東京地方裁判所 平成17年(ワ)6240号 判決 2006年4月24日
原告
A(甲)
同訴訟代理人弁護士
北村晋治
被告
東京都
同代表者知事
石原慎太郎
同指定代理人
中野多希子
外4名
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告は,原告に対し,金1682万1780円及びこれに対する平成14年3月30日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 事案の要旨
本件は,被告が設置し管理運営する警視庁中野警察署東中野駅前交番(以下「東中野交番」という)において勤務していた警察官訴外丙山太郎(以下「丙山」という)が,平成14年3月30日午前1時ころに,東京都新宿区北新宿三丁目38番*号前路上(以下「本件現場」という。本件現場は別紙図面〔被告準備書面(1)の別添図3〕⑨の地点である)において,原告に対し,けん銃を1発発射し,その銃弾が原告の左大腿部に命中し,右臀部内の尾てい骨に至ったところ(以下「本件発砲」という),丙山の右行為は,警察官職務執行法(以下「警職法」という)第7条に照らして,違法であり,原告は,丙山の違法な本件発砲によって,入通院約35日間を要する傷害を負い,尿道狭窄の後遺症が遺り,生殖機能も回復しないなどと主張して,原告が,被告に対し,国家賠償法1条1項に基づき,慰謝料1500万円,治療費22万3330円及び弁護士費用159万8450円(内7万6117円は消費税である)の合計1682万1780円の損害賠償及びこれに対する本件発砲の日である平成14年3月30日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
なお,丙山は,本件発砲前に4発発砲しているが,原告は,第2回口頭弁論において,これらの発砲については経過として主張するものにすぎないと陳述し,本件発砲の違法のみを主張している。
二 前提事実(証拠を掲記した事実以外は当事者間に争いがない)
1 原告は,中華人民共和国国籍を有する者であり,被告は,警視庁を設置し管理運営する地方公共団体である。
2 丙山は,平成14年3月30日当時,巡査として東中野交番に勤務していた警察官である。
3 丙山が,平成14年3月30日午前0時30分ころ,本件現場において,原告に対してけん銃を1発発射し,その銃弾が原告の左大腿部に命中し,左大腿部前方から右臀部内の尾てい骨に至り,原告は,これにより,入院加療約35日間を要する尿道損傷及び左恥骨骨折の傷害を負った(甲三。ただし,争いのない事実を含む)。
三 争点及びこれに関する当事者の主張
1 丙山による本件発砲が,警職法7条に違反した国家賠償法1条1項にいう違法な行為といえるかについて
(一) 原告の主張
以下のとおり,丙山による本件発砲は,警職法7条に違反した違法な行為である。
(1) 原告は,別紙図面⑥の地点付近(東京都新宿区北新宿三丁目38番*号所在のさつき荘敷地内)で丙山に声をかけられ,突然警棒で殴りかかられ,逃げようとしたが,丙山につかまり警棒で殴打された。その後,原告は,丙山の攻撃を避けようとし,同人と揉み合いになったが,原告が丙山を積極的に殴打したことはない。
原告は,ひたすら丙山から逃げようとし,同人がつかんでいた服を脱いで上半身裸の状態で逃走したが,その背後から丙山がけん銃を発砲したため,身の危険を感じて本件現場で立ち止まり,民家を背にして,やや前かがみの体勢で両手で頭を抱えた。そこに追いついてきた丙山は,原告が凶器を所持しておらず,丙山に対する攻撃の姿勢も示していなかったし,付近住民に危害を加えるなど他の犯罪行為に及ぶことを窺わせる状況にもなかったにもかかわらず,原告の前方から原告の下腹部に向けて本件発砲を行い,銃弾が原告に命中した。
(2) 原告は,丙山に対して,積極的な攻撃は終始行っていないのであるから,本件発砲が正当防衛となることも,原告に公務執行妨害罪が成立する余地もなく(公務執行妨害罪については不起訴となったことからも明らかである),警職法7条本文ただし書にいう人に危害を与えることが可能である場合には当たらないから,丙山が本件発砲によって原告に危害を加えた行為は,警職法7条に違反した違法な行為である。
(3) 原告が逃走を断念し,丙山に対する攻撃の姿勢も見せずに立ち止まっていたなど前記の状況に加え,丙山が応援を求めるべく,大声で付近住民に110番通報を呼びかけたり,無線連絡をしていたことからすると,丙山は,性急に原告を逮捕しようとするのではなく,応援の警察官が到着するのを待って逮捕行為に及ぶなど他の手段を採ることも十分可能だったのであるから,けん銃使用により原告に対し危害を加えることが許容される状況にあったとはいえない。
なお,被告は,本件発砲時,原告が丙山から奪った警棒をなお所持していたと丙山が思っていたなどと主張するが,その当時,原告は上半身裸であり,また,丙山自身,原告が逃走中に手に何かを持っているところを見たわけではないと供述している上,原告には警棒を縮めて隠し持つような余裕もなかったのであるから,原告が警棒を含め何らかの凶器を所持していることを窺わせる状況はなかったというべきであり,被告の主張は認められない。
(4) 以上のとおり,丙山は,本件発砲当時,けん銃使用により原告に対し危害を加えることが許容される状況になかったにもかかわらず,職務を離れて積極的加害意思をもって本件発砲を行い,原告に危害を加えたものである。このことは,丙山が本件発砲後負傷した原告を放置し,何らの救護措置を採らなかったことからも明らかである。
(二) 被告の主張
国家賠償法1条1項にいう違法とは,当該公務員の職務行為時を基準として,当時の視点の下に,その時点に存在した資料に基づき,そこでなされた判断や行為について,合理的な理由が欠如したかどうかによって判断すべきところ,丙山による本件発砲は,以下のとおり,警職法7条に則った適法な武器の使用であって,合理的な理由があり,国家賠償法上の違法な行為ではない。
(1) 原告は,別紙図面⑥の地点で,原告を不審者と認めて職務質問すべく追尾してきた丙山に発見されるや,突然,丙山につかみかかり,同所から別紙図面⑦の地点(さつき荘の向かい側の路上)までの間において,手拳で丙山の顔面を執拗に殴打し続け,同人の両肩をつかんでその腹部付近を数回膝蹴りし,さらには,丙山から奪った警棒で,同人の額部を少なくとも3回殴打し,鼻骨骨折,左眉部挫創,胸部及び頭部外傷等の傷害を負わせたものである。
原告の右行為は,単に逃げるための抵抗にとどまらず,積極的に攻撃を加えるものであり,警察官等けん銃使用及び取扱い規範(乙一五)2条2項2号イにいう傷害の罪及び同項3号ハの格闘に及ぶ程度の著しい暴行によって行われる公務執行妨害の罪に該当し,また,警職法7条1号にいう「兇悪な罪」にも該当する。
(2) そこで,丙山は,原告を公務執行妨害罪及び傷害罪の現行犯人として逮捕しようとしたが,別紙図面⑦の地点に二人で倒れ込んでもみ合いになった後,逃げようとした原告からさらに手拳で顔面を繰り返し殴打される等の抵抗を受けたため,逮捕のためにはほかに方法がないと考え,原告の右膝下付近を狙いけん銃を1発発射した。丙山は,銃弾が原告に命中しなかったものの,これにより攻撃を中断した原告を逮捕しようとしたが,原告は,再び抵抗し,手錠をかけられまいとしてこれを払い落とし,丙山につかまれた上衣を脱いで,上半身裸のままもと来た方向へ逃走した。
丙山は,さらに三発の威嚇射撃を行ったが,原告が逃走をやめず,神田川沿いの遊歩道を左折し,南方に逃走したため,自らも走って原告を追跡した。
そして,丙山は,本件現場において,民家(丁木方)のフェンス上部を両手でつかむ姿勢で立ち止まっていた原告に追いつき,その背後から「おとなしくしろ」と一喝した。すると,原告が,両手拳を上に挙げ,これを前に突き出すようにして突然「わあっ」と大声を上げ,振り返りざま1,2歩踏み出し,必死の形相で丙山につかみかかろうとする気配を示しながら向かってきたことから,「撃つぞ」と警告した上,原告の左膝下付近に向けて本件発砲を行った。
(3) 丙山は,本件発砲前に,別紙図面⑥の地点から⑦の地点に至るまでの間に,原告から前記のような執拗かつ熾烈な暴行を受け,鼻骨骨折等の重傷を負わされており,約3.5キログラムの装備品を身につけた状態で,約150メートルに及ぶ距離を全力疾走して原告を追走したことから,本件現場で原告に追いついたときには,体力を消耗し尽くし,その場に立っているのがやっとという状態であった上,手錠も路上に落としていたし,けん銃以外の武器である警棒も原告に奪われていた。また,丙山のけん銃には威嚇射撃する銃弾も残っていなかった(本件発砲時までの間に,丙山は,原告を逮捕するために4回発砲していたことから,残弾数は1発しかなかった)。さらに,丙山は,付近の住民に対して大声で110番通報を呼びかけていたが,住民が実際に110番通報しているか否かわからず,実際に,本件発砲後まで他の警察官の応援はなかった。
以上の状況からすると,本件発砲時に,丙山が再度原告から攻撃を受け,その生命・身体に重大な危険が及ぶおそれがあったといえるし(本件発砲時において,丙山は,原告が警棒を持っていると認識していたことからするとなおさらである),原告が逃亡すれば,逮捕が不可能となるばかりか,もしもけん銃を奪取されれば新たな犯罪が発生する高度の蓋然性があったともいえ,丙山が原告の逃亡を防ぎこれを逮捕するにはけん銃を使用するほかに手段がないと判断したことやその結果原告に傷害を負わせてもやむを得ないと判断したことには相当な理由がある。
さらに,丙山は,原告の身体の枢要部ではない左膝下付近を狙って本件発砲を行ったのであるから,本件発砲は,警職法7条本文にいうところの「事態に応じ合理的に必要と判断される限度において」行われたことが明らかである。
以上によれば,丙山による本件発砲は,警職法7条本文,ただし書及び1号に則った適法な武器の使用であるということができる。
2 損害の範囲について
(一) 原告の主張
本件発砲により,原告は,少なくとも日本における入通院に約35日間を要する傷害を負ったこと,尿道狭窄の後遺症を負い,生殖機能も回復していないこと,けん銃で撃たれ,死亡の恐怖にさらされたことに照らすと,原告の被った精神的損害に対する慰謝料は,1500万円を下らない。
また,原告は,財団法人自警会東京警察病院から,本件発砲によって受けた傷害についての医療費として合計22万3330円を請求されており,右金額も本件発砲によって生じた損害である。
さらに,原告は,本件訴訟において,弁護士を依頼したところ,慰謝料及び医療費の合計額の1割に当たる弁護士費用159万8450円(内7万6117円は消費税)については,本件発砲と相当因果関係が認められる損害といえる。
以上によれば,本件発砲によって原告が被った損害額は,1682万1780円である。
(二) 被告の主張
争う。
第三 争点についての判断
一 国家賠償法1条1項にいう違法については,当該公務員の職務行為時を基準として判断すべきであり,したがって,本件発砲が違法であったか否かについてもその当時の具体的状況から判断すべきであるので,以下,本件発砲に至る経緯及び本件発砲状況に関する事実について認定する。
二 証拠(甲三,四,六,乙一ないし一〇,一一及び一二の各1及び2,一七,一九,証人丙山。ただし,甲四,六については後記採用しない部分を除く)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる(なお,便宜前記前提事実も含めて記載する)。証拠(甲四,六)中右の認定に反する部分は採用できない(これらを採用しない理由については,後記三において述べる)。
1 丙山が原告を発見するまでの経緯
(一) 平成14年3月30日当時,丙山は,東中野交番で勤務しており,同月29日には,夕方から翌30日の朝までの勤務(泊まり勤務)であった(乙一九)。
(二) このころ,中国人窃盗団によるピッキングなどの侵入窃盗犯罪が多発し,社会問題化していたところ(乙一ないし一〇),東中野交番の所管区域内でも,同年2月中に9件の空き巣被害が発生するなど侵入窃盗犯罪が多発しており,同年3月29日の勤務の活動重点にも「侵入窃盗等窃盗犯の防あつ検挙」が挙げられていた(甲三,乙一九)。
(三) 丙山は,人々が寝静まった午前0時前後は侵入窃盗を始めとする様々な犯罪が多く発生する時間帯であることから,その防止と検挙を目的として,同月29日午後11時から翌30日午前1時までの2時間,空き巣被害の多発している東中野一丁目付近を重点的に警らすべく,同月29日午後11時から歩いて警らに出た。この時の丙山は,制服ワイシャツの下に耐刃防護衣も着用し,腰の帯革にけん銃,警棒,手錠,署活系無線機を着装し,制服の胸ポケットに警察手帳及び携帯用無線受令機を携帯していた(この時の丙山の装備の総重量は,約3.5キログラムであった)。また,当時,小雨が降っていたため,丙山は,制服上衣の上に雨衣上衣を着用していた(甲三,乙一九)。
2 丙山が原告を発見してからさつき荘に至るまでの経緯
丙山は,警ら中の同月30日午前0時15分ころ,東京都中野区東中野一丁目40番*号栄荘前路上において,足早に神田川の新開橋を渡ろうとしている原告を発見した。丙山は,雨が降っていたのに傘をささずかつ右手に高級ブランドであるルイヴィトンの女性用バックを所持していた原告を不審者と認め,職務質問を行うために追尾することにした(甲三,乙一九,証人丙山)。なお,この時,原告は,氏名不詳の他の中国人らとともに,東京都中野区東中野一丁目40番*号所在のアパートの2階居室において,住居侵入及び窃盗の犯行を行った後であった(甲三,四,六)。
丙山は,原告が東京都新宿区北新宿三丁目38番*号所在のさつき荘敷地内に入っていくのを認めたため,さつき荘の入口から敷地内を確認したが,原告の姿を発見できなかったことから,その動向を確認すべく,同日午前0時20分ころ,警棒を右手に,懐中電灯を左手にそれぞれ持って,さつき荘敷地内(別紙図面⑥の地点)に入った(甲三,乙一九,証人丙山)。
3 さつき荘敷地内での格闘から原告が逃走をするまでの経緯
丙山が,さつき荘敷地内に入り,懐中電灯で外階段裏を照らしたところ,突然,原告が「ウォー」と大声で叫びながら丙山に飛びかかり,両手で同人の両肩につかみかかったため,丙山は,警棒と懐中電灯を持ったまま原告の両肩をつかんで制止しようとして原告とつかみ合う形となったが,原告の力の方が強く,丙山は,さつき荘の敷地内から路地へと押し出された(甲三,乙一九,証人丙山)。このころ,丙山は携帯していた無線機の緊急発進ボタンを押し,応援の警察官を要請した(証人丙山〔調書18,21頁〕)。
原告は,同所から逃走しようとし,原告の両肩付近をつかんでこれを防ごうとした丙山に対し,右手拳で同人の顔面を数回殴打し,その両肩をつかんで腹部付近を数回膝蹴りし,さらには,同人から奪った警棒で,その顔面から後頭部にかけて少なくとも3回にわたって殴打したことから,丙山の意識は一瞬朦朧とした(甲三,乙一九,証人丙山)。
丙山は,「このままやられたら,けん銃を奪われるかもしれない」,「殺されるかもしれない」と考え,原告を公務執行妨害罪及び傷害罪の現行犯人として逮捕するため,原告を制圧しようとして,同人の胸ぐらや肩をつかんだり,地面に倒すためにそのあごを押すなどし,さつき荘の入口の向かい側路上で,丙山が原告に覆い被さるような形で向かい側家屋のフェンスに寄りかかるように倒れ込んだが,両者ともすぐに立ち上がり,再度つかみ合う形になった。また,このころ,丙山は,付近の住民に対し,大声で110番通報をするように呼びかけた(甲三,乙一九,この地点が別紙図面⑦の地点であり,丙山は別紙図面⑥の地点から⑦の地点に至るまでの間に原告から前記の暴行を受けた)。
しかし,原告は,さらに北方向へ逃走しようとして,丙山から,肩付近をつかまれるや,振り向きざまに手拳で丙山の顔面を殴打し続けた。丙山は,原告に何度も手拳で顔面を殴打されて出血し,鼻にも激痛を覚えていたことから,原告を逮捕し,その逃走を防止し,あるいは,自己の身体を防護するためには,けん銃を使用する以外に方法はないと考え,けん銃使用を決断し,1メートル程度の間合いを作り,「撃つぞ」と叫び,原告の右膝下付近を狙って,けん銃を1発発射した。
銃弾は原告に命中しなかったが,原告が一旦攻撃を中断したことから,丙山は,原告の右腕をつかんで手錠をかけようとしたところ,腕を振り払われ,手錠を路上に落としてしまった。原告がなおもその場から北方向へ逃走しようとしたため,丙山は,原告の上衣をつかんだが,原告は,上衣を脱いで,上半身裸の状態でさきほど来た道を北方向へ逃走した(甲三,乙一九,証人丙山〔調書4ないし5頁〕)。
4 原告が前記逃走を開始してから,丙山の発砲により原告が受傷するまでの経緯
丙山は,原告の逃走を防ぎ,逮捕するには,けん銃で威嚇射撃するしかないと判断し,別紙図面⑦の地点から⑧の地点(別紙図面⑦の地点の北方数十メートルの地点)の間で,「待て,撃つぞ」と警告した上で,同人の足下右側を狙い,けん銃を2発連続して発射したが,同人がひるむことなく逃走を続けたため,更にもう1発同方向を狙ってけん銃を発射した(これにより丙山のけん銃に残っている銃弾は1発だけとなった)。
しかし,原告が3発の威嚇射撃にひるむことなく逃走を続けたことから,丙山は,原告を追走した(甲三,乙一九,証人丙山)。
原告は,神田川方面に逃走し,さらに,神田川沿いの遊歩道を南方向に逃走し,丙山は,大声で110番通報を呼びかけながら(証人丙山〔調書21頁〕)これを追ったが,原告と丙山との距離はどんどん開いていき,その距離は20ないし30メートルまで広がった。丙山は,さらに追走を続けていたところ,原告が神田川沿いの遊歩道を約100メートル南に進んだ本件現場である東京都新宿区北新宿三丁目38番*号所在の丁木一郎方前の地点(別紙図面⑨の地点)で,神田川を背にして丁木一郎方のフェンスを両手でつかんで立ち止まっているのを発見した。
丙山は,原告に近づくにつれ,原告が横目で丙山を睨みつけていることに気づき,なおも原告から攻撃される危険を感じて原告から約3メートルの間合いを保って立ち止まり,そこで,「おとなしくしろ」と大声で原告を一喝したところ,原告が丙山の方に顔を向け,敵意をむき出しにした険しい表情をしたことから,直感的に原告が攻撃してくると感じた。その直後,原告は,両手をフェンスから離し,その拳を握って上に挙げ,身体を左回転させて振り返りざま,拳を前に突き出すようにして「わぁっ」と大声を上げた(甲三,乙一九,証人丙山)。
丙山は,原告から暴行を受け,前記の傷害を負っており,また,3.5キログラムにも及ぶ装備品を身につけた状態で全力疾走したため,呼吸が乱れ,意識が薄れ,膝に両手をついて立っているのがやっとの状態であったことから,原告に再び襲われたら,けん銃を奪われ,自らの生命,身体にも危険が及ぶおそれがあり,原告を逮捕できなくなると判断し,同日午前0時30分ころ,「撃つぞ」と叫んで,原告の左足の膝下付近を狙ってダブルアクション(回転式けん銃において,親指で撃鉄を起こさないまま,人差し指で引き金を引くことにより連動する撃鉄で実包を撃発させて一挙動で発砲する方法)でけん銃を1発発射した(甲三,乙一九)。
右の銃弾は,前記前提事実のとおり,原告の左大腿部に命中し,左大腿部前方から右臀部内の尾てい骨に至った。
本件発砲時において,応援の警察官が到着する気配はなかった。
5 原告及び丙山の受傷状況
前記前提事実のとおり,原告は,丙山の発砲によって,尿道損傷及び左恥骨骨折の傷害を負った。
また,丙山は,原告の暴行によって,全治までに加療約1か月半(約2週間の入院,手術加療を含む)を要する鼻骨骨折,左眉部挫創,胸部打撲,頭部外傷の傷害を負った(甲三,乙一一及び一二の各1,2,一九)。
6 本件発砲後の経緯
原告は,本件発砲後の同月30日午前0時35分ころ,本件現場において,公務執行妨害罪及び傷害罪の容疑で現行犯逮捕され,また,その後,丙山に追尾される直前に行っていた住居侵入及び窃盗の容疑で通常逮捕され,同年10月29日に,東京地方裁判所において,住居侵入及び窃盗の罪により懲役2年,4年間執行猶予の有罪判決を受け,同年11月13日に右判決が確定し,中国に帰国した。なお,原告は,公務執行妨害罪及び傷害罪の被疑事実については,同年10月4日,東京地方検察庁において起訴猶予処分となった(甲三)。
7 原告と丙山の体格差
本件当時の原告の身長は,約175ないし177センチメートルで,一方,丙山の身長は,164センチメートルであり,原告の方が丙山より10センチメートル以上身長が高かった(甲三,証人丙山〔調書3頁〕)。
三 原告は,①丙山から警棒や手拳で殴打されたものの,原告が丙山に対して暴行を行い同人を負傷させたことはない(丙山が原告ともみ合ううちに階段の縁かフェンスにぶつかって負傷したとしか考えられない),②原告は,丙山を振り払い逃げたが,丙山が発砲したために身の危険を感じて逃走を断念し,立ち止まり,両手で頭を抱えていたにもかかわらず,丙山が原告の前に来て本件発砲を行った,などと右認定に反する供述をしている(甲四,六)。
しかしながら,右原告の供述は,前記認定のとおり丙山が鼻骨骨折等の重い傷害を負った事実と整合しないし,原告は,以前,本件発砲時の状況について,丙山が無言のまま発砲をしたと供述したことがあり,その供述は丙山が本件発砲の直前に短い怒鳴り声を上げたという目撃者の証言(この証言は丙山の供述と整合する)に反するものであった(甲三の7頁)等の疑問点も存在する等全体的に不自然であって信用できない。
なお,原告は,公務執行妨害罪及び傷害罪については起訴されていないが,これは起訴猶予処分にすぎず,嫌疑不十分等による不起訴とは異なるのであるから,前記二における原告の暴行を認定する妨げになる事情でない。
四 前記二認定の事実を前提に,以下,本件発砲行為が違法であったか否かについて検討する。
1 前記のとおり,国家賠償法1条1項にいう違法については,当該公務員の職務行為時を基準として判断すべきであり,したがって,本件発砲が違法であったか否かについてもその当時の具体的状況において,警職法7条の武器の使用の要件を充たしていたか否かによって判断すべきである。
そこで,以下,本件発砲が警職法7条の要件を充足しているかについて検討する。
2 本件においては,前記認定のとおり,原告は,同人を職務質問しようとした丙山に対し,別紙図面⑥の地点から⑦の地点に至るまでの間に,多数回にわたり,手拳あるいは警棒で顔面や頭部を殴打し,また,下腹部に膝蹴りを加えるなどし,その結果,丙山に対し全治までに加療約1か月半(約2週間の入院,手術加療を含む)を要する鼻骨骨折等の傷害を負わせたのであるから,本件発砲当時においては,原告は,警察官等けん銃使用及び取扱い規範(乙一五)2条2項2号イの刑法第204条(傷害)の罪並びに同規範2条2項3号ハの格闘に及ぶ程度の著しい暴行によって行われる刑法第95条(公務執行妨害)の罪を犯した者として,警職法7条ただし書及び1号にいう「死刑又は無期若しくは長期3年以上の懲役若しくは禁こにあたる兇悪な罪」を現に犯した者であったというべきである。
3 前記認定のとおり,(ア)原告は,別紙図面⑥の地点から⑦の地点に至るまでの間に,丙山に対して執拗な攻撃を行い,同人に鼻骨骨折等の傷害を負わせた上,丙山の威嚇射撃にもひるまず逃走を続け,一時は丙山との距離を相当離したにもかかわらず,本件現場に立ち止まり,追いついてきた丙山を睨みつけ,丙山から「おとなしくしろ」と一喝されるや,敵意をもった険しい表情で,丙山の方に振り返りざま両手拳を前に突き出しながら「わあっ」と大声を上げているのであり,こうした一連の経過に照らせば,原告は,本件現場で逃走を断念し,丙山に逮捕される覚悟で立ち止まっていたのではなく,その地点で丙山に対して再び攻撃の姿勢を示したものと解される。(イ)他方,丙山は,身長でも原告に劣り,別紙図面⑥の地点から⑦の地点に至るまでの間に原告から執拗な攻撃を受け,相当の傷害を負わされており,また,原告に警棒を奪われ(もっとも,本件現場においては原告は警棒を所持していなかったことは争いがない),手錠も原告が振り払った際に路上に落としており,その地点での格闘においては明らかに劣勢であったものと認められる。また,丙山は,本件現場で原告に追いついた時には疲弊して立っているのがやっとの状態であり,警棒も手錠も持たず,けん銃には1発の銃弾しか残っていない状況であった上,丙山が無線機で応援の警察官を要請し,また,近隣住民に110番通報を呼びかけていたとはいえ,現実には応援の警察官が到着する気配はなかったのである。(ウ)そのような状況下において,原告は,前記のようにいまにも丙山に襲いかかるかのような攻撃姿勢を示したのであり,それまでの一連の経緯及び丙山の疲労状況等からすれば,丙山が素手で原告を制圧し,逮捕できるとは考えにくく,仮に素手で原告を逮捕しようとすれば,原告の反撃によって,丙山の生命あるいは身体への危険も生じうることが容易に想定される状況にあったのであるから,本件発砲当時,丙山が原告の抵抗を防ぎ,同人を逮捕するためには,けん銃を使用する必要があったといえるし,丙山において,その目的のためにはけん銃使用により原告に危害を与えるほかに手段がないと信じるに足りる相当な理由があったというべきである。
この点につき,原告は,丙山が大声で付近住民に110番通報を呼びかけ,無線連絡をしていたことからすると,逮捕を一時中断し,応援の警察官が来るまで待つなど他の手段を執ることも十分可能であったから,けん銃使用により原告に対し危害を加えることが許容される状況にあったとはいえないと主張するが,丙山は,威嚇射撃にもひるまず逃走していた原告にようやく追いついたものの,疲労が激しく,再度原告に逃走されれば逮捕が不可能になるかもしれない状況にあり,しかも,応援の警察官が到着する気配はなかったのであるから,丙山が,単独で原告を逮捕することを試み,まず,原告と一定の距離を保って「おとなしくしろ」と一喝した行為は職務行為として相当であってやむを得ないものであり,丙山において他の警察官の到着を待つべき余裕があったとはいえない。そして,丙山が原告を一喝した後には,原告が今にも丙山に襲いかかるかのような攻撃姿勢を示したのであるから,その時点では当然他の警察官の到着を待つべき余裕はなかったというべきである。よって,この点についての原告の主張は理由がない。
4 前記認定のとおり,丙山は,人体の枢要部を避け原告の左足の膝上付近を狙って発砲していることからすると,状況に応じ合理的に必要と判断される限度において,けん銃を使用したといえる。もっとも,実際には丙山の発射した銃弾は原告の左大腿部に命中しているが,それは,原告が丙山に対する攻撃姿勢を示して身体を動かしていたことや本件発砲が前記のような切迫した状況下で行われたことが影響しているものと考えられるのであって,先の事実は,丙山によるけん銃使用(本件発砲)が合理的に必要とされる限度を超えるものでなかったとの判断を左右するものではない。
また,本件発砲がダブルアクションの方法で行われた点についても,発砲時の切迫した状況に照らし,問題はないといえる。
五 以上のとおり,丙山が本件発砲により原告に傷害を負わせた行為は,警職法7条に則った適法な武器使用行為というべきであり,警察官による正当な職務行為として行われたものであるから,国家賠償法1条1項にいう違法性は認められない。
第四 結論
以上によれば,その余の点につき判断するまでもなく,原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・瀬木比呂志,裁判官・藤澤孝彦,裁判官・飯塚隆彦)
別紙図面<省略>