で就労する能力がなかったことは明らかである。

このことは,原告がc病院を退院する時点(平成5年12月17日)の診断でも,治療,リハビリテーションの効果は期待できず,病状が固定しており,原告の記憶力は通常時の50ないし80パーセントに低下し,記銘力の障害,発動性の低下などが指摘されていること,MRI診断の結果,大脳皮質に広汎な萎縮,脳室の拡大が認められ,薬物・理学・作業療法によってもわずかな改善しか認められないとされていたことからも認められる。

ウ さらに,平成11年7月27日の時点でも,原告は,労働能力はほとんどないと診断されている

エ したがって,本件退職時に原告に被告で就労する能力がなかったのであるから,就業規程31条1号の解雇事由に該当し,休職を命令しなかったことは相当である。

3  争点2(2)(原告は危険負担により本件退職時以降の賃金請求権を失うか。)について

(1)  被告の主張

ア 労働契約は,労働者の労務の提供に対し,その対価として賃金を支払うものであるから,労働者が,使用者,労働者双方の責任によらず,労務の提供をすることができない場合には,使用者は賃金の支払義務は存在しない(危険負担における債務者主義の原則)。

イ(ア) 被告は,本件退職に当たり,原告が入院し治療を受けていた病院の担当医及びH及び(ママ)から,原告の病状を聴き取り,確認した上,本件退職願に原告の署名を求め,これを受領し,原告の退職の意思を確認した。また,原告は,本件退職に際し,当時配属されていた△△支店におもむき,退職の挨拶をし,また,退職金を異議なく受領している。

(イ) 被告において,本件退職の意思表示に瑕疵があったとしても,これを知る由もなかった。また,本件退職後,本件訴訟に至るまで,原告法定代理人Aから,本件退職について何らの異議も述べられていなく(ママ),被告には,被告が原告の労務提供を受けなかったことについて,何らの過失もない。

(ウ) したがって,仮に本件退職時に原告が意思無能力であり,本件退職が無効であるとしても,原告は,高次脳機能障害を負い,被告に対して労務の提供が不可能であったのだから,原告の被告に対する賃金請求権は発生しない。

(2)  原告の主張

就業規程は,不可抗力による欠勤を欠勤と扱わない旨定め(16条),傷病による欠勤については,休職命令をすべきこと,休職期間を延長しうる旨も定め(24条),業務を行い得ない場合には,解雇することができる旨定めている(31条)。これらの規定に照らせば,傷病によって業務を行い得ない場合には,危険負担の債務者主義の原則と異なり,賃金請求権は発生すると解すべきである。

4  争点3(被告が本件退職を勧めたことは不法行為となるか)について

(1)  原告の主張

ア 原告は,上記1(1)のとおり,本件退職願の意義や被告を退職することの意味を理解できない意思無能力の状態にあり,自己の利益を守れない状況にあったのだから,それに乗じて原告に本件退職願を提出させた原告の行為は,原告から労働者としての地位を剥奪したものである。

イ 被告は,本件退職に当たり,原告の退職とHの再雇用を交換条件としている。しかし,被告は,この条件を平成6年1月18日に,Hが△△支店を訪れた際にHに説明しただけであり,原告に直接説明していない。原告とHは,いずれか一方が被告の職員としての地位を有するといういわば利益が相反する関係にあるのだから,本件退職の条件を原告に直接説明すべきであり,かつ,被告は,直接原告に説明することは容易であったにもかかわらず,そのような説明をしなかった。

ウ 2(1)アのとおり,原告は,普通傷病により欠勤していたのであるから,被告は,就業規程24条に基づき,原告に対して,休職を命じなければならなかったのであり,有給休暇を含めて少なくとも平成7年5月26日までは被告の職員の地位を維持できた。

エ 原告は,障害者の雇用の促進等に関する法律による法定雇用率の対象となる障害者として雇用される余地もあった。

オ 被告は,本件退職時に原告に意思能力があったと判断しながら,その時点で原告に就労する能力があったか否かについて,被告の産業医の診断も受けさせていない。また,本件退職時点で被告が判断の基礎とした原告についての診断書(<証拠略>)には,就労が不能であるか否かについての判断は示されておらず,被告のB支店長らがc病院におもむき,同病院のC医師から聴取した意見に基づいて判断したものにすぎず,その意見においても,以後原告が就労能力を回復できない旨は明言されていない。

少なくとも本件退職当時は,「精神又は身体に著しい障害があるため公庫の業務に堪えられない場合」に当たることを示す資料は存在しなかった。

カ したがって,被告が,原告の意思を確認せず,また,その就労能力について改善の可能性があるか否かを的確に判断せずに,原告に休職を命ずることなく,原告に本件退職願を提出させたことにより,原告が現在まで(少なくとも平成7年5月26日まで)被告の職員としての地位を有し,賃金の支払を受けうる地位を奪ったことは,不法行為を構成し,その損害は,500万円を下らない。

(2)  被告の主張

3(1)イ(ア)のとおりであるから,これらの事実に照らせば,被告が原告に対して,本件退職時に退職の取扱いをしたことは不法行為を構成するものではない。

5  争点4(原告の賃金請求権,損害賠償請求権の消滅時効の起算点)

(1)  被告の主張

ア 仮に,平成7年5月26日まで,被告職員としての地位を有し,原告が賃金を請求しうるとしても,すでにそれから2年を経過しているから,原告の賃金請求権は時効により消滅している。

イ 仮に,本件退職が被告による不法行為となり,原告が損害賠償請求権を有するとしても,本件退職から3年を経過しているから,原告の損害賠償請求権は時効により消滅している。

(2)  原告の主張

本件退職当時も平成7年5月26日当時も原告には意思能力がなかったのであり,原告に法定代理人が選任されたのは,平成15年10月15日であるから,それまでの間,時効の進行は停止しており,原告の賃金請求権及び損害賠償請求権の消滅時効の起算点は,いずれも平成15年10月15日である。

6  その他の争点(原告の請求が権利濫用ないし信義則に違反するか)

(1)  被告の主張

原告は,本件退職から約10年を経過して本件訴訟を提起しているが,被告は,原告に対して,給与細則に定められた退職金に付加金を加えて支給しており,原告法定代理人及びHもこれを何の異議も留めずに受領し,本件訴訟提起に至るまで,本件退職に何らの異議を述べていない。

このような本件訴訟の提起は,原告と被告との間の信義則に反し,権利の濫用であって無効である。

(2)  原告の主張

争う。

第5判断

1  証拠により認定される事実

(1)  低酸素脳症による高次脳機能障害について(<証拠略>)

低酸素脳症は,心肺停止などによって引き起こされ,病理学的には,大脳の広範囲で大脳皮質の壊死状態と引き続いて生じる脳萎縮を特徴とする変化が生じる。これにより,高次脳機能障害(高次脳神経機能障害)が生じると,記憶障害,失見当識,自発性の低下,痴呆,人格,行動の変化などの障害,症状が現れる。

高次脳機能障害が回復する期間は様々であるが,発症から2か月を経過すると,それ以降の精神機能の変化はほとんどみられないことが多い。

(2)  原告の事実の認識や理解能力についての医師の診断等

ア a病院入院時の原告について,失見当識,記憶障害があったと診断されている(<証拠略>)。

イ b病院入院時の原告について,記銘力,計算力障害があり,リハビリテーションにより脳代謝等についてわずかに症状改善がみられると診断されている(<証拠略>)。

ウ c病院入院時の原告について,各種の高次脳機能テストの結果,記銘力の障害,発動性低下がみられ,MRI診断の結果,広汎な大脳皮質の萎縮,脳室の拡大等が認められ,これらの症状に対する薬物・理学・作業療法を施したが,わずかな改善しか認められなかったと診断されている(<証拠略>)。

エ 原告が実家に戻った後の病状は,平成11年7月27日付けのD医師の診断書によれば,食事,用便の始末,簡単な買い物,家族以外との話,刃物等の危険の認識等は1人ではできない,あるいは,わからないとされ,「日常生活にも介護を要し,労働能力は殆どないものと判断する。」の診断を受け,予後も「改善可能性は現状では考えられず。」と診断されている(<証拠略>)。平成14年8月27日付けの同医師の診断書によれば,このような原告の病状は,食事など日常生活を1人で行うことなどについては多少の改善がみられるものの,「記銘力障害,認知障害あり,自発性に乏しいが,周囲の指示,働きかけにより,食事,入浴,排泄等の日常生活は可能。但し,一部介助必要。」,「テレビ,新聞にも関心あり,みたり読んだりしているが,長続きせず。但し,記憶力,記銘力障害のため,単独行動(外出等)は不可能。知的能力は低下はあるだろうが,正常範囲内にほぼ保たれている」,「1人で時間,つくれない(何をするか分からない)24時間誰かがいて,見守り,介助,注意必要。瞬間的に前にした行動も忘却する。記憶の保持が不可能。」という状況にあるとされ,予後については,「著しい改善の可能性は現在では考えにくいが,多少の改善はみられるものと期待する。」と診断されている(甲6の2)。

オ 原告は,平成15年後見開始の審判のための鑑定を受けており,その際の鑑定書では,「自発的会話は乏しく,要求,依頼は手まねですることが多いが,話しかけると応答し,理解力あり。」とされ,テレビや新聞について対(ママ)応は,甲6の2とほぼ同旨の記載がある。精神の状態については,「親しい関係の人とは疎通性あり,複雑な内容でなければ,言葉の認知可能だが,言語表現や説明能力に障害あり。他者との対人関係には困難あり。」,記憶力について「記憶力自体については,短期記憶力の中程度の低下が考えられる。長期記憶も中程度から重度の記憶力の低下が考えられる。以前に有していた知識量も明らかに落ちているが,病前の記憶は保持されている。」,見当識については,「現況把握力低下。検査で年齢,検査場所や目的,日時の認識もできていず,見当識障害と認められる。」,計算力については「簡単な足し算や引き算は可能。3桁以上の計算,四則演習等は困難。明らかに従来より低下あり。生活に支障をきたす程度と考えられる。」,理解・判断力については,「簡単な事柄は理解を示すが,やや複雑な内容は理解困難。状況把握能力,判断力の低下あり,常時周囲の支援を要す。」とされている。また,知能検査の結果は,知能指数57とされ,心理学的検査は拒否し,施行不能であった(甲10)。

カ 上記エ,オの診断書,鑑定書作成者と同じd病院のD医師は,平成16年8月14日付けの診断書(甲13)で,原告の本件退職について,「本人は書類にサインを求められ,その結果がいかなる状態を生じるかといった予想,それが意味するものを理解できないままに応じたものと考えられる。」とし,「平成6年3月15日の当院のカルテ記載に「一応本人も承知してサインした」とあるのは,単に「ここにサインするように」といわれたことに反対しないで記入したということを表現したものであり,「退職願」を提出することがいかなる結果を生むかといった全体的な考慮・判断の上の行為ではなく,この時点でサインするということがいかなる結果を生むのかも予測できない精神機能障害があったことを示すものである。」,「本人の精神的能力の水準はその障害の性質上,上記鑑定(甲10を指す。)と平成6年時点において,基本的な水準の変化はないものと考えられ(る)」と診断している。

キ 原告の主治医であったc病院のC医師は,被告の求めに応じて,原告の病状や回復の見通しなどを伝えているが,その内容は,以下のようなものである。

原告の現在学習等の記憶の持続性に問題があるが,10年は少しずつ回復が期待できると思う(平成5年8月23日),病院での治療,リハビリテーションの効果が一定となり,入院加療による効果はこれ以上期待できず,今後のリハビリテーション治療として職業訓練的な方法が考えられること,また,その当時の記憶力が正常な場合の50ないし80パーセントに低下していること,原告本人がやる気を起こせば,いろいろできるかも知れないが,発動性が低下しており,脳も萎縮しているので,職場復帰は難しい状況にあると考えてよい(12月15日)との意見をB△△支店長などに述べた(<証拠略>)。

(3)  原告と被告職員,家族等との面談,会話等について(<証拠略>,H証人,A証人)

ア 被告の職員は,原告が,本件疾病で入院した直後から,原告の病状の確認,原告の見舞いなどの目的で,しばしば,原告の入院していた病院を訪れていた。原告が意識を回復した直後は,被告の職員が見舞いに来た意味も分からないこともあったが(平成5年5月20日),被告の職員と話したり,笑ったりすることもあった(5月22日)。

イ 平成5年6月ころ以降は,見舞いに訪れたB△△支店長,E同総務課長らに「迷惑をかけます。会議でお会いしたことがあります」などと話したり(6月1日),原告の△△支店への異動の内示説明に訪れたB△△支店長,E同総務課長らに「職場復帰に向けて努力しています。ご迷惑をおかけしますが,よろしくお願いします。」(平成5年7月6日)と話したり,異動辞令を交付した際には「ご迷惑を掛けますが,今後ともよろしく」と話したりしていた。

ウ また,Hは,随時,E△△支店総務課長などに,原告の入院中の日常生活の状況や病状について,電話で報告したり,△△支店を訪れ面談で報告していた。そうした報告の中には,週末に自宅に一時帰宅した際に,娘(当時1歳9か月)と遊んだり,Hと一緒に買い物に出かけたりしていること(平成5年10月4日),社会復帰のためにリハビリテーションを行っているが,回復の兆候は見られない,自分から行動を起こさない,テレビを見たり子どもと遊んだりするが,気力・根気が続かない,たまに友人から電話があるとよく話すこと(11月16日)などであった。

エ 原告の実母,Aは,原告の日常生活について,原告が,c病院に入院中は,病室を出ると自分の病室に戻れず,他人のベッドで寝てしまう,本件疾病の発病後,1か月近くも病床にいたのに,それを1週間程度と思っていたり,数週間すれば,出勤できるなどと思っていたこと,平成6年初頭には,4歳から5歳程度の知能で固定してしまい,職場復帰するといいながら,何をすることになるかは理解できていないようであったこと,本件退職時にも,退職の意思を確認されても緊張のためパニック状態にあり,発語もできずただうなずくだけであったことを述べており,また,本件退職後も,その認識がなく,時折,出勤するなどと言うこともあり,現在でも服の着脱やトイレの場所が分からなくなるなどの状況で生活を送っていると述べている。

2  争点1(本件退職時に原告は退職の意思表示を有効にし得たか。)について

(1)  低酸素脳症による高次脳機能障害は,記憶障害,失見当識などの精神活動の著しい低下という症状を招くものであり,大脳皮質の萎縮という器質的な障害のため,発症時点から,しばらくの間は,症状の改善はあるが,長期的には,大脳皮質の萎縮が大きく進行することもなく,また,症状の大幅な改善は望めないものである(1(1))。

このことは,原告を診断した医師の診断書にも示されている(1(2))。また,原告の日常生活にもこうした症状が現れており,原告が意識を回復してから,本件退職時を経て,現在に至るまで大きな変化はない(1(3))。

そして,原告の知能,判断能力は,平成6年初頭には,4歳ないし5歳程度に固定されていたというのであり(1(3)エ),平成5年11月ころには,医師の診断によっても,治療による回復の期待は乏しかったとされている(1(2)ウ)。また,原告に対する後見開始決定が,平成15年10月15日,確定しており,高次脳機能障害は,低酸素脳症の発症からある時点で固定し,その後は大幅に進行したり,回復することがないのであるから,原告の症状が固定したとみられる平成5年11月ころから,少なくとも上記後見開始決定確定時まで,上記の原告の判断能力の水準も大きな変動はないものと認められ,平成5年11月ころ原告の精神的な能力は,4歳ないし5歳の程度に固定し,それが,本件退職時を経て現在も続いているということができる。

(2)  意思能力とは,事理を弁識する能力であり,おおよそ7歳から10歳程度の知的な判断力であると考えられるところ,上記のような原告の判断能力は,この水準に達していないものといわざるを得ない。

そして,医師の診断によれば,原告は,本人がやる気を持てば,通常の判断をすることもできるとされているが,記憶が短時間しか保持されないのであるから,そのような通常の判断に基づき,その後,それに基づいて秩序立った判断をしたり,行動を取ったりできず,原告自身の取った行為の法的意味を理解することができない常況にあるものと認められる。

したがって,本件退職時に,原告は,事理を弁識することができない常況,すなわち意思無能力の状態にあったというべきである。

(3)  この点について,被告が主張するように,被告の職員が原告を見舞いに訪れた際に,通常の状態と変わらない受け答えをしていたり,Hからの離婚の申出を拒絶していることなどは,原告が意思能力を有していることをうかがわせるものではある。

しかし,高次脳機能障害の特徴的な症状に短期記憶力の低下という症状があることを考え併せれば,ある時点で,通常の判断をしているようにみえる言動を原告が取ったからといって,それをもって原告の判断能力が常時そのような水準にあるということはできないから,原告が外形的には,通常の能力を有するようにみえる言動を取ったことをもって,原告が本件退職時に意思能力を有していなかったことを否定する根拠とはならない。

エ(ママ) 以上のとおりであるから,原告の本件退職の意思表示は無効である。

2(ママ) 争点2(1)(被告は平成6年5月6日以降,原告を休職とすべきであったか。)についての裁判所の判断

(1)  本件退職時の原告の就労能力について

証拠によれば,1(1)のとおり,本件疾病以後の原告の病状,日常生活の状況が認められ,原告は,客観的には,本件退職時に意思無能力であった。

被告の就業規程は,退職の要件として,「精神又は身体に著しい障害があるため公庫の業務に堪えられない場合」と規定しているのであるから(31条),本件で検討すべき原告の本件退職当時の就労能力とは,単純な作業や軽作業に従事できるといった水準ではなく,被告の行う農林水産漁業及び関連産業に対して(ママ)融資等の業務にかかわる事務に従事できるという水準を基準という(ママ)べきである。

そうすると,原告が本件退職当時,意思無能力であったのであるから,被告の業務を遂行する能力がなかったことは明らかである。

(2)  原告は,被告が原告の就労能力の有無を判断するために,被告の産業医の診断を受けさせていないこと,原告の主治医との面談だけで判断をするなど,その判断過程が相当でないから,かかる観点からも原告に対して,休職を命ずべきであったと主張する。

しかし,産業医は,従業員の健康管理等のために設けられた制度であり(労働安全衛生法),傷病により退職する従業員の就労能力を判断するために,使用者が常に産業医の判断を経なければならないわけではない。使用者としては,当該従業員の主治医の判断に基づいて,その就労能力を判断したとしても,そのことをもって使用者の判断手続きが相当性を欠くことになるものではない。

また,原告は,原告の主治医が被告に対して原告の病状や就労能力をどのように説明したのか不明である旨を主張するが,上記1(2)ウ,エなど,被告の主治医が作成した診断書に記載された原告の病状や就労能力に関する記載は,被告が平成5年8月,12月にC医師から受けた説明の内容(上記1(2)キ),被告がHから聴取した内容と客観的に異なるものではない。

そうすると,被告が,これらの資料に基づいて原告の就労能力を判断したことも相当性を欠くわけではない。

また,1(1)のとおり,低酸素脳症による高次脳機能障害は,短期的に回復することがあっても,長期的には,大幅な回復が見込まれないものであるから,被告が,原告の就労能力の回復する可能性を十分に勘案していなかったとしても,そのことが被告の判断についての相当性を失わせる理由とはならない。

(3)  被告の就労(ママ)規則(ママ)24条は,「休職を命ずる」と規定しているから(第2の2(4)),原告の指摘するとおり,被告には休業を命ずるか否かの裁量はないようにも解される。

しかし,他方で就業規程は,第2の2(4)のとおり解雇の要件を定めており,就労能力のない従業員を原告が雇用し続けなければならない義務が存在するとは解しがたい。

したがって,(1)のとおり,客観的に就労能力のないと認められる原告について,(2)のとおり,客観的な原告の病状,就労能力とも一致する資料に基づいて,原告に就労能力はないと判断し,休職命令を発しなかったことが相当でないということはできない。

なお,被告は,一方で原告が意思能力があると判断し,他方で就労能力がないと判断していることに問題があるかの指摘をするが,(1)のとおり,意思能力と就労能力とは,その水準が異なるのであるから,被告の判断に矛盾があるとはいい難い。

3(ママ) 争点2(2)(原告は危険負担により本件退職時以降の賃金請求権を失うか。)について

(1)  1のとおり,本件退職時に原告は意思無能力であったのであるから,原告の本件退職に係る意思表示は無効であったというほかはなく,原告は,本件退職により,従業員としての地位を失っていない。

そこで,原告が,本件退職以後の賃金請求権を有するかを検討する。

(2)  労働契約は,労働者の労務の提供に対し,その対価として賃金を支払うものであるから,労働者が,使用者,労働者双方の責任によらず,労務の提供をすることができない場合には,使用者は賃金の支払義務を負わない(危険負担における債務者主義の原則)。

2のとおり,本件退職時に原告に就労能力はなく,その状態が大幅に回復することは期待できないのであり,現実に,平成15年10月15日に原告の後見開始決定が確定している。

そうすると,原告が本件で賃金を請求している期間もそれ以後も,原告が被告に労務を提供することは不可能であったこととなる。

そして,このような労働能力の喪失は,本件疾病によるものであるから,原告に過失はなく,また,2(2)のとおり,被告が原告の就労能力がないと判断したことは相当であったのだから,被告が原告の労務提供を受けなかったことにも過失はない。

したがって,危険負担の債務者主義の原則により,原告は,本件退職以後の賃金請求権を有しないというべきである。

なお,原告の就業規程についての解釈(第4の3(2))は,民法の原則に照らしても,就業規程の合理的解釈に照らしても合理的な解釈とはいえず,採用できない。

(4)(ママ) 小括

以上のとおりであるから,原告が本件退職時に意思無能力であり,本件退職の意思表示が無効であるとしても,原告は,本件退職時以降の賃金請求権を有せず,原告の請求には理由がない。

4(ママ) 争点3(被告が本件退職を勧めたことは不法行為となるか。)について

(1)  原告は,被告が意思能力のない原告に本件退職願を提出させることによって,原告の職員としての地位を剥奪したと主張する。

しかし,被告の職員は,しばしば入院中の原告を見舞っており,その際に,原告が被告の職員に対して,一見すれば通常の受け答えをしていたことは,1(3)ア,イのとおりである。また,被告は,原告の主治医から原告の病状等の説明を受けた際に,原告には就労能力がないとの意見を聴取しているものの,原告の意思能力の有無については,格別の説明を受けていない。

そうすると,被告が,原告に意思能力がないと判断しなかったことが誤りとはいえず,原告に意思能力がないことを知らなかったこともやむを得ないといわざるを得ない。

また,被告が,配偶者であるHを通じて原告の退職の意思の確認を行ったとしても,原告が自宅療養中であったこと,就労能力を失った原告の家族の生活のために被告の元職員であったHを再度雇用することによって原告の家族の生活を支える手段を提供しようとしていたこと(被告は,職員の採用について,成績主義を採用しているから(就業規程21条),原告が退職したからといって,Hを雇用しなければならないわけではなく,被告の提案は,原告の家族の生活の安定に配慮したものというべきである。)を併せ考えれば,原告とHとの利益が相反するとはいえず,原告の意思を確認した方法が,原告の権利を侵害する違法な行為とはいい難い。

(2)  本件退職に当たり,被告が原告に対し休業命令を発しなかったこと,就業能力の有無の判断の過程が相当性を欠くとはいえないことは,3(ママ)のとおりであるから,係る点について被告の行為が違法であったとはいえない。

(3)  また,被告が障害者の雇用の促進等に関する法律に基づいて,いかなる者を従業員として採用するかは,被告の裁量に委ねられていると解されるから,仮に原告がそのような雇用を期待したとしても,その期待は法的に保護される利益とはいい難い。

(4)  小括

以上のとおりであるから,原告が本件退職により,何らかの精神的な苦痛を受けたとしても,本件退職に係る原(ママ)告の行為に違法性はなく,原告の法的に保護されるべき利益を侵害したものでもなく,本件退職に係る被告の行為は原告に対する不法行為とはならない。

したがって,原告の不法行為に基づく損害賠償請求には理由がない。

5(ママ) 結論

以上のとおりであり,原告の請求には理由がないから,主文のとおり判決する。

(裁判官 千葉俊之)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例