東京地方裁判所 平成16年(行ウ)459号 判決 2006年11月17日
第1事件原告兼第2事件原告
X
第1事件原告兼第2事件原告訴訟代理人弁護士
伊藤和夫
高橋融
梓澤和幸
伊藤敬史
岩重佳治
打越さく良
近藤博徳
猿田佐世
鈴木雅子
田島浩
濱野泰嘉
原啓一郎
樋渡俊一
福地直樹
毛受久
山﨑健
山口元一
渡邉彰悟
島薗佐紀
第1事件原告訴訟復代理人兼第2事件原告訴訟代理人弁護士
白鳥玲子
村上一也
谷口太規
水内麻起子
第1事件原告訴訟代理人弁護士
山本健一
第2事件原告訴訟代理人弁護士
井村華子
鈴木眞
高橋太郎
第1事件被告
東京入国管理局主任審査官
大和田髙道
第2事件被告
国
代表者兼第2事件処分行政庁
法務大臣
長勢甚遠
第2事件処分行政庁
東京入国管理局長
髙槁邦夫
被告ら指定代理人
中島千絵美
外8名
第2事件被告指定代理人
丸岡敬
外2名
主文
1 第1事件被告東京入国管理局主任審査官が第1事件原告兼第2事件原告に対して平成16年1月26日付けでした退去強制令書発付処分が無効であることを確認する。
2 第2事件処分行政庁法務大臣が第1事件原告兼第2事件原告に対して平成18年1月25日付けでした難民の認定をしない旨の処分を取り消す。
3 第2事件処分行政庁東京入国管理局長が第1事件原告兼第2事件原告に対して平成18年1月30日付けでした在留を特別に許可しない旨の処分を取り消す。
4 訴訟費用は第1事件被告及び第2事件被告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
主文第1項から第3項までと同旨
第2 事案の概要
1 第1事件は,ミャンマー連邦(ミャンマー連邦は,平成元年に名称をビルマ連邦社会主義共和国から改称したものであるが,改称の前後を区別することなく,同国を「ミャンマー」という。)の国籍を有する男性である第1事件原告兼第2事件原告(以下「原告」という。)が,東京入国管理局(以下「東京入管」という。)入国審査官から平成16年法律第73号による改正前の出入国管理及び難民認定法(以下「改正前入管法」という。)24条1号(不法入国)に該当する旨の認定を受け,同認定に服し,口頭審理を請求しない旨を記載した口頭審理放棄書に署名したので,第1事件被告東京入管主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)から退去強制令書の発付を受けたため,原告が「難民」に該当するにもかかわらずこれをミャンマーに送還しようとする上記退去強制令書発付処分には無効事由がある旨主張して,被告主任審査官に対し,上記退去強制令書発付処分の無効確認を求める事案である。
第2事件は,原告が改正前入管法61条の2第1項に基づき難民の認定を申請したところ,平成16年法律第73号附則6条及び平成16年法律第73号による改正後の出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)61条の2第1項に基づき,第2事件被告代表者兼処分行政庁法務大臣(以下「法務大臣」という。)から難民の認定をしない旨の処分を受けるとともに,平成16年法律第73号附則6条及び入管法61条の2第2項に基づき,第2事件処分行政庁東京入国管理局長(以下「東京入管局長」という。)から在留を特別に許可しない旨の処分を受けたため,原告が「難民」に該当するのにこれを認めなかった上記難民不認定処分は違法であり,また,原告に在留特別許可を認めなかった上記在留特別許可不許可処分も違法である旨主張して,第2事件被告国(以下「被告国」という。)に対し,上記難民不認定処分及び上記在留特別許可不許可処分の各取消しを求める事案である。
2 前提となる事実
本件の前提となる事実は,次のとおりである。なお,証拠若しくは弁論の全趣旨により容易に認めることのできる事実又は当裁判所に顕著な事実は,その旨付記しており,それ以外の事実は,当事者間に争いがない。
(1) 原告の身分事項
原告は,昭和○年○月○日にミャンマーにおいて出生した,ミャンマー国籍を有する外国人の男性である。
(2) 原告の入国及び在留状況
ア 原告は,平成3年3月31日,タイ王国(以下「タイ」という。)のバンコクから,新東京国際空港に到着し,他人名義の偽造旅券を用いて,東京入管成田支局入国審査官から上陸許可を受けて,本邦に不法に上陸し,その後,引き続き本邦に不法に在留していた。
イ 原告は,平成15年11月17日,改正前入管法違反容疑で,警視庁巣鴨警察署警察官に現行犯逮捕され,東京地方裁判所において,同16年1月22日,改正前入管法70条2項違反を理由に懲役2年,執行猶予3年の刑に処する旨の判決の言渡しを受けた。(乙3,5)
(3) 原告の難民の認定の申請
ア 原告は,改正前入管法61条の2第1項に基づき,法務大臣に対し,平成16年2月17日,難民の認定を申請した(以下,この申請を「本件難民認定申請」という。)。
イ 東京入管難民調査官は,平成16年4月30日及び同17年9月21日,本件難民認定申請について,原告に対し,事実の調査を行った。
ウ 法務大臣は,平成16年法律第73号附則6条及び入管法61条の2第1項に基づき,平成18年1月25日,本件難民認定申請につき,難民の認定をしない旨の処分(以下「本件不認定処分」という。)をし,同年2月1日,原告にこれを通知した。原告は,同月2日,本件不認定処分につき,法務大臣に異議の申出をした。
エ 法務大臣から権限の委任を受けた東京入管局長は,平成16年法律第73号附則6条及び入管法61条の2の2第2項に基づき,平成18年1月30日,本件難民認定申請につき,在留を特別に許可しない旨の処分(以下「本件在特不許可処分」という。)をし,同年2月1日,原告にこれを告知した。
(4) 原告の退去強制手続
ア 東京入管入国警備官は,原告が入管法24条1号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして,平成16年1月21日,被告主任審査官から収容令書の発付を受け,同月22日,同令書を執行して,原告を東京入管収容場に収容し,同月23日,原告を同号該当容疑者として東京入管入国審査官に引き渡した。
イ 東京入管入国審査官は,平成16年1月23日,原告について違反審査を実施し,同日,原告が入管法24条1号(不法入国)に該当する旨の認定を行い,原告にこれを通知した。原告は,同日,同認定に服し,口頭審理を請求しない旨を記載した口頭審理放棄書に署名した。
ウ 被告主任審査官は,原告に対し,平成16年1月26日,退去強制令書(以下「本件令書」という。)を発付した(以下,この処分を「本件退令処分」という。)。
エ 東京入管入国警備官は,平成16年1月26日,本件令書を執行して,原告を東京入管収容場に収容した。原告は,同年6月30日,入国者収容所東日本入国管理センター(以下「東日本センター」という。)に移収された。
(5) 本件訴えの提起等
ア 原告は,平成16年10月19日,本件退令処分の無効確認を求める第1事件に係る訴えを提起した。(当裁判所に顕著な事実)
イ 原告は,平成17年3月14日,指定住居を東京都豊島区南大塚<番地略>Aマンション***とする条件の下,仮放免の許可を受けて,仮放免された。(乙20)
ウ 原告は,平成18年6月26日,本件不認定処分及び本件在特不許可処分の各取消しを求める第2事件に係る訴えを提起した。(当裁判所に顕著な事実)
エ 原告は,現在,仮放免中である。
3 争点
本件の主な争点は,次のとおりである。
(1) 難民該当性の有無。具体的には,本件退令処分がされた平成16年1月26日当時,本件不認定処分がされた同18年1月25日当時及び本件在特不許可処分がされた同月30日当時,原告がミャンマーの民主化運動を推し進めるという政治的意見を理由として,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有しているために,国籍国の外にいる者ということができるか。
(2) 本件退令処分の有効性。具体的には,本件退令処分がされた平成16年1月26日当時,原告は,ミャンマーに送還されれば迫害を受けるおそれがあったのに,送還先をミャンマーとしてされた本件退令処分は,違法,無効なものであるということができるか。
(3) 本件在特不許可処分の適法性。具体的には,本件在特不許可処分がされた平成18年1月30日当時,原告は,ミャンマーに送還されれば迫害を受けるおそれがあったので,在留特別許可を付与されるべきであったのに,これを付与せずにされた本件在特不許可処分は,東京入管局長の有する裁量権を逸脱するなどしてされた違法なものであるということができるか。
4 争点に関する当事者の主張の要旨
(1) 争点(1)(難民該当性の有無)について
別紙1のとおり
(2) 争点(2)(本件退令処分の有効性)について
別紙2のとおり
(3) 争点(3)(本件在特不許可処分の適法性)について
別紙3のとおり
第3 争点に対する判断
1 前記前提となる事実のほか,証拠及び弁論の全趣旨によると,以下の事実を認めることができる(認定根拠は,各事実の後に付記することとする。)。甲第25,第28,第30号証及び乙第22号証並びに証人A1の証人尋問における証言及び原告の本人尋問における供述のうち,以下の認定事実に反する部分は,他の事実又は証拠と矛盾するので,採用することができない。
(1) ミャンマーの政治状況
ア ミャンマーは,昭和23年1月4日に独立したが,ネ・ウィン将軍が,同37年3月,クーデターを決行し,同将軍が率いる国軍が全権を掌握した。同年7月には,ビルマ社会主義計画党が結成され,さらに同39年3月の国家統制法により,他の政党が禁止された。(甲1,弁論の全趣旨)
イ 昭和63年3月以降,ヤンゴンで学生らの反政府デモが日増しに拡大して警察や軍と衝突し,同年8月8日には,学生や市民による反政府ゼネストが全国で行われるなど,大規模な民主化運動が起こった。しかし,民主化運動は,軍によって弾圧され,同年9月18日,軍事クーデターにより,SLORCが全権を掌握し,SLORCによる軍事政権が成立した。(甲1,17,弁論の全趣旨)
ウ SLORCは,平成元年7月20日,アウンサンスーチーを国家破壊分子法違反で自宅軟禁し,政治活動を禁止した。(甲17)
エ 平成2年5月27日,約30年振りに複数政党参加による総選挙が施行され,アウンサンスーチーの率いるNLDが485議席中392議席を獲得し,約8割の議席を占めて勝利したにもかかわらず,SLORCは,民政移管のためには堅固な憲法が必要であるとして,NLDに政権を委譲しなかった。(甲1,4,弁論の全趣旨)
オ SLORCは,平成8年5月及び同年9月に,NLD主催の議員総会や党集会の前に多数のNLD関係者を拘束して,議員総会や党集会の開催を妨害した。(弁論の全趣旨)
カ 平成8年10月23日,ヤンゴンの学生約500人が警官の学生への暴力に抗議しデモを行ったのを始めとして,各地で学生デモが発生し,同年12月半ばまで続いたが,SLORCは学生を強制排除した。同9年1月18日,同8年12月のデモを扇動したとしてNLD党員6人を含む活動家20人が禁固7年の実刑判決を受け,同9年1月28日,NLD党員5人を含む活動家14人が同様の判決を受けた。(甲4,弁論の全趣旨)
キ 平成8年12月25日,ヤンゴンの仏教寺院において爆弾が爆発して死傷者を出すという事件があり,SLORCは,同事件にABSDF及びカレン民族同盟が関与している疑いがあると発表した。また,同9年4月6日,SLORCの第二書記であるティンウー中将の自宅に小包が届き,これが爆発して同人の長女が死亡するという事件が起こった。(弁論の全趣旨)
ク SLORCは,平成9年5月21日,NLDの総選挙圧勝7周年記念の議員総会を阻止するため,NLD党員ら多数を拘束し,最終的には約300人を拘束した。また,SLORCは,同月27日,NLDがアウンサンスーチー宅で予定していた議員総会の開催を同人宅前の道路封鎖を強化して阻止し,同月28日まで道路封鎖を継続した。さらに,SLORCは,同年9月27日及び同月28日に予定されていたNLDの創立9周年集会開催に関し,参加者の上限を300人とする条件付きで許可したが,その件につき,NLDの参加者全員に対し軍情報担当官に個人的な情報を報告させ,約30人のNLD活動家の参加を許可せず,その地域から追放した旨の報道がされた。(甲3,弁論の全趣旨)
ケ SLORCは,平成9年11月,国家平和開発評議会(SPDC)に改組された(なお,以下では,改組の前後を区別することなく,「SLORC」という。)。(甲3,弁論の全趣旨)
コ 平成15年5月30日には,アウンサンスーチーが地方遊説に出掛けていた際,それを妨害しようとした政府系の反NLD組織によって襲撃され,アウンサンスーチー,ウーティンウーNLD副議長らがSLORCによって拘束されるというディペイン事件が起きた。(甲2,5,6,9,弁論の全趣旨)
サ SLORCは,現在においても,国民の政治的自由を認めずに人権抑圧の状態を継続している。ミャンマー政府は,言論,出版,集会,移動,政治活動及び結社の自由を制限しているほか,労働者の権利も制限し,労働組合を非合法化している。(甲1,2,8,弁論の全趣旨)
シ ミャンマー政府は,政治活動家に対する嫌がらせ,脅迫,逮捕,拘禁及び身体的虐待によって政治活動家に対する管理を強化している。政治活動を抑圧するために,監視の手段として,電話の盗聴,郵便物の検閲,尾行等のし意的な干渉を行うことがある。また,非常事態法,国家保護法等の法律が,平和的な政治活動を行った市民を逮捕するためにも用いられている。そして,特にNLDのメンバーに焦点を絞った民主派への迫害が,脅迫,嫌がらせ,長期刑等の形で続いている。(甲1,9,弁論の全趣旨)
ス ミャンマーにおいては,人権尊重の理念が浸透しているとはいい難く,ミャンマー国軍の兵士が武装していない国民に対して超法規的死刑の執行,即決死刑の執行,し意的死刑の執行,強制労働,強制移住,強制失踪,し意的逮捕,財産の破壊及び没収,強姦等を行ったことが報告されている。(甲1,2,8,弁論の全趣旨)
(2) 原告の個別的事情
ア 原告の身分事項等
(ア) 原告は,昭和○年○月○日にミャンマーにおいて出生した,ミャンマー国籍を有する外国人の男性である。(前記前提となる事実)
(イ) 原告は,3男2女の第5子(三男)であり,原告の父は,昭和60年に死亡した。原告の兄である二男(以下「原告の次兄」という。)は,平成6年ころから精神的に病むようになり,以後投薬を受けている。また,原告の姉である二女(以下「原告の2番目の姉」という。)も,精神的に病んでおり,病院で診察を受けている。両名は,原告の母と共にミャンマーで生活しているが,働いていない。(甲25,乙22,原告本人)
イ ミャンマーにおける活動等
(ア) 原告は,昭和59年,ヤンゴン大学に入学したが,ミャンマー政府が同62年9月5日に3種の高額紙幣を廃止する旨の廃貨令を出したことをきっかけに,A1らと共に,大学構内で演説をしたり,廃貨令の廃止を訴えるとともに当時政権を担っていたビルマ社会主義計画党を攻撃するパンフレットを配布するなどした。しかし,ヤンゴン大学の学長は,同63年2,3月ころ,原告,A1及びA2をその両親と共に呼び出し,原告,A1及びA2が大学構内でパンフレットを配布したことを確認した上,同人らに今後二度とパンフレットを配布するなどの活動をしない旨を誓約させ,そのような活動をすれば退学させる旨言い渡し,原告の母,A1の父母及びA2の父母には始末書に署名させた。(甲25から28まで,乙21,22,証人A1)
(イ) 昭和63年3月13日,学生と住民との対立を収拾しようとして出動した警察が学生に暴行を加えたり発砲したりするなどし,けがをした学生の1人であるポンモーが死亡するというポンモー事件が起きた。原告は,これに抗議するためにA1,A3及びA4らと共に学生によるデモ行進を計画し,同月16日に実行した。その際,デモに参加した学生が警察によって排除されるというタダビュー事件が起き,逃げた学生の中にはインヤー湖に落ちて死亡した者もいた。ヤンゴン大学は,ポンモー事件後に閉鎖されたが,原告らは,ヤンゴン大学が再開された後のことを話し合ったり,自分たちの主張を書いたビラを町にはったりした。(甲25,27,28)
(ウ) ヤンゴン大学は昭和63年5月に再開されたが,学生は,同年6月初めころから学生連盟の活動の保障やインヤー湖で亡くなった学生の調査などを求め,学生運動の高まりによってヤンゴン大学では授業を行うことができない状況であった。A3は,原告及びA1に演説会の開催を提案し,同人らはこれに賛同した。A3は,同月半ばに3日間連続して学生に向かって演説を行った。原告及びA1は,演説を行っているA3の脇に構え,同人の演説の終了後に学生と一緒にシュプレヒコールを上げるなど,活動を盛り上げていた。その後,A5やA6などが演説を行い,学生運動は更に高まっていったが,同月20日,警察が大学構内に突入して多数の学生を逮捕した。原告は,警察の突入前に大学構内から抜け出したので,警察には逮捕されなかった。原告は,同月21日の朝,A5,A7,A6,A30,A8,現在はノルウェーにいるH(以下,「H1」といい,現在イギリスにいるHを「H2」といい,H1又はH2のいずれであるか特定することができない場合には,単に「H」という。)及びA31らと共に集まって,学生運動を行っている複数の学生団体を総称して,昭和37年以来非合法化されているバカタと名乗ることを決めるとともに,A6及びA7が中心となって徐々に集まってきた学生と共にデモ行進を始めたが,警察によって排除され,同日夜には夜間外出禁止令が出された。原告は,自宅に戻ると逮捕されるかもしれないと考え,同日以降自宅には戻らず,学生運動を余りしていない学生宅や親戚宅を転々としながら,A4,A8,A9らと共に,冊子やスローガンを記載したカードを配布するなどして,学生運動を続けた。他方,A1は,A10,A11,A12,A2,A13,H,A14らと共にPLFという組織を結成し,原告もPLFに参加した。(甲25から28まで,乙21,証人A1,原告本人)
(エ) 原告は,昭和63年7月半ばころ,H1,A1,A11,A15,H2,A31及びA4らと共にH2宅に集まり,そこで行われた会合において,学生運動を行っている複数の学生団体が1つになってバカタとして同年8月8日に大きなデモ行進を企画していることを知った。A15,原告,H1,H2,A11,A1,A2及びA10らは,バカタという名称では大学生以外の者が参加しにくいのではないかと考え,PLFの名称を「コー・ダウン・ニー」(赤い戦うクジャクの意)に変更して,高校生,中学生及び一般市民に対し,人目に付かないように信頼することができる者の口コミで広めるという方法によりデモ行進への参加を呼び掛けた。(甲25,27,28,証人A1,原告本人)
(オ) コー・ダウン・ニーは,大きな旗を作り,他の団体との待ち合わせ場所であったヤンゴン総合病院前に集合し,昭和63年8月8日昼ころからデモ行進を始め,学生,労働者,公務員,農民らが参加した大規模なデモ行進が行われたが,同日夜,ミャンマー国軍がデモ行進に参加した学生らに暴行を加えたり発砲したりするなどして学生らを排除した。原告は,同月9日,他のバカタのメンバーと共に同病院に集まったが,ミャンマー国軍は,同日,同病院が学生運動の拠点であるとして,同病院に向けて発砲した。バカタは,同日以降,同病院を学生運動の拠点とした。(甲25,27,28,乙21)
(カ) バカタのメンバーは,昭和63年8月10日,バカタをABFSUとして組織化することを決め,議長,副議長,書記長及び各委員会の長から成る中央執行委員会(CEC)並びに各委員会に属する委員を決め,原告は,演説に行く学生の安全の確保及び地域の治安の確保を担当する保安規律委員会に置かれた運営委員会の委員となった。バカタのメンバーは,そのころから大勢で集まって会合を開くことを避けるようになり,原告は,A15の指示を受けて活動するようになった。同月16日にはバカタの結成大会を開くことが決まった。ミンコーナイン,A5,A31及びA16らは,アウンサン将軍の娘であるアウンサンスーチーに演説を依頼し,同人は,同月26日,シュエダゴンパゴダの前で演説を行った。原告は,アウンサンスーチーが演説することは知っていたものの,演説をした場所には行かなかった。(甲16の1,25から28まで,30,原告本人)
(キ) 昭和63年8月28日,同37年にバカタが非合法化された際に爆破されたバカタの建物の跡地で,ABFSUの結成式が行われ,ミンコーナインが議長に,A31が副議長に,A5が書記長に,A17を副書記長に,A4,A15,A18らが中央執行委員に,それぞれ就任した。各委員会の長とその運営委員会の委員は,全部で約40人であった。原告は,保安規律委員会の運営委員会の委員の1人として上記結成式の警備を担当した。保安規律委員会には200ないし300人の学生が所属し,A15が委員長であり,委員長を含めて6人から成る運営委員会があり,原告,H1,H2,A2,A11及びA1がその運営委員会のメンバーであった。(甲16の1,17,18の1,19,21,25,30,証人A1,原告本人)
(ク) 昭和63年9月10日ころ,ミャンマー国軍によるクーデターのうわさが流れるようになり,A4,H,A1,A31,A15,A11及び原告らは,クーデターとなれば武力を行使しなければならないかもしれないと話すようになった。A15及びA31は,同月15日,会議を招集し,約30人が集まって,①国軍が政権を握った場合に備えてミャンマーとタイとの国境地帯で戦う準備をすることとし,タイにおいて反政府武装革命勢力と接触し,武器の使用方法を習って再びミャンマーに戻ってくること,及び②それに賛同することができる者は翌朝5時にヤンゴン市の西方にあるチーミーダインの岸辺に集まって船に乗ることを決めた。原告,A1,A11,A10,A19,A2,A20,A21,A22など学生15人,地元の交通案内人2人及び通訳兼船に詳しい者1人,合計18人が同月16日午前5時に集まり,同日午前8時,船でコータウンに向かったが,同月18日午後4時,ミェイの岸辺に到着した際にラジオでミャンマー国軍によるクーデターの発生を知った。原告らは,同月19日,コータウンに向かおうとしたが,その手前にあるサダッチ島で国民登録証を持っているヤンゴン在住の学生はすべて捕まっていることを知ったので,コータウンに行くことをあきらめ,チャウッカ村を経由して,同月29日午前6時,タイのラノーン市に到着した。(甲16の1,25から28まで,乙21,22,証人A1,原告本人)
(ケ) SLORCは,昭和63年9月30日,バカタに対し解散を命じた。(甲16の1,証人A1)
ウ タイにおける活動等
(ア) 昭和63年9月18日にSLORCによる軍事政権が成立すると,ミャンマーからラノーン市に逃れてくる学生が急増し,原告,A1及び同年8月8日より前にミャンマーを出国してタイに来ていたA3らは,上記学生のために食料及び寝床を確保することに努めた。原告は,A1及びA3らと共に,海外民主化ビルマ学生戦線(FRONT OF OVERSEA DEMOCRATIC BURMESE STUDENTS)という組織を結成し,A28という名で「ビルマを向上させたい。」という記事を書いてラノーン市で最初に発行した機関誌に載せた。原告は,その機関誌をラノーン市,コータウン市,ミェイ市及びヤンゴン市で配って寄付金を集め,それを上記の学生に提供する食料の費用に充てた。ラノーン市には500人を超える学生がミャンマーから逃れてきていた。(甲16の1,25から28まで,乙21,22,原告本人)
(イ) その後,軍事政権は,昭和63年12月31日までに帰国すれば民主化活動の責任は問わない旨の呼び掛けを行い,原告と共にミャンマーを出国した18人のうち12人は,結局,ヤンゴンに戻った。しかし,その12人のうち,A11は,その後逮捕され,数年の刑を宣告されて投獄された。その余の11人は,政治活動をしない旨の誓約書に署名し,毎月1回当局への出頭を義務付けられた。(甲25,28,乙21,22,証人A1,原告本人)
(ウ) A1は,ヤンゴンに戻らずに,平成元年2月には活動の場をラノーン市からバンコクに移し,昭和63年11月1日にミャンマーとの国境で反ミャンマー政府活動を行うことなどを目的として結成されたABSDFの活動に加わるようになり,その後,ABSDFが本拠を置いていたカレン族支配地域に向かい,ABSDFの中央執行委員として活動を続けた。原告も,ヤンゴンに戻らずに,平成元年2月には活動の場をラノーン市からバンコクに移し,バンコクで活動を続け,同年には,学生運動の指導者であったA3,A5及びFTUBの現在の書記長であるA29との会談を実現させた。しかし,A3は,同年4ないし6月ころ,軍事政権側にくら替えし,軍事政権の保護の下にミャンマーに帰国してしまった。A3の帰国後,ミャンマー国内においてかつてA1と共に活動していたA23,A24及びA25が逮捕された。(甲25,27,28,乙21から23まで,証人A1,原告本人)
(エ) 原告は,かねてからABSDFに入って活動することを希望し,平成元年11月に行われるABSDFの結成2周年の総会に出席する予定であった。しかし,原告と極めて親しかったA3が軍事政権側にくら替えしたため,原告がABSDFに参加することは困難となり,上記総会への出席を取りやめた。原告は,同年から同3年まで,バンコクに在るミャンマー大使館の前でデモをしたり,友人から寄付を集めてABSDFなどミャンマーとの国境地帯で活動する学生を援助したり,ミャンマー国内の情報を入手してABSDFに伝えたりするなどして,バンコクにおいて反ミャンマー政府という立場での活動を続けていた。その後,ABSDFは,A5とA26の2派に分裂する危機に陥って混乱した。(甲25,27,28,乙21,22,原告本人)
(オ) 原告は,タイでの活動に行き詰まりを感じ,平成3年,タイを出国することを決意し,バンコクで面倒を見てもらっていた友人から,日本なら知り合いがたくさんいるから出国の準備を手伝うことができると言われたので,ブローカーから他人名義の偽造旅券を取得して,同年3月31日,日本に入国した。(前記前提となる事実,甲25,乙21,22,原告本人)
エ 日本における活動等
(ア) DBSOは,平成6年8月に日本において結成された。原告は,DBSOの代表が,原告がタイにいたときに知り合ったCであったことから,DBSOの初期メンバーとなった。DBSOは,世界各地に在るミャンマーの民主化青年組織と連絡を取りながらミャンマーの民主化のために日本でデモ行進や集会を行い,ABSDFなどミャンマーとの国境地帯で活動する団体に資金を送金するなどの援助を行っていた。
原告は,ミャンマーとの国境地帯で活動したいという気持ちが強かったが,それができないまま日本に来たので,日本で活動することに積極的になることはできず,DBSOの会議には出席していたが,DBSOが主催するデモ行進及び集会には参加していなかった。原告は,どうしてもミャンマーとの国境地帯にいるABSDF所属の学生を支援したいと考えて,A1又は同7年に死亡したA22を通じて,原告が日本で働いて得た収入の中から毎月約300米ドルをABSDFあてに送金していた。その後,原告は,ミャンマーにいる原告の家族に送金するために土曜日及び日曜日も含めて朝から晩まで働かなければならなくなり,そのため土曜日及び日曜日に行われるDBSOの活動に参加することができなくなったので,同8年ころ,DBSOの活動をやめた。また,ミャンマー国軍が同7年にはタイとの国境地帯のほとんどの部分を制圧したため,A1もミャンマーとの国境地帯から離れ,同8年6月30日にはタイを出国してオーストラリアに向かった。このため,原告は,A1がタイを出国した後は,A1を通じてABSDFあてに行っていた送金を取りやめた。
DBSOは,同9年6月,8888と統合してSOLBとなり,SOLBは,同12年12月,BYVA,BAIJ及びSGDDと共にLDBとなった。
(甲25,27,30,31,乙22,証人A1,原告本人)
(イ)a 原告は,DBSOのメンバーであったD及びEから,日本において難民の認定の申請をした方がよいと言われていたが,①少しでも可能性があれば帰国したかったので,できれば難民の認定の申請はしたくないという思いが強かったこと,②難民の認定の申請をするのはミャンマーとの国境地帯で活動している仲間に申し訳ないという思いがあったこと,③難民の認定の申請をしているミャンマー人たちの手続が進んでおらず,もし日本で難民として受け入れられずに本国に送還されると,本国にいる原告の家族に送金することもできなくなる上,原告の立場が悪くなるのに対し,このまま難民の認定の申請をしなくても,捕まえられて本国に送還される危険は余りなく,本国にいる家族にも送金することができ,原告の立場が悪くなることもなかったこと,④他人名義の旅券で入国したこと等の理由で,難民の認定の申請をしなかった。
b DBSOのメンバーであったFは平成10年9月14日に在留特別許可を受け,DBSOのメンバーであったGは同12年10月27日に難民の認定をする旨の処分を受け,DBSOの代表であったCは同13年9月26日に,DBSOのメンバーであったEは同16年12月9日に,DBSOのメンバーであったHは同17年3月7日に,DBSOのメンバーであったDは同年4月7日に,それぞれ在留特別許可を受けた。
(甲15,24の1から5まで,25,31,乙22,弁論の全趣旨)
(ウ)a DBSOのメンバーであったIが仙台で職務質問されて不法残留であることが発覚して逮捕され,DBSOのメンバーであったE及びDが逮捕されたことについて,ミャンマーの政府系の雑誌「ミエキンティッ」1998年3月号は,「デモクラシー自転車泥棒」というタイトルで,DBSOに対する悪意ないし敵意に満ちた記事を掲載し,その記事の末尾にはDBSOの住所としてE及びDの住所が記載されていた。
b Iは,反政府活動をやめ,在日反政府活動家の情報を提供することを条件に,平成10年5月にミャンマーに帰国したが,その直後である同年8月にはDBSOの事務所からDBSOのメンバーのリスト,写真等がなくなっていることが判明した。
c ミャンマー政府は,ミャンマー国内における爆破事件は日本の民主化団体のメンバーによるものであるなどとして,日本にあるミャンマーの民主化団体の活動を警戒している。
(甲22,23,31,弁論の全趣旨)
(エ) 原告は,本邦に入国後,ミャンマーにいる母,原告の次兄及び原告の2番目の姉の生活費として,日本で働いて得た収入の中から毎月2,3万円を送金していた。しかし,原告の母の健康状態が悪化して入院するなどし,また,原告の次兄及び原告の2番目の姉は,MIが週1回くらいの割合で原告の実家に来て,原告がどこにいるかを執ように聞いていたため,精神的に病んでしまい,働くことができなくなり,また,原告の姉である長女(以下「原告の長姉」という。)の夫が交通事故で死亡したことから,平成8年ころ以降,ミャンマーにいる母,原告の長姉の家族,原告の次兄及び原告の2番目の姉の生活費として,毎月5万円から7万円を送金するようになり,原告の母の健康状態がよくなってきた同12年ころまで,毎月5万円から7万円の送金を続け,その後は,毎月2,3万円を送金していた。(甲25,乙22,原告本人)
(オ) 原告は,平成12年ころまではMIが週1回くらいの割合で原告の実家に来て,原告がどこにいるかを執ように聞いてくる旨原告の家族から聞かされていた。そこで,原告が日本から原告の写真を送り,原告の母が原告は日本にいる旨答えると,MIの執ような追及がやみ,MIが原告の実家に来るのは月1回くらいの割合となった。(甲25,乙21,原告本人)
オ 原告の退去強制手続等
(ア) 原告は,平成15年11月17日に逮捕され,有罪判決を受けて東京入管に移された。原告は,身体の具合の悪い母に会いたい思いが強く,ここ3,4年はMIも月1回くらいの割合でしか原告の実家に来ない状況が続いていたことから,ミャンマーに帰国する意思を固め,刑事手続においても退去強制手続においても,「日本で仕事をしてお金を稼ごうと思い来日した。」,「早くミャンマーに帰りたい。」旨しか供述しなかった。東京入管入国審査官は,原告が入管法24条1号(不法入国)に該当する旨の認定を行い,原告にこれを通知し,原告は,同日,同認定に服し,口頭審理を請求しない旨を記載した口頭審理放棄書に署名した。(前記前提となる事実,甲25,乙5,7,22,原告本人)
(イ) 原告の母は,平成7年4月25日付けで,原告のためにミャンマー政府から原告名義の正規の本件旅券の発給を受け,同12年ころにこれを友人を通じて日本にいる原告に届けたが,本件旅券の有効期限は同8年4月24日であったので,原告は,有効な旅券を所持しておらず,ミャンマーに帰国するには自らの出国の経緯等を記載した書面をミャンマー大使館に提出して同大使館からトラベルドキュメントを発行してもらう必要があった。そこで,原告は,自らの政治活動歴を隠し,パスポートの番号もいつ来日したかも覚えていないという虚偽の内容の書面をミャンマー大使館に提出し,トラベルドキュメントの発行を受けて,同16年2月10日に帰国する予定であった。しかし,原告は,同月5日にミャンマーにいる母と電話で話をしたところ,「MIが最近原告の実家を訪ねてきて,原告がいつ帰ってくるかを聞かれたので,危険だから帰ってこないように」と言われ,この時点において初めて,帰国すれば迫害を受けるおそれがあることを明確に認識するに至り,ミャンマーに帰国しないことを決め,入管の職員にその旨を伝えたところ,入管の職員から,もう一度原告の母に電話を架けるよう言われたので,同月6日,原告の母に電話を架けたが,原告の母からは,「帰ってこない方がいい」旨再び言われたので,その旨を入管の職員に報告した上,原告は,同月17日,本件難民認定申請を行った。原告が移収された東日本センターから原告の母に電話を架けると,原告の母は,「この6か月間はMIが何度も原告の実家に来ていた。」旨述べていた。(前記前提となる事実,甲25,乙1,21,22,原告本人)
(ウ) 原告は,仮放免された後,LDBに加入し,LDBのメンバーとして活動し,LDBが主催して週5日行っているミャンマー大使館前のデモ行進には週3,4回参加し,また,LDBの機関誌及びビルマ民主アクションやアハーラなどの民主化団体の機関誌に詩などを書いている。(甲25,乙23)
カ 学生運動等に参加した者のその後の動向
(ア) ABFSUの議長であったミンコーナインは,平成元年3月23日に逮捕され,緊急事態法5条j項違反で15年の刑を宣告されて投獄され,同16年11月18日に釈放された。(甲17,19)
(イ) ABFSUの副議長であったA31は,平成3年12月に逮捕され,20年の懲役刑を宣告されて服役し,同17年3月に釈放された。(甲21)
(ウ) ABFSUの中央執行委員であったA4は,平成元年4月8日に逮捕されて収監され,同年6月11日に釈放されたが,同4年3月5日に再び逮捕され,禁固15年の刑を宣告され,同15年5月4日に釈放された。(甲16の1,17)
(エ) ABFSUの保安規律委員会の長であったA15は,ミンコーナインやA31が逮捕されたころに,SLORCによる軍事政権に帰順した。(甲25,証人A1)
(オ) ABFSUの保安規律委員会の運営委員会の委員の1人で昭和63年9月16日に原告と共にミャンマーを出国したA1は,ヤンゴンに戻らずに,平成8年ころまでミャンマーとの国境地帯において活動を続けていたが,同年6月30日,オーストラリアに入国し,同10年11月17日,オーストラリアの市民権を取得し,現在,オーストラリアで生活している。(甲27から29まで,証人A1)
(カ) ABFSUの保安規律委員会の運営委員会の委員の1人で昭和63年9月16日に原告と共にミャンマーを出国したA11は,前記軍事政権の見解を信じてミャンマーに帰国したが,逮捕され,数年の刑を宣告されて投獄された。その後,A11は,ミャンマーを出国し,マレーシアに向かった。(甲25,乙22,証人A1)
(キ) ABFSUの保安規律委員会の運営委員会の委員の1人で昭和63年9月16日に原告と共にミャンマーを出国したH1は,前記軍事政権の見解を信じてミャンマーに帰国したが,その後,ミャンマーを出国し,ノルウェーで難民として保護され,現在,ノルウェーにいる。(甲25,証人A1)
(ク) ABFSUの保安規律委員会の運営委員会の委員の1人であったH2は,イギリスで難民として保護され,現在,イギリスにいる。(甲25,証人A1)
(ケ) ABFSUの保安規律委員会の運営委員会の委員の1人で昭和63年9月16日に原告と共にミャンマーを出国したA2は,前記軍事政権の見解を信じてミャンマーに帰国したが,その後,音信不通である。(証人A1)
(コ) ABFSUに所属して昭和63年9月16日に原告と共にミャンマーを出国したA10は,前記軍事政権の見解を信じてミャンマーに帰国し,その後,ミャンマーを出国し,平成11年ころ,オーストラリアで難民の認定を申請したものの,難民と認定されず,ミャンマーに送還され,帰国後,6か月間投獄された。その後,A10は,再びミャンマーを出国し,アメリカにおいて難民として保護された。(甲25,証人A1)
(サ) A3は,著明な学生活動家の1人であったが,前記ウ(ウ)のとおり,ミャンマーに帰国したが,その後,ミャンマーを出国してアメリカに向かい,現在はアメリカに滞在している。(甲25,32)
(3) 事実認定の補足説明
ア(ア) 被告らは,①原告が刑事手続及び退去強制手続において供述した来日の経緯の方が,供述に一貫性があり,特段の矛盾点も見受けられない,②本邦の捜査機関等に対して政治活動の事実を秘匿することと,ミャンマーに帰国することによる危険,すなわち,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあることとの間に関係があることを認め得る合理的な理由は全くないから,ミャンマーに無事に帰国するために政治活動に係る供述を避けた旨の原告の供述は,刑事手続及び退去強制手続において難民である旨の主張を一切していなかったことの合理的説明とは認められない,③そもそも原告のミャンマー及びタイでの活動に関する原告の主張及び供述にはこれを裏付ける客観的な証拠がない旨主張する。
(イ) しかし,ミャンマー及びタイにおいてミャンマーの民主化を求める政治運動に従事していたミャンマー国籍を有する者が,ミャンマー及びタイでの活動をやめて本邦に入国してから逮捕されるまで12年7月余りが経過し,かつ,かつてはミャンマーに在る同人の実家を週1回くらいの割合で訪れて同人の所在を執ように聞いていたMIも,同人が日本にいることを知った3,4年前からは執ような追及をやめ,その来訪の頻度も月1回くらいの割合となっていたという状況の下において,ミャンマーに帰国しようとする場合,ミャンマー政府は,もはや同人には関心を有しておらず,ミャンマーに帰国しても,要人に賄ろを渡すなどすればミャンマー政府からの迫害を避けることができるなどと考えたとしても,そのことが不合理ないし不自然であるとはいえないのであり,また,本邦における刑事手続及び退去強制手続において過去の政治活動に言及すれば,そのことがミャンマー政府に知られて,かえってミャンマー政府が同人への関心を持つ契機となりかねないと考えることは十分に理由のあることであると考えられるので,同人が殊更に本邦における刑事手続及び退去強制手続において過去の政治活動に言及しないことも十分にあり得るものと考えられる。
(ウ) また,前記認定事実によると,①原告は,平成15年11月17日に逮捕された後は,ミャンマーに帰国する意思を固め,刑事手続においても退去強制手続においても,「日本で仕事をしてお金を稼ごうと思い来日した。」,「早くミャンマーに帰りたい。」旨しか供述せず,同手続においては,原告が入管法24条1号(不法入国)に該当する旨の東京入管入国審査官の認定に服し,口頭審理を請求しない旨を記載した口頭審理放棄書に署名したこと,②原告は,有効な旅券を所持していなかったので,ミャンマーに帰国するために自らの出国の経緯等を記載した書面をミャンマー大使館に提出して同大使館からトラベルドキュメントの発行を受けて,同16年2月10日には帰国する予定であったこと,③ところが,原告は,同月5日にミャンマーにいる母と電話で話をして初めて,帰国すれば迫害を受けるおそれがあることを明確に認識するに至ったので,ミャンマーに帰国しないことを決めたとして,入管の職員にその旨を伝えたところ,入管の職員から,もう一度原告の母に電話を架けるよう言われたが,同月6日,原告の母からは,「帰ってこない方がいい」と言われた旨を入管の職員に報告した上,同月17日,本件難民認定甲請を行ったことが認められる。以上の経過によると,原告には同月5日に至ってミャンマーに帰国するのを取りやめるべき事情が発生したものと考えるのが自然かつ合理的である。
そして,原告は,上記事情として,原告がミャンマー及びタイにおいて政治活動をしていたことを前提に,原告の母から,「MIから原告がいつ帰ってくるかを聞かれた。」という話を聞いた旨主張するのに対し,被告は,原告の主張に係る理由以外に原告がミャンマーに帰国するのを取りやめる理由が考えられないとまでいうことはできない旨主張している。
しかし,ミャンマー国内及びタイにおいてミャンマーの民主化を求める政治運動に従事していたミャンマー国籍を有する者が,ミャンマー及びタイでの活動を取りやめて本邦に入国してから逮捕されるまで12年7月余りが経過し,かつ,かつてはミャンマーに在る同人の実家を週1回くらいの割合で訪れて同人の所在を執ように聞いていたMIも,同人が日本にいることを知った3,4年前からは執ような追及をやめ,その来訪の頻度も月1回くらいの割合となっていたという状況の下において,同人が東京に在るミャンマー大使館からトラベルドキュメントの発行を受けてミャンマーに帰国する日を具体的に決めた直後に,MIが同人の実家を訪れて同人がいつころ帰ってくるかを尋ねたことを知れば,同人がかつて行っていた政治活動を理由にミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあると考えることは十分に理由のあることであると考えられる。
したがって,原告がミャンマー及びタイにおいて政治活動をしていた旨の原告の供述が,具体的で一貫していて個々の供述に大きな食い違いがなく,他の証拠とも大きな食い違いが認められなければ,上記①から③までの経過それ自体が原告の上記供述を裏付けるものということができ,上記供述には十分な信用性を認めることができる。
(エ) そこで,原告がミャンマー及びタイにおいて政治活動をしていた旨の原告の供述について検討する。
a 証拠(甲25,乙21から23,原告本人)によると,原告がミャンマー及びタイにおいて政治活動をしていた旨の原告の供述内容は具体的であると評価することができる。
b(a) 被告らは,A1が,その供述録取書(以下「本件供述録取書」という。甲28)において,昭和63年3月16日に起こったタダピュー事件の際に,原告の友人でもあるA27と一緒に逃げている途中で同人が警察に逮捕され,以後行方不明となっている旨供述しているのに対し,原告は,その陳述書(以下「本件陳述書」という。甲25)において,タダピュー事件の際にA1と行動を共にしていた旨供述しているものの,A27について一切言及していないばかりか,その本人尋問において,原告と共に活動していた仲間でクーデター前に逮捕された者はいない旨供述している旨主張する。
(b) 確かに,A1及び原告は,被告らが主張するとおりの供述をしている。
しかし,A1は,本件供述録取書において,A27はA1の親しい友人であり,原告の友人でもある旨供述していること,友人といっても,その付き合いの仕方及び付き合いの濃淡は千差万別であることに照らすと,原告が,A27を,友人ではあるものの,原告と共に活動していた仲間とみていなかったとすれば,A1がA27に言及しているのに対し,原告がA27に言及していないことは十分にあり得るものと考えられるから,A27に関するA1の供述と原告の供述との相違を重視することはできない。
c(a) また,被告らは,原告が,原告のミャンマーでの活動及び組織への加入状況等について,本件陳述書において,コー・ダウン・ニーやバカタ以外の組織について全く触れていなかったが,その後,本人尋問において,最初に加わった組織がPLFという組織であり,その後PLFが名前を変えてコー・ダウン・ニーになった旨の供述に転じているが,これは,A1が,その報告書(以下「本件報告書」という。甲27)において,コー・ダウン・ニーやバカタという組織以外の組織について全く触れていなかったが,本件供述録取書において,同年6,7月ころにPLFを結成し,自分が書記に,原告が執行委員会のメンバーに,それぞれ就任した旨の供述に転じていることに基づくものであり,このような原告の供述の変遷によれば,原告は,A1の供述に合わせる形で供述しているものと推認される旨主張する。
(b) 確かに,A1及び原告の各供述には,被告らが主張するとおりの変遷が見られる。
しかし,本件報告書は,原告代理人弁護士鈴木雅子(以下「鈴木弁護士」という。)が電話で英語により直接A1から聞いた話を取りまとめた書面であるのに対し,本件供述録取書は,鈴木弁護士が来日したA1からビルマ語の通訳人を介して話を録取した書面であるから,本件報告書におけるミャンマーでの活動及び組織への加入状況等に関する原告の供述が本件供述録取書において変更されていることをもって,そのことが不合理であるとまでは認め難い。
また,原告にとってみれば,昭和63年8月の前後の出来事は,本件陳述書が作成された平成17年8月30日から数えて約17年前のことであるから,原告が記憶違いをしていることも十分にあり得るものと考えられ,そうすると,原告が本件供述録取書を読んで,当時の記憶が喚起されて,本人尋問において従前の供述を修正したということも十分にあり得るものと考えられる。
したがって,被告らが主張するA1及び原告の各供述の変遷を重視することはできない。
d(a) また,被告らは,A1が,本件供述録取書において,PLFという組織の名称をコー・ダウン・ニーに変えたのは昭和63年8月8日に行われたデモの前であった旨供述していたが,その後,その証人尋問において,PLFという組織の名称をコー・ダウン・ニーに変えたのは同日に行われたデモの後であった旨の証言に転じている旨主張する。
(b) 確かに,A1の供述には,被告らが主張するとおりの変遷が見られる。
しかし,①原告は,本件陳述書において,昭和63年8月8日に行われたデモの前にはコー・ダウン・ニーと名乗っていた旨供述していること,②原告は,その本人尋問において,PLFの名称をコー・ダウン・ニーに変更した時期について明確な供述をしていないことも考え併せると,被告らが主張するA1の供述の変遷を重視するのは相当ではない。
e(a) また,被告らは,原告が,バカタの活動状況について,本件難民認定申請に係る申請書(以下「本件難民認定申請書」という。乙21)において,昭和63年8月8日以前に自分とA1が秩序維持及び警備の任務に就いて活動していた旨供述していたが,その後,本件陳述書において,同月10日に組織の構成が決定され,原告が保安規律委員会の運営委員会の委員となったことを知らされた旨の供述に転じている旨主張する。
(b) 確かに,原告の供述には,被告らが主張するとおりの変遷が見られる。
しかし,原告にとってみれば,昭和63年8月の前後の出来事は,本件難民認定申請書を作成した平成16年2月17日から数えて約15年6月前のことであるから,原告が記憶違いをしていることも十分にあり得るものと考えられ,そうすると,原告が他の資料を読むなどして,当時の記憶が喚起されて,本件陳述書において従前の供述を修正したということも十分にあり得るものと考えられる。したがって,被告らが主張する原告の供述の変遷を重視することはできない。
f(a) また,被告らは,A1が,本件報告書において,自分と原告はセカンドチェアの立場にあった旨供述していたが,その後,本件供述録取書において,自分と原告を含めた6人が運営委員会を構成していた旨の供述に転じ,さらに,その証人尋問において,自分と原告は2人とも運営委員会のメンバーでセカンドチェアではない旨の供述に転じている旨主張する。
(b) 確かに,A1の供述には,被告らが主張するとおりの変遷が見られる。
しかし,前示のとおり,本件報告書は,鈴木弁護士が電話で英語によりA1から聞いた話を取りまとめた書面であるのに対し,本件供述録取書は,鈴木弁護士が来日したA1からビルマ語の通訳人を介して話を録取した書面であることにかんがみれば,被告らが主張するA1の供述の変遷を重視することはできない。
g(a) また,被告らは,原告が,ラノーン市に到着するまでの経緯として,会議開催日,ミャンマー出国日,軍事クーデターを知った日及びラノーン市到着日について,本件難民認定申請書においては,昭和63年8月14日,同月15日,同月17日及び同月29日と供述していたが,訴状,原告の平成16年4月30日付け供述調書(乙22)及び本件陳述書等並びに本人尋問において,軍事政権が全権を掌握した旨の国営放送が行われた同年9月18日を基準とする主張及び供述に転じている旨主張する。
(b) 確かに,原告の供述には,被告らが主張するとおりの変遷が見られる。
しかし,原告にとってみれば,昭和63年8月の前後の出来事は,本件難民認定申請書を作成した平成16年2月17日から数えて約15年6月前のことであるから,原告が記憶違いをしていることも十分にあり得るものと考えられ,そうすると,原告が他の資料を読むなどして,当時の記憶が喚起されて,訴状,原告の平成16年4月30日付け供述調書(乙22)及び本件陳述書等並びに本人尋問において従前の供述を修正したということも十分にあり得るものと考えられる。したがって,被告らが主張する原告の供述の変遷を重視することはできない。
h(a) また,被告らは,タイに派遣された目的等に関する原告の主張並びに原告及びA1の各供述等によれば,タイヘの派遣は特定の反政府武装勢力との接触を予定していたものではなく,事前に何らの手配も行わないまま,単に1か月たてばミャンマーに戻ってくるという漠然とした状況でタイに向けて出国したというにすぎない上,軍がクーデターを起こしたことを知るや,A31等に相談等することなく,出国したメンバーの意思だけでバカタとは別にFODBSを結成し,武力行使の準備ではなく学生に食糧等を手配するという活動に変更したことからすると,タイへの派遣が重大な任務であるとは到底認められず,単に原告はミャンマーから逃げ出したにすぎないものと推測される旨主張する。
(b) しかし,被告らが上記(a)において主張する点を勘案しても,原告のタイへの出国は,原告がミャンマーから逃げ出したにすぎないと推測されるとまでいうことはできない。
i(a) また,被告らは,A1が,本件供述録取書において,ミャンマーを出国した18人のうち間もなくミャンマーに戻ったのは12人である旨供述していたが,その後,その証人尋問においては,ミャンマーに戻ったのは自分と原告を除いた16人である旨の供述に転じているのに対し,原告は,本件難民認定申請書,原告の平成16年4月30日付け供述調書(乙22),本件陳述書及び本人尋問において,ミャンマーに戻ったのは12人である旨供述しており,A1の供述と食い違っている旨主張する。
(b) 確かに,原告の供述とA1の供述との間には,被告らが主張するとおりの食い違いが見られる。
しかし,A1が,本件供述録取書において,ミャンマーに帰国したのは12人である旨供述していることからすると,被告らが主張する原告とA1との間の供述の食い違いを重視することはできない。
j(a) また,被告らは,原告がバンコクに移動した後の事情について,原告が,本件陳述書において,最初は自分もカレン族の支配地域に行くつもりであったが,バンコクでA3に会うために少し残ることとした旨供述し,その本人尋問において,第2回のABSDFの本会議の際にA3と共にABSDFのキャンプに向かうつもりであったが,結局,A3と行動を共にすることとしたのは,同人がABSDFで担当している本来の地域に帰るのに同行しようと考えていたことによる旨供述していたのに対し,A1は,本件報告書において,原告とA3がバンコクに残ったのは,国境での闘争の支援として海外の組織と連絡を取って資金を集めたり医薬品を調達したりするためであった旨供述しており,両者の供述は大きく異なる旨主張する。
(b) 確かに,A1及び原告は,被告らが主張するとおりの供述をしている。
しかし,被告らが上記(a)において主張する点を勘案しても,原告の供述とA1の供述とが大きく異なるとまでいうことはできない。
k(a) また,被告らは,原告が,本件難民認定申請書において,原告がバンコクに滞在中にA1と共にA3及びA5との会見を実現させた旨供述していたが,その後,本件陳述書において,原告のみがバンコクに残り,上記会見を実現させた旨の供述に転じ,さらに,本人尋問において,バンコクでA1と共にA3及びA5らと話合いをした旨の供述に再び転じている旨主張する。
(b) 確かに,原告は,本件難民認定申請書及び本件陳述書において,被告らが主張するとおりの供述をしている。
しかし,原告が,その本人尋問において,バンコクでA1と共にA3及びA5らと話合いをしたという趣旨の供述をしているとは認め難く,そうすると,この点については被告らが主張するとおりの供述の変遷があるということはできない。
そして,原告にとってみれば,昭和63年8月の前後の出来事は,本件難民認定申請書を作成した平成16年2月17日から数えて約15年6月前のことであるから,原告が記憶違いをしていることも十分にあり得るものと考えられ,そうすると,原告が他の資料を読むなどして,当時の記憶が喚起されて,本件陳述書において従前の供述を修正したということも十分にあり得るものと考えられる。したがって,被告らが主張する原告の上記供述の変遷を重視することはできない。
l(a) また,被告らは,原告は,本件陳述書及び本人尋問において,バンコクでA1と別れ,A3と共にABSDFのキャンプに向かおうとしたが,同人がミャンマー政府に帰順してしまったので,国境には行かなかった旨供述しているが,国境での活動を希望していた者の行動としては極めて不自然,不合理な供述であり,原告がABSDFのメンバーにならなかった理由としては全く説得力に欠けるものである旨主張する。
(b) しかし,原告の上記(a)の供述が,原告がABSDFのメンバーにならなかった理由としては全く説得力に欠けるものであるということはできない。原告の上記(a)の供述は,原告がABSDFのメンバーにならなかった理由として十分に理由があることであると考えられる。
m(a) さらに,被告らは,原告と同一の立場にあったA1がその後も国境地帯での活動を継続していたにもかかわらず,A3の帰順やABSDFの分裂の危機などを理由に原告のみがタイを出国したというのは,原告がタイを出国した理由としては不自然であるといわざるを得ない旨主張する。
(b) しかし,原告の上記(a)の供述が,原告がタイを出国した理由としては不自然であるということはできない。原告の上記(a)の供述は,原告がタイを出国した理由として十分に理由があることであると考えられる。
(オ) 以上によれば,原告がミャンマー及びタイにおいて政治活動をしていた旨の原告の供述は,具体的で一貫していて個々の供述に大きな食い違いはなく,他の証拠とも大きな食い違いはないものと認められる。したがって,前記(ウ)の①から③までの経過それ自体が原告の上記供述を裏付けるものということができ,原告の上記供述には十分な信用性を認めることができる。
イ(ア) 原告は,本件異議申立書において,本件旅券の署名欄に他人の署名が記載されていることを理由に,本件旅券が偽造である旨供述し,その本人尋問においても,同様の供述をしている。
(イ) しかし,証拠(乙1)によると,本件旅券の署名欄に記載されている他人の署名とは,本件旅券の3ページの「所持人の署名」欄に記載された原告名義の署名を指しているものと考えられるが,本件旅券の3ページの「所持人の署名」欄に署名がなければ,本件旅券は無効であるにすぎないから,本件旅券の署名欄に他人の署名が記載されていることを理由に本件旅券が偽造であるということはできない。そして,原告が,その供述調書(乙22,26)において,本件旅券はミャンマー政府が発給した正規の旅券である旨供述し,本件陳述書においても,本件旅券がミャンマー政府が発給した正規の旅券であることを前提に,本件旅券の有効期間が経過していた旨供述していたことも勘案すれば,本件旅券はミャンマー政府が発給した正規の旅券であると認めるのが相当である。
2 争点(1)(難民該当性の有無)について
(1) 難民の意義について
ア(ア) 入管法61条の2第1項は,「法務大臣は,本邦にある外国人から法務省令で定める手続により申請があったときは,その提出した資料に基づき,その者が難民である旨の認定(以下「難民の認定」という。)を行うことができる。」と規定している。そして,入管法2条3号の2は,入管法における「難民」の意義を,「難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)第1条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により難民条約の適用を受ける難民をいう。」と規定している。
(イ) 難民条約1条A(2)は,「1951年1月1日前に生じた事件の結果として,かつ,人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって,当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」は,難民条約の適用上,「難民」という旨規定している。
(ウ) 難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条2は,難民議定書の適用上,「難民」とは,難民条約1条A(2)の規定にある「1951年1月1日前に生じた事件の結果として,かつ,」及び「これらの事件の結果として」という文言が除かれているものとみなした場合に同条の定義に該当するすべての者をいう旨規定している。
イ 入管法にいう「難民」とは,入管法2条3号の2,難民条約1条A(2)及び難民議定書1条2を合わせ読むと,人種,宗教,国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために,国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないものをいうこととなる。そして,上記の「迫害」とは,通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって,生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味するものと解するのが相当であり,また,上記にいう「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには,当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに,通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要であると解するのが相当である。
(2) 原告の難民該当性について
ア 原告は,本件退令処分がされた平成16年1月26日当時,本件不認定処分がされた同18年1月25日当時及び本件在特不許可処分がされた同月30日当時,ミャンマーの民主化運動を推し進めるという政治的意見を理由として,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有している旨主張する。
イ(ア) 政治活動といっても,ミャンマー政府が特段注目しているとは思われないものから,不快に感ずるもの,更には脅威に感ずるようなものまで,様々な程度や種類のものを想定することができるところ,前記認定事実によると,①昭和62年の廃貨令をきっかけに起こった民主化を求める学生運動は,同63年のポンモー事件以降日増しに拡大し,学生運動を行っている複数の学生団体が1つになってバカタとして同年8月8日には反政府ゼネストを全国において実現する原動力となったが,原告は,学生運動の指導者の1人となったA3と極めて親しい人物として同人及び他の学生と共にバカタの一員として学生運動を押し進め,バカタがABFSUとして結成された同月28日には,保安規律委員会に置かれた6人から成る運営委員会の委員の1人となっているが,同月18日に軍事クーデターによってミャンマーの全権を掌握して軍事政権を成立させたSLORCは,同月30日にバカタに対し解散を命じている上,その後,ABFSUの議長であったミンコーナイン,その副議長であったA31及びその中央執行委員であったA4は,いずれも逮捕され,10年以上にわたり投獄されたこと,②原告は,同年9月16日には,ミャンマー国軍が政権を握った場合に備えてミャンマーとタイとの国境地帯で戦う準備をする目的でミャンマーを出国してタイに向かうとともに,同月29日に到着したタイのラノーン市では,A1及びA3らと共に,SLORCによる軍事政権の成立によってミャンマーから逃れてくる学生のために食料及び寝床を確保することに努めるとともに,海外民主化ビルマ学生戦線という組織を結成し,機関誌を配って寄付金を集め,それを上記の学生に提供する食料の費用に充てていたこと,③軍事政権は,同年12月31日までに帰国すれば民主化活動の責任は問わない旨の呼び掛けを行い,原告と共にミャンマーを出国した18人のうち12人は,同年11月から同年12月までの間にヤンゴンに戻ったものの,上記12人のうち,ABFSUの保安規律委員会の運営委員会の委員の1人であったA11は,その後逮捕され,数年の刑を宣告されて投獄され,その余の11人は,政治活動をしない旨の誓約書に署名し,毎月1回当局への出頭を義務付けられた上,上記11人のうち,ABFSUの保安規律委員会の運営委員会の委員の1人であったH1は,その後ミャンマーを出国し,ノルウェーで難民として保護され,また,同委員の1人であったA2は,その後音信不通となり,さらに,ABFSUに所属していたA10は,その後ミャンマーを出国し,平成11年ころ,オーストラリアで難民の認定を申請したものの,難民と認定されず,いったんミャンマーに送還され,帰国後,6か月間投獄された後,再びミャンマーを出国し,アメリカにおいて難民として保護されたこと,④しかし,原告は,上記③の呼び掛けには応じず,平成元年2月には活動の場をバンコクに移して同3年まで3年余りにもわたりタイ国内において反ミャンマー政府という立場に立っての政治活動を続けていたことが認められる。また,前記認定事実によると,⑤昭和63年11月1日にミャンマーとの国境で反ミャンマー政府活動を行うことなどを目的として結成されたABSDFに加わっていたA3は,平成元年4ないし6月ころには軍事政権側にくら替えしてミャンマーに帰国し,帰国後は軍事政権に民主化活動家の情報を提供していたものと考えられ,⑥原告がその運営委員会の委員を務めていた当時の保安規律委員会の委員長はA15であったが,同人は,ミンコーナインが逮捕された同年3月23日からA31が逮捕された同3年12月までの間に,SLORCによる軍事政権に帰順しており,帰順後は軍事政権に民主活動家の情報を提供していたものと考えられる。
以上によると,原告のミャンマー本国及びタイにおける活動の内容は,ミャンマー政府にとって,不快なものであったということができ,ミャンマー政府は,同3年ころまでは,原告のミャンマー本国及びタイにおける活動に着目し,これを不快に感じていたものと推認することができる。
(イ) これに対し,前記認定事実によると,①原告は,平成6年8月に結成されたDBSOの初期メンバーとして会議には出席したものの,DBSOが主催するデモ行進及び集会には参加せず,ミャンマーにいる原告の家族に送金するために朝から晩まで働かなければならなくなったことから,同8年ころにはDBSOの活動をやめてしまったこと,②原告は,どうしてもミャンマーとの国境地帯にいるABSDF所属の学生を支援したいと考えて,A1又は同7年に死亡したA22を通じて,原告が日本で働いて得た収入の中から毎月約300米ドルをABSDFあてに送金していたが,ミャンマー国軍が同年にはタイとの国境地帯のほとんどの部分を制圧し,A1もミャンマーとの国境地帯から離れ,同8年6月30日にはタイを出国してオーストラリアに向かったことから,A1がタイを出国した後は,ABSDFあての送金を取りやめたこと,③DBSOは,そのメンバーの多くが日本において難民として認定されているが,DBSOのメンバーの1人であったIは,反政府活動をやめ,在日反政府活動家の情報を提供することを条件に,同10年5月にミャンマーに帰国したが,その直後である同年8月にはDBSOの事務所からDBSOのメンバーのリスト,写真等がなくなっていることが判明したこと,④ミャンマー政府は,日本にあるミャンマー民主化団体の活動を警戒していることが認められる。
そうすると,原告のDBSOにおける活動は同6年8月から同8年ころまでと短期間である上,原告は集会やデモ行進には全く参加しなかったのであり,また,原告のABSDFあての送金も,A1又はA22を通じて行っていることからすると,仮に,IがDBSOのメンバーのリストをミャンマー政府に提供し,かつ,そのリストの中に原告の名前があったとしても,ミャンマー政府が,原告の日本における活動に着目し,これを不快に感じているものと推認することはできない。他にこれを推認するに足りる証拠もない。
(ウ) しかし,①前記認定事実のとおり,原告は,平成12年ころまではMIがしばしば原告の実家に来て,原告がどこにいるかを執ように聞いてくる旨原告の家族から聞かされていたので,日本から原告の写真を送り,原告の母が原告は日本にいる旨答えると,MIの執ような追及がやんだこと,②原告は,身体の具合の悪い母に会いたい思いが強く,3,4年前からはMIの原告の実家に対する来訪の頻度も月1回くらいの割合になっていたことから,ミャンマーに帰国する意思を固め,同16年1月23日,原告が入管法24条1号(不法入国)に該当する旨の東京入管入国審査官の認定に服し,口頭審理を放棄したが,有効な旅券を所持しておらず,ミャンマーに帰国するには自らの出国の経緯等を記載した書面をミャンマー大使館に提出して同大使館からトラベルドキュメントを発行してもらう必要があったので,原告は,自らの政治活動歴を隠し,パスポートの番号もいつ来日したかも覚えていないという虚偽の内容の書面をミャンマー大使館に提出して,同大使館からトラベルドキュメントの発行を受け,同16年2月10日には帰国する予定であったこと,③ところが,原告が同月5日にミャンマーにいる母と電話で話をしたところ,「MIが最近原告の実家を訪ねてきて,原告がいつ帰ってくるかを聞かれたので,危険だから帰ってこないように」と言われたことを総合すると,原告は,自分が主体的にミャンマーの民主化運動を押し進めていたのは,日本に入国した同3年3月31日以前のミャンマー本国及びタイでのことであり,それは,原告が逮捕された同15年11月17日から数えて12年7月以上も前のことである上,同12年ころ以降は原告の実家に対するMIの執ような追及もやんでいたことから,ミャンマー政府はもはや自分には関心を有しておらず,したがって,自分がミャンマーに帰国しても,要人に賄ろを渡すなどすれば逮捕等されずに済むと考え,そこで,ミャンマーに帰国することにしたところ,ミャンマー政府は,ミャンマー大使館からの情報として,原告が同大使館からトラベルドキュメントの発行を受けて近々ミャンマーに帰国することを知って,MIを原告の実家に派遣して原告の帰国を確認させたと考えることができ,そうであるとすると,前記(ア)及び(イ)において判断し,説示したことも勘案すれば,ミャンマー政府は,同16年1,2月の時点においても,原告のミャンマー本国及びタイにおける活動に着目し,これを不快に感じていたものと推認することができる。そして,他に上記推認を左右するに足りる証拠はない。
(エ) また,前示のとおり,原告は,来日してからはミャンマーの民主化運動を押し進める活動として特に目立った活動をしておらず,日本において働いて得た金をミャンマーにいる原告の家族に送金することに専念していたことからすれば,原告が,上記(ウ)のとおり,ミャンマー政府はもはや自分には関心を有しておらず,したがって,自分がミャンマーに帰国しても,要人に賄ろを渡すなどすれば逮捕等されずに済むと考えることは十分に理由のあることであるということができ,そうであるとすると,原告としては,平成16年2月5日にミャンマーにいる母と電話で話をした際に,「MIが最近原告の実家を訪ねてきて,原告がいつ帰ってくるかを聞かれたので,危険だから帰ってこないように」と言われ,この時点において初めて,ミャンマー政府が,原告のミャンマー本国及びタイにおける活動に注目し,かつ,上記の時点においてもいまだにこれを不快に感じているものと推測したものと認めることができ,かつ,原告がそのように推測したことについては合理的理由があるというべきである。
(オ) そして,本件全証拠を精査しても,その後,ミャンマー政府が原告のミャンマー本国及びタイにおける活動に注目することをやめたと認めるに足りる証拠はない。
ウ 以上によれば,本件退令処分がされた平成16年1月26日当時,本件不認定処分がされた同18年1月25日当時及び本件在特不許可処分がされた同月30日当時,原告は,ミャンマーの民主化を推し進めるという政治的意見を理由として,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有しているものと認めるのが相当である。
エ これに対し,前記認定事実によると,①ミャンマー政府は,平成7年4月25日付けで,原告名義の正規の本件旅券を発給していること,②原告は,ミャンマーにいる原告の母,原告の長姉の家族,原告の次兄及び原告の2番目の姉の生活費として,日本で働いて得た収入の中から多いときで毎月5万円から7万円,少ないときで2,3万円を送金していたことが認められ,また,③既に判示したところによると,原告の本邦入国後の状況を見ても,原告に迫害を恐れる者の切迫感は全く感じられないのであり,現に原告は,原告の実家に対する執ような追及がやんだ同12年ころ以降はミャンマー政府が原告の活動を特段注目していないものと考えていたということができ,原告が本件退令処分時においてミャンマーに無事に帰国することができると考えていたことは明らかであり,また,④仲間が著名であるというだけでは,原告自身について政治活動を理由に迫害を受けるおそれがあるなどと認めることはできないのであり,また,⑤前記認定事実のほか,弁論の全趣旨によると,原告自身がいわゆる指導者として高い政治意識を持って積極的にかつ前面に出た活動を行っていたということはできないのであり,さらに,⑥前記認定事実のほか,弁論の全趣旨によると,原告が,ミャンマー国内における政治活動を理由にその当時にミャンマー政府から逮捕,拘留その他の身柄の拘束を受けたことはないことが認められる。
そして,上記①から⑥までの事実ないし事情は,原告が迫害を受けるおそれなど有していなかったことや,ミャンマー政府が原告の活動を特段重視していなかったことの1つの徴表と見ることができなくはない。
しかし,前記認定事実のとおり,ミャンマー政府から原告名義の正規の本件旅券の発給を受けた同7年4月25日当時,原告は日本にいたのであり,上記旅券の発給の手続をしたのは原告の母であって,本件全証拠を精査しても,原告の母がどのような経緯で上記旅券の発給を受けたかは不明であるから,上記①の事実は,上記ウの判断を左右するに足りる決定的な事実であるとまでいうことはできない。
また,上記②の事実は,原告のミャンマー本国及びタイにおける活動後のことであり,原告のミャンマー本国及びタイにおける活動と両立し得るものである上,前示のとおり,原告が難民に該当すると認められるのは,ミャンマー政府が原告のミャンマー本国及びタイにおける活動に着目し,これを不快に感じていたものと推認されることによるのであるから,上記②の事実は,上記ウの判断を左右するものではない。
また,既に判示したとおり,原告が上記③のとおり考えていたことは十分に理由のあることであり,原告が上記③のとおり考えていたにもかかわらず,ミャンマー政府が原告のミャンマー本国及びタイにおける活動に着目し,これを不快に感じていたものと推認されるからこそ,原告が難民に該当すると認められるのであるから,上記③の事実は,上記ウの判断を左右するものではない。
また,既に判示したところによると,原告が難民に該当すると認められるのは,原告の仲間が著名であることによるものではないから,上記④は失当であるといわざるを得ない。
また,既に判示したところによると,上記⑤は,上記ウの判断を左右するに足りる決定的な事情に当たるとまでいうことはできない。
さらに,上記⑥は,そもそも上記ウの判断を左右するに足りる決定的な事実に当たるとまでいうことはできない。
オ 以上によれば,原告については,本件退令処分がされた平成16年1月26日当時,本件不認定処分がされた同18年1月25日当時及び本件在特不許可処分がされた同月30日当時,かつてミャンマー本国及びタイにおいて反政府活動をしていたことを理由として,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有していたものと認めることができる。したがって,原告は,本件退令処分当時,本件不認定処分当時及び本件在特不許可処分当時,入管法に規定する「難民」に該当していたものということができる。
3 本件不認定処分の適法性について
以上によると,原告には難民該当性を認めることができるから,本件不認定処分は違法であるといわざるを得ない。したがって,本件不認定処分は,取消しを免れないというべきである。
4 争点(2)(本件退令処分の有効性)について
(1) 入国審査官は,改正前入管法48条1項により改正前入管法24条各号のいずれかに該当すると思料する外国人の引渡しをうけたときには,上記外国人が改正前入管法24条各号のいずれかに該当するかどうかを速やかに審査し,その結果,上記外国人が改正前入管法24条各号のいずれかに該当すると認定したときは,主任審査官にその旨を通知しなければならず(改正前入管法47条2項),上記外国人が上記認定に服したときは,主任審査官は,上記外国人に対し,口頭審理の請求をしない旨を記載した文書に署名させ,速やかに改正前入管法51条の規定する退去強制令書を発付しなければならない(改正前入管法47条4項)が,上記外国人が難民条約に定める難民であるときは,上記外国人を,これを迫害するおそれのある国に向けて送還することはできない(改正前入管法53条3項,難民条約33条1項,拷問等禁止条約3条)。したがって,上記外国人が難民であるにもかかわらず,上記外国人を,これを迫害するおそれのある国に向けて送還する退去強制令書発付処分は違法であるということになる。
(2) ところで,行政処分が法定の処分要件を欠き違法である場合に,当該処分の取消しを求める司法上の救済手続においては,法定の出訴期間の遵守が要求され,その所定の期間を経過した後においては,原則としてもはや当該処分の瑕疵を理由としてその効力を争うことはできないものとされているが,その瑕疵が重大かつ明白で当該処分が無効と評価される場合には,このような出訴期間による制限は課されないものとされている。ここで,無効原因として瑕疵の明白性が要求される理由は,重大な瑕疵による処分によって侵害された国民の権利保護の要請と,これに対するものとしての法的安全及び第三者の信頼保護(換言すれば,処分を無効とすることによって侵害される既得の権利の保護)の要請の調和を図る必要性にあるということができる。そうであるとすると,一般に,退去強制令書発付処分が当該外国人に対してのみ効力を有するもので,当該処分の存在を信頼する第三者の保護を考慮する必要が乏しいこと等を考慮すれば,当該処分の瑕疵が入管法の根幹についてのそれであって,出入国管理行政の安定とその円滑な運営の要請を考慮してもなお,出訴期間の経過による不可争的効果の発生を理由として当該外国人に処分による重大な不利益を甘受させることが著しく不当と認められるような例外的な事情のある場合には,前記の過誤による瑕疵が必ずしも明白なものでなくても,当該処分は当然無効と解するのが相当である(最高裁昭和42年(行ツ)第57号同48年4月26日第一小法廷判決・民集27巻3号629頁参照)。
(3) これを本件についてみるに,本件退令処分は,難民である原告を,これを迫害するおそれのあるミャンマーに送還するというものであるが,我が国が難民条約及び拷問等禁止条約を批准し,難民条約33条1項を前提に改正前入管法53条3項を設けていること,並びに改正前入管法上の難民の意義,性質に照らせば,難民である外国人を,これを迫害するおそれのある国に向けて送還してはならないことは,改正前入管法上自明のことであるから,本件退令処分は,難民である原告を,これを迫害するおそれのある国に向けて送還しようとする点において,改正前入管法の根幹についての重大な過誤というべき瑕疵を有するものといわなければならない。
そうすると,本件退令処分には,出入国管理行政の安定とその円滑な運営の要請を考慮してもなお,出訴期間の経過による不可争的効果の発生を理由として,難民である原告に,本件退令処分によって原告をその迫害を受けるおそれのある国に送還するという不利益を甘受させることが,著しく不当と認められるような例外的な事情があるというべきである。したがって,前記の過誤による瑕疵が明白なものでなくても,本件退令処分は当然無効と解するのが相当である。
(4) 以上によれば,本件退令処分は無効であるといわざるを得ない。したがって,本件退令処分が無効であることを確認すべきである。
5 争点(3)(本件在特不許可処分の適法性)について
(1) 前記認定事実及び既に判示したところによると,①原告が本件難民認定申請をしたのは,本邦に上陸した平成3年3月31日から12年10月余りが経過した同16年2月17日であること,②原告の難民認定申請が遅れたことについてやむを得ない事情があると認めることはできないこと,③原告は,本邦に在る間に難民となる事由が生じたものではなく,原告の生命,身体又は身体の自由が難民条約1条A(2)に規定する理由によって害されるおそれのあった領域であるミャンマーから直接本邦に入ったものではないことが認められる。
そうすると,原告は,入管法61条の2の2第1項1号及び2号に該当するものと認められるので,原告には定住者の在留資格の取得は許可されないことになる。
(2) そこで,入管法61条の2の2第2項に基づいて原告に在留特別許可を付与しなかった本件在特不許可処分が違法であるか否かについて検討する。
ア 入管法50条1項3号は,入管法49条1項所定の異議の申出を受理したときにおける同条3項所定の裁決に当たって,異議の申出が理由がないと認める場合でも,法務大臣は在留を特別に許可することができるとし,入管法50条3項は,この許可をもって異議の申出が理由がある旨の裁決とみなす旨定めている。
ところで,このような在留特別許可を付与するか否かの判断は,法務大臣の極めて広範な裁量にゆだねられていると解すべきである(最高裁昭和50年(行ツ)第120号同53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)。そして,その裁量権の範囲は,在留期間更新許可の場合よりも更に広範であると解するのが相当である。
したがって,上記の在留特別許可を付与するか否かについての法務大臣の判断が違法とされるのは,その判断が全く事実の基礎を欠き,又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであるなど,法務大臣が裁量権の範囲を逸脱し,又は濫用した場合に限られるというべきである。
イ そこで,以上の判断の枠組みに従って,原告に在留特別許可を付与しないとした法務大臣の判断に裁量権の逸脱又は濫用があるといえるか否かについて検討する必要があるところ,原告は,入管法2条3号の2,難民条約1条に規定する「難民」に該当するというべきであるから,これを前提として,本件在特不許可処分の取消原因について検討する。
(ア) 原告は,前記前提となる事実のとおり,他人名義の偽造旅券を用いて,東京入管成田支局入国審査官から上陸許可を受けて,本邦に不法に上陸した者で,その後,引き続き本邦に不法に在留していた者であるから,入管法24条1号所定の退去強制事由に該当するというべきである。
(イ) しかしながら,入管法61条の2の2第2項の規定ぶり及び入管法上の難民の意義,性質からすると,当該外国人が入管法上の難民に当たるか否かは,入管法61条の2の2第2項に基づく処分をするか否かについて判断する場合に当然に考慮すべき極めて重要な考慮要素であるというべきである。
ところが,被告国の本件訴えにおける主張からすれば,法務大臣が原告が入管法上の難民に該当する者であることを考慮せずに本件在特不許可処分を行ったことは明らかである。すなわち,本件在特不許可処分は,原告が入管法上の難民に該当するという当然に考慮すべき極めて重要な要素を一切考慮せずに行われたものといわざるを得ない。
したがって,本件在特不許可処分は,その裁量権の範囲を逸脱する違法な処分というべきである。
(3) 以上によれば,本件在特不許可処分は,取消しを免れないというべきである。
6 結論
よって,原告の請求は,いずれも理由があるからこれを認容し,訴訟費用の負担につき,行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条,65条1項本文を適用して,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 杉原則彦 裁判官 鈴木正紀 裁判官 松下貴彦)
別紙1
1 原告の主張
(1) ミャンマーの一般情勢
ア ミャンマーにおける政治状況の変遷
(ア) ミャンマーでは,昭和37年,ネ・ウィンが軍事クーデターにより全権を掌握し,ビルマ社会主義計画党によってミャンマーを一党支配した。同63年3月,ヤンゴン工科大学の一部の学生が体制に対して命懸けの抵抗を始め,同年8月後半から同年9月前半にかけて最も民主化運動が高揚した。しかし,同月18日,ミャンマー国軍の幹部20名を構成員とする国家法秩序回復評議会(以下「SLORC」という。)による軍事政権の成立が宣言され,それまで建前上は政治の表舞台に立つことがなかったミャンマー国軍が政治権力を行使することになった。
(イ) 平成2年5月27日,ミャンマーにおいて30年振りに複数政党が参加して実施された総選挙において,国民民主連盟(以下「NLD」という。)が軍事政権の後押しした民族統一党(以下「NUP」という。)に圧勝したにもかかわらず,SLORCは,NLDに政権を委譲しなかった。軍事政権は,NLDを合法的な政党と認めてはいるものの,その日常の政治活動を阻止し,明白な法的根拠のないままに国内各所の多くの党事務所を閉鎖したり,厳しい治安対策と脅威によって政治活動を抑圧している。同15年5月30日には,アウンサンスーチーらNLD党員が襲撃されるというディペイン事件があり,アウンサンスーチーらNLD党員が軍施設等に拘束され現在に至っている。現在も,NLDのメンバーらや国民の政治活動等の自由には制約が課されたままである。
イ ミャンマーにおける人権の抑圧の状況
(ア) ミャンマーでは,国民及び政治活動家を尋問のために家族に通知することなく逮捕するので,これらの者が数時間から数週間にわたり行方不明となることがある。
(イ) ミャンマーでは,拘留者を尋問するときの手段として拷問を用いている。
(ウ) 司法機関は行政機関から独立しておらず,政治的な裁判の場合には,裁判は公開されていない。
(エ) ミャンマー政府は,多くの国民の移動及び活動を綿密に監視しており,治安部隊関係者は,選択的に,私的な通信及び手紙を遮り,無令状で私有地及びその他の財産の捜索を行っている。
(オ) ミャンマーには,緊急事態法,非合法団体法,国家保護法,印刷出版登録法及びその改正法,1985年ビデオ法等,多くの政治犯を生み出すことを可能にする法律が存在する。ミャンマーにおいては,反政府の立場にある者を様々な法律を使って極めて簡単に処罰することが可能となっており,現に,これらの法律により多くの者が政治犯として捕らえられている。
(カ) ミャンマーでは,拷問や虐待が制度化されており,軍情報部員,刑務所の看守や警察官は,政治的理由による拘留者を尋問するときに,また,暴動をけん制するための手段として,拷問や虐待を用いている。治安部隊は,情報を引き出したり,政治犯や少数民族の人々を罰したり,軍事政権に批判的な人々に恐怖を植え付ける手段として,拷問を用いている。
(2) 原告の個別的事情
ア ミャンマーにおける活動状況
(ア) 原告は,ヤンゴン大学の学生であった昭和62年,廃貨令をきっかけに大学構内で演説をしたり,啓もう冊子を配布したりするなどして民主化活動に参加するようになったが,同大学の学長から今後同様の活動をしない旨を誓約させられ,活動すれば退学させる旨言い渡され,原告の母も始末書に署名させられた。
(イ) 原告は,昭和63年にポンモー事件が起きた際にも,友人たちとデモを組織するなどした。そのころ,原告は,A3及びA4と知り合い,共に活動するようになった。
(ウ) A3は,昭和63年6月半ば,3日間連続で学生に向かって演説を行った。その際,原告及びA1は,演説を行っているA3の脇に構え,同人の演説の終了後には学生と一緒にシュプレヒコールを上げるなど,活動を盛り上げていた。しかし,政府は,学生による民主化活動(以下「学生運動」という。)に対する弾圧を強めてきたので,原告及びA1は,しばらくの間姿を隠しながら,冊子を配布したり,スローガンを記したカードを配るなどして,学生活動を続けた。原告は,A1,H,A15らと共に,「コー・ダウン・ニー」(赤い戦うクジャクの意)というグループを作って,人目に付かないように口コミで広めるという方法により大学生,高校生,中学生及び一般市民にデモへの参加を呼び掛けた。
(エ) 昭和63年8月8日,学生,労働者,公務員,農民らが参加した大規模なデモが行われたが,ミャンマー国軍は,デモ隊に発砲し,多数の死傷者が出た。
(オ) 民主化活動を行っている学生の中に,以前からある学生組織を統合して新たな組織の発足を目指す動きが生まれたことから,原告は,昭和63年8月9日以降,A15の指示を受けて,人目に付かないように警戒しながら,新たな組織への参加を呼び掛けるなどした。同月28日,学生連盟結成大会が開催され,ヤンゴン大学学生連盟などを母体として「バカタ」(全ビルマ学生連盟連合又は全ビルマ学生連盟(以下「ABFSU」という。)などと呼ばれている。)が結成された。原告は,学生連盟結成大会の警備を担当した。
(カ) 昭和63年9月に入って,クーデターのうわさが流れるようになると,A4,H,A1,A31,A15及び原告らは,クーデターとなれば武力を行使しなければならないかもしれないと話すようになった。A15及びA31は,同月15日,会議を招集し,約30人が集まって,タイにおいて反政府武装革命勢力と接触し,武器の使用方法を習って再びミャンマーに戻ってくること,それに賛同することができる者は翌朝5時にヤンゴン市の西方にあるチーミーダインの岸辺に集まって船に乗ることを決めた。原告を始めとする学生15名,地元の交通案内人2名及び通訳兼船に詳しい者1名,合計18名が同月16日午前5時に集まり,同日午前8時,船でコータウンに向かったが,同月18日午後4時,ミェイの岸辺に到着した際にラジオでミャンマー国軍によるクーデターの発生を知った。原告らは,同月19日,ベイに到着し,さらにコータウンに向かおうとしたが,その手前にあるサダッチ島で国民登録証を持っているヤンゴン在住の学生はすべて捕まっていることを知ったので,コータウンに行くことをあきらめ,チャウッカ村を経由して,同月29日午前6時,タイのラノーン市に到着した。
イ タイにおける活動状況
(ア) 昭和63年9月18日に軍事政権が成立すると,ミャンマーからラノーン市に逃れてくる学生が急増し,原告らは,それらの学生のために食料及び寝床を確保することに努めた。原告は,A3らと共に,海外民主ビルマ学生戦線(FRONT OF OVERSEA DEMOCRATIC BURMESE STUDENTS)という組織を結成し,A28という名で「ビルマを向上させたい。」という記事を書いてラノーン市で最初に発行した機関誌に載せた。原告は,その機関誌をラノーン市,コータウン市,ミェイ市及びヤンゴン市で配って寄付金を集め,それを上記の学生に提供する食料の費用に充てた。ラノーン市には500人を超える学生がミャンマーから逃れてきていた。
(イ) その後,軍事政権は,昭和63年12月31日までに帰国すれば学生運動の責任は問わない旨の見解を発表し,原告と共にミャンマーを出国した18名のうち12名は,ヤンゴンに戻った。しかし,その12名は,その後逮捕され,厳しい尋問を受け,軟禁状態に置かれたり,投獄されたりした。
(ウ) A1は,ヤンゴンに戻らずに,全ビルマ学生民主戦線(以下「ABSDF」という。)が本拠を置いていたカレン族支配地域に向かい,ABSDFの中央執行委員として活動を続けた。原告も,ヤンゴンに戻らずに,バンコクで政治活動を続け,平成元年には学生運動の指導者であったA3,A5及びFTUBの現在の書記長であるA29との会談を実現させた。しかし,A3が,その後軍事政権側にくら替えし,軍事政権の保護の下にミャンマーに帰国したため,原告の活動はすべて軍事政権に伝わってしまったものと考えられる。
(エ) 原告は,ABSDFに入って活動することを希望し,平成元年11月に行われたABSDFの結成2周年の総会に出席する予定であった。しかし,原告と極めて親しかったA3が軍事政権側にくら替えしたため,原告がABSDFに参加することは困難となった。原告は,同年から同3年までバンコクで政治活動を続け,ミャンマー大使館の前でデモをしたり,友人から寄付を集めてABSDFなどミャンマーとの国境地帯で活動する学生を援助するなどしていた。そのころ,ミャンマー国内では多くの学生が連行されており,原告は,ミャンマーからタイに来た原告のおじや友人から,原告の実家や友人の家に連日MIが尋問に来ているという話を聞かされた。
(オ) 原告は,平成3年,タイを出国することを決意し,ブローカーから他人名義の偽造旅券を取得して,同年3月31日,日本に入国した。
ウ 日本における活動状況
(ア) ビルマ民主学生連盟(以下「DBSO」という。)は,平成6年8月に結成され,以後,世界各地にあるミャンマーの民主化青年組織と連絡を取りながらミャンマーの民主化のために日本でデモ行進や集会を行ったり,ABSDFなどミャンマーとの国境地帯で活動する団体に資金を送金するなどの援助を行ったりしており,日本におけるミャンマーの民主化活動の中心的役割を担ってきた。DBSOは,同9年6月,ミャンマーの民主化のための活動団体である8888と統合してビルマ解放学生同盟(以下「SOLB」という。)となり,SOLBは,同12年12月,ビルマ青年ボランティア協会(以下「BYVA」という。),在日ビルマ人協会(以下「BAIJ」という。)及び民主主義と発展のための研究グループ(以下「SGDD」という。)と共にビルマ民主化同盟(以下「LDB」という。)となった。
(イ) ①DBSOの一員であったIが仙台で職務質問されて不法残留であることが発覚して逮捕されたり,DBSOの一員であったE及びDが逮捕されたりしたことについて,ミャンマーの政府系の雑誌「ミエキンティッ」1998年3月号は,「デモクラシー自転車泥棒」というタイトルで,DBSOに対する悪意ないし敵意に満ちた記事を掲載し,その記事の末尾にはDBSOの住所としてE及びDの住所が記載されていたこと,②Iは,反政府活動をやめ,在日反政府活動家の情報を提供することを条件に,平成10年5月にミャンマーに帰国したが,その直後である同年8月にはDBSOの事務所からDBSOのメンバーのリスト,写真等がなくなっていることが判明しており,Iが上記書類を持ち出して軍事政権に提供した可能性があること,③ミャンマー政府がミャンマー国内における爆破事件は日本の民主化団体のメンバーによるものであるなどとして,日本のミャンマーの民主化団体の活動を警戒していることを総合すると,ミャンマー政府がDBSOの詳細を把握していることは確実である。
(ウ) 原告は,DBSOの初期メンバーであり,現在はLDBのメンバーとして活動している。原告は,DBSOで共に活動していたD及びEから,日本において難民申請をした方がよいと言われていたが,できれば難民申請はしたくないという思いが強かったので,難民申請はしなかった。
(エ) 原告は,平成12年ころまでは,MIが原告の実家に来て,原告がどこにいるのかを執ように聞いてくる旨原告の家族から聞かされていた。そこで,原告が日本から原告の写真を送り,原告の母が原告は日本にいる旨答えると,MIの執ような追及はやんだ。
(オ) 原告は,平成15年11月17日に逮捕され,有罪判決を受けて東京入管に移されたが,身体の具合の悪い母に会いたい思いが強く,ここ数年はMIも原告の実家に来ない状況が続いていたことから,ミャンマーに帰国する意思を固め,同16年1月23日には口頭審理を放棄した。原告は,有効な旅券を所持しておらず,ミャンマーに帰国するには自らの出国の経緯等を記載した書面をミャンマー大使館に提出して同大使館からトラベルドキュメントを発行してもらう必要があったので,原告は,自らの政治活動歴を隠し,パスポートの番号もいつ来日したかも覚えていないという虚偽の内容の書面をミャンマー大使館に提出した。しかし,原告は,同年2月5日にミャンマーにいる母と話をしたところ,「MIが最近原告の実家を訪ねてきて,原告がいつ帰ってくるかを聞かれたので,危険だから帰ってこないように」と言われ,帰国すれば迫害を受けるおそれがあることを明確に認識するに至り,同月17日,本件難民認定申請を行った。
(3) 原告の難民該当性について
前記(1)のミャンマーの一般情勢及び上記(2)の原告の個別的事情によれば,原告には,ミャンマー本国,タイ及び本邦において反政府活動をしていたことを理由として,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖が存在するというべきであるから,原告は「難民」に該当する。
2 被告らの主張
(1)ア 原告は,稼働の目的で,他人名義の偽造旅券を行使して本邦に不法に入国し,13年以上も経過して不法在留の罪で刑事処分に処せられたものであり,刑事手続においても,本件退令処分時においても,何ら自らの難民該当性に関する申立てを行っておらず,退去強制手続において早期帰国を希望する旨供述した上で口頭審理を放棄しており,法務大臣に在留特別許可を求めることすらしていない。
イ これに対し,原告は,その供述調書(乙22)及び本人尋問において,ミャンマーに無事に帰国するために政治活動に係る供述を避けた旨供述する。しかし,本邦の捜査機関等に対して政治活動の事実を秘匿することと,ミャンマーに帰国することによる危険,すなわち,ミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあることとの間に関係があることを認め得る合理的な理由は全くないから,原告の上記供述は,刑事手続及び退去強制手続において難民である旨の主張を一切していなかったことの合理的説明とは認められない。
ウ また,原告が本件退令処分時においてミャンマーに無事に帰国することができると考えていたことは明らかであり,そうすると,原告が「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を有していたような状況であったとは到底認め難い。
エ さらに,原告は,その本人尋問において,ミャンマー政府に政治活動をしていたことを知られている可能性があることは考えていたが,金を渡したりミャンマーにいる友人に頼んだりすれば,帰国することができると考えていた旨供述しているが,これは,帰国の意思を表明したことと難民該当性に矛盾を生じさせないために述べたものと考えられ,到底信用することはできない上,仮に,原告の上記供述内容を前提としても,原告自身が,自身の活動に対するミャンマー政府の関心の度合いを「何とかなる」程度と考えていた,すなわち,迫害を受けるおそれは大きくないと考えていたことを裏付けるものであるということができる。
(2)ア 原告のミャンマーでの活動については,これに関する原告の主張及び供述は,これを裏付ける客観的な証拠がない。
イ また,原告のミャンマーでの活動に関する原告及びA1の各供述は,その内容に変遷や矛盾があって,到底信用することができない。
ウ(ア) さらに,原告の主張及び供述に係る原告のミャンマーでの活動の内容からすると,仮に,その主張及び供述に係る原告のミャンマーでの活動が事実であったとしても,これらを理由として原告が積極的な反政府活動家としてミャンマー政府から関心を寄せられていたとは到底考えられない。
(イ) これに対し,原告は,一緒に活動してきた仲間が著名であること,PLFを立ち上げたメンバーで,10人くらいの執行委員会のメンバーであったこと,バカタにおいても中心的な人物であったこと,バカタの重大な任務を担ってタイに派遣されたことなどを主張し,もって,原告が当時の政治活動において重要な役割を果たしていた旨主張するもののようである。
しかし,仲間が著名であるというだけでは,原告自身について政治活動を理由に迫害を受けるおそれがあるなどと認めることはできず,運営委員会のメンバーであったことやタイへの派遣等についても,活動の主要メンバーと認められるのは原告以外の者であって,原告自身が高い政治意識を持って積極的にかつ前面に出た活動を行っていたと認めるに足りる証拠はない。また,原告が,当時の政治活動を理由にミャンマー政府から逮捕,拘留その他の身柄の拘束を受けたことはない旨自認していることからすると,原告がその当時にミャンマー政府,特にクーデター後のミャンマー政府から積極的な反政府活動家として関心を寄せられていたとはおよそ考え難く,まして当時から16年以上経過した本件裁決時及び本件退令処分時において,なお上記のような状況であった当時のことを理由として,ミャンマー政府が原告を迫害の対象とすることなど到底考えられない。
(3)ア 原告のタイでの活動については,これに関する原告の主張及び供述は,これを裏付ける客観的な証拠がない。
イ また,原告のタイでの活動に関する原告及びA1の各供述は,その内容に変遷や矛盾があって,到底信用することができない。
ウ さらに,原告の主張及び供述に係る原告のタイでの活動の内容からすると,仮に,その主張及び供述に係る原告のタイでの活動が事実であったとしても,これらを理由として原告が積極的な反政府活動家としてミャンマー政府から関心を寄せられていたとは到底考えられない。
(4) ①原告と同一の立場にあったA1がその後も国境地帯での活動を継続していたにもかかわらず,A3の帰順やABSDFの分裂の危機などを理由に原告のみがタイを出国したというのは,原告がタイを出国した理由としては不自然であるといわざるを得ないこと,②原告が刑事手続及び退去強制手続において供述した来日の経緯の方が,供述に一貫性があり,特段の矛盾点も見受けられず,原告の供述は,原告が帰国希望から翻意したことに伴い,原告がタイにおいて高い政治意識を持って積極的な活動を行っていたとするためにした虚偽のものというほかないことを総合すると,原告の来日に至る経緯に関する主張及び供述は信用性が認められない。
そして,実際は正規の手続で自己名義の旅券を取得し,平成元年2月ころ,正規の手続で本国を出国したものと強く推認される。
(5)ア ①原告が合理的な理由もなく第三国において難民認定申請をするなどしていない上,来日後も約12年10か月もの長期間にわたり合理的な理由なく難民認定申請に及んでいないこと,②原告が不法就労目的で来日したことを自認し,来日後は本邦での稼働に専念してミャンマーにいる原告の家族に多額の送金を行っていることからすれば,原告の来日の目的は本邦での不法就労であったと推認される。
イ これに対し,原告は,①本邦で難民認定申請をすることができるのを知った後も,自分だけ難民認定申請をして悠々と暮らすことは国境に残っている仲間に申し訳ないと考えた,②難民認定申請をして不認定となった場合には,ミャンマーに送還されることとなってかえって危険を招くと考えた旨主張する。
しかし,原告は,その供述調書等において,少しでも可能性があれば帰国したいという気持ちが強かったので,難民認定申請はしなかった旨供述しており,本邦入国後の状況を見ても,原告に迫害を恐れる者の切迫感は全く感じられない。したがって,原告が難民認定申請に及んでいないのは,端的に原告にミャンマーに帰国する意思があったからであると考えるのが最も自然であり,やむを得ないなどといえるような状況でなかったことは明らかである。
ウ また,原告は,働いて得た金をミャンマーにいる原告の家族に送金するなどしたことは,原告の難民該当性と矛盾しない旨主張する。
しかし,原告の活動内容が資金援助であったとすれば,組織をやめるまでの必要はなかったのであるから,ミャンマーにいる原告の家族への送金の必要性が組織での活動をやめたことの合理的な理由とは認められない。そして,そのような状況からみて,原告の組織への参加及び活動は,ミャンマー政府が関心を寄せるようなものではなかったというべきであるから,原告のミャンマーへの送金は,原告の難民該当性を否定するものといえる。
(6) ①DBSOの具体的な活動内容は,要するに,国境で戦っている学生に対する資金の援助であること,②原告は,日本で活動することに積極的になれない気持ちがあったので,デモには参加していなかったこと,③原告がLDBの正式なメンバーとなったのは平成17年5月以降のことであり,以後は一般メンバーとして水かけ祭りでの資金集め,ミャンマー大使館前でのデモヘの参加,雑誌ダウンマンの製本作業等を行っているにすぎず,原告自身も,参加したデモや集会においてリーダー格として参加者を扇動するようなミャンマー政府に反対する政治的意見を表明したことがない旨自認していること,④原告が同3年に本邦に入国した当初は,衣食住の生活費が高く,生活が困難であったので,仕事に多くの時間を費やさなければならず,政治活動に十分に力を注ぐことができなかったが,約1年後にはDBSOの活動として1年に約30万円から50万円を国境地帯に送金する等の活動を始めたものの,同8年ころにはDBSOでの活動をやめ,以後は原告の家族への送金に専念し,その送金額の合計は300万円から400万円に達していることからすると,国境地帯への送金が事実であったとしても,その額は原告の家族への送金に比べれば極めて少額であり,原告がそのような活動を主たる目的として来日したとは到底考えられず,しかも,その程度の活動をもってミャンマー政府に注視されていたとは考えられないこと,⑤A1は,その書面(甲26)及び証人尋問において,原告は,ABSDFの地下ネットワークに関与し,本邦でバンコクから発信された情報を得てそれを伝達する役目を果たしていた旨供述又は証言しているが,原告はその旨一切述べていないから,A1の供述又は証言に係る上記事実を認める余地はないこと,以上①から⑤までの事情を総合すると,原告の本邦での活動は従属的かつ散発的なものにすぎず,その程度の活動を理由として,原告がミャンマー政府から積極的な反政府活動家として関心を寄せられていたとは考え難い。
(7) ①原告は,その供述調書(乙22,26)において,原告名義の旅券(以下「本件旅券」という。乙1)はミャンマー政府が発給した正規の旅券である旨供述していたこと,②原告は,異議申立てに係る申述書(以下「本件異議申立書」という。甲30)において,本件旅券の署名欄に他人の署名が記載されていることを理由に,本件旅券が偽造である旨供述しているが,(ⅰ)原告の供述によると,原告が日本で捕まってミャンマーに送り返された場合に備えて原告の母が原告のために取得したものであり,そうすると,そのような目的でわざわざ偽造旅券を取得することは考え難く,また,(ⅱ)原告は,その本人尋問において,本件旅券に書かれている住所又は原告の母が送ってくれた国民登録証に書かれた住所は実際の住所ではなかった旨供述しているものの,本件旅券の所持人の住所欄には何らの記載もないことからすれば,本件旅券が偽造されたものであると認めることはできないこと,以上①及び②を総合すると,原告は,来日後に自己名義の旅券の発給を受けているというべきであり,そうすると,原告がミャンマー政府から迫害を受けるおそれがあるとは考え難い。
(8) 原告は,本件退令処分後に,ミャンマーに電話を架けて,帰国すれば迫害を受けることを認識した旨主張する。しかし,原告は,その陳述書(甲25)及び供述調書(乙22)において,平成8年以降DBSOでの活動をやめ,以後はいかなる組織にも所属せず,散発的に寄付やデモに参加するなどしていたにすぎない上,同12年以降はミャンマーにある原告の実家にMIが来ない状況が続いていた旨供述していることに照らせば,原告が積極的な反政府活動家としてミャンマー政府から関心を寄せられていなかったことは明らかである。そうすると,原告が帰国の意思を述べていたにもかかわらず,急に帰国の希望を撤回し,本件難民認定申請をした理由が,原告の主張のとおり,原告の母からMIの話を聞いたためであるかは疑問であり,これを裏付ける証拠はない上,そのような理由以外に帰国を取りやめる理由が考えられないとまでいうことはできない。
また,前述のとおり,原告の家族は原告から多額の送金を受けていた上,平成7年には原告の旅券の取得のための手続を行っていることからすると,原告の家族が原告の供述するような切迫した状況下にあったとは到底考え難く,原告の家族がMIから取調べを受けていたとする原告の主張又は供述には信用性が認められない。むしろ,原告の家族は,実際は継続して安定的かつ平穏な生活を営んでいると推認される。
(9) 以上によれば,原告が難民である旨の原告の主張は失当であり,仮に,原告の供述等を前提としても,①ミャンマー,タイ及び本邦のいずれにおける活動も,特段ミャンマー政府から関心を寄せられるような政治活動とはいえず,それらに基づく身柄拘束等の経験もなく,ミャンマー政府に関心を寄せられていると認め得る事情もないこと,②原告は,本邦入国後は不法就労に専心していることからすれば,そのような原告がミャンマー政府に関心を寄せられる難民であるなどと認める余地は全くない。
したがって,原告が難民であるということはできない。
別紙2
1 原告の主張
被告は,難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)33条,これを受けて規定された改正前入管法53条3項並びに拷問及び他の残虐な,非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(以下「拷問等禁止条約」という。)3条によってノン・ルフールマンの原則を遵守する義務を負うところ,難民である原告の送還先をその本国であるミャンマーとすることは,難民条約33条,入管法53条3項及び拷問等禁止条約3条に違反するから,本件退令処分には重大かつ明白な瑕疵があるというべきである。
2 被告主任審査官の主張
原告が難民であるということはできないから,本件退令処分に無効原因となり得るような重大かつ明白な瑕疵があるなどとは到底いえない。
別紙3
1 原告の主張
原告は難民に該当し,かつ,拷問を受けると信ずるに足りる実質的な根拠があるから,原告に在留特別許可を認めなかった本件在特不許可処分には,法務大臣が裁量権の範囲を逸脱し,又は濫用した違法がある。
2 被告国の主張
(1) 原告は難民とは認められないから,そのことが原告の在留を特別に許可すべき事情に当たらないことは明らかである。
(2) また,原告は,平成3年3月31日に来日するまでは,我が国社会と特段の関係を有しなかった者であり,また,原告が稼働能力を有する成人であることにかんがみても,他に在留を特別に許可すべき積極的な理由は見当たらない。