大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成16年(ワ)8987号 判決 2005年5月31日

原告

甲野花子

同訴訟代理人弁護士

浅野憲一

宮本岳

被告

甲野太郎

同訴訟代理人弁護士

中島義勝

久保内統

同訴訟復代理人弁護士

彦坂浩一

主文

1  被告から原告に対する東京高等裁判所平成14年(ネ)第433号離婚請求控訴事件の和解調書4項に基づく強制執行は,これを許さない。

2  訴訟費用は,被告の負担とする。

3  本件につき当裁判所が平成16年5月14日にした同年(モ)第5245号強制執行停止決定は,これを認可する。

4  この判決は,前項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1  請求

主文1,2項と同旨。

第2  事案の概要

本件は,原告が,原告と被告との間の東京高等裁判所平成14年(ネ)第433号離婚請求控訴事件(以下「本件離婚事件」という。)において成立した裁判上の和解に係る和解調書中の建物明渡条項につき,(1)同条項は,錯誤により無効であり,また,(2)同和解条項に基づく強制執行は,信義則違反ないし権利の濫用に当たるので許されない,などと主張して,同条項の執行力の排除を求める事件である。

1  争いのない事実等(証拠等を掲げた部分以外は当事者間に争いがない。)

(1)  原告(昭和25年*月*日生の女性)と被告(昭和21年*月*日生の男性)は,昭和46年6月15日に婚姻し,その後2人の娘をもうけ,昭和52年11月ころに別紙物件目録記載の不動産(以下「本件マンション」という。)を住居と定め,夫婦生活を営んでいたが,平成元年10月,被告は本件マンションを出て,原告ら家族と別居した(当事者の生年月日について甲1の1及び2)。

(2)ア  原告と被告との間には,平成4年12月10日,被告が原告に対して月額15万円の婚姻費用を支払う旨の調停が成立している(東京家庭裁判所同年(家イ)第1037号婚姻費用の分担調停事件。以下「本件調停」という。)。しかし,被告は,平成7年5月ころからは月額10万円の婚姻費用しか支払わず,平成8年8月からは婚姻費用を全く支払わなくなった。

イ また,原告が被告に対して原被告間の2人の娘の学費429万2000円及びこれに対する平成13年4月5日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払うよう求めた訴訟の控訴審(東京高等裁判所平成14年(ネ)第434号事件。以下「別件学費請求事件」という。)において,被告は,同年4月18日,上記請求を認諾した。

しかし,被告は,原告に対し,同年5月8日に100万円,同年6月25日に5万円を支払ったほか,学費を全く支払っていない。

(3)ア  原告と被告の間で,平成14年4月18日,本件離婚事件の和解期日において,後記イ(ア)ないし(エ)の内容の和解が成立した(以下「本件和解」という。)。

イ 本件和解の和解調書(甲3)には,

(ア) 原告と被告は,本日(平成14年4月18日),協議離婚することに合意し,当事者双方は離婚届に各署名押印して同書面を作成した(1項)。

(イ) 原告は,被告に前項記載の離婚届を交付しその届出を託し,被告は速やかにその届出をする(2項)。

(ウ) 原告は,被告に対し,前項の離婚届出が受理されることを条件として,本件マンションの明渡義務のあることを認める(3項)。

(エ) 被告は,原告に対し,前項の明渡しを,①平成16年4月末日あるいは②原告と被告間の財産分与の問題が解決する日,のいずれか早い期日まで猶予し,原告は,被告に対し,同期日限り,本件マンションを明け渡す。ただし,被告は,原告に対する本件マンションの明渡猶予期間中の賃料については,その支払義務を免除する(4項。以下,同条項を「本件和解条項」という。)。

旨の記載がある。

(4)  原告と被告は,平成14年4月19日,本件和解に基づき協議離婚の届出をした。

(5)ア  原告は,本件和解成立後も被告から上記(2)アの未払婚姻費用の支払がなく,また,同イの認諾に係る学費について,その一部の支払しか受けられなかったことから,平成14年7月30日ころ,本件調停の調停調書及び別件学費請求事件の認諾調書に基づき,被告が代表取締役を務める株式会社A(以下「A社」という。)に対して被告が有する役員報酬請求権を差し押さえるとともに,同年8月2日,被告に対し,離婚慰謝料の支払を求める訴えを提起した(東京地方裁判所同年(ワ)第16902号慰謝料請求事件。以下「別件慰謝料請求事件」という。)。

イ 別件慰謝料請求事件については,平成16年3月2日,原告の請求を慰謝料600万円の支払を求める限度で認容する第1審判決が言い渡され,同年7月15日には,認容額を1000万円(内訳・慰謝料900万円,弁護士費用100万円)に変更する第2審判決が言い渡され(内訳について甲70),同判決は確定した。

(6)  原告は,平成16年4月19日,被告を相手方として,財産分与の審判を申し立てた(東京家庭裁判所同年(家)第3320号財産分与申立事件。以下「別件財産分与の審判」という。)。別件財産分与の審判は,現在も同庁に係属中である。

原告は,別件財産分与の審判の申立てに伴い,本件マンションの処分禁止の仮処分を申し立て(東京家庭裁判所同年(家ロ)第5028号不動産の処分禁止仮処分申立事件),同年6月17日,同申立ては認容された(同仮処分について甲71)。

2  争点及び争点に対する当事者の主張

(1)  本件和解条項は錯誤により無効であるか否か。

ア 原告の主張

(ア) 本件和解に先立って,被告は,原告に対し,前記争いのない事実等(2)アの未払婚姻費用及び同イの学費を支払うと述べていた。また,原告は,いずれ被告から財産分与を受ける場合には,本件マンションに引き続き居住できる方向での財産分与を希望していた。

そこで,原告は,本件離婚事件の和解期日において,担当裁判官に対し,財産分与が確定するまでは,原告が本件マンションに居住することができるようにしたいと述べた。これを受けて,被告又は担当裁判官から,通常,財産分与が解決するまでの期間として2年程度あればよいので,本件和解条項を付加してはどうかという提案があった。原告としては,資力も収入も少ない状態の中,財産分与の問題が解決するまでは本件マンションにおける居住を保障してもらいたいとの希望を持っていたが,上記のとおり,被告が未払婚姻費用及び学費の支払を約束していたことから,被告又は担当裁判官の上記提案を了承した。その結果,本件和解条項が付加された。

このように,原告は,本件和解当時,被告が未払婚姻費用及び学費を支払ってくれるものと信じて本件和解条項を付加することに応じたものである。しかしながら,被告からは,前記争いのない事実等(5)アのとおり,本件和解成立後も,婚姻費用については全く支払がなく,学費については一部の支払しかなかったのであるから,本件和解条項は,動機の錯誤に基づくものといえる。

(イ) そして,上記のように,未払婚姻費用及び学費がすべて支払われることが当然の前提となって本件和解条項が付加されたのであるから,前記(ア)の動機は黙示に表示されているといえる。

(ウ) したがって,本件マンションの明渡しに関する本件和解条項は錯誤により無効であり,本件和解条項に基づく強制執行は許されない。

イ 被告の主張

本件和解条項は,原告からの提案によるものであるから,本件和解条項の内容について原告に錯誤があるとは考えられない。

被告は,本件和解に先立ち,原告に対して,別件学費請求事件における原告の請求を認諾したとしても,学費の全額を支払うことができるような経済状態ではないことを述べており,未払婚姻費用及び学費の支払が,本件和解条項の当然の前提となっていたわけではない。

原告に前記ア(ア)の錯誤があったとしても,本件和解条項には,財産分与の問題に関する記載はあるが,未払婚姻費用及び学費の支払に関する記載はないのであるから,その動機は表示されていない。

(2)  錯誤が認められるとして,原告には重大な過失があるか否か。

ア 被告の主張

原告に前記(1)ア(ア)の錯誤があったとしても,原告には,本件和解当時,法律の専門家である弁護士が代理人として付いていたのであるから,原告には,錯誤に陥ったことにつき,重大な過失がある。

イ 原告の主張

争う。

(3)  本件和解条項に基づく強制執行は,信義則違反あるいは権利の濫用として,許されないか否か。

ア 原告の主張

本件では次のような事情があるので,被告が,原告に対し,本件和解条項に基づく強制執行を行うことは,信義則に違反し,又は権利の濫用に当たり,許されない。

(ア) そもそも,原告と被告の離婚は,被告の不貞行為が原因であり,原告に落ち度はない。

(イ) 被告は,前記争いのない事実等(2)アのとおり,本件調停が成立しているにもかかわらず,平成7年5月ころから,一方的に,婚姻費用を月額10万円に引き下げ,平成8年8月以降は婚姻費用を全く支払わなくなった。

また,被告は,別件学費請求事件では,請求を認諾しているにもかかわらず,前記争いのない事実等(2)イのとおり,合計105万円を支払ったほか,学費を全く支払っていない。

その上,被告は,前記争いのない事実等(5)イのとおり,別件慰謝料請求事件において1000万円の支払義務が確定したにもかかわらず,その支払方法についての原告からの求釈明について何らの回答もしておらず,慰謝料についても任意に履行しようとの意思はない。

後記のように,被告は,十分な収入があるにもかかわらず,原告に対して支払うべき金員をほとんど支払っていない。

(ウ) 本件マンションは,原告にとっては生活の本拠である。これに対し,被告は他に生活の本拠を有している。

(エ) 原告は,前記争いのない事実等(6)のとおり,別件財産分与の審判の申立てに伴い,本件マンションの処分禁止の仮処分を申立て,これが認められた。したがって,被告が,原告に対し,本件和解条項に基づいて強制執行をしたとしても,被告は,別件財産分与の審判が終わるまでは,本件マンションを売却したり,賃貸することはできない。

(オ) 被告は,前記争いのない事実等(5)アの役員報酬の差押えを原告が申立てた際,実際は年間1980万円の役員報酬を受けていたのにもかかわらず,役員報酬は月額41万1790円しか受けておらず,平成14年10月分からは月額31万4624円に減額する予定である旨回答した。

また,別件慰謝料請求事件における財産分与を含めた和解の中で,西巣鴨の土地の被告の共有持分を任意売却して原告に対する支払に充てる旨の話合いが進められていた。その際,被告は,実際は,被告が被告の弟から同土地の任意売却に同意する旨の同意書を取っていたにもかかわらず,被告の弟が反対しているから任意売却は難しい旨の虚偽の事実を述べて任意売却を拒否したばかりか,弟に対して,原告には弟が同土地の売却に反対している旨言ってあるから口裏を合わせてほしいと頼むという偽装工作をしていた。

このように,本件調停,本件離婚事件,別件学費請求事件,別件慰謝料請求事件を通じた被告の態度は不誠実である。

(カ) また,被告は,被告の役員報酬が差し押えられた後,八王子市の土地の被告の共有持分を被告の親族らに次々と贈与しており,財産を隠匿していることがうかがわれる。

(キ) 原告が平成16年4月19日まで別件財産分与の審判を申し立てなかったのは,別件慰謝料請求事件の中で,財産分与も含めた和解交渉が進められていたためであって,財産分与の問題を解決するための努力を怠っていたわけではない。被告が上記和解交渉を引き延ばした上で,結果的には和解に応じなかったため,原告は,やむなく別途財産分与の審判を申し立てることになったのである。

(ク) 本件マンションは被告の名義となっているが,実際は,原告が購入費用の一部を負担しているのであるから,原告は,本件マンションに共有持分を有している。

被告は,本件マンションが財産分与の対象財産であることは認めているのであるから,原告に本件マンションの明渡しを求めることは不当である。

(ケ) 被告は,本件訴訟における本人尋問後,原告に対し,本件マンションの賃料相当損害金の支払を求める内容証明郵便を送付するという不誠実な態度に出ている。

イ 被告の主張

原告は,本件和解条項に基づく強制執行は信義則に違反し,又は権利の濫用に当たり,許されないと主張するが,次の事情に照らせば,本件和解条項に基づく強制執行が何ら信義則に反するものではなく,かつ権利の濫用に当たるものではないことは明らかである。

(ア) 本件和解条項は,原告から提案してきたものであるから,本件和解条項に基づいて強制執行をしたとしても何ら信義に反することはない。

(イ) 原告は,被告の原告に対する未払婚姻費用,学費及び慰謝料の支払義務と,本件和解条項に基づく本件マンションの明渡義務とを関連づけた主張をしているが,両者の間に関連性はなく,婚姻費用,学費及び慰謝料についての被告の不払は,権利の濫用の評価根拠事実になるものではない。原告がこれらの支払をすることができないのは,支払えるだけの資産がないからにすぎない。

(ウ) 本件マンションの近所には,原告の両親が居住する住宅があるから,原告は,本件マンションを明け渡したとしても,両親と同居することが可能である。

(エ) 被告は現在,月額20万円の役員報酬しか受け取っていない。多額の役員報酬を受け取っているように申告したのは,税金対策のためである。

(オ) 原告は,本件和解成立後,本件マンションの明渡し期日である平成16年4月末日までに,2年という十分な時間的余裕があり,かつ本件和解の成立当時に,財産分与の審判等を申し立てることができるだけの基礎資料を十分に収集していたにもかかわらず,同年4月19日まで財産分与の審判を申し立てなかった。このように,原告は,本件和解条項で定められた明渡期限の直前まで財産分与の問題を放置した。

(カ) 原告はこれまでに,被告の役員報酬や預金を差し押えたり,被告所有財産の競落代金から配当を受けている。原告の被告に対する強制執行が許されるならば,被告の原告に対する強制執行も許されるはずである。

第3  争点に対する判断

1  証拠(後掲のもののほか,甲10,甲29,甲62ないし68,甲74,乙26,原告本人,被告本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。

(1)ア  被告の経済状況等

(ア) 原告と被告の離婚は,被告と乙山春子(以下「乙山」という。)との不貞行為を主たる原因とするものであるが,A社及びA社の前身であるB株式会社の確定申告書又は決算書には,被告及び乙山が,次のとおりの役員報酬を受け取っている旨の記載がある。

昭和61年6月期 被告 1620万円

(甲20(確定申告書))

昭和62年6月期 被告 840万円

(甲21(確定申告書))

平成3年6月期 被告 1410万円

乙山  77万円

(甲22(決算書))

平成6年6月期 被告  600万円

乙山  300万円

(甲23(確定申告書))

平成13年9月期 被告  828万円

乙山  558万円

(甲26(確定申告書))

平成14年9月期 被告 1980万円

乙山  888万円

(甲7,27(確定申告書))

平成15年9月期 被告 1266万円

乙山 1860万円

(甲76(確定申告書))

(イ) 被告は,昭和62年12月1日に新宿区西五軒町所在のマンションを購入している(甲34)。

また,乙山は,平成9年3月2日に豊島区上池袋所在のマンションを購入している(甲69)。

被告は,平成2年1月から平成13年6月まで,48回にわたって海外旅行をしており(甲44),平成14年及び平成15年は,少なくとも年に2,3回海外旅行をしている。

(ウ) 被告は,現在,株式会社三井住友銀行に対して,借入金を毎月返済しているが,そのほとんどが利息の支払であり(乙15ないし18),株式会社整理回収機構に対しては平成12年3月7日以降返済をしていない(乙20)上,被告の所有する不動産は強制競売・競売で売却された(乙14の2ないし4)。

このように,現在,被告の経済状態は悪化している。

(エ) また,被告は,東京都八王子市所在の土地の各共有持分を,平成10年12月9日から平成16年1月30日にかけて,それぞれ16回にわたり,自己の親族に贈与している(甲58の1及び2)。

(オ) 被告は現在,乙山とともに,前記(イ)の乙山名義の上池袋のマンションに居住しており,同マンションから立ち退きを迫られているといった事情はない。

イ 原告の経済状況等

原告は現在,本件マンションに居住し,本駒込で飲食店「C」を経営しているが,同店の経営は赤字が続いている(甲38ないし41)。また,原告の生活費を預金している口座の残高は,多いときでも合計20万円に満たない額であり,少ないときには合計で1万円にも満たないといった状況にある(甲42,43)。

原告は,本件和解成立前である平成13年12月ころ,被告所有の久喜市所在のマンションの競落代金315万8100円から,約200万円の配当を受けた(乙21)。

本件和解成立当時における未払婚姻費用(遅延損害金を含む。)の額は約1000万円であり,さらに,原告は,別件学費請求事件における被告の認諾により,学費429万2000円及びこれに対する平成13年4月5日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払請求権を内容とする債務名義を取得した。そして,本件和解成立後に原告が支払を受けた金額は,前記争いのない事実等(2)イの任意に支払われた105万円のほか,平成16年4月13日に被告所有の巣鴨の建物の共有持分の競落代金から配当を受けた498万2384円(乙23,24),その他,役員報酬及び預金の差押え(乙25)による約235万円であり,その合計は約840万円であった。

また,別件慰謝料請求事件において,前記争いのない事実等(5)イのとおり確定した1000万円の支払義務については,現在に至るも全く履行されておらず,被告は,その支払方法についての原告からの求釈明に回答しないなど,被告からの任意の支払は期待できない状況にある。

(2)  本件和解の経緯

本件離婚事件は,被告の離婚請求を認容した第1審判決に対する控訴事件であり,別件学費請求事件は,原告の学費支払請求を棄却した第1審判決に対する控訴事件であるところ,控訴審で同じ裁判体に係属し,担当裁判官から和解勧告があったことから,両事件につき和解期日が設けられることになり,2回目の和解期日において,被告が原告の学費支払請求を認諾するとともに,前記のとおり,原告が被告の離婚請求に応じることなどを内容とする本件和解が成立した。

原告は,かねてより,財産分与を受ける際には本件マンションに引き続き居住することができる方向で財産分与を受けたいと考えていたが,本件マンションは被告名義であったことから,本件和解成立後,被告から明渡しを求められることを懸念した。そこで,原告は,上記和解期日において,担当裁判官に対し,財産分与の問題が解決するまでは,原告が本件マンションに居住することができるようにしたい旨を述べた。これに対して,被告は,財産分与が終わるまでというのでは不確定であるから,期限を切ってほしいと申し出た。この申出を受けて,担当裁判官から,財産分与の問題が解決するまでには通常2年程度あれば十分であろうから,明渡し猶予期間を2年としてはどうかという示唆があった。そこで,原告は,今後未払婚姻費用や学費が速やかに支払われ,また,財産分与の問題も円滑に解決することができることを期待して,これに応じることとした。

以上の経緯で,本件和解において本件和解条項が付加されることとなったものであり,本件和解は本件マンションの所有権の帰属について定めるものではなく,本件マンションの明渡しは財産分与の問題の解決と密接に関連することは,原告の側においてだけでなく,被告の側においても,本件和解の前提となっていると認識していた。

(3)  別件慰謝料請求事件における和解交渉の経緯

原告は,前記争いのない事実等(5)アのとおり,本件和解成立後も被告から未払婚姻費用の支払がなく,認諾した学費についてもその一部の支払しかなかったことから,被告のA社に対する役員報酬請求権を差し押さえるとともに,平成14年8月2日,別件慰謝料請求事件を提起したのであるが,別件慰謝料請求事件においては,早い段階から財産分与を含む全体的解決を視野に入れた話合いが試みられた。平成15年1月には,原告から,財産分与を含む和解資料の提示があり(甲11),同年5月28日には,被告及び乙山から,財産分与及び未払婚姻費用などをすべて含めた上での和解案が提示されており(甲13),同年7月にも被告及び乙山から,財産分与,慰謝料,婚姻費用及び学費を含めた相当具体的な和解条項案が提示されている(甲8)。その後,原告と被告の間では,配当要求の是非など,和解内容についての細部の協議が行われた(甲17,18)。そして,この和解交渉における原告側の和解案の骨子は,被告が原告に対し,月額25万円を7年間にわたって支払い,その間原告は本件マンションに無償で居住することができるというものであり(甲14),被告側の和解案の骨子は,被告が原告に対し,月額25万円を5年間にわたって支払い,その間,原告は本件マンションに無償で居住することができるというものであって(甲13),いずれも,財産分与,慰謝料,未払婚姻費用及び学費をまとめて分割払とし,分割払の期間中,原告が本件マンションに無償で居住することを認めるというものであった。そして,最終的には,担当裁判官から,被告が原告に対し,月額25万円を6年間にわたって支払うという和解案が提示され,原告はこれに応じた。しかし,被告は,譲歩して上記和解案に応じることに支障があったとは認められないにもかかわらず,特段の理由を示すことなく自己の案に固執してこれを拒否し,その結果,財産分与を含む全体的解決を目指した和解は打ち切られることとなった。

そして,別件慰謝料請求事件については,前記争いのない事実等(5)イのとおり,平成16年3月2日,原告の請求を慰謝料600万円の支払を求める限度で認容する第1審判決が言い渡され(甲9),同年7月15日には,認容額を1000万円(内訳・慰謝料900万円,弁護士費用100万円)に変更する第2審判決が言い渡され(甲70),同判決は確定した。

(4)  別件財産分与の審判の状況

原告は,平成16年4月19日,別件財産分与の審判を申し立てた。

原告は,別件財産分与の審判の申立てに伴い,本件マンションの処分禁止の仮処分を申し立て(東京家庭裁判所同年(家ロ)第5028号不動産の処分禁止仮処分申立事件),同年6月17日,同申立ては認容された(甲71)。

別件財産分与の審判において,被告は,本件マンションが財産分与の対象財産であることを認めており,同審判手続においては,本件マンションの分与をどのように考えるかということが,一つの検討対象となっている(乙27の2)。

(5)  被告による原告に対する債務の支払状況は前記のとおりであるところ,被告は,原告に対し,本件訴訟係属中の平成17年2月18日ころ,書面をもって,本件マンションを使用する対価として,月額22万円の支払を催告した(甲78)。

上記(1)ないし(5)の認定を覆すに足りる証拠はない。

2  争点(1)(錯誤)について

(1)  前記1(2)の事実によれば,原告にとっては,被告から本件和解成立後速やかに未払婚姻費用及び学費の支払を受けられることが,本件和解条項に確定期限を付加することに応じる際の動機のひとつとなっていたといえ,この点に関して,原告に錯誤があったことは否定できない。

しかし,前記争いのない事実等(3)イ(ウ)及び(エ)のとおり,本件和解条項は,財産分与の問題に言及している反面,未払婚姻費用及び学費の支払について何ら言及していない。そして,原告は,ア平成14年4月18日の本件離婚事件の和解期日において,担当裁判官から,未払婚姻費用及び学費を支払わせるというような和解の打診があった,イ被告は,未払婚姻費用及び学費の支払について,当然認めたから和解に応じたのだと思う,ウ被告は上記金員を速やかに払うということを否定するようなことは言っていない旨供述し,原告の陳述書(甲74)には同旨の記載がある。しかし,原告の上記供述等を前提としても,原告が,被告に対し,本件和解成立後速やかに被告から未払婚姻費用及び学費の支払を受けられるからこそ本件和解に応じるのであるということを表示したと評価することはできない。

そうすると,原告の上記供述等から,原告が,被告に対して,錯誤の対象となった動機を表示したとの事実を認めることはできず,他にこの事実を認めるに足りる証拠はない。

したがって,争点(2)(重過失)について判断するまでもなく,本件和解条項が錯誤により無効であるとの原告の主張は,理由がない。

3  争点(3)(信義則違反ないし権利の濫用)について

(1)  確定判決,裁判上の和解調書等の債務名義に基づく強制執行が権利の濫用と認められるためには,当該債務名義の性質,債務名義により執行し得るものとして確定された権利の性質・内容,債務名義成立の経緯及び債務名義成立後強制執行に至るまでの事情,強制執行が当事者に及ぼす影響等諸般の事情を総合して,債権者の強制執行が,著しく信義誠実の原則に反し,正当な権利行使の名に値しないほど不当なものと認められる場合であることを要するものと解することが相当である(最高裁昭和59年(オ)第1368号同62年7月16日第一小法廷判決・裁判集民事151号423頁参照)。

(2)  そこで,上記の点について検討を加える。

ア(ア) まず,前記争いのない事実等(2)アのとおり,被告は,平成7年6月1日付けで,経済状況の悪化等を理由に,婚姻費用を減額し,平成8年8月からは婚姻費用を任意に支払っていない。また,被告は,同イのとおり,別件学費請求事件にかかる学費を,合計105万円を支払ったほかは,任意の支払をしていない。

しかし,前記1(1)ア(ア)の事実によれば,被告には相応の収入があったと認められる。被告は,多額の役員報酬を受け取っているように申告したのは,税金対策のためであり,実際は月額数十万円の役員報酬しか受け取っていないと供述し,同人の陳述書(乙26)には同旨の記載があるが,同(イ)のとおり,被告は,平成2年から平成15年まで頻繁に海外旅行をしているのであるから,少なくとも上記期間は経済的に困窮していたとは認められず,この点に関する被告の上記供述等は信用することができない。

そうすると,被告は,未払婚姻費用及び学費を支払う資力を有していながら,上記金員を支払う意思を有していなかったと認めざるを得ない。

そして,同(ウ)のとおり,被告の経済状態が悪化している現在では,なおさら被告の任意の支払を期待することができないというべきである。同様に,別件慰謝料請求事件において確定した1000万円の慰謝料支払義務についても,任意の支払は期待することができない状況にある。

(イ) また,前記1(1)ア(エ)のとおり,被告は,八王子の土地の共有持分を,平成10年から平成16年までの間に,次々と親族に贈与している。上記贈与の理由に関する被告の供述は要領を得ないものであり,自己に対する強制執行を回避するために,自己の財産を他人の名義に変更しているかのような事情がうかがわれる。

(ウ) 現在においても,婚姻費用及び学費については,前記1(1)イの強制執行による回収額を考慮してもいまだ多額の未払債務が残っている上,慰謝料については,全く支払われていない状況にある。しかし,前記(ア),(イ)の事情からすると,上記債務について今後も被告の任意の支払を期待することはできず,また,被告に対する強制執行によって上記各債権を回収することができる可能性は低い。

イ(ア) また,前記1(2)のとおり,本件和解は本件マンションの所有権の帰属について定めるものではなく,本件和解条項が付加されたのは,原告が,財産分与が終わるまで,本件マンションに居住していたいという希望を述べたことに端を発しているのであるから,財産分与問題の解決と本件マンションの明渡猶予が全く無関係であるということはできず,むしろ両者は密接に関連し,当事者双方が本件和解の前提であると認識していたものと評価することが相当である。

(イ) そして,前記1(3)のとおり,別件慰謝料請求事件においては,早期の段階から,財産分与,慰謝料,婚姻費用及び学費を含む全体的解決を視野に入れた和解の話が進められており,具体的な和解条項案を取り交わしながら,細部の協議も行われていた。このことからすると,原告が,別件慰謝料請求事件における和解交渉と並行して,これとは別に,家庭裁判所に財産分与の申立てをしなかったのは,やむを得ないことであるといえ,平成16年4月19日に至るまで,別件財産分与の審判を申し立てなかったことをもって,殊更非難に値するということはできない。

また,別件慰謝料請求事件の和解交渉においては,被告が原告に対して支払うべき金員の総額及び分割払の期間について意見の相違がみられたが,双方が提案する分割払の期間中は本件マンションの明渡しを猶予すること,すなわち,本件マンションについて5年から7年程度明渡しを猶予することについては,双方に意見の相違はなく,被告も,被告が原告に対して支払うべき金員を完済するまでは,本件マンションの明渡しを猶予することを前提に話合いをしている。加えて,被告は,担当裁判官が示した和解案を支障がないのにもかかわらず受け入れず,自己の案に固執して,和解は打ち切られることになったという経緯がある。

(ウ) そして,本件マンションは,かつての夫婦共同生活の中心であった場所であり,原告が長年にわたって居住してきた建物であるところ,前記1(4)のとおり,被告自身,別件財産分与の審判において,本件マンションが財産分与の対象財産であることは認めており,現在係属中の財産分与の審判の手続は,本件マンションが財産分与の対象であることを前提に進められている。

(エ) このように,被告は,本件離婚事件,別件慰謝料請求事件,別件財産分与の審判を通じ,一貫して,原告が本件マンションに何らかの形で居住することを前提とした態度をとっており,その上,争いのない事実等(6)のとおり,原告は,別件財産分与の審判の申立てに伴い,本件マンションの処分禁止の仮処分を申し立て,これが認められている。したがって,被告が,原告に対し,本件和解条項に基づいて強制執行をしたとしても,被告は,別件財産分与の審判が終了するまでは,本件マンションを売却したり,賃貸することはできず,最終的には本件マンションの所有権の帰属は別件財産分与の審判で決着を見ることになっている。

ウ また,被告は,前記1(1)ア(オ)のとおり,現在,上池袋のマンションに居住しており,今後とも同マンションに居住し続けることができるのであるから,被告自身が本件マンションに居住する必要性は極めて少ない。

そうすると,被告が,原告に対して,本件和解条項に基づく強制執行をした場合,原告は,生活の本拠を失うという重大な不利益を被るのに対し,被告には,即時に本件マンションの明渡しを受ける必要性は極めて少ない。

エ 以上,前記アないしウで検討した本件における諸事情にかんがみると,和解条項が遵守されるべきであるということはいうまでもないが,本件においては,被告は,本件マンションに原告が何らかの形で居住することを認めるという従前の一貫した態度を翻していること,仮に本件和解条項に基づく強制執行をすることを認めた場合には,一方で被告自身は自ら負担している婚姻の解消に伴う義務を果たさず,本件マンションの明渡しを受ける必要性が極めて少ないという事情があるにもかかわらず,他方で,原告の生活の本拠を奪い,当然の権利である慰謝料等の支払請求権について,原告に回収の見込みのない債務名義のみを残すことになるという,極めて不合理な結果が生じることになる。さらに,本件和解は本件マンションの所有権の帰属を定めるものではなく,本件マンションの所有権の帰属は,最終的には別件財産分与の審判で決着を見ることになっているのである。

そうすると,本件においては,被告の原告に対する本件和解条項に基づく強制執行は,もはや,自己の都合のみを優先し,原告に対して一方的に不当な結果を生ぜしめることを目的とするものであると推認すべきであって,著しく信義誠実の原則に反し,正当な権利行使の名に値しない不当なものと認めることが相当である。

よって,争点(3)(信義則違反ないし権利の濫用)についての原告の主張は,理由がある。

4  結論

以上によれば,原告の被告に対する本件請求は理由があるからこれを認容し,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条を,強制執行停止の裁判の認可及びその仮執行宣言につき民事執行法37条1項をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・小池一利,裁判官・西村欣也,裁判官・百瀬梓)

別紙物件目録<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例