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東京地方裁判所 平成18年(ヨ)21021号 決定 2006年5月24日

債権者

株式会社ピーエム・コンセプツ

上記代表者代表取締役

長尾清一

上記代理人弁護士

前田哲男

中川達也

債務者

甲野太郎

上記代理人弁護士

野崎大介

上記当事者間の仮処分申立事件について,当裁判所は,債権者の申立を下記主文の限度で相当と認め,債権者が平成18年6月2日までに金500万円の担保を立てることを条件に,次のとおり決定する。

主文

1  債務者は,債権者におけるプロジェクトマネジメントの教育業務に関する教材及びその電子データの全部又は一部を第三者に開示及び提供してはならない。

2  債務者は,平成20年1月8日を経過するまで,別紙2記載の会社に対し,プロジェクトマネジメントの教育業務及びコンサルティング業務に関する自己又は第三者の営業又は勧誘のために接触してはならない。

3  債務者は,平成20年1月8日を経過するまで,別紙3記載の会社において,プロジェクトマネジメントの教育業務及びコンサルティング業務を行ってはならない。

4  債務者は,平成20年1月8日を経過するまで,自ら又は第三者のために,プロジェクトマネジメントの教育業務及びコンサルティング業務を行ってはならない。

5  債権者のその余の申立を却下する。

6  申立費用はこれを4分し,その1を債権者の負担とし,その余を債務者の負担とする。

事実及び理由の要旨

第1 申立

1 主文第1項,第4項と同旨

2 債務者は,平成20年1月8日を経過するまで,別紙1記載の会社に対し,プロジェクトマネジメントの教育業務及びコンサルティング業務に関する自己又は第三者の営業又は勧誘のために接触してはならない。

3 債務者は,平成20年1月8日を経過するまで,別紙3記載の会社のための業務を行ってはならない。

第2 事案の概要

本件は,債権者が,同社を退社した債務者に対し,債権者におけるプロジェクトマネジメント(以下「PM」という)の教育業務に関する教材及びその電子データの全部又は一部を第三者に開示及び提供してはならないこと,競業禁止の合意に基づき,退社から2年間,PMの教育業務及びコンサルティング業務に関する自己又は第三者の営業又は勧誘のために,債権者の顧客に対し接触してはならない,自ら又は第三者のためにPMの教育業務及びコンサルティング業務をしてはならないなどの仮の差止めを求めた事案である。

1 前提事実(疎明資料等によって一応認めた事実は文末に疎明資料等を掲記し,当事者間に争いがない事実は,特段,証拠等を掲記しない)

(1) 当事者

ア 債権者は,企業,団体,個人のために事業計画の企画,立案及びそれらの管理システムについての指導,コンサルティング業務及び各種講習会の開催等を目的として,平成9年に設立された株式会社である。債権者の主な業務は,企業,団体,個人に対してPMに関する講座を提供することであり,PMに関する教育業界では,草分け的な存在である。(審尋の全趣旨)

イ 債務者は,平成15年1月6日付けで債権者に入社した(甲2)。

(2) PMについて

PMとは,チームに与えられた目標を達成するために,人材・資金・設備・物資・スケジュールなどをバランスよく調整し,全体の進捗状況を管理する手法を指す。現在では,アメリカの非営利団体PMI(Project Management Institute)がPMBOK(Project Management Body of Knowledge)としてまとめた知識体系が,事実上の標準として世界中の様々な分野で広く受け入れられている。PMIではPMBOKに準拠した国際的な認定制度であるPMP(Project Management Professional)を展開しており,日本でもPMP取得者が年々増加している。

PMIの会員数は平成17年12月現在全世界で20万8660人であり,PMP取得者は同月現在全世界で18万4461人である。

(3) 債権者における教材及びノウハウの占める地位について

ア 債権者は,PMの教育業界における日本の最大手の事業者であり,平成16年度のPM研修のコース数だけで約300コースを提供している(甲27,審尋の全趣旨)。

イ 債権者で使用している主な教材には「テキスト」,「ツールキット」,「ケース・スタディ」がある。このうち「テキスト」,「ツールキット」は受講者全員に配布するものであり,受講者は「テキスト」を読んでPMに関する知識を習得する。「ツールキット」は受講後,習得した知識を業務に活かす際に利用するテンプレートである。他方,「ケース・スタディ」は,債権者での研修においてPMを疑似体験させるために考案された架空のプロジェクト(設例)を記載した教材である。通常,債権者の講座では,「テキスト」を用いて説明するレクチャー(授業)と「ケース・スタディ」(演習)が同程度の比率で提供されているが,上級者向けの講座になればなるほど,「ケース・スタディ」(演習)の比率が高くなってくる。「テキスト」がPMに関する一般的な説明であるのに対し,「ケース・スタディ」は債権者がこれまでPMについての教育業務等を通じて得た知識経験等に基づき独自に考案した色彩が強いものである。したがって,債権者における「ケース・スタディ」の構成や完成度が,債権者を他の競業会社と差別・識別化させている特徴の1つであり,債権者が提供する講座の生命線とでもいうべき重要な地位を占めている。(甲27,31,審尋の全趣旨)

ウ このような「ケース・スタディ」の重要性にかんがみ,債権者は「ケース・スタディ」の機密保持を徹底しており,講座終了時には,全受講者から必ず「ケース・スタディ」を回収している。もっとも,債権者は,講座を提供しなければならない必要上,同社の講師に対しては「ケース・スタディ」を配布し,「ケース・スタディ」における演習の回答を教授している。また,債権者の講師は,同社のネットワークを介して「ケース・スタディ」の電子ファイルに自由にアクセスすることができる。なお,「テキスト」,「ツールキット」及び「ケース・スタディ」を含む債権者の教材の著作権は,債権者に帰属している。

エ 債権者は,PMの指導教育方法等に関する多くのノウハウを有しているところ,同社の講師が受講者に指導しなければならない立場にある関係から,同社の講師に対しかかるノウハウを開示している(審尋の全趣旨)。

オ 債権者は,東証一部上場企業を初めとする優良な顧客を持っているが,このような顧客情報及び顧客とのつながりも,債権者の重要な営業上の資産となっている(審尋の全趣旨)。

カ 以上のとおり,債権者は,PMの教育業務及びコンサルティング業務に関し,重要な営業秘密,知的財産,顧客情報を所持しており,また,同社の従業員は受講者の研修指導に当たる関係上,これら重要な営業秘密等に日常的に接する地位にある(審尋の全趣旨)。

(4) 雇用契約の内容

ア 債務者は,平成11年当時,日本NCR株式会社の社員であったが,同年にPMPの資格を取得した。債務者は,平成12年3月にはシダックスフードサービス株式会社に,同14年1月には中央青山監査法人にそれぞれ転職した。そして,債務者は,平成15年1月6日付けで,債権者に入社した。

イ 債務者と債権者は,債務者入社に当たり,雇用契約書(以下「本件雇用契約書」)を取り交わし,相互に各1通を所持している。本件雇用契約書には,次の条項が記載されている(以下,債権者を「甲」,債務者を「乙」と表示している)。

第6条【誓約】

1.機密情報

自己の利益を守るため甲が,多大の知識情報(以下,機密情報という)を保持しそれを独占的,排他的に活用すること,更に甲が係る機密情報の競業企業,または一般への漏洩を防ぐことが,甲の業務遂行上,絶対必要条件であることを乙は認識し,本契約を締結する。機密情報とは,研修コース教材,顧客リスト,支払スケジュール,価格体系,給与データ,見込顧客へのアプローチ方法/戦術,ビジネス戦略,ビジネスプラン,見込顧客へのプロポーザル等を含むが,これらに限定されない。乙は,理由の如何を問わず,本契約における雇用期間中ならびに契約終了後に,本契約業務遂行過程で入手した機密情報をいかなる第三者にも漏洩しないこと,及び私的もしくはその他の目的に利用しないことに同意し誓約する。

2.甲の顧客との関係および競業の禁止

雇用期間中,及び本契約解約後2年間,乙は,甲の業務において研修トレーニング,及びコンサルティング,またはその他の営業活動を行うことによって知り得た顧客(以下,甲の顧客という)に対し,乙個人として,または乙が他の企業に属し直接的,またはその企業の他の従業員を通して間接的に,甲の業務分野(PM関連)の営業・勧誘活動を行わないことに合意する。乙は,更に本契約解約後2年間は,甲の顧客が乙に要求した場合であっても,係る顧客に対して甲との契約義務により乙が甲の顧客に接触できない旨を説明し,同種業務分野のサービスの提供をしないことに合意する。乙はかかる事態が発生した場合,甲が甲の裁量で本契約書を当顧客に開示する権利を行使する事に合意する。

3.知的財産権

研修コース教材一式の著作権,及び知的財産権が甲に帰属することを確認し,乙の本契約における雇用期間中ならびに契約終了後に,甲の著作権,及び知的財産権の侵害となる一切の行為を行わない事に合意し誓約する。乙は,甲の研修コースに関する甲の所有するノウハウ並びに知的財産を具体化するケース・スタディの内容,シナリオ展開,シミュレーションの方法,及びテキストの表,図表,グラフ,一覧表,計算表,フローチャート,図式,又はツールキットのテンプレート,チックシート,ワークシート類,更にアセスメント・ツール,模擬試験問題,データ式等の他の研修教材を複製,翻訳,抄録,要約,拡大,改訂,改作,変形,翻案又は改変し類似研修教材を作成してはならないこと,類似研修プログラムを開発してはならないこと,或いは一般書籍を含む印刷物を出版してはならないことに合意し誓約する。

4.誓約該当期間

本条各項に関する事項は,本契約期間終了後も有効に存続するものとする。

第7条【成果物の著作権及び使用権】

本契約に基づく作業実施上発生する全ての著作権,又は二次的著作権,あるいは成果物一切の所有権は,甲に帰属するものとする。

第8条【物品・資材・教材および文書類の返却】

出版物,価格表,教材,マニュアル,通信文,プロポーザル,各種契約書の写し,支払スケジュール,鍵,出張旅費,経費の前渡金,コンピュータ・メモリ媒体,フロッピー・ディスク,および甲の業務に関連するその他の甲の資金で貸与された物品・資材はすべて,乙が準備したか,あるいは乙の所有となっているかどうかにかかわらず,本契約の解約,または甲の要求により,直ちに返却されるものとする。

第9条【競合活動の禁止】

乙は,甲に対する忠誠の義務を認識し,雇用期間中及び本契約解約後2年間は,甲のいかなる競合企業の業務を行わないこと,また,雇用期間中はいかなる競合組織の活動にも参加しないことに合意する。尚,本条に関する事項は,本契約期間終了後も有効に存続するものとする。

(5) 債務者の業務内容,報酬額

ア 債務者は,債権者において,主としてPMの研修の講師と顧客(見込み顧客を含む)に対する営業活動に従事していた。

イ 債権者は,債務者に対し,平成15年度には合計1490万円(給与月額100万円+賞与290万円)を,同16年度には合計1620万円(給与月額100万円+賞与420万円)を,同17年度には合計1400万円(給与月額90万円+賞与320万円)をそれぞれ支給した。

(6) 債務者の退職と電子データ等の所持

ア 債務者は,平成18年1月8日付けで,債権者を退職した(甲3)。

イ 債務者は,債権者への在職中,債務者のパソコン上に債権者の教材等を複製し,電子データとして所持していた。債権者は,債務者に対し,退職に当たり,債権者の教材等文書類の返還及び前記電子データの消去を求めた。これに対し,債務者は,本件申立て前,債権者に対し,文書類は返却したと回答したが,前記電子データの消去については,回答を拒否した。

ウ 債務者は,審尋において,前記電子データを所持していることは認めるが,これを自ら利用したり,第三者に渡したりして営業等に使用するつもりはなく,ただ,債権者からの攻撃を防ぐために,現段階ではその消去に応じることはできないとの態度をとっている(審尋の全趣旨)。

2 主要な争点

本件の主要な争点は,次の3点である。第1の争点は,本件雇用契約書に記載されている競業禁止についての合意は有効に成立したものかという点である。第2の争点は,仮に前記合意内容が成立したとして,合意内容に記載されている競業禁止条項は,競業の制限が合理的範囲を超え,公序良俗に反し無効かという点である。第3の争点は,保全の必要性があるかという点である。

3 当事者の主張

主要な争点に関する当事者双方の主張は,申立書,答弁書,その他の主張書面にそれぞれ記載のとおりであるので,これを引用する。

第3 理由の要旨

1 はじめに

(1) 債権者の申立ては2つに大別される。第1の申立ては,債務者に対し,債権者におけるPMの教育業務に関する教材及びその電子データの全部又は一部を第三者に開示及び提供してはならないことを求めている(以下「本件第1の申立て」という)。第2の申立ては,債務者に対し,競業禁止の合意に基づき,退社から2年間,PMの教育業務及びコンサルティング業務に関する自己又は第三者の営業又は勧誘のために接触するなどしてはならないとの仮の差止めを求めている(以下「本件第2の申立て」という)。

(2) 債務者の応訴態度・争点

ア 債務者は,本件第1の申立てに対しては,債権者作成にかかるPMの教育業務に関する教材及びその電子データ(以下「本件電子データ等」という)が債権者の著作物であること,債務者において債権者退職後は,本件電子データ等を第三者に開示及び提供してはならない義務があることは認めているが,債務者において本件電子データ等を自ら利用したり,第三者に提供したりするつもりは全くないのだから,本件第1の申立てには保全の必要性がないとして争っている(債務者の平成18年2月27日付け答弁書11ないし12頁,同年4月12日付け答弁書1頁等)。なお,債務者が,本件電子データ等を消去することに応じられないのは,債権者からの攻撃を防止するためであると主張している(債務者の第3準備書面6頁下から3行目,審尋の全趣旨)。そうだとすると,本件第1の申立ての争点は,保全の必要性があるか否かという点に集約することができる。

イ 債務者は,本件第2の申立てに対しては,競業禁止の合意が成立しているのか否かを争い,仮に合意が成立していたとしても,かかる合意内容は労働者の職業選択の自由等を不当に制限するものであって,公序良俗に反し無効であると主張する。そうだとすると,本件第2の申立ての争点は,前記合意は成立したのか,成立したとしても,前記合意内容は公序良俗に反し無効か否かという点が問題となる。

2 本件第1の申立てについて

(1) 債務者は,本件第1の申立てに対しては,債権者におけるPMに関する教育業務に関する電子データ等を保持しているが,これを自ら利用したり,第三者に提供したりするつもりは全くないのだから,保全の必要性がないと主張する。

(2) しかし,証拠(文末に掲記した)及び審尋の全趣旨によれば,一応,次の事実が認められる。

ア 債務者は,平成17年12月7日,債権者の代表取締役である長尾清一(以下「長尾社長」という)に退職を申し入れ,同人と退職後の競業禁止についてやりとりをした。その際,長尾社長は,債務者に対し,退職後2年間は競業行為を行うことができないので,その旨誓約するよう迫った。これに対し,債務者は,入社の際,競業禁止について約束したことを暗黙の前提にしながら,「わたしも生きていかなくちゃいけないので。」と述べ,債権者と競業する仕事に就くこともありうることを臭わす発言をしている。このことが,本件申立ての一因になっている。(甲27,乙4,5の1,審尋の全趣旨)

イ 債務者は,債権者を退職後,債権者の顧客であるKDDI株式会社(別紙2,番号11),エヌ・ティ・ティ・アドバンステクノロジ株式会社(別紙2,番号13)など訪れるなど,債権者からみると,PMの教育業務及びコンサルティング業務の営業活動等を行っているのではないかと受け取ることができる行動をとっている(甲27,28,審尋の全趣旨)。

(3) 以上の認定事実によれば,債務者において,本件電子データ等を第三者に提供するおそれがある点について,保全の必要性の疎明がされているというべきである。なお,債務者は,債権者の攻撃から自らの身を守るべく,本件電子データ等を保持しておくことが必要であると主張する。しかし,何故債権者の攻撃から自らの身を守るために本件電子データ等が必要なのか必ずしも明確ではないこと,本来かかる本件電子データ等は債権者の著作物等を構成するものであり,債務者において保持しておくだけの正当な理由を見い出し難いことに照らすと,債務者の前記主張は採用することができない。よって,債権者の本件第1の申立ては理由があるので,主文第1項のとおりこれを認容するのが相当である(なお,担保の要否については,後記4で,本件第2の申立てと併せて判断する)。

3 本件第2の申立てについて

(1) 競業禁止の合意の成否について

ア 競業禁止義務についての合意内容

前記前提事実(4)イによれば,債権者が債務者との間で取り交わした本件雇用契約書には次の記載がされている。すなわち,第6条2項には,債務者は債権者との間で,債権者を退職後2年間は,債権者の業務において知り得た顧客に対し,債務者個人として,または債務者が他の企業に属し直接的,又はその企業の他の従業員を通して間接的に,債権者の業務分野(PM関連)の営業・勧誘活動を行わないことに合意した旨の記載がされている。また,第9条には,債務者は債権者との間で,債権者を退職後2年間は,債権者の競合企業において業務を行わないことに合意した旨の記載がされている(以上を併せて,以下「本件競業禁止条項」という)。

イ 本件競業禁止条項の合意の成否

前記前提事実,証拠(文末に掲記した)及び審尋の全趣旨によれば,次の事実が一応認められる。

(ア) 債権者と債務者との間には,入社の際に,雇用契約の内容,条件等について,雇用契約書(平成15年1月6日付け)を取り交わし,これに債務者,債権者の長尾社長がそれぞれ署名・押印し,これを一通ずつ保有していた(前記前提事実(4)イ,甲2)。

(イ) 長尾社長は,PMの教育業務及びコンサルティング業務の場においては債権者の考案したノウハウ等の保持が重要と考え,従業員を入社させる際は,機密保持と一定の範囲での競業禁止を約束させ,これを誓約した者に限り入社を認めていた。債権者のPMについての教育業務及びコンサルティング業務に関するノウハウを身に付けた従業員が,退職直後から債権者と同様な業務を行うことを容認してしまうと,その後の債権者の事業展開が困難になる蓋然性が高いからである。(甲13の1及び2,同14,15,27,審尋の全趣旨)

(ウ) 債務者は,債権者入社後,本件雇用契約書の記載内容について何ら異議を述べた形跡はない(審尋の全趣旨)。

(エ) ちなみに,債務者が債権者に対し退職を申し出た平成17年12月7日のやりとりの中で,長尾社長が,債務者に対し,退職後2年間は競業行為を行うことはできないと指摘したところ,債務者は,「だから,長尾さんがおっしゃったことは全てわかってますよ。それはそういうような,あのー,雇用契約結んでますから。契約を。だからその範囲のことは,それはわたしも理解してるつもりです。ただ,わたしも生きてかなくちゃいけないので。」と述べ,競業禁止の合意が成立していることを前提に発言している(乙4,5の1,審尋の全趣旨)。

ウ 以上によれば,債権者と債務者とは,本件雇用契約書どおりの内容の契約を締結したと認めるのが相当である。したがって,本件競業禁止条項の合意は成立したものとみるのが相当である。

エ これに対し,債務者は,「本件雇用契約書を示された時点ですでに従前の勤務先を退職していたため,家族の生活を支えるためには債権者に雇用されることしか選択肢がなかった。そのような状況下で,債務者は債権者の都合で退職させられた場合は競業をしないことに合意できない旨明確に述べ,長尾氏も退職時に協議すると述べたため,本件雇用契約書に署名・捺印をした」と主張する。

しかし,債務者が従前の勤務先を退職するときには,具体的な業務内容,報酬等の雇用条件は決定していたと考えるのが自然であるところ,報酬額等が決まっていながら,他の重要な雇用条件である競業禁止や機密保持等の条項については何らの合意がなされていなかったとするのは余りに不自然である。また,債務者は,本件雇用契約書の署名に当たり,債権者の都合で退職させられた場合には競業しないことに合意できない旨明確に述べたというが,入社時(契約締結時)に債権者の都合で退職させられるということを発言することは通常では考えられず,また,債務者において競業しないことに合意できないと述べれば,そのような発言をする従業員を雇用する使用者(債権者)は通常はいないと考えられる。そして,本件全疎明資料を検討するも,前記債務者の主張を疎明するに足りる資料は存在しない。

以上によれば,上記債務者の主張は理由がなく,採用することができない。

(2) 本件競業禁止条項の有効性の存否について

ア 判断基準

会社が,労働者を雇用するに際し,比較的高度な情報に接する部署に勤務させる労働者との間で,退職後の競業を禁止する旨の合意をすることは世上よく見られる出来事である。このような競業禁止条項を締結する目的は,当該労働者が退職後に会社の顧客を奪うことを防止する点に狙いがあり,利益を追及することを目的とする会社にとっては,必要な防衛手段といえよう。しかし,競業禁止条項を設けることは,労働者の職業選択の自由を奪うことにつながることから,競業禁止条項を無制限に認めることはできず,無制限に認める競業禁止条項は,公序良俗に反し,無効というべきである。結局,競業禁止条項が合理的な内容であれば,その範囲内でかかる条項の内容は有効と考えるのが相当であり,また,合理的内容であるか否かを判断するに当たっては,①競業禁止条項制定の目的,②労働者の従前の地位,③競業禁止の期間,地域,職種,④競業禁止に対する代償措置等を総合的に考慮し,労働者の職業選択の自由を不当に制約する結果となっているかどうか等に照らし判断するのが相当と考える。以下,上記のような判断基準に照らし,本件競業禁止条項が有効か否かについて判断することにする。

イ 本件競業禁止条項制定の目的

前記前提事実,証拠(文末に掲記した)及び審尋の全趣旨によれば,次の(ア),(イ)の事実が一応認められる。

(ア) 債権者の教材等の内容やノウハウには重要な価値があり,PMの教育業界における債権者と他の競業会社との間の選別,独自性を決定づける重要な要素となっている。このため,債権者は,これまで,同社の「ケース・スタディ」を受講者から必ず回収するなどして,厳格に秘密性を維持してきている。(前記前提事実(3)イ,ウ,甲6,15,27,審尋の全趣旨)。

したがって,教材等の内容やノウハウを,今後も秘密として保持し,他の競業業者の手に渡らないようにすることは,債権者の正当な利益というべきである。そして,本件競業禁止条項は,上記のような債権者の正当な利益を保護するために,債権者が,入社する従業員との間で,入社に際し合意している。

(イ) 本件競業禁止条項(第6条2項)は,債務者が債権者の顧客に対し営業活動をすることを禁止している(前記前提事実(4)イ)。

本件競業禁止条項は,前記(ア)のとおり債権者の教材等やノウハウ等を守るための合理的な制限であり,債務者が債権者での勤務時間中に債権者の費用によって知り得た顧客は,いわば債権者の正当な「財産」であり,債権者を退職した従業員が同社の顧客に対し営業又は勧誘のために接触する等の行為をすることを禁ずることは,債権者の正当な利益の保護を目的としているということができる(審尋の全趣旨)。

以上によれば,PMの教育業務,コンサルティング業務のように教材,ノウハウ等が重要な地位を占めている債権者においては,会社の存立基盤を維持していくには,債権者を退職した従業員が,勤務中に使用した債権者の教材,ノウハウ等を利用して競業を行うことを一定期間禁止する必要がある。そうだとすると,債権者において入社する従業員との間で本件競業禁止条項の合意をすることは,正当な目的があるということができる。

ウ 債務者の債権者入社前の地位

(ア) 証拠(甲27,28)及び審尋の全趣旨によれば,債務者は,債権者に入社する時点でPMの資格を有していたが,PMの教育業務及びコンサルティング業務に関する経験,ノウハウは持っておらず,債権者から教材やノウハウを付与され,これを利用してPM講座の研修に当たっていたことが一応認められる。

そうだとすると,債務者に対し,退職後にPMの教育業務及びコンサルティング業務についての競業を禁止しても,就職前に債務者が行い得た業務が行えなくなるわけではないのであり,本件競業禁止条項が債務者の職業選択の自由を過度に制約しているとまでいうことはできない。

(イ) この点に関し,債務者は,債権者に勤務する前から長年PM関係の業務に携わっていたのに,本件競業禁止条項が有効となると,現実には仕事に就くことができないことになり,債務者の職業選択の自由を不当に制限する結果となると主張する。しかし,上記のとおり,本件競業禁止条項によって制限されるのはPMの教育業務とコンサルティング業務であって,PMの業務そのものまで禁止されるわけではない。したがって,債務者が従前のPMの経験とスキルを生かしたいと考えるのであれば,その仕事に就くことまでを本件競業禁止条項は禁止していないのであり,この点の債務者の主張は理由がない。

エ 対象となる期間,地域,職種

(ア) 前記前提事実,証拠(文末に掲記した)及び審尋の全趣旨によれば,一応,次の事実が認められる。

a 本件競業禁止条項によれば,禁止期間は退職後2年間とされている。債権者と競業関係にあるケプナー・トリゴー・グループ日本支社長の辻本,プラネット株式会社の代表取締役中嶋は,いずれも,PMの教育業界においては教材等の知的財産権の保護が極めて重要であり,従業員には,退職後1年間又は一定期間,競業する事業に従事しないことを誓約させている。(前記前提事実(4)イ,甲17,18,審尋の全趣旨)

b 本件競業禁止条項によれば,競業が禁止される地域については限定がない。ただし,本件競業禁止条項(第6条2項)によれば,債務者が,債権者の業務その他営業活動を行うことにより知り得た顧客に対し債権者の業務分野の営業・勧誘活動をしない旨合意されている。(前記前提事実(4)イ)

c 本件競業禁止条項によれば,競業を禁止される職種は,債権者が事業展開しているPMの教育事業及びコンサルティング事業であり,PMそれ自体が禁止されるわけではない(前記前提事実(4)イ,審尋の全趣旨)。

(イ) 以上によれば,本件競業禁止条項によれば,禁止される職種はPMそれ自体ではなくPMの教育事業及びコンサルティング事業に限られていること,PMの教育事業に関する業界においては教材等の知的財産権の保護が極めて重要であることに照らすと,競業禁止期間が2年間というのも,長すぎて,公序良俗に反するとまでは言い難い。問題は,本件競業禁止条項にいうところの「顧客」の意義である,債務者は,首都圏以外の会社,一度研修の途切れた会社まで債権者の顧客に含まれており,対象範囲が余りに広すぎると主張する。確かに,現在,債権者が営業中,商談中の会社,又は債権者の公開研修を受けたにすぎない会社まで債権者の「顧客」とするのは,広きに失すると思われる。債権者の「顧客」の概念の中には,既に,債権者の研修を受け,債権者との間に取引関係が形成されている会社と解するのが相当である。本件競業禁止条項は,以上のように合理的に解釈することができ,そうだとすると,対象が広すぎて,合理性を欠くとの債務者の主張は,理由がないということになる。

オ 代償措置

前記前提事実(5)イ及び審尋の全趣旨によれば,①債権者は,債務者に対し,平成15年度には合計1490万円(給与月額100万円+賞与290万円)を,同16年度には合計1620万円(給与月額100万円+賞与420万円)を,同17年度には合計1400万円(給与月額90万円+賞与320万円)をそれぞれ支給したこと,②債務者の前記報酬は決して安くない額であること,③債権者は債務者に対し競業禁止や機密保持が雇用契約の重要な要素の一つであることを明示した本件雇用契約書を取り交わしていることが一応認められる。そうだとすると,債権者が債務者に支給した報酬の中の一部には,退職後の競業禁止に対する代償も含まれているというべきである。

カ 小括

以上イないしオによれば,①競業禁止条項制定の目的は債権者の教材等の内容やノウハウを保持し,他の競業業者の手に渡らないようにすることにあり,正当な目的であると評価できること,②債務者は債権者入社前にはPMの教育業務及びコンサルティング業務に従事した経験がなく,また,当該業務のノウハウを持っておらず,退職後2年間債権者において身につけたPMの前記業務を行うことを制限することには合理的理由があり,債務者の職業選択の自由を不当に制限する結果になっているとまでは言い難いこと,③競業禁止期間は債権者退職後2年間であり,同業他社も同様の規定を設けており,期間が長期間で債務者に酷にすぎるとまでは言い難いこと,④営業・勧誘活動を行ってはならない対象となる顧客は,これまで債権者の研修を受けるなど既に取引関係が形成されている会社を指し,そうだとすると,対象範囲が余りに広すぎるとはいえないこと,⑤債務者が債権者から支給された報酬の一部には退職後の競業禁止に対する代償も含まれているといえることなどを総合的に考慮すると,本件競業禁止条項は,労働者の職業選択の自由を不当に制約する結果となっているとまではいうことはできず,有効であると解するのが相当である。

(3) 対象となる顧客の範囲について

ア 債権者の主張

債権者は,別紙1記載のとおり,175社が債権者の顧客であると主張して,債務者が,これら175社と接触してはならないことを求める。

イ  前記175社の内訳は次のとおりである。すなわち,既に債権者の講座を受講している会社,債務者において,債権者の顧客であることを明らかに争っていない会社,債権者が本件申立てでは同社の顧客ではないことを承認している会社,債権者の公開講座に継続的に出席している会社,債権者が昨年及び今年に営業のために接触をとっている会社,現在商談が進行中の会社から構成されている。

ウ  前記(2)エ(イ)で判示したとおり,本件競業禁止条項で,債務者が接触してはならない債権者の「顧客」とは,これまで債権者の研修を受け,既に債権者との間で取引関係が形成されている会社と解するのが相当であり,そうだとすると,現在,債権者が営業中,商談中,公開研修を受けたにすぎない会社は,債権者の「顧客」には入らないと解するのが相当である。

エ 債権者の「顧客」とはならない会社の範囲

(ア) 債権者が本件申立てでは同社の顧客ではないことを承認している会社は,別紙1のうち番号7,17,24ないし26,31,34,41,62,67,82,83,92の各社である(債権者の準備書面2の別紙参照,別紙1の「受託」欄に「×」印のある会社)。したがって,これらの会社は,債権者の「顧客」から除外するのが相当である。

(イ) 債権者の公開講座に出席しているにすぎない会社は,別紙1のうち,番号6,33,36,46,84,103,110,111,117,119ないし122,127,128,130ないし133,139,144ないし146,149ないし151,153,156,158,160,165,166,169,170,174,176の各社である(別紙1の「公開」欄に「公開」の記載がある会社)。したがって,これらの会社は,債権者の「顧客」から除外するのが相当である。(債権者の申立ての趣旨の追加的変更の申立書の別紙1,審尋の全趣旨)

(ウ) 債権者が昨年及び今年に営業のために接触をとっている会社,商談が進行中の会社は,別紙1のうち,番号8,16,42,51,73,88,97ないし99,102,106ないし108,115,116,118,123,136ないし138,142,148,151,156,174の各社である(別紙1の「営業仕掛」欄に「商談中」「提案中」「営業中」の記載がある会社)。したがって,これらの会社は,債権者の「顧客」から除外するのが相当である。(債権者の申立ての趣旨の追加的変更の申立書の別紙1,審尋の全趣旨)

オ 債権者の「顧客」の範囲

債権者の「顧客」ということのできる会社は,既に債権者の講座を受講している会社,債務者において,債権者の顧客であることを明らかに争っていない会社など,別紙1記載の会社175社から前記エ(ア)ないし(ウ)に記載した会社を除いた会社ということになる。そうだとすると,債権者の「顧客」となる会社は,別紙2記載のとおり,番号1ないし5,9ないし15,18ないし23,27ないし30,32,35,37ないし40,43ないし45,47ないし50,52ないし61,63ないし66,68ないし72,74ないし79,81,85ないし87,89ないし91,93ないし96,100,101,104,105,109,112ないし114,124ないし126,129,134,135,140,141,143,147,152,154,155,157,159,161ないし164,167,168,171ないし173,175の各社ということになる。

(4) 競業会社での禁止業務について

ア 債権者の主張

債権者は,本件競業禁止条項(第9条)に基づき,前記第1の3記載のとおり,「債務者は,平成20年1月8日を経過するまで,別紙3記載の会社のための業務を行ってはならない」ことを求めている。

イ 前記前提事実(4)イによれば,本件競業禁止条項(第9条)は,債務者は債権者を退職後2年間は債権者の競業企業において業務を行わない旨を規定している。他方,本件競業禁止条項(第6条2項)は,債務者は債権者を退職後2年間は,債権者の業務分野(PM関連)の営業・勧誘活動を行わない旨を規定している。これら競業禁止条項の相互関係をみると,本件競業禁止条項(第9条)は,債務者が,債権者を退職後2年間,債権者の競業企業において,PMの教育業務及びコンサルティング業務を行うことを禁じているのであって,それ以外の業務を行うことまでは禁じていないと解するのが相当である。

ウ 以上の観点から本件をみてみるに,審尋の全趣旨によれば,別紙3記載の会社は,債権者の競業会社であることが一応認められるものも,これら競業会社が,PMの教育業務及びコンサルティング業務だけを行っているのか,それともそれ以外の業務も行っているのかは不明というほかない。そうだとすると,債権者が債務者に対し求めることができるのは,「債務者が,平成20年1月8日を経過するまで,別紙3記載の会社において,PMの教育業務及びコンサルティング業務を行ってはならない。」限度であるということになる

(5) 小括

上記(1)ないし(4)によれば,債権者は,同社を退職した債務者に対し,本件競業禁止条項に基づき,平成20年1月8日を経過するまで,「①別紙2記載の会社に対し,PMの教育業務及びコンサルティング業務に関する自己又は第三者の営業又は勧誘のために接触してはならないこと,②別紙3記載の会社において,PMの教育業務及びコンサルティング業務を行ってはならないこと,③自ら又は第三者のために,PMの教育業務及びコンサルティング業務を行ってはならないこと」をそれぞれ求める権利を有しているということになる。

(6) 保全の必要性について

ア 債権者は,債務者に対し,前記(5)の権利を有しているところ,これを保全しておく必要があるか否かが問題となる。

イ 前記2(2),証拠(甲27,28,乙4,5の1,同10)及び審尋の全趣旨によれば,次の(ア)ないし(オ)の各事実が一応認められる。

(ア) 債権者は,平成17年11月末ころ,債務者に対し,同18年の待遇について,①月額給与は90万円に据え置くが,賞与の支払は保証できない,②外部講師として講座を担当してもらうか,いずれかを選択するよう提案した。債務者は,債権者の提案は,債務者の雇用条件を切り下げるものであり,退職を迫っているものと理解した。債務者は,債権者に対し,平成17年12月13日に,前記提案に対する回答をすると返事した。

(イ) 債務者は,平成17年12月5,6日,株式会社DTSの研修を担当していたが,研修の際に,同社の2名に対し,債権者を退職するので,よろしくとの挨拶をした。

(ウ) 債務者は,平成17年12月7日,債権者に対し,退職を申し出た。債権者の代表取締役である長尾は,その際,債務者に対し,本件雇用契約書にも記載されているとおり,退職後2年間は競業行為を行うことができないので,その旨誓約するよう迫った。これに対し,債務者は,入社に際し,本件競業禁止条項について約束したことを前提に,「わたしも生きてかなくちゃいけないので。」と述べ,債権者と競業する仕事につくこともありうることを臭わす発言をしている。

(エ) 債務者は,債権者を退職後,債権者の顧客であるKDDI株式会社(別紙2,番号11),エヌ・ティ・ティ・アドバンステクノロジ株式会社(別紙2,番号13)を訪れている。

(オ) 債務者は,債権者を退職後も債権者におけるPMに関する教育業務に関する電子データ等を保持しているところ,債権者の当該電子データ等の消去要求に応じていない。

ウ 以上の各事実を総合すれば,債務者が,本件競業禁止条項に反し,PMの教育業務及びコンサルティング業務に関する自己又は第三者の営業又は勧誘のために別紙2記載の会社に対し接触したり,別紙3記載の会社において,PMの教育業務及びコンサルティング業務を行ったり,更には自ら又は第三者のためにPMの教育業務及びコンサルティング業務を行ったりする事態が十分予想されるというべきであり,本件申立てにおいて,保全の必要性についての疎明はされていると解するのが相当である。

4 結論

以上によれば,債権者の本件申立ては,主文第1ないし第4項の限度で理由があるところ,前記各主文は,債務者の職業選択・営業活動の自由を制限するものであり,その被る不利益,期間,債務者が債権者から支給されていた報酬額等を考慮すると,債権者に平成18年6月2日までに金500万円の担保を立てることを条件にこれを認容するのが相当であり,その余の申立ては理由がないのでこれを却下することとし,主文のとおり決定する。

(裁判官・難波孝一)

別紙1〜3<省略>

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